2012/02/22 - 2012/02/26
675位(同エリア991件中)
パンダ番長さん
- パンダ番長さんTOP
- 旅行記55冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 10,146アクセス
- フォロワー2人
インド旅行のインドまでの旅程および2日目のデリー観光。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 2.5
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
PR
-
<関西国際空港での時間とチェックイン>
時刻は10時30分前である。エア・インディアでのチェックインにはまだ少しある。
電車の中で忘れ物がないかと考えていると、今回、時計と帽子を忘れて来たので、この空港で購入しなければならない。
まずはその為に空港ターミナルの飲食街内にある店に向かう。ターミナル内のダイソーで、100円の帽子を購入し、その後に時計などの旅グッズの専門店で、時計を購入する。
ここで、着て来たダウンジャケットなどの上着を2階にある長期間使用可能なロッカーに預けに行く。
このロッカーにダウンジャケットや中に着ていたトレーナーなどの冬服を預ける。
そして、3階の国際線出発階に上がる。そこの掲示板で、航空会社のチェックイン予定時間を確認する。
すると、出発予定時間が13時25分から13時15分に10分予定が早まっている。
その為にチェックイン時間も10時55分になっている。今の時刻は10時45分前である。もう少しでチェックインが開始される。そこで、エア・インディアのカウンターのあるエリアCに向かう。
既に幾つかのカウンターで短い列が出来ている。近くに居たエア・インディアの女性にデリー行きの列を確認し、その列に並ぶ。 -
すると男性係員がタグを配っている。聞くと、機内に持ち込むリュックなどにはタグを付ける必要があると言う。何の為なのかと考えたが、よく判らないまま、そのタグをリュックに付ける。
このタグの必要性はこの後、これから搭乗する機内で判るのであるが?
暫らくすると、チェックインが開始された様で、列が動き始める。搭乗便はA1315便である。
少し時間が掛かったが、順番が来る。ここで、デリーまでの搭乗券を受け取り、旅行カバンを預ける。
このチェックインの際に、機内食の事を聞くと、香港でのトランジットであるが、関西国際空港から香港国際空港までに1回、また香港国際空港からインディラ・ガンジー国際空港までで1回、機内食が出ると言う。
また、香港国際空港では、機内での待機である事が告げられる。
搭乗券は36Aである。また、搭乗ゲートは北ウイングの2番ゲートである。
これで身軽となる。時刻は、11時10分頃である。特に行くところもなく、そのままエリアCから近い、北口ゲートから出国エリアに入る。平日であるが、意外に今日は、関西国際空港の利用客が多い。
最初の手荷物検査所で既に混雑をしている。しかし、今日は全部の検査所が開いている。その為に思いの外早く、手荷物検査を終える事が出来た。
ここで混雑していた為に、階下の出国審査所は空いている。しかし、ここは手荷物検査所とは違い、数か所しか係員が居ない。その為に列が出来ている。その列の一つに並ぶ。
しかし、然程時間も掛かる事もなく、この出国審査も無事に済ませる。
そのまま、北ウイング行きのシャトル駅に移動する。出発ロビー内も利用客で多く、シャトルへ乗り込む人もいつもよりも多い。シャトルで中間駅に移動し、2番ゲートに向かう。2番ゲート前の待合場所は、まだ数人の人がいるだけである。時刻は11時30分前である。2番ゲート前にはまだ機体はない。
特に何もする事もないので、この待合場所で時間を潰す事にした。近くの自販機でお茶を買い込み、椅子で休憩を取る。すると、11時40分頃に2番ゲート前に機体が到着する。
機体からは乗客が降りて来るのが見えているので、折り返し便である。機体胴体部からは荷物の搬出が行われている。その後、また我々搭乗者の荷物が搬入される。
時刻が12時を過ぎると、徐々に待合場所に人が増えて来る。そして、12時20分頃に2番ゲートにエア・インディアの係員が現れ、搭乗の準備を始めている。搭乗予定は12時40分である。
予定通りに搭乗が開始される様である。既に機体への荷物の搬入も終えている。 -
<A1315便への搭乗と香港国際空港までの時間>
12時40分前になり、ゲート前に列が出来る。列に並ぶ前に、トイレを済ませ、その後、列の最後方に並ぶ。
順調に搭乗が進み、程なく、搭乗順番になり、搭乗券とパスポートを見せ、ゲートを抜け、通路に進む。
ここで、驚いたのは通路途中で、再びエア・インディアの係員がボディチェックと手荷物のチェックを机を設け、行っている。そこで一人一人、チェックが行われる。それもかなり入念にチェックを行っている。
持ち込んだリュックなどは全てのポケットを開け、チェックされた。そのチェックが終わり、やっと機体に向かう。
このチェックの為に、機体前には列も出来ず、そのまま機内にスムースに入る事が出来た。
また、機体には通路が2つあり、3人掛けの席が横に3つ並んでいる、1列9人掛けの機体である。機体はB777-300/ERである。
席は36Aで、丁度、機体の中央部辺りの窓際の席である。荷物を上方の荷物棚に入れ、席に着く。
時刻は12時45分過ぎである。搭乗は順調な様で、徐々に機内の席が埋まって行く。私の隣の真ん中の席には、人が来るのであろうか?
12時55分過ぎには、全ての乗客の搭乗も終了した様である。席前にあるモニター画面には緊急時の対応事項の映像が開始されている。
結局、私の隣も、通路側の席にも誰も来なかった。
13時10分頃になり、やっと機体が後進を開始する。離陸時間は予定では13時15分であるが、このままでは少し遅れぞうだ。それにしても、エンジン音が非常にうるさい!
丁度、主翼の付け根辺りの席の為か、そのエンジン音が直ぐ近くで聞こえる。
北ウイングの2番ゲート付近は最も離陸位置(最も遠いには1番ゲート)に遠い場所である。
その為に、機体が移動を開始しても、中々離陸位置には到達しない。10分程移動を行い、誘導路で一旦停止し、離陸の順番を待つ。直ぐに再び動き始め、誘導路から滑走路に出ると、再びエンジン音が上がり、滑走路を走り始め、13時25分過ぎに無事、関西国際空港を離陸する。
順調に上昇を続け、直ぐに雲を抜け、雲の上に出ると下の景色が見えなくなる。今日は、雨は降ってはいないが、雲が多い天気である。5分程でほぼ水平飛行になり、程なくシートベルト着用ランプも消える。
まだ、少し上昇を続けている様であるが、機内にアナウンスが流れる。改めて、機内の席を確認すると、3分の1程度しか埋まっていない。
13時50分頃になり、CAが何かを配っている。席に来て判ったが、香港行きか、デリー行きかを聞いて廻っている。香港行きなら、入国カードを渡している様である。それを香港で降りる人のみが受け取っている。
その後、14時過ぎには飲物とおつまみをCAが配ってくれる。飲物はオレンジジュースを貰い、少しこれで寛げる。今日のフライト時間は長い。
関西国際空港から香港国際空港へのフライト時間が、約3時間、それと香港国際空港からインディラ・ガンジー国際空港までが約5時間半で、トータルで約9時間近い時間である。
ありがたい事にこの機体は一人一人の席にモニターが付いていて、それで映画やテレビドラマなどを見る事も出来る。今は、飛行情報などが表示されているだけであるが、使用は出来る様だ。
少し寝ようかと考えたが、いつ機内食が出て来るかも判らないので、そのまま、インドのガイドブックを読みながら、時間を潰す。
すると、14時30分頃になり、CAが機内食を配り始めた。
機内にカレーの香りが漂う。機内食からカレーの様である。もう、この機内からインド気分を味わって貰おうと言う趣向であろうか?
CAが私のところに来て、機内食の選択を聞いてくれる。ベジか?ノンベジ?か、と聞かれる。
インドの場合は、宗教上、肉を食べられないので、野菜のみの食事か、それとも肉も入ったものかを聞いてくれたのである。私はノンベジをお願いした。
出された機内食の内容は以下の様なものである。
<A1315便の機内食:関西国際空港~香港国際空港>
①野菜カレー(ペースト状の濃緑色のカレーで、然程辛くない)
②チキンカレー(ペースト状の肌色のカレーで、大きなチキンの塊が入っている。少し辛い。)
③ご飯(ドライカレー風のご飯)
④野菜サラダ(人参/きゅうり/ピーマン/レタス/獅子唐/トマト/レモン)
⑤パン(バター付き)
⑥デザート(ペースト状の甘味物:干しブドウが乗っている)
⑦ヨーグルト(プレーン)
⑧水
⑨飲物(紅茶:チャイ風のミルクと砂糖たっぷりの紅茶)
ノンベジを注文したが、野菜のカレーも付いていた。2つのカレーを楽しめる。野菜カレーは然程辛いカレーではなく、甘さも感じるカレーである。チキンカレーの方は少し辛く、ご飯と共に食べると丁度良い感じである。ご飯はドライカレー風にウコンなどのカレースパイスで炒めたご飯で、カレーとの相性も良い様にしてある。
ご飯自体は日本のご飯の様だ。
デザートがまた変わっていた。最初はデザートだとは判らずに口にしたが、非常に甘いもので、これがデザートである事が判った。何がベースになっているのかは判らないが、ペースト状の非常に甘いものである。
上には干しブドウが乗っている。これもインドの料理のひとつなのか?
飲物は、紅茶をお願いするとインドのお茶の“チャイ”風にミルクと砂糖たっぷりの紅茶が出て来た。
この機内食を30分程掛けて、ゆっくりと食べる。
食事を終えると、もうする事もなくなり、ここで少し寝る事にした。
時刻は15時過ぎで、予定では、香港国際空港までは、あと2時間程掛かる。
窓の外を見ると、雲海の様に眼下には雲の絨毯が続いている。暫らくすると、いつの間にか、寝てしまっていた。次に目が覚めたのは、機内アナウンスがあった時である。時計を見ると、17時頃である。
2時間近く寝ていた。機内アナウンスは英語で、良く判らなかったが、あと30分程で香港国際空港に到着するのであろう。
この機内アナウンスの後、徐々に機体が高度を下げ始める。
眼下に見えている雲の絨毯に機体が突入し、その際に機体の揺れが少し大きくなるが、それを抜けると再び安定する。かなり高度が下がり、窓の外を見ると、海が見えている。
しかし、天気が良くないのか、あまりはっきりとは見えない。その間も徐々に機体は高度を下げている。
すると前方に島らしきものが見えて来る。その島に向かい、急激に高度を下げ、海に面したところに滑走路があり、着陸する。時刻は17時20分、無事、香港国際空港に着陸した。
着陸直前は本当に海に着陸するのかと思うくらい、海上すれすれを、飛行していた。 -
<香港国際空港での時間とインディラ・ガンジー国際空港までの時間>
機体はゆっくりと香港国際空港内を移動し、ターミナル脇ではなく、ターミナルから少し離れた場所で停止する。時刻は17時25分過ぎである。直ぐに、この香港までの乗客が降り始める。
窓の外を見ると、雨は降っていないが、香港の天気も良くない様である。
我々、デリーまでの乗客はそのまま、席で待機である。こんな事は今回が初めてである。
同じ機体でのトランジットでも、一旦機内から出て、空港のトランジットエリア内で待機する事は、中国の上海やフィリピンのマニラの空港で経験した事はある。
香港までの乗客が全て降り、今度は機内を清掃をするおばさん達が乗り込んで来て、空いている席のゴミなどを回収している。その清掃のおばさん達が降りると、今度は数人の空港の係員らしき人が乗り込んで来た。
そして、各人の荷物を確認している。
ここで関西国際空港のエア・インディアのカウンターで機内へ持ち込むリュックなどの手荷物に付けられたタグの意味が判った。このタグがある事を確認し、その荷物が誰のものかを一つ一つ確認を行っている。
私のところにも来て、上の荷物棚にあるリュックと座席に置いているショルダーバックが私のものである事を確認し、その荷物にシールを貼り付ける。
そして、私の搭乗券を確認し、私の体にもシールを貼り、これで確認が済んだ事の証明になる様である。
その後、少しうとうとしていたが、丁度、モニターにはUSBのポートがあり、iphone4Sに入れていたゲームで時間を潰す。電源はモニターのUSBポートから取れる。
約1時間後の18時25分頃になり、香港からの乗客が乗り込んで来た。
私の隣の席にもカップルのインド人らしき若者が座った。隣に座った男性は私の荷物が気になるのか、もう少し、自分の席に退ける様に催促をする。
香港から乗り込んで来た乗客で、席は関西国際空港時よりは多くはなるが、それでも半分強の席が埋まっているだけである。その為か、私の隣に座っていたインド人のカップルは席を立ち、別の場所に移動した。
特にCAに断って移動した様子でもないが?
