2019/06/22 - 2019/06/22
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montsaintmichelさん
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善峯寺は、別名「あじさい寺」と呼ばれる「三室戸寺」や関西最古の紫陽花寺で「花浄土」と称される「丹州観音寺」と並ぶ京都最大級の1万株を誇るあじさい苑でも知られ、京都盆地を見晴るかす絶景と相俟って隠れた人気スポットになっています。
善峯寺を復興させた桂昌院やその子 徳川5代将軍 綱吉の逸話などを絡めてアジサイ苑を余す所なくレポいたします。
善峯寺のHPです。
http://www.yoshiminedera.com/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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白山 桜・あじさい苑
標高365mある山腹の窪地に造営されているため、紫陽花が満開になる時期は下界より1週間ほど遅くなります。また、長岡京市にある柳谷観音(楊谷寺)で「あじさい祭」が開催される時期が丁度見頃となります。 -
春と初夏には3千坪ある窪地が丸ごと桜花や紫陽花で覆われ、桃源郷や極楽浄土を彷彿とさせる佳景に変身します。元々眺望の素晴らしい場所でしたが、昭和時代初期に植えた杉の木が眺望を阻害するようになったことから、「花と眺望を同時に堪能できる庭苑」をコンセプトに杉を伐採して桜木と紫陽花を植えたのが奏功したようです。
眼下に広がるのは「紫陽花の大海原」です。これぞ、一目一万本のあじさい苑の醍醐味です。仄暗い夜明け前や黄昏時には、「地上の綺羅星」として輝くことでしょう。 -
紫陽花の名所は数多ありますが、このように谷を埋め尽くす紫陽花風景を俯瞰できる所は限られています。また、京都盆地を遠く見晴るかす山間に広がっているため、梅雨の曇天の下でも明るさと清々しさ、そして開放感に満ちています。
更には、善峯寺は霧が発生し易い山間にあるため、雨や霧に霞む幻想的なあじさい苑もまた心潤わす情景になることでしょう。 -
対峙する山肌一面にブルー系のセイヨウアジサイとヤマアジサイが植栽されており、色彩の濃淡とその上に生い茂る竹林との対比が情緒を醸します。
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セイヨウアジサイ、ガクアジサイ、ヤマアジサイなどの紫陽花が色とりどりに山の斜面を華麗に彩ります。アップダウンがあるため、散策には少し息があがりますが、回遊路の両側を彩る大輪の紫陽花を愛でながらのんびりと散策できます。高低差により、上からも下からも、あらゆる角度から紫陽花を愛でられるのが魅力です。
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山肌を流れ落ちる滝の如くに乱れ咲いています。
仄暗い時間帯であれば、夏の夜空を彩る「天の川」を彷彿とさせる風情でしょう。 -
京の紫陽花は、東の横綱が「三室戸寺」、西の横綱は「善峯寺」と称されるのですが、その言葉に偽りはありません。
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回遊路に敷かれた石畳もよいアクセントになっています。
雨の日のスリップ防止にも効果ありです。 -
幸福地蔵(しあわせじぞう)
懸崖造の小さなお堂には、桂昌院が幸せを願って祈念したと伝わる幸福地蔵尊がおられます。
地蔵尊と同じ目線からは、遥か彼方に京都盆地が望めます。また、眼下には桜・あじさい苑が広がり、更に白山権現社や十三の塔、北門が一望できます。 -
