2012/02/22 - 2012/02/26
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パンダ番長さん
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- 10,144アクセス
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インド旅行の4日目。アグラの観光と帰国までの旅程。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
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-
<アーグラの朝とタージ・マハルへ>
朝、5時半に目覚しの音で目が覚める。昨晩は外の喧騒が気になって殆ど寝られなかった。
やはり、インドでは安ホテルはダメである。今度、もしインドを旅行する事があれば、ホテルは考えなければならない。
朝の身支度を行い、旅行カバンの整理を行う。これまで多くの土産物を購入したので、旅行カバンも一杯になって来た。レストランが開く時間は6時半と聞いているので、まだ少し時間がある。
テレビを点け、少し時間を潰す。そして、6時半を過ぎて、1階のレストランに向かう。既に数組の宿泊客が食事をしている。2組は外国人で、1組は日本人である。朝はビュッフェスタイルの朝食の様である。
入口近くのテーブルに料理が並んでいる。
並んでいる料理は、スープ類とカレー、食パン、チャパティなどである。
<平成24年2月25日朝食:インド料理(アマル・ヤトリ・ニヤスホテル内)>
①スープカレー(きゅうりのスープカレー)
②食パン(バターとジャム付き)
③鶏肉と香草などをつくねにして揚げたもの(リング状にしたもの)
④じゃがいもと豆のカレー
⑤ゆで卵
⑥揚げたチャパティ(プーリーと言うらしい)
⑦パッションフルーツ及びパインジュース
特に変わったものはなく、やはり朝からカレーである。それも定番中の定番のじゃがいもと豆のカレーである。
そして、チャパティの揚げたもの。後でシンさんが教えてくれたが、これはプーリーと言うらしい。
ナンなどが無かったのは残念である。
本当に簡単に20分程で食事を終え、部屋に戻る。7時過ぎに部屋に戻り、最後の身支度を行う。
今日、朝一番の観光地はタージ・マハルである。
カメラなどのバッテリーの最終点検を行い、準備を終える。そして、7時半前に部屋を出て、ホテルのフロントロビーに向かう。フロントロビーには既にシンさんがいた。 -
シンさんに朝の挨拶を行い、フロントでチェックアウトを行う。
ホテルを出て、道路脇で待っているサンジェさんに朝の挨拶を行い、車に乗り込む。
朝の7時半過ぎと言う早い時間にも関わらず、道路に車も多く、人通りも多い。車はこの通りを進み、アーグラの街を進む。ホテルを出て、車で走る事、5分程で大きな駐車場に入る。
そこには既に多くの車や観光バスが駐車されている。
ここで車を降り、サンジェさんと別れ、シンさんと共に、その駐車場脇に建つ建物前に向かう。
ここがタージ・マハル観光事務所との事で、ここで入場の手続きを行った後、ここからは専用のマイクロバスに乗り、タージ・マハル近くまで移動するとの事である。
その建物前まで行き、ここでシンさんに少し待つ様に言われる、入場手続きを行う為に、シンさんはその建物内に入る。その前にはタージ・マハル近くまで行く送迎用のマイクロバスが数台止まっている。 -
既にそのマイクロバスには多くの観光客が乗り込んでいる。観光事務所の壁にはタージ・マハルが描かれ、その上にはタージ・マハル入場時の禁止事項などの表示が出ている。
かなり多くの事項が禁止事項として表示されているが、中には何を示しているのか判らないものもある。
既に前に止まっていた送迎用のマイクロバスの1台は観光客を乗せ、出発した。
シンさんを待っている間も多くの観光客の集団が、この事務所の中に入って行く。
結局、5分以上経った頃、シンさんが事務所から出て来た。
そして、水の入ったペットボトルとタージ・マハルの入場券を渡され、マイクロバスに乗り込む。
渡されたペットボトルは、入場券に付いているものとの事で、これ以外の飲食物は持ち込みが禁止されていると言う。
我々が乗り込んだ後にも多くのタージ・マハル観光に行く人達が乗り込んで来る。
乗り込んだマイクロバスは地元インドの人達が殆どである。
シンさんに聞くと、地方から来た人達との事であった。インドでは村単位で老人を中心に礼拝目的でタージ・マハルを訪れる人達が多いのだそうだ。
同じマイクロバスに乗り込んだ団体もその様な団体の様で、老人が多く、殆どの人が裸足である。
その中で1人だけ身なりの整った人がいるが、その人が村長さんらしい。 -
その団体が乗り込み、マイクロバスがほぼ満席となったところで、バスが出発する。
このマイクロバスは電気自動車の様である。エンジン音がしない。環境を配慮してのものである。
バスはその駐車場から出て、その前の通りを進む。バスはその通りを真っ直ぐと進む。この道の両脇には時折大きな建物が見えて来る。殆どが、アーグラの高級ホテルとの事だ。
途中幾つかのバリケードがあり、一般車両の進入を禁止している。その場所には係員らしき人が、バリケード脇に立ち、チェックをしている。
事務所から5分程で、あるホテルの前でマイクロバスが止まる。マイクロバスもここまでの様だ。ここからは歩いて、タージ・マハルの門まで進む。 -
ここからは道路脇に土産物屋や飲食店などが並ぶ。また、反対側の道路脇には何かの碑が建っている。
シンさんによれば、この通りはドクターマツキ・ミヤザキ通りと呼ばれているそうだ。
このタージ・マハルまでの500m程の通りに名前がついているのである。
そのドクターマツキ・ミヤザキの碑が建っているのである。
このドクターマツキ・ミヤザキはインドでのライ病(ハンセン病)の撲滅に貢献した医者で、インドの人達で知らない人はいないと言われるくらい有名なお医者さんなのだそうだ。
しかし、日本人の私でさえも、この医者の名前は知らなかった。
また、ガイドブックにも、この通りに日本人の名前がついている事は記されておらず、何も載っていない。
また、シンさんによれば、今はまだ店が出ていないが、この碑の横に床屋が出るそうだ。
確かにテントの様なものが張られている。
その前を過ぎると、前方にタージ・マハルの東門が見えて来た。 -
<タージ・マハル観光>
既に多くの人が入場を待つ行列を作っている。列は4つあり。それぞれに並ぶ人が違う。
まずは男女別である事。更にインド人と外国人に分かれる。その男性の外国人の列に並ぶ。列は門まで50m以上延びている。入るのにかなりの時間が掛かりそうだ。時刻は8時前である。
シンさんによれば、門は8時に開門されるそうだ。
私が、「いつもこんなに混雑しているのですか?」と聞くと、シンさんが、「昨日の金曜日が休館日なので、どうしても土曜日が混雑するのです。」と教えてくれる。
「昨日の金曜日は、この中にあるモスクへの礼拝に訪れる人達の為に休館日になるのです。」と続ける。