既に香港からの乗客も全て乗り込んだ様であるが、まだ機体は動く気配がない。
やっと18時55分過ぎにゆっくりと後進を開始する。ゆっくりと香港国際空港内を移動していたが、暫らくすると一旦停止する。ここで5分程停止した後、再び動き出す。
離陸位置まで、誘導路を進み、19時10分頃に離陸の順番を待つ待機位置に到着する。そして、滑走路に出て、エンジン音が上がり、加速を開始し、19時15分前に無事、香港国際空港を離陸した。
これからまだデリーのインディラ・ガンジー国際空港までは、約5時間半の飛行予定である。まだ半分のフライトが残っている。
離陸後、垂れこめた雲間を抜けると数分で雲の上で水平飛行に入る。 -
ここでも直ぐにシートベルト着用ランプが消える。雲の上には、綺麗な夕日が水平線に沈み始めているのが見えている。機体が西に向かい飛行を続けている為に、その夕日は中々沈む事がない。
しかし、良く見ていると、徐々にその夕日で赤く染まる領域が南の方角から西の方角へ移動をしている。
この夕日を追いかける様な景色は、過去に一度体験している。
北京首都国際空港から西安空港への飛行の際にも同じ様な光景を見た。
この間にCAがインドの入国カードを渡してくれる。その入国カードをガイドブックの例を参考に記入を行った。この入国カード記入に15分程費やし、その後機内の照明が一旦消える。
20時25分頃に再び照明が点き、CAが飲物を配り始める。
やっと、窓の外の夕日の景色は、この時間になり、徐々に空が暗くなり、暗闇に包まれ始める。
少し時間が掛かっていたが、15分程してやっと私のところにも飲物が来た。オレンジジュースを貰い、飲む。
21時を過ぎると外は完全に暗闇に変わる。
モニター画面の飛行ルートを見ると、丁度、中国の南方、雲南地方の昆明辺りの上空を飛行している。
まだ、香港からデリーまでの航路の4分の1くらいしか来ていない。 -
21時15分頃になり、やっと機内食をCAが配り始める。また、カレーの香りが再び機内に漂う。
今回は、選択枝はない様である。CAが何も聞いて来ない。それともベジはインド人に優先的に配っている為かも知れない。
<A1315便の機内食:香港国際空港~インディラ・ガンジー国際空港>
①チキンカレー(チキンのささ身を使ったカレー。少し辛目。)
②豆とじゃがいものカレー(えんどう豆とじゃがいものカレー。これは激辛。)
③ご飯(細長いタイ米風)
④野菜サラダ(きゅうり/人参/サニーレタス/トマト、イタリアンドレッシング付き)
⑤パン(ベーグル風のもちっとした食感のパン、バター付き)
⑥デザート(ココナッツミルクと蜂蜜を用いた半ゼリー状のデザート)
⑦ヨーグルト(プレーン)
⑧水
⑨飲物(珈琲)
今回のカレーは2つとも、非常に辛い。
特に豆とじゃがいものカレーは激辛で、少し食べると汗が噴き出してくる。また、チキンカレーも関西国際空港から香港国際空港に出たチキンカレーよりも辛い。また、ベーグル風の食感のパンも美味しかった。
デザートも非常に甘く、カレーが非常に辛かったので、口直しには丁度良かった。
21時40分頃には、珈琲も飲み終え、食事を終える。モニターでの航路図では、丁度タイ北部の上空に差し掛かっている。
22時過ぎに機内食の食器が片付けられると機内の照明が再び、消える。
ここでまだ、時間もかなりあるので、モニターで映画でも見る事にした。そして、リストを見ると日本語吹き替えのものも数本あるので、その中から“アバター”を見る事にした。
ヘッドフォンを着用し、コントローラーで映画を選択し、見始める。“アバター”は見た事がなかったので、寝てしまう事なく、ほぼ2時間強の映画を見た。
丁度、この“アバター”の映画が終わり、暗い機内から外の景色を眺めていると、眼下の少し南側に灯りの集まった都市が見えている。飛行経路上の地図から推測するとアーグラの街かも知れない。
それ以外は暗く何も見えない。時刻は24時25分頃である。すると不意にシートベルト着用ランプが点く。
そして、機内の照明が点き、機内アナウンスが流れる。英語のアナウンスなので、ここでも詳しい内容は判らないが、もう後30分程でデリーのインディラ・ガンジー国際空港に到着するのであろう。
既に機体は徐々に降下を始めている様で、少し耳が痛くなって来た。
眼下には街の灯りがぽつぽつと見える様な高度まで降りて来た。
今度は機長からの機内アナウンスが流れる。恐らく着陸態勢に入った事を告げているものと思われる。
高度が下がり、眼下の街の灯りがはっきりと見える高度まで機体が下がっている。床下で振動が起こり、大きな音がする。タイヤのハッチが開いた様である。
既に機体は建物も確認出来るまで高度が下がり、更に高度を下げていると、大きな振動が起こり、無事デリーのインディラ・ガンジー国際空港に着陸した。時刻は24時40分過ぎである。
機体はゆっくりと空港内を移動し、10分程でターミナルに到着する。 -
<インディラ・ガンジー国際空港での時間とデリー市街への移動>
5分程で機内から乗客がターミナルに降り始める。ずっと座っていたせいか、立つと少し足が痛い。
機内を出るとさすがに暑い。香港では機内に居たので、外の気温は判らなかったが、デリーはかなり暑い様だ。特に日本が冬であるので、余計に暑く感じるのかも知れない。
到着したのは、B20番ゲートの様だ。ここからターミナル中央の入国審査のエリアに向かう。
途中に検疫エリアがあるが、何もない。そして入国審査エリアに着く。
エレベーターで、この入国審査所に下りる際に、その上に造られたモニュメントに目が行く。さすがに仏教発祥の地である。大きな手の平のモニュメントが並び、それぞれ違う印を結んでいる。
入国審査所はこの時間にしては人が多く、殆どの窓口に列が出来ている。他の便も到着したところの様である。この列の一つに並ぶ。しかし、然程時間もかからず、5分程で無事に入国審査を終える。
そして、手荷物受取所に移動する。ここで時間を要するかと思っていたが、既に我々のA1315便の荷物がコンベア上に出て来ている。その荷物を見るが、まだ私の荷物は無かった。ここで暫らく荷物が出て来るのを待つ。
程なく、私の荷物が出て来た。それを取り上げ、出口で向かう。時刻は24時15分過ぎである。 -
出口を出ると、この夜中に近い時間(よく考えれば、日本との時差が3時間半なので、インド時間では20時45分であった)でも多くの迎えの人達で出口前は一杯である。
その中からHISの旗を探す。しかし、出口の通路際にはその旗を見つけられない。もう一度通路を戻るが、見当たらないので、その通路際の人込みの外を探すと、通路の少し外れに、HISの旗を持った人を見つける。
そして、その人の下に行き、その旗を持った人に名前を告げると、その旗を持った人がガイドではなく、その人が別の人を呼んでいる。呼ばれた人が慌てて、私に近づき、私に名前を確認する。
この人がインドでのガイドの様だ。ここで、その人にまず、空港で両替を行いたい旨を告げる。
すると、空港ターミナルの到着ロビー内にある外貨両替所に連れて行ってくれ、そこの係員に説明を行ってくれた。そして、私に両替をしたいお金パスポートを出す様に言う。とりあえず、1万円分を両替する事にし、1万円を出し、両替を待つ。そして、インドルピーを受け取り、書類にサインを行う。
両替レートは、1万円=5,550ルピー(Rs)である。1Rsが約1.8円である。
この両替を終え、空港ターミナルを出る。そして、空港前の道路に向かう。
その際に、このインディラ・ガンジー国際空港について、ガイドの人に聞く。
すると、ガイドの人が空港について説明をしてくれる。
このインディラ・ガンディー国際空港の名前は、インディラ・ガンディー元首相に由来する。Indira Gandhi International Airport を略して、IGI Airport または IGIA と呼ばれていると言う。
旧名はパーラム国際空港と言い、第三ターミナルが出来た2010年7月から、インディラ・ガンジー国際空港に名前を変え、エア・インディアのハブ空港として使用され、国際線も国内線も第三ターミナルを使用する様になったと言う。
そして、ガイドの人が自己紹介をしてくれる。ガイドの人の名前はプリタム・シンさんである。
浅黒いインド人独特の肌色のスラッと背の高い人である。シンさんの家族構成は7歳と5歳の女の子と、1歳の男の子の5人家族だと言う。
この様な話を聞いていると、空港ターミナル前の道路に到着した。ここで少し車を待つ。シンさんは携帯電話で運転手と連絡を取っている様である。暫らくすると、我々の前に乗用車が止まる。 -
乗用車はトヨタのマークが付いた車である。後のロゴを見ると“ETIOS(エティオス)”の文字が見える。
運転手の人が降りて来て、私の荷物をトランクに入れる。
運転手の人は小柄な肌も余り黒くない、中央アジア民族の顔立ちをした人である。
空港から出ると、シンさんが運転手の人の紹介をしてくれる。運転手はサンジェさんと言う。
シンさんによるとデリーは渋滞が多く、今の時間帯でも市内は車が多いと言う。
車は右ハンドルで、走行も日本と同じ左側通行である。
ここで時刻をデリー(インド)時間に合わす。シンさんより日本との時差を教えて貰う。日本との時差は3時間半である。今は日本時間で24時40分頃である。よって、デリー(インド)時間では21時10分頃である。
ここからホテルまでは1時間弱掛かる予定との事である。空港から出て、少し走ると高速道路に入る。
この高速道路でデリー市内まで行く様だ。この間を利用して、シンさんが簡単なデリーの説明を始める。
デリーはインドの首都で、人口は約1800万人である。西暦1200年代に首都となり、数々の王朝の政治的な中心地となったと言う。
このデリーはインド王朝の時に造られた古い町であるオールドデリーと、イギリス植民地時代の新しく整備された町であるニューデリーの二つの町からなるが、今ではこの二つを合わせ、デリーである。
現在はグリーンデリーと呼ばれる事が多いと言う。
その理由は、デリーは車が異常に増えた為にその排ガスによる大気汚染が酷くなった。その為、最近では出来る限り車の利用を控え、自転車などを利用した交通が多くなったと言う。これが、定着しつつあり、その事をグリーン運動と読んでいる事からグリーンデリーと呼ばれていると言う。
この様な話を聞いていると、高速道路を下り、街中の道を走り始める。市街地はこの時間帯でも車が多い。
暫らく市街地を走ると、高架の線路が見えて来る。鉄道であろうか?
その後、何回か道を曲がり、この高架線路の下の道を進み、最後に小さな路地に入る。入って直ぐ左手に今日の宿泊するホテルである、ヴェダスヘリテージホテルがあった。 -
<デリーのホテルで>
この辺りはマンションと小さなホテルが並ぶ一画の様であるが、賑やかさはない。むしろ、ホテルの周りは外灯も少なく、その割には至るところに何としているのか判らない人がうろうろしている。
ホテルの周りを歩き廻るのは怖い感じの場所である。
時刻は、22時過ぎである。予定通りの到着である。ホテルのフロントで、パスポートを出し、ホテルの台帳に必要事項を記入し、サインを行う。
インドのホテルでは、日本の住所などをホテルの台帳に記入しなければならない様である。
大きなルームキーを受け取り、ここでシンさんと明日の待合せの時間と場所を決める。
明日の集合はこのフロント前で、8時45分である。また、明日の朝食はこのホテルの地下のレストランで7時半から取れると言う。今日はこのフロント前でシンさんと別れる。
フロントからはホテルのボーイが荷物を持って、部屋に案内してくれる。
部屋は3階の奥の部屋で302号室である。部屋に入り、ホテルのボーイがお湯の出し方などを教えてくれる。そして、お湯が出る事を確認し、ホテルのボーイにチップ、50ルピーを渡すと礼を言い、退室した。
細かな紙幣が無かったので50ルピーを渡したが、少し渡し過ぎたか?
