2019/04/16 - 2019/05/20
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montarouさん
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これは2019年5月7日から6月18日まで、ギリシャのアテネを起点にトルコ、ジョージアを周遊した記録の内で、ここではアンカラのアナトリア文明博物館から製鉄の起源であるヒッタイトの首都のハットゥシャ遺跡を訪れた旅行について記す。
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5月16日にカッパドキアをバスで出て、アンカラのバスターミナルのカミルコッチ(Kamil Koc)(60TL)に着いた。そして、ターミナルビルの2階のメトロ社で18日のスングルル(Sungurlu)行きと、20日のスングルルからトラブゾン行きのバスチケットを頼んだ。ところが、20日にバスは出ないというので、慌てて21日のトラブゾン行きを頼んだ。しかし宿に入った後、田舎のボアズキョイ(Boğazkale)で2泊するのは無理と思い、カミルコッチのメトロ社に戻り、スングルル行きを19日に無料で変更してもらった。それでアンカラは2泊となった。
最初、カミルコッチに着いたとき、ウルス(Ulus)へ地下鉄で行くつもりで、地下鉄のカードを買おうとウロウロしていると、駅員がウルス(Ulus)に行くなら、ミニバスの方が便利だと教えてくれた。地下通路の左側を通りぬけ、道路に出たら左に曲がれば、ミニバスがいるので、3TLでウルス(Ulus)に行けると教えてくれた。ミニバスは恐ろしいスピードで走り、あっという間に、アンカラ城の下のバスターミナルに着いた。 -
ウルス周辺なら、アンカラ城の下から歩いて行ける。ただ、カミルコッチに行くミニバスは地下鉄ウルス駅の北西にあるミニバス駐車場から出る。ただ、ミニバスはラッシュ時に、渋滞に巻き込まれるので注意が必要である。
ラマダン中は酒を売る店はないと聞いていたが、アンカラならあると信じて探したが、その日は見つからず、見つけたのはアルコールより人間を蝕む?武器販売店。飛行機やバス、列車などの乗る場合、武器や火薬爆薬の保持はゆるされぬ。ところが宇宙船地球号に乗っている人間は、武器も原子爆弾の所持さえも許されている。これは理に適っているのかな? -
アンカラには乞食もいるが、大きなパンが50円前後で他の食料も安いので、飢え死はしない。食料が高い日本では、難民や乞食が出ると餓死するだろう。ただ、餓死しないから、逆に乞食になりやすいかな?
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明後日の19日がアタテュルク記念日なので、アタテュルク廟に出かけた。スタファ・ケマル(アタテュルク)は第一次世界大戦のオスマントルコの敗戦後の混乱中に独立活動を行い、ギリシャ軍をイズミルから追い出し、オスマントルコのサルタンを廃し、連合国と交渉し、トルコ共和国の初代の大統領となった。このため「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクの名がついた。アナトリア文明博物館も、アタテュルクの発案と助力でつくられた。写真は旧市街にあるアタテュルク像。
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歩いてアタテュルク廟の北口から入った。チェックを受けるが、バスで正面入口まで送ってくれた。アタテュルク廟には、小学生から高校生までの団体が多い。卒業祝いかな? 夏休み入りしたかな?
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帰りは北口まで歩いていった。
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また歩いて、ローマンバス(Roman Baths)入場料6TLに行った。
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二人揃いの浮彫は墓碑と思ったが、なぜ二人揃いなのか分からない。
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トルコの靴磨き屋さん。トレードマークは真鍮の立派な足乗せ台。
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これは12TL約2百円余り、美味そうだ。
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アンカラ城への上り道の金装飾屋、トルコ人もヒカリ物が好きだね。通貨下落の対抗策かな?