また、ガイドブックを見ると現在、観光客が入場出来る門は、この東門のみである。
8時を過ぎても、然程列は進まない。シンさんは列を離れ、どこかに消えた。少しすると列に戻って来た。
それから10分程すると、少しずつではあるが、列が進み始める。それでも東門近くまで行くのに、20分程要した。東門内では入場の為に身体チェックを1人1人行っているのである。
やっとの事、私の順番が来た。私が持っているのはパスポートなどが入ったショルダーバックのみである。
しかし、そのショルダーバック内を念入りにチェックされ、小さなのど飴まで見つけられた。
本当に入念にチェックをしている。結局、ショルダーバック内にあったのど飴をすべて没収された。
シンさんが、横で見ており、何やら係員に言っていたが、それも無視された様だ。多分、飴くらい良いだろうとでも言ってくれたのであろう。
これでやっとタージ・マハル内に入った。 -
この東門からは回廊が続き、その先は大きな中庭の様な広場になっている。その右手に大きな門が見えているが、ここからはタージ・マハルの中心、白亜の廟は見えない。
シンさんとゆっくりと中庭の方へ回廊沿いに進む。
回廊は今迄見て来た建造物と同じく、赤砂岩で出来ている。
中庭に出ると、右手に見えていた門の大きさが際立つ。この門がタージ・マハルの正門である。 -
この正門も赤砂岩で建てられたものに白大理石と黒大理石で、その壁が装飾されている。この建物は典型的なムガル・イスラム様式の建物である。その正門に向かい、進む。
丁度、この正門前に来たところで、シンさんが足を止め、この正門を含め、タージ・マハルについての簡単な説明を始める。シンさんの説明は大体以下の様な内容である。
タージ・マハルはインドでも最も有名な世界遺産で、インド国内は勿論、多くの国々から観光客が訪れる名所である。マハルとはペルシャ語で“宮殿”を意味しますが、実際はムガル帝国第5代皇帝であるシャー・ジャハーンがその妃ムムターズ・マハルの為に造ったお墓である。
1632年着工、1653年竣工。建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたと言われ、大理石はラージャスターン地方産のもの、その他、碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピスラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだと言われている。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。
ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造された「世界一ゴージャスな建物」とも言われている。
名前の由来は、不確定ながら、王妃の名を縮めたものではないかという説が有力である。
ムムターズ・マハルは、ペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者」を意味する言葉であり、ムガル帝国第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号である。
彼女の本名は、アルジュマンド・バーヌー・ベーガムという。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
およそ580m×300mの敷地全体は塀で囲まれており、主に5つの建物から構成されている。
赤砂岩で縁取られた正門(ダルワーザー)、正方形で幾何学的に分割されたムガル式四分庭園(バギーチャー)、西側のモスク(マスジド)、東側の迎賓施設(ミフマーン・カーナー)、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟(マウソレウム)である。
庭園には天井の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天井の泉を表す池が配置されている。
墓廟は幅、奥行きとも約60m、中央のドームの高さも約60m、東西南北どちらから見ても同じデザインである。ミナレットとともに、100m角、高さ7mの白大理石の基壇の上に造られ、シャー・ジャハーン帝とムムターズ・マハルの石棺が並べて安置されている。
この石棺はじつはダミーであり、二人の遺体がそれぞれ収められた真の石棺はその真下にある地下室に置かれている。
ペルシャ建築の影響が顕著であるが、インド的要素も散見される。ヨーロッパからも多くの宝石職人が呼び寄せられたため、一部にはバロック建築の影響も指摘されている。
竣工してまもなく、シャー・ジャハーンはヤムナー河の対岸に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設に着手した。建設計画では河を挟んで同形の白と黒の廟が向かい合い、大理石の橋で結ばれる予定だった。
しかし、工事のための重税や動員された民衆の不満が高まり、ついに反乱が起きる恐れさえ出てきた為、シャー・ジャハーンは息子のアウラングゼーブ帝によってアーグラ城に幽閉された。
晩年の彼はタージ・マハルを眺めては涙を流して毎日を過ごしたと伝えられている。
対岸には現在も整地された基底部が残っており、タージ・マハルの裏から渡船で行く事ができる。
近年、大気汚染によるタージ・マハルの損傷が問題化している。排ガスによる直接的な汚れの他、酸性雨によって大理石が溶解する現象などが報告されている。
地下水の過度な汲み上げにより地盤が沈下し、四本の尖塔が外側に傾きつつあるとの報告もあるが、創建当時から大地震時に尖塔が本堂側に倒れ込まないよう、外側にわずかに傾けて設計されたとも言われている。
このタージ・マハルの前に建つのが今、目の前に見えている正門で、これも代表的なムガル・イスラム建築のひとつである。 -
赤砂岩を基調にし、その壁面には白大理石、黒大理石で幾何学模様を配し、また正面壁には門を取り巻く様にコーランが白大理石の面に黒大理石で記されている。
また、門の上に見える傘状の小塔は正面から見えるものが11個あるが、同じものが裏側にもある。これは合わせて22個あるが、これはこのタージ・マハルの建造年数を表している。
この様な説明を長々と受け、再び正門に向かい歩き始める。そして、正門前に着き、再び説明が始まる。
シンさんが、「尖状のアーチ門の両脇に波型の横線の柱がありますが、どう見えますか?」と聞いて来る。
「尖がって出ている様に見えませんか?」と言うので、「尖って見えますね!」と言うと、「それは目の錯覚です。実は全て柱は平らな面で出来ています。」と言う。
また、「このタージ・マハルにはこの様な目の錯覚を利用した建築が多く使用されているのです。」と教えてくれる。
正門の壁に近づくと、確かに目の錯覚で、ジグザグに白大理石と黒大理石により、模様が造られているだけで面は平らである。それが、目の錯覚で突起状に出ている様に見えるのである。
このタージ・マハル内には3つの有名な目の錯覚がある。この正門の壁のジグザグの模様がその一つである。後2つ目の錯覚が存在する。 -
