京都旅行記(ブログ) 一覧に戻る
善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区大原野にある洛西の奥山 釈迦岳の支峰「良峰」の山頂付近に鎮まります。山号を「西山(にしやま)」と称する天台宗系単立寺院(善峯観音宗)で、青蓮院門跡の宮様が歴代の住職を務めたことから「西山宮門跡」とも称します。西国三十三所第20番や京都洛西観音霊場第1番札所として知られる名刹ですが、貞享~元禄年間にかけて徳川5代将軍 綱吉の生母 桂昌院によって復興を遂げた寺院でもあります。<br />『善峯寺縁起絵巻』によると、1029(長元2)年に恵心僧都 源信の高弟 源算上人が小堂を結び、阿智坂の法華院と号したことに始まります。鎌倉時代には源頼朝が源算を継いだ観性法橋に帰依し、室町時代にかけては天皇家との繋がりも深くなり、52の僧坊を誇りました。その後、応仁の乱の兵火により伽藍を焼失するも、桂昌院により現在の姿に再興されました。境内には、お手植えと伝わる推定樹齢300年の「桂昌院しだれ桜」をはじめ桂昌院ゆかりの遺構が多く残されています。<br />善峯寺のHPです。<br />http://www.yoshiminedera.com/

問柳尋花 京都西山①善峯寺 Part1(山門~開山堂)

711いいね!

2019/06/22 - 2019/06/22

37位(同エリア43918件中)

0

83

montsaintmichel

montsaintmichelさん

善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区大原野にある洛西の奥山 釈迦岳の支峰「良峰」の山頂付近に鎮まります。山号を「西山(にしやま)」と称する天台宗系単立寺院(善峯観音宗)で、青蓮院門跡の宮様が歴代の住職を務めたことから「西山宮門跡」とも称します。西国三十三所第20番や京都洛西観音霊場第1番札所として知られる名刹ですが、貞享~元禄年間にかけて徳川5代将軍 綱吉の生母 桂昌院によって復興を遂げた寺院でもあります。
『善峯寺縁起絵巻』によると、1029(長元2)年に恵心僧都 源信の高弟 源算上人が小堂を結び、阿智坂の法華院と号したことに始まります。鎌倉時代には源頼朝が源算を継いだ観性法橋に帰依し、室町時代にかけては天皇家との繋がりも深くなり、52の僧坊を誇りました。その後、応仁の乱の兵火により伽藍を焼失するも、桂昌院により現在の姿に再興されました。境内には、お手植えと伝わる推定樹齢300年の「桂昌院しだれ桜」をはじめ桂昌院ゆかりの遺構が多く残されています。
善峯寺のHPです。
http://www.yoshiminedera.com/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

PR

  • 石碑<br />善峯寺の紹介には、白洲正子著『西国巡礼』にある論旨明快な文章に優るものはありません。因みに、西山とは京都盆地の西端に南北に並ぶ連峰の総称であり、北は愛宕山から嵐山~小塩山~ポンポン山~釈迦岳などを経て天王山の南端までを言います。<br />「西山も、長岡京のあたりは、特別景色のいいところである。向日市から西へ向かって行くと、美しい竹薮の中をすぎ、やがてゆるやかな登り坂になる。長岡は平安京が定まる以前に、一時都が置かれたところで、東南に向かって裾野がひらけ、ひろびろとした平野のかなたに、東山連峰を望む風景は、京都よりはるかに大きなスケールで、そこには平城京の面影が、名残りをとどめているような感じがする。そういう土地だけに、この一面には、古い神社やお寺が多い。奈良の春日神社を移したという大原野、西行が住んでいた花の寺、西岩倉の金蔵寺、粟生の光明寺など、一日の行楽にはいい場所である」。

    石碑
    善峯寺の紹介には、白洲正子著『西国巡礼』にある論旨明快な文章に優るものはありません。因みに、西山とは京都盆地の西端に南北に並ぶ連峰の総称であり、北は愛宕山から嵐山~小塩山~ポンポン山~釈迦岳などを経て天王山の南端までを言います。
    「西山も、長岡京のあたりは、特別景色のいいところである。向日市から西へ向かって行くと、美しい竹薮の中をすぎ、やがてゆるやかな登り坂になる。長岡は平安京が定まる以前に、一時都が置かれたところで、東南に向かって裾野がひらけ、ひろびろとした平野のかなたに、東山連峰を望む風景は、京都よりはるかに大きなスケールで、そこには平城京の面影が、名残りをとどめているような感じがする。そういう土地だけに、この一面には、古い神社やお寺が多い。奈良の春日神社を移したという大原野、西行が住んでいた花の寺、西岩倉の金蔵寺、粟生の光明寺など、一日の行楽にはいい場所である」。

