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2017年11月26日(日)、ウルグアイ(Uruguay)、モンテビデオ(Montevideo)の朝。日本を出て2週間半が過ぎ、旅は後半戦に入る。ただ、気持ち的にはまだ先は長いとしか感じてなかった。この日はフライトが朝の8時なので、早朝に起床。昨日着いた時に往復のタクシーを頼んでおいたのが、ちゃんと来てくれて暗い中、空港へ向かう。6時頃空港到着したところまでは問題なかったのだが、ここでトラブル。確か空港まで戻るには別途900ペソ(約3500円)を払えと云われてたので、高いなあと思いながら払おうとしたら、いくらだったか忘れたが、もっと高い料金を請求された。そんな馬鹿な話があるかと云うことで、言い合いになるが、お互いに相手の言葉が分からないので、議論にならない。しばらく遣り合ったが、結局は私が言い分を押し通した。なんかウルグアイの最後はモヤモヤで終わったなあ・・・<br /><br />その後は問題もなくチェックイン済ませ荷物を預け、イミグレを抜けて出発ゲートへ進み、そこで朝食(下の写真)。これで457ペソしたので1800円足らず。高いよな。旅に出る前に南米旅行経験者の娘に食事は安く済むとアドバイスされてたが、ここに関しては全然そんなことないよなあ。これから、パラグアイ(Paraguay)のアスンシオン(Asuncion)へ飛ぶのだが、ブエノスアイレス(Buenos Aires)からモンテビデオ、そしてモンテビデオからアスンシオンへの両方のフライト料金が併せて3万円足らず。なのに、空港と市内の往復が結局言い値を通しても9500円ほど掛かり、さらにこんな朝食でも1800円って・・・ なんか、変な感じ。<br /><br />余談が長くなってしまったが、昨日ブエノスアイレスから来た時と同じウルグアイアマゾネス航空(Amaszonas Uruguay)の740便で、朝8時、パラグアイに向かってカラスコ国際空港(Aeropuerto Internacional de Carrasco General Cesareo L. Berisso)を飛び立つ。使用機材も昨日と同じボンバルディアエアロスペース(Bombardier Aerospace)社のCRJ200ER。<br /><br />私の今回の旅、6か国目はパラグアイ。正式にはパラグアイ共和国(Republica del Paraguayもしくはグアラニー語でTeta Paraguai)。日本語漢字表記では巴拉圭または巴羅貝。パラグアイは、国の真ん中を北から南へ流れるラプラタ川(Rio de la Plata)水系最大の川であるパラナ川(Rio Parana)の支流、パラグアイ川(Rio Paraguay)から来ているという説が有力だが、その原義は「大きな川(大河)」とか「優しい川」、「羽のかぶった川」、「パパガーリョ(Paragua-i)と云うオウムの一種の住む谷の川」など諸説ある。また川とは直接関係なく、「海の源」とか、「鳥の冠を被った人々」を意味するという説もある。いずれにせよ、先住民であるグアラニー族(Guarani)の言葉。<br /><br />面積は40万平方km余りで、日本より少し大きい。南米大陸中央南部に位置し、首都は飛行機が向かっているアスンシオン。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国。国土はパラグアイ川によってふたつの地域に分かれており、東西でまったく異なる特徴をもつ。東パラグアイ(Paraguay Oriental)は森林丘陵地帯。面積的には国土の40%だが、人口の97%近くを有する。パラナ川そしてアマンバイ山脈(Cordillera del Amambay)がブラジルやアルゼンチンとの国境を形成している。西パラグアイ(Occidental Paraguay)は、乾燥した疎林地帯とアルゼンチン国境となるピルコマヨ川(Rio Pilcomayo)流域の、船が通れない細い河川が縦横に流れる広大な平原。人は少なく野生動物の宝庫。グランチャコ(Gran Chaco)と呼ばれる。<br /><br />人口は約715万人で、96%はグアラニー人などのインディヘナ(Indigena)とスペイン人との間の混血のメスティーソ(Mestizo)が占め、白人とグアラニー族が2%となっている。メスティーソの多くは、グアラニーの血を引くことを誇りに思っており、自分のことをグアラニーと称し、グアラニー語を話そうとするそうだ。通貨単位も最高級ホテルの名前もサッカー代表チームの愛称もグアラニーである。グアラニー語はスペイン語と共に公用語になっており、学校教育で教えられ、日常的に広く使われている。国民の94%がグアラニー語を話すことができ、スペイン語の75%より多い。ただし、私の旅行記の現地語表記はグアラニー語でなく、スペイン語だけとする。約90%がカトリックで、約6%がプロテスタント。宗教選択は自由。<br /><br />もともとこの地域には紀元前からグアラニー族が農耕生活を営んでいた。