そして、この正門内に入る。中に入ると、多くの観光客が屯している。丁度、観光客が居なければ、この内部からも綺麗にタージ・マハルの中央廟が見えるのであるが、今はドーム部分しか見えない。
この正門内中央部分まで来た時に、シンさんが立ち止り、また説明を始める。
シンさんが、「この中央に立ち、まずここから見える中央廟を見て下さい。そして、見ながらゆっくりと前進して見て下さい。」と言う。言われた通り、見ながら、ゆっくりと前進する。 -
前進している途中で、シンさんが、「中央廟に近づいているのです。大きく見えているはずですが、小さくなって行きませんか?」と言う。確かに、丁度、出口で縁取られた中央廟はその見え方が小さくなって行く。
「これが2つ目の目の錯覚です。この正門内から見える中央廟が出口まで小さく見える現象です。」と教えてくれる。これは出口で縁取られている為に、その縁取られた部分に占める中央廟の割合が小さくなる事で小さく感じるのである。
これを体験後、正門内を観察すると、正門正面の壁と同じく、内部も赤砂岩を基調に白大理石で壁が装飾され、その中に宝石類で唐草模様などの絵が描かれている。
内部も非常に綺麗である。しかし、少し傷みが激しい。所々、赤砂岩の壁が欠けている。
人混みの中を出口に向かう。そして、出口を出ると、正面に綺麗に中央廟が見える。よく写真などで見る景色である。 -
ここで再び、シンさんが立ち止り、説明を始める。最後の目の錯覚についてである。
その目の錯覚とは、丁度、ここから中央廟を見ると、中央廟の上部左右に見える玉葱状の傘を持った望楼は同じ位置に見えるが、ここから左右どちらかに移動すると見え方が変わるとシンさんが言う。
そこで、そこから右手に移動しながら、見ていると確かに右に移動すると右手に見える望楼が手前に移動した様に見える。これが3つ目の目の錯覚である。 -
そして、正門から下りて、その前で記念撮影を行う。
ここで、シンさんから一人の男性を紹介される。このタージ・マハルのガイドの人である。
前にも説明したが、シンさんは正式には、このタージ・マハルのガイドを出来ないのである。しかし、その人は挨拶と写真を撮る係の様なもので、実際はシンさんが説明をする。
そこから一旦、右手の正門から延びる回廊部分に移動する。ここも中央廟の写真を撮る絶好のスポットなのだと言う。シンさんが、また小指を立てている。トイレに行きたい様だ。この回廊の奥にトイレがあると言う。
この回廊で写真を撮りながら、シンさんが戻るのを待つ。この回廊は日差しも遮られ、少し涼しい。 -
ここから見える中央廟もそのシンメトリーな美しさが良く判る。
シンさんが戻り、再び中央部分に戻り、中央廟に向かい、歩き始める。
中央廟の前は大きな庭園になっている。しかし、本当に観光客が多い。昨日が休館日であった為かも知れないが、インド人の人も多いので、海外からの観光客だけではない為である。
多くの観光客と共に中央廟に向かう。その途中で、シンさんが「ここで記念撮影を行えますが、撮りますか?費用は1枚100Rs(約180円)です。」と言う。折角なので、撮って貰う事にした。
庭園内の中央の小路から少し逸れ、そこにあるベンチのところで写真を撮る。
前の人が撮り終わるのを待つ。前の人が写真を撮っているのを見ていると、何やら変なポーズをしている。
そして、私の順番になり、そのベンチを使用し、何枚かの写真を撮って貰い、最後に私も前の人がとっていた不思議なポーズを写真家に要求される。
体を斜めにし、左手を肩より少し高い位置に挙げ、指先を下に向け、尖らせる。その高さを写真家に修正されて何枚かの写真を撮る。これで写真撮影は終了である。
再び、中央廟に向かい、庭園内を歩き始めるところで、今度はこのタージ・マハルのガイドとして紹介された男性が私のカメラで写真を撮ってくれると言う。
そこで中央の小路に戻り、中央廟をバックに数枚の写真を撮って貰う。 -
そして、このガイドの男性とはここで別れ、シンさんと共に更に中央廟に向かい歩き始める。
丁度、正門と中央廟との中間地点くらいのところで小路が交差し、その左右奥に建物が見えている。
シンさんの説明では、この両側(東西になるのであるが)にあるのが、音楽館と言われる建物である。
建設当時は、名前の通り音楽に関わる建物であった様だが、現在は西側(歩いている小路側)の建物は、博物館になっており、細密画などが展示されていると言う。
更に進むと、中央廟の前に大きな白大理石で造られた舞台の様なものがある。その中央部分は池になっており、噴水も見える。
この上にも多くの観光客が集まり、記念写真を撮っている。
私も舞台に上り、シンさんに中央廟をバックに何枚かの写真をここで撮って貰う。 -
そして、ここでシンさんが、「これから自由行動にします。私は中央廟内に入る事が出来ませんので、場所を決め、そこで待っています。どこか良いですか?先程の正門脇の回廊で待っていますがそれで良いですか?自由時間は1時間とします。」と言う。現在の時刻は、9時20分前である。
ここからは自由に中央廟の見学を行う事になる。シンさんと別れ、私は中央廟に向かい、歩き始める。
途中で何枚かの写真を撮りながら、徐々に中央廟に近づく。
丁度、中央廟は一段高い赤砂岩で造られた基壇の上に建てられている。
その基壇に上るには、中央の小路から外れ、左側の上り口に行かなければならない。
中央の基壇下まで行き、そこから左手に基壇沿いに進み、上り口に行く。
そこには係員の男性がいて、何やらチェックをしている。
見れば、その周りで靴にビニールカバーを掛けている。この基壇に上るには、靴にビニールカバーを掛けなければならない様だ。
係員の男性はそれをチェックしている。
私もその上り口に置かれたビニールカバーを持ち、近くのベンチでそれを靴に被せる。そして、基壇に上がる。 -
上り口の左手には赤砂岩を基調にした建物がある。
これがモスクである。これが昨日の礼拝に使用されていたモスクである。
また、この基壇の床は赤砂岩と白大理石で綺麗な花の様な幾何学模様を施されている。
この幾何学模様はすべて4の数字の倍数で造られている。
この床の模様も4つの角を持った星と4つの白い菱形で型造られている。この4の数字はイスラムでは神聖な数値である。 -
この上り口からは丁度、中央廟の四隅に立つ大きな白大理石のミナレットが綺麗である。
また、その大きさに圧倒される。その高さは43mもある。このミナレットの高さは遠くから見た時のバランスを考えて造られたものであると言う。
先に書いたが、少し外側に傾いた様に見える。近くで見ると、その傾きも判らない。
このミナレットは、通常モスクに付属する尖塔であり、その役割はこの上から礼拝を呼び掛ける為のものであるが、タージ・マハルでは装飾の意味合いが強い。 -
そのミナレットの下を過ぎ、更に中央廟前に行くと、そこには小さな入口の様なものがあり、ここから入るのである。その辺りの壁にも細かな彫刻が施されている。
この辺りの壁にも何かが嵌め込まれていたと思われる様な窪みが多い。 -
そして、入口に入ると、直ぐに階段になり、更に一段上に上がる。ミナレットで囲まれた中央廟も更に白大理石の基壇上に建てられているのである。
