1988/06/13 - 2007/09/28
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骨ヅルさん
統一ドイツの首都、ベルリン。
第二次世界大戦終結後、戦勝国である米+西欧と旧ソビエトが対峙して「東西冷戦」が始まると、敗戦国ドイツは西と東のふたつにちぎられ、しばらくして双方のドイツが主権を取り戻したあとも、このベルリンだけは戦勝4国の統治が続いていて、冷戦の象徴といわれた街です。
1980年代後半、ソ連のゴルバチョフが国内改革を実施し、それが東欧共産圏に大きく影響を及し、東ドイツでも民主化運動を抑えきれなくなり、ついに1989年11月9日、ベルリンの壁が破られました(開放された)。
それから30年を経た今、ドイツやベルリンがふたつに分かれていたことを知らない方が増えていますが、その頃デュッセルドルフに住んでいて、ドイツ統一を肌で感じた者として、拙い回顧録をしたためます。
前半に壁が破れた前後の様子を紙焼きスキャン画像で、後半にそれから約20年後に閉鎖された「ヒトラーゲボイデ」を配しています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
これは、ベルリンのすぐ西隣、東独ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿。
第二次世界大戦終結に向け、日本への降伏要求の最終宣言が成された、ポツダム会談の舞台です。
壁が破れる前の1988年頃、東ベルリンへの日帰りヴィザを取得し、東側に入国し、そのまま(東)ベルリン市を不法に出てポツダムに向かいました。
当時、ベルリン以外の東領に観光目的で入るためには、国営旅行社で高いインターホテルを予約しないと入国査証が出ず、日帰り旅行は認められなかったので、密かにベルリン周辺の水溜りがたくさんあって舗装されていないデコボコ道を、ダンボールでできた東の国民車トラバントに追い越されながら、制限速度を遵守してオマワリに捕まらないよう走ったのでした。
もうドイツ民主共和国も国自体がありませんので、時効ということで。(それとも東出身のメルケルに捕まるかぁ?)ツェツィーリエンホーフ宮殿 城・宮殿
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1989年冬のブランデンブルク門直近にできた、領境審査場です。
壁が破れても、すぐに自由な行き来はできず、東西間の境界は有効でした。ただ、出入境の要件は簡素化され、特にオッシー(東ドイツ人)にとっては天国への門が開いたかのよう。
既存の領境審査場に加えて、あちこちに臨時というか仮設というか急造の審査場が追加されましたが、それらはドイツ人のみが通れ、外国人は既存のところのみでした。でも、査証代や強制両替はなくなったはずです。ブランデンブルク門 建造物
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普通陸路の国境審査というと、双方の国の国境審査官がいますが、ここでは東側の国境警察官だけ。西にとってはどうでも良いから(というか西ドイツ政府は元々ベルリン市内に国境は存在しないという認識)、無駄な人間は配置しません。
この頃は、まだビシッとして、きちんとチェックしてました。 -
東側から見た、ブランデンブルク門。
門の向こう側が西ドイツです。
入国 出国
↓ ↑ブランデンブルク門 建造物
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壁が破れる前の西側の壁沿いには、東側が見られるようにと観光用のお立ち台が要所々々に作られていました。
手前の壁が領境で「ベルリンの壁」本体。奥に見える白い壁が東側の緩衝地帯を隔てる壁です。
西側からは直に壁に接することができますが、東側で壁に近付こうものなら国境警備隊の監視の対象になり、当然この五十~数百メートル幅の緩衝地帯に入れば、西への逃亡者とみなされ、銃殺されることも大いに「あり」でした。
言い伝えですが、当時の国境警備の任に就く現場隊員には、その手の者に対し「1回の威嚇射撃ののちそれでも静止しなくば銃撃して良い」とのお触れが出ていたそうです。 -
ここもドイツ人用の領境審査場です。
落書きがユニーク。
なお、この時壁を砕い(壊し)て土産にしようと思い金槌を持参しましたが、背が届く範囲では元々の表面が残っておらず、ずいぶん時間を掛けて捜したら、ホンの小さな部分(2cm四方くらい)が見つかりました! -
これは1990年6月だと思います。
未だ東西の統一はなされていませんが、ベルリンに限らず東西の行き来は完全に自由になっていました。
これは東側の元の緩衝地帯で、工事用の車両がたくさん置かれています。 -
壁の断面。
壁そのものの構造はL字型で、伸びている底面は東に位置します。 -
西側から東側。
メルツェーデス・ベンツが古い! -
壁が(文字通り)破れたところから、旧緩衝地帯の歩哨所。プロの殺し屋の獲物の漁り場です。
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【画像は借用】
1963年のベルリンの地図です。
1987年に初めてベルリンに行ったとき、私も同じ意匠のものをもらった記憶があります。
このファイル自体は、
https://www.wykop.pl/
から。 -
ここからは2007年6月の写真です。
ここはフランクフルトの南約75kmのマンハイム空港です。
これからこの飛行に乗って、ベルリンに向かいます。マンハイム空港 (MHG) 空港