16世紀初頭、この地にもヨーロッパ人が渡来し、1537年にスペイン人によりアスンシオンが建設され、グアラニー人とスペイン人はスペイン支配下で融合していった。17世紀に入るとイエズス会(Societatis Iesu)宣教師による先住民への布教活動が活発に展開され、スペイン植民地社会とイエズス会による布教村落の二重社会が成立し、スペイン統治下で現在の国の前身となる領域的な一体感が形成された。<br /><br />18世紀、ウルグアイ川東岸地域(Banda Oriental)を巡るスペインとポルトガルの争いの中で1750年にマドリード条約(Tratado de Madrid)が結ばれ、東岸地域のほとんどがポルトガル(ブラジル)領となり、それに抵抗したイエズス会とグアラニー族はスペイン・ポルトガル両軍に攻撃される。この戦いはグアラニー戦争(Guerra Guaranitica)と呼ばれ、敗退した東岸地域のグアラニー人はパラグアイに逃げ込んだ。しかし、イエズス会は1768年のスペイン王室の決定によりパラグアイのみならず南米から撤退。パラグアイは衰退していく。<br /><br />1810年、ブエノスアイレスで五月革命(Revolucion de Mayo)が起こり、パラグアイもその一員であったリオ・デ・ラプラタ副王領(Virreinato del Rio de la Plata)からの自治を宣言する。しかし、パラグアイはブエノスアイレス主導の独立は認めなかったので、翌年ブエノスアイレス政府はベルグラーノ将軍(Manuel Belgrano)率いる遠征隊をパラグアイ征服のために派遣する。しかし、ベラスコ(Bernardo de Velasco)総督率いるパラグアイの王党派軍がこれを打ち破り、結果、これにより生まれたパラグアイの自治意識により、同年5月にパラグアイは南米で一番最初に独立することになった。ウルグアイの独立はイギリスの思惑による想定外の出来事だったが、パラグアイも瓢箪から駒的。<br /><br />独立後、他の多くの南米諸国が内戦で荒れていたが、パラグアイは内政安定し、またマテ茶やタバコなどの保護貿易によって莫大な利益を上げ、産業化が進んだ。しかし、アルゼンチンやブラジルからの外圧が増え、それに対抗するため南米で最も強大な軍隊が生まれた。<br /><br />そして1865年に三国同盟戦争(La Guerra de la Triple Alianza、パラグアイ戦争(Guerra del Paraguay)とも呼ばれる)が始まる。元々はパラグアイ同様にブラジル、アルゼンチンからの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党(Partido Blanco)政権のSOSを受けて、アルゼンチンの反体制派とも結び、ブラジルに挑む意図で、1864年末にブラジルに侵攻したのだが、ウルグアイの現政権崩壊、アルゼンチンの反体制派の裏切りで、パラグアイが3国から攻められることになってしまった。この裏には自分たちでコントロールできないパラグアイをよく思わないイギリスの思惑があった。またここでもイギリス・・・ 1870年、一説では成人男性の90%を失い、130万の人口が30万人になり、戦争は終わった(被害が軽い説でも成人男性の2/3で、人口は53万人が21万人)。<br /><br />この結果、東パラグアイ北東部(現在のブラジル、マト・グロッソ・ド・スル州(Mato Grosso do Sul)の南の一部)をブラジルに、東パラグアイ南東部(現在のアルゼンチン、ミシオネス州(Provincia de Misiones)と西パラグアイのピルコマヨ川以南をアルゼンチンに、国土の1/4にあたる合計14万平方kmを割譲して失った。さらに敗戦と共にイギリスから借款が押し付けられ、公有地はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でも他の南米諸国同様に大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立の全てを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。この時代にパラグアイ最初の教師の教育学校を設立したスペラッティ姉妹(Adela y Celsa Speratti)は2000G紙幣に描かれている(表紙の写真)。<br /><br />1932年、今度はボリビアがパラグアイに侵攻し、チャコ戦争(Guerra del Chaco)が始まる。これはグランチャコの領有を争う戦争で、この地域は植民地時代からボリビア側のチャルカス(Charcas=現在のスクレ(Sucre))とパラグアイ側のアスンシオンとの間で領有権が争われていた。1907年に両国の武力衝突を回避するために、アルゼンチンの仲裁によって現在の国境にほぼ等しい暫定国境線が引かれたのだが、20世紀に入り大量な石油の埋蔵があるとの仮説が立てられ、またチリとの戦争で太平洋に面する領土を失ったボリビアがパラグアイ川の水運を求めて始めたものだった。