基壇上に上がると、中央廟への入口に多くの観光客が向かっている。私もその入口に向かう。
中央廟の壁には、白大理石の壁に黒大理石でコーランが記され、また綺麗に彫刻が施され、また多くの宝石で花などが描かれている。この宝石類は中国など様々なところから取り寄せられたものである。
そして、入口に並ぶ観光客の列に私も並ぶ。そして、廟の中に入る。中は思いの外狭く、丁度、中央部分が柵で仕切られ、その柵沿いに観光客が右回りにその周りを廻っている。
その柵の中には白大理石の大きな棺が2つ安置されている。中央に置かれているのが、妃であるムムターズ・マハルの棺で、その左手に置かれているのが、後から設置されたシャー・ジャハーンの棺である。
写真を撮って良いのか、判らず、周りの観光客を見ていると中の棺を撮る人がいないので、私も写真を撮るのを躊躇う。そして、柵沿いに一周し、再び入って来た入口から外に出る。
そして、この廟を左廻りに進む。シンメトリーに造られた、この中央廟はどこから見ても同じ様に見える。
この中央廟のメインドームの高さは67mもあり、その天辺には“アッラー”と書かれた青銅製の飾りが取り付けられている。晴天の空に、それが映える。
また、そのドームの上にはトンビが輪を描き、飛んでいるのが見える。 -
そして、裏に廻ると、廟の裏には大きな河が流れている。これがヤムナー河である。
このヤムナー河の対岸には、庭園の様なものが見える。この場所がシャー・ジャーハーン自身の廟を建てるはずであったところである。ここに、シャー・ジャーハーンは黒いタージ・マハルを建てる予定であった。
そして、今のタージ・マハルと白大理石の橋で繋げる予定であったが、その工事に取り掛かる際に息子であるアウラングゼーブ帝によりアーグラ城に幽閉されてしまう。現在は、庭園と一部建物が残るだけである。 -
そして、中央廟の廻りを一周し、その後、この基壇から下り、中央廟の右手に建つ迎賓館に向かう事にした。
赤砂岩の基壇まで下り、その迎賓館に向かうが、直接行けず、一旦下まで下りてから迎賓館に向かう。
下まで下りる途中で、中央部分から正門方向を見ると、中央廟前の庭園が非常に綺麗である。
正門からも同じ景色を見たが、こちらからの方が、庭園が綺麗に感じる。中央に縦型の池を配し、その脇に整然と小さな木が配されている。
その下には芝生の中に赤砂岩のタイルで綺麗な幾何学模様が造られている。 -
迎賓館前まで来ると、赤砂岩で造られた建物に白大理石で少し装飾されている。天井のドームは白大理石で造られている。
迎賓館内に入ると、赤砂岩の壁に幾何学模様や花模様装飾が描かれている。ここは白大理石が殆ど使われていない。また、ここの床も幾何学模様の赤砂岩のタイルの様なもので造られている。 -
この中に展示物などはない。しかし、この中から見る中央廟も非常に幻想的である。
その写真を撮り、この中から出て、正門を目指す。
時刻は既に10時を過ぎた。
ここから迎賓館から延びる塀沿いに正門方向に戻る。 -
この辺りには大きな木々もあり、日陰も多く、少しは暑さを凌げる。
その木の中に大きな蜂の巣がぶら下った木を見つけた。
この塀沿いに進み、丁度途中まで戻り、音楽館のところまで戻って来た。 -
こちら側の音楽館は使用されていない様だ。その前を過ぎ、更に木立の中の小路を進む。
ここからも中央廟が微かに見えている。
この辺りは観光客も少ない。ゆっくりと周りの景色を楽しみながら、正門に向かう。 -
そして、10時15分頃に正門脇の回廊のところまで戻って来た。この辺りでシンさんと待合せである。
辺りを見渡し、シンさんを探す。すると、シンさんは数人のガイド仲間の人達と話をしている。
その場所まで行き、シンさんに戻って来た事を告げる。
ここで、シンさんが、「トイレは大丈夫ですか?トイレに行きたい様なら、今の間に行って来て下さい。まだ、先程の写真が届いていませんので、少し回廊のところで待っていて下さい。」と言う。
再び、回廊内に移動し、そこで待つ事にした。回廊内は日陰で、少しは暑さを凌げる。
5分程経った頃にシンさんが現れ、写真を持って来た。その写真を確認する。
すると、ここでやっと先程の可笑しなポーズの意味が判った。そのポーズは丁度、中央廟のドームの天辺を摘む様に撮られている。代金である300Rs(約540円)を支払う。
そして、その後正門脇の出口から出て、正門脇の外の回廊内を移動し、入って来た東門に向かう。
この回廊内は赤砂岩のみで造られ、その表面を彫刻で彩られている。その中を移動する。10時を過ぎて、観光客も非常に多くなって来ている。また、気温も上がり、非常に暑い。 -
歩ける回廊も終わり、再び小路に出たところで、シンさんにお願いし、シンさんの写真を撮らせて貰う。
そして、今も混雑している東門の出口から出る。
この東門を出たところに大きな木がある。
ここでシンさんが、「この木を知っていますか?」と聞いて来る。
私が、「判りません。」と答えると、「これはインドでは歯磨きの木と呼ばれています。
この木の小枝を用いて歯を磨きます。勿論、今でもこの木で歯を磨いている人もたくさんいます。」と教えてくれる。何の木か、日本にも同じ様な木があるのか、良く判らない。
ここで、シンさんがインドの豆知識を教えてくれる。まずはインドの国の花は“蓮の花”、国の木は“アショカの木”、国の鳥は“孔雀”である。
国の鳥が孔雀なのは、インドでは自然に孔雀が村内の畑や田んぼにいる為である。
この様な話を聞きながら、再びマイクロバスの乗り場までドクターマツキ・ミヤザキ通りを戻る。 -
すると、前方の道を大きな水牛が何頭も横切っている。
その横切った道路脇には、行きにも見たがテントが張られ、そこに今は店が出ている。シンさんが言っていた床屋である。一人の男性がハサミを片手に、既にお客さんの髪を切っている。
その前を過ぎ、行きのマイクロバスを降りた場所まで戻り、そこでマイクロバスが来るのを待つ。
暫らくすると、マイクロバスが到着した。それに乗り込む。
まだ、我々2人だけであるので、直ぐには出発しない様だ。 -
しかし、もう1組の観光客が乗り込んだところでマイクロバスは出発した。
マイクロバスは行きと同じ道を戻る。途中、タージ・マハルへ向かうマイクロバスとすれ違い、タージ・マハルの観光事務所に戻る。そして、マイクロバスの降車場の様なところで停車する。
この場所は行きにマイクロバスに乗った事務所の裏側である。その横が駐車場である。
既に駐車場は満杯で、その中からサンジェさんの車を探す。丁度、車は駐車場入口近くに駐車されていた。
先程、シンさんの写真も撮ったので、ここでサンジェさんの写真も撮らせて貰う。
それも終了し、車に乗り込む。残念な事に、サンジェさんが車に乗り込んで居なかった為に、車の中は非常に暑く、冷房が利くまでに時間が掛かりそうだ。 -
<アーグラ城へ>
車は駐車場を出て、次の観光地に向かい、アーグラ市街を走り始める。時刻は10時45分頃である。
ここで簡単ではあるが、アーグラについて説明を行う。
アーグラはインドのウッタル・プラデーシュ州に属する都市で、この州最大の都市である。