しかし、このヴェダスヘリテージホテルは3流のホテルである。フロント前もロビーと呼べる場所もなく、ソファが置かれているだけであった。部屋はそこそこ広いが、設備などは大したものは置かれていない。 -
浴室も浴槽はなく、シャワーの下にはポリバケツが置かれ、ここにお湯などを貯める様だ。
部屋の中央にダブルベッドがあり、その奥にはソファが置かれている。薄型のテレビは付いているのが、唯一近代的なところと言えるか?部屋の天井には暑い国らしく、大きな扇風機が付いている。
エアコンが付いている様だが、その調節装置が見当たらないので、ホテル全館の共通空調なのかも知れない。調節が出来るには、天井についている扇風機だけである。
まずは部屋着に着替え、寛ぐ。時刻は22時30分頃である。
少しソファで寛いだ後、とりあえず、シャワーを浴びる事にする。シャワー室に入り、お湯が出るのを再び確認し、シャワーを浴び、添え付けのシャンプーで髪を洗い、洗顔を行い、シャワー室を出る。
ソファで休憩しながら髪が渇くのを待つ。その間にソファで、今日のまとめを行う。
時刻は23時前である。日本時間では既に夜中の2時半頃である。今日は本当に長い1日である。
暫らくの間、ソファで今日のまとめを行っていたが、明日の待合せ時間は遅いが、そろそろ眠たくなって来た。
そこでベッドに潜り込む。そして、23時30分を過ぎた頃に寝てしまう。 -
<観光初日の朝の時間と思わぬハプニング>
朝、6時過ぎに目が覚めた。直ぐにはベッドを出ず、6時30分前にベッドを出て、洗顔を行う。
ここで、昨日も感じたが、水やお湯が非常に心配である。そこで、部屋にサービスで置かれているペットボトルの水を用いて歯磨きを行う。洗顔は仕方なく、蛇口からの水で顔を洗う。
今日の朝食は、このホテル内の地下レストランで取る事になっている。そのレストランは7時半からと聞いている。このホテルは朝にチェックアウトを行うので、昨日出したものなどの荷物の整理を行う。
時刻は、7時過ぎである。まだ、朝の食事時間まで時間があるので、テレビを見て時間を潰す。そして、丁度7時半になったところで、部屋を出て、レストランに向かう。
エレベーターでまずは1階に下り、そこから階段で地下に向かう。しかし、地下のレストランはまだ灯りも点いていない。しかし、朝食用の食器などは準備されている。
そのレストラン前でどうしようかと迷っていると、1階からホテルの給仕人らしき人達が料理を運んで来た。
まだ、準備に少し時間が掛かる様である。
一旦部屋に戻り、もう少し時間が経ってから再びレストランに行く事にした。
部屋に戻り、再びテレビを見て時間を潰す。
外国へ行ってテレビを見た時に感じる事であるが、どこの国でも朝の時間帯にドラマを多くやっている。
日本では朝はニュース番組や情報番組が主流であるが、海外ではその様な番組は少なく、ドラマなどをやっているチャンネルが多い。その様なドラマの一つを見ながら時間を潰す。
そして、再び8時前になり、レストランに向かう。
レストランには既に料理が幾つか並べられているが、レストランには誰もいない。 -
どうしようかと料理が並ぶテーブル前で考えていると、ホテルの給仕人らしき人が降りて来た。
そして、私に料理を勧める。勧められた料理を見ると、スープ状のカレーが一品と、ライス、油で揚げたチャパティ、ゆで卵などがある。種類はそれくらいで、あとはフルーツとしてバナナがある程度である。
見れば、食パンも置かれている。
私がカレーを更に取り、チャパティとゆで卵を加え、食パンをどうしようかと考えていると給仕人が英語で食パンを焼くかと聞いている様で、お願いした。すると食パンを持ち、レストランの奥に消えて行った。
レストランの奥は暗く、何があるのか良く判らなかったが、席に着き、食事を始めていると再び給仕人が戻り、焼けた食パンを皿に置いてくれる。そして、マーガリンとジャムらしきものを添えてくれる。
結局、朝食は以下の様な内容である。
<平成24年2月23日朝食(ヴェダスヘリテージホテル内レストランで)>
①カレー(豆カレー)
②揚げチャパティ
③食パン(マーガリンとオレンジジャム)
④ゆで卵
⑤バナナ
豆カレーは少し辛いカレーで、チャパティや食パンなどといっしょに食べるには丁度良い。
しかし、ご飯は食べなかった。
このレストランで食事を取っているのは私だけである。食事をほぼ終えて、席を立とうとすると日本人女性の若い2人組がレストランに下りて来た。その2人も給仕人に促され、席に着いた。
私は、その2人組とは入れ換わりにレストランを出る。時刻は、8時15分過ぎである。
部屋に戻り、最後の荷物整理を行い、出発の準備を済ます。そして、少し早いが8時40分前に部屋を出て、1階のフロントに向かう。フロント前に着くが、シンさんはまだ来ていない。
フロントでチェックアウトを行い、フロント前のソファでシンさんが来るのを待つ。 -
時刻は8時45分になるが、シンさんは現れない。同じ様な時間帯で、別の女性2人組の日本人がフロント前に現れ、現地ガイドの人が迎えている。
しかし、直ぐに出発する気配がない。まだ車が到着していない様である。更に少し待つが、シンさんが現れない。すると、その女性2人組の日本人の現地ガイドが私に近づいて来て、日本語で話し掛けて来る。
その現地ガイドの人もHISのガイドとの事で、先程シンさんから少し遅れる旨の電話があったので、少しこの場所で待っている様に伝えて欲しいと言われたと言う。
その伝言の告げられ、お礼を言い、そのガイドは女性2人組の日本人を連れてホテルを出て行った。
私は引き続き、フロント前のソファでシンさんを待つ。すると、今度はこれも女性3人組の日本人がフロントに現れ、フロントの男性にオールドデリーへの行き方を聞いている。
英語で話すフロントの男性と会話が通じているのか、その女性3人組の日本人はフロントの男性にタクシーを呼んで貰い、ここからオールドデリーに向かう様である。そのタクシーが来るまで、私と同じく、フロント前のソファでお喋りをしながら、待っている。
もう既に待合せ時間から10分以上が経っている。外を見ると、運転手のサンジェさんが既に来ている。
それを見つけ、私もホテルの外に出る。ホテルを出ると、昨晩の夜は周りが暗かった為に良く判らなかったが、この辺りはホテルも多いが、民家も多い。朝の出勤時間帯なのか、仕事に向かう人達が見える。
その中には、何をしているのか判らない人達も昨晩と同様に多い。 -
サンジェさんに近づき、朝の挨拶を行う。
サンジェさんは日本語が判らないので会話は出来ないが、身振り手振りで、困ったと言う表情をする。
そして、暫らくするとこのサンジェさんの携帯電話にシンさんから電話の様だ。暫らく、話した後、その携帯電話を私に差し出し、出る様に促す。
その電話に出ると、やはりシンさんからであった。「おはようございます。遅れて申し訳ありません。昨晩遅く、私用でデリー郊外に出かけ、その場所から今、ホテルへ向かっている途中です。あと20分程でそちらに行けると思いますので、待っていて下さい。」と言う。
私が、「判りました。待っています。」と言い、再びサンジェさんに携帯電話を返す。
その携帯電話を受け取り、サンジェさんが再び少し話した後、話を終える。
サンジェさんが身振りで、また困ったものだと言った表情をする。
その後、ホテル前でサンジェさんと共にシンさんが来るのを待つ事になる。
待っていると3人の小さな子供達が私の前に現れた。見ると大きな箱の様なものを肩から提げている。
そして、私の前まで来ると、何やら盛んに言っている。どうも、その子供達の身振りから靴を磨かせて欲しいと言っている様である。しかし、私の靴は運動靴である。
すると、今度は、靴底のゴムを代えさせてくれと言っている様である。
私が困っていると、ホテルから出て来たホテル係員が、その子供達を追い払ってくれる。
それでもそのホテル係員に文句を言いながら、その子供達は少し離れたところで、まだ諦めていない様子であったが、ホテル係員に再度、追い払われて、渋々どこかへ消えて行った。
すると、今度は、赤ちゃんを抱えた女性が私の近くに来て、身振りで、その赤ちゃんに何か食べさせてやりたいので、お金を下さいと言った態度をする。
それも私が無視をしていても、私の前で何度も同じ身振りを繰り返す。しかし、この女性の行為を暫らく見ていたホテル係員が、これもどこかへ行く様に女性を追い払ってくれた。
ガイドに書いてあったが、インドではこんなにも物乞いをする人が多いのである。
先程の子供達は靴磨きを行ってはいるが、ほぼ物乞いに近い。
しかし、驚いたのは、この様な行為が行われているのに、運転手のサンジェさんは助けてくれなかった事である。つまり、この様な事はインドでは当たり前に行われている事で、特に気に止めていない事である。
時刻は既に9時20分を過ぎている。
もう、とっくにシンさんが言った時間を過ぎているが、まだ現れない。
すると再び、サンジェさんの携帯電話に電話が掛かって来た。その電話をサンジェさんが話終えると、私に英語で、「Thirty minietes late from now!」と告げながら、時計を指さし、時間を示す。
要はあと30分程シンさんが遅れると言う事である。大体、10時前にシンさんが来る様である。
待合せの時間よりも1時間以上の遅刻である。
サンジェさんと片言の英語で会話し、この周辺の事を教えて貰う。
道路の少し先に見えている高架の道路の様なものは地下鉄の様である。サンジェさんが“subway”と言う言葉を使ったので、地下鉄の地上に出た部分である。ここからは駅は見えないが、近くに駅もあると言う。
この時間を利用して、サンジェさんは自動車の掃除を行っている。
非常に大事に乗っているのか、車体も綺麗に磨かれている。
しかし、屋根を見ると大きな凹みが後方部にある。サンジェさんにこれはどうしたのかと聞くと、身振りで、上から岩が落ちて来たと言う。どこでその様な状況に出くわしたのか判らないが、大きな傷になっている。
それでも不幸中の幸いと言うべきである。もし、フロントガラスに直撃していれば大変な事になっていただろう。
その間も物乞いの人が何人か近づいて来ては、ホテル係員に追い払われて行く。また、サイクルリクシャーと言うインド独特の乗り物の運転手も何人かが声を掛けて来るが、サンジェさんがその人達は追い払う。
余りに、この様な事が多いので、サンジェさんが車を磨いているが、車の中で待たせて貰う事にした。
すると、9時55分前にやっとシンさんが現れた。盛んに、謝りながら車に乗り込む。
それに合わせ、サンジェさんも運転席に着き、直ぐにホテル前を出発し、やっと観光地に向かう。 -
<やっと初日の観光地:オールドデリー>
その車内で、シンさんが遅れた事情を話し始める。
早口で説明を始めるので、一部聞きとれない部分もあるが、大体は以下の様な理由である。
昨晩、急にデリー郊外の親類のところに行く事になり、深夜にデリーに戻るつもりが戻れなくなり、朝に移動する事になった。列車でデリーまで戻るのに時間を要し、駅からタクシーを飛ばしたが、今の時間になったと言う事である。
それからのシンさんは非常に饒舌であった。
そのシンさんの話は、このデリーの都市の歴史についての説明である。
説明の内容は以下の様なものであった。
チャウハーン朝のプリトビーラージによって、この地に最初に都市が12世紀に造られた。
チャウハーン朝は、10世紀末から12世紀末まで北インドを支配していたラージプート族の王朝である。
首都はこのデリー、プリトヴィーラージ・チャウハーン3世の治世の頃に最盛期であったが、ゴール朝の侵入により、1192年に滅亡した。
1193年にはクトゥブ・ミナールの建設者クトゥブッディーン・アイバクの率いるイスラム教徒に征服され、1206年にデリー・スルタン朝の首都となって発展した。
しかし、14世紀後半にモンゴル帝国のティムールによって征服、破壊された。
1526年、ムガル帝国を創設したバーブルは、デリー南方にあるアーグラを首都とさだめたが、その息子フマユーンはデリーに新しく都市を建設し、首都とした。
しかし、フマユーンの息子アクバルは、再び首都をアーグラへと移し、デリーは荒廃の一途をたどった。
1648年にデリーは再度ムガル帝国の首都となると、アクバルの孫シャー・ジャハーンによって再建され、現在のデリーの基礎が築かれた。
1739年、ペルシャのナーディル・シャーは有名な孔雀の玉座などの財宝を略奪し、支配下においた。