ボリビア側はアメリカのスタンダード・オイル(Standard Oil Company)と、パラグアイ側はヨーロッパのロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell)とそれぞれ結び付いており、石油メジャーの代理戦争とも云われる。ただし、結果的には未だにこの地域では石油は発見されていないし、ボリビアもパラグアイ川につながるプエルトブッシュ(Puerto Busch)と呼ばれる領域を獲得し、大西洋への水路を得たが、あまり重要な流通経路にはならなかった。<br /><br />パラグアイはボリビアに比べ兵力も装備も劣っていたが、このエリアに古くから暮らしていたのがグアラニー族であり、彼らはパラグアイに対しての親近感を持っており、また土地勘もあるなどの理由で戦いを優位に進め、1935年にアルゼンチンの仲介で休戦協定が結ばれ、38年の正式な和平条約によって暫定国境線より約5万平方㎞上回る領土を獲得した。<br /><br />しかし、この戦争による経済的な打撃と4万人とも云われる及ぶ死者は社会を疲弊させ、軍部主導の時代に突入し、1947年には大規模な内戦(Guerra civil paraguaya de 1947)も発生する。1954年からはストロエスネル(Alfredo Stroessner)大統領による軍事独裁政権が35年続いたが、1989年によるクーデターにより倒壊。政治活動・言論の自由,労働者の団結権等を保証する新憲法が1992年に公布され,1993年に初めて民主的選挙が実施された。以降、8人の大統領が生まれているが、比較的政情は安定しているようだ。<br /><br />現在は、立憲共和制で議会は2院制。国家元首は大統領で、任期5年、再選禁止。現在の大統領は71年生まれの若いマリオ・アブド・ベニテス(Mario Abdo Benitez)氏。両院議員の任期も5年で、大統領選挙と同じ日に選挙が行われる。大統領は軍の最高司令官も兼任する。兵員は約1万人で、徴兵制が敷かれており、男性の国民は兵役の義務を有する。2005年からグランチャコにアメリカ空軍が駐留している。<br /><br />南米諸国の関税同盟であるメルコスール(Mercosur)、「同一通貨、同一パスポート、一つの議会」を目指す政府間機構である南米諸国連合(UNASUR)の加盟国。2018年の経済成長率(GDP)は3.6%。農業が最も重要な産業で、輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。パラナ川上流のブラジルと共有するイタイプーダム(Represa de Itaipu)は現時点では水力発電を行う世界最大のダムで、国内の電力需要のほぼ全てを賄っている。また、下流にはアルゼンチンと共有しているジャスレタダム(Represa Yacyreta)もあり、19年現在、世界で最も多く電力を輸出している国である。<br /><br />通貨はグアラニーでGと表記。19年9月時点では1US$が6329G。1円が58.5Gだが、私の訪問時は約50Gだった。国旗の赤は独立戦争で流れた兵士の血、白は平和、青は自由と秩序を表わしている。紋章の星は独立の星。裏と表があり、中央の紋章の柄が、表は星で裏はライオン。表と裏とで異なる国旗は世界でも稀。<br /><br />サッカーが国民的スポーツで、FIFAワールドカップ(FIFA World Cup)では日本にPK戦で勝った10年の南アフリカ大会のベスト8が最高。コパアメリカ(Copa America)では2回優勝している。80年代から2000年代に活躍したPKやFKを決めるGKチラベルト(Jose Luis Felix Chilavert Gonzalez)は有名。先日(19年9月)にはカシマスタジアムで日本代表と対戦し、0-2で敗れている。クラブレベルではオリンピア・アスンシオン(Club Olimpia)はFIFAクラブワールドカップ(FIFA Club World Cup)の前身のインターコンチネンタルカップ(Intercontinental Cup)で1979年に優勝しているほか、国際トーナメントで合計8回優勝している。<br /><br />南米でも有数の親日国で、1937年の最初の入植以来、日系パラグアイ人は高い評価を受けている。現在も移民は続いており、移住者及び日系人は約1万人。在留邦人も4500名程度いる。1976年以降2008年まで、04年を除き、日本が最大の援助国で、現在も米国と並び、日本は主要ドナー。昨年(18年)には安倍総理が日本の首相として初めてパラグアイを訪問し、日本人移住100周年記念式典への出席などを行った。<br /><br />日本との時差は13時間遅れだが、サマータイムを採用しており、この時は12時間遅れで、サマータイムを採用していないウルグアイとの時差はなかった。<br /><br />と長々と書いたが、事前にはサッカーのことくらいしか知らなかった国。ウルグアイ同様、せっかく南米に行くんだからついでに寄ろう程度の気持ちで行った国だが、コロンブス以降、いろんなことがあった国なんだ。特に三国同盟戦争は大失敗だったなあ・・・<br /><br /><br />アスンシオンへ入るが続く。

