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インド旅行3日目。ジャイプールの世界遺産巡り。

インド旅行記(3日目)

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2012/02/22 - 2012/02/26

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54

パンダ番長

パンダ番長さん

インド旅行3日目。ジャイプールの世界遺産巡り。

旅行の満足度
3.5
観光
4.0
ホテル
2.5
グルメ
3.0
ショッピング
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
10万円 - 15万円

PR

  • <ジャイプールでの朝と朝食><br />6時に持って来た時計の目覚しで起こされる。昨晩は本当にうるさく、寝られなかった。<br />まだ少し眠いが、準備もあるので、早々に顔を洗い、身支度の準備を行う。今日の着替え分を旅行カバンから出し、後のものは旅行カバンに詰め込む。<br />今日の朝食は6時45分からで、昨日の夕食を食べた1階フロント横のレストランで取る。<br />準備を整え、6時40分過ぎに部屋を出て、1階のレストランに向かう。レストランは既に開いており、数人の客がテーブルに座っている。一組は日本人の若い男性で、もう一組は、現地の人達の様である。<br />部屋のキーをレストランのボーイに見せ、空いている席に着く。<br />今日の朝食は、お任せのコースの様だ。バイキング方式ではない。<br />まずはフルーツが皿に乗って出て来た。出て来たフルーツは、マンゴーとパイナップルである。<br />その後、食パンが出て来た。日本の食パンより2回り程小さなものである。<br />それにバターとジャムが添えてある。次にポテトサラダ風のものが出て来た。<br />サラダと言うよりは、コロッケの中に入っている具の様なものである。その具の肉の代わり豆が入っている。それも少し温かいポテトである。<br />そして、カレーである。今日のカレーはじゃがいもとグリーンピースのカレーである。<br />それに揚げたチャパティが2枚付いている。<br /><平成24年2月24日朝食:インド料理(エイベックス・インターコンチネンタル・ホテル内)><br />①フルーツ(マンゴーとパイナップル)<br />②食パン(バターとジャム付き)<br />③ポテト(コロッケの具の様なポテト。肉の代わりに豆が入っている)<br />④じゃがいもとグリーンピースのカレー<br />⑤揚げたチャパティ<br />⑥チャイ<br />    <br />今日のカレーは然程辛くはない。チャパティと一緒に完食する。<br />そして、最後に小さなカップにチャイが出て来た。このチャイがまた激甘である。<br />これで食事を終え、レストランを出る。時刻は7時15分過ぎである。<br />すると既にフロント前にシンさんが来ている。シンさんに朝の挨拶を行い、一旦部屋に戻り、直ぐにフロントに下りて来る事を告げ、急いで部屋に戻る。<br />もう準備をしていたので、部屋に忘れ物がないかを確認し、荷物を持ち、1階に下りる。<br />1階に下り、シンさんと合流し、フロントでチェックアウトを行い、ホテルを出る。<br />既にホテル前にはサンジェさんの車が待っている。時刻は7時25分である。<br />

    <ジャイプールでの朝と朝食>
    6時に持って来た時計の目覚しで起こされる。昨晩は本当にうるさく、寝られなかった。
    まだ少し眠いが、準備もあるので、早々に顔を洗い、身支度の準備を行う。今日の着替え分を旅行カバンから出し、後のものは旅行カバンに詰め込む。
    今日の朝食は6時45分からで、昨日の夕食を食べた1階フロント横のレストランで取る。
    準備を整え、6時40分過ぎに部屋を出て、1階のレストランに向かう。レストランは既に開いており、数人の客がテーブルに座っている。一組は日本人の若い男性で、もう一組は、現地の人達の様である。
    部屋のキーをレストランのボーイに見せ、空いている席に着く。
    今日の朝食は、お任せのコースの様だ。バイキング方式ではない。
    まずはフルーツが皿に乗って出て来た。出て来たフルーツは、マンゴーとパイナップルである。
    その後、食パンが出て来た。日本の食パンより2回り程小さなものである。
    それにバターとジャムが添えてある。次にポテトサラダ風のものが出て来た。
    サラダと言うよりは、コロッケの中に入っている具の様なものである。その具の肉の代わり豆が入っている。それも少し温かいポテトである。
    そして、カレーである。今日のカレーはじゃがいもとグリーンピースのカレーである。
    それに揚げたチャパティが2枚付いている。
    <平成24年2月24日朝食:インド料理(エイベックス・インターコンチネンタル・ホテル内)>
    ①フルーツ(マンゴーとパイナップル)
    ②食パン(バターとジャム付き)
    ③ポテト(コロッケの具の様なポテト。肉の代わりに豆が入っている)
    ④じゃがいもとグリーンピースのカレー
    ⑤揚げたチャパティ
    ⑥チャイ

    今日のカレーは然程辛くはない。チャパティと一緒に完食する。
    そして、最後に小さなカップにチャイが出て来た。このチャイがまた激甘である。
    これで食事を終え、レストランを出る。時刻は7時15分過ぎである。
    すると既にフロント前にシンさんが来ている。シンさんに朝の挨拶を行い、一旦部屋に戻り、直ぐにフロントに下りて来る事を告げ、急いで部屋に戻る。
    もう準備をしていたので、部屋に忘れ物がないかを確認し、荷物を持ち、1階に下りる。
    1階に下り、シンさんと合流し、フロントでチェックアウトを行い、ホテルを出る。
    既にホテル前にはサンジェさんの車が待っている。時刻は7時25分である。

  • <アンベール城までの道程とアンベール城観光><br />サンジェさんに朝の挨拶を行い、車に乗り込む。シンさんも乗り込み、車が走り出す。<br />車が走り出すと、シンさんが今日の予定を話し始める。今日最初の観光地はジャイプール郊外にある、アンベール城である。シンさんによると30分程掛かる予定との事である。<br />車はジャイプール郊外への道を走り始め、徐々に家々も少なくなり、郊外の山間の道に入る。そこから少し走ると、道の右手に湖らしきものが見えて来る。そして、その湖の中に宮殿の様なものが見えている。<br />丁度、道がその湖脇の来ると、湖内の宮殿が良く見える。<br />ここでシンさんが、この宮殿について説明をしてくれる。その説明は概略以下の様な内容である。<br />この見えている湖はマンセガー湖と言い、ジャイプールの水瓶として利用されている湖で、この湖に浮かぶ宮殿は“水の宮殿(ジャル・マハル)”と言われ、今日の観光スポットの一つである“風の宮殿”を建てたマハラジャ、ジャイ・シン2世により夏の別荘として建てられた宮殿である。<br />この湖は湖深が浅く、降水量が多い夏場は水位が上がり、宮殿は湖面に浮かぶ、優美な姿を見せるが、水位が下がると、水牛が行き来出来る程になるそうだ。<br />また、この宮殿は非常に傷みが酷く、現在は立ち入り禁止になっていると言う。一時はこの宮殿を利用したホテルの計画もあったが、湖の水質汚染が酷く、悪臭が酷いと言う。<br />マハラジャが使用していた当時から虫や蛇などの害虫なども多く、殆ど使われる事が無かったと言う。<br />この湖の辺りが丁度、ジャイプールの旧市街(ホテルのある辺り)とアンベール城との中間地点に当たるそうだ。この湖を過ぎると道は山間の峠に差し掛かる。<br />この辺りから古い城壁の様な址や道にレンガ造りの門が現れたりと要塞的な雰囲気が出て来る。<br />ここでシンさんが、マハラジャとスルタンの違いについて、教えてくれる。<br />マハラジャとは日本語では、“大王”に辺り、インドでは通常は“ラジャ”と言うのが日本語の“王”に当たるそうだ。インドでの“マハ”は“偉大なるとか、大いなる”と言う意味なのだそうだ。<br />そして、この“ラジャ”はヒンドゥー教徒の王である。<br />また、スルタンは、イスラム教徒の王で、イスラム教世界における君主号のひとつである。<br />アラビア語で“権力者”や“権威”を意味する言葉である。<br />インドでは、この二つの王の称号が使用されていると言う。<br />この話の間にも、城壁の様な址が所々に見えている。すると谷間の道から正面の山の中腹に城塞の様な城が見えて来た。その城がアンベール城である。<br />

    <アンベール城までの道程とアンベール城観光>
    サンジェさんに朝の挨拶を行い、車に乗り込む。シンさんも乗り込み、車が走り出す。
    車が走り出すと、シンさんが今日の予定を話し始める。今日最初の観光地はジャイプール郊外にある、アンベール城である。シンさんによると30分程掛かる予定との事である。
    車はジャイプール郊外への道を走り始め、徐々に家々も少なくなり、郊外の山間の道に入る。そこから少し走ると、道の右手に湖らしきものが見えて来る。そして、その湖の中に宮殿の様なものが見えている。
    丁度、道がその湖脇の来ると、湖内の宮殿が良く見える。
    ここでシンさんが、この宮殿について説明をしてくれる。その説明は概略以下の様な内容である。
    この見えている湖はマンセガー湖と言い、ジャイプールの水瓶として利用されている湖で、この湖に浮かぶ宮殿は“水の宮殿(ジャル・マハル)”と言われ、今日の観光スポットの一つである“風の宮殿”を建てたマハラジャ、ジャイ・シン2世により夏の別荘として建てられた宮殿である。
    この湖は湖深が浅く、降水量が多い夏場は水位が上がり、宮殿は湖面に浮かぶ、優美な姿を見せるが、水位が下がると、水牛が行き来出来る程になるそうだ。
    また、この宮殿は非常に傷みが酷く、現在は立ち入り禁止になっていると言う。一時はこの宮殿を利用したホテルの計画もあったが、湖の水質汚染が酷く、悪臭が酷いと言う。
    マハラジャが使用していた当時から虫や蛇などの害虫なども多く、殆ど使われる事が無かったと言う。
    この湖の辺りが丁度、ジャイプールの旧市街(ホテルのある辺り)とアンベール城との中間地点に当たるそうだ。この湖を過ぎると道は山間の峠に差し掛かる。
    この辺りから古い城壁の様な址や道にレンガ造りの門が現れたりと要塞的な雰囲気が出て来る。
    ここでシンさんが、マハラジャとスルタンの違いについて、教えてくれる。
    マハラジャとは日本語では、“大王”に辺り、インドでは通常は“ラジャ”と言うのが日本語の“王”に当たるそうだ。インドでの“マハ”は“偉大なるとか、大いなる”と言う意味なのだそうだ。
    そして、この“ラジャ”はヒンドゥー教徒の王である。
    また、スルタンは、イスラム教徒の王で、イスラム教世界における君主号のひとつである。
    アラビア語で“権力者”や“権威”を意味する言葉である。
    インドでは、この二つの王の称号が使用されていると言う。
    この話の間にも、城壁の様な址が所々に見えている。すると谷間の道から正面の山の中腹に城塞の様な城が見えて来た。その城がアンベール城である。

  • そのお城の麓の街の入口付近で車が止まる。ここで車を降りる。まだ、城まではかなりの距離がある。<br />シンさんと共に車を降りると、シンさんが、「ここからは象に乗り、城まで上がります。象のチケットを購入してきますので、ここで少し待っていて下さい。」と言い、街の方に向かい歩き始める。<br />シンさんが私から離れるのを待っていたかの様に、物売りの男性が数人近づいて来て、様々なものを私に見せ、買ってくれる様にせがむ。<br />簡単な日本語を知っている様で、日本語で、「安いよ!」と言い、物を見せる。<br />何も買うつもりが無かったが、立派な飾りのマハラジャ帽を見せられて、興味がわく、「How much?」と聞くと、1、200Rs(約2、160円)と言うので、「Discount!」と言うと、一声で1,000Rsと言うので、更に「Discount!」と何度か値下げを交渉していると、丁度シンさんが戻って来た。<br />そこで、そのおじさんが、900Rsと言ったので、それでOKを出し、この帽子を買う。<br />他にも、香木の彫り物などを見せられていたが、シンさんが象の乗り場に向かうと言うので、その売り込みを無視していると、その香木の彫り物を売るおじさんがしつこく、象の乗り場まで付いて来る。<br />その間も様々な彫り物を見せ、片言の日本語で価格を叫んでいる。<br />それを無視し、象の乗り場に行く。象の乗り場は少し高い台の様な場所に造られていて、そこから象の背部分に設けられた座席にシンさんと共に乗り込む。乗り込むと直ぐに象が動き出す。<br />象の首の部分には、象使いのおじさんが乗り、象を操り、お城に向かう道を進み始める。<br />象が動き出しても、物売りのおじさんが象に付いて来る。象が思いの外背丈が高い為に、何を言っているのかも良く判らない。しかし、必死に彫り物を下から指し示し、大声で金額を言っている様だ。<br />象の上から、「No Thank You!」と繰り返すが、それでも必死に付いて来て、彫り物を指し示す。<br />もう象はアンベール城への坂道を半分くらい上って来た。<br />ここでシンさんが、「この辺りから写真を撮る人達がいますので、象に乗っている写真が欲しければ頼みますが、どうしますか?」と聞かれ、「1枚いくらですか?」と聞くと、「1枚150Rs(約270円)です。」と言う。<br />そこで、「お願いします。」と言う。<br />この間も、象の下から物売りのおじさんが叫んでいる。<br />終いには、象使いのおじさんにその彫り物を渡し、私に渡す様に言ったのか、その象使いのおじさんから彫り物を渡された。それを見ると、かなりの数の彫り物が入っている。<br />仕方なく、それを購入する事にし、その象使いのおじさんにあるだけのインドルピーを渡す。<br />持っていたインドルピーは3,400Rs(約6,120円)である。<br />それを受け取った物売りのおじさんは、これでは困ると言っている様であるが、私は空になった財布を見せ、「Nothing!」と言うと暫らく、何やら文句を言っていたが、諦めた様で、やっと象から離れた。<br />丁度、物売りのおじさんが去ったところで、今度は写真を撮る若者が象の通り道の塀の上に現れる。<br />我々にポーズを取る様に要求し、何枚かの写真を撮り終えて、その場を離れる。これで本当に写真が撮れたのだろうか?<br />象は坂の曲がり角に到達し、方向を変える。そして再び、坂を上り始める。<br />この辺りには多くの写真を撮る人達が屯している。丁度、お城への道と城壁の間の狭い岩場の上に座り込み、観光客を待っている。<br />その一団の前を過ぎると、前方に大きな門が見えて来る。ここがアンベール城内へ入る門である。<br />象に乗ったままでも余裕でその門を潜る事が出来る大きな程の門である。<br />

    そのお城の麓の街の入口付近で車が止まる。ここで車を降りる。まだ、城まではかなりの距離がある。
    シンさんと共に車を降りると、シンさんが、「ここからは象に乗り、城まで上がります。象のチケットを購入してきますので、ここで少し待っていて下さい。」と言い、街の方に向かい歩き始める。
    シンさんが私から離れるのを待っていたかの様に、物売りの男性が数人近づいて来て、様々なものを私に見せ、買ってくれる様にせがむ。
    簡単な日本語を知っている様で、日本語で、「安いよ!」と言い、物を見せる。
    何も買うつもりが無かったが、立派な飾りのマハラジャ帽を見せられて、興味がわく、「How much?」と聞くと、1、200Rs(約2、160円)と言うので、「Discount!」と言うと、一声で1,000Rsと言うので、更に「Discount!」と何度か値下げを交渉していると、丁度シンさんが戻って来た。
    そこで、そのおじさんが、900Rsと言ったので、それでOKを出し、この帽子を買う。
    他にも、香木の彫り物などを見せられていたが、シンさんが象の乗り場に向かうと言うので、その売り込みを無視していると、その香木の彫り物を売るおじさんがしつこく、象の乗り場まで付いて来る。
    その間も様々な彫り物を見せ、片言の日本語で価格を叫んでいる。
    それを無視し、象の乗り場に行く。象の乗り場は少し高い台の様な場所に造られていて、そこから象の背部分に設けられた座席にシンさんと共に乗り込む。乗り込むと直ぐに象が動き出す。
    象の首の部分には、象使いのおじさんが乗り、象を操り、お城に向かう道を進み始める。
    象が動き出しても、物売りのおじさんが象に付いて来る。象が思いの外背丈が高い為に、何を言っているのかも良く判らない。しかし、必死に彫り物を下から指し示し、大声で金額を言っている様だ。
    象の上から、「No Thank You!」と繰り返すが、それでも必死に付いて来て、彫り物を指し示す。
    もう象はアンベール城への坂道を半分くらい上って来た。
    ここでシンさんが、「この辺りから写真を撮る人達がいますので、象に乗っている写真が欲しければ頼みますが、どうしますか?」と聞かれ、「1枚いくらですか?」と聞くと、「1枚150Rs(約270円)です。」と言う。
    そこで、「お願いします。」と言う。
    この間も、象の下から物売りのおじさんが叫んでいる。
    終いには、象使いのおじさんにその彫り物を渡し、私に渡す様に言ったのか、その象使いのおじさんから彫り物を渡された。それを見ると、かなりの数の彫り物が入っている。
    仕方なく、それを購入する事にし、その象使いのおじさんにあるだけのインドルピーを渡す。
    持っていたインドルピーは3,400Rs(約6,120円)である。
    それを受け取った物売りのおじさんは、これでは困ると言っている様であるが、私は空になった財布を見せ、「Nothing!」と言うと暫らく、何やら文句を言っていたが、諦めた様で、やっと象から離れた。
    丁度、物売りのおじさんが去ったところで、今度は写真を撮る若者が象の通り道の塀の上に現れる。
    我々にポーズを取る様に要求し、何枚かの写真を撮り終えて、その場を離れる。これで本当に写真が撮れたのだろうか?
    象は坂の曲がり角に到達し、方向を変える。そして再び、坂を上り始める。
    この辺りには多くの写真を撮る人達が屯している。丁度、お城への道と城壁の間の狭い岩場の上に座り込み、観光客を待っている。
    その一団の前を過ぎると、前方に大きな門が見えて来る。ここがアンベール城内へ入る門である。
    象に乗ったままでも余裕でその門を潜る事が出来る大きな程の門である。