幸福地蔵
桂昌院が願ったように「自分以外の人の幸せを願う」と霊験あらたかと伝わります。地蔵尊が静かに微笑んでいるように見えるなら、その願いはすでに届いているそうですよ! -
善峯寺を復興させた桂昌院は、花も実もある和製シンデレラガールと言えます。
しかし彼女の出生は定かでなく、武家の娘や旗本の娘、西陣織屋の娘、畳屋の娘、商家の娘など諸説紛々です。徳川3代将軍 家光に嫁いだこともあり、風評を恐れて前身を隠匿したと考えるのが素直かもしれません。
『玉輿記』他によると、桂昌院(1627~1705年)は京都堀川西藪屋町の八百屋 仁右衛門の次女(お玉)との説が有力です。お玉は美人で有名でしたが、幼少時に父を亡くし、その父が帰依していた善峯寺に母と共に住み込み、2年半の間、奉公しました。この頃の善峯寺は、応仁の乱の兵火などで伽藍が焼失しており、仮の堂宇を建てて細々と営んでたようです。 -
やがて、縁あって母は二条関白の家臣 本庄太郎兵衛宗正の元へお玉を連れて奉公に上がりました。そして母は本庄宗利に見初められて後妻となり、また、二条家と徳川家に縁があったことから、お玉は伊勢内宮慶光院住持の付女中として江戸城の大奥に入りました。やがて18歳の時、往時の大奥で采配を握っていた春日局の部屋子となり、家光に見初められて側室となり、20歳で家光の第4子(徳松=綱吉)を産みました。
将軍候補のライバルがひしめく中、綱吉が無事に育つよう、幼い頃から信仰を寄せていた善峯寺の薬師如来に祈願しました。同様に善峯寺の僧侶たちも、かつて境内で愛らしい笑顔を見せたお玉とその子の無事を薬師如来に祈ったといいます。 -
1651(慶安4)年、家光が亡くなると26歳で出家し桂昌院と名乗り、綱吉への帝王学教育に注力しました。やがて桂昌院54歳の時、偶然が重なり奇跡的に綱吉は5代将軍の座を掴み取りました。
女性が結婚して富貴な身分になることを「玉の輿」と言いますが、これは八百屋の娘「お玉」が将軍に「輿」入れしたことが語源とも言われます。しかしこれは俗説とされ、定説は次のようなものです。「玉」は美しいものを総称し、古くは宝石も意味しました。「輿」は貴人を乗せて人を運ぶ乗り物です。そこから、貴人の乗る美しい立派な輿を「玉の輿」と言うようになり、女性が高い身分の人と結婚して立身出世することを「玉の輿に乗る」と言うようになりました。
母親の再婚を加えると、母子2代に亘るシンデレラストーリーです。 -
それでは、幸福地蔵から目星を付けた撮影スポットへ降りて行きましょう。
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残念なことに桂昌院は、TVドラマなどではマザコンの綱吉を操り、傲慢に振る舞う「大奥の実力者」や「女将軍」としてネガティブに描かれることが多いようです。また、残された文献も好意的ではありません。しかし、それも道理です。異例の出世には妬みや誹謗中傷が付きものです。嫉妬心は、偏見を増幅させるものです。その典型が平清盛などです。時代にとって不可欠だった英雄たちですら、勝者によって悪者に刷り替えられてしまうのが歴史の常です。ましてや士農工商という厳格な身分制度の時代に商家の女性が将軍の生母になり、従一位という女性最高位を得たのですから、江戸城内では悪い噂が好まれたのは想像に難くありません。
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オーソドックスなヤマアジサイです。
単調になりがちな中に、ヤマアジサイとセイヨウアジサイで濃淡を付けたり、リズミカルにしたりと、魅せるための趣向が凝らされているのが伝わってきます。 -
日本史上、彼女以上のシンデレラガールは他に類を見ません。さて、往時の桂昌院の心の持ちようはどうだったのでしょうか?