パラグアイ(Paraguay)

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2017/11/26 - 2017/11/26

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旅行記グループ パラグアイ

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ちふゆ

ちふゆさん

2017年11月26日(日)、ウルグアイ(Uruguay)、モンテビデオ(Montevideo)の朝。日本を出て2週間半が過ぎ、旅は後半戦に入る。ただ、気持ち的にはまだ先は長いとしか感じてなかった。この日はフライトが朝の8時なので、早朝に起床。昨日着いた時に往復のタクシーを頼んでおいたのが、ちゃんと来てくれて暗い中、空港へ向かう。6時頃空港到着したところまでは問題なかったのだが、ここでトラブル。確か空港まで戻るには別途900ペソ(約3500円)を払えと云われてたので、高いなあと思いながら払おうとしたら、いくらだったか忘れたが、もっと高い料金を請求された。そんな馬鹿な話があるかと云うことで、言い合いになるが、お互いに相手の言葉が分からないので、議論にならない。しばらく遣り合ったが、結局は私が言い分を押し通した。なんかウルグアイの最後はモヤモヤで終わったなあ・・・

その後は問題もなくチェックイン済ませ荷物を預け、イミグレを抜けて出発ゲートへ進み、そこで朝食(下の写真)。これで457ペソしたので1800円足らず。高いよな。旅に出る前に南米旅行経験者の娘に食事は安く済むとアドバイスされてたが、ここに関しては全然そんなことないよなあ。これから、パラグアイ(Paraguay)のアスンシオン(Asuncion)へ飛ぶのだが、ブエノスアイレス(Buenos Aires)からモンテビデオ、そしてモンテビデオからアスンシオンへの両方のフライト料金が併せて3万円足らず。なのに、空港と市内の往復が結局言い値を通しても9500円ほど掛かり、さらにこんな朝食でも1800円って・・・ なんか、変な感じ。