1771年頃マラータ王国の勢力下に入り、1803年にはマラータ戦争の結果、イギリスが支配権を獲得する。1857年、インド大反乱によって一時的に占拠され、名目的な存在ではあるが、この町にて在位していたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世も反乱側に加担したが、同年に奪回され、バハードゥル・シャー2世がデリーからミャンマーに配流されることでムガル帝国は完全に滅亡した。
シンさんによると、この時にムガル帝国の王族は、イギリス政府により、全て暗殺されたと言い、その為に王族の血縁はここで絶えたそうだ。
その後は一地方都市となるが、やがて当時の英領インドの首都だったコルカタが、東に寄り過ぎている上に、ベンガル分割令から政治的に急進化する傾向が生まれた為に首都の移転が計画され、ムガル帝国の旧都であったデリーに白羽の矢が立てられ、首都が移されることとなった。
1912年〜1931年はイギリス領インド帝国の暫定的な首都だったが、1931年にニューデリーが正式に首都に制定された。1947年のインド独立以来、産業が急速に発達するとともに人口も急増した。
現在、デリーはムンバイに次ぐインド第2の人口を持つ大都市となっている。
シンさんは、非常に歴史を勉強している人である。
面白かったのは、この話の途中に何度も、「メモを取って下さい!」と言う事を繰り返す事である。
しかし、この説明も日本人にはあまり馴染みのない名前がたくさん出て来るので、その名前をメモするのがやっとであった。歴史で有名な人物といえば、ティムールやアクバル、シャー・ジャハーンなどが有名で、あとの人物については良く判らない。
この様な説明を受けていると、道路の右手の空地の奥にレンガ造りの大きな壁が続く場所が見えて来る。
そのレンガ造りの壁が何かとシンさんに聞くと、この壁の中がオールドデリーと呼ばれる昔からの街であると説明してくれる。昔はこの様な壁で街が囲まれていたのだと言う。
暫らくすると、その壁の中に車が入る。その壁を少し入ったところで、道路脇に車が止まる。
この辺りは道も狭く、自動車だけでなく、オートリクシャーやサイクルリクシャー、自転車、バイクなどが混在して行くかっている。ここで、車を下り、少しその道を歩き、路地に入る。
シンさんの説明では、ここがオールドデリーの街で、ここから、この街をサイクルリクシャーで廻ると言う。その手続きを行う為に、路地にある店にシンさんが入る。
その店前には、白髪のおじさんがサイクルリクシャーで待機している。シンさんが、店に入る前に、私にこのサイクルリクシャーに乗る様に言うので、それに乗り込み待つ。 -
暫らくすると、シンさんが戻り、私の隣に乗り込んで来る。このサイクルリクシャーは2人乗りである。
2人を後に乗せ、おじさんが前で自転車を漕ぐ。
道が良ければ、乗り心地は悪くないのかも知れないが、このオールドデリー内の道は、穴ぼこだらけの道で、おじさんが、その穴ぼこをなるべく避けながら進むが、それでも揺れが酷く、場所によっては振り落とされそうになる。また、車の多い大きな道に出ても、車と並行する様に走るので、非常に怖い。 -
しかし、サイクルリクシャーなどが見れば、車の中をかなりの数走っている。この様な事は、このオールドデリーでは普通の光景の様である。そのサイクルリクシャーで、オールドデリーに中心地に向かう。
すると大通りを渡った先に大きなレンガ色の建物が見えて来る。これが、オールドデリーの中心地にある、インドを代表するモスクの一つであるジャーマー・マスジッドである。
このモスクの正式な名前は、マスジデ・ジャハーン・ヌマー、つまり「世界を見渡す(ことができるほど大きな)モスク」という名前のモスクであるが、一般的には「ジャーマー・マスジッド」と呼ばれる方が一般的な様である。なお、この名前自体は、「金曜(の集団礼拝に人々が集まる)モスク」といった意味であり、イスラム圏各地の都市に同様の名称で知られるモスクが多数存在する。
このモスクは、インド最大のモスクのひとつで、オールドデリーの繁華街チャーンドニー・チョウクの東端付近にある。中庭では25,000人が礼拝できると言う。
また、北門のそばの収容庫には、鹿の皮に書かれたコーランをはじめとする聖遺物が収められている。
このモスクに近づくに連れて、道の両脇には出店が増えて来る。また、多くの人がこの道を行き来している。
シンさんによると、このモスクの前には大きなバザール(市場)があるのだと言う。
ジャーマー・マスジッドに近づくにつれて、更に多く店が並び、その店で買い物をする人も多い。
また、バザールの入口も見える。右手にジャーマー・マスジッドを見ながら、このモスクの周りを巡る。
それにしても、自動車や我々の乗るサイクルリクシャー、オートリクシャー、人がこの辺りはごった返している。
このジャーマー・マスジッドの裏の辺りから店が並ぶ、小路に入る。その手前で、大きな観光バスに出くわす。見れば、欧米人らしき人達が乗っている。この狭い道に大きな観光バスは非常に迷惑極まりない。
このバスの脇を抜け、小路に入る。この小路は車も入れない幅の路で、更にその狭い路の両脇には、露天が並ぶ。果物や野菜、揚げ物などを売る店が並んでいる。
その曲がりくねった小路を抜けると、再び大きな通りに出る。 -
シンさんの説明によると、このオールドデリーはムガル帝国時代後期の首都の部分で、現在のデリーの北端に位置する。また、この辺りはその更に北東端であると言う。
また、この通りには多くの宗教寺院が並ぶそうだ。その宗教とは、スィク教やジャイナ教などで、丁度、大通りに出た辺りに大きな寺院が見える。
この寺院がスィク教の寺院である。このスィク教は、シーク教とも言われる宗教である。
このスィク教は、14世紀頃に、北インドを中心に広まった。これはグル・ナーナクが始めた宗教で、カーストを否定する一方で、輪廻転生を受け入れる所に特徴がある。ヒンドゥー教とは事なり、スィク教は一神教である。因みに、現職のマンモハン・シン首相もスィク教徒との事である。
また、ここでシンさんが話始める。「ここではターバンを巻いた人が多いと思いませんか?」と言う。
言われて見れば、このインドに来て、ターバンを巻いた人を余り見かけ無かったが、この辺りには黄色や黒色など、様々な色のターバンを巻いた人が多い。
「このターバンを巻いた人達の多くが、スィク教徒なのです。その理由は、スィク教徒は、宗教上教義から髪を切ってはいけないのです。その他にも、お酒やたばこも禁止されています。」と教えてくれる。
また、ターバンの色にも意味があり、黄色は神聖な色とされており聖職者の人が多く、黒色は教師の人と言う事の様である。
このスィク教の寺院前を過ぎ、通りを進むと、今度は見慣れた看板が見えて来た。マクドナルドの看板である。インドにも当然ではあるが、マクドナルドがある。しかし、当然宗教上の教義からビーフパテを使用したハンバーガーなどは販売されていないと言う。主に肉として使用されているのは、鶏肉と魚との事である。
そのマクドナルドの店の前を過ぎ、更に通りを進むと、前方に大きな建物が、また見えて来る。
これが、世界遺産のラール・キラー、通称レッド・フォートと呼ばれるデリーのお城である。
そのラール・キラーに向かい、サイクルリクシャーは進む。その手前で交差する通りの角に大きな寺院が見える。この寺院はジャイナ教の寺院である。
このジャイナ教は、仏教の開祖釈迦とほぼ同時代のマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不殺生)の誓戒を厳守するなど、その徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教で、インドの中でも最も古い宗教の一つである。ジナ教とも呼ばれる。
仏教と異なり、インド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、インド国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたり、インド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなお、わずかだが無視できない信徒数を保っている。
ここで、インドの宗教について、少し書くと、このジャイナ教の他に、先程のスィク教、それに仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、キリスト教、ユダヤ教、バハーイー教、ゾロアスター教、バラモン教など非常に多宗教の国である。
その中でも信仰者が多いのは、ヒンドゥー教、イスラム教、スィク教である。シンさんの説明によると、インドでは8割近くがヒンドゥー教徒であると言う。日本人にとっては、インドは仏教の国という印象が強い。
インドにおけるヒンドゥー教は、4世紀にはその骨格が固まった。ヴェーダ神話、ブラーフマナ・ウパニシャッド神話、プラーナ文献が広く知られている。
現在でもインド人の約8割がヒンドゥー教徒で、同国内で最も大きな規模を保っている。 インド以外では、ブラジルでも最も信じられている宗教である。
また、インドにおけるイスラム教は、12世紀頃に、西部からムスリムによるインド征服が行われ、その後にイスラム教が広まり、インド最初のイスラム国家ゴール朝が成立した。それ以来、ムガル帝国の崩壊まで、インドはイスラム教国家であった。イギリスとの紛争の際に、全インド・ムスリム連盟が結成される。
約13%のインド人がムスリムである。核問題に関して隣国パキスタンとの対立が続いている上に、ムンバイでは2006年にムンバイ列車爆破事件が、2008年にはムンバイ同時多発テロが発生した。
それまでにも、存在していたヒンドゥー教との対立や相互不信は、これらの事件によって更に深まったと言う。
そして、キリスト教は、紀元52年に聖トマスが、インドを訪問したという伝承がある。
トマス派は、この流れをくむ教派である。ヨーロッパで宗教改革が始まった後にイエズス会を中心に宣教師が派遣され、当時ポルトガル領だったゴアなどを中心に信者が増加した。
日本人にも馴染みのヴァスコ・ダ・ガマやフランシスコ・ザビエルもこの時期にインドを訪問した。
現在では約2%のインド人が、クリスチャンであり、スィク教やジャイナ教よりも信徒数が多い。プロテスタント系の北インド教会や南インド教会も在る。
インドにおける仏教は、仏教発祥の地であるが、イスラムによる弾圧の結果、一時期滅亡した。
20世紀に入り、アンベードカルの仏教改宗運動によって、主に不可触民を中心に数十万人の仏教徒が誕生する。21世紀現在、インドの仏教徒は佐々井秀嶺師によって率いられている。
その他の宗教では、ゾロアスター教は、その信者は少ないがインドでは絶大な影響力を持っている。
バラモン教は、ジャイナ教、仏教と共に最も古い宗教の一つであるが、ヒンドゥー教との共通点も多い。
最後にバハーイー教は19世紀にイランでハバーウッラーが創始した一神教である。世界中に信者を持ち、キリスト教に次ぎ、布教国が多いとされている。
この様にインド国内の宗教事情は非常に複雑である。 -
丁度、大通りが交差する先が、ラール・キラーである。
その交差する大通りを強引に渡り、ラール・キラーの敷地門の前に移動する。そこには衛兵らしき人が数人立ち、この中に立ち入る人を制限している。このラール・キラー城内は現在入る事が出来ない様であるが、城壁前までは敷地内に入る事が出来る様である。その敷地内を行き来する人が見える。
シンさんがその衛兵に中に入れてくれる様に交渉をしているが、どうも敷地内には入れない様である。残念である。
その為に、この門の前で記念撮影を行う事になった。
このラール・キラーは、オールドデリーの北東端に位置し、デリー城はその外観からレッド・フォートとも呼ばれ、ムガル第5代皇帝シャー・ジャハーンが建設し、自らの居城とした城である。
なお、インドで、「赤い城(レッド・フォート)」と言えば、同じくムガル帝国時代に築かれたアーグラ城塞を指す場合もある。皇帝シャー・ジャハーンが、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードにおける居城として築いた城である。9年の歳月をかけて1648年に完成した。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。