彼女の思いの丈が込められた和歌があります。
「もろともに 光をてらせ 五地の寺 君があゆみを よろづ世までと」
全ての寺院よ、光をお照らしてください。我が子の世がいつまでも続くように・・・。
桂昌院は、自分のことは顧みず、我が子の幸せだけを祈り続けたのです。母として子への愛情を貫いた人生観がじんわりと伝わってくるようです。子の幸せを祈る母の想いは、何時の時代も変わることはありません。 -
綱吉が将軍となり、世継ぎの徳松も生まれ、桂昌院の晩年は順風満帆かと思われました。ところが、1683(天和3)年に徳松が5歳で病死し、一転して桂昌院と綱吉は奈落の底へ突き落とされました。
因みに、七五三の祝いの起源は、この徳松の健康を願ったのが始まりと伝わります。
その後、綱吉に子が授かるように祈るもままならず、やがて成就しないのは功徳が足りないからと自責の念に駆られるようになりました。そのため全国の荒廃した小さな寺の復興にも尽力し、その数100余りと伝わります。費やした金額は、幕府資産の3分の1に及ぶ70万両(1400億円相当)。往時、この散財は非難を浴びましたが、最新の研究では、公共事業として有益であり、往時の社会の発展、経済活動に寄与したとされます。また、仏教を中心とした宗教心を柱に庶民文化を建て直すことの必要性を示したとの評価もなされています。 -
しかし、徳松の死後20年経っても世継ぎは生まれませんでした。
59歳になった綱吉は、やむなく養子を迎え入れるという苦渋の決断に至りました。これまで幾度となく幸運に恵まれてきた桂昌院でしたが、綱吉のDNAを後世に残すという最後の願いだけは叶えられませんでした。 -
桂昌院が仏教に深く帰依し、江戸に護持院や護国寺などを造立したのはよく知られています。また、京都や奈良にも桂昌院の援助で修復された寺院は、東寺や法隆寺、唐招提寺、長谷寺などの有力寺院以外にも多数あります。
しかし、善峯寺が他の寺院と別格なのは、桂昌院が幼い頃に両親と共に参詣、参籠したとの伝承があることです。こうした縁を頼り、善峯寺は桂昌院へ寺院の再興に力を貸して欲しいと願い出たことでしょう。桂昌院はそれを快諾し、鐘楼の建立を皮切りに、山門、本堂、十三仏堂などを破竹の勢いで再建していきました。 -
紫陽花越しに、たおやかに広がる京都盆地が見下ろせます。
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桂昌院が善峯寺に殊更援助を重ねたのは、彼女の出生がその最大の理由とされます。
確かに他の寺院に比べて別格の寄進であり、思い入れが窺えるのは事実です。最晩年の1705(宝永2)年には一切経を安置する経堂を新設し、そこに桂昌院が援助してきた黄檗山萬福寺の禅僧 鉄眼道光が制作した木版の鉄眼版一切経を安置するほどです。このように、桂昌院が様々な堂宇を新築、大改造してその境内の姿を変えるまで手を加えたことで、善峯寺は現在の景観を築き上げています。
穿った見方をすれば、「関白家の家司だった実父が善峯寺に女児誕生の願掛けを行い、自らが生まれた」という出生ストーリーに刷り替えるべく、願掛け成就のお礼として、また本庄家の菩提寺とするために善峯寺に別格な寄進がなされたとも考えられます。つまり、桂昌院による善峯寺復興は、出自のカムフラージュという自己防衛策も兼ねたものとも考えられます。 -
大燈籠の脇には釣瓶井戸もあります。
西日本は今年は漸く6月26日に「入梅宣言」が出ましたが、釈迦岳の支峰「良峰」からの湧き水を利用してスプリンクラーで水が撒かれており、紫陽花が生き生きとしています。
近畿地方で梅雨入りが最も遅かったのは1958年の6月25日ですから、記録更新です。入梅が遅れた理由のひとつは、偏西風の異変です。例年なら日本付近を東へ流れますが、今年は列島を回り込むように大きく南へ蛇行しています。このため太平洋高気圧の張り出しが弱く、梅雨前線が遥か南に停滞していました。それに南米のペルー沖で海面水温が平年より高くなる「エルニーニョ現象」も加担し、益々前線の北上が鈍くなったようです。