余談が長くなってしまったが、昨日ブエノスアイレスから来た時と同じウルグアイアマゾネス航空(Amaszonas Uruguay)の740便で、朝8時、パラグアイに向かってカラスコ国際空港(Aeropuerto Internacional de Carrasco General Cesareo L. Berisso)を飛び立つ。使用機材も昨日と同じボンバルディアエアロスペース(Bombardier Aerospace)社のCRJ200ER。

私の今回の旅、6か国目はパラグアイ。正式にはパラグアイ共和国(Republica del Paraguayもしくはグアラニー語でTeta Paraguai)。日本語漢字表記では巴拉圭または巴羅貝。パラグアイは、国の真ん中を北から南へ流れるラプラタ川(Rio de la Plata)水系最大の川であるパラナ川(Rio Parana)の支流、パラグアイ川(Rio Paraguay)から来ているという説が有力だが、その原義は「大きな川(大河)」とか「優しい川」、「羽のかぶった川」、「パパガーリョ(Paragua-i)と云うオウムの一種の住む谷の川」など諸説ある。また川とは直接関係なく、「海の源」とか、「鳥の冠を被った人々」を意味するという説もある。いずれにせよ、先住民であるグアラニー族(Guarani)の言葉。

面積は40万平方km余りで、日本より少し大きい。南米大陸中央南部に位置し、首都は飛行機が向かっているアスンシオン。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国。国土はパラグアイ川によってふたつの地域に分かれており、東西でまったく異なる特徴をもつ。東パラグアイ(Paraguay Oriental)は森林丘陵地帯。面積的には国土の40%だが、人口の97%近くを有する。パラナ川そしてアマンバイ山脈(Cordillera del Amambay)がブラジルやアルゼンチンとの国境を形成している。西パラグアイ(Occidental Paraguay)は、乾燥した疎林地帯とアルゼンチン国境となるピルコマヨ川(Rio Pilcomayo)流域の、船が通れない細い河川が縦横に流れる広大な平原。人は少なく野生動物の宝庫。グランチャコ(Gran Chaco)と呼ばれる。

人口は約715万人で、96%はグアラニー人などのインディヘナ(Indigena)とスペイン人との間の混血のメスティーソ(Mestizo)が占め、白人とグアラニー族が2%となっている。メスティーソの多くは、グアラニーの血を引くことを誇りに思っており、自分のことをグアラニーと称し、グアラニー語を話そうとするそうだ。通貨単位も最高級ホテルの名前もサッカー代表チームの愛称もグアラニーである。グアラニー語はスペイン語と共に公用語になっており、学校教育で教えられ、日常的に広く使われている。国民の94%がグアラニー語を話すことができ、スペイン語の75%より多い。ただし、私の旅行記の現地語表記はグアラニー語でなく、スペイン語だけとする。約90%がカトリックで、約6%がプロテスタント。宗教選択は自由。

もともとこの地域には紀元前からグアラニー族が農耕生活を営んでいた。16世紀初頭、この地にもヨーロッパ人が渡来し、1537年にスペイン人によりアスンシオンが建設され、グアラニー人とスペイン人はスペイン支配下で融合していった。17世紀に入るとイエズス会(Societatis Iesu)宣教師による先住民への布教活動が活発に展開され、スペイン植民地社会とイエズス会による布教村落の二重社会が成立し、スペイン統治下で現在の国の前身となる領域的な一体感が形成された。

18世紀、ウルグアイ川東岸地域(Banda Oriental)を巡るスペインとポルトガルの争いの中で1750年にマドリード条約(Tratado de Madrid)が結ばれ、東岸地域のほとんどがポルトガル(ブラジル)領となり、それに抵抗したイエズス会とグアラニー族はスペイン・ポルトガル両軍に攻撃される。この戦いはグアラニー戦争(Guerra Guaranitica)と呼ばれ、敗退した東岸地域のグアラニー人はパラグアイに逃げ込んだ。しかし、イエズス会は1768年のスペイン王室の決定によりパラグアイのみならず南米から撤退。パラグアイは衰退していく。