  • 善峰橋 <br />善峰川に掛けられた橋です。山門まで300m程の九十九折参道が続くとは思えない、朱色の欄干が艶やかな橋です。<br />善峰川は京都市西京区大原野の西山連峰にある釈迦岳北東麓を源流に、西山連峰からの水を集めて善峯寺の足元で湧き出します。支流を束ねて大原野を貫流し、大原野上里南ノ町で淀川水系の一級河川「小畑川」の右岸に注ぎます。善峯寺に因んだ命名とされますが、読み方は「ぜんぽうがわ」です。<br />橋を渡りたい気持ちを堪え、まずは善峯寺バス停から70m程下った所にある阿智坂明神にご挨拶です。

    善峰橋 
    善峰川に掛けられた橋です。山門まで300m程の九十九折参道が続くとは思えない、朱色の欄干が艶やかな橋です。
    善峰川は京都市西京区大原野の西山連峰にある釈迦岳北東麓を源流に、西山連峰からの水を集めて善峯寺の足元で湧き出します。支流を束ねて大原野を貫流し、大原野上里南ノ町で淀川水系の一級河川「小畑川」の右岸に注ぎます。善峯寺に因んだ命名とされますが、読み方は「ぜんぽうがわ」です。
    橋を渡りたい気持ちを堪え、まずは善峯寺バス停から70m程下った所にある阿智坂明神にご挨拶です。

  • 善峰川<br />784(延暦3)年、桓武天皇は平城京から長岡京へ遷都しました。表向きの理由は「奈良仏教からの決別」ですが、実は、往時は天武天皇系が主流であり、天智天皇の曾孫に当たる桓武天皇はバックグランドが手薄でした。それ故、渡来系氏族の血をひく桓武天皇は、平城京にいると暗殺されるとの危険を感じ、百済系枚方を平城京勢力の盾にでき、かつ渡来系秦氏の拠点である長岡京を選んだとされます。しかし、僅か10年で平安京遷都に甘んじています。その理由は早良親王の祟り説が有名ですが、もうひとつの理由がこの善峰川と淀川の氾濫でした。<br />桓武天皇は平安京遷都後も怨霊に怯え続け、800(延暦19)年には早良親王に崇道天皇を追号し、藤原種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図りました。お彼岸に祖先供養をするのは日本固有ですが、806(大同元)年に早良親王の霊を鎮めるために各地の国分寺で7日間『金剛般若経』を読経して供養した記録が『日本後紀』にあり、これが本邦初のお彼岸の祖先供養の記録とされます。

    善峰川
    784(延暦3)年、桓武天皇は平城京から長岡京へ遷都しました。表向きの理由は「奈良仏教からの決別」ですが、実は、往時は天武天皇系が主流であり、天智天皇の曾孫に当たる桓武天皇はバックグランドが手薄でした。それ故、渡来系氏族の血をひく桓武天皇は、平城京にいると暗殺されるとの危険を感じ、百済系枚方を平城京勢力の盾にでき、かつ渡来系秦氏の拠点である長岡京を選んだとされます。しかし、僅か10年で平安京遷都に甘んじています。その理由は早良親王の祟り説が有名ですが、もうひとつの理由がこの善峰川と淀川の氾濫でした。
    桓武天皇は平安京遷都後も怨霊に怯え続け、800(延暦19)年には早良親王に崇道天皇を追号し、藤原種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図りました。お彼岸に祖先供養をするのは日本固有ですが、806(大同元)年に早良親王の霊を鎮めるために各地の国分寺で7日間『金剛般若経』を読経して供養した記録が『日本後紀』にあり、これが本邦初のお彼岸の祖先供養の記録とされます。