京都府では6月の月間平年量の52%の降雨量です。神戸市では25%以下であり、水不足が危惧されます。一方、このような状態で梅雨入りした場合、梅雨明けが平年よりも遅れる可能性があるそうです。 -
白山名水
ここが白山明神が出現したとされる奇瑞の聖地です。
1042(寛徳2)年2月1日の夜、源算上人が白山明神が降り立った夢を見たため、そこへ行ってみると水が湧いており、翌日には五色の雪が降ったと伝えられます。
源算はその湧水で墨を磨って写経したと伝わり、その法華経は善峯寺に安置されています。 -
白山名水
白山明神出現の由緒によってこの地は「白山」と呼ばれ、谷を見下ろせる高台に白山権現社を祀っています。
源算は毎年2月1日に法楽(ほうらく)を催したと伝わります。法楽は釈迦が悟りの直後に自らの悟った法(真理)を回想して楽しんだことが原義です。欲望を満たす〈欲楽〉の反対語であり、教えを楽しむという本来の意味から転じ、神仏を喜ばせる行為、すなわち読経や奏楽、献歌などを法楽と呼んでいます。
また、この付近は塔頭 実光坊の跡地になっており、点在する大燈籠がそのよすがを偲ばせます。
鯱瓦も安置されていますが、山門のものだったのかもしれません。 -
白山名水
現在も湧水があり、龍の口から流れ落ちています。 -
桂昌院の権力を象徴するエピソードには、綱吉母子の評判を著しく貶め、庶民を苦しめた「生類憐みの令」があります。綱吉に嫡子ができないのを案じた桂昌院が、江戸湯島知足院の住職 隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる」との言葉を信じ、綱吉に訴えたことに始まった悪政とされます。
一方、最近の研究では、本来将軍になるはずもなかった勉学一筋の綱吉が、動物をはじめ人まで試し切りの対象となっていた殺伐とした江戸の世相を憂いて儒教の精神で変革しようとしたものであり、これをもって平和な社会に変換させたと再評価されています。元々この法令は「不仁(いたわりの心のないこと)を禁ずる」というゆるいものであり、その精神のままであれば善政となるはずでした。更には、動物だけでなく人の保護まで含んだ「世界初の動物保護法」として世界からは評価されています。 -
桂昌院と綱吉は、寺院への援助に留まらず、生活に困窮している人たちにお米を支給したり、病気の旅人が無料で治療を受診できるようにもしました。これが悪名高い「生類憐みの令」の真髄です。
旅人の保護については全国諸藩でも同様の法令が発せられ、尼崎藩などではこの政策が江戸時代を通して行われています(『尼崎市史』)。経費負担については、『摂津国兎原郡鍛冶屋村(現神戸市)文書』によると、最初は西国街道筋に家屋のある村が負担していましたが、年々費用が嵩み、やがては街道筋に地続きの村や掃除場がある村も負担するようになったと記されています。
また、絵師 歌川広重が描いた隅田川に架かる新大橋は、隅田川に橋が少なく、川の往来に不便を強いられていた江戸庶民のために桂昌院の勧めで綱吉が架けた橋です。近くの深川に芭蕉庵を構えていた俳人 松尾芭蕉も感謝の気持ちを込めた句を詠んでいます。橋の工事中には「初雪や かけかかりたる 橋の上」と、また完成後には「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」と詠みました。
こうして見ると、今でいう福祉的・公共事業的な側面を持つ画期的な法令だったと言えます。 -
実は「生類憐みの令」の原点は人にあり、捨て子や行倒れ、病人、囚人などの社会的弱者や貧者を含む、全ての生きとし生ける者を幕府が庇護し、保護しようとしたものでした。ただ、綱吉の執拗な性格を悪用し、新法にある「人命を尊ぶ」を是としない武士たちが批判に晒そうとした結果、意に反して「天下の悪法」に化けたのです。この事例は、安倍総理が悲願としている憲法第9条改正の脆弱性にも繋がるような気がしてなりません。因みに、綱吉批判の急先鋒は新井白石でした。往時の一級知識人でしたが、彼は6代 家宣を立てており、また綱吉から疎んじられて個人的な恨みがあったのが最大の理由とされます。