  • この門を入ると、城内の大きな広場に出る。象はその広場を右手に進み、象が歩く所が決まっているのか、前を歩く象の後に付く様に歩いている。<br />そして、門とは反対側の城壁の上に造られた降り場の様なところまで行き、ここで降りる様である。<br />シンさんが、先に降り、私が降り様とすると、シンさんがそれを制し、「私にカメラを渡して下さい。象に乗っているところを撮りますから!」と言い、シンさんにカメラを渡す。<br />すると象使いのおじさんが、その降り場から少し象を離し、そこでシンさんに向かい、象を向け、制止させる。<br />ここで、シンさんが数枚の写真を撮ってくれ、その後再び、象使いのおじさんが降り場に象を着けてくれ、私が象から降りる。<br />

    この門を入ると、城内の大きな広場に出る。象はその広場を右手に進み、象が歩く所が決まっているのか、前を歩く象の後に付く様に歩いている。
    そして、門とは反対側の城壁の上に造られた降り場の様なところまで行き、ここで降りる様である。
    シンさんが、先に降り、私が降り様とすると、シンさんがそれを制し、「私にカメラを渡して下さい。象に乗っているところを撮りますから!」と言い、シンさんにカメラを渡す。
    すると象使いのおじさんが、その降り場から少し象を離し、そこでシンさんに向かい、象を向け、制止させる。
    ここで、シンさんが数枚の写真を撮ってくれ、その後再び、象使いのおじさんが降り場に象を着けてくれ、私が象から降りる。

  • そして、城壁の上から広場に下り立つ。シンさんが、このアンベール城について簡単な説明を始める。<br />シンさんの説明の概要は、大体以下の様な内容である。<br />アンベール城は、ラジャスターン州ジャイプールの郊外、北東約11kmにある城塞である。<br />元々あった砦を1592年、ムガル帝国アクバル軍の将軍であったラージプート族のラージャー・マン・スィンにより、大規模な築城が始められた。<br />その後、ラージャー・マン・スィンの死後も150年間にわたり、歴代の城主により改築が続けられた。<br />かつては、このお城に登る事が出来たのは、城主など限られた人のみであったが、現在は先程の様に象に乗って、観光客も城のある丘まで登る事が出来る様になった。<br />現在の形に完成をしたのは、1727年である。<br />ここでシンさんからの説明ではないが、これからもたびたび出て来るムガル帝国についての豆知識を書く。<br />ムガル帝国は、1526年からインド南部を除くインド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム王朝である。<br />中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフ・ミールザーを父、チンギス・ハーンの次男チャガタイ・ハーンを祖とするモグーリスタン・ハン家の王女クトルグ・ニガール・ハーニムを母とするテュルク・モンゴル系の遊牧貴族バーブルを始祖とし、彼が現在のアフガニスタンからインドに移って建国した国である。<br />王朝名の「ムガル」とは、モンゴル人を意味するペルシャ語の「ムグール」の短縮した読みであるムグルが、ムガルに転訛したものであると言われている。<br />すなわち、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるが、これは飽くまでも他称である。ムガル帝国では、最後の君主バハードゥル・シャー2世の治世まで、一貫してティムールを始祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティームール・グーラカーン」、すなわち「グーラカーン(チンギス・ハーン家より子女の降嫁を受けたその娘婿であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自らはグルゲンなどと呼んでいた。<br />ちなみにムガル帝国の成立まで、チンギス・ハーン以来モンゴル人によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権は領土的な支配を許していない。<br />ティムールの五代後の直系子孫であるバーブルは、中央アジアのトランスオクシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していたが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年にパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を破り、デリー、アーグラを制圧して、インドにおけるティムール王朝としてムガル朝を建国した。<br />バーブルの死後、後を継いだフマーユーンは、グジャラートに勢力を広げるが、ロディー王朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。<br />フマーユーンは、シンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年にデリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。<br />ムガル朝が真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展したのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだアクバルの治世からである。<br />アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。<br />そのため、アクバルの政府には、シーア派のペルシャ人、アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリム、ラージプート、バラモン層、あるいは、マラータ人までが参画していた。<br />また、ラージプートなどの豪族層を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした。<br />また、アクバルは、イスラム以外の宗教に対しても寛容であったことで知られている。<br />帝都ファテープル・シークリーには、バラモン、ヨーガの行者、ジャイナ教徒、イエズス会士(彼らはゴアに滞在していたポルトガル人である)、ゾロアスター教徒が集まり、議論をさせることを好んだ。<br />さらに、サンスクリットで著述されていたインドにおける二大叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』を翻訳させた。加えて、ムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った。<br />アクバルは、行政改革をも実施した。イスラム王朝の性格が強いムガル帝国であるが、ムガル帝国初期の行政機構は、農業に基盤を置いていた近代アジアにおける諸帝国との共通点が多い。<br />一つは、貴族制を導入したことである。貴族は「マンサブ」と呼ばれる位階が授与された。<br />その位階は、10の単位で表示され、貴族にはその数だけの騎兵を皇帝のために準備することが義務化された。さらに、文官と武官の区別が明確化され、相互にチェックできる仕組みであり、彼らには「ジャギール」と呼ばれる一定の土地の徴税権が割り当てられたが、定期的に割り当てられたジャギールを変える事で、彼らが地方で拠点を確保して帝国に反抗することを阻止した。<br />

    そして、城壁の上から広場に下り立つ。シンさんが、このアンベール城について簡単な説明を始める。
    シンさんの説明の概要は、大体以下の様な内容である。
    アンベール城は、ラジャスターン州ジャイプールの郊外、北東約11kmにある城塞である。
    元々あった砦を1592年、ムガル帝国アクバル軍の将軍であったラージプート族のラージャー・マン・スィンにより、大規模な築城が始められた。
    その後、ラージャー・マン・スィンの死後も150年間にわたり、歴代の城主により改築が続けられた。
    かつては、このお城に登る事が出来たのは、城主など限られた人のみであったが、現在は先程の様に象に乗って、観光客も城のある丘まで登る事が出来る様になった。
    現在の形に完成をしたのは、1727年である。
    ここでシンさんからの説明ではないが、これからもたびたび出て来るムガル帝国についての豆知識を書く。
    ムガル帝国は、1526年からインド南部を除くインド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム王朝である。
    中央アジア出身で、ティムール朝の王族ウマル・シャイフ・ミールザーを父、チンギス・ハーンの次男チャガタイ・ハーンを祖とするモグーリスタン・ハン家の王女クトルグ・ニガール・ハーニムを母とするテュルク・モンゴル系の遊牧貴族バーブルを始祖とし、彼が現在のアフガニスタンからインドに移って建国した国である。
    王朝名の「ムガル」とは、モンゴル人を意味するペルシャ語の「ムグール」の短縮した読みであるムグルが、ムガルに転訛したものであると言われている。
    すなわち、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるが、これは飽くまでも他称である。ムガル帝国では、最後の君主バハードゥル・シャー2世の治世まで、一貫してティムールを始祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティームール・グーラカーン」、すなわち「グーラカーン(チンギス・ハーン家より子女の降嫁を受けたその娘婿であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自らはグルゲンなどと呼んでいた。
    ちなみにムガル帝国の成立まで、チンギス・ハーン以来モンゴル人によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権は領土的な支配を許していない。
    ティムールの五代後の直系子孫であるバーブルは、中央アジアのトランスオクシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していたが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年にパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を破り、デリー、アーグラを制圧して、インドにおけるティムール王朝としてムガル朝を建国した。
    バーブルの死後、後を継いだフマーユーンは、グジャラートに勢力を広げるが、ロディー王朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。
    フマーユーンは、シンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年にデリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。
    ムガル朝が真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展したのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだアクバルの治世からである。
    アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。
    そのため、アクバルの政府には、シーア派のペルシャ人、アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリム、ラージプート、バラモン層、あるいは、マラータ人までが参画していた。
    また、ラージプートなどの豪族層を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした。
    また、アクバルは、イスラム以外の宗教に対しても寛容であったことで知られている。
    帝都ファテープル・シークリーには、バラモン、ヨーガの行者、ジャイナ教徒、イエズス会士(彼らはゴアに滞在していたポルトガル人である)、ゾロアスター教徒が集まり、議論をさせることを好んだ。
    さらに、サンスクリットで著述されていたインドにおける二大叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』を翻訳させた。加えて、ムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った。
    アクバルは、行政改革をも実施した。イスラム王朝の性格が強いムガル帝国であるが、ムガル帝国初期の行政機構は、農業に基盤を置いていた近代アジアにおける諸帝国との共通点が多い。
    一つは、貴族制を導入したことである。貴族は「マンサブ」と呼ばれる位階が授与された。
    その位階は、10の単位で表示され、貴族にはその数だけの騎兵を皇帝のために準備することが義務化された。さらに、文官と武官の区別が明確化され、相互にチェックできる仕組みであり、彼らには「ジャギール」と呼ばれる一定の土地の徴税権が割り当てられたが、定期的に割り当てられたジャギールを変える事で、彼らが地方で拠点を確保して帝国に反抗することを阻止した。

  • アクバルは、東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定した。<br />アクバルの他宗教への寛容性と完成された官僚制は、息子のジャハーンギールに引き継がれた。<br />ムガル帝国は、アクバルの活躍した16世紀後半からジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブに至る17世紀にかけて最盛期を迎えた。<br />だが、領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。<br />ジャハーンギールの時代は、ラージャスターン地方で抵抗していたメーワール王国の征服に着手したが、果たす事が出来ず、その半独立的な地位を認めた。<br />また、カンダハールをサファヴィー朝のアッバース1世に奪取されると有効な対策を採ることが出来なかった。更に、デカン高原方面の進出では、ニザーム・シャーヒー朝の抵抗が続いた。<br />1628年、父ジャハーンギールの死亡により、シャー・ジャハーンが皇帝として即位すると、内紛状態にあったニザーム・シャーヒー朝のダウラターバードを占領することに成功した。<br />1636年には、アーディル・シャーヒー朝と講和を結び、ニザーム・シャーヒー朝の旧領を分割した。<br />だが、デカン高原での前進と比べて、アフガニスタン問題は大きな問題を抱えていた。<br />カンダハールの再攻略に成功したものの、1649年、ムガル帝国による中央アジア遠征の間隙を縫って、サファヴィー朝が再度、カンダハールを攻略した。<br />この事により、カンダハールは、ムガル帝国領から離脱した。<br />デカン高原方面の領域拡大は、第6代皇帝アウラングゼーブの時代に達成された。<br />アウラングゼーブは、1681年からのデカン高原方面への遠征を繰り返し、1686年にはアーディル・シャーヒー朝、1687年には、クトゥブ・シャーヒー朝を滅ぼし、帝国の最大領土を実現した。<br />しかし、強勢を誇ったムガル帝国も18世紀に入ると貴族階層の没落、繁栄を支えた軍事構造の崩壊が起こった。帝国の崩壊の原因は、大きくまとめて3つに要約される。<br />1.新興のザミンダールの台頭。 <br />2.帝国内の小王国の君主たちの離反。 <br />3.地方長官の帝国からの離反。 <br />ザミーンダールとは、地方を拠点とする豪族・部族の長であり、耕作農民を支配していた。17世紀のインドは、経済的には繁栄の時代であり、この時代において、ザミーンダールは富の蓄積を行った。<br />帝国内の小王国とは、ムガル帝国に貢納はしていたが、臣下とはならなかった王国群の事である。<br />その領土は、地理的に険阻あるいは遠隔地であった。次第に、多くの君主が難攻不落の要塞を建設していった。その典型はラージプートである。地方長官はもともと、帝国として行政官に任命された者である。<br />しかし、面従腹背の姿勢を見せる地方長官が出始めた。その典型例は、1724年に宰相・ミール・カマルディンが職を辞し、ハイダラーバードに下野し、帝国軍と戦った事例である。<br />同様の事は、アワド、ベンガルなど肥沃な地方でも起きた。<br />これにより、ハイデラーバードを中心にニザーム・ハン王国が形成された。<br />かつての行政長官は、ナワーブ(太守)と呼ばれるようになった。しかし、彼らは徐々に、ムガル帝国に納税をしなくなり、徴収した税金は私用するようになった。そして、そのまま、地方王朝が建国されていった。<br />1600年、イギリスは東インド会社を設立した。<br />インド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年の事である。西北インドの港スーラトに派遣した。<br />この時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得した。<br />また、1640年には、マドラスの地方領主の招聘を受け、東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のマドラスの貿易において、関税は免除されると同時に、他の会社がマドラスで貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が、支払われるという条件で、インド貿易の橋頭堡を築いた。<br />経済的にも成長したインド商人やヨーロッパ諸国の東インド会社により、ムガル帝国は侵食されて急速に解体していった。<br />1739年にはイランにアフシャール朝を開いたナーディル・シャーによってデリーを占領され、甚大な打撃を蒙る。<br />19世紀に入ると、もはやデリー周辺を支配するのみの小勢力となっていたが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(セポイの乱、第一次インド独立戦争とも言われる)が起こると82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍のシンボルとして担ぎだされるほどの余光を保っていた。<br />1858年、大反乱を鎮圧したイギリスは、バハードゥル・シャー2世を裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。<br />これによりティムール王朝から数えて500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は、350年に渡るインドにおける歴史を閉じた。<br />しかし、歴史上、インド地域を支配した最も有名な帝国として、その名を刻んでいる。<br />再び、アンベール城での話に戻る。<br />象を降り、城内の広場を移動し、広場の奥に建つ建物に向かう。この建物が王宮である。その入口部分には、インドらしいと言うか、ヒンドゥー教の礼拝堂がある。しかし、ここには観光客は入る事が出来ない様だ。<br />

    アクバルは、東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定した。
    アクバルの他宗教への寛容性と完成された官僚制は、息子のジャハーンギールに引き継がれた。
    ムガル帝国は、アクバルの活躍した16世紀後半からジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブに至る17世紀にかけて最盛期を迎えた。
    だが、領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。
    ジャハーンギールの時代は、ラージャスターン地方で抵抗していたメーワール王国の征服に着手したが、果たす事が出来ず、その半独立的な地位を認めた。
    また、カンダハールをサファヴィー朝のアッバース1世に奪取されると有効な対策を採ることが出来なかった。更に、デカン高原方面の進出では、ニザーム・シャーヒー朝の抵抗が続いた。
    1628年、父ジャハーンギールの死亡により、シャー・ジャハーンが皇帝として即位すると、内紛状態にあったニザーム・シャーヒー朝のダウラターバードを占領することに成功した。
    1636年には、アーディル・シャーヒー朝と講和を結び、ニザーム・シャーヒー朝の旧領を分割した。
    だが、デカン高原での前進と比べて、アフガニスタン問題は大きな問題を抱えていた。
    カンダハールの再攻略に成功したものの、1649年、ムガル帝国による中央アジア遠征の間隙を縫って、サファヴィー朝が再度、カンダハールを攻略した。
    この事により、カンダハールは、ムガル帝国領から離脱した。
    デカン高原方面の領域拡大は、第6代皇帝アウラングゼーブの時代に達成された。
    アウラングゼーブは、1681年からのデカン高原方面への遠征を繰り返し、1686年にはアーディル・シャーヒー朝、1687年には、クトゥブ・シャーヒー朝を滅ぼし、帝国の最大領土を実現した。
    しかし、強勢を誇ったムガル帝国も18世紀に入ると貴族階層の没落、繁栄を支えた軍事構造の崩壊が起こった。帝国の崩壊の原因は、大きくまとめて3つに要約される。
    1.新興のザミンダールの台頭。
    2.帝国内の小王国の君主たちの離反。
    3.地方長官の帝国からの離反。
    ザミーンダールとは、地方を拠点とする豪族・部族の長であり、耕作農民を支配していた。17世紀のインドは、経済的には繁栄の時代であり、この時代において、ザミーンダールは富の蓄積を行った。
    帝国内の小王国とは、ムガル帝国に貢納はしていたが、臣下とはならなかった王国群の事である。
    その領土は、地理的に険阻あるいは遠隔地であった。次第に、多くの君主が難攻不落の要塞を建設していった。その典型はラージプートである。地方長官はもともと、帝国として行政官に任命された者である。
    しかし、面従腹背の姿勢を見せる地方長官が出始めた。その典型例は、1724年に宰相・ミール・カマルディンが職を辞し、ハイダラーバードに下野し、帝国軍と戦った事例である。
    同様の事は、アワド、ベンガルなど肥沃な地方でも起きた。
    これにより、ハイデラーバードを中心にニザーム・ハン王国が形成された。
    かつての行政長官は、ナワーブ(太守)と呼ばれるようになった。しかし、彼らは徐々に、ムガル帝国に納税をしなくなり、徴収した税金は私用するようになった。そして、そのまま、地方王朝が建国されていった。
    1600年、イギリスは東インド会社を設立した。
    インド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年の事である。西北インドの港スーラトに派遣した。
    この時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得した。
    また、1640年には、マドラスの地方領主の招聘を受け、東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のマドラスの貿易において、関税は免除されると同時に、他の会社がマドラスで貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が、支払われるという条件で、インド貿易の橋頭堡を築いた。
    経済的にも成長したインド商人やヨーロッパ諸国の東インド会社により、ムガル帝国は侵食されて急速に解体していった。
    1739年にはイランにアフシャール朝を開いたナーディル・シャーによってデリーを占領され、甚大な打撃を蒙る。
    19世紀に入ると、もはやデリー周辺を支配するのみの小勢力となっていたが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(セポイの乱、第一次インド独立戦争とも言われる)が起こると82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍のシンボルとして担ぎだされるほどの余光を保っていた。
    1858年、大反乱を鎮圧したイギリスは、バハードゥル・シャー2世を裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。
    これによりティムール王朝から数えて500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は、350年に渡るインドにおける歴史を閉じた。
    しかし、歴史上、インド地域を支配した最も有名な帝国として、その名を刻んでいる。
    再び、アンベール城での話に戻る。
    象を降り、城内の広場を移動し、広場の奥に建つ建物に向かう。この建物が王宮である。その入口部分には、インドらしいと言うか、ヒンドゥー教の礼拝堂がある。しかし、ここには観光客は入る事が出来ない様だ。