  • 石仏<br />京都盆地の西端、小塩山や釈迦岳などの西山連峰が聳える丘陵地帯を「大原野」と言います。桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都した乙訓の里は、その山麓に開けました。大原野は、平安時代には天皇や貴族が鷹狩りや宴を催して野原で遊んだ地と伝わります。また、大原野一帯には、豊かな自然が残され、古刹・名刹が多く、古墳も数多く点在しています。古くは石工を本業とした石作氏の本拠地であり、乙訓郡石作郷と呼ばれていました。<br />一方、筍の産地としても知られ、周囲には竹林が広がっています。そうした土地柄もあり、平安時代のロマンを描いた『竹取物語』の舞台とも伝わります。かぐや姫に求婚した中のひとり、石作皇子も大原野に住んだ貴公子だったのかも知れません。<br />「大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思ひ出づらめ」在原業平<br />業平寺とも呼ばれる「小塩山 十輪寺」も麓にあり、業平が晩成に隠棲し塩焼きの風情を愉しんだと伝えます。

    石仏
    京都盆地の西端、小塩山や釈迦岳などの西山連峰が聳える丘陵地帯を「大原野」と言います。桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都した乙訓の里は、その山麓に開けました。大原野は、平安時代には天皇や貴族が鷹狩りや宴を催して野原で遊んだ地と伝わります。また、大原野一帯には、豊かな自然が残され、古刹・名刹が多く、古墳も数多く点在しています。古くは石工を本業とした石作氏の本拠地であり、乙訓郡石作郷と呼ばれていました。
    一方、筍の産地としても知られ、周囲には竹林が広がっています。そうした土地柄もあり、平安時代のロマンを描いた『竹取物語』の舞台とも伝わります。かぐや姫に求婚した中のひとり、石作皇子も大原野に住んだ貴公子だったのかも知れません。
    「大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思ひ出づらめ」在原業平
    業平寺とも呼ばれる「小塩山 十輪寺」も麓にあり、業平が晩成に隠棲し塩焼きの風情を愉しんだと伝えます。

  • 善峰川<br />大原野に古社や古刹が建立されたのは、皇室との深い繋がりを持つ土地だったことが一因のようです。桓武天皇の妃 乙牟漏(おとむら)皇后は藤原氏の出身で、長岡京遷都の後、氏神の春日社へ気軽に参詣できないことからこの地に春日明神を勧進し、それが大原野神社のはじまりでした。<br />一方、善峯寺は、標高365mの高台に鎮まり、長岡京市にある「光明寺」や「楊谷寺」と合わせて京都西山三山と呼ばれています。また、西山三山を結ぶ西山古道は千年の歴史を持つ祈りと信仰の道です。平安時代の末法思想の高まりと相俟って阿弥陀如来が居られる極楽浄土への往生を説く浄土教が流行し、極楽浄土は西方にあるとされたことから、京都では西山に衆目が集まりました。

    善峰川
    大原野に古社や古刹が建立されたのは、皇室との深い繋がりを持つ土地だったことが一因のようです。桓武天皇の妃 乙牟漏(おとむら)皇后は藤原氏の出身で、長岡京遷都の後、氏神の春日社へ気軽に参詣できないことからこの地に春日明神を勧進し、それが大原野神社のはじまりでした。
    一方、善峯寺は、標高365mの高台に鎮まり、長岡京市にある「光明寺」や「楊谷寺」と合わせて京都西山三山と呼ばれています。また、西山三山を結ぶ西山古道は千年の歴史を持つ祈りと信仰の道です。平安時代の末法思想の高まりと相俟って阿弥陀如来が居られる極楽浄土への往生を説く浄土教が流行し、極楽浄土は西方にあるとされたことから、京都では西山に衆目が集まりました。

  • 阿智坂明神<br />「阿智坂」とは、善峯寺を創建した源算上人が霊地を求めて西山に入った折、山が険しいために休んでいた時に現れた翁神です。<br />「我はこの地の主にて名を阿智坂と言う。この霊地に伽藍を草創し給え。この地を与えて永く仏法を守らん」と告げて立ち去ったと伝えます。

    阿智坂明神
    「阿智坂」とは、善峯寺を創建した源算上人が霊地を求めて西山に入った折、山が険しいために休んでいた時に現れた翁神です。
    「我はこの地の主にて名を阿智坂と言う。この霊地に伽藍を草創し給え。この地を与えて永く仏法を守らん」と告げて立ち去ったと伝えます。

