2018/05/10 - 2018/05/11
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旅人のくまさんさん
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中国中部の日本百名城巡り、備中松山城の紹介です。標高430メートルの小松山の山頂に建つこの山城は、日本三大山城にも数えられています。あとの二つは、どちらも日本百名城の岐阜県の美濃岩村城と、奈良県の大和高取城です。
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 私鉄 徒歩
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中央やや左手に見える『三の平櫓跡』の文字が刻まれた石標の光景です。石段で1~2段高くなった場所でした。かつての縄張り図を参照しますと、『三の丸』の守りの建物の一つだったようです。
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『三の平櫓跡』に残る、瓦などの異物が散乱した光景です。散逸しない内に発掘・整理した方がよさそうですが、この状態では、年代が特定された、あまり重要ではない遺物かも知れません。
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手前に見えるのは、『三の丸』の文字が刻まれた石標です。縄張図を参照しますと、『三の丸』を取り囲む櫓には、『二の平櫓』、『三の平櫓』、『四の平櫓』があり、入口が『大手御櫓』だったようです。また、内部には、『足軽番所』や『上番所』が置かれていたようです。
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『国指定史跡・備中松山城跡』と『国指定重要文化財・備中松山城』の二つのタイトルがあった立看板の光景です。国指定の重要文化財が一覧で紹介されていました。いずれも建造物の『天守』、『二重櫓』と『土塀』です。
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振り返って眺めた、『三の丸』方面の光景です。縄張図で判断しますと、こちら方面には『四の平櫓』があり、『二の丸』への関所になっていたようですが、標識を見落としたかもしれませんが、現地では場所が特定できませんでした。
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『三の丸』から『二の丸』に続く石段の光景です。左手に見える茶色の看板は、『中国自然歩道』利用者に対する注意書きでした。石段の上方に石垣が見えてきました。『四の平櫓』の後かも知れませんが、特定できませんでした。
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整備されて、歩き易くなっていた登山道の光景です。『大手道』と呼んでもよい通りのようですが、現在は正式名はないようです。記述の都合上、この後は『大手道』と呼ぶことにします。
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中央付近に見える石標には『黒門跡』の文字が刻まれていました。虎口を形成していたらしい石垣の遺構がありました。『大手道』に設けられた防御の一つのようです。
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同じく、『大手道』の虎口を形成していたらしい石垣遺構のズームアップ光景です。古い石垣がそのまま残されているらしく、野面積でした。
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右端付近に見える石標には、『厩郭』の文字が刻まれていました。戦国時代の前後、『馬』は、重要な戦略・戦術資源でした。
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『厩郭』付近の石垣光景です。遺跡整備のために根元から伐採された大木の切り株が、道の脇に残されていました。『厩郭』から『二の丸』への通路は、縄張り図で見る限り設けられていないようでした。
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切り株が残されていた付近の石垣の光景です。角の石は、綺麗な算木積になっていました。それ以外の部分は野面積でしたが、石垣の上にも大木がありましたから、根が張って石垣が壊されないよう、対策も必要になるかも知れません。見た目には雑に見える野面積ですが、排水がよく、耐久性・強度に優れた石積であることは、現代でも実験棟を含めて実証されています。
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この辺りも、先に紹介した『厩郭』のエリアになるようです。戦国時代の山城は、水の確保も大変だったと推測されますが、井戸跡などの譲歩は見つかりませんでした。『厩郭』と言っても、多頭の馬を飼うには、水の準備も大変ですから、頭数は限られていたかも知れません。
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木漏れ日を作っていた『大手道』脇の樹木の光景です。『大手道』日除けとして、夏場には役割が大きくなりそうです。今はまだ新緑の時期です。
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木漏れ日が『大手道』の路面に模様を描いていた光景です。今は、梅雨入りまでには間がある5月の上旬ですが、梅雨入りから夏場にかけては、備中松山城の見学は大変そうでした。
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左側が石垣、右側が崖で守られた『大手道』の石段光景です。右側の崖の部分は、観光のための危険防止策でしょうか、幅広の生垣が続いていました。