  • シンさんに聞くと、この近くの人達の為の礼拝堂の様である。その礼拝堂の入口のスロープ脇には、大きな大理石の石板の様なものが置かれている。シンさんに聞くと、これは礼拝堂への供物を処理するまな板なのだと言う。ここで料理を行い、礼拝堂に供物を供えるそうだ。

    シンさんに聞くと、この近くの人達の為の礼拝堂の様である。その礼拝堂の入口のスロープ脇には、大きな大理石の石板の様なものが置かれている。シンさんに聞くと、これは礼拝堂への供物を処理するまな板なのだと言う。ここで料理を行い、礼拝堂に供物を供えるそうだ。

  • その脇にある入口から王宮内に入る。ここから階段を上り、王宮内の入口門を潜る。<br />その門の入口には係員の他に、この地の観光ガイドの人が立っており、その人に対し、シンさんがお金を渡している。なぜお金を渡しているのか?と思い、シンさんに聞くと、「インドでは州が変わると観光ガイドが出来ないのです。その為に各州のガイドにお金を渡し、代役をお願いするのです。<br />しかし、これは形式的なもので、実際には私が案内したり、説明したりする事は変わりません。」と言う。<br />要は、観光ガイドの免許はインドでは州を跨いでは通用しない様である。その為に各地でその代役をお願いする事になるが、実際にはその人がガイドを行う訳ではなく、その人が名前を貸すだけの様だ。<br />  <br />その後、門を入ると、先程象を下りた広場より一段高い場所に、また広場がある。<br />

    その脇にある入口から王宮内に入る。ここから階段を上り、王宮内の入口門を潜る。
    その門の入口には係員の他に、この地の観光ガイドの人が立っており、その人に対し、シンさんがお金を渡している。なぜお金を渡しているのか?と思い、シンさんに聞くと、「インドでは州が変わると観光ガイドが出来ないのです。その為に各州のガイドにお金を渡し、代役をお願いするのです。
    しかし、これは形式的なもので、実際には私が案内したり、説明したりする事は変わりません。」と言う。
    要は、観光ガイドの免許はインドでは州を跨いでは通用しない様である。その為に各地でその代役をお願いする事になるが、実際にはその人がガイドを行う訳ではなく、その人が名前を貸すだけの様だ。

    その後、門を入ると、先程象を下りた広場より一段高い場所に、また広場がある。

  • この広場には、大きなテラスの様な建物が正面に見える。ここが、この城の集会場または謁見所の様な場所なのだと言う。<br />そのテラスの建物の前で少し休憩をし、そのテラスの建物の横奥に建つ、王宮の建物の入口に向かう。<br />この王宮の入口壁は多彩な装飾を施され、非常に綺麗である。<br />

    この広場には、大きなテラスの様な建物が正面に見える。ここが、この城の集会場または謁見所の様な場所なのだと言う。
    そのテラスの建物の前で少し休憩をし、そのテラスの建物の横奥に建つ、王宮の建物の入口に向かう。
    この王宮の入口壁は多彩な装飾を施され、非常に綺麗である。

  • シンさんに勧められ、その入口前で記念撮影を行う。<br />    <br />また、入口上にはインドの富財神の一人であるガネーシャが描かれている。また、入口を入ると、天井にも色鮮やかな装飾が施され、また床は大理石のタイルを用いて幾何学模様が描かれている。<br />以外にも王宮内の廊下は狭い。天井も高くないので、圧迫感を感じる。<br />

    シンさんに勧められ、その入口前で記念撮影を行う。

    また、入口上にはインドの富財神の一人であるガネーシャが描かれている。また、入口を入ると、天井にも色鮮やかな装飾が施され、また床は大理石のタイルを用いて幾何学模様が描かれている。
    以外にも王宮内の廊下は狭い。天井も高くないので、圧迫感を感じる。

  • しかし、この王宮内は迷路様に廊下が張り巡らされている。また、所々には階段もあるが、ラセン状の階段などもあり、どこに抜けるのかも判らない。また、廊下の突き当たりの壁には棚の様な窪みが多くある。<br />ここには、神様などが祀られていたのであろうか?しかし、今は何も置かれていない。<br />この王宮内のスロープ状の廊下を少し歩き、上に上がると、また大きな王宮内の広場に出る。<br />ここには、綺麗な装飾で飾られた部屋が見える。<br />ここがこのお城でも有名な部屋で、“勝利の間”と呼ばれている部屋である。<br />この部屋には、多くの鏡が幾何学模様の様に散りばめられている。その為に、この部屋は“鏡の間”とも呼ばれている。このお城の中でも最も有名な部屋である。再び、王宮内の廊下に戻り、更に上に上る。<br />

    しかし、この王宮内は迷路様に廊下が張り巡らされている。また、所々には階段もあるが、ラセン状の階段などもあり、どこに抜けるのかも判らない。また、廊下の突き当たりの壁には棚の様な窪みが多くある。
    ここには、神様などが祀られていたのであろうか?しかし、今は何も置かれていない。
    この王宮内のスロープ状の廊下を少し歩き、上に上がると、また大きな王宮内の広場に出る。
    ここには、綺麗な装飾で飾られた部屋が見える。
    ここがこのお城でも有名な部屋で、“勝利の間”と呼ばれている部屋である。
    この部屋には、多くの鏡が幾何学模様の様に散りばめられている。その為に、この部屋は“鏡の間”とも呼ばれている。このお城の中でも最も有名な部屋である。再び、王宮内の廊下に戻り、更に上に上る。

  • しかし、王宮内の廊下はスロープが多い。シンさんによると、王はこの廊下を輿に乗って移動したそうだ。<br />階段と廊下を使い、徐所に上階に向かう。そして、最終的には、この建物の屋上に出た。<br />ここが、このお城で最も高いところである。その突端部分には望楼の様なものがある。<br />

    しかし、王宮内の廊下はスロープが多い。シンさんによると、王はこの廊下を輿に乗って移動したそうだ。
    階段と廊下を使い、徐所に上階に向かう。そして、最終的には、この建物の屋上に出た。
    ここが、このお城で最も高いところである。その突端部分には望楼の様なものがある。

  • そこに行くと、非常に眺めが良い。丁度、下にはこのお城に象に乗り、上って来た道やその脇の湖の中に建つ宮殿の一部が良く見える。また、遠くを見ると、小さな谷合の中には小さな町も見えている。<br />ここから見ると、このお城が本当に要塞の様に聳え立つものである事が良く判る。<br />この望楼から中央部に戻ると、綺麗な大理石の格子窓が見える。<br />

    そこに行くと、非常に眺めが良い。丁度、下にはこのお城に象に乗り、上って来た道やその脇の湖の中に建つ宮殿の一部が良く見える。また、遠くを見ると、小さな谷合の中には小さな町も見えている。
    ここから見ると、このお城が本当に要塞の様に聳え立つものである事が良く判る。
    この望楼から中央部に戻ると、綺麗な大理石の格子窓が見える。

  • シンさんによると、王族の女性達がこの格子窓から眼下で集会を行う人達や来客の人達を見ていたのであると言う。この格子窓の模様がまたユニークである。インド風の様でもあり、イスラム風の様でもある。<br />ここからはこのアンベール城の更に山の上に建つジャイガル要塞がよく見える。<br />シンさんによると、このジャイガル要塞へは、ここから4WDで30分程掛かると言う。<br />このジャイガル要塞は、1036年に建てられた要塞で、今いるアンベール城が完成するまでマハラジャが住んでいた。<br />また、一度も陥落されなかった要塞でもあり、非常に保存状態が良いと言う。<br />

    シンさんによると、王族の女性達がこの格子窓から眼下で集会を行う人達や来客の人達を見ていたのであると言う。この格子窓の模様がまたユニークである。インド風の様でもあり、イスラム風の様でもある。
    ここからはこのアンベール城の更に山の上に建つジャイガル要塞がよく見える。
    シンさんによると、このジャイガル要塞へは、ここから4WDで30分程掛かると言う。
    このジャイガル要塞は、1036年に建てられた要塞で、今いるアンベール城が完成するまでマハラジャが住んでいた。
    また、一度も陥落されなかった要塞でもあり、非常に保存状態が良いと言う。

  • ここから更に奥に進み、そこから再び王宮内の廊下に戻り、今度は下に下りる。<br />その途中では、この王宮内で働く召使達の部屋が並ぶエリアが見える。<br />

    ここから更に奥に進み、そこから再び王宮内の廊下に戻り、今度は下に下りる。
    その途中では、この王宮内で働く召使達の部屋が並ぶエリアが見える。

  • 再び、先程の鏡の間のあるエリアに出る。その鏡の間とは庭園を挟んだ反対側に出る。<br />  <br />この辺りも鏡の間と同様に細かな装飾を施した廊下と部屋が並んでいる。<br />  <br />また、この部屋には水が巡り、最後には庭園に水が注ぐ様になっている。この部屋群は“歓喜の間”と呼ばれている。水を巡らす事でクーラー代わりにしていたのである。暑いところならではの施設である。<br />この部屋の前を抜け、更に王宮の奥に進む。<br />この辺りの部屋は王宮で働く人達の部屋も並ぶ。そこを抜けると、再び大きな広場に出る。<br />ここはサナーナー・マハルと言われ、所謂ハーレムである。<br />ここでシンさんが真っ先に説明をしてくれたのが、この広間の壁沿いの柱飾りの間に描かれた数々の絵である。その絵は王宮の奥域である為か、王侯の生活を現したものやカーマスートラなどのSEXシーンなどを描いたものなどがある。<br />

    再び、先程の鏡の間のあるエリアに出る。その鏡の間とは庭園を挟んだ反対側に出る。

    この辺りも鏡の間と同様に細かな装飾を施した廊下と部屋が並んでいる。

    また、この部屋には水が巡り、最後には庭園に水が注ぐ様になっている。この部屋群は“歓喜の間”と呼ばれている。水を巡らす事でクーラー代わりにしていたのである。暑いところならではの施設である。
    この部屋の前を抜け、更に王宮の奥に進む。
    この辺りの部屋は王宮で働く人達の部屋も並ぶ。そこを抜けると、再び大きな広場に出る。
    ここはサナーナー・マハルと言われ、所謂ハーレムである。
    ここでシンさんが真っ先に説明をしてくれたのが、この広間の壁沿いの柱飾りの間に描かれた数々の絵である。その絵は王宮の奥域である為か、王侯の生活を現したものやカーマスートラなどのSEXシーンなどを描いたものなどがある。

  • また、この広場にはお風呂の跡もある。中央には大きな休憩場所の様なところも造られている。<br />    <br />この休憩場所の様な場所まで来ると、シンさんがまた小指を立て、トイレに行くサインを送る。<br />私は、この休憩場所の様なところで待つ事にする。ここにも数組の観光客がいるが、全て日本人の観光客の様である。<br />暫らく、ここで休憩をし、シンさんが戻ると、ここから引き返す。<br />  <br />この広場から今度は使用人達の住居地区の下の廊下を抜け、入口に向かう。途中、料理に使われたと思われる大きな鉄鍋が置かれていたり、また蛇使いの人がいたりする。<br />蛇使いなどはテレビで見た事が無かったが、本当に路上でこの様な芸を見せているのを見るのは、始めてである。しかし、残念な事に写真は撮らせてくれない様である。<br />シンさんによると、写真を撮ると、お金を要求されるそうだ。その前を過ぎ、この城の外回りに造られた道路に出る。<br />ここで先程、この城に象で上がった際に撮って貰った写真が出来上がって来たらしく、シンさんに男の人が近づき、写真を渡し、お金を支払っている様である。ここから車が止まる駐車場に戻る。<br />その途中でまた、土産物売りの人達に捕まる。その人達に付きまとわれながら、駐車場に向かうが、どうしてもその土産物の中の写真が欲しくなり、それだけ購入する事にした。<br />しかし、先程の象に乗っていた時に売りつけられた置物代で全てRsを使い切っていた為に、シンさんに借りてこの写真を550Rs(約990円)で購入する。その後もしつこく、他の物を売り付けてきたが、車に乗り込んだところで、その状況からやっと解放された。<br />

    また、この広場にはお風呂の跡もある。中央には大きな休憩場所の様なところも造られている。

    この休憩場所の様な場所まで来ると、シンさんがまた小指を立て、トイレに行くサインを送る。
    私は、この休憩場所の様なところで待つ事にする。ここにも数組の観光客がいるが、全て日本人の観光客の様である。
    暫らく、ここで休憩をし、シンさんが戻ると、ここから引き返す。

    この広場から今度は使用人達の住居地区の下の廊下を抜け、入口に向かう。途中、料理に使われたと思われる大きな鉄鍋が置かれていたり、また蛇使いの人がいたりする。
    蛇使いなどはテレビで見た事が無かったが、本当に路上でこの様な芸を見せているのを見るのは、始めてである。しかし、残念な事に写真は撮らせてくれない様である。
    シンさんによると、写真を撮ると、お金を要求されるそうだ。その前を過ぎ、この城の外回りに造られた道路に出る。
    ここで先程、この城に象で上がった際に撮って貰った写真が出来上がって来たらしく、シンさんに男の人が近づき、写真を渡し、お金を支払っている様である。ここから車が止まる駐車場に戻る。
    その途中でまた、土産物売りの人達に捕まる。その人達に付きまとわれながら、駐車場に向かうが、どうしてもその土産物の中の写真が欲しくなり、それだけ購入する事にした。
    しかし、先程の象に乗っていた時に売りつけられた置物代で全てRsを使い切っていた為に、シンさんに借りてこの写真を550Rs(約990円)で購入する。その後もしつこく、他の物を売り付けてきたが、車に乗り込んだところで、その状況からやっと解放された。

  • <ジャイプール市街と風の宮殿><br />これでアンベール城を後にし、再びジャイプール市街に戻る。<br />途中、行きでも通った道ではあるが、注意深く見ていると、そこかしこにこの城の城壁らしきものが不完全ながら残っている。この城が本当に地形を利用した天然の要塞であった事がこれらの遺構を見ても良く判る。<br />そして、再び水の宮殿前を過ぎ、ジャイプール市街に入る。このジャイプールはデリーと違い、然程大きな建物もない。暫らく市街を走ると、次の観光地である風の宮殿が見えて来た。<br />  <br />その風の宮殿の脇で車が止まり、ここで車を降りる。直ぐに風の宮殿に向かうのかと思ったが、シンさんが逆方向に歩き出し、私に「まずは風の宮殿に入る前に立寄って欲しい土産物屋がありますので、そこに案内します。」と言う。そして風の宮殿近くの小さな店に案内される。<br />

    <ジャイプール市街と風の宮殿>
    これでアンベール城を後にし、再びジャイプール市街に戻る。
    途中、行きでも通った道ではあるが、注意深く見ていると、そこかしこにこの城の城壁らしきものが不完全ながら残っている。この城が本当に地形を利用した天然の要塞であった事がこれらの遺構を見ても良く判る。
    そして、再び水の宮殿前を過ぎ、ジャイプール市街に入る。このジャイプールはデリーと違い、然程大きな建物もない。暫らく市街を走ると、次の観光地である風の宮殿が見えて来た。

    その風の宮殿の脇で車が止まり、ここで車を降りる。直ぐに風の宮殿に向かうのかと思ったが、シンさんが逆方向に歩き出し、私に「まずは風の宮殿に入る前に立寄って欲しい土産物屋がありますので、そこに案内します。」と言う。そして風の宮殿近くの小さな店に案内される。

  • その店は靴屋である。その中に案内され、「この店は珍しいラクダの皮で造ったサンダルなどが売られています。もし、気に入った物があれば、安価に購入できます。」とシンさんが言う。<br />ラクダの皮とは確かに変わっている。そこで数点のお勧めのサンダルを見せて貰う。<br />意外にしっかりとした皮である。そこで価格を聞くと、「これで2,500Rs(約4,500円)です。」と言う。<br />サンダルにしては非常に高価なものである。私がシンさんに、「安くない!もう少し安くならないか聞いて欲しい!」と言うと、交渉をしてくれている様で、「それでは2,100Rs(約3,780円)で良いとの事ですが、どうですか?」と言う。<br />どうしようかと悩んだが、話のネタにもなると思い、少し高いが購入する事にした。その他にも同じラクダ皮のベルトなども勧められるが、そのサンダルのみを購入し、店を出る。<br />

    その店は靴屋である。その中に案内され、「この店は珍しいラクダの皮で造ったサンダルなどが売られています。もし、気に入った物があれば、安価に購入できます。」とシンさんが言う。
    ラクダの皮とは確かに変わっている。そこで数点のお勧めのサンダルを見せて貰う。
    意外にしっかりとした皮である。そこで価格を聞くと、「これで2,500Rs(約4,500円)です。」と言う。
    サンダルにしては非常に高価なものである。私がシンさんに、「安くない!もう少し安くならないか聞いて欲しい!」と言うと、交渉をしてくれている様で、「それでは2,100Rs(約3,780円)で良いとの事ですが、どうですか?」と言う。
    どうしようかと悩んだが、話のネタにもなると思い、少し高いが購入する事にした。その他にも同じラクダ皮のベルトなども勧められるが、そのサンダルのみを購入し、店を出る。