1810年、ブエノスアイレスで五月革命(Revolucion de Mayo)が起こり、パラグアイもその一員であったリオ・デ・ラプラタ副王領(Virreinato del Rio de la Plata)からの自治を宣言する。しかし、パラグアイはブエノスアイレス主導の独立は認めなかったので、翌年ブエノスアイレス政府はベルグラーノ将軍(Manuel Belgrano)率いる遠征隊をパラグアイ征服のために派遣する。しかし、ベラスコ(Bernardo de Velasco)総督率いるパラグアイの王党派軍がこれを打ち破り、結果、これにより生まれたパラグアイの自治意識により、同年5月にパラグアイは南米で一番最初に独立することになった。ウルグアイの独立はイギリスの思惑による想定外の出来事だったが、パラグアイも瓢箪から駒的。

独立後、他の多くの南米諸国が内戦で荒れていたが、パラグアイは内政安定し、またマテ茶やタバコなどの保護貿易によって莫大な利益を上げ、産業化が進んだ。しかし、アルゼンチンやブラジルからの外圧が増え、それに対抗するため南米で最も強大な軍隊が生まれた。

そして1865年に三国同盟戦争(La Guerra de la Triple Alianza、パラグアイ戦争(Guerra del Paraguay)とも呼ばれる)が始まる。元々はパラグアイ同様にブラジル、アルゼンチンからの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党(Partido Blanco)政権のSOSを受けて、アルゼンチンの反体制派とも結び、ブラジルに挑む意図で、1864年末にブラジルに侵攻したのだが、ウルグアイの現政権崩壊、アルゼンチンの反体制派の裏切りで、パラグアイが3国から攻められることになってしまった。この裏には自分たちでコントロールできないパラグアイをよく思わないイギリスの思惑があった。またここでもイギリス・・・ 1870年、一説では成人男性の90%を失い、130万の人口が30万人になり、戦争は終わった(被害が軽い説でも成人男性の2/3で、人口は53万人が21万人)。

この結果、東パラグアイ北東部(現在のブラジル、マト・グロッソ・ド・スル州(Mato Grosso do Sul)の南の一部)をブラジルに、東パラグアイ南東部(現在のアルゼンチン、ミシオネス州(Provincia de Misiones)と西パラグアイのピルコマヨ川以南をアルゼンチンに、国土の1/4にあたる合計14万平方kmを割譲して失った。さらに敗戦と共にイギリスから借款が押し付けられ、公有地はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でも他の南米諸国同様に大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立の全てを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。この時代にパラグアイ最初の教師の教育学校を設立したスペラッティ姉妹(Adela y Celsa Speratti)は2000G紙幣に描かれている(表紙の写真)。

1932年、今度はボリビアがパラグアイに侵攻し、チャコ戦争(Guerra del Chaco)が始まる。これはグランチャコの領有を争う戦争で、この地域は植民地時代からボリビア側のチャルカス(Charcas=現在のスクレ(Sucre))とパラグアイ側のアスンシオンとの間で領有権が争われていた。1907年に両国の武力衝突を回避するために、アルゼンチンの仲裁によって現在の国境にほぼ等しい暫定国境線が引かれたのだが、20世紀に入り大量な石油の埋蔵があるとの仮説が立てられ、またチリとの戦争で太平洋に面する領土を失ったボリビアがパラグアイ川の水運を求めて始めたものだった。ボリビア側はアメリカのスタンダード・オイル(Standard Oil Company)と、パラグアイ側はヨーロッパのロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell)とそれぞれ結び付いており、石油メジャーの代理戦争とも云われる。ただし、結果的には未だにこの地域では石油は発見されていないし、ボリビアもパラグアイ川につながるプエルトブッシュ(Puerto Busch)と呼ばれる領域を獲得し、大西洋への水路を得たが、あまり重要な流通経路にはならなかった。