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アンカラ城の上から見た、北西側の民家の写真。写真12
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この写真はアンカラ城と道路を挟んだ北西の山の斜面で、ここには貧しい人が多く住んでいる。
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次の写真はカッパドキアのネウシェヒルの岩穴の元貧民街で、人を移転した後でバラックを撤去すると、大きな地下住居の存在が確認された。そこの外観である。このように中小都市のバラック家を撤去、移転させて、道路や住宅などのインフラの整備を進めている。すなわち、トルコの行政は地方の貧しい人達に優しく、大都会の貧民街まで手が回っていないと感じた。大都市でエルドアンに人気がない理由の一つはこれであろう。ただ、経常収支と財政収支の赤字を抱え、クルド人やシリア紛争、加えて、米国やドイツとの関係が変化したことから、誰が政治を行おうと当分は困難な状況が続くだろう。
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アンカラ城の南側斜面には黄金屋だけでなく、結婚衣装、衣類屋、電気屋、おもちゃ屋、さらに下に行くと金物屋、チーズ屋、パン屋、
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魚屋、
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野菜果物屋など、何でも揃っていた。さらに帰り道で酒屋も発見。
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18日はアナトリア文明博物館に向かう。入場料は30TL。アナトリア文明博物館は、アタテュルク主導でつくられ、紀元前7世紀頃までの遺物を集めている。主題はヒッタイト王国とその前後の時代。多神教の時代である。アタテュルクの心底は知らないが、ヒッタイトが完全に滅びた後の紀元前6世紀はペルシャ、紀元前4世紀にアレキサンダー大王、紀元前2世紀からはローマ帝国、それから13世紀まで東ローマ帝国に支配されてきた。3世紀頃からキリスト教であったが、13世紀後はイスラム教のオスマントルコで、ギリシャ人やアルメニア人のキリスト教徒が差別されていたという。これを原因とする国家間対立は今もなお続いている。これらの経緯から、アタテュルクの心底はトルコ人の起源を国民に示したかったのではないかな?
これは約8千年前の神像。 -
太った女性の像が多く、多産豊穣の女神の小像、これらは日本の縄文土偶に似ているような?
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4千数百年前の青銅具、かなり高度な技術で、ヒッタイト帝国形成以前の小部族の製品。
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左下の金の柄の付いたさびは5千年前の鉄の短剣で、世界最古の鉄器といわれる。アラジャホユック遺跡出土品であるが、ニッケルの含量は高く、天の金属、即ち隕鉄から製造した短剣である。
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ヒッタイト式の戦車。
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ヒッタイトは数種の文字を習い、楔型文字や印鑑を用いてメソポタミア地域やアッシリ等と盛んに交易していた。
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ヒッタイト王国は3700年前頃から3200年頃までであるが、この間に、世界の歴史上、大発見と特筆すべき国家間交渉があった。それは人類初の、鉄の製造と、平和条約の締結である。
ヒッタイトが鋼の製造と鋼を用いる道具化に成功したかは知らないが、現在、鉄は米と小麦の合計生産量も約2倍も生産される時代であり、その先駆けとなった。
後者では、紀元前1285年頃、シリアのカデシュでアッシリアがエジプトと戦争し、シリアの領土を死守した(カデシュの戦い)。そしてエジプトと平和条約を結んだ。その平和条約の内容がヒッタイト文字で書かれた写真の青銅版である。 -
現在、その粘土版は、国際連合に飾ってあるという。内容は現在の平和条約と同等以上で、例えば互いの捕虜の虐待や拷問を禁じ、送還し、彼らの家族をも苦しめないこと等が明文化されているで。残念なことに、現在もシリア周辺で戦争が絶えず、三千年前の条約内容は現代でも実現されず、中東やキューバで虐待や拷問が続けられている。
非常に残念なことは、アナトリア文明博物館では、世界中の人が知るべき、最初の平和条約を取り上げた部分が少なく、さらに鉄の精錬についての言及は皆無に近かった。これらは誠に残念である。
ここにはボアズキョイ(Boǧazkoy)のハットゥシャシュ遺跡から出土した本物が飾ってあるが、これはトルコの歴史にすぎず、国外の人々の興味は興さない。 -
後の写真の遺跡にある像がイミテーション、前の石像が本物。
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博物館外にはギリシャやローマ時代の発掘物が転がっていた。帰りにアンカラ城の下でアラレを伴う大雨に合った。私がアナトリア文明博物館に満足しなかった事を、天のトルコの神に悟られたかな?