人口は約130万人強である。この都市で世界遺産に登録されているのは、先程訪れたタージ・マハルとこれから訪れるアーグラ城である。ガンジス川最大の支流であるヤムナー河沿いに位置する都市で、古代より交通の要所として発展した。ムガル帝国の元首都である。
周辺地域における政治、経済、文化の中心地である。
これからアーグラのもう一つの世界遺産であるアーグラ城へ向かう。
車はスムースに市街を走り、混雑したところはなく、5分程で右手にアーグラ城が見えるところに来た。
アーグラ城の濠に架かる橋の様なところの前で車が止まり、ここで降りる。
車を降りるとそこには多くの物売りの人達がいて、車を降りるとほぼ同時に物売りの人達に囲まれる。その中を掻き分ける様にシンさんの後を追う。そして、アーグラ城の濠に架かる橋を進み始める。 -
この橋を歩き始めると物売りの人達も諦めた様で、付いて来なかった。その橋には多くのガイドと思われる人が屯している。シンさんが途中、その内の一人の男性と握手をし、お金を渡している。
これもこのアーグラ城内を観光する為のガイドの人への許可料の様なものである。
アーグラ城は赤砂岩の城で、濠の橋を渡り切ったところに入口門がある。
それを潜ると、また少し先に装飾が施された大きな門がある。この門がアマル・スィン門と言う門で、このアマル・スィンとはラージプート族の英雄(将軍)で、この人に因んで造られた門なのだと言う。 -
その門を潜ると、スロープの道が真っ直ぐ城内に続いている。この両側の壁は少し傷みが激しく、また酸性雨に晒された為か壁の所々が白化している。
そのスロープを上り切ると、また小さな門があり、それを潜り、右手に進む。すると大きな庭園に出る。 -
その庭園の先に大きな宮殿の様な建物が見える。この建物がジャハンギール宮殿で、この宮殿はアクバル帝が息子の為に造ったと言われる2階建ての宮殿である。その宮殿に向かい、歩き始める。
ここで、シンさんが立ち止り、このアーグラ城の説明を始める。その説明は以下の様な内容である。
アーグラ城はヤムナー河岸に造られた城で、アクバル帝により1565年の着工から8年の歳月を掛けて建てられた。ムガル帝国の権力と繁栄の象徴の一つである。その後も歴代の皇帝が新しい建物を建てた。
その建物は白大理石を用いた洒落た建物など、それぞれの美意識を競う様に建てられ、まさにモニュメントの博物館である。 -
このアーグラ城もデリーのラール・キラーと同様にレッド・フォートと呼ばれている。
この様な説明を受け、再びシャハンギール宮殿に向かう。その前まで来ると、そこには大きな石の造形物が柵に囲まれて置かれている。シンさんによると、これはお風呂なのだと言う。
柵越しにその内部が少し見えるが、その内壁に階段の様なものが造られている。それにしても大きな湯船である。何人入れるのであろうか?または皇帝が一人で入る為に使われたものなのであろうか? -
その後、シャハンギール宮殿内には入らず、そこから左手に進み、シャハンギール宮殿から延びる回廊を抜けると、そこはまた大きな庭園を中央に配した場所に出た。
この場所は、カース・マハルと呼ばれる場所で、シャー・ジャハーンが造ったと言われる場所で、主に絵を描く部屋や寝所として利用されたと言われているそうだ。
この中央の庭園を囲む様に回廊があり、その回廊の途中に幾つもの建物がある。その中央の建物まで歩くと、そこには白大理石で造られたお風呂の様なものがある。
これがロイヤル・ハンマームと呼ばれているお風呂である。
この辺りがディワーネ・カース(貴賓謁見の間)と呼ばれる場所で、この正面の建物内には宝石を嵌め込んだ壁で囲まれた部屋もある。 -
その先にシャー・ジャハーンの幽閉されていた場所がある。
その場所は、ムサンマン・ブルジュと呼ばれている場所で、別名『囚われの塔』と言われる。シャハンギールにより造られ、シャー・ジャハーンが改装したと言われている。
その場所内には入れないが、その手前からでも、ヤムナー河沿いに建つタージ・マハルがかすんだ様に見えている。シャー・ジャハーンは晩年、息子のアウラングゼーブ帝にこの場所に幽閉され、74歳の生涯を終えた。ムガル帝国において、タージ・マハルなど建築・造詣に深かった皇帝であった。
シャー・ジャハーンはここからどの様な想いで、タージ・マハルを眺めていたのであろうか?
その後、回廊を抜け、今度はディワーネ・アーム(一般謁見の間)と呼ばれる場所に行く。 -
その途中で、ちょっとした見せ物があった。
回廊の脇の木々の下で、一人のおじさんが地面に向かい、何かを行っている。
良く見ると、リスに餌をやっている。何匹ものリスがそのおじさんの周りに集まり、おじさんに餌を貰っているのである。私がそれに興味を示していると、シンさんが、「リスに餌をあげてみますか?」と言う。
私が、「餌やりが出来るのですか?」と聞くと、「リスを手の上に乗せる事もできますよ!」と教えてくれる。
「しかし、お金が少し要りますが?」と付け加える。そのおじさんはこれで商売をしているのである。
そのおじさんにシンさんが話し掛け、餌やりを行いたい旨を伝える。
おじさんが私に手を出す様に言い、手の平に餌を乗せる。すると、その餌に釣られ、手の平にリスが乗る。
意外にもリスは人を怖がる事もなく、素直に手に上に乗って来た。それをシンさんが写真を撮ってくれる。
シンさんが何枚か写真を撮ってくれた後、お礼としておじさんに20Rs(約36円)を渡す。
再び、ディワーネ・アームに向かう。このディワーネ・アームは、創建当初はアクバル帝により赤砂岩で造られていた。後にシャー・ジャハーンにより白大理石の繊細な細工を施された建物に改装された。 -
そのディワーネ・アームで、アーグラ城の見学が終了し、入って来たアマル・スィン門に向かう。
ディワーネ・アームの前の広場を取り巻く回廊の一画に門があり、その門を抜ける。
その門の先にはまた、居住区の様な場所があり、その一画を抜けると、行きに上ったスロープの道に出る。
それを下り、アマル・スィン門を出る。これでアーグラ城を出るが、このアーグラ城の見所としては、他にデリー門やハッチ・ポール(象門)などがあるが、そこには行かない様だ。
デリー門はこのアーグラ城の西門であるが、現在は閉鎖されているそうだ。
アマル・スィン門を抜け、濠を渡り、その前で再びサンジェさんの車に乗り込む。この辺りはアーグラ城の唯一の入口である為か、非常に多くの観光客が屯している。時刻は11時35分過ぎである。
ここから昼食かと考えていたら、シンさんが、「昼食の前に一軒土産物屋に寄ります。大理石の工房に立寄ります。」と言う。旅行日程表にも大理石工房に立寄る事は載っていた。 -
<大理石工房と昼食>
車は再び、アーグラ市街を走り、アーグラ城などのヤムナー河沿いの地域から離れ、街中に入る。
15分程で、2階建ての建物前に到着する。ここが大理石工房である。
その前で車を降り、その工房内に入る。入ったところがロビーで、その右手奥には工房が見えている。
時刻は11時50分である。
シンさんと共に工房の人に案内されて、まずはその右手の工房内に移動する。その前で大理石の工房の説明を受ける。ここはタージ・マハルなどで見た大理石の装飾などを継承する工房の一つなのだそうだ。