1857年のインド大反乱を受けて、イギリスは軍の駐屯地として、これを接収した。兵舎が建設されるなど、城内は大きく造り替えられた。インドの独立後も近年まで軍の施設として使用されていた。
2007年には、隣接するサリームガル砦と併せて「赤い城(レッド・フォート)の建造物群」として、ユネスコの世界遺産に登録された。
サイクルリクシャーを下り、この前で数枚の記念写真を取り、再び乗り込み、サイクルリクシャーの乗り場に戻り始める。 -
ラール・キラーの城壁を左手に見ながら、大通り沿いを進み、その大通りが曲がるところで、その道を渡り、再び小さな小路を抜け、もとの乗り場近くの街に戻る。ここには、大きなジャイナ教の学校がある。
シンさんによれば、ここは元ジャイナ教寺院であったが、今は寄付により、ジャイナ教の学校になっていると言う。その横を抜け、もとの場所に戻る。
サイクルリクシャーがもとの小さな小路に入り、止まる。シンさんは再び、店に入り、手続きを行う。
そして、私に、「ここで少し土産物店を見てから、次の観光地に向かいます。ここの地下に土産物店がありますので、入ったところの階段を下に下りて下さい。」と言い、私をその店に誘導する。 -
そして、その入口脇の階段を下りる。階段を下りた先に地下の部屋全体が土産物店になっている。その土産物店に入ると、一人の中年女性が流暢な日本語で話し掛けて来る。
この店の支配人らしき、その女性の説明で幾つかの土産物を見て廻る。
特に勧められたものは、香木の彫刻品である。日本でも人気のある財物神であるガネーシャ像の彫刻品などを見せてくれる。値段を聞くと、1つが800Rs(約1,450円)である。かなり高い様に思う。
しかし、ものは中々良いものである。そこで、交渉に入る。幾らかディスカウントしてくれる様にお願いするが、ここは政府公認の店であるので、それなりに安価な値段になっている為に、これ以上ディスカウントは出来ないと言う。そこで、まとめて購入するので何とかディスカウントをお願いする。
すると、何個購入するのか、聞かれるので5個程と言うと、店の奥に行き、この店の店主と相談している様である。暫らくすると戻り、「それでは5個で3,500Rs(約6,300円)でどうですか?」と聞いて来る。
まあ、かなりディスカウントしてくれた様なので、それで購入する事にした。
その後、シルク製品と香木のペンダントなどを全部で、日本円で1万5千円分程購入する事になった。
この土産物店にも、結局30分程居た。土産物を購入し、再び階段で地上に上がる。
そして、路地から通りに出て、そこでサンジェさんの待つ車に乗り込む。時刻は、11時35分過ぎである。 -
<インド門とフマユーン廟>
車はこの通りから出て、オールドデリーを囲む壁沿いの道を進む。暫らく、この壁沿いの道を進んでいたが、再び周りが開けた通りに出て、公園らしき入口を入る。
そして、その入口付近で車が止まり、ここで車を降りる。
降りたところからも、次の観光ポイントであるインド門が見えている。この公園はインド門を中心に造られたものである。公園内には飲物などを売る露店が並ぶ。
その公園内の道を進み、インド門に向かう。今日は平日ではあるが、この公園には多くの人が集う。
公園内を抜け、インド門近くに行き、そこでシンさんが説明を始める。
インド門は、英語では“India Gate”と呼ばれ、ムンバイにあるインド門は英語で“Gate of India”
で、この二つの門を区別していると言う(日本語ではどちらもインド門であるが)。
このインド門は、フランス、パリの凱旋門の様なものではなく、慰霊碑である。
第一次世界大戦にイギリス軍兵士として参加し、戦死したインド人兵士(約8万5千人)を追悼するために造られたものである。高さ42mのアーチには、第一次世界大戦で戦死したインド人兵士の名が刻まれている。
東西に伸びるラージパト通りにより、東端のインド門と西端の大統領官邸が結ばれている。
この門の中心地には、永遠の火という火が灯されている。
また、ここからも見えている門の下に掲げられた3つの旗は、それぞれ空軍、陸軍、海軍の旗である。
この様な説明を行ってくれる。そして、ここからはインド門に近づかず、ここで記念撮影を行う事になった。
インド門をバックに何枚かの写真をシンさんに撮って貰う。そして、再び先程の公園入口に戻る。
途中、丁度インド門の正面にも大きなモニュメントが見える。シンさんによれば、この公園は“チルドレンパーク”と呼ばれているそうだ。 -
先程のオールドデリーの観光で喉が渇いていたので、シンさんにお願いし、露店で何か飲物を購入する事にした。露店で、シンさんにペットボトルのジュースを購入して貰う。
購入したジュースは“Slice”と書かれたマンゴージュースである。
シンさんによれば、マンゴーはインドでは非常にポピュラーな果物で、インド全土でほぼ1年中食べられる果物なのだと言う。また、マンゴーは野菜としても、インドでは好まれて、食べられていると言う。
そのペットボトルを持ち、車に乗り込む。時刻は11時55分前である。
車内で、そのマンゴージュースを飲むと、これが中々美味しい。海外で購入したジュース類はあまり美味しいと感じるものは無かったが、これは今迄海外で飲んだジュースの中でも最も美味しいジュースである。
これを飲みながら、再びデリーの市街地を車が走る。ここまで来る途中でも、出くわしたが、インドでは交差点は少なく、殆どがロータリーになっている。
偶に現れる交差点で車が信号待ちで停車すると、そこに物売りの男性や女性が停車している車に近づき、窓を叩き、物を見せている。 -
次は午前中最後の観光地であるフマユーン廟である。インド門のある公園からフマユーン廟までは然程遠くないとの事である。車は10分程で、大きな公園の様なところの入口で止まる。
ここが、フマユーン廟への入口の様である。
ここから、公園の入口に向かい歩き始める。公園内を歩くと、鉄柵で囲まれた一画に、再び門の様なものが見えて来る。この鉄柵で囲まれた中が、フマユーン廟で、見えて来た門がその入口である。
入口脇でシンさんの入場手続きを待つ。
シンさんの手続きが終わり、2人で門を抜ける。すると、その門脇から右手にヤシの木々が並び、その奥に古めかしい塀で囲まれた建物が見えている。 -
シンさんによると、これも廟で、フマユーンを北インドから追いやったパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍のシェール・シャーの廟であると言う。
このシェール・シャーは、1540年にビハール(インド北東部に位置する)の地を従えたパシュトゥーン人の将軍で、フマユーンはこの将軍に君主の座を奪われて、ペルシアに亡命し、流浪の生活を送る事になった。
このシェール・シャーの廟は現在修復中の様で中には入れない。
その前を過ぎ、奥に進むと、白い建物が現れる。これがフマユーン廟への正式な門である。その門を潜ると、正面に大きなレンガ色の建物が見えて来る。これがフマユーン廟である。 -
この門前で、シンさんがこのフマユーン廟について説明を始める。
その説明内容は大体次の様な内容である。
フマユーンは、ムガル帝国第2代皇帝であるが、一時シェール・シャーによりインドを追われ、ペルシアに亡命する。ペルシアのザファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にアーグラとデリーなどを奪回し、北インドを再征服するが、翌年事故死してしまった。
この皇帝の死に王妃で信仰厚いムスリマであるハミーダ・バーヌー・ベーガム(ハージ・ベグム)が、フマユーンの前に北インドを治めたシェール・シャーに対抗する意味もあり、このシェール・シャー廟の脇で、ヤムナー河畔の、この地に壮麗な墓廟を建築したのが、このフマユーン廟である。
伝えられるところによれば、ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤートゥッディーンとその父ミラーク・ギヤートゥッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成されたという。
その建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すと言われている。
この建築スタイルは、インドで最も有名な墓廟であるタージ・マハルにも影響を与えたと言われている。
1993年に世界文化遺産に登録された。 -
門を抜け、少し歩くと廟建物がはっきりと見えて来る。丁度、廟の全景が見えるところで、シンさんが記念撮影をしてくれる。
そして再び歩き出し、廟前に達する。
廟は基壇上に建てられている。その基壇中央部に階段があり、その階段を上る。
階段を上がると、廟建物前は広場になっている。その広場には、同じ制服を着た地元の小学生らしき子供達が一杯いる。社会見学で、このフマユーン廟を訪れているのであろうか? -
廟前にも多くの小学生が屯している。その小学生を含め、廟前で写真を撮っていると、その小学生の何人かが私の下に来て、何やら言っている。
シンさんに助けを求め、「何と言っているのですか?」と聞くと、「一緒に写真を撮って欲しいと言っているのです。」と教えてくれる。それならと、シンさんに頼み、子供達にその旨を伝えて貰い、カメラを構える。
すると、最初は数人であったが、次から次へと小学生が集まって来た。
中には、一緒に写りたいという子供達も現れ、シンさんにお願いし、子供達と一緒に写真を撮って貰う。
その写真撮影会は、この廟の警護人らしき人が、子供達に注意した事で終わる。その警護人に注意された子供達は、元の廟前に戻って行った。
その後、シンさんと廟を反時計回りに廻る。その途中で、シンさんに、「何で子供達は私に興味を持って寄って来たのですか?」と尋ねると、「肌の色が珍しいのだと思います。我々インド人よりも肌の色が薄いのに、顔立ちが似ている人は余り地元では見る事がないからです。」と教えてくれる。
その様な話をしながら、廟前から横に移動すると、その横から廟内に入る事が出来る様である。 -
その入口から廟内に入る。その中は特別な装飾もなく、非常に質素な感じの墓廟である。入口付近の廊下の天井には、大きな花の様な彫刻は施されているが、彩色されていない。
そして廟中央に大理石の石棺の様なものが置かれている。しかし、それも何の装飾も施されていない。その中央部の床部分は、白大理石と黒大理石のタイルで幾何学模様が造られている。
しかし、その天井には彫刻も何もない。 -
ここは墓廟なので、内部は撮影禁止かと思っていたが、シンさんに聞くと、写真もOKとの事で、この石棺も写真に収める。この内部を見終え、再び入って来たところから出て、再び廟周りを反時計回りに進む。
その途中で再び先程の小学生の集団に遭遇する。今度は、先生らしき若い女性と一緒である。
またまた私を見つけ、数人の男の子達が近づいて来る。
そして、今度は自分達の持っているカメラで、私と一緒に撮りたいと言っている。そこで、その女性の先生の周りに集合して、写真を撮ろうとするが、次から次へと人が集まり、収拾がつかない状態である。
それでも数枚の写真を撮り、私も小学生数人のカメラに収まる事になった。
そして、正面に戻り、その正面広場には先程気が付かなかったが、この廟前の広場にも廟内と同じ様な石棺が数個並んでいる。
シンさんによると、この石棺の上に装飾が施されたものは、男性のもので、装飾がないものが女性のものだと言う。ここに並んでいるものは、全てフマユーン皇帝にゆかりのある皇族のものであると言う。
これでフマユーン廟の見学を終え、再び階段を下り、入口を目指し、歩き始める。
シンさんに聞くと、今日は時間が昼時であったせいか、いつもよりも人が少ないとの事である。このフマユーン廟は、海外からの観光客は勿論のこと、国内のインド人の観光客にも人気のある場所なのだと言う。
そして、入口まで戻り、車の駐車場に向かう。その途中で、物売りのおじさんに捕まる。
そのおじさんが売っているものは、インドの観光ガイド本である。幾らするのかをシンさんに聞いて貰うと300Rs(約540円)だと言う。非常にしっかりとした本なので、日本で購入すると1,000円以上しそうな本なので、300Rsなら高いとは思わないが、インドでは高いのかも知れない?