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19日は、写真のカミルコッチからスングルルで途中下車(サムソン行き)するバス(36TL)にのった。
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スングルルでバスを降りた所がトラブゾン行きのバス乗り場と想定していたが、ボアズキョイ行きミニバスの乗り場である公園の裏と、トラブゾン行きのバスが通るスングルルのバスターミナルとの中間のバス停で降ろされた。歩いて公園裏に行くと、ミニバスはあそこで待てとか、今日は日曜日だからミニバスは休みとか言う。複数の人に聞いて、休みと言うのが本当のようで、結局、タクシー50TLでボアズキョイの宿に向かった。
ボアズキョイで聞くと、土日は休みで、平日スングルル発は7:30、17:30、ボアズキョイ発は写真の石碑前から平日が7:00と17:00、他に、人が集まればスングルルを往復するミニバスが発車する時間不定のミニバスが2本出る。これらは、病院や商店を回るので老齢化しているボアズキョイの村民の足となっている。 -
到着の当日、ハットゥシャ遺跡の周囲を散歩した。遺跡の外側には、のどかな牧場もあり、牧場の家畜は遺跡にも入る。入場料を払わずに入れるその入口を住民が教えてくれた。もっとも、そこからは入っていないが、住民は、放牧に邪魔で、客の少ない遺跡を、あまり歓迎していないようだった。
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これはハットゥシャ遺跡の写真である。不似合いな近年設置の城壁の左から遺跡に入る。遺跡内には一周する自動車道が見える。ハットゥシャ遺跡の訪問客の大半が観光バスで来る団体で、少数はバイクやレンタカー、歩く客は極めて希少であった。
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20日は朝の内に、歩いてヤズルカヤ遺跡に向かった。ヒッタイト最後の王、シュピルリウマ2世が父を祀るために造ったと言われる。自動車道を歩いたので非常に遠かった。ここでは定番の写真をのせた。
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帰りは標識に従い、ショウトカットでハットゥシャ遺跡に帰った。入口近くの遺跡の写真の青い石はエジプトから送られたと聞くが、真偽は不明。平和条約の祝い石か?
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遺跡の最高部の入口の石積みの穴の通路、その外側は緑の林だった。
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写真では多少は、もっともらしいが、実際には不似合いな質の低いスフィンクスのレプリカ。
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上部の宮殿遺跡、歩いて回ったので疲労困憊。青い空の麦畑が綺麗だ。
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綺麗な花が遺跡の価値を上げている。ヒッタイト遺跡の世界歴史上の価値の一つは世界初の鉄の精錬法の発見である。本当に世界初との証明は今後にゆだねるとしても、当時、鉄の値段は金の数倍だったとの記述も残っている。なぜ錆びやすい鉄が高価だったのか、用途があったのかも知りたい。発掘学者も精密な元素分析技術等を習得すべきであろう。しかし、残念なことに、ハットゥシャ遺跡もヤズルカヤ遺跡にも、平和条約だけでなく、製鉄を表示する物は見当たらなかった。城壁やいくつかの不似合いな作り物を置く前に、それらを説明する表示物を置くことで遺跡の価値が上がるだろう。
現状では、ヨズガット(Yozgat)への交通はタクシーだけ、スングルルにはミニバスしかない。これはトルコ国民さえヒッタイト遺跡に興味を示していない証拠である。 -
翌日は、7時発の写真のミニバス(5TL)に乗ってスングルルに向かった。このミニバスには老人が多く乗り、最初の停車地は病院で、次が買い物用の商店街であった。
スングルルの商店街で降りて、果物とパンを買い入れ、約1.5kmの道を歩いて、写真のバスターミナルに向かった。バスターミナルの前と道路を挟んだ横には棺桶を作る工場があった。ところで市内からメトロ社の無料バスも出ている。
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