白大理石や黒大理石等いくつかの大理石や宝石類を組み合わせ、装飾品を造る事を行っている。
大理石の基材に図柄を彫り、その彫ったところに合う様に様々な宝石類を薄く、形に合う様に加工し、はめ込んでいる。非常に繊細な作業である。その後、そこから奥の土産物の展示室内に移動する。
数人の日本人観光客が既に展示されている土産物を見ている。 -
私も棚やショーケースに展示されている大理石の工芸品類を見るが、表示されている値札を見れば、買える様な額ではない。殆どのものが日本円で数万円もするものである。
それでも店員が熱心に色々なものを勧める。あまりに高価なものが多いので、ここでは何も買うつもりが無かったが、小物でも購入する事にした。丁度、コースターなどがあったので、それを見せて貰う事にした。
数点のコースターを見せて貰う。薄い白大理石の丸い板状に加工し、箔状の宝石を埋め込み、絵を描いている。そして、それが何枚かセットで、大理石の器に入っている。
これが1セットで、6,000Rs(約10,800円)である。ディスカウントしてくれる様に言うが、それでも5,500Rs(約9,900円)にしかならない。
もう少しディスカウントして欲しいと言うと、もう1セット購入してくれるのであれば、1セット5,000Rs(約9,000円)で良いとの事であったので、その条件でもう1セット図柄の違うものを購入する事にした。
その後も象の置物や皿状の大理石に装飾を施したものなどを執拗に勧められる。
もうこれ以上は購入するつもりは無かったが、皿状の置物は興味があった。図柄がタージ・マハルだからである。それも黒大理石に宝石を嵌め込み、タージ・マハルを描いたものが綺麗である。
大きさは幾つか種類があるが、価格もピン切りである。中くらいの大きさのものが欲しかったが、交渉してもあまりディスカウントしてくれそうに無かったので、仕方なく一番小さなものにする事にした。
それでも価格は14,000Rs(約25,200円)である。それから交渉を続け、一旦は購入を諦めたが、最後にもう一度交渉し、11,000Rs(約19,800円)なら購入する旨で言うが、難しい様である。
店員が、支配人に聞いて来るとの事で、少し待っていた。
すると、11,000Rs(約19,800円)で購入出来る様になった。
これらの商品を持ち運びの際に壊れない様に頑丈に包装を行って貰い、代金をカードで支払い、この工房をあとにする。時刻は12時25分頃である。
工房を出て、これから昼食である。再び、サンジェさんの車に乗り込む。シンさんによれば、昼食場所はここから然程遠くないとの事である。 -
シンさんの言う通りで、車が走り始めて、5分も経たない内にあるレストランの前の駐車場に車が入る。
ここが今日の昼食場所である。レストランには“タージ・マハル”の看板が掲げられている。
シンさんとサンジェさんと共にレストランに入る。今日はサンジェさんも一緒に食事をするのかと思っていたが、サンジェさんは別のテーブルで食事を行う様で、シンさんと私は店員に案内されて、レストランの中央付近のテーブルに案内される。レストランは丁度、昼時でほぼ満席状態である。 -
席について、まずは飲物として、ここでもマンゴーラッシーを注文する。これまでの食事で、飲物としては一番無難なものである。
そして、少しシンさんと話をしながら、料理が出てくるのを待つ。
隣のテーブルでは日本人のビジネスマンであろうか、背広を着た年配の男性が一人で食事をしている。
すると注文したマンゴーラッシーと共に大きな金属性の皿に料理が出て来た。一人一人の皿が出されたので、これに乗っているのが一人分である。出て来た料理は以下の様な内容である。
<平成24年2月25日昼食:北インド料理(タージ・マハル)>
①マトンカレー
②チキンカレー
③じゃがいもと野菜のカレー
④チーズカレー
⑤豆と人参、カリフラワーのカレー
⑥豆カレー
⑦グリーンピースご飯
⑧豆ととうもろこしのナン、パパル、チャパティ
⑨マンゴーラッシー(別注)
⑩チャイ
小さな器に6種類のカレーが出て来た。
チキンカレーは激辛であるが、それ以外は言う程辛くなく、チーズカレーは非常にマイルドなカレーである。ナンは、小麦粉のナンではなく、とうもろこしをベースにしたナンなのだとシンさんが教えてくれた。また、パパルは小麦の全粒粉で作られた薄焼のパンである。 -
そして、最後に口直しにフェンネルと角砂糖が出され、それを少し食べながら、チャイを飲む。
フェンネルとは、爽やかな甘みのある種で、消化を助けるものである。
チャイは非常に熱く、飲むのに少し時間が掛かった。それでも食事に然程時間を取らず、終了した。
時刻は13時過ぎである。 -
<民芸品店とデリーへの道程>
これでアーグラからデリーの空港に向かうのかと思ったら、車に乗る前にシンさんが、「もう1軒、このアーグラで民芸品店に寄ってからデリーの空港に向かいます。」と言う。
車に乗り込み、また数分でその民芸店に到着した。民芸品店と言っても近代的な平屋の店舗である。
その店の前で車が止まり、シンさんと共に降りる。
店内に入ると他に客はいない。店内には中学生くらいの男の子と小さな女の子と男の子、そして女性の人がいた。家族で経営をしている様である。
そして、品物を熱心に勧めるのは、中学生くらいの男の子で、少し日本語が判るのか、私が日本語でシンさんに向かい言った事でも、シンさんが何か言う前にその商品が置かれた場所に案内してくれる。
今迄、殆ど小物の土産物を買っていなかったので、ここで小物ばかりを物色し、マグネットやキーホールダーなど、結局日本円で1万円分購入した。
特にマグネットは少し高かったが、大理石のものを購入した。インドルピーが残っていなかったので、日本円で支払いを行い、最後におまけでもう一つキーホルダーを貰い、店を出る。時刻は13時25分過ぎである。
これで今日の予定はすべて終了し、ここから空港を目指し、デリーまでの移動である。
車に乗り込み、民芸品店を後にする。アーグラ市街を抜け、郊外へ向かい車は走る。シンさんとサンジェさんが話をしている。どれくらい時間が掛かるのかを確認している様である。
話が終わり、私に向かい、シンさんが、「これから空港まで5時間以上掛かると思われます。デリー近郊で渋滞している可能性が高いので、申し訳ありませんが2日目に行く予定にしていました紅茶店も行けない可能性が高いです。」と言う。私が、「行けないのであれば仕方がありませんので、判断は任せます。」と告げる。
シンさんが、「途中に休憩を取りますが、そこで少しは土産物を買う事が出来ます。」と教えてくれる。
その様な話をしていると、既に車はアーグラ郊外に出たのか、建物も少なくなり、田園が見えて来た。
道路もデリーに向かう高速道路に入った様だ。この辺りはまだ車の数もあまり多くはなく、渋滞もしていない。
車は並木の続く高速道路を順調に進む。そして、アーグラを出発して、既に30分以上が経過している。
しかし、本当に変化のない景色が続く、田園地帯に入ると、遠くまで田園地帯の景色が拡がる。
少し昼を過ぎて、雲が多くなってきたのか、日差しが遮られる時が多くなり、暑さも少し和らいだ感じである。天気が良ければ、最も暑い時間帯ではあるが?