勿論、賛否両論ありますが、家光の時代まで続いた「人命は安いもの」という「武断政治」を、「汝、殺すなかれ!」と天下泰平な時代とする「文治政治」へと大転換させる原動力となったことは否めません。武士が何故この新法に批判的だったのか明白です。これを裏付けるのが、天下の名君とされる8代 吉宗が綱吉を尊敬し、自らの改革にも綱吉の思想を取入れ、墓所も寛永寺の綱吉の傍らに造営させたことです。何時の時代も、改革は時を待たないと真価が認められないのは残念なことです。
最近は何の罪もない無抵抗の子どもを巻き込んだ凶悪・虐待事件や自動車事故が増えており、とても残念です。子は国の宝でもあります。改めて人命の尊さを知らしめ、歪んだ行為を抑止する。そんな令和版「生類憐みの令」が求められるところかもしれません。 -
綱吉を慮り、家光は桂昌院に「余は学問の道を嫌って今日に至ったことを悔いておる。綱吉は賢い性質のようだから、努めて聖賢の道を学ばせるように」と伝えたそうです。それ故、桂昌院は綱吉への教育に徹し、彼が青年になった頃には経書を家来に説くほどだったそうです。
綱吉が重病を患った折、干支の戌に因んで犬を大事にすれば治ると暗示をかけられ、それに従うと偶然にも治癒したことから「孝道は万物に通ず」と「生類憐みの令」を発布し、「余は孝に厚き将軍、英明なる君主」と取り巻きのイエスマンに絆されてしまったのは反省点です。世間から隔絶された環境下で、実践を伴わずに知識だけを習得する学習方法は観念だけの学問に陥り易いとの教訓です。 -
性懲りもなく、世間知らずが招いた歴史的大惨事が太平洋戦争です。開戦間際には政治の実権を軍部が握り、権力で日本を戦争へ陥れました。軍部出身の東条英機が総理大臣となり、陸軍大臣と内務大臣も兼ねました。東条はじめ、軍部首脳は世界を見る機会があったとはいえ、軍部の教育方針で純正培養された世界観では世界を正しく見て判断することは不能でした。つまり、綱吉と同様に歪んだ観念で物事を判断し、国家を誤らしめたのです。
こうした轍を再び踏むのは愚の骨頂ですが、現在の官僚組織には唖然とさせられます。政策立案のために真実を報告するのではなく、組織や政治家に忖度してバイアスをかけたのです。不都合な真実は外し、好都合なものだけを数字にして偏重した報告を繰り返しました。統計は政府や役所などにより恣意的に操作され易いが故に、慎重な取扱いが求められるところです。
一方、正直者が馬鹿を見た事例が年金問題です。金融庁審議会が試算した平均2千万円の老後の取崩しに対して真摯に取り組むのではなく、無闇に不安を煽るとして総理や大臣が撤回に追い込みました。ライフスタイルで取崩し額が異なるのは当然ですが、かつての中流階級が直面する不都合な真実を隠匿して何がしたいのでしょうか?姑息な手段で党利党略を得ても、国民が納得しないはずです。しかし、年金について改めて考える機会が与えられたのは国民にとってラッキーなことでした。年金給付額が徐々に減額されているのは知っていましたが、「100年安心理論」により安倍政権で6%も下げられており、年金受給者には厳しい政権と言えます。因みに、第1次安倍内閣退陣の原因は「消えた年金問題」でしたが、未だにその時に約束したことが実行できていない無責任な政権です。 -
桂昌院にまつわるもうひとつのエピソードは、誰もが知る赤穂浪士討入りにまで発展する「松の廊下事件」です。
1702(元緑15)年、桂昌院76歳の時、女性最高位の従一位の官位と藤原宗子(または光子)の名前を朝廷から賜わりました。この綱吉悲願の親孝行が発端となり、江戸城で勃発したのが浅野長矩による「松の廊下事件」でした。