  • そして、その通りから狭い路地を抜け、風の宮殿の裏近くに出る。<br />風の宮殿の入口は、この表の通りにはない様で、裏から入るのである。時刻は10時30分を過ぎているが、今日も天気が良く日差しが強い。<br />その為に、この朝の時間ではあるが、既にかなり気温も上がっている様で、歩いているだけで汗が吹き出し、喉が渇く。少し歩くと、風の宮殿の入口に到着し、そこでシンさんが入場手続きを行う。<br />そして、風の宮殿内に入ろうとする時に、私が「喉が渇いたので、飲物を購入したいのですが?」と言うと、シンさんが「何が良いですか?」と聞くので、「デリーで美味しかったマンゴージュースが欲しい!」とお願いする。<br />すると、シンさんが、「先に中に入って待っていて下さい。飲物を購入して追いかけます。」と言い、私は先に風の宮殿内に入る。そして、入ったところの回廊の椅子で待つ事にした。<br />

    そして、その通りから狭い路地を抜け、風の宮殿の裏近くに出る。
    風の宮殿の入口は、この表の通りにはない様で、裏から入るのである。時刻は10時30分を過ぎているが、今日も天気が良く日差しが強い。
    その為に、この朝の時間ではあるが、既にかなり気温も上がっている様で、歩いているだけで汗が吹き出し、喉が渇く。少し歩くと、風の宮殿の入口に到着し、そこでシンさんが入場手続きを行う。
    そして、風の宮殿内に入ろうとする時に、私が「喉が渇いたので、飲物を購入したいのですが?」と言うと、シンさんが「何が良いですか?」と聞くので、「デリーで美味しかったマンゴージュースが欲しい!」とお願いする。
    すると、シンさんが、「先に中に入って待っていて下さい。飲物を購入して追いかけます。」と言い、私は先に風の宮殿内に入る。そして、入ったところの回廊の椅子で待つ事にした。

  • 中に入ると、そこは丁度、風の宮殿の中庭の様な場所で、その真ん中には池があるが、現在は水がない。<br />そして、その周りに回廊が巡る。日陰に入ると暑さも少しは和らぐ。そこで暫らくシンさんを待つ。<br />暫らくするとシンさんが、手に飲物を持ち、宮殿内に入って来た。飲物を受け取り、代金として50Rs(約90円)を支払う。<br />しかし、シンさんが買って来てくれたマンゴージュースは、デリーでの物とは違う銘柄のマンゴージュースであった。少し飲んでみると、デリーでの物よりも甘ったるい感じのジュースである。デリーの物の方が美味しかった。<br />ここでシンさんが簡単な風の宮殿の説明を行ってくれる。それは大体以下の様な内容である。<br />風の宮殿は、英名でハワー・マハルと言われ、1799年、この街を治めていたラージプートの王サワーイー・プラタープ・スィンによって建てられた宮殿で、シティ・パレスの一部である。<br />建物は、ピンク色をした5階建てで、953の小窓が通りに面している。<br />この小窓から宮廷の女性たちが、自らの姿を外から見られることなく、街の様子を見たり、祭を見て楽しむことが出来る様になっている。<br />また、この小窓を通して風(ハワー)が循環する事により、暑い時でも涼しい状態に保たれるような構造となっており、これがこの宮殿の名前の由来ともなっていると言う。<br />この様な簡単な説明の後、シンさんが、「ここで少し自由時間にします。好きにこの風の宮殿内を見学下さい。私はこの回廊辺りで待っています。自由時間は30分とします。」と言い、ここで別れる。<br />

    中に入ると、そこは丁度、風の宮殿の中庭の様な場所で、その真ん中には池があるが、現在は水がない。
    そして、その周りに回廊が巡る。日陰に入ると暑さも少しは和らぐ。そこで暫らくシンさんを待つ。
    暫らくするとシンさんが、手に飲物を持ち、宮殿内に入って来た。飲物を受け取り、代金として50Rs(約90円)を支払う。
    しかし、シンさんが買って来てくれたマンゴージュースは、デリーでの物とは違う銘柄のマンゴージュースであった。少し飲んでみると、デリーでの物よりも甘ったるい感じのジュースである。デリーの物の方が美味しかった。
    ここでシンさんが簡単な風の宮殿の説明を行ってくれる。それは大体以下の様な内容である。
    風の宮殿は、英名でハワー・マハルと言われ、1799年、この街を治めていたラージプートの王サワーイー・プラタープ・スィンによって建てられた宮殿で、シティ・パレスの一部である。
    建物は、ピンク色をした5階建てで、953の小窓が通りに面している。
    この小窓から宮廷の女性たちが、自らの姿を外から見られることなく、街の様子を見たり、祭を見て楽しむことが出来る様になっている。
    また、この小窓を通して風(ハワー)が循環する事により、暑い時でも涼しい状態に保たれるような構造となっており、これがこの宮殿の名前の由来ともなっていると言う。
    この様な簡単な説明の後、シンさんが、「ここで少し自由時間にします。好きにこの風の宮殿内を見学下さい。私はこの回廊辺りで待っています。自由時間は30分とします。」と言い、ここで別れる。

  • 私は、早々に回廊脇のスロープ状の廊下を使い、階上に上る。そして、最上階まで上がり、そこから多くの小窓が並ぶ部屋の方に向かう。<br /> <br />

    私は、早々に回廊脇のスロープ状の廊下を使い、階上に上る。そして、最上階まで上がり、そこから多くの小窓が並ぶ部屋の方に向かう。

  • その部屋には、色とり取りのガラスで飾られた小窓が並ぶ。<br />しかし、その部屋は非常に小さく、部屋と言うよりは、通路の様な空間が続いている。<br />  <br />本当に、この宮殿は、王宮内の人達が観覧の為に造られた宮殿の様である。正面から見える建物は薄っぺらい建物だけである。裏は解放的な空間になっている。<br />

    その部屋には、色とり取りのガラスで飾られた小窓が並ぶ。
    しかし、その部屋は非常に小さく、部屋と言うよりは、通路の様な空間が続いている。

    本当に、この宮殿は、王宮内の人達が観覧の為に造られた宮殿の様である。正面から見える建物は薄っぺらい建物だけである。裏は解放的な空間になっている。

  • その為に三方の眺めが非常に良い!先にも書いたが、このジャイプールは高い建物が少ないので、ここからほぼジャイプールの全景が見える様である。<br />    <br />ここで何枚か写真を撮り、再び廊下を伝い、階下の階を見学しながら、地上に戻る。

    その為に三方の眺めが非常に良い!先にも書いたが、このジャイプールは高い建物が少ないので、ここからほぼジャイプールの全景が見える様である。

    ここで何枚か写真を撮り、再び廊下を伝い、階下の階を見学しながら、地上に戻る。

  • この1階部分には回廊脇に多くの部屋が並ぶ。その扉は当時のままのものもあり、薄らと装飾絵が残っている。<br />それらを見学し、集合時間には少し早いがシンさんと合流し、この風の宮殿を出る。

    この1階部分には回廊脇に多くの部屋が並ぶ。その扉は当時のままのものもあり、薄らと装飾絵が残っている。
    それらを見学し、集合時間には少し早いがシンさんと合流し、この風の宮殿を出る。

  • <ジャンタルマンタル天文台とシティ・パレス><br />ここからは歩いて、次の観光地であるジャンタルマンタル天文台に向かうとシンさんが言う。<br />宮殿から大きな通り沿いに出て、多くの店が並ぶ一画を抜ける。そこには、昨日ジャイプールへの途中の休憩場所で食べたインドのポピュラーなおやつである”サモサ”を売る店がある。<br />店先の通りの地べたでは、その仕込みを行い、店では大きな鍋で、サモサを揚げて店先に並べている。<br />この様な店が通りに数軒ある。シンさんによれば、店により少し具などが違うと言う。<br />また、土産物や飲物を売る店や、野菜などを売る店もある。<br />その通りから路地に入り、裏通りを通り、家々の間を縫う様に歩き、ある建物内に入る。そこには小さな喫茶所の様な店があり、その奥にチケット売り場がある様で、そこでシンさんがジャンタルマンタル天文台のチケットを購入している。<br />そこからその建物を出て、再び路地に出ると、その路地脇では、このジャイプールで土産物の素焼きの人形らしきものに色を着けている人達が見える。<br />その前を過ぎ、再び大きな通りに出ると、その通り沿いに塀が続く。<br />この塀の中がジャンタルマンタル天文台である。その塀沿いに少し歩くと、入口が現れ、そこから中に入る。<br />中に入ると、そこは広場の様な場所に様々な天文観測機が並んでいる。<br />

    <ジャンタルマンタル天文台とシティ・パレス>
    ここからは歩いて、次の観光地であるジャンタルマンタル天文台に向かうとシンさんが言う。
    宮殿から大きな通り沿いに出て、多くの店が並ぶ一画を抜ける。そこには、昨日ジャイプールへの途中の休憩場所で食べたインドのポピュラーなおやつである”サモサ”を売る店がある。
    店先の通りの地べたでは、その仕込みを行い、店では大きな鍋で、サモサを揚げて店先に並べている。
    この様な店が通りに数軒ある。シンさんによれば、店により少し具などが違うと言う。
    また、土産物や飲物を売る店や、野菜などを売る店もある。
    その通りから路地に入り、裏通りを通り、家々の間を縫う様に歩き、ある建物内に入る。そこには小さな喫茶所の様な店があり、その奥にチケット売り場がある様で、そこでシンさんがジャンタルマンタル天文台のチケットを購入している。
    そこからその建物を出て、再び路地に出ると、その路地脇では、このジャイプールで土産物の素焼きの人形らしきものに色を着けている人達が見える。
    その前を過ぎ、再び大きな通りに出ると、その通り沿いに塀が続く。
    この塀の中がジャンタルマンタル天文台である。その塀沿いに少し歩くと、入口が現れ、そこから中に入る。
    中に入ると、そこは広場の様な場所に様々な天文観測機が並んでいる。

  • その中の一つの前で、シンさんがこのジャンタルマンタル天文台の説明を始める。その内容は大体以下の様な内容である。<br />ジャンタルマンタル天文台は、インド・ジャイプールにある天文台(ヤントラ・マンディル)である。<br />天文学者でもあったムガル帝国皇帝のジャイ・スィン2世によって1728~1734年に建てられた。<br />この天文台もマハラジャの居城であるシティ・パレスの一部である。<br />ジャイ・スィン2世は、デリーなど計5箇所(デリー、ジャイプール、ウッジャイン、バナーラス、マトゥラー)に天文台を建設しているが、それらの内でジャイプールのものが最も規模が大きい。<br />また、マトゥラーは現存しない。2010年に世界遺産に登録された。ジャンタルは機械で、マンタルは計測機を意味する言葉である。<br />この様な説明の後、最初の計測機の前まで行く。その計測機は、時刻を計測する所謂日時計である。<br />この計測類はラグ・サムラート・ヤントラと言うもので、この日時計は20秒刻みで時刻が判る時計である。<br />しかし、インドの標準時間はアラハバードが基準になっているので、このジャイプールとは約40分の誤差がある。その為に、この日時計が示してる時刻は標準時間と40分の差がある。<br />

    その中の一つの前で、シンさんがこのジャンタルマンタル天文台の説明を始める。その内容は大体以下の様な内容である。
    ジャンタルマンタル天文台は、インド・ジャイプールにある天文台(ヤントラ・マンディル)である。
    天文学者でもあったムガル帝国皇帝のジャイ・スィン2世によって1728~1734年に建てられた。
    この天文台もマハラジャの居城であるシティ・パレスの一部である。
    ジャイ・スィン2世は、デリーなど計5箇所(デリー、ジャイプール、ウッジャイン、バナーラス、マトゥラー)に天文台を建設しているが、それらの内でジャイプールのものが最も規模が大きい。
    また、マトゥラーは現存しない。2010年に世界遺産に登録された。ジャンタルは機械で、マンタルは計測機を意味する言葉である。
    この様な説明の後、最初の計測機の前まで行く。その計測機は、時刻を計測する所謂日時計である。
    この計測類はラグ・サムラート・ヤントラと言うもので、この日時計は20秒刻みで時刻が判る時計である。
    しかし、インドの標準時間はアラハバードが基準になっているので、このジャイプールとは約40分の誤差がある。その為に、この日時計が示してる時刻は標準時間と40分の差がある。

  • この日時計の脇に看板が置かれ、この説明も掲示されている。<br />この後、その他の観測機を見て廻る。まずは、その横にあるナリ・ヴァラヤ・ヤントラに向かう。<br />  <br />ナリ・ヴァラヤ・ヤントラは、両脇に階段が付いた傾いたふたつの円からなる観測儀で、太陽が北半球か南半球のどの位置にあるかを測定する機器である。<br />

    この日時計の脇に看板が置かれ、この説明も掲示されている。
    この後、その他の観測機を見て廻る。まずは、その横にあるナリ・ヴァラヤ・ヤントラに向かう。

    ナリ・ヴァラヤ・ヤントラは、両脇に階段が付いた傾いたふたつの円からなる観測儀で、太陽が北半球か南半球のどの位置にあるかを測定する機器である。

  • その次に向かったのは、ジャイ・ブラカーシュ・ヤントラである。<br />この観測儀は他の観測儀で測定した結果を補足する為のもので、二つある。直径4mの凹んだ半球の内側に切り込みがあり、その下の空間に入って観測をする様になっている。<br />その次にラーシ・ヴァラヤ・ヤントラに向かう。これは、ジャイ・スィン2世が発明した12体からなる観測儀である。それぞれが異なる角度で12の各星座に向かっている。それぞれ星座毎に観測儀があり、正確な占いをするために、占星家に利用された。<br />その後、このジャンタルマンタル天文台でメインの観測儀の前に向かう。<br />

    その次に向かったのは、ジャイ・ブラカーシュ・ヤントラである。
    この観測儀は他の観測儀で測定した結果を補足する為のもので、二つある。直径4mの凹んだ半球の内側に切り込みがあり、その下の空間に入って観測をする様になっている。
    その次にラーシ・ヴァラヤ・ヤントラに向かう。これは、ジャイ・スィン2世が発明した12体からなる観測儀である。それぞれが異なる角度で12の各星座に向かっている。それぞれ星座毎に観測儀があり、正確な占いをするために、占星家に利用された。
    その後、このジャンタルマンタル天文台でメインの観測儀の前に向かう。

  • この観測儀がサムラート・ヤントラで、これも最初に見た観測儀と同じ日時計である。<br />しかし、これは高さ27.4mもあり、この天文台で最も大きい観測儀である。現地時間、天頂距離、子午線などを測る複数の役割を持っている。日時計としては、2秒単位で時間を計測できるものである。<br />日時計でこの精度は凄い。実際の時間とどれくらいの誤差があるのであろうか?<br />  <br />その後、チャクラ・ヤントラ(子午線通過時間や惑星、星の位置を測定する)、ディガンシャ・ヤントラ(太陽、惑星、星の位置を観測する)、ラーム・ヤントラ(太陽、月、他の星などの高度と方位を計測する)などを見て、出口を出る。時刻は11時10分頃である。<br />

    この観測儀がサムラート・ヤントラで、これも最初に見た観測儀と同じ日時計である。
    しかし、これは高さ27.4mもあり、この天文台で最も大きい観測儀である。現地時間、天頂距離、子午線などを測る複数の役割を持っている。日時計としては、2秒単位で時間を計測できるものである。
    日時計でこの精度は凄い。実際の時間とどれくらいの誤差があるのであろうか?

    その後、チャクラ・ヤントラ(子午線通過時間や惑星、星の位置を測定する)、ディガンシャ・ヤントラ(太陽、惑星、星の位置を観測する)、ラーム・ヤントラ(太陽、月、他の星などの高度と方位を計測する)などを見て、出口を出る。時刻は11時10分頃である。

  • ここから壁沿いに通りを歩くと、門が現れる。ここがシティ・パレスの門である。<br />その脇にはこのシティ・パレスのチケット販売所がある。その前まで行き、そこでシンさんがチケット購入するのを待つ。この場所には多くの観光客が屯している。<br />シンさんが、チケット購入を終え、この門を入る。そして、入った左手の大きな木の脇で、シンさんがここの説明を始める。まず、シンさんが説明をしたのは、この大きな木についてである。<br />シンさんによると、「この木はアショカの木と言われ、インド国内に多く植えられている木で、殆どの木がこの様な円柱上に枝が垂れています。名前の由来は仏教に帰依した有名なアショカ王に因んでいます。」と教えてくれる。<br />また続いて、このシティ・パレスについての説明が始まる。説明の内容は以下の様なものである。<br />シティ・パレスは、1726年、マハラジャ サワーイー・ジャイ・スィン2世によって建てられた宮殿で、ムガル様式とラジャスターンの建築様式が融合した見事な装飾が見られる。 <br />宮殿の中心となる月の宮殿は、現在もマハラジャの住居となっており、一部が博物館として公開されている。中庭中央のディワーネ・カースは、マハラジャの衣装や当時の生活用品などの博物館になっており、歴代マハラジャや女性たちが着た伝統的なラジャスターンの衣装が飾られていた。<br />この宮殿内の多くの建物もピンク色に塗られている。このシティ・パレスの建物だけでなく、ジャイプールの建物の多くが、ピンク色に塗られている。その為にジャイプールは別名、ピンク・シティと呼ばれている。<br />ジャイプールは、ラージャスターン州の州都で、約10kmの赤い城壁に囲まれている。<br />1876年には、ヴィクトリア女王(この翌年インド皇帝となった)の息子、アルバート王子がこの地を訪れ、マハラジャ一家の歓待を受けた。この時に市街の建物をピンク色に塗ったのをきっかけとして、伝統的に建物にピンク色の塗装が施されるようになり、現在でも”ピンク・シティー”と呼ばれる景観を保っていると言う。<br />まずは、門の正面にあるムバーラク・マハルと言う迎賓館に向かう。<br />