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機材はドイツ製のドルニエ、航空会社は今は亡きシァルス航空です。
(Dornier 328-100, Cirrus Airlines[C9]) -
ベルリンに達し、かなり高度が下がり、DBのズュートクロイツ(Südkreuz)駅が見えました。
もうすぐ着陸です。 -
この機は、旧西側にふたつあった空港のうちの戦前からのテンペルホーフ空港に降りました。
ベルリン・テムペルホーフ空港 (THF) 空港
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この空港は「ZENTRALFLUGHAFEN(中央空港)」の名が付けられ、その名のとおり当時の中心空港で、典型的な「ヒトラーゲボイデ(建造物)」でした。
空港自体は1923年開港ですが、この建物はナチス時代の1941年に建てられています。
街中の一等地にあるこの空港は、2008年頃に廃止されるというらしいと聞き、なくなる前にぜひ一度見たいと思っていましたが、この空港に飛んでいる路線は限られているため、2007年9月にそのひとつマンハイムから往復したのでした。 -
空港本館の建物前にある「空の架け橋記念碑(Luftbrückendenkmal)」です。
1948年、旧ソ連は西ドイツから西ベルリンに繋がる道路、鉄道を遮断し、モノ・ヒトの行き来を絶ちました。
この「ベルリン封鎖」に対し、アメリカは食料等の必要物資を飛行機によって運ぶ「ベルリン大空輸」作戦を展開し、封鎖を無意味化。その舞台がここテンペルホーフ空港で、記念碑が造られました。
それにより、ソ連もたった1年で封鎖を解いたのです。 -
「空の架け橋記念碑」は、空輸の対となるフランクフルト空港にもあります(他にハノーファー近郊ツェレ航空基地にも)。
従来からある2本の滑走路(07C/25C, 07R/25L)東端のすぐ南にあり、その横には作戦で使われた Douglas C-47(民生用名DC-3)とC-54(同-4)も置かれています。
この写真からは分りづらいですが、右端のグレーがDC-4の垂直尾翼。そして、戦勝西側3国(英仏米)と(西)ドイツの国旗も見えてます。
(このコマは近年のものです。) -
戻って、テンペルホーフ空港の出発ホールです。「出発~」と書きましたが、到着受託荷物が出てくるベルトも1機あります。
なんか、ヒトラーの亡霊が出てきそう?! -
荷物受取所です。
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扇状の格納庫兼駐機場。
この空港には搭乗桟橋がありません。でも、飛行機は屋根付きのポジションに駐機しますので、雨が降っても濡れることなく乗降できます。
空港開設時の飛行機はレシプロ(ピストン)エンジン機しかなく、機体も小さかったので、滑走路も短く、駐機、格納施設も大きい必要はありませんでした。
しかし、空輸作戦で便が増え、機体も少し大型化して、この空港では賄い切れないとことから、西ベルリン内に新空港が(工期僅か50日足らずで)作られました。街中ゆえ、滑走路の延伸等の空港拡張ができなかったこともあり、旅客需要の増大に伴って機材を更に大型化するべき路線はそのテーゲル空港に移り、西ベルリンにおける航空輸送の主役はそちらへとシフトしました。
【追記】ベルリン-テーゲル空港は、2020年11月8日を最後に民間空港としての役割を終え、当面は軍用として供用されます。 -
その外周にある建物には、空港の必要な施設や役所関連や航空会社と航空関連会社の事務所にもなっています。
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昼寝する機は屋根のないところで日向ぼっこ。
出発機への給油も当然タンクローリーからです。 -
午後4時くらいのこの便が最終で、街中に出てお昼食べて、あたふたと帰りの飛行機に乗ったのでした。
空港廃止に対し、存続を求める声が多数ありましたが、賛否を問う市民投票の結果から予定通り2008年10月31日に閉鎖されました(30日が最終日)。
潰す理由の大きなものに、旧東の空港、シェーネフェルトを抜本的に拡張、改良して作るブランデンブルク国際空港への機能集約がありましたが、当初の開港予定であった2011年から何度も延期され、8年経った今もできていません。(今のところ2020年予定だが、これだって危ない!)
すでに巨額が費やされ、使われていない施設を維持するだけでも月に1500万オイロ(1日6千万円!)以上が掛かっているといわれています。
政治家が大風呂敷を広げ大儀名分を立てるも、その通りにならないのは、日本ばかりではありませんね!
【追記】上述のベルリン-ブランデンブルク空港は、2020年11月4日に正式開港し、それを待たずして、10月31日には同空港としての第一旅客ターミナルの供用が始まり、旅客便が就航した。 -
ベルリンの壁崩壊30周年の2オイロ記念硬貨です(右)。
何を表したのかすごく分かり辛いですが、ブランデンブルク門(上)の手前にある壁が破られていて、そこを歓声を上げながら通る人々を描いたように見え、左側に「30 JAHLE MAUERFALL」と記されています。
左側は、4年前に発行されたドイツ統一25周年記念の25オイロ銀貨です(これには同じ意匠の2オイロ記念硬貨もあります)。
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