吉良上野介は綱吉から桂昌院に従一位を授けるための根回し役を命じられ、正月から朝廷へ奔走し、その結果病気で寝込んで江戸城帰還が大幅に遅れました。浅野内匠頭は、吉良の帰還の遅れに気を揉み、ストレスを溜めたのが一因で従一位伝授の勅使接待時に刃傷沙汰になったと伝わります。 -
白山権現社
あじさい苑に白山の名が付くのは、その一画に白山明神を祀る白山権現社があるからです。
白山権現とは、『日本書紀』にも登場する菊理媛(くくりひめ=白山比?起大神)が神仏習合~神仏分離に至る変遷の中で仏の次元に下ったものと解釈されています。尚、人々を救済する際は、龍神が十一面観世音菩薩に化身します。 -
白山権現社
菊理媛の名の由来については、高句麗媛という朝鮮半島からやって来た神様を泰澄が祀ったという伝承に因み、白山比メ神社では、高句麗媛が訛って「くくりひめ」や「きくりひめ」となったと説明されています。因みに、菊理媛の表記は、現在偽書に認定されている『ホツマツタヱ』にも「菊桐媛(きくりひめ)」と言う名で登場します。
菊理媛が縁結びのご利益で知られるのは、日本神話の中にあるイザナギノミコトとイザナミノミコトの夫婦神の喧嘩を仲裁したという物語に由来します。また、「くくりひめ」という名が「括る」に繋がることに因むともされます。 -
桂昌院が数多の寺院に寄進したことは事実ですが、不思議なことに再興・造営にかかわった寺社の棟札や青銅製燈籠の銘文には「桂昌院」の名は見られません。銘文には「本庄宗子」と名乗り、あるいは本庄家の家紋「繋ぎ九目結紋」を刻むに留めています。その真意が何処にあるのかは謎です。
綱吉政権下の寺社造営・修復は、1685(貞享2)年の日光山堂社、翌年の熱田神宮をはじめ、全国で106例ほどが確認されています。多額の経費が幕府から支出されており、本来は綱吉の名や三つ葉葵が冠せられて当然ですが、敢えて「桂昌院再興!」をクローズアップした事例が少なからず見られます。例えば京都では上加茂・下鴨神社、嵯峨釈迦堂(清凉寺)、真如堂など、奈良では東大寺、法隆寺、春日大社など、世界最古の木造建築や世界最大の木造建築も桂昌院の造営・修復がなければ今日の世界遺産はなかったかもしれません。 -
白山権現社の先から懸崖造の幸福地蔵を見下ろします。
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十三の塔
北門の手前に立ちます。 -
本庄氏は「蛍大名」と揶揄されます。品を欠く表現ですが、「蛍大名」の本家 京極高次と同様、実力ではなく、将軍の生母のおかげで大名になれたからです。
本庄道芳は、桂昌院の母が再婚した相手(本庄宗正)の先妻の子だったことから、桂昌院の異母兄として慶安元年に幕臣に抜擢され、後に綱吉の下で上野館林藩家老を務めました。また、宗正の孫の道章は、1万石を得て大名に列し、美濃岩滝藩主、その後に初代美濃高富藩主になっています。 -
元禄の寺社造営が幕府の財政を圧迫し、庶民の疲弊を招いたのは事実ですが、今日の京都・奈良の古刹・名刹が守られたことの意義は大きかったと思います。糸井文庫の史料は今宮が桂昌院誕生の地と伝えますが、詳しい記述はなく、そこから桂昌院と本庄家のサクセスストーリーや寺院への寄進の動機を読み解くことはできていません。
こうした観点から、公儀普請の枠外で桂昌院(本庄宗子)とその異父弟 本庄宗資がプライベートで行った善峯寺・金蔵寺・今宮神社・槇尾西明寺の造営にフォーカスした研究が盛んに進められています。特に善峯寺は、桂昌院と本庄家の篤い信仰が寄せられ、特別な存在だったことが明らかになりつつあります。
桂昌院は、本庄家の肉親たちの発展を願い、霊験あらたかだった善峯寺を復興し、本庄家の菩提寺として確立しようとしたと考えるのは早計でしょうか?
この続きは、問柳尋花 京都西山③善峯寺 Part3(釈迦堂~奥の院:エピローグ)でお届けいたします。
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