    ここから壁沿いに通りを歩くと、門が現れる。ここがシティ・パレスの門である。
    その脇にはこのシティ・パレスのチケット販売所がある。その前まで行き、そこでシンさんがチケット購入するのを待つ。この場所には多くの観光客が屯している。
    シンさんが、チケット購入を終え、この門を入る。そして、入った左手の大きな木の脇で、シンさんがここの説明を始める。まず、シンさんが説明をしたのは、この大きな木についてである。
    シンさんによると、「この木はアショカの木と言われ、インド国内に多く植えられている木で、殆どの木がこの様な円柱上に枝が垂れています。名前の由来は仏教に帰依した有名なアショカ王に因んでいます。」と教えてくれる。
    また続いて、このシティ・パレスについての説明が始まる。説明の内容は以下の様なものである。
    シティ・パレスは、1726年、マハラジャ サワーイー・ジャイ・スィン2世によって建てられた宮殿で、ムガル様式とラジャスターンの建築様式が融合した見事な装飾が見られる。
    宮殿の中心となる月の宮殿は、現在もマハラジャの住居となっており、一部が博物館として公開されている。中庭中央のディワーネ・カースは、マハラジャの衣装や当時の生活用品などの博物館になっており、歴代マハラジャや女性たちが着た伝統的なラジャスターンの衣装が飾られていた。
    この宮殿内の多くの建物もピンク色に塗られている。このシティ・パレスの建物だけでなく、ジャイプールの建物の多くが、ピンク色に塗られている。その為にジャイプールは別名、ピンク・シティと呼ばれている。
    ジャイプールは、ラージャスターン州の州都で、約10kmの赤い城壁に囲まれている。
    1876年には、ヴィクトリア女王(この翌年インド皇帝となった)の息子、アルバート王子がこの地を訪れ、マハラジャ一家の歓待を受けた。この時に市街の建物をピンク色に塗ったのをきっかけとして、伝統的に建物にピンク色の塗装が施されるようになり、現在でも”ピンク・シティー”と呼ばれる景観を保っていると言う。
    まずは、門の正面にあるムバーラク・マハルと言う迎賓館に向かう。

  • ここには、シンさんの説明にもあったが、マハラジャの生活品などが展示されている博物館がある。<br />博物館に入ると、意外に人が多い。中は写真撮影禁止である。<br />展示されているものは当時のマハラジャ家族の生活様式を再現したものや当時の衣装などが中心である。<br />興味を引いたものは、当時のマハラジャの親交広さを感じさせる衣装類である。中国の皇帝風の衣装(清代の皇帝の衣装に似た龍の装飾を施したもの)から、西アジア風の衣装まで多様式のものが展示されていた。<br />  <br />この博物館を出て、その右手にまた門があり、その門を潜ると、この中庭中央にあるディワーネ・カース(プリタムパレスとも言われる)という建物があり、ここも博物館になっている。<br />ここは一般の人も利用が出来る施設で、今日は結婚式が行われる様で、その準備がこの宮殿の周りで行われている。<br />

    ここには、シンさんの説明にもあったが、マハラジャの生活品などが展示されている博物館がある。
    博物館に入ると、意外に人が多い。中は写真撮影禁止である。
    展示されているものは当時のマハラジャ家族の生活様式を再現したものや当時の衣装などが中心である。
    興味を引いたものは、当時のマハラジャの親交広さを感じさせる衣装類である。中国の皇帝風の衣装(清代の皇帝の衣装に似た龍の装飾を施したもの)から、西アジア風の衣装まで多様式のものが展示されていた。

    この博物館を出て、その右手にまた門があり、その門を潜ると、この中庭中央にあるディワーネ・カース(プリタムパレスとも言われる)という建物があり、ここも博物館になっている。
    ここは一般の人も利用が出来る施設で、今日は結婚式が行われる様で、その準備がこの宮殿の周りで行われている。

  • また、この宮殿には、マハラジャがエドワード7世の戴冠式にイギリスに行った際に現地で沐浴する為にガンジス河の水を入れて持って行った銀製の大きな壷が展示されている。<br />この大きな銀製の壺は、ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品らしい。<br />

    また、この宮殿には、マハラジャがエドワード7世の戴冠式にイギリスに行った際に現地で沐浴する為にガンジス河の水を入れて持って行った銀製の大きな壷が展示されている。
    この大きな銀製の壺は、ギネスブックに登録されている世界で一番大きな銀製品らしい。

  • ここからまた、建物内を抜けると、このシティ・パレスの中心的な建物である月の宮殿内に出る。<br />  <br />ここも大きな広場になり、それを取り巻く様に建物が立ち、その正面の一番大きな建物がマハラジャの居所になっている。そこには現在もマハラジャの子孫が住んでいると言う。<br />この広場に出る前に潜った門のところに、綺麗な孔雀の装飾が施されている。色も鮮やかで非常に綺麗である。この前で記念撮影を行う。<br />ここがシティ・パレスの一番奥であるので、ここから先程のディワーネ・カースまで戻り、その脇の出口からシティ・パレスを出る。そこは駐車場のエリアで、その前には多くの車が止まっている。<br />我々の車もその中にあり、ここで再び運転手のサンジェさんと合流する。<br />時刻は11時30分前である。<br />

    ここからまた、建物内を抜けると、このシティ・パレスの中心的な建物である月の宮殿内に出る。
     
    ここも大きな広場になり、それを取り巻く様に建物が立ち、その正面の一番大きな建物がマハラジャの居所になっている。そこには現在もマハラジャの子孫が住んでいると言う。
    この広場に出る前に潜った門のところに、綺麗な孔雀の装飾が施されている。色も鮮やかで非常に綺麗である。この前で記念撮影を行う。
    ここがシティ・パレスの一番奥であるので、ここから先程のディワーネ・カースまで戻り、その脇の出口からシティ・パレスを出る。そこは駐車場のエリアで、その前には多くの車が止まっている。
    我々の車もその中にあり、ここで再び運転手のサンジェさんと合流する。
    時刻は11時30分前である。

  • <宝石店と昼食><br />次は昼食かと思ったが、ここでシンさんが、「昼食前に宝石店に立寄り、その後昼食場所に行きます。」と言う。車は再びジャイプール市街を走り、5分程である建物脇の空き地に止まる。この建物が宝石店の様である。<br />車を降り、その建物内に入ると、その入口付近では宝石類の原石を研磨する作業場があり、その場所でこの店の店主らしき人が迎えてくれる。<br />  <br />その人の案内で、宝石類が展示されている部屋に入り、その部屋から更に特別な個室に案内される。<br />そして、個室にある大きな机の前に座らされ、その席で大層な箱に入った宝石類を見せられる。<br />このジャイプールはインド内でも有名な宝石の産地で、特に有名なものはスタールビーとスターサファイヤなのだと説明を受ける。そして、その有名な2つの宝石を見せてくれる。<br />日本ではあまりスタールビーもスターサファイヤも聞いた事がない。その事を聞くと、あまり日本を含め、他の国では販売されていない宝石との事で、日本で販売されているものは、インド国内の3倍以上の価格で取引されているそうだ。これについては本当かどうか判らない。<br />なぜ、”スター”の文字が付くのかと思ったが、その宝石を見せて貰い、その意味が判った。<br />その宝石に光を当てると、その宝石内で光の筋が出来、それが星型に交差する様に見える為である。<br />このスターは宝石が小さいと出来ないので、小さくてもはっきりと光が交差する様に見える物程高価なものになると言う。1cm弱の小粒のスタールビーを見せて貰い、価格を聞くと、何とこの旅行代金の半分以上の価格である。<br />同じ様にスターサファイヤも見せて貰い、これも価格を聞くと、同じ様な大きさではあるが、サファイヤの方が稀少価値が高く、こちらの方が更に高い。<br />それでも日本では購入が難しいと言う事を信じ、土産で買って帰る事にした。ちゃんとした証明書も発行してくれるという事も購入の要因になった。<br />また、このスタールビーとスターサファイヤを購入した為に既に金銭感覚が麻痺してしまい、もう一つ見せられた宝石で気に入ったムーンストーンを購入し、トータルでこの旅行代金以上の支払いをカードで行う事になった。騙されたかも知れないが、仕方がない。<br />この個室を出ると、大きな展示室内には多くの観光客がいる。日本人が殆どである。<br />その場所で少し展示品を見た後、この宝石店を出る。もう、この旅行で大きな買物は出来ない。<br />車に乗り込み、今度こそ昼食である。車は再び市街を走り、昼食場所に向かうが、少し市街は渋滞をしている。その渋滞を抜け、市街中心地より少し離れたところにあるレストランが今日の昼食場所である。<br />

    <宝石店と昼食>
    次は昼食かと思ったが、ここでシンさんが、「昼食前に宝石店に立寄り、その後昼食場所に行きます。」と言う。車は再びジャイプール市街を走り、5分程である建物脇の空き地に止まる。この建物が宝石店の様である。
    車を降り、その建物内に入ると、その入口付近では宝石類の原石を研磨する作業場があり、その場所でこの店の店主らしき人が迎えてくれる。

    その人の案内で、宝石類が展示されている部屋に入り、その部屋から更に特別な個室に案内される。
    そして、個室にある大きな机の前に座らされ、その席で大層な箱に入った宝石類を見せられる。
    このジャイプールはインド内でも有名な宝石の産地で、特に有名なものはスタールビーとスターサファイヤなのだと説明を受ける。そして、その有名な2つの宝石を見せてくれる。
    日本ではあまりスタールビーもスターサファイヤも聞いた事がない。その事を聞くと、あまり日本を含め、他の国では販売されていない宝石との事で、日本で販売されているものは、インド国内の3倍以上の価格で取引されているそうだ。これについては本当かどうか判らない。
    なぜ、”スター”の文字が付くのかと思ったが、その宝石を見せて貰い、その意味が判った。
    その宝石に光を当てると、その宝石内で光の筋が出来、それが星型に交差する様に見える為である。
    このスターは宝石が小さいと出来ないので、小さくてもはっきりと光が交差する様に見える物程高価なものになると言う。1cm弱の小粒のスタールビーを見せて貰い、価格を聞くと、何とこの旅行代金の半分以上の価格である。
    同じ様にスターサファイヤも見せて貰い、これも価格を聞くと、同じ様な大きさではあるが、サファイヤの方が稀少価値が高く、こちらの方が更に高い。
    それでも日本では購入が難しいと言う事を信じ、土産で買って帰る事にした。ちゃんとした証明書も発行してくれるという事も購入の要因になった。
    また、このスタールビーとスターサファイヤを購入した為に既に金銭感覚が麻痺してしまい、もう一つ見せられた宝石で気に入ったムーンストーンを購入し、トータルでこの旅行代金以上の支払いをカードで行う事になった。騙されたかも知れないが、仕方がない。
    この個室を出ると、大きな展示室内には多くの観光客がいる。日本人が殆どである。
    その場所で少し展示品を見た後、この宝石店を出る。もう、この旅行で大きな買物は出来ない。
    車に乗り込み、今度こそ昼食である。車は再び市街を走り、昼食場所に向かうが、少し市街は渋滞をしている。その渋滞を抜け、市街中心地より少し離れたところにあるレストランが今日の昼食場所である。

  • 時刻は12時10分過ぎである。レストラン前で車を降り、店内に入る。<br />レストランはピンク色の外観の”The Royal Treat”と言う店である。<br />  <br />店内に入ると、店内奥の階段から2階に案内される。2階の窓際の席に案内され、そこにシンさんと共に座る。店内には殆ど客がいない。まだ少し昼食には早い為か?<br />この席からはジャイプール郊外の山々が綺麗に見える。<br />まずは、お決まりの飲物を聞かれる。私はここでもラッシーを注文する。聞くと、何種類かラッシーがある。<br />昨日は、マンゴーラッシーを飲んだので、今日はパイナップルラッシーを注文する。<br />

    時刻は12時10分過ぎである。レストラン前で車を降り、店内に入る。
    レストランはピンク色の外観の”The Royal Treat”と言う店である。

    店内に入ると、店内奥の階段から2階に案内される。2階の窓際の席に案内され、そこにシンさんと共に座る。店内には殆ど客がいない。まだ少し昼食には早い為か?
    この席からはジャイプール郊外の山々が綺麗に見える。
    まずは、お決まりの飲物を聞かれる。私はここでもラッシーを注文する。聞くと、何種類かラッシーがある。
    昨日は、マンゴーラッシーを飲んだので、今日はパイナップルラッシーを注文する。

  • ここでもペットボトルの飲料水が付いて来る。また、私の飲物をシンさんが注文する際に何か料理について店員に話をしている。聞くと、カレーの一品は自由に選択が出来るそうで、そのカレーにインドで最もポピュラーな”豆とヨーグルトのカレー”を注文したそうだ。<br />最初に注文したパイナップルラッシーと一緒に、豆のスープが出て来た。少しスパイシーなスープではあるが、辛くて飲めないものではない。<br />その後、次々にテーブルに料理が出て来た。出て来た料理は以下の様な内容のものである。<br /><平成24年2月24日昼食:ラジャスターン料理(ザ・ロイヤル・トリート)><br /> ①豆スープ(ライス入り)<br /> ②チキンガバブ(ミントソース付き、野菜添え:玉葱/ピーマン/トマト等)<br /> ③豆とヨーグルトのカレー<br /> ④豆と小麦粉/豆のつくね風団子のカレー<br /> ⑤チキンカレー<br /> ⑥じゃがいもと玉葱のカレー<br /> ⑦きゅうりとかぼちゃ、じゃがいもの野菜カレー<br /> ⑧豆ととうもろこしのナン/小麦粉のナン<br /> ⑨ライス(クミン入りターメリックライス)<br /> ⑩グラブジャムーン<br /> ⑪チャイ<br /> ⑫パイナップルラッシー(別注)<br />特に辛くて食べられない様なものはなく、比較的マイルドなものが多かった。<br />  <br />特に美味しかったのは、豆とヨーグルトのカレーとチキンカレーである。豆とヨーグルトのカレーは非常にまろやかで、日本人の口にも合う味である。<br />チキンカレーは少し辛いが、ベジタブルなカレーが多い中で、ノン・ベジタブルなカレーであったので、新鮮であった。また、ナンも2種類のナンが出て来たので、飽きずに食べる事が出来た。<br />最後にデザートとして出来てたグラブジャムーンは、インドの定番のデザートの一つとの事で、非常に甘いシロップに付けたミルクボール(揚げたパンケーキの様なもの)である。<br />口直しのデザートとしては非常に甘いお菓子である。そして、最後に定番のチャイが出て来た。<br />ゆっくりと時間を掛け、食事を取り、別注のパイナップルラッシーの150Rs(約270円)を支払い、席を立ち、店を出る。丁度、席を立つ頃に店の片隅で演奏が始まっていた。帰りに立ち止まり、その演奏を少し聴き、階下に降りる。時刻は13時頃である。<br />これからの午後はアーグラへの移動である。<br />

    ここでもペットボトルの飲料水が付いて来る。また、私の飲物をシンさんが注文する際に何か料理について店員に話をしている。聞くと、カレーの一品は自由に選択が出来るそうで、そのカレーにインドで最もポピュラーな”豆とヨーグルトのカレー”を注文したそうだ。
    最初に注文したパイナップルラッシーと一緒に、豆のスープが出て来た。少しスパイシーなスープではあるが、辛くて飲めないものではない。
    その後、次々にテーブルに料理が出て来た。出て来た料理は以下の様な内容のものである。
    <平成24年2月24日昼食:ラジャスターン料理(ザ・ロイヤル・トリート)>
     ①豆スープ(ライス入り)
     ②チキンガバブ(ミントソース付き、野菜添え:玉葱/ピーマン/トマト等)
     ③豆とヨーグルトのカレー
     ④豆と小麦粉/豆のつくね風団子のカレー
     ⑤チキンカレー
     ⑥じゃがいもと玉葱のカレー
     ⑦きゅうりとかぼちゃ、じゃがいもの野菜カレー
     ⑧豆ととうもろこしのナン/小麦粉のナン
     ⑨ライス(クミン入りターメリックライス)
     ⑩グラブジャムーン
     ⑪チャイ
     ⑫パイナップルラッシー(別注)
    特に辛くて食べられない様なものはなく、比較的マイルドなものが多かった。

    特に美味しかったのは、豆とヨーグルトのカレーとチキンカレーである。豆とヨーグルトのカレーは非常にまろやかで、日本人の口にも合う味である。
    チキンカレーは少し辛いが、ベジタブルなカレーが多い中で、ノン・ベジタブルなカレーであったので、新鮮であった。また、ナンも2種類のナンが出て来たので、飽きずに食べる事が出来た。
    最後にデザートとして出来てたグラブジャムーンは、インドの定番のデザートの一つとの事で、非常に甘いシロップに付けたミルクボール(揚げたパンケーキの様なもの)である。
    口直しのデザートとしては非常に甘いお菓子である。そして、最後に定番のチャイが出て来た。
    ゆっくりと時間を掛け、食事を取り、別注のパイナップルラッシーの150Rs(約270円)を支払い、席を立ち、店を出る。丁度、席を立つ頃に店の片隅で演奏が始まっていた。帰りに立ち止まり、その演奏を少し聴き、階下に降りる。時刻は13時頃である。
    これからの午後はアーグラへの移動である。

  • <ラジャスターン布織物店とアーグラへの道程><br />車に乗り込むと、このジャイプールでもう一軒土産物店に立寄ってからアーグラに向かうとシンさんが話す。<br />日程表にも書かれていたラジャスターン布織物の店である。この昼食場所から然程遠くないと言う。<br />車は再び走り始め、5分程でその店に到着した。大きな店の様で駐車場も大きい。<br />車を降り、まずその駐車場脇に立つ小屋の様な建物に向かう。<br />ここは扉もなく、オープンな作業場になっている。中では、布への柄染めの工程のデモンストレーションを行っている。この場所で柄染めの工程を見学する。<br />ここで柄染めを行っているのは、小さなスカーフ程の布である。<br />柄は木版で行い、何種類かの木版で数色の色を染めて行く。木版が上手く造られており、重ねて押す事で、色が重なる事なる柄を形成する。<br />  <br />その後、屋外で行っている織りの工程を見学後、屋内の商品展示室に入る。中は観光客で一杯である。<br />ここでシンさんから、この店の店員を紹介され、その店員について展示されている商品の説明を受ける。<br />その店員から気に入った物があれば、言って欲しい旨があり、店内を散策する。<br />特に店員のお勧め商品は、先程見た柄染めの様だ。この地方独特の染め布である。<br />価格を聞くと、意外に安く、手頃な土産物である。<br />そこで、数枚のテーブルクロスとランチェンマット風の物を購入する事にした。それでも全部で、日本円で7,000円である。これを購入し、再びシンさんと合流する。<br />買物を終え、早々にこの布店を出て、車に乗り込む。ここから再び、長いアーグラまでの移動である。<br />