しつこく付きまとわれるので、1冊購入する事にした。
その本を購入し、車に乗り込む。少し歩いたので、車に乗り込むと汗が噴き出す。 -
<デリー市街の様子と昼食>
昼を過ぎ、気温もかなり上がって来ている。車の中も運転手のサンジェさんがエンジンを切って待っているので、車内はエアコンが効いていない。時刻は、12時45分過ぎである。
ここから昼食場所までは然程遠くないとシンさんが言う。車は再びデリーの市街を走る。
途中で大通りに出ると、シンさんが、「この辺りは各国の大使館が並ぶ一画です。」と説明してくれる。
まず、右手に見えて来たのが、中国大使館で、その道を挟んだ反対側は、アメリカ大使館だと説明してくれる。ここで、シンさんが、「両大使館を見て、気が付く事はありませんか?」と言う。
そして、道の両側の大使館を良く見ていると、中国大使館の塀には鉄状網が続いている。また、門のある所にはパトカーが待機している。アメリカ大使館にはその様なものは見えない。
その事をシンさんに言うと、「そうです。それではなぜ中国大使館には鉄状網などが施されているか判りますか?」と聞いて来る。私が少し考えていると、シンさんが、「それはインド国民の一部が、中国政府のチベット弾圧行動に抗議をしているからです。インドにはチベット族の人達も多いので、その抗議が激化する恐れがある為です。」と教えてくれる。
その後、各国の大使館前を通り、最後に日本大使館前を通り、この大使館の集まるエリアを抜ける。
シンさんによると、この大使館の敷地は、国の大きさに関わらず、全て同じ広さなのだと言う。その敷地内の建物は全て、各国で自由に建てているそうだ。
この大使館の並ぶエリアを過ぎると、大通りから小路に入り、その脇の小さな公園の様なところの前で車が止まる。その奥に数軒の店が並んでいる。この店の一つが今日の昼食場所の様である。
車を降り、その店の並ぶところに向かい、歩き始める。
店の前に着くと、大きな看板が見える。そこには、“Moti Mahal Delux”文字が見える。 -
店内に入ると、丁度昼時である為か、1階の店内は客で満席である。この店には2階もある様で、店奥の階段を上り、2階に上がる。しかし、2階もほぼ満席で、階段近くのテーブルが一つ空いているだけである。
そのテーブルに座る様に店員に促される。
見ると周りの客は殆どが日本人である。この店も日本人の観光客用の店の様である。ここで驚いたのは、シンさんも同じテーブルに座った事である。どうも一緒に食事を取る様である。
これまで何回も海外旅行を行ったが、現地ガイドと一緒に食事を取った事はない。
こんな事は初めてである。まずはいつもの様に飲物を聞かれ、これは別料金である事を告げられる。
何があるのかをシンさんが店員の男性に聞いてくれる。
お勧めは、インドの定番の飲物である“ラッシー”との事で、その“ラッシー”にも幾つかあり、この店のお勧めラッシーは、マンゴーラッシーとの事で、それを注文する。
飲物を注文した後、シンさんから今日の昼食について説明がある。今日の昼食は、タンドリーチキンである。
勿論、このタンドリーチキンだけではなく、カレーも出て来ると言う。
そして、ご飯とナンの好きな方で食べる事が出来る様だ。まず飲物が来て、先に少しマンゴーラッシーを飲む。少し甘く、淡くマンゴーの香りがするが、味は基本、酸っぱい飲物である。この飲物を飲み、少し落ち着いたところで、現地ガイドの人と一緒に食事のテーブルに着くのが初めてである事をシンさんに告げる。
シンさんは少し不思議そうな顔をして私に、「他の国の現地ガイドは食事の時にどうしているのですか?」と逆に尋ねられた。私が、「他の場所で食べているのだと思います。我々は現地ガイドの人が食事を取っているところを余り見る事はありません。」と答える。
シンさんによると、インドでは現地ガイドが一緒に食事を取る事は極普通の事なのだと言う。
その様な話をしていると、大きな皿に乗ってタンドリーチキンが出て来た。さすがにインドの名物料理のひとつである。見た目は非常に美味しいそうである。また、一緒にソースの様なものが付いて来た。
シンさんに聞くと、ミントソースとピクルスソース、そして小玉葱の一夜漬けだと言う。そのミントソースなどをお好みで付けて食べるのだ。
シンさんと皿のタンドリーチキンを一つずつ取り、食べ始める。骨付きのもので、非常にスパイシー(激辛)ではあるが、表面部分だけで中は淡白な味である。言われる様に少しミントソースなどを付けると美味しい。
そのタンドリーチキンを食べていると、カレーが2種類と、大きなナンと焼飯の様なご飯が出て来た。
結局、出て来た料理は以下の様な内容である。
< モティ・マハル・デラックス >
①タンドリーチキン(激辛であるが美味)[ミントソース/ピクルスソース/小玉葱の一夜漬け]
②まめカレー
③グリーンピースとマッシュルームのカレー
④焼飯風ご飯(グリーンピースや人参などと一緒に少し炒めたご飯)
⑤焼きチーズ(チーズとは判らない。豆腐の様な感じである)
⑥ヤギ肉のシークカバブ(ミントソースを付けて食べる)
⑦ナン
⑧アイスクリーム
⑨マンゴーラッシー(別注)
⑩チャイ
シンさんによると、まめカレーはインドではポピュラーなカレーの様である。シンさんはこれを盛んに食べている。もう一つは少し辛いカレーである。ご飯はインド独特のご飯である。非常に細長のご飯で、タイ米に似たものであるが、それよりも更に細い様に見える。日本のお米の3分の1程の細さである。
ご飯は美味しくない。ナンはそれに比べ、香ばしく非常に美味しい。このナンでカレーを食べる。
ナンはシンさんとふたりで最初に出て来た分を食べ終わり、おかわりをする。ナンは食べ放題の様だ。
充分食事をした後、最後にチャイ(インド独特の紅茶)を貰い、合わせてアイスクリームが出て来る。
チャイと一緒にペットボトルの水が出て来た。これは店で飲んでもOKであるが、そのまま持って帰って良いとシンさんが言うので、そのまま車の中で飲む事にする。
私が、チャイとアイスクリームを食べている間にシンさんはトイレに行く。この間に店員が来て、別注のラッシーの料金の支払いを行う。マンゴーラッシーは150Rs(約270円)である。
我々が食事を終える頃には満席であった店内も客は極端に減り、我々と数組の客しか2階のテーブルに残っていない。食事を終え、私もトイレを済ませ、店を出る。時刻は13時45分過ぎである。
これから午後のデリー観光をし、その後ジャイプールへ移動である。
サンジェさんと合流し、車に乗り込む。サンジェさんはどこで食事を取っていたのであろうか? -
<デリー最後の観光地:クトゥブ・ミナール>
ここで、シンさんから改めて午後の予定の説明が行われる。
今日は、これからデリー郊外のクトゥブ・ミナールの観光を行った後、ジャイプールへ移動する。
予定ではジャイプールへの途中でお茶店に立寄るが、現在ジャイプールへの高速道路が工事中であるので、時間がかなり掛かる見込みである為に、このデリー郊外のお茶店は最終日のデリーへの帰り道に立寄る事にする旨、説明があった。
昼食場所からクトゥブ・ミナールまでは少し時間が掛かる様である。再び、デリーの街中を車が走る。
この辺りの交差点は信号が非常に少ない。殆どの交差点がロータリーになっている。
偶に大きな交差点になるとさすがに信号があり、車が停車する。すると、それを待ちうけていた様に人が何人も近づいて来る。何をするのかと見ていると、手に花を持ち、各車の窓ガラスを叩き、その花を売っているのである。こんな花を買う人がいるのかと何台かの車を見ていると中には、その花を買う人がいる。
我々の車にも何人かの花売りが来たが、それを無視すると盛んに窓ガラスを叩く、驚いた事にシンさんも運転手のサンジェさんも何も言わない。この様な事は当たり前の様である。
信号が変わると、その人達も車から離れ、狭い中央分離帯の植木のところに退避する。
車が走り出したところで、私がシンさんに、「先程の物売りの中には、小学生くらいの子供もいましたが、あの子達は学校に行っていないのですか?」と尋ねると、シンさんが、「学校に行っていません。」と答える。
また、「学校へ行かなくても良いのですか?」と聞くと、少し困った様な顔をして、「インドでは、小学校は義務です。しかし、あの子達は小学校に行っていません。あの子達は売春婦の子供達で、学校には行けません。」と答える。私が、「まだ、インドではカースト制が残っているのでしょうか?」と聞くと、今度は強い口調で、「今のインドにはカースト制はありません。但し、その名残が残っているのは、否定出来ません。」と答える。
雰囲気的にこれ以上突っ込んで聞くのは、いけないのではと思い、この会話はここで終了した。
しかし、クトゥブ・ミナールへの途中で、この様な物売りに、この後も何回も出会う事になった。
車は徐々に街中の喧騒から外れ、少し交通量も少なくなり、スムースに走り始める。すると、前方右手にクトゥブ・ミナールの尖塔が見えて来た。もう少しの様である。
時刻は14時30分前である。何回か、道を曲がり、少し狭い路地に入ったところで、車が止まる。既にクトゥブ・ミナールの尖塔が右手に大きく見えている。この場所で車を降り、道を渡る。
この辺りはクトゥブ・ミナールに観光に来た人達の車があちこちに停車している。また、客を求めて、多くのオートリクシャーが並んでいる。その間を縫う様に歩き、小さなレンガ造りのアーチの前に来る。
ここが、クトゥブ・ミナールの入口の様である。ここでは入場手続きもなく、シンさんがそのままアーチを潜り、私もその後に続き、アーチを潜る。すると、中の道は意外に広く、多くの観光客が歩いている。 -
また、その道の右手正面には、小さなモスクの様なものが見えている。すると、シンさんが、「あれはモスクです。ここは観光地でもありますが、一般のイスラム教徒の祈りの場所でもあります。」と教えてくれる。
そのモスクの前辺りまで来ると、このクトゥブ・ミナールの正規の入口らしき鉄格子の柵が現れる。
ここでシンさんが、簡単な手続きを済ませ、その鉄格子の柵を潜り、中に入る。丁度、説明のあったモスクを右手に見ながら、中に進む。時間帯が違うのか、モスクには殆ど人はいない様である。
中に入ると、公園の様なところに遺跡の様な建物が点在している。何の建物なのかは判らないが、小さな小屋の様なものから、大きなアーチ状の天井を持ったものなどが建っている。 -
この中を進むと、正面にクトゥブ・ミナールの尖塔が木々の間から見えて来る。その尖塔の左手の回廊に向かい、進み、その回廊沿いに尖塔下に移動する。その尖塔の手前数十mのところでシンさんが立ち止り、この尖塔についての説明を始める。シンさんの説明は大体以下の様な内容である。
クトゥブ・ミナールは、奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、建てられたクワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた尖塔である。この土地では古くから、ヒンドゥー教やジャイナ教が信仰されていた事から、おそらくはヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたもので、建築に携わった職人もヒンドゥー教徒であったと推測されていると言う。
その為に、クトゥブ・ミナールも含め、ここの建物の多くは、ヒンドゥー様式とイスラム様式が混在した様式となっている。
クトゥブッディーン・アイバクの命で1200年頃に建造された、この尖塔(イスラム教ではミナレットと言う)は72.5mの高さを誇り、世界で最も高いミナレットとなっている。 -
現在残っているには、5層部分まであるが、元々は7層であったとされ、もっと高く、創建当初は100mの高さがあったと言われているそうだ。しかし、フランスの航空機の先端部への衝突や、地震や落雷などで先端が崩れ、修復はしたものので、現在の高さになっていると言う。直径は基底部14.3mに対して先端部2.75mで、文字通りの尖塔である。この説明で、シンさんがガイドブックなどに乗っていない情報を話してくれる。
フランスの航空機により、尖塔の先端部が破壊されたと言う話である。シンさんによると、この近くにデリーの空港があり、空港を飛び立った航空機が尖塔の先端部に接触したとの事であるが、本当であろうか?