  • 阿智坂明神<br />阿智なる地名は全国津々浦々にありますが、その由来は平安時代の和歌にある「あふち」の転化と考えられています。「あふち」とは、谷間を意味する「あひ(間)ち(地)」が語源とされます。

    阿智坂明神
    阿智なる地名は全国津々浦々にありますが、その由来は平安時代の和歌にある「あふち」の転化と考えられています。「あふち」とは、谷間を意味する「あひ(間)ち(地)」が語源とされます。

  • 三鈷寺参道<br />右側には三鈷寺へ至る石段が続いています。尚、三鈷寺へは、善峯寺境内を通って北門からアプローチすることもできます。<br />三鈷寺の開山は善峯寺と同様に源算上人で、1074(承保1)年に結んだ草庵「往生院」が前身です。1213(健保元)年に法然上人門下の西山上人証空(善恵国師)がここを不断如法念仏道場とすると共に名も三鈷寺と改めました。<br />本尊には如法仏眼曼荼羅を祀りますが、現在の本堂には納まらないため、奈良国立博物館に寄託されています。京都洛西観音霊場第5番札所でもあります。

    三鈷寺参道
    右側には三鈷寺へ至る石段が続いています。尚、三鈷寺へは、善峯寺境内を通って北門からアプローチすることもできます。
    三鈷寺の開山は善峯寺と同様に源算上人で、1074(承保1)年に結んだ草庵「往生院」が前身です。1213(健保元)年に法然上人門下の西山上人証空(善恵国師)がここを不断如法念仏道場とすると共に名も三鈷寺と改めました。
    本尊には如法仏眼曼荼羅を祀りますが、現在の本堂には納まらないため、奈良国立博物館に寄託されています。京都洛西観音霊場第5番札所でもあります。

  • 阿智坂明神<br />善峯寺創建にまつわる伝説があります。<br />源算上人は、山の神 阿智坂明神の化身である老翁から寺院建立を頼まれ、釈迦岳の中腹に伽藍の建立を思い立ちました。しかし聞きしに余る険峻な峰であり、伽藍の工事は困難を極めました。それでも門徒たちの結束と協力のお蔭で何とか建立を果たしました。<br />後にこの建立にまつわる伝説が生まれました。鎌倉時代末期に東福寺の虎関師錬が著した仏教史書『元亨釈書』に次のように記されています。<br />源算が山を切り開く方策に悩んでいたある夜、夢枕に老翁が現れて建立の援助を告げました。やがて源算が岩の上で坐禅を組んでいると、7日目の夜に数千頭もの猪が現れて牙で岩を穿ち、辺りを踏み均して一夜にして基盤を築いたと伝えます。<br />これは門徒たちの必死の努力の姿を喩えた話なのでしょう。

    阿智坂明神
    善峯寺創建にまつわる伝説があります。
    源算上人は、山の神 阿智坂明神の化身である老翁から寺院建立を頼まれ、釈迦岳の中腹に伽藍の建立を思い立ちました。しかし聞きしに余る険峻な峰であり、伽藍の工事は困難を極めました。それでも門徒たちの結束と協力のお蔭で何とか建立を果たしました。
    後にこの建立にまつわる伝説が生まれました。鎌倉時代末期に東福寺の虎関師錬が著した仏教史書『元亨釈書』に次のように記されています。
    源算が山を切り開く方策に悩んでいたある夜、夢枕に老翁が現れて建立の援助を告げました。やがて源算が岩の上で坐禅を組んでいると、7日目の夜に数千頭もの猪が現れて牙で岩を穿ち、辺りを踏み均して一夜にして基盤を築いたと伝えます。
    これは門徒たちの必死の努力の姿を喩えた話なのでしょう。

  • 阿智坂明神<br />善峯寺の鎮守社です。<br />小さな祠と2基の燈籠、石鳥居で構成された簡素な神社です。<br />参拝される方もおらず、厳かな雰囲気を湛えています。<br />

    阿智坂明神
    善峯寺の鎮守社です。
    小さな祠と2基の燈籠、石鳥居で構成された簡素な神社です。
    参拝される方もおらず、厳かな雰囲気を湛えています。