    <ラジャスターン布織物店とアーグラへの道程>
    車に乗り込むと、このジャイプールでもう一軒土産物店に立寄ってからアーグラに向かうとシンさんが話す。
    日程表にも書かれていたラジャスターン布織物の店である。この昼食場所から然程遠くないと言う。
    車は再び走り始め、5分程でその店に到着した。大きな店の様で駐車場も大きい。
    車を降り、まずその駐車場脇に立つ小屋の様な建物に向かう。
    ここは扉もなく、オープンな作業場になっている。中では、布への柄染めの工程のデモンストレーションを行っている。この場所で柄染めの工程を見学する。
    ここで柄染めを行っているのは、小さなスカーフ程の布である。
    柄は木版で行い、何種類かの木版で数色の色を染めて行く。木版が上手く造られており、重ねて押す事で、色が重なる事なる柄を形成する。

    その後、屋外で行っている織りの工程を見学後、屋内の商品展示室に入る。中は観光客で一杯である。
    ここでシンさんから、この店の店員を紹介され、その店員について展示されている商品の説明を受ける。
    その店員から気に入った物があれば、言って欲しい旨があり、店内を散策する。
    特に店員のお勧め商品は、先程見た柄染めの様だ。この地方独特の染め布である。
    価格を聞くと、意外に安く、手頃な土産物である。
    そこで、数枚のテーブルクロスとランチェンマット風の物を購入する事にした。それでも全部で、日本円で7,000円である。これを購入し、再びシンさんと合流する。
    買物を終え、早々にこの布店を出て、車に乗り込む。ここから再び、長いアーグラまでの移動である。

  • 時刻は13時25分頃である。アーグラまでは約5時間の移動時間の予定である。<br />車は再び、ジャイプール市街を走り、その市街も抜け、郊外に出る。直ぐに高速道路に乗るのかと思っていたが、暫らくの間は一般道の様な道路を走る。<br />途中、大きな谷間の道路では、近代的な建物が並ぶ一画を抜け、30分程その谷間の道を走っていたが、そこから拓けた場所に出ると、そこから高速道路らしき道に入った。<br />ここからはデリーからジャイプールに向かう途中と同じ様な単調な田園地帯の景色に変わる。<br />  <br />暫らく走ると、また煙突群の見える場所に出る。どうもレンガを焼くところは郊外にある様だ。<br />その事をシンさんに聞くと、「レンガ焼く施設など煤煙の出る施設は都市から30km以上離れた場所にしか造る事が許されていません。」と言う。やはり、郊外にしか出来ない施設なのである。<br />単調な景色が続く事と今日はこれまでかなり歩いた事で、眠たくなり、いつ間にか寝てしまっていた。<br />目が覚めたのは、既に1時間以上が経過した頃である。<br />しかし、車外の景色は、然程変化ない。時刻は15時15分を過ぎている。<br />私が起きた事にシンさんが気づき、「もう少しで休憩場所に到着します。」と教えてくれる。ジャイプールを出てから、既に2時間近く経っている。<br />また、シンさんが、「順調に来ていますので、日程表では明日の予定になっているアーグラ郊外のファテープル・シークリーに今日立寄る予定に変更します。明日はゆっくりとタージ・マハルを見学して頂く為にもその方が日程的には楽ですので。」と言う。<br />聞くと、ファテープル・シークリーはアーグラの郊外約40kmところにあり、今日のアーグラへの移動の途中に位置する為との事であった。<br />その様な話をしていると、休憩場所が近づいた様で、車が高速道路から外れ、田園地帯の間の道に入った。<br />その道を少し走ると、小さなレストランの様な場所が見えて来た。その大きな駐車場に車が入る。<br />そして、そこに車を止め、レストランに向かう。車を降りるとやはり暑い!車内に居る時は然程冷房が効いていない様に思っていたが、やはり外に出ると温度が違う。<br />今日は、ここでトイレ休憩のみの様である。シンさんと共にトイレを済ませ、レストラン内では飲物が欲しければ購入する事を勧められるが、特に喉も乾いていないので、買わない旨を伝え、車に戻る。<br />

    時刻は13時25分頃である。アーグラまでは約5時間の移動時間の予定である。
    車は再び、ジャイプール市街を走り、その市街も抜け、郊外に出る。直ぐに高速道路に乗るのかと思っていたが、暫らくの間は一般道の様な道路を走る。
    途中、大きな谷間の道路では、近代的な建物が並ぶ一画を抜け、30分程その谷間の道を走っていたが、そこから拓けた場所に出ると、そこから高速道路らしき道に入った。
    ここからはデリーからジャイプールに向かう途中と同じ様な単調な田園地帯の景色に変わる。

    暫らく走ると、また煙突群の見える場所に出る。どうもレンガを焼くところは郊外にある様だ。
    その事をシンさんに聞くと、「レンガ焼く施設など煤煙の出る施設は都市から30km以上離れた場所にしか造る事が許されていません。」と言う。やはり、郊外にしか出来ない施設なのである。
    単調な景色が続く事と今日はこれまでかなり歩いた事で、眠たくなり、いつ間にか寝てしまっていた。
    目が覚めたのは、既に1時間以上が経過した頃である。
    しかし、車外の景色は、然程変化ない。時刻は15時15分を過ぎている。
    私が起きた事にシンさんが気づき、「もう少しで休憩場所に到着します。」と教えてくれる。ジャイプールを出てから、既に2時間近く経っている。
    また、シンさんが、「順調に来ていますので、日程表では明日の予定になっているアーグラ郊外のファテープル・シークリーに今日立寄る予定に変更します。明日はゆっくりとタージ・マハルを見学して頂く為にもその方が日程的には楽ですので。」と言う。
    聞くと、ファテープル・シークリーはアーグラの郊外約40kmところにあり、今日のアーグラへの移動の途中に位置する為との事であった。
    その様な話をしていると、休憩場所が近づいた様で、車が高速道路から外れ、田園地帯の間の道に入った。
    その道を少し走ると、小さなレストランの様な場所が見えて来た。その大きな駐車場に車が入る。
    そして、そこに車を止め、レストランに向かう。車を降りるとやはり暑い!車内に居る時は然程冷房が効いていない様に思っていたが、やはり外に出ると温度が違う。
    今日は、ここでトイレ休憩のみの様である。シンさんと共にトイレを済ませ、レストラン内では飲物が欲しければ購入する事を勧められるが、特に喉も乾いていないので、買わない旨を伝え、車に戻る。

  • 10分程で、この休憩場所を後にし、再びアーグラを目指す。<br />再び、高速道路に戻り、単調な景色の中を車が走り始める。途中、この道路でも検問所を抜ける。<br />州が変わったのである。<br />  <br />また少し走ると、シンさんが、「この先に売春婦の村があります。」といきなり話し始める。<br />私が、「売春婦の村とはどういう意味ですか?」と尋ねると、「売春婦の人達が集まって村の様なものが出来ているのです。」と言う。一般の村とは隔離された様な村なのであろうか?<br />休憩場所から15分程走ったところで、車が高速道路からそれ、一般の道に出る。<br />そして、シンさんが、「この先が売春婦の村です。」と言う。わざわざ、私にその村を見せる為に高速道路を下りた様である。その村に差し掛かると、道路脇に何人もの女性が屯している。<br />しかし、普通の服装の女性で、若い感じの人達が多いと言う訳ではない。<br />また、小学生くらいの女の子達も多い。あの子達も売春を行っているのであろうか?それとも売春婦の子供達なのであろうか?確かに男性の姿を見ない。<br />その道路沿いに数軒のレンガ造りのみすぼらしい家々が並ぶのみで、村という程のものではない。<br />その前をサンジェさんがゆっくりと走り、その村を過ぎると、再び一般道から高速道路に戻る。<br />時刻は16時過ぎである。ファテープル・シークリーまではあと1時間程との事である。<br />再び、高速道路を順調に走り始める。昨日のジャイプールへの道程では渋滞が多かったが、今日は本当に順調である。<br />その内に進行方向の右手に大きな丘陵地帯が見えて来る。<br />今迄が単調な平野の風景であったので、少し地形が変わって来た。そうすると、シンさんが、「もうあと30分程でファテープル・シークリーに着きます。」と教えてくれる。<br />

    10分程で、この休憩場所を後にし、再びアーグラを目指す。
    再び、高速道路に戻り、単調な景色の中を車が走り始める。途中、この道路でも検問所を抜ける。
    州が変わったのである。

    また少し走ると、シンさんが、「この先に売春婦の村があります。」といきなり話し始める。
    私が、「売春婦の村とはどういう意味ですか?」と尋ねると、「売春婦の人達が集まって村の様なものが出来ているのです。」と言う。一般の村とは隔離された様な村なのであろうか?
    休憩場所から15分程走ったところで、車が高速道路からそれ、一般の道に出る。
    そして、シンさんが、「この先が売春婦の村です。」と言う。わざわざ、私にその村を見せる為に高速道路を下りた様である。その村に差し掛かると、道路脇に何人もの女性が屯している。
    しかし、普通の服装の女性で、若い感じの人達が多いと言う訳ではない。
    また、小学生くらいの女の子達も多い。あの子達も売春を行っているのであろうか?それとも売春婦の子供達なのであろうか?確かに男性の姿を見ない。
    その道路沿いに数軒のレンガ造りのみすぼらしい家々が並ぶのみで、村という程のものではない。
    その前をサンジェさんがゆっくりと走り、その村を過ぎると、再び一般道から高速道路に戻る。
    時刻は16時過ぎである。ファテープル・シークリーまではあと1時間程との事である。
    再び、高速道路を順調に走り始める。昨日のジャイプールへの道程では渋滞が多かったが、今日は本当に順調である。
    その内に進行方向の右手に大きな丘陵地帯が見えて来る。
    今迄が単調な平野の風景であったので、少し地形が変わって来た。そうすると、シンさんが、「もうあと30分程でファテープル・シークリーに着きます。」と教えてくれる。

  • そして、暫らくすると、高速道路を後にし、一般道に入る。すると、大きな城壁の様な遺構が右手に見えて来た。もうファテープル・シークリーは近い様である。<br />そして、その城壁遺構を過ぎた辺りで、車は見えていた丘陵に向かい方向を変える。<br />丘陵に近づくに連れ、車の数も増え、周りに家々も見えて来る。その内に前方にレンガ造りの城壁が見え、道路には門が見えて来る。その門の手前の道路脇に車が止まる。ここで車を降りる様だ。<br />

    そして、暫らくすると、高速道路を後にし、一般道に入る。すると、大きな城壁の様な遺構が右手に見えて来た。もうファテープル・シークリーは近い様である。
    そして、その城壁遺構を過ぎた辺りで、車は見えていた丘陵に向かい方向を変える。
    丘陵に近づくに連れ、車の数も増え、周りに家々も見えて来る。その内に前方にレンガ造りの城壁が見え、道路には門が見えて来る。その門の手前の道路脇に車が止まる。ここで車を降りる様だ。

  • <ファテープル・シークリーで><br />シンさんと共に車を降り、ここで一旦運転手のサンジェさんとは別れる。<br />シンさんの説明では、ここからは一般車は入れないとの事で、ここからはオートリクシャーに乗ってファテープル・シークリーの宮殿まで行くと言う。オートリクシャーとはオールドデリーで乗ったサイクルリクシャーの自転車のところが、オートバイに変わった乗り物である。<br />暫らくすると我々の前に今にも壊れそうなオートリクシャーが来る。<br />私が後の席に、シンさんは前の席に座り、オートリクシャーは出発する。3人も乗ったら、スピードが出ないと思っていたが、意外にもかなりスピードが出る。オートリクシャーは門を潜り、城壁内に入る。<br />そして、少し走ると道が分かれ、右手の狭い上り坂を上り始める。そして再びレンガ造りの門を潜ると、更に道が細くなる。一方通行なのか、対抗車は来ない。<br />徐々に丘陵を上り、数分走ったところで、両側にレンガ造りの建物が見えて来る。<br />そして、その奥の大きな駐車場の様な場所に到着する。<br />その場所でオートリクシャーを降りる。その駐車場の様な場所の前には回廊の様な塀が見え、その端部分に入口が見える。ここから入るのである。その前まで歩き、ここでシンさんが行う入場手続きを待つ。<br />時刻は17時過ぎである。少し日が陰り始めている。<br />

    <ファテープル・シークリーで>
    シンさんと共に車を降り、ここで一旦運転手のサンジェさんとは別れる。
    シンさんの説明では、ここからは一般車は入れないとの事で、ここからはオートリクシャーに乗ってファテープル・シークリーの宮殿まで行くと言う。オートリクシャーとはオールドデリーで乗ったサイクルリクシャーの自転車のところが、オートバイに変わった乗り物である。
    暫らくすると我々の前に今にも壊れそうなオートリクシャーが来る。
    私が後の席に、シンさんは前の席に座り、オートリクシャーは出発する。3人も乗ったら、スピードが出ないと思っていたが、意外にもかなりスピードが出る。オートリクシャーは門を潜り、城壁内に入る。
    そして、少し走ると道が分かれ、右手の狭い上り坂を上り始める。そして再びレンガ造りの門を潜ると、更に道が細くなる。一方通行なのか、対抗車は来ない。
    徐々に丘陵を上り、数分走ったところで、両側にレンガ造りの建物が見えて来る。
    そして、その奥の大きな駐車場の様な場所に到着する。
    その場所でオートリクシャーを降りる。その駐車場の様な場所の前には回廊の様な塀が見え、その端部分に入口が見える。ここから入るのである。その前まで歩き、ここでシンさんが行う入場手続きを待つ。
    時刻は17時過ぎである。少し日が陰り始めている。

  • 入場手続きを終え、中に入ると、その場所は庭園の周りを回廊が巡る建物である。その庭園内を歩き、更に奥に進む。シンさんによると、当時は一般の謁見の間として使用された場所なのだと言う。<br />    <br />庭園の様に見えた場所が一般の人達が並ぶ場所の様だ。<br />

    入場手続きを終え、中に入ると、その場所は庭園の周りを回廊が巡る建物である。その庭園内を歩き、更に奥に進む。シンさんによると、当時は一般の謁見の間として使用された場所なのだと言う。

    庭園の様に見えた場所が一般の人達が並ぶ場所の様だ。

  • そして再び回廊の様な場所を抜けると、大きな広場に出て、その前には立派な2階建ての建物がある。<br />その屋上部分には四方に望楼の様なものが造られている。<br />これが、貴賓謁見の間(ディーワーネ・カーズ)と呼ばれる建物である。<br />

    そして再び回廊の様な場所を抜けると、大きな広場に出て、その前には立派な2階建ての建物がある。
    その屋上部分には四方に望楼の様なものが造られている。
    これが、貴賓謁見の間(ディーワーネ・カーズ)と呼ばれる建物である。

  • まずはその中に入る。中に入ると、その1階中央部分に根元が四角い柱があり、その柱上部は大層な房状の装飾で飾られ、更にその柱の上で四方の壁から延びた橋の様な廊下が交差している。<br />シンさんによれば、この中央の柱の上に置かれた椅子に皇帝が座り、ここから貴賓や客人達を迎えたそうだ。四方から延びる橋の様な廊下の柱にも中央の柱と同じ様な房状の装飾が施されている。<br />2階部分と言っても、この廊下があるだけである。<br />建物の構造が良く判らないが、それにしても皇帝はどこから2階に上がったのであろうか?その疑問をシンさんにぶつけると、どうも梯子を掛けて2階へ上った様だ。<br />ここでシンさんから簡単なファテープル・シークリーの説明が始まる。<br />その内容は大体以下の様な内容である。<br />  <br />このファテープル・シークリーは、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設されたもので、当時、アクバルは、跡継ぎに恵まれなかった。その為に、この地に住むイスラム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談したところ、息子を授かるだろうとの予言を授けられた。<br />そのおかげで王子ジャハーンギールが誕生し、記念として、ここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。<br />しかし、この土地は丘陵地帯の為に慢性的な水不足と猛暑に悩まされ、わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となった。<br />このファテープル・シークリーとは“勝利の都”という意味で、“勝利の都”と名づけられたのは、当時アクバルが、グジャラート地方での戦いに勝利した為である。<br />丘陵の上に建設されており、幾何学的な都市計画が実施され、その中心部は、宮廷地区とモスク地区とに分けられている。ほとんどの建築物が赤砂岩によって建設された、土着の建築文化とイスラム建築の融合がなされた都市遺跡である。<br />城壁などはレンガで造られていると思っていたが、赤砂岩なのである。<br />

    まずはその中に入る。中に入ると、その1階中央部分に根元が四角い柱があり、その柱上部は大層な房状の装飾で飾られ、更にその柱の上で四方の壁から延びた橋の様な廊下が交差している。
    シンさんによれば、この中央の柱の上に置かれた椅子に皇帝が座り、ここから貴賓や客人達を迎えたそうだ。四方から延びる橋の様な廊下の柱にも中央の柱と同じ様な房状の装飾が施されている。
    2階部分と言っても、この廊下があるだけである。
    建物の構造が良く判らないが、それにしても皇帝はどこから2階に上がったのであろうか?その疑問をシンさんにぶつけると、どうも梯子を掛けて2階へ上った様だ。
    ここでシンさんから簡単なファテープル・シークリーの説明が始まる。
    その内容は大体以下の様な内容である。

    このファテープル・シークリーは、ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設されたもので、当時、アクバルは、跡継ぎに恵まれなかった。その為に、この地に住むイスラム教の聖者サリーム・チシュティーを訪ね、世継ぎの問題について相談したところ、息子を授かるだろうとの予言を授けられた。
    そのおかげで王子ジャハーンギールが誕生し、記念として、ここに新たな都を造り、アーグラから遷都した。
    しかし、この土地は丘陵地帯の為に慢性的な水不足と猛暑に悩まされ、わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となった。
    このファテープル・シークリーとは“勝利の都”という意味で、“勝利の都”と名づけられたのは、当時アクバルが、グジャラート地方での戦いに勝利した為である。
    丘陵の上に建設されており、幾何学的な都市計画が実施され、その中心部は、宮廷地区とモスク地区とに分けられている。ほとんどの建築物が赤砂岩によって建設された、土着の建築文化とイスラム建築の融合がなされた都市遺跡である。
    城壁などはレンガで造られていると思っていたが、赤砂岩なのである。

  • このディーワーネ・カーズは、シンさんの説明では、皇帝の私的な謁見場所であったとの事だ。<br />この様な説明の後、このディーワーネ・カーズから更に奥の5層の建物の前に進む。この辺りは大きな広場で、その周りに建物が配されている。<br />この中でも、5層の建物が最も変わっている。建物に壁がないのである。各階を支える様に柱が並ぶだけの建物である。何の為に造られた建物なのであろうか?<br />  <br />シンさんに聞くと、建物の名前は、パーンチ・マハルと呼ばれ、この前の広場で行われる遊戯などを見学するために造られた建物なのだと言う。<br />広場を見ると、赤砂岩の上に碁盤の目の様な模様が見える。<br />これはが遊戯のひとつに使われたもので、ハーレムの女性達を駒に見立てて、この上でチェスを行ったそうだ。<br />

    このディーワーネ・カーズは、シンさんの説明では、皇帝の私的な謁見場所であったとの事だ。
    この様な説明の後、このディーワーネ・カーズから更に奥の5層の建物の前に進む。この辺りは大きな広場で、その周りに建物が配されている。
    この中でも、5層の建物が最も変わっている。建物に壁がないのである。各階を支える様に柱が並ぶだけの建物である。何の為に造られた建物なのであろうか?