この様な説明を受け、再び回廊沿いに尖塔に向かい歩き始める。
そして、尖塔の真下辺りで再び、説明を始める。
この尖塔の一層目は丸い面と尖った面を交互に組み合わせ、その表面に多くの装飾が施されているが、その中心となる装飾はコーランの教えをアラビア語で記したものであると言う。
また、この尖塔は赤砂石をレンガの様に積み上げて造られていると言う。 -
内部には378段の階段があり、以前は先端部近くまで上ることが出来たが、1982年、照明が消えた事で、内部でパニックになった修学旅行中の少女たちが階段で将棋倒しになり、十数名が死傷する事故が起こった。
この事故以来、内部への立ち入りは禁止されたのだと言う。
近づいて見ると、非常に精巧に石が組み上げられており、その組み上げられた石の表面に装飾が施されている。丁度、見上げる高さのところにコーランの教えを記したアラビア語の装飾が見える。
その場所から尖塔の下を一周すると、丁度反対側にこの尖塔の入口があるが、その前には鉄柵が設けられ、また扉は閉まり、鍵が掛けられている。 -
この尖塔横にはモスクとして使用されていた建物が並んでいる。また、その前は大きな広場になっており、お祈りの人達がここに集っていた様だ。その広場の左手にポツンと1本の柱が建っている。これが、有名な“アショカ王の柱”の一本であるデリーの鉄柱である。
デリーの鉄柱とは、このクトゥブ・ミナール内にある錆びない鉄柱のことで、チャンドラヴァルマンの柱とも言われる。99.72%という高純度鉄で造られており、表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれている。
直径は約44cm、高さは約7m、地下に埋もれている部分は約2m、重さは約10トンもある。
現在はイスラム教礼拝所など歴史的建造物が集まったクトゥブ・コンプレックスと言われるこの公園内にあるが、元々は違う場所にあったそうだ。紀元415年に建てられたと言われている。地上部分は1500年以上のあいだ錆が内部に進行していないが、地下部分では腐食が始まっていると言う。
鉄柱が純度の高い鉄製だから錆びないというのは誤りの様で、金属工学の専門家によれば、99.72%の純度ならば50年ほどで錆びると言われており、1500年の間風雨に曝されながら錆びなかった理由は、鉄の純度の高さではなく不純物の存在にあるという仮説が有力なのだと言われている。
インドで産出される鉄鉱石にはリンが比較的多く含まれている。また、インドでは鉄を精製する際にカッシア・アウリキュラータというリンを含む植物を加えていた記録がある事から、リンを豊富に含んだ鉄を薄い円盤状にして加熱しながら叩くと、鉄の表面がリン酸化合物で覆われる。
その円盤を積み重ねて、さらに叩いて一体化させれば、鉄柱の表面がリン酸化合物でコーティングされ、錆に強い鉄柱が完成するという。
また、「この柱は地中深くに達し、地中を支配する蛇の王ヴァースキの首に刺さっている」という伝承があり、嘗ては、観光客達がその不思議な力にあやかろうと柱を触ったり、中には上までよじ登った者もいるという。
現地の人々は、体に油を塗って太陽光線から肌を守る習慣があり、その油が柱につくことによって錆を防いでいるのではないかという説もあるが、現在、柱の周りは柵で囲われているため、人が直接触れることは出来ない様になっている。その柵越しに見ても、青黒色に光る柱の表面に凸凹はあるが、錆が見当たらない。
本当に言われている様な製造方法で、古代インドの人達が造ったのであろうか?
造ったとして、錆ないと判っていたのであろうか?それを考えると不思議な鉄柱である。
その柱を見た後、この広場の周りの回廊部分の一画から外に抜ける。 -
すると、その回廊の外に外れにも、大きな尖塔の残骸の様な基台が見えている。これがもう一つの未完成の尖塔で、アライ・ミナールである。
その前まで行くと、その基台の大きさが判る。
このアライ・ミナールは、クトゥブ・ミナールの北約150mのところにある、未完のミナレットである。
アライ・ミナールはクトゥブ・ミナールよりも大きな尖塔建設を試みたが、建設を開始した直後の財政難で工事が中断し、現在は25mの直径を持つ巨大な基底部だけが残る。完成していれば、クトゥブ・ミナールよりも大きな、100mを超える尖塔になっていたとされる。 -
このアライ・ミナール前から入口に向かい、戻る。
この公園の様な場所は木々も多く、木陰もあり、心地よい感じのところである。
再び、入口のアーチ門まで戻り、その前の多くの車が止まる中で、サンジェさんの車を探す。
暫らく、するとサンジェさんの車が我々の前に現れ、乗り込み、クトゥブ・ミナールを後にする。
これでデリーでの観光は終了である。これから、今日の宿泊先であるジャイプールへの移動である。 -
<ジャイプールまでの道程と高速道路>
最初の説明で、デリーからジャイプールまでは高速道路を使用するが、その高速道路が現在工事中でもあり、予定よりも1時間以上時間が掛かるとの事で、約5.5時間要する予定との事であった。
時刻は15時過ぎである。予定ではジャイプール到着は20時半頃である。
車は暫らくの間、デリーの街中を再び走り、少し郊外に出たところで片側5車線程の大きな道路に出る。
しかし、この道路は5車線もあるのに、非常に渋滞をしている。
シンさんに聞くと、ここはもう高速道路の入口付近であると言う。この先に料金所があり、その為に渋滞している様だ。車はなかなか進まない。しかし、20分程すると、前方に大きな料金所が見えて来る。その手前で、車線が減少している為に渋滞を起こしている様である。
何とか、この料金所を抜けると、片側3車線の道路が現れるが、日本の様に道路が区切られている事がなく、その道路脇には多くの家が建っている。また、高速道路の3車線の外に、もう1車線舗装されていない道が現れた。その道を走る車も高速道路に入り、少し走ると再びその道に戻ったりを繰り返している。
まだ、この辺りは工事中で、高速道路の区切りがないのかも知れない。
見ると、中央分離帯も工事をしている。料金所から少しスムースに走っていたが、再び車が止まってしまう。前方で、道路工事中を行っている為に、車線が1車線になっている。
すると、高速道路を走っていた車が舗装されていない側道の様な道を少し走っては、高速道路の道に戻る事を繰り返し、行っている。運転手のサンジェさんも数回その様な事を繰り返し、少しでも渋滞を回避しようとする。それでも余り大きく進む事はなく、この渋滞を抜けるのに更に20分程掛かっていた。
しかし、この渋滞中に面白いものを側道で見る事が出来た。
非常に派手な装飾を行い、大きなスピーカーらしきものを積んだ小型のトラックである。
シンさんに聞くと、「あれは結婚式などのお祝いの席で演芸を行う人達の車です。あの人達はみんなゲイですよ。」と教えてくれる。見ると、止まっているトラックの荷台の部分に数人の女性ぽい服装の人達が座っている。車内からカメラを向けると、それに気が付いたのか、こちらに手を振っている。 -
渋滞を抜けると、少しスムースに走っては、再び少し渋滞をする事を繰り返しながら、徐々に車はデリーの郊外に出る。1時間程走ると、車の数も少なくなり、それなりのスピードで走る様になるが、それでも偶に工事を行っている為に車線が制限されているところで、止まる事がある。
デリーの郊外に出ると景色は一変する。見渡す限りの田園と畑地帯に変わる。
シンさんに聞くと、主に栽培されているのは、小麦で、中にはトウモロコシもあるそうだ。畑には様々な野菜が栽培されているが、インドで欠かせないものの一つが豆なのだと言う。
豆類は非常に多種なものが栽培されている様だ。シンさんが、盛んに説明をしてくれるが、日本のどの豆に当たるのか、良く判らない名前(インド名)のものが多い。
しかし、この郊外に出ても、高速道路とは名ばかりで、道の両側はそのまま田園や畑に面し、柵などの仕切りは何も存在しない。更に少し走ると、郊外の村が現れる。
その道路脇には多くの店が立ち並び、その高速道路を牛や人などが横断している。インドで言う高速道路は日本の幹線道路くらいのイメージである。
この様な事を何回か繰り返し、デリー郊外をジャイプール方面に向かうと、何やら田園地帯のあちこちに大きな煙突が見えて来る。それを後部座席から指さして、シンさんに聞くと、「レンガを焼く、釜の煙突です。」との答えである。
最初に見えて来た時は、ポツポツと煙突が見えただけであったが、暫らく走ると田園内は煙突だらけである。
シンさんが、「デリー近郊では、環境問題からレンガを焼く事が禁止されているので、この郊外にレンガ工場が集中しています。」と教えてくれる。この辺りにはレンガに適した土も出る様である。
このレンガ工場の一帯を抜けると再び、田園地帯が拡がる中を真っ直ぐな道が続く。あまりに単調な景色の為と、午前中の観光でかなり歩いた事で、いつの間にか寝てしまっていた。
再び、目が覚め、時計を見ると、既にクトゥブ・ミナールを出てから2時間半近くになろうとしている。車窓の景色は相変わらず、田園地帯である。
するとシンさんが、私が起きた事に気付き、「もう少しで休憩場所に到着します。」と言う。
こんなところに休憩する場所などあるのかと思ったが、先程から屋台に毛の生えた様な店が、道路脇に何軒か見えていた。その様な店に立寄るのであろうか?
そこから少し走ると前方に料金所らしきものが現れる。
するとシンさんが、「ここから州が変わります。今まではハリヤーナー州でしたが、ここからはラジャスターン州に入ります。インドでは車が州を越える際には税金を支払わなければなりません。その為のゲートです。」と教えてくれる。
この料金所を抜け、少し走ると車が道路脇の立派な建物に向かい、道を逸れた。 -
<休憩場所とジャイプールまでの時間>
ここが休憩場所の様である。その入口付近の駐車場で車を降り、その建物に向かう。時刻は17時40分過ぎである。建物右手に大きなトイレがあり、まずトイレを済ませてから、中に入る事にした。
トイレに向かうと入口付近に1人の男性が立っている。何をしているのかは判らない。その男性の前を抜け、トイレ内に入ると、想像していたよりも非常に綺麗なトイレで、ちゃんとした小便器も設置されていた。
そこで要を足し、洗面所で手を洗い、トイレを出る。出る際に先程の男性と目があったが、無視をして、シンさんが待つ建物の入口に向かう。
中に入ると、そこは小さなレストランになっている。入口付近には大きな冷蔵庫があり、ソフトドリンクや水などが見える。また、精算所脇には土産物も見える。
シンさんに促され、レストランの奥の席に着く。そして、「何か飲物を飲みませんか?」と聞かれ、「珈琲がありますか?」と聞くと、店員に聞いてくれる。そして、「珈琲もあります。」と教えてくれる。
ここでシンさんが、「お腹が少し減ってはいませんか?インドのポピュラーなおやつを食べませんか?」と勧める。そして店員にメニューを持って来る様に促し、そのメニューを見せてくれる。
そのメニュー内にある“サモサ”と書かれたものをどうやら食べて欲しい様である。何種類か、種類があるので聞くと、中に入っている具材の違いの様である。
私は、シンさんが最もポピュラーであると言う“チキンサモサ”と珈琲を注文する。
シンさんは、チャイを飲む様だ。このサモサは、インド定番のおやつなのだとシンさんが教えてくれる。暫らくすると、皿に載ったパンの様な揚げものらしきものが店員によってテーブルに置かれる。これが、サモサである。
シンさんによると、薄いパイ生地の様なものに具を包み、軽く揚げたものだそうだ。これからインドの街中を歩くと、それを売る店などを良く見かける事になるとシンさんに言われた。
このサモサと一緒に大きなプラスチックのボトルに入ったソースらしきものも運ばれて来た。
シンさんに聞くと、少し辛めのソースの様で、このソースを少し掛けて食べるのが、インドの人の食べ方の様である。そして、その直ぐ後で、珈琲も運ばれて来た。珈琲はカップに半分程しか入っていない。それも既にミルクは入っている様で、珈琲牛乳の様な色をしている。
その珈琲に大きな角砂糖を入れて、少し飲む。
やはりミルクが入っていて、日本の珈琲に比べ、かなり薄い感じの珈琲である。
次にサモサを食べて見る。ナイフとフォークで、サモサを切ると、パイの様に包まれた中に肉や野菜で作られた具が固まりの様に入っている。パイ生地風のものとその具を一緒に食べる。
辛いものであるのかと思っていたが、それ程辛いものではないが、非常に香辛料の効いた具である。
味は香辛料の香りが強く、それ程美味しいと感じるものではない。チキンサモサを注文した為か、鶏のささ身を長時間煮込み繊維状になった様な肉が入っている。
半分程サモサを食べたところで、シンさんに勧められて、一緒に出て来たソースをつけて食べて見る事にする。そのままサモサの上に掛けるのを躊躇い、一旦少し皿の上に出して見る。