すると、1時間くらい走った頃に、高速道路の車が少し多くなって来た。また、大きなトラックやバスなども多くなっている。ここで再び、シンさんとサンジェさんが何やら相談をしている。
そして、シンさんが私に向かい、「やはりデリーへの車が多くなって来ていますので、高速道路は渋滞している可能性が高いですので、この先から道を変えて、少し距離的には遠回りにはなりますが、渋滞している可能性が低いルートでデリーに向かいます。宜しいですか?」と聞いて来る。
私が、「ルートは任せます。」と言い、その事をサンジェさんにシンさんが告げる。
この会話をしてから、30分程走ったところで、シンさんが、「ここから高速道路から逸れ、道を変えてデリーに向かいます。」と言い、車が高速道路から外れ、一般道路に出る。高速道路から出たところは丁度村で、道路脇には、多くの店が並び、その前には多くの車が止まっている。時刻は15時を回っている。
その村を抜け、再び田園地帯を走り始める。そして、シンさんが、「この先で休憩を取る予定です。後30分くらいで到着する予定です。」と言う。
それから、高速道路と然程変わらない様な道を30分弱走り、車はその道から外れ、田園地帯の中の道路を少し走ると、その道沿いにある大きな駐車場に入る。その駐車場脇にホテルの様な建物が建っている。
見ると、駐車場脇に看板があり、そこには“ラジャスタンホテル”と書かれている。ここが休憩場所である。
まず、全員がトイレに行き、その後ホテル内に入る。
ホテル内の1階奥には大きなレストランがあり、ここで喫茶が出来る。
シンさんと私は、ここでチャイを飲む事にした。ホテル内は冷房が効いており、非常に涼しい。
その中で、チャイを飲む。チャイを飲み終え、レストランを出る時にチャイ代として、150Rs(約270円)の支払いを行い、その後、ホテル1階部分にある土産物店に立寄る。
ホテルの土産物店にしては大きな土産物店で、様々な民芸品から紅茶、本類なども置いてある。
シンさんのお勧めは、本類である。ここで、カーマスートラの本を2冊購入する。合計で180Rs(約325円)である。紅茶は結局、購入しなかった。
そして、これで休憩を終了し、車に戻り、サンジェさんと合流する。
少し駐車場で車に乗らず、話をした後、車に乗り込み、出発する。まだ、デリーまでは3時間くらい掛かる予定である。時刻は16時前である。
車は再び、田園地帯から一般道に戻り、デリーを目指す。
今のところ、車の数も然程多くなく、順調に走っている。
シンさんが突然、「この辺りの少し先が私の住んでいる村がある場所です。ここからだと10分程のところです。現在は家の改修を行っています。もし、今度デリーに来られる事があるのでしたら、是非連絡下さい。家に招待します。」と言ってくれる。
そこで、私が疑問に思い、「こんな田舎で、どの様な手段でデリーの街まで出るのですか?」と聞くと、「村の直ぐ近くを列車が走っていますので、それに乗り、デリーまで出ます。」と教えてくれる。
しかし、30分程走ると、大きな街に差し掛かり、車も多くなり、街中で渋滞に巻き込まれた。これは街に入り、信号が多くなった為か?その街の途中で、道を右に折れる。そして、再びスムースに車が走り始める。
この辺りは2車線の直線道路で、車が渋滞する事はないが、道路にスピード防止の為か、ほぼ一定間隔で、出っ張りが造られ、それを越える際にサンジェさんもスピードを落とす。それでも出っ張りが大きく、大きく弾む様に車が揺れる。
また、この辺りは工場が多い様で、大きな建物が多い。大きな煙突も見えているので、この辺りもレンガ工場が多い様だ。この辺りはデリーの郊外で、デリーまでは、あと50km程のところだとシンさんが教えてくれる。時刻は17時を過ぎた。
しかし、ここから前方に大きなマンション群が見え始め、車が急に多くなり、徐々に道が渋滞して来た。
この辺りはグルガウンと言う街で、最近はデリーのベッドタウンとなっている街だそうだ。しかし、この辺りに見えているマンション群は高級マンションで、かなりの富裕層でないと購入が出来ないものばかりだと言う。
マンション群の辺りまで来ると、車は渋滞に巻き込まれる。ここからデリーまでは渋滞している様である。
シンさんによれば、まだ、空港までは1時間くらいは掛かるとの事である。
やっと、この渋滞する街を抜け、ここから再び、デリーへの高速道路に乗る。
高速道路に乗った時は車線も増え、順調に進んでいたが、途中の料金所のところで再び大渋滞に巻き込まれ、この料金所を抜けるのにまた15分以上を要した。
料金所を抜けると再び順調に車は走り、ここからインディラ・ガンジー国際空港までは順調に進んだ。
それでもインディラ・ガンジー国際空港のターミナル前に到着したのは、18時40分過ぎであった。
結局、アーグラの民芸品店を出てから、約5時間以上を要した。 -
<インディラ・ガンジー国際空港で>
ここでサンジェさんとはお別れである。お礼に何かしたいと考え、思いついたのは記念に日本の硬貨を一揃いあげる事が出来ないかと言う事である。
財布の中を見ると、丁度、各硬貨は1枚ずつあるので、それをシンさんに説明して貰い、サンジェさんに手渡す。サンジェさんは歯に噛む様に笑ったが、然程嬉しくはない様であった。
それでも最後にしっかりと握手をし、ターミナル内へと移動する。
空港ターミナル内は然程、利用客が多くない。
モニターなどで確認すると私の乗る便のチェックインはまだ始まっていない様だ。しかし、エア・インディアのカウンターに行くと既に長い列が出来ている。
その列の一つにシンさんと共に並び、チェックインが始まるのを待つ事になった。
この間に荷物の整理を行う。今日も途中でかなり土産物を購入した。特に重い、大理石の置物などを購入したので、その様な重いものは出来る限り旅行カバンに詰めたい。
その土産物類を旅行カバンに詰め、再び列に並ぶ。そして19時20分頃になって、やっとチェックインが開始される。チェックインはスムースに進み、15分程で順番になり、旅行カバンを預ける。
これで身軽になる。そして、出国口まで行き、ここでシンさんとお別れである。シンさんに握手をしながら、お礼を言い、出国口を入る。
まずは出国審査である。この列に並んでいると係員が巡回しており、何やら私に対し、言っている。
何か問題がある様で、出国審査の端の方を指さしている。
何を言っているのか、判らなかったが、後に並んでいた日本人の男性が、「手荷物にタグを付けて貰う様に言っている様だ」と教えてくれる。
その人も私と同じ事を係員に言われている。その人に付いて、出国審査の端に行くと、小さなデスクがあり、そこにエア・インディアの看板が出ており、係員が一人立っている。
その係員にタグを要求し、下げていたショルダーバックとリュックにタグを付けて貰う。
その親切な日本人の男性に礼を言い、再び出国審査の列に並ぶ。
出国審査の列は比較的スムースに進み、10分も掛からないで何事もなく、通過出来た。
次は手荷物検査である。先程、出国審査で列が出来ているので、ここには殆ど列は出来ていない。
しかし、X線での荷物検査機械の調子が悪いのか、同じ荷物を何回か通して検査をしている。その為に少し待たされ、時間を要したが、それでも10分程でこの手荷物検査のエリアを抜ける。 -
これで出発ロビーに出たので、あとは出発時間を待つだけである。搭乗予定時刻は22時30分である。
丁度、出発ロビーに出たところに大きなお釈迦様の頭部のモニュメントが通路の中央に置かれている。