    シンさんに聞くと、建物の名前は、パーンチ・マハルと呼ばれ、この前の広場で行われる遊戯などを見学するために造られた建物なのだと言う。
    広場を見ると、赤砂岩の上に碁盤の目の様な模様が見える。
    これはが遊戯のひとつに使われたもので、ハーレムの女性達を駒に見立てて、この上でチェスを行ったそうだ。

  • また建物の構造から、この土地が非常に暑かったので、納涼場所でもあったのではないかと考えられると思われる。一番上には、望楼が造られているので、展望の為の建物でもある様だ。<br />横には2階建ての舞台の様な施設が併設されている。<br />この更に横には、池を前に配した建物が建っている。ここは3階建てで、先程のパーンチ・マハルを同じ様に壁の無い造りで、ここも観覧場所の様である。<br />    <br />前の池の中に舞台があり、ここで行われる演劇などを観賞する時の施設の様である。<br />そして、ここから再び、パーンチ・マハルの前に戻り、この中に入る。この中を抜け、更にその奥の宮殿内部に進む。シンさんの説明によると、ここは王妃などの生活の場との事である。<br />パーンチ・マハルを抜けると、そこも広場を中心に周りに建物が立ち並び、また、この広場の中央に建物が建っている。この中央に建つ建物が、アクバルの王妃で、王子ジャハーンギールの母親であるミリアムの館とされている建物なのだと言う。<br />

    また建物の構造から、この土地が非常に暑かったので、納涼場所でもあったのではないかと考えられると思われる。一番上には、望楼が造られているので、展望の為の建物でもある様だ。
    横には2階建ての舞台の様な施設が併設されている。
    この更に横には、池を前に配した建物が建っている。ここは3階建てで、先程のパーンチ・マハルを同じ様に壁の無い造りで、ここも観覧場所の様である。

    前の池の中に舞台があり、ここで行われる演劇などを観賞する時の施設の様である。
    そして、ここから再び、パーンチ・マハルの前に戻り、この中に入る。この中を抜け、更にその奥の宮殿内部に進む。シンさんの説明によると、ここは王妃などの生活の場との事である。
    パーンチ・マハルを抜けると、そこも広場を中心に周りに建物が立ち並び、また、この広場の中央に建物が建っている。この中央に建つ建物が、アクバルの王妃で、王子ジャハーンギールの母親であるミリアムの館とされている建物なのだと言う。

  • また、この建物は使用されていた当時は黄金で装飾された館であったそうだ。<br />そして、その左手奥に大きな建物があるが、ここはジョド・バーイー殿と呼ばれる建物で、このジョド・バーイーは王子ジャハーンギールの妃の名前であるが、シンさんによると、実際はアクバルとその妃の居住区として使用された建物であると言われているそうだ。<br />    <br />その様な説明を受け、この建物内に入るとのかと思っていたが、時間がない様である。既に日がかなり傾き、夕方の空に変わり始めている。<br />ここから再び、パーンチ・マハル前に出て、池のある建物の脇を抜け、この宮廷を出る。<br />  <br />そして、そこから少し下りの坂を歩く。ここでは、また土産物を売る人達に捕まる。<br />しかし、ここの物売りは殆どが子供である。その子供達が見せるものは、装飾されたペンの様だ。<br />それを何本か纏めて買ってくれる様に見せる。幾らなのかと聞くと、5本で50Rs(約90円)だと言う。こちらのお金の価値からすると高いのだろうが、日本人の感覚では安い!そこで購入する事にした。<br />私が購入したのを見て、別の物売りの男性が、今度は絵葉書を勧める。見れば、このファテープル・シークリーのもので、200Rs(約360円)なので、これも購入し、これで物売りから解放される。<br />

    また、この建物は使用されていた当時は黄金で装飾された館であったそうだ。
    そして、その左手奥に大きな建物があるが、ここはジョド・バーイー殿と呼ばれる建物で、このジョド・バーイーは王子ジャハーンギールの妃の名前であるが、シンさんによると、実際はアクバルとその妃の居住区として使用された建物であると言われているそうだ。

    その様な説明を受け、この建物内に入るとのかと思っていたが、時間がない様である。既に日がかなり傾き、夕方の空に変わり始めている。
    ここから再び、パーンチ・マハル前に出て、池のある建物の脇を抜け、この宮廷を出る。

    そして、そこから少し下りの坂を歩く。ここでは、また土産物を売る人達に捕まる。
    しかし、ここの物売りは殆どが子供である。その子供達が見せるものは、装飾されたペンの様だ。
    それを何本か纏めて買ってくれる様に見せる。幾らなのかと聞くと、5本で50Rs(約90円)だと言う。こちらのお金の価値からすると高いのだろうが、日本人の感覚では安い!そこで購入する事にした。
    私が購入したのを見て、別の物売りの男性が、今度は絵葉書を勧める。見れば、このファテープル・シークリーのもので、200Rs(約360円)なので、これも購入し、これで物売りから解放される。

  • この後、暫らく歩くと、多くのオートリクシャーの止まる場所に来た。その右手奥には、非常に大きな門が聳えている。この立派な門が、このファテープル・シークリーのもうひとつの地区であるモスク地区の入口でもある。先程まで見学していたのが宮廷地区と呼ばれる施設群である。<br />この門はブランド門と言うが、別名を”勝利の門”と呼ばれている門である。<br />  <br />この都は”勝利の都”と言われているが、その名前も、この門がアクバルのグジャラート地方の征服を記念して建てられた事により名付けられたものである。<br />シンさんの説明では、高さが54mとの事であるが、それ以上の大きさに見える。<br />赤砂岩を基本に、白大理石で装飾を施されている。<br />この門はムガル帝国の最高傑作とされる建築の一つである。<br />大きな扉は木製だと言うが、それを見に行く事はなく、ここから眺めるだけであった。<br />

    この後、暫らく歩くと、多くのオートリクシャーの止まる場所に来た。その右手奥には、非常に大きな門が聳えている。この立派な門が、このファテープル・シークリーのもうひとつの地区であるモスク地区の入口でもある。先程まで見学していたのが宮廷地区と呼ばれる施設群である。
    この門はブランド門と言うが、別名を”勝利の門”と呼ばれている門である。

    この都は”勝利の都”と言われているが、その名前も、この門がアクバルのグジャラート地方の征服を記念して建てられた事により名付けられたものである。
    シンさんの説明では、高さが54mとの事であるが、それ以上の大きさに見える。
    赤砂岩を基本に、白大理石で装飾を施されている。
    この門はムガル帝国の最高傑作とされる建築の一つである。
    大きな扉は木製だと言うが、それを見に行く事はなく、ここから眺めるだけであった。

  • 数枚の写真を撮り、ここからオートリクシャーに再び乗り込む。オートリクシャーで坂を下り、門を抜け、車を降りた場所まで戻る。しかし、そこにはサンジェさんの車はない。<br />  <br />どこか別の場所に駐車している様で、シンさんがサンジェさんに電話をかける。暫らく、この場所でサンジェさんの車を待つ事になった。<br /> <br />

    数枚の写真を撮り、ここからオートリクシャーに再び乗り込む。オートリクシャーで坂を下り、門を抜け、車を降りた場所まで戻る。しかし、そこにはサンジェさんの車はない。

    どこか別の場所に駐車している様で、シンさんがサンジェさんに電話をかける。暫らく、この場所でサンジェさんの車を待つ事になった。

  • 行きに気が付かなかったが、この門の手前には、先程訪れたファテープル・シークリーの観光詰所の様な場所がある。シンさんによれば、ここで他の州から来たガイドは、許可を得て、ファテープル・シークリーの観光を行うとの事である。<br />その様な話をしていると、サンジェさんの車が到着し、我々の前に止まる。早々に乗り込み、一息着く。<br />ファテープル・シークリー内をかなり歩いたので、少し疲れた。<br />

    行きに気が付かなかったが、この門の手前には、先程訪れたファテープル・シークリーの観光詰所の様な場所がある。シンさんによれば、ここで他の州から来たガイドは、許可を得て、ファテープル・シークリーの観光を行うとの事である。
    その様な話をしていると、サンジェさんの車が到着し、我々の前に止まる。早々に乗り込み、一息着く。
    ファテープル・シークリー内をかなり歩いたので、少し疲れた。

  • <アーグラへの道程とアーユルヴェーダ><br />もう太陽もほぼ落ち、少し暗くなり始めている。ここからアーグラの市街に再び向かう。<br />シンさんによれば、まだ1時間は掛かる予定との事である。時刻は18時前である。<br />ここでシンさんに、今晩のアーグラで何か体験出来るオプションがないのかを聞く。ここまで高速道路で古典舞踏の案内板などが多くあった。<br />  <br />その様なものはないのかと聞くと、アーグラでも古典舞踏を見る事が出来ると言う。しかし、シンさんのお勧めは他にある様で、その古典舞踏を勧める事をしない。<br />シンさんに聞くと、インド独特のオイルマッサージがあり、それがアーグラではお勧めだと言う。<br />それは、“アーユルヴェーダ”と言うマッサージで、専門の先生がマッサージを行ってくれると言う。<br />この“アーユルヴェーダ”はインド独特の身体浄化法である。どのくらいで行って貰えるのかを聞くと、「日本円では、1万円です。」と言う。<br />シンさんは、まだアーグラに着くまでに時間もあるので、じっくり考えて下さいと言う。<br />アーグラについてからでも、どちらでも申し込みが可能な様だ。少々高いが、インドでしか体験出来ない事を信じ、アーユルヴェーダを体験する事をした。<br />既に、日が暮れ、辺りが暗くなった。かなりアーグラの市街に近づいた様で、家々が増えて来た。<br />今日は、少し疲れた事もあり、オプションでは“アーユルヴェーダ”を行う事をシンさんに言い、予約を取って貰う。その為に、アーグラに到着したら、まずは“アーユルヴェーダ”に行く事になった。<br />その後ホテルに行き、夕食に食べると言う日程になる。<br />時刻が18時45分を過ぎた頃、街の中に入って来た。街に入ると、車の数も急に多くなる。<br />その後、市街地を走り始めると、バスなどの大型の車輛も多くなり、片側2車線ある道路でも渋滞をする場所が所々で出て来た。丁度、帰宅の時間にも重なった為か、本当に車が多い。<br />アーグラもジャイプールと同様に高い建物がない。また、派手なネオンも少ない。<br />その為に街の様子も夜になると良く判らない。この街を走る事、20分程すると、少しネオンの多い場所を車が通る。すると、今日宿泊する予定のホテルの“AMAR YATRI NIWAS”の文字が見える。<br />その事をシンさんに聞くと、「そうです。ここが宿泊するホテルです。しかし、先に“アーユルヴェーダ”に行きますので、今はホテルに立寄りません。」と言う。<br />そのホテルの前を過ぎ、少し走ったところで、大きな道から路地に入り、そして、その路地脇の敷地内に入る。<br />ここで車を降り、その前の古びたビルに入る。入ると、その階段付近には、“アーユルヴェーダ”の治療というか、施術の写真が並べられている。<br />その写真の並ぶ階段を3階まで上がると、その階の踊り場付近にソファが置かれている。<br />この“アーユルヴェーダ”の治療は、インドでは非常に有名なマッサージで、インド独特のマッサージである。<br />特殊なオイルを使用するマッサージで、医学的な治療法のひとつとされている。<br />シンさんに、少しここで待つ様に言われる。シンさんはそのソファの前にある扉の中に消える。<br />私の他に客はいない様である。少しすると、シンさんが一人の男性と共に扉から出て来た。<br />そして、シンさんが、「料金は前払いですので、この人に1万円を渡し、中に付いて入って下さい。私はここで待っています。」と言う。<br />そこで、1万円を渡し、その男性について、扉の中に入る。その扉の向こうは、廊下で、その廊下の両側には小さな部屋が並んでいる。その部屋の一つにその男性と共に入る。その部屋の中央にはベッドが置かれ、そのベッドの奥にはテーブルがあり、その上には様々な道具が置かれている。<br />まずは、貴重品など余分なものを古びた戸棚に入れ、鍵を掛ける。そして、裸になり、専用のパンツを履く様に出される。そして、パンツ1枚でベッドに仰向けに寝る。<br />丁度、頭の下には、頭を置く様な穴があり、その場所に頭を入れ、位置を固定する。<br />その後、頭の上に金属の大きなお椀の様なものが設置され、その中にオイルを入れ、そのお椀の中央から少しずつ額の中央辺りにオイルが落ちる様にセットされる。<br />オイルがしっかりと額の中央辺りに落ちる事を確認した後、大量のオイルをお椀に入れている。そのオイルはひと肌よりも少し温かいもので、徐々に頭が温められる感じである。<br />丁度、額の中央の少し上に落ちたオイルは頭髪を伝い、後頭部に流れ落ちる様に頭が固定されているので、顔にオイルが掛かる事はなかった。オイルの温かさで、心地よい気分になる。しかし、頭髪は既にオイルまみれである。<br />このオイルのマッサージが一時間近くあったであろうか、寝ているのか、起きているのか判らない半覚醒の状態で、このマッサージを受け、その後今度はうつ伏せになり、全身を丁寧にオイルでマッサージをしてくれる。<br />しかし、マッサージと言っても日本でのマッサージと違い、全身を撫で回す様なマッサージである。<br />うつ伏せの状態が終わり、今度は仰向けの状態で同じ様なマッサージを受ける。この様なオイルマッサージを30分以上受けていたであろうか、特に丁寧にマッサージされたのが足のふくらはぎであった。<br />旅の疲れはどうしても足に集中する様で、このふくらはぎのマッサージがとても気持ちが良かった。<br />これで終了の様で、ベッドに座り、脱いだ服を再び着る。しかし、結局オイルで濡れた頭髪はタオルで拭くだけで、オイルまみれのままである。<br />部屋を出て、トイレに行きたい旨を言い、場所を教えて貰う。トイレはこの階の迷路の様な廊下の先にある様で、その迷路の様な廊下を進む。<br />非常に暗い廊下の先にトイレがある。もう少し不清潔なトイレを想像していたが、意外にも近代的なトイレで安心する。トイレを済ませ、迷路の様な廊下を戻り、シンさんの待つロビーへ出る。<br />ロビーのソファでは、シンさんが、電話を掛けていた。<br />その電話が終わるのを待ち、シンさんと共に階段を降り、このビルを出る。その途中で、シンさんが、「マッサージはどうでしたか?」と聞かれる。私が、「思っていたマッサージとは違いましたが、非常に気持ち良かったです。」と答える。<br />

    <アーグラへの道程とアーユルヴェーダ>
    もう太陽もほぼ落ち、少し暗くなり始めている。ここからアーグラの市街に再び向かう。
    シンさんによれば、まだ1時間は掛かる予定との事である。時刻は18時前である。
    ここでシンさんに、今晩のアーグラで何か体験出来るオプションがないのかを聞く。ここまで高速道路で古典舞踏の案内板などが多くあった。