するとソースはシャバシャバの赤い液体である。少しスプーンに入れ、舐めて見ると、少しピリっとするが、タバスコの様な辛さのものでは無さそうだ。それを確認し、少しサモサに掛け、食べて見る。
それでも少し辛さを増す程度で、もともと香辛料の塊の様な具なので、然程味も変化はなかった。
シンさんと雑談をしながら、珈琲を飲み終え、席を立つ。店の入口付近のレジで会計を済ませる。サモサと珈琲で、200Rs(約360円)である。サモサが120Rs、珈琲が80Rsであった。 -
店を出ると、既に辺りは少し暗くなり始めている。時刻は18時20分過ぎである。車に向かう途中で、シンさんがトイレに行き、私ひとりで、店の前の駐車場に止まる車に向かい、サンジェさんを見つけ、車に先に乗り込む。直ぐにシンさんも車に来て、乗り込み、店を出て、再び車は高速道路を走り始める。
また、高速道路脇は単調な田園風景の景色に変わる。
休憩所を出て、少し車が走ると日が暮れ、辺りが暗くなる。そうすると周りの景色が判らなくなる。
外灯などが殆どない為に真っ暗な中を車が走る。そうすると眠たくなり、いつの間にか寝てしまう。
どれくらい寝ていたのか、気が付くと車外は既に真っ暗になり、外灯がない為に辺りの景色は全然判らない。かすかに車のヘッドライトで照らされる範囲が見える程度である。時刻は既に19時30分頃である。
暗い中を車が走っていたが、急にシンさんが運転手のサンジェさんと話を始める。何を話しているのかは判らなかったが、暫らくすると、道端にサンジェさんが車を止める。
シンさんが後部座席の私に向かい、小指を立て、それを振るしぐさをする。
そして、「これはどういう意味か判りますか?」と聞いて来る。私が、「判りませんが?」と言うと、シンさんが、「これはインドではトイレに行く時のサインです。と言う事でトイレに行ってきます。」と言い、そそくさと車を降りる。こんな所にトイレがあるのかと思っていたが、シンさんは、車の後方に姿を消す。
周りに何があるのかと目を凝らし、見るが暗く、何も見えない。車の直ぐ脇は草むらの様である。
そして、5分程でシンさんが帰って来た。手には何かを抱え込んでいる。車に乗り込み、私に向かい、持っていたものを渡す。受け取るとそれは缶麦酒である。
私が、「私はアルコールが飲めません。」と言うが、シンさんは、「この麦酒は非常に飲み易く、美味しい麦酒ですよ!」と勧める。何度か同じ様なやり取りを行ったが、余りにもシンさんがしつこく勧めるので、仕方なく、麦酒を受け取り、飲むふりをする事にした。
そして、缶麦酒の栓を開けると、暖かい為か、振られていたのか、栓を開けた途端に、噴水の様に噴き出し、太もも部分のズボンがびしょ濡れになる。
それを見ていたシンさんが、驚き、「大丈夫ですか?」と何度も繰り返し、ハンカチを出し、渡してくれる。
ズボンなどは大丈夫では無かったが、言葉では、「大丈夫です!」と言い、貸してくれたハンカチなどでズボンを拭うが、麦酒は既にズボンに浸み込んで、拭き取る事は不可能である。
麦酒は少し飲む振りをして、そのまま席の飲物置き場に置く。その後もシンさんにつまみなども勧められ、それを食べながら、時間を潰す。時刻は20時を既に過ぎている。
シンさんに、「あとどのくらいでジャイプールに到着するのですか?」と聞くと、シンさんがサンジェさんに私の質問を聞いている様である。
サンジェさんが、小声で何やらシンさんに伝え、それをもとにシンさんが、「あと1時間程でジャイプールに到着します。」と教えてくれる。その後、景色も見えないので再び寝てしまう。
そして、シンさんが、「ジャイプールの街に入りましたよ!」と言う声で、起こされる。車外を見ると、既に街に入り、外灯やネオンが増えている。街と言ってもまだこの辺りは郊外なのか、然程大きな家などは見えない。
大きな建物と言っても3~4階建ての建物が見える程度である。
街に入り、10分程でネオンの煌めく一画に到着し、その先に一際高い建物が見えて来る。その建物が今日の宿泊ホテルのエイベックス・インターコンチネンタル・ホテルである。 -
<ジャイプールのホテルでの夕食とホテルでの夜>
その玄関に車が止まり、シンさんと共に車を降り、サンジェさんが旅行カバンを降ろし、ホテル内に運んでくれる。ホテル玄関の左手にフロントがあり、その前に小さなロビーがある。そのロビーのソファに座り、シンさんにパスポートを渡し、チェックインを行って貰う。
少し経つと、ここでもホテルの台帳に署名などが必要な様で、日本の住所や電話番号、署名などをローマ字で記入し、サインを行う。それと引き換えにルームキーをフロントの男性から渡される。
ルームキーを受け取り、再びソファに戻り、シンさんと共に座り、これからの予定と明日の集合時間について話を行う。これから夕食である。場所はフロントの反対側にある1階のレストランである。
そして、明日の朝の朝食もこのレストランで取る事になる。朝食は6時半からとの事である。
明日の集合時間は7時15分と言う事で決める。集合場所はこのフロント前である。
シンさんが、これだけ説明を行い、「これからどうしますか?一旦、部屋に入り、それから食事に行きますか?」と聞いて来る。私が、「シンさんはどうするのですか?」と聞くと、シンさんが、「私はここで失礼します。」と言うので、私が、「それでは先に食事をします。」と言う。
そして、ホテルのボーイに旅行カバンなどを預け、シンさんと共にレストランに入る。レストランは既に時間も遅い事ためか、私ともう一組の客しかいない。
私はレストランのカウンター近くのテーブルに誘導され、そこに座る。
レストランの支配人らしき人とシンが何やら話しをしている。そして、私に向かい、シンさんが、「辛いのは止めた方が良いですね!」と聞く。私が、「あまり辛いのは止めて欲しい!」と言うとその事を支配人の人に伝えてくれる。更に、「飲物は何か注文しますか?」と聞かれたので、「何かソフトドリンクはありますか?」と聞くと、再び支配人の人に聞いてくれ、メニューが出て来る。
見ると、コーラやスプライトなどがあるので、「それではペプシコーラをお願いします。」とシンさんにお願いする。
これで、シンさんが、「それではゆっくりと食事をして下さい。また、明日お会いしましょう!お休みなさい!」と言い、レストランをあとにする。
私一人になった。まず、注文したペプシコーラの缶がグラスと共に出て来た。
程なく、最初の料理としてスープが出て来た。赤いスープなので、トマトベースのスープの様である。
辛くないものと言う注文をしたので、辛くないものと安心して飲むと、これがまた激辛のスープである。
少し飲むと、汗が出て来た。それでも美味しいスープなので完食する。
少しの間、何も出て来なかったが、その後続けて料理が出て来た。出て来た料理は以下の様な内容のものである。
<平成24年2月23日夕食:インド料理(エイベックス・インターコンチネンタル・ホテル内)>
①トマトスープ(激辛)
②パパル(小麦粉で作った薄焼煎餅の様なパン。辛い味以外は殆ど味がない)
③まめカレー(汁状カレー。少し辛い)
④クリームチーズのカレー(ペースト状カレー。少し甘い)
⑤ナン
⑥バニラアイスクリーム
⑦ペプシコーラ(別注)
最初に出て来たのは、パパル(後日、シンさんに教えて貰い判った)と言うスナック菓子の様な煎餅状のパンである。小麦粉で作られた薄焼煎餅の様なものである。しかし、少し辛いがそれ以外の味は殆どしない。
それとほぼ、同時に2つのカレーが出て来た。
一つは、インドでポピュラーなまめカレーである。見た目は辛そうでは無かったが、食べるとこれがまた辛い。
丁度、このカレーを食べ始めるとナンが出て来た。
そのナンに乗せ、このまめカレーを食べたが、それでも辛く。汗が額から流れ落ちる。
それを見ていたレストランの支配人らしき人が私に近寄り、「Hot?」と聞くので、「Yes。Very Hot!」と答えると、少し困った様な顔していた。これでも辛くないものを出したと言いたげな風である。
もう一つのカレーは、クリームチーズのカレーで、このカレーは少し甘く、非常にチーズの匂いや味が濃いが、マイルドな感じで非常に食べ易いカレーである。チーズが嫌いな人でも食べられそうなカレーである。
ナンは非常にもっちりとしたもので、1枚食べれば充分な大きさのものである。
ナンを食べ終わると、また支配人がナンを持って来てくれたが、もう良いと手で制すると、「Finish?」と聞かれたので、「Finish!」と答える。
これで食事を終えると、最後に支配人が、デザートとして、アイスクリームか珈琲かと聞かれる。
アイスクリームをお願いし、その間にペプシコーラを飲み干す。
少しすると可愛い器に入ったバニラアイスが出て来た。先程までの辛いカレーで少しピリピリとした口の中が、この甘いアイスで中和される。このアイスを食べ終わると、支配人が注文したペプシコーラの精算に来た。
私が判る様に紙に数字が書かれている。見ると45Rs(約81円)である。
その支払いを行い、席を立つ時に、支配人にチップとして20Rs(約36円)を渡し、「Thank you。Good night!」と言われ、店を出る。 -
そして、ホテルのボーイからフロント横で預かって貰っていた旅行カバンを受け取り、そのままボーイがその旅行カバンを持ち、部屋まで案内してくれる。
部屋は3階の308号室で、丁度端から2番目の部屋である。その部屋に入る際に判ったが、一番奥の部屋は物置になっている。
部屋内に導かれ、ボーイが洗面所などのお湯の出し方などを説明してくれる。
そして、お湯が出る事を確認し、部屋を出る際にチップとして20Rs(約36円)を渡す。
時刻は21時45分頃になっている。
この部屋はデリーのホテルの部屋程広くはないが、ベッドが2つ置かれたツインタイプの部屋である。
天井にはここでも大きな扇風機が付いている。少し部屋の中が暑いので、エアコンを入れるが、なかなか涼しくならない。そこで先にシャワーを浴びる事にした。
ここの浴室も浴槽などはなく、シャワーの前にポリバケツが置かれ、トイレとの仕切りもない。
シャワーを出すと、最初は少し温かいお湯が出て来るが、その後はお湯か水か判らない程の温度のお湯?が出て来るだけである。とりあえず、このシャワーで髪を洗い、全身を軽く洗って、終える。
浴室を出て、部屋内が少しは涼しくなったかと期待していたが、一向に温度が下がった気配がない。
デリーでもそうであったが、ここでもエアコンでは25℃くらいまでしか下がらない様である。
そこで、天井の大きな扇風機を点ける事にした。部屋にあるスイッチを確認しながら、一つずつ点けて、やっと天井の扇風機のスイッチに辿り着き、天井の扇風機を回り出す。
扇風機が徐々に回り出し、少しするとかなりのスピードでこの扇風機が回り、大きな音を発てる。
この音では、寝る際には消さなければ、寝られない程の音である。しかし、この扇風機が強力で、その下にいると非常に涼しい。体感温度的にはかなり温度が下がり、やっと汗が引き始める。
ベッドの上に座り、髪を乾かしながら、今日の出来事をノートに纏める。時刻は既に22時半を過ぎている。
髪も乾き、ノートへ記入する事も一通り終わり、今日は長時間の車の移動でかなり疲れたので、早々にベッドに潜り込む事にし、部屋の温度も下がって来たので、天井の扇風機を消そうと、先程扇風機が点いたスイッチを押すが、扇風機は消えず、更に回転速度を増した。
そのスイッチを何回も押すが、一向に扇風機が止まらない。故障しているのか?と思ったが、もしかすると、他に消す為のスイッチがあるのではないかと、再び部屋内にある他のスイッチを片っ端から押すと、丁度ベッド脇の下にあったスイッチでやっと扇風機が止まった。
2つのベッドの反対側にONとOFFのスイッチが付いている様だ。
これで静かになり、部屋の灯りを落とし、ベッドに潜り込む。時刻は23時前である。少し早いがこれで就寝する事にした。
しかし、ここからが長い夜になった。部屋内が静かになり、判ったが、同じ階の廊下の音が非常に良く聞こえるのである。部屋の密閉性が悪いのか、防音などが行われていないのか?非常に良く聞こえ、また廊下で他の宿泊客が騒いでいるのである。また、隣の物置の部屋に出入りする従業員の音なども聞こえる。
また、天井からは階上の部屋でドタバタする音も聞こえ、これらの音で寝るにも寝られない状況である。
結局、この音に悩まされ、寝ているのか起きているのか判らない状況が、夜中の3時過ぎくらいまで続いた。
デリーのホテルでもそうであったが、インドで宿泊する場合は最低でも4つ星のホテルに泊まる必要がある様だ。3つ星ホテルでは、ダメである!
今回はここまで! 次回はジャイプール観光など。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
アグラ(インド) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
47