2018/05/10 - 2018/05/11
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旅人のくまさんさん
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中国中部の日本百名城巡り、備中松山城の紹介です。明治6年(1873年)、廃城令が公布され、御根小屋は取り壊されました。山城は新政府によって商家に売却されましたが、あまりに不便な場所にあることから、山上の建物は解体されずに放置され、後の保存・改修へと繋がりました。
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本丸に再建された建物です。左が『五の平櫓』、右が『六の平櫓』になるようです。平成6年(1994年)から、本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されました。
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『八の平櫓跡』の文字が刻まれた石標があった場所の光景です。縄張図を参照しますと、『本丸南御門』と『本丸』の中間に位置していました。『本丸』内では、『五の平櫓』と『六の平櫓』が再建されました。
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イチオシ
入口近くから見上げた、備中松山城の天守光景です。水谷(みづのや)家第2代藩主の水谷勝宗(1623~1689年)が3年を掛けて大改修したと伝わる備中松山城です。後ほど紹介しますが、本丸内の『御社壇』に祀られた神棚もこの時のもののようですから、可能性は高いようです。水谷勝宗に関する情報だけでは、その資質の評価は難しいようですから、少し代を遡って業績などを調べてみました。
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『天守閣』の文字が刻まれた石標の光景です。勝宗は、備中松山藩初代藩主の水谷勝隆(1597~1664年)の長男として、元和9年(1623年)に誕生しました。父の勝隆は有能な藩主として伝わり、常陸下館藩の第2代藩主、備中成羽藩主、備中松山藩の初代藩主を務めました。父の勝隆は、常陸下館初代藩主の水谷治持の次男として誕生した人です。
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父の勝隆の母は堀田正吉の娘、正室は酒井家次の娘、継室は寺沢広高の娘です。子に水谷勝宗(長男)、水谷勝能(次男)、娘(仙石政俊正室)、娘(一柳直照正室)、娘(水野忠久正室)がいます。官位は従五位下、伊勢守でした。岡山県下の三大祭り、『備中松山踊り』もこの頃に始まったようです。写真は、天守内から眺めた本丸広場方面の光景です。
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勝隆の幼名は弥太郎、慶長11年(1606年)、父の死去により後を継ぎました。寛永16年(1639年)6月に備中成羽藩5万石へ移封され、寛永19年(1642年)7月に備中松山5万石へ移封されました。父の勝隆は有能な人物で、藩政においては交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、神社仏閣の造営などに努めて藩政の基礎を固めたとされます。また、池田輝興改易時の播磨赤穂城在番や寺沢堅高改易時の唐津城在番を務めるなど、幕府からは譜代格に準ずる信頼と地位を得ていたようです。寛文4年(1664年)閏5月、松山で死去し、跡を長男の勝宗が継ぎました。享年68、法号は大竜寺殿鉄山全性居士、墓所は岡山県高梁市和田町の定林寺です。写真は、天守への入口光景です。
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イチオシ
勝隆の子の勝家は、その有能な資質を受け継いだようです。寛文4年(1664年)、父の死去によりその跡を継ぎました。このとき、弟の勝能に2000石を分与しました。寛文6年(1666年)、京極高国が改易されたとき、丹後宮津城の守備を務めました。貞享元年(1684年)、外様大名から譜代大名に列せられ、江戸在勤が長くなりました。写真は、天守に登る階段光景です。
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江戸城における勤務が長くなったため、藩政は、暫く嫡男の勝美と家老の鶴見良俊が担当しました。二代藩主の勝宗が、備中松山城の大改修に取り組んだのは、天和元年(1681年)からの3年程とされます。現存する天守や二重櫓、その他の櫓や大手門など、子の時に全容が完成したようです。また、勝宗は、新田開発や水路の建設、城下町の建設などに尽力しました。写真は、城内の展示光景です。
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水谷家3代藩主の勝美は、嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去しました。その養子となった勝晴は僅か1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶しました。 水谷家断絶後は、赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が1年ほど城番となりました。写真は、皇紀2千6百年の改修工事の棟上げ記念品のようです。
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分厚い壁の部分に設けられた四角の穴です。弓には使えませんが、鉄砲や槍などでは、防御に使えそうでした。『狭間』の一種のようです。二代藩主だった勝胸は、元禄2年(1689年)閏正月に家督を勝美に譲って隠居し、同年2月19日、桜田屋敷で死去しました。享年67でした。
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『装束の間』のタイトルがあった説明パネルの光景です。籠城時の城主一家の居室の床下に石を入れ、隙間がないようにして、忍びの者の襲撃を防いでいたことが紹介されていました。また、落城の時の城主一家の死に場所とも説明されていました。
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本丸内に露出した石垣の光景です。居住に支障がないよう、石の尖った部分が削り落とされているようでした。本丸内に露出した石垣の光景は、各地の天守などで目にします。
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『石落し』とその説明パネルの光景です。『石落し』は、多くの城に備えられた防御施設ですが、この説明パネルでは、外から見た外観が『魚の鰓(えら)』に似ていることから、『鰓形窓(えらがたまど)』とも呼ばれることが紹介してありました。
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天守の中から眺めた、本丸の周りの光景です。本丸を取り囲む、あまり高く無い土塀が見えましたが、外から眺めれば、高い石垣の上の土塀かも知れません。その土塀には、弓狭間と、鉄砲狭間が並んでいました。
