2019/10/23 - 2019/10/23
264位(同エリア563件中)
杏仁豆腐さん
天気もよく、ぶらっと外出にはいい気分。最近は雨の日も多く、予定も狂ったりします。
台風や大雨によって、被害にあった方も多くいます。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
今日は谷中界隈を散策。スタートは日暮里。
☆2017年の谷中散策
ボストン美術館の至宝展 東京都美術館☆全生庵 幽霊画展☆谷中 coffee・chi-zu 乃池の穴子ずし☆2017/08/03
https://4travel.jp/travelogue/11268050
☆2016年の谷中散策
西日暮里から谷中へ 桜開花☆たんぴょう亭☆2016/03/31
https://4travel.jp/travelogue/11117209
☆2009年の谷中散策
ビアンキFRETTA☆上野・谷根千巡り☆2009/05/25
https://4travel.jp/travelogue/10341945
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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日暮里駅を出て、御殿坂。
文政十二年(1829)に成立した『御府内備考』には,「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが,「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志料』には,長さ十五間(約27.3メートル) 幅二間(約3.6メートル)とあるが,現在の坂の長さは五十メートル以上あり,数値が一致しない。以前は,谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが,日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため,その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが,根拠は定かではない。 -
朝倉彫塑館に来ました。
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朝倉彫塑館は、彫刻家 朝倉文夫のアトリエと住居だった建物です。
朝倉文夫は東京美術学校を卒業した1907(明治40)年、24歳の時に谷中にアトリエと住居を構えました。 -
現在の建物は1935(昭和10)年に建てられました。建物は朝倉文夫が自ら設計し、細部にいたるまで様々な工夫を凝らしてあります。
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朝倉文夫の遺志により遺族によって1967(昭和42)年から公開されています。
1986(昭和61)年に台東区に移管され、台東区立朝倉彫塑館となりました。2001(平成13)年には建物が国の有形文化財に登録されています。2009(平成21)年から2013(平成25)年にかけて保存修復工事を行い、改修後は初めての訪問です。 -
天王寺玄関
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天王寺側門
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中庭の水がオーバーフローして疎水をなしています。
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屋上庭園です。
ウォーナー博士像。 -
砲丸
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コンクリート建築の屋上に作られた庭園です。
この庭園は、かつて朝倉彫塑塾の園芸実習の場として利用されていたそうです。 -
スカイツリーも見えます。
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眼下には谷中墓地。
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アトリエ棟から砲丸を見上げることができます。
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砲丸
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愛猫家の朝倉文夫にとって、猫は身近で気軽な観察対象であったそうです。
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印象的な猫の像です。
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全生庵に来ました。
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1880年(明治13年)、山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願しました。
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三遊亭圓朝の墓があります。
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山岡鉄舟の墓があります。
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こちらが三遊亭圓朝の墓です。
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こちらが山岡鉄舟の墓です。
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弘田龍太郎の墓。
代表作に『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』など。 -
松本楓湖(まつもとふうこ)の墓。
幕末から大正時代の日本画家。 -
全生庵の前は、三崎坂 (さんさきざか)。
「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説あるが,駒込・田端・田中の三つの高台にちなむといわれる。安永二年(1773)の『江戸志』によると,三﨑坂の別名を「首ふり坂」といい,三十年ほど以前,この坂の近所に吉備を古僧侶がいたことにちなむという。 -
大名時計博物館に来ました。
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1974年4月に開設されました。陶芸家である上口愚朗により収集された江戸時代の大名時計が公開されています。
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案内も読めなくなっています。
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ここは、勝山藩下屋敷跡です。勝山藩は岡山県旧真島群2万3千石の藩主。
大名時計は、江戸時代に大名お抱えの御時計師達が、長い年月をかけて手造りで製作した時計です。貴重な大名時計を見ることができます。
小さな博物館です。館内はかび臭かったです。 -
あまり手入れのされてない庭。
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大名時計博物館の裏口が、NHK朝ドラ「あまちゃん」のまごころ第2女子寮
として使われていました。 -
歩ていると、サトウハチロー旧居跡がありました。サトウハチロー(1903~1973)は、昭和12年から昭和48年まで、ここに住んで、数多くの詩や小説を書きました。
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本名は佐藤八郎(1903-1973)詩人・童謡作家。
小説家佐藤紅緑[こうろく]の長男として、明治 36年(1903)市谷薬王寺前町に生まれた。大正 5年(1916)小日向台町小学校を卒業し、早稲田中学に入学した。この頃から詩を書き始め、16歳のとき西条八十に師事し、詩を学んだ。
大正10年(1921)『金の船』や『少年倶楽部』などに童謡を発表し、大正 15年(1926)に詩集『爪色の雨』を発刊、詩人として歩み始めた。
昭和 12年(1937)上野桜木町から向ヶ丘弥生町に移った。
週一回の、詩の勉強会"木曜会"が開かれ『木曜手帳』が刊行されたのも、この地である。
昭和52年(1977)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成 8年(1996)岩手県北上市に移った。
庭の一隅に、童謡『ちいさい秋みつけた』に歌われた"はぜの木"があったが、平成 13年(2001)10月礫川内に移植された。 -
お化け階段に来ました。
上りと下りで段数が異なることから「お化け階段」として知られる坂道です。以前来た時にはなかった手すりがついていました。 -
昼食は、「よし房 凛」で蕎麦をいただきます。
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なかなか雰囲気のいい蕎麦屋さんです。
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磯天おろしそばをいただきました。
海老天おろしと野菜の素揚げ。 -
さくさくの海老が美味しいです。
野菜の素揚げもよし。
蕎麦も美味しいです。 -
妻が注文した「なす汁せいろ」
こちらも美味しそうでした。 -
根津神社に来ました。
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根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建しています。
江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座しました。 -
1706年に完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されています。
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楼門
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乙女稲荷の千本鳥居。
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乙女稲荷から見た根津神社。
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塞の大神碑(さえいのおおかみのひ)
この塞の大神碑は通称駒込の追分(旧中山道と旧岩槻街道の分岐点)にありました。
明治6年に建立、明治43年道路拡張により根津神社に移築されました。 -
庚申塚
江戸時代街道の辻に、建てられていた6基の庚申塚が、明治以降のの道路拡張により取り除かれ根津神社に奉納されたもので、もっとも古いのは寛永9年(1632年)です。
だいぶ歩いて疲れました。今日の散策はここで終了です。
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