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かつては、石垣の上には櫓があったのかもっ知れませんが、今は石垣だけが残されていました。奥の方にも石垣が見えますから、この辺りには強固な防御線が敷かれていたようです。縄張図では、『二の櫓門』、もしくは『四の平櫓』になるようでしたが、判断が付きませんでした。
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一休みして眺めた麓の光景です。眼下は樹木で視界を遮られていましたが、遠くに町並光景が見えました。かつての城下町のよう、な古い町並みは見えませんでした。かつての城下町は、もっと右手方面になるのかも知れません。
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段差の少ない石段と、その脇の石垣の光景です。山城にしては、かなり幅広の道になってた『大手道』の光景です。周りの景色から判断して、頂上が近付いてきたようです。
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右側の石標の文字は『高梁観光百選』、左側の石碑は与謝野寛の歌碑でした。『松山の峡を埋むるあさ霧にわが立つ城の四方(よも)白くなる』の文字が読み取れました。与謝野鉄幹の呼び名で有名な与謝野寛(1873~1935年)は、京都府岡崎町(現在の京都市左京区)に生まれ、与謝野晶子の夫で、後に慶應義塾大学教授を務めました。今は、天空の城としても有名になりました。
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『備中松山城の沿革』のタイトルがあった説明看板の光景です。中央上部に『備中松山城復古図(近世)』、左端に城代を含めた歴代城主の一覧と期間が記されていました。廃城が明治時代の1873年でした。歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240年)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
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イチオシ
『二の丸跡』から眺めた、本丸の建物群の光景です。右端に『天守』が見えていました。左端の建物が『六の平櫓』、その右が『五の平櫓』、右端の建物が『本丸』になります。鎌倉時代には、臥牛山の内の大松山に砦が築かれましたが、後に現在の小松山に移されました。
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『二の丸跡』の文字が刻まれた石標のズームアップ光景です。備中松山城の縄張りは、時代と共に変化しますが、なかでも天正2年(1574年)に起こった 『備中兵乱』時は、『砦二十一丸』と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っています。四つの頂を持つ臥牛山全体が、ー大要塞となっていたことが想像できます。
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『二の丸跡』から眺めた、『本丸』方面の光景です。右奥に『備中松山城天守』の正面が見えていました。その手前に見えるのは、本丸に再建された複数の櫓です。
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『本丸南御門』の文字が刻まれた石標の光景です。本丸の正面出入口になる門のようです。このほかにも、本丸以外を含めて、東御門、腕木御門、路地門などが復元されているようです。
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イチオシ
『本丸南御門』から眺めた、『備中松山城天守』の光景です。天守がそっくり額縁に納まり、絵になる光景でした。つい、茶道に長け、作庭でも最高のレベルの小堀遠州を連想してしまいます。先に紹介した年表によれば、奉行として赴任したのは、1600~1617年と、かなりの長期になります。
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現在の備中松山城の入城受付場所の光景です。『高梁(たかはし)の銘茶』の無料サービスコーナーがありました。430メートルの古松山さんと湯まで登って来ましたので、最高のサービスでした。
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『禁煙』の立札の脇の石標には、『六の平櫓』の文字が刻まれていました。背後に見える土塀は、現地で確認はできませんでしたが、国の重要文化財に登録されている一部かも知れません。
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イチオシ
国の重要文化財に指定されている『備中松山城天守』の光景です。山城に残る、唯一の現存天守とされます。将来、国宝への格上げも期待できる建造物かも知れません。備中松山城の天守は、構造などは不明ですが、毛利氏時代から小堀氏(遠州)が城番で入城した、慶長年間(1596~1615年)には既に存在していたと考えられています。
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更にズームアップした、現存の『備中松山城天守』の光景です。現在見られる天守は、天和元年(1681年)に2代水谷勝宗が造営したとされますが、慶長5年(1600年)に小堀政次、政一(遠州)が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれます。この後、もう少し詳しく紹介します。
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