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『平成の復元:櫓s・門・土塀の復元:平成9年』のタイトルがあった説明パネルの右半分の光景です。『復元されるまでの道のり』として、1.文献調査、2・発掘調査、3.復元の設計、4.土台造り(一部)の中見出しがありました。
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『平成の復元:櫓s・門・土塀の復元:平成9年』のタイトルがあった説明パネルの左半分の光景です。4.土台造り、5.木材の加工・組立、6.瓦葺き、7.左官(壁、平)の中見出しがありました。それぞれの作業工程が、写真入りで紹介されていました。
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『山田方谷』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『山田方谷(やまだ ほうこく:1805~1877年)は、幕末期の儒家で陽明学者です。名は球、通称は安五郎、方谷は号です。備中聖人と称されました。山田家は、元は清和源氏の流れを汲む武家でしたが、諸般の事情で、農商の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれました。幼少から神童の誉れ高く、5歳になると新見藩の儒学者である丸川松隠に学び、20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命されました。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献しました。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功しました。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなりました。
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『天守の構造(外部)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。書き出しは、二層二重の備中松山城が、三層櫓とも呼ばれた理由の説明でした。渡り廊下の屋根が重なって見えたためと解説されていました。説明の項目は、『唐破風出格子窓』、『腰板(堅板張)』と『規模」の三項目で解説されていました。
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イチオシ
三つ並べて展示してあった瓦製の『鯱』の光景です。この後、それぞれズームアップして紹介します。それぞれに製作年代が異なっていました。
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『天守・鯱瓦』
(昭和15年銘)
小林平太郎商店製(播州瓦名匠)
高梁市教育委員会蔵
*皇紀2600年記念行事の解体修理の際に焼かれたもの -
『天守・鯱瓦』
(昭和35年銘)
瓦寧製(大和瓦の老舗)
高梁市教育委員会蔵
*昭和35年の部分修理の際に焼かれたもの -
『櫓・鯱瓦』
(平成7年新補)
(大和瓦)
高梁市教育委員会蔵
*本丸整備に伴い、五の平櫓と六の平櫓に葺かれました。 -
右のパネルが『備中聖人と称された稀代の藩政改革者・山田方谷』、左のパネルが、『板倉勝静と山田方谷』と『備中松山藩出身の新撰組隊士』のタイトルでした。少しだけ補足しますと、板倉勝静は、備中松山藩の第7代藩主で江戸幕府の老中首座を務めた人です。新撰組隊士は、谷三兄弟のことでした。
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『備中松山藩・無血開城150年:慶応4年(1868年)から150年』のタイトルがあった2枚のパネルの光景です。『幕末の動乱」と『無血開城』の中見出しがありました。鳥羽伏見の戦いが起きたことから、隠居していた山田方谷が呼び出され、協議を重ねた結果、苦渋はあったものの、備中松山城の無血開城が実現し、老中を出した板倉家も安泰でした。
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左のパネルのタイトルが『美袋(みなぎ)での哀訴』、右が『熊田恰の自刃』でした。『備中松山藩・無血開城150年:慶応4年(1868年)から150年』のタイトルがあった2枚のパネルの続きです。『美袋での哀訴』とは、美袋陣屋での家老の大石隼雄らと鎮撫使との会見、『熊田恰の自刃』とは、藩主の親衛隊長が自刃し、鎮撫使との交戦を防いだ経緯の説明でした。
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『平成の大修理(平成13年~15年)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元され、三度目となる平成の大修理は平成13年~15年に行われました。その成果もあり、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(68番)に選定されました。
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『昭和の大修理・天守の解体修理(昭和15年)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が崩壊寸前の山城を調査し、その詳細な記録を『備中松山城及其城下』に著し刊行しました。信野の著書を契機に山上の建物の修復の機運が高まり、修復のために高梁町によって1万8000円の予算が組まれ、昭和の大修理へと繋がりました。パネル中央のの写真は、昭和15年、2万枚の瓦を生徒さん達が担ぎ上げた時のものです。
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『新島襄』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『新島襄(にいじま・じょう); 1843~1890年)』は、キリスト教の教育者で、同志社英学校(後の同志社大学)の設立舎です。ドラマにも取り上げられた妻は八重です。アメリカの友人への手紙で『彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です』と綴っています。ところで、新島襄と備中松山城の関係は、ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い『福音が自由に教えられている国に行くこと』を決意し、備中松山藩の洋式船『快風丸』により、元治元年(1864年)、当時は禁止されていた海外渡航に旅立ちました。
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明り採りの窓が少なく、薄暗くなっていた天守内の光景です。それでも、室内を移動するのに、懐中電灯が必要になるほどの暗さではありませんでした。
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『蕪懸魚(かぶらけぎょ)』
(江戸時代)
*『平成の大修理(平成13年~15年)』で取り換えられた品です。
*唐様の建築に用いられる懸魚の一つで、『鏑懸魚』とも表記されます。形が、鏑に似ているようです。
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