  • 阿智坂明神<br />祠の背後から見るとこんな感じです。<br />平坦スペースは結構あるため、かつては他にも何か建っていたのかもしれません。

    阿智坂明神
    祠の背後から見るとこんな感じです。
    平坦スペースは結構あるため、かつては他にも何か建っていたのかもしれません。

  • 阿智坂明神<br />祠の中を覗くと、大きな袋と団扇がトレードマークの「布袋さん」が祀られていました。<br />どうやら「パンドラの匣」を開けてしまったようです。阿智坂明神と布袋さんの繋がりは不詳です。

    阿智坂明神
    祠の中を覗くと、大きな袋と団扇がトレードマークの「布袋さん」が祀られていました。
    どうやら「パンドラの匣」を開けてしまったようです。阿智坂明神と布袋さんの繋がりは不詳です。

  • 阿智坂明神<br />鳥居は石造です。

    阿智坂明神
    鳥居は石造です。

  • 道標<br />「 西国二十番札所 よしみね古道」<br />善峰橋まで戻ってきました。橋を渡った左手に道標が佇みます。<br />善峯寺は、平安時代中期の1029(長元2)年に源算上人により開山されました。源算は比叡山横川の恵心僧都 源信に師事し、47歳で入山して小堂に自彫の千手観世音菩薩像を祀りました。<br />鎌倉時代には慈円和尚や証空上人が善峯寺の住職を勤め、また、承久の乱が起こった折、後鳥羽上皇の皇子 道覚法親王が避難したことをきっかけに青蓮院門跡より数多の親王が籠居し、「西山宮門跡」と称されました。その後も皇室との繋がりが強く、白河天皇が諸堂を建立し、後に後花園天皇が伽藍を改築して僧坊52に及び、その後も後嵯峨天皇や後深草天皇などの崇敬を受けました。しかし応仁の乱やそれ以降の戦乱で荒廃し、1552(天文21)年に細川晴元と三好長慶の抗争により西岡が放火され、善峯寺や近隣の三鈷寺は焦土と化しました。<br />その後、江戸時代の元禄年間に徳川5代将軍 綱吉の生母 桂昌院を大檀那として、鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興され、幾多の貴重な什物が寄進されました。桂昌院は、幼少時に両親に連れられて善峯寺に度々参詣していたと伝えられます。

    道標
    「 西国二十番札所 よしみね古道」
    善峰橋まで戻ってきました。橋を渡った左手に道標が佇みます。
    善峯寺は、平安時代中期の1029(長元2)年に源算上人により開山されました。源算は比叡山横川の恵心僧都 源信に師事し、47歳で入山して小堂に自彫の千手観世音菩薩像を祀りました。
    鎌倉時代には慈円和尚や証空上人が善峯寺の住職を勤め、また、承久の乱が起こった折、後鳥羽上皇の皇子 道覚法親王が避難したことをきっかけに青蓮院門跡より数多の親王が籠居し、「西山宮門跡」と称されました。その後も皇室との繋がりが強く、白河天皇が諸堂を建立し、後に後花園天皇が伽藍を改築して僧坊52に及び、その後も後嵯峨天皇や後深草天皇などの崇敬を受けました。しかし応仁の乱やそれ以降の戦乱で荒廃し、1552(天文21)年に細川晴元と三好長慶の抗争により西岡が放火され、善峯寺や近隣の三鈷寺は焦土と化しました。
    その後、江戸時代の元禄年間に徳川5代将軍 綱吉の生母 桂昌院を大檀那として、鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興され、幾多の貴重な什物が寄進されました。桂昌院は、幼少時に両親に連れられて善峯寺に度々参詣していたと伝えられます。

  • 阿知坂<br />青紅葉が幾重にも覆い被さる九十九折の善峯古道「阿知坂」は、勾配のきつい場所もありますが、距離自体は短く、10分程の苦行で東門に至ります。<br />

    阿知坂
    青紅葉が幾重にも覆い被さる九十九折の善峯古道「阿知坂」は、勾配のきつい場所もありますが、距離自体は短く、10分程の苦行で東門に至ります。

  • 参道霊蹟「坐禅石」<br />見上げると巨大な「坐禅石」が九十九折の途中でオーバーハングしています。

    参道霊蹟「坐禅石」
    見上げると巨大な「坐禅石」が九十九折の途中でオーバーハングしています。

  • 参道霊蹟「坐禅石」<br />「善峯坐禅石」や「仙翁石」とも呼ばれる巨石です。<br />この石は、源算上人が開山を思惟していた時に魔障が現れ、この苔生した岩石の上に40日近く坐禅をして魔障を退散させたと伝わるパワースポットです。<br />