パラグアイはボリビアに比べ兵力も装備も劣っていたが、このエリアに古くから暮らしていたのがグアラニー族であり、彼らはパラグアイに対しての親近感を持っており、また土地勘もあるなどの理由で戦いを優位に進め、1935年にアルゼンチンの仲介で休戦協定が結ばれ、38年の正式な和平条約によって暫定国境線より約5万平方㎞上回る領土を獲得した。

しかし、この戦争による経済的な打撃と4万人とも云われる及ぶ死者は社会を疲弊させ、軍部主導の時代に突入し、1947年には大規模な内戦(Guerra civil paraguaya de 1947)も発生する。1954年からはストロエスネル(Alfredo Stroessner)大統領による軍事独裁政権が35年続いたが、1989年によるクーデターにより倒壊。政治活動・言論の自由,労働者の団結権等を保証する新憲法が1992年に公布され,1993年に初めて民主的選挙が実施された。以降、8人の大統領が生まれているが、比較的政情は安定しているようだ。

現在は、立憲共和制で議会は2院制。国家元首は大統領で、任期5年、再選禁止。現在の大統領は71年生まれの若いマリオ・アブド・ベニテス(Mario Abdo Benitez)氏。両院議員の任期も5年で、大統領選挙と同じ日に選挙が行われる。大統領は軍の最高司令官も兼任する。兵員は約1万人で、徴兵制が敷かれており、男性の国民は兵役の義務を有する。2005年からグランチャコにアメリカ空軍が駐留している。

南米諸国の関税同盟であるメルコスール(Mercosur)、「同一通貨、同一パスポート、一つの議会」を目指す政府間機構である南米諸国連合(UNASUR)の加盟国。2018年の経済成長率(GDP)は3.6%。農業が最も重要な産業で、輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。パラナ川上流のブラジルと共有するイタイプーダム(Represa de Itaipu)は現時点では水力発電を行う世界最大のダムで、国内の電力需要のほぼ全てを賄っている。また、下流にはアルゼンチンと共有しているジャスレタダム(Represa Yacyreta)もあり、19年現在、世界で最も多く電力を輸出している国である。

通貨はグアラニーでGと表記。19年9月時点では1US$が6329G。1円が58.5Gだが、私の訪問時は約50Gだった。国旗の赤は独立戦争で流れた兵士の血、白は平和、青は自由と秩序を表わしている。紋章の星は独立の星。裏と表があり、中央の紋章の柄が、表は星で裏はライオン。表と裏とで異なる国旗は世界でも稀。

サッカーが国民的スポーツで、FIFAワールドカップ(FIFA World Cup)では日本にPK戦で勝った10年の南アフリカ大会のベスト8が最高。コパアメリカ(Copa America)では2回優勝している。80年代から2000年代に活躍したPKやFKを決めるGKチラベルト(Jose Luis Felix Chilavert Gonzalez)は有名。先日(19年9月)にはカシマスタジアムで日本代表と対戦し、0-2で敗れている。クラブレベルではオリンピア・アスンシオン(Club Olimpia)はFIFAクラブワールドカップ(FIFA Club World Cup)の前身のインターコンチネンタルカップ(Intercontinental Cup)で1979年に優勝しているほか、国際トーナメントで合計8回優勝している。

南米でも有数の親日国で、1937年の最初の入植以来、日系パラグアイ人は高い評価を受けている。現在も移民は続いており、移住者及び日系人は約1万人。在留邦人も4500名程度いる。1976年以降2008年まで、04年を除き、日本が最大の援助国で、現在も米国と並び、日本は主要ドナー。昨年(18年)には安倍総理が日本の首相として初めてパラグアイを訪問し、日本人移住100周年記念式典への出席などを行った。

日本との時差は13時間遅れだが、サマータイムを採用しており、この時は12時間遅れで、サマータイムを採用していないウルグアイとの時差はなかった。

と長々と書いたが、事前にはサッカーのことくらいしか知らなかった国。ウルグアイ同様、せっかく南米に行くんだからついでに寄ろう程度の気持ちで行った国だが、コロンブス以降、いろんなことがあった国なんだ。特に三国同盟戦争は大失敗だったなあ・・・


アスンシオンへ入るが続く。

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