さすが、仏教発祥の国である。その下で、地べたに座り、寛ぐ人達も居た。
搭乗ゲートは20番ゲートである。便名はA1314便である。まずはそのゲートの位置を確認する為に、その場所まで行く事にした。 -
その20番ゲートを確認し、再び出発ロビー中央部分に戻り、フードコートを散策する。フードコートにはマクドナルドなどの定番の店が並ぶ。しかし、考えればインドルピーなどが殆ど残っていない。
ここで食事を取るには、インドルピーに両替が必要である。
もう両替をしても、使い道がないので、ここでの食事は諦める事にした。
インドに来て、紅茶をお土産物に買っていない。免税店ならカードが使用出来る。そこで免税店に立寄る事にした。紅茶を売っている店は多く、どこでも購入が出来る。最も近い、免税店で、紅茶を物色する。
丁度、手頃な価格でダージリンなどの有名なお茶を売っている。その幾つかを購入する事にした。
全部で、約20ドル分(約2,000円)購入する。これで最後の土産物である。
フードコートで食事も出来ないので、再び搭乗ゲートに戻る。時刻は20時30分頃である。
まだ、搭乗時間まで2時間はある。 -
トイレなどを済ませ、残りのインドルピーで飲料水を10Rs(約18円)で購入し、ゲート近くの椅子に座り、時間を潰す。しかし、既に搭乗の為に多くの客がこのゲート周辺に集まっている。
時間があるので、少し椅子で寝る事にした。疲れているせいか、直ぐに寝てしまう。
そして、目が覚めたのは、1時間くらい経った頃で、既にゲートにはエア・インディアの係員が出発の準備を始めている。
時刻は21時45分頃である。しかし、まだアナウンスなどはない。
更に15分が経った頃に、アナウンスがあった。聞いていると、全部の内容は判らなかったが、どうも搭乗時間は少し早まる様だ。
既に、このアナウンスを聞いて、待っている客の一部がゲート前に列を作り始める。
そして、22時15分を過ぎた頃に搭乗が開始された。予定よりも15分程早い。 -
<A1314便での空路>
搭乗が開始されたのを見て、その列の最後尾に並ぶ。
そして、通路を通り、機内へ入る。機体は行きに利用した機体と同じB777-300/ERである。
1列に9席で、私の席は24Hで右側の3列の通路側の席である。
しかし、搭乗時間が早まったせいか、乗客の搭乗に少し時間を要している。既に私が席についてから、20分以上が経っているが、まだ全ての乗客の搭乗が終了していない様子である。
結局、全ての乗客が搭乗を終了し、後進を開始し、ターミナルを離れたのが、23時10分頃であった。
そこからまた離陸までに時間を要し、このインディラ・ガンジー国際空港を離陸したのは23時40分前であった。結局、予定より40分遅れの離陸である。
機体は順調に上昇を続け、10分程で水平飛行に入る。
ここから行きと同じく、香港国際空港を経由して、関西国際空港へ向かう。
シートベルト着用のランプも消え、機内にアナウンスが流れる。内容は殆ど判らなかった。
その後、0時を過ぎた頃にCAが慌ただしく、動き始める。日付も変わった。
そして、0時15分頃に飲物を配り始める。
飲物として、オレンジジュースを貰い、おつまみが配られる。それを食べながら、時間を過ごす。
少し経つと、一旦機内が消灯された。時刻は0時30分過ぎである。その為に寝てしまう。
そして、目が覚めると、消えていた照明が何時の間にか点き、既に周りの乗客には機内食も配られている。
私は機内食が配られる間も寝ていた様だ。
時刻は1時30分を過ぎている。それから暫らく機内食を貰えなかったが、1時45分頃に機内食を貰い、食べ始める。ここでの機内食は以下の様な内容である。
<A1314便の機内食:インディラ・ガンジー国際空港~香港国際空港>
①じゃがいもカレー(大きなじゃがいもが入ったペースト状のカレー。少し辛目。)
②チキンライス(細長いタイ米風)
③野菜サラダ(きゅうり/人参/サニーレタス/トマト、イタリアンドレッシング付き)
④ロールパン(バター付き)
⑤デザート(クラブシャムーン:インドの定番のスィーツ)
⑥ヨーグルト(プレーン)
⑦水(ペットボトル:150ml)
⑧飲物(コーラ)
こんな夜中の食事なので、お腹は空いているが、あまり食欲はない。それでも少しは食べる事にした。
半分程食べ、食事を終える。デザートのクラブシャムーンはジャイプールの昼食で食べたものと同じであった。
その後、機内食が片付けられ、暫らくすると再び機内が消灯する。時刻は2時15分過ぎである。
香港国際空港の到着予定時刻は、3時40分頃であるので、まだ1時間以上ある。
そこで、また寝る事にした。程なく、寝てしまい、香港国際空港へ着陸した際の振動で目が覚めた。時刻は3時40分過ぎで、ほぼ予定通りの到着である。
着陸した機体はゆっくりと香港国際空港のターミナルへと移動する。
そして、ターミナル前まで来たところで停止する。インディラ・ガンジー国際空港からこの香港国際空港までの乗客が降りる準備を始める。
関西国際空港まで乗る乗客は、行きの便と同様にこの機内での待機するのである。
香港国際空港までの乗客が全員降りた後で、空港係員が乗り込んで来る。そして、行きの便と同様に機内に残った乗客の荷物の確認と乗客の確認を行い、荷物と服にシールを貼る。 -
時刻は4時30分を過ぎた。すると、もう香港国際空港からの乗客の搭乗が始まった。
その搭乗は非常にスムースで、4時50分頃には乗客全員の搭乗が終了した様である。
機体がゆっくりと後進を始める。
そして、少し時間を要したが、5時15分頃に無事、香港国際空港を離陸する。
これであとは関西国際空港を目指すだけである。順調に上昇を続け、ここでも10分程で水平飛行に入り、シートベルト着用ランプが消える。
水平飛行に入るとCAが慌ただしく動き始める。もう機内食が出るのだろうか?
5時45分頃に機内食を配り始める。少し早い朝食である。そのメニューは以下の様な内容である。
<A1314便の機内食:香港国際空港~関西国際空港>
①オムレツ(マッシュルーム添え)
②フライドポテト
③シークカバブー
④クロワッサン(バター、ジャム添え)
⑤あんずヨーグルト
⑥フルーツ(メロン/ぶどう)
⑦水
⑧飲物(珈琲)
出て来たものは軽食であった。丁度、朝食には良い量である。オムレツも非常に美味しかった。
この機内食を完食し、片付けられると寝る事にした。時刻は6時10分過ぎである。
関西国際空港への到着予定は日本時間で11時50分である。現在はまだインド時間で6時10分過ぎである。日本時間では9時40分過ぎで、あと2時間はある。ひと眠り出来る。
機内は消灯されないが、少し寝る事にした。
寝ようとしたが、なかなか眠れず、結局起きていると、丁度CAが日本の税関申告書を配り始めた。それを貰い、機内では書かず、手荷物受取所で手荷物が出て来るまでの時間で書く事にした。
時刻はもう11時を過ぎた。
既に機体は瀬戸内海上空を飛んでいる。もうあと少しで関西国際空港に到着予定である。
機体が徐々に降下を始め、11時35分に無事、関西国際空港に着陸した。
予定時間よりも15分程早く到着した。機体はゆっくりとターミナルへと移動し、着陸から5分程で停止する。
それから数分で、乗客が機体から下り始める。
今回の旅行はこれで終了。
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