    その様なものはないのかと聞くと、アーグラでも古典舞踏を見る事が出来ると言う。しかし、シンさんのお勧めは他にある様で、その古典舞踏を勧める事をしない。
    シンさんに聞くと、インド独特のオイルマッサージがあり、それがアーグラではお勧めだと言う。
    それは、“アーユルヴェーダ”と言うマッサージで、専門の先生がマッサージを行ってくれると言う。
    この“アーユルヴェーダ”はインド独特の身体浄化法である。どのくらいで行って貰えるのかを聞くと、「日本円では、1万円です。」と言う。
    シンさんは、まだアーグラに着くまでに時間もあるので、じっくり考えて下さいと言う。
    アーグラについてからでも、どちらでも申し込みが可能な様だ。少々高いが、インドでしか体験出来ない事を信じ、アーユルヴェーダを体験する事をした。
    既に、日が暮れ、辺りが暗くなった。かなりアーグラの市街に近づいた様で、家々が増えて来た。
    今日は、少し疲れた事もあり、オプションでは“アーユルヴェーダ”を行う事をシンさんに言い、予約を取って貰う。その為に、アーグラに到着したら、まずは“アーユルヴェーダ”に行く事になった。
    その後ホテルに行き、夕食に食べると言う日程になる。
    時刻が18時45分を過ぎた頃、街の中に入って来た。街に入ると、車の数も急に多くなる。
    その後、市街地を走り始めると、バスなどの大型の車輛も多くなり、片側2車線ある道路でも渋滞をする場所が所々で出て来た。丁度、帰宅の時間にも重なった為か、本当に車が多い。
    アーグラもジャイプールと同様に高い建物がない。また、派手なネオンも少ない。
    その為に街の様子も夜になると良く判らない。この街を走る事、20分程すると、少しネオンの多い場所を車が通る。すると、今日宿泊する予定のホテルの“AMAR YATRI NIWAS”の文字が見える。
    その事をシンさんに聞くと、「そうです。ここが宿泊するホテルです。しかし、先に“アーユルヴェーダ”に行きますので、今はホテルに立寄りません。」と言う。
    そのホテルの前を過ぎ、少し走ったところで、大きな道から路地に入り、そして、その路地脇の敷地内に入る。
    ここで車を降り、その前の古びたビルに入る。入ると、その階段付近には、“アーユルヴェーダ”の治療というか、施術の写真が並べられている。
    その写真の並ぶ階段を3階まで上がると、その階の踊り場付近にソファが置かれている。
    この“アーユルヴェーダ”の治療は、インドでは非常に有名なマッサージで、インド独特のマッサージである。
    特殊なオイルを使用するマッサージで、医学的な治療法のひとつとされている。
    シンさんに、少しここで待つ様に言われる。シンさんはそのソファの前にある扉の中に消える。
    私の他に客はいない様である。少しすると、シンさんが一人の男性と共に扉から出て来た。
    そして、シンさんが、「料金は前払いですので、この人に1万円を渡し、中に付いて入って下さい。私はここで待っています。」と言う。
    そこで、1万円を渡し、その男性について、扉の中に入る。その扉の向こうは、廊下で、その廊下の両側には小さな部屋が並んでいる。その部屋の一つにその男性と共に入る。その部屋の中央にはベッドが置かれ、そのベッドの奥にはテーブルがあり、その上には様々な道具が置かれている。
    まずは、貴重品など余分なものを古びた戸棚に入れ、鍵を掛ける。そして、裸になり、専用のパンツを履く様に出される。そして、パンツ1枚でベッドに仰向けに寝る。
    丁度、頭の下には、頭を置く様な穴があり、その場所に頭を入れ、位置を固定する。
    その後、頭の上に金属の大きなお椀の様なものが設置され、その中にオイルを入れ、そのお椀の中央から少しずつ額の中央辺りにオイルが落ちる様にセットされる。
    オイルがしっかりと額の中央辺りに落ちる事を確認した後、大量のオイルをお椀に入れている。そのオイルはひと肌よりも少し温かいもので、徐々に頭が温められる感じである。
    丁度、額の中央の少し上に落ちたオイルは頭髪を伝い、後頭部に流れ落ちる様に頭が固定されているので、顔にオイルが掛かる事はなかった。オイルの温かさで、心地よい気分になる。しかし、頭髪は既にオイルまみれである。
    このオイルのマッサージが一時間近くあったであろうか、寝ているのか、起きているのか判らない半覚醒の状態で、このマッサージを受け、その後今度はうつ伏せになり、全身を丁寧にオイルでマッサージをしてくれる。
    しかし、マッサージと言っても日本でのマッサージと違い、全身を撫で回す様なマッサージである。
    うつ伏せの状態が終わり、今度は仰向けの状態で同じ様なマッサージを受ける。この様なオイルマッサージを30分以上受けていたであろうか、特に丁寧にマッサージされたのが足のふくらはぎであった。
    旅の疲れはどうしても足に集中する様で、このふくらはぎのマッサージがとても気持ちが良かった。
    これで終了の様で、ベッドに座り、脱いだ服を再び着る。しかし、結局オイルで濡れた頭髪はタオルで拭くだけで、オイルまみれのままである。
    部屋を出て、トイレに行きたい旨を言い、場所を教えて貰う。トイレはこの階の迷路の様な廊下の先にある様で、その迷路の様な廊下を進む。
    非常に暗い廊下の先にトイレがある。もう少し不清潔なトイレを想像していたが、意外にも近代的なトイレで安心する。トイレを済ませ、迷路の様な廊下を戻り、シンさんの待つロビーへ出る。
    ロビーのソファでは、シンさんが、電話を掛けていた。
    その電話が終わるのを待ち、シンさんと共に階段を降り、このビルを出る。その途中で、シンさんが、「マッサージはどうでしたか?」と聞かれる。私が、「思っていたマッサージとは違いましたが、非常に気持ち良かったです。」と答える。

  • <アーグラのホテルと夕食><br />ビルを出て、再び車に乗り込む。時刻は既に20時半を過ぎている。<br />これで今日の観光等は終了で、先程前を通ったホテルに行き、夕食を取るのみである。ここからは然程遠くない。<br />夜になると、この辺りは非常にネオンが多く、大きな建物はないが、繁華街の様なところである。<br />見ていると、レストランやホテルなどが並んでいる様だ。その一画に今晩宿泊するホテルの“AMAR YATRI NIWAS”がある。そのホテル前に車が止まる。ここでサンジェさんと別れ、シンさんとホテルに入る。<br />ホテルのフロントロビーは地下で、階段を降りたところにホテルの入口がある。<br />ホテルのフロントロビーは然程大きくないが、それでもこれまでのホテルの中では一番大きなロビーである。<br />そのロビー奥に小さなフロントがある。そのフロントにシンさんと共に行き、チェックインを行う。<br />チェックインに少し時間を要したが、最後にホテルの台帳にサインを行い、ルームキーを受け取る。<br />部屋はこのホテルの3階である。<br />ここで、シンさんが「これからこのホテルのレストランで夕食ですが、直ぐに食事を取りますか、それとも一旦部屋にチェックインをしてから夕食を取りますか?」と聞かれる。私が、「シンさんはどうするのですか?」と聞くと、「私は、ここで今晩は失礼します。」と言う。<br />それなら先に部屋に荷物を置いてから、食事をする事にした。<br />明日の集合時間は7時半との事である。また、朝食はこれから夕食を取る同じレストランとの事である。<br />それで、ここでシンさんと別れ、ホテルのボーイに案内して貰い、部屋に向かう。しかし、ここで少しトラブルがあった。ホテルのエレベーターが故障したのか、使用出来ない様である。<br />仕方なく、ボーイに荷物を持って貰い、階段で3階に上がる。途中、1階の所にレストランがある。<br />3階の部屋に到着し、デリー、ジャイプールのホテルでもホテルのボーイが行ってくれたが、お湯などの使い方を教えて貰い、チップを渡す。<br />部屋はデリー、ジャイプールの部屋よりも更に小さい。ベッドこそダブルベットが置かれているが、日本のビジネスホテルのシングルルームくらいの広さしかない。<br />トイレとシャワールームこそ部屋が違うが、然程広くない。<br />空調の調整を行おうとしたが、その装置も見つからない。空調の調整も行えない様だ。<br />部屋は少し暑い。部屋の天井に扇風機もない。着替えも行わず、そのままで夕食に行く事にした。<br />時刻は既に21時である。夕食としては非常に遅くなった。階段で1階のレストランに向かう。<br />レストランに入り、入口にいたボーイにルームキーを見せると、空いている席に案内される。<br />レストランには私以外の客は誰もいない。そして、英語で何かを聞いて来た。<br />良く判らなかったが、どうもカレーか、中華か(チャイニーズフーズ)を聞いている様である。<br />ここでは中華料理も食べられる様である。今までがすべてカレーであったので、中華を注文する。<br />それから飲物を聞かれたので、ここでもマンゴージュースを注文する。<br />マンゴージュースは直ぐに出て来た。ここのマンゴージュースは非常に美味しい。そして、まずは料理として出て来たのは、野菜スープである。そして出て来た料理は以下の様な内容である。<br /><平成24年2月24日夕食:インド風中華料理(アマル・ヤトリ・ニヤスホテル内)><br /> ①野菜スープ(少し辛い)<br /> ②インド風酢豚(酢っぱさは殆どなく、少しカレーに似た感じの味付け)<br /> ③インド風チャーハン(具があまりなく、少しの野菜とご飯を炒めたもの)<br /> ④バニラアイスクリーム<br /> ⑤マンゴージュース(別注)<br />  <br />この様な内容で非常に簡単な夕食になった。しかし、時間も遅い食事であったので、これで充分である。<br />しかし、中華料理を選んだのは失敗であったかも知れない。中華料理と言うよりは、中途半端なインド料理と言った感じの料理であった。量は非常に多く、酢豚もチャーハンも殆ど半分以上残してしまった。美味しく無かった事もあるが、一人で食べるには量が非常に多い。<br />食べ始めて、20分程で食事を終えた。私が食事を終えるまでに、日本人の男性2人組がレストランに来た。一人は年配の男性で、もう一人は若い男性である。<br />

    <アーグラのホテルと夕食>
    ビルを出て、再び車に乗り込む。時刻は既に20時半を過ぎている。
    これで今日の観光等は終了で、先程前を通ったホテルに行き、夕食を取るのみである。ここからは然程遠くない。
    夜になると、この辺りは非常にネオンが多く、大きな建物はないが、繁華街の様なところである。
    見ていると、レストランやホテルなどが並んでいる様だ。その一画に今晩宿泊するホテルの“AMAR YATRI NIWAS”がある。そのホテル前に車が止まる。ここでサンジェさんと別れ、シンさんとホテルに入る。
    ホテルのフロントロビーは地下で、階段を降りたところにホテルの入口がある。
    ホテルのフロントロビーは然程大きくないが、それでもこれまでのホテルの中では一番大きなロビーである。
    そのロビー奥に小さなフロントがある。そのフロントにシンさんと共に行き、チェックインを行う。
    チェックインに少し時間を要したが、最後にホテルの台帳にサインを行い、ルームキーを受け取る。
    部屋はこのホテルの3階である。
    ここで、シンさんが「これからこのホテルのレストランで夕食ですが、直ぐに食事を取りますか、それとも一旦部屋にチェックインをしてから夕食を取りますか?」と聞かれる。私が、「シンさんはどうするのですか?」と聞くと、「私は、ここで今晩は失礼します。」と言う。
    それなら先に部屋に荷物を置いてから、食事をする事にした。
    明日の集合時間は7時半との事である。また、朝食はこれから夕食を取る同じレストランとの事である。
    それで、ここでシンさんと別れ、ホテルのボーイに案内して貰い、部屋に向かう。しかし、ここで少しトラブルがあった。ホテルのエレベーターが故障したのか、使用出来ない様である。
    仕方なく、ボーイに荷物を持って貰い、階段で3階に上がる。途中、1階の所にレストランがある。
    3階の部屋に到着し、デリー、ジャイプールのホテルでもホテルのボーイが行ってくれたが、お湯などの使い方を教えて貰い、チップを渡す。
    部屋はデリー、ジャイプールの部屋よりも更に小さい。ベッドこそダブルベットが置かれているが、日本のビジネスホテルのシングルルームくらいの広さしかない。
    トイレとシャワールームこそ部屋が違うが、然程広くない。
    空調の調整を行おうとしたが、その装置も見つからない。空調の調整も行えない様だ。
    部屋は少し暑い。部屋の天井に扇風機もない。着替えも行わず、そのままで夕食に行く事にした。
    時刻は既に21時である。夕食としては非常に遅くなった。階段で1階のレストランに向かう。
    レストランに入り、入口にいたボーイにルームキーを見せると、空いている席に案内される。
    レストランには私以外の客は誰もいない。そして、英語で何かを聞いて来た。
    良く判らなかったが、どうもカレーか、中華か(チャイニーズフーズ)を聞いている様である。
    ここでは中華料理も食べられる様である。今までがすべてカレーであったので、中華を注文する。
    それから飲物を聞かれたので、ここでもマンゴージュースを注文する。
    マンゴージュースは直ぐに出て来た。ここのマンゴージュースは非常に美味しい。そして、まずは料理として出て来たのは、野菜スープである。そして出て来た料理は以下の様な内容である。
    <平成24年2月24日夕食:インド風中華料理(アマル・ヤトリ・ニヤスホテル内)>
     ①野菜スープ(少し辛い)
     ②インド風酢豚(酢っぱさは殆どなく、少しカレーに似た感じの味付け)
     ③インド風チャーハン(具があまりなく、少しの野菜とご飯を炒めたもの)
     ④バニラアイスクリーム
     ⑤マンゴージュース(別注)
     
    この様な内容で非常に簡単な夕食になった。しかし、時間も遅い食事であったので、これで充分である。
    しかし、中華料理を選んだのは失敗であったかも知れない。中華料理と言うよりは、中途半端なインド料理と言った感じの料理であった。量は非常に多く、酢豚もチャーハンも殆ど半分以上残してしまった。美味しく無かった事もあるが、一人で食べるには量が非常に多い。
    食べ始めて、20分程で食事を終えた。私が食事を終えるまでに、日本人の男性2人組がレストランに来た。一人は年配の男性で、もう一人は若い男性である。

  • 食事をしながら、2人の会話を聞いているとどうもビジネスで来ている様な内容の話をしているので、会社の同僚の様である。結局、その2人組以外に客は来なかった。<br />食事を終え、ボーイに礼を言い、レストランを出て部屋に戻る。<br />部屋に戻り、テレビを点ける。しかし、判る番組があるわけもなく、BGMがわりである。外の賑わいの方が大きく。テレビの音もかき消される感じである。<br />  <br />暫らくの間、今日の出来事のまとめなどを行っていたが、時刻が既に22時半を過ぎたところで、簡単にシャワーを浴びる事にする。シャワーはデリーやジャイプールと同様で浴室には浴槽もなく、小さなポリバケツが下に置かれているだけである。本当に髪と顔だけを洗う。<br />お湯も初めは出ていたが、途中で半分、水に変わってしまった。しかし、暑いのでそれでも問題はない。むしろ、その方が気持ち良かった。オイルまみれの髪も洗え、すっきりした。<br />再び、髪が渇くまで今日の出来事のまとめの続きを行う。それにしても外が非常に賑やかである。何か催し物でもやっているのか?しかし、外へ出る勇気はない。<br />昼までさえ、これまで多くの物乞いなどに囲まれていたので、シンさんがいない夜に同じ様な事になれば大変である。時刻も既に23時過ぎである。<br />まだ、眠たくもならないので、少しテレビを見ながら時間を潰す。<br />この夜の遅い時間にインド風の昼ドラ風の番組を行っている。少し豊満な感じの西洋風の顔立ちのインド美人の女優さんが主演のドラマの様だ。<br />言葉は判らないが、大体の内容は見ていると想像がつく。<br />そのドラマを30分程見て、髪も乾いたので、ベッドに潜り込む。そして、持って来たガイドブックを詠みながら、寝るまでの時間を過ごす。そして、24時前に就寝する。しかし、ここで問題が生じた。<br />以前、外の喧騒が収まっておらず、寝られる状態では無かった。その音が気になり、なかなか寝付けなかった。結局、1時間以上寝る事が出来なかったが、何時の間にか寝てしまっていた。<br /><br />今回はここまで! 次回はタージマハールの観光。<br />

    食事をしながら、2人の会話を聞いているとどうもビジネスで来ている様な内容の話をしているので、会社の同僚の様である。結局、その2人組以外に客は来なかった。
    食事を終え、ボーイに礼を言い、レストランを出て部屋に戻る。
    部屋に戻り、テレビを点ける。しかし、判る番組があるわけもなく、BGMがわりである。外の賑わいの方が大きく。テレビの音もかき消される感じである。

    暫らくの間、今日の出来事のまとめなどを行っていたが、時刻が既に22時半を過ぎたところで、簡単にシャワーを浴びる事にする。シャワーはデリーやジャイプールと同様で浴室には浴槽もなく、小さなポリバケツが下に置かれているだけである。本当に髪と顔だけを洗う。
    お湯も初めは出ていたが、途中で半分、水に変わってしまった。しかし、暑いのでそれでも問題はない。むしろ、その方が気持ち良かった。オイルまみれの髪も洗え、すっきりした。
    再び、髪が渇くまで今日の出来事のまとめの続きを行う。それにしても外が非常に賑やかである。何か催し物でもやっているのか?しかし、外へ出る勇気はない。
    昼までさえ、これまで多くの物乞いなどに囲まれていたので、シンさんがいない夜に同じ様な事になれば大変である。時刻も既に23時過ぎである。
    まだ、眠たくもならないので、少しテレビを見ながら時間を潰す。
    この夜の遅い時間にインド風の昼ドラ風の番組を行っている。少し豊満な感じの西洋風の顔立ちのインド美人の女優さんが主演のドラマの様だ。
    言葉は判らないが、大体の内容は見ていると想像がつく。
    そのドラマを30分程見て、髪も乾いたので、ベッドに潜り込む。そして、持って来たガイドブックを詠みながら、寝るまでの時間を過ごす。そして、24時前に就寝する。しかし、ここで問題が生じた。
    以前、外の喧騒が収まっておらず、寝られる状態では無かった。その音が気になり、なかなか寝付けなかった。結局、1時間以上寝る事が出来なかったが、何時の間にか寝てしまっていた。

    今回はここまで! 次回はタージマハールの観光。

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