    参道霊蹟「坐禅石」
    「善峯坐禅石」や「仙翁石」とも呼ばれる巨石です。
    この石は、源算上人が開山を思惟していた時に魔障が現れ、この苔生した岩石の上に40日近く坐禅をして魔障を退散させたと伝わるパワースポットです。

  • 参道霊蹟「坐禅石」<br />上部は平坦そうに見えますが、実は谷側に傾斜しており、その上に40日も坐ることは至難の業です。

    参道霊蹟「坐禅石」
    上部は平坦そうに見えますが、実は谷側に傾斜しており、その上に40日も坐ることは至難の業です。

  • 阿知坂<br />参道はこのように苔生しているため雨の日にはスリップに要注意です。<br />手摺があるのは、そのためでしょうか?

    阿知坂
    参道はこのように苔生しているため雨の日にはスリップに要注意です。
    手摺があるのは、そのためでしょうか?

  • 東門<br />10分程の苦行で東門に到着です。<br />門札には「西国二十番札所」と書かれています。<br />善峯寺は西国三十三所観音霊場第20番札所として拝される他、京都洛西観音霊場1番や神仏霊場のひとつとしても巡礼信仰されています。<br />西国三十三所霊場第20番 ご詠歌(後一条天皇)<br />「野をもすぎ 山路に向う 雨の空 よしみねよりも はるる夕立」<br />野原を抜け、山道に向かっていると雲行きが怪しくなってきた。善峯寺の参詣が終わる頃には夕立も上がっているだろう。<br />(観音さまが必ず良い方向にお導きくださるはずです。)<br />京都洛西観音霊場第1番 ご詠歌<br />「わけのぼる むかうこころは よしみねや みのり(御法)をおえし たかきやまかげ」<br />普段の喧騒から離れ、心を洗う所業も大切だと思います。

    東門
    10分程の苦行で東門に到着です。
    門札には「西国二十番札所」と書かれています。
    善峯寺は西国三十三所観音霊場第20番札所として拝される他、京都洛西観音霊場1番や神仏霊場のひとつとしても巡礼信仰されています。
    西国三十三所霊場第20番 ご詠歌(後一条天皇)
    「野をもすぎ 山路に向う 雨の空 よしみねよりも はるる夕立」
    野原を抜け、山道に向かっていると雲行きが怪しくなってきた。善峯寺の参詣が終わる頃には夕立も上がっているだろう。
    (観音さまが必ず良い方向にお導きくださるはずです。)
    京都洛西観音霊場第1番 ご詠歌
    「わけのぼる むかうこころは よしみねや みのり(御法)をおえし たかきやまかげ」
    普段の喧騒から離れ、心を洗う所業も大切だと思います。

  • 東門<br />門を潜った先で振り返ると高麗門であることがよく判ります。

    東門
    門を潜った先で振り返ると高麗門であることがよく判ります。

  • 東門<br />「繋ぎ九目結紋」は、桂昌院の実家(養女先)である本庄家の家紋です。一族の結束の強さを表現する家紋とされます。善峯寺の寺紋でもあり、かつては本庄家の菩提寺でもありました。<br />再建に尽くした桂昌院への感謝の証として、各地の寺院は恩人所縁の家紋をさりげなく掲げています。

    東門
    「繋ぎ九目結紋」は、桂昌院の実家(養女先)である本庄家の家紋です。一族の結束の強さを表現する家紋とされます。善峯寺の寺紋でもあり、かつては本庄家の菩提寺でもありました。
    再建に尽くした桂昌院への感謝の証として、各地の寺院は恩人所縁の家紋をさりげなく掲げています。

  • 参道<br />東門からUターンするように山門への石段に取り付きます。両脇には石仏がお出迎えです。<br />門を潜って真っ直ぐ進むと山門駐車場に至ります。つまり、自家用車やタクシーを利用すれば、苦行からは開放されます。

    参道
    東門からUターンするように山門への石段に取り付きます。両脇には石仏がお出迎えです。
    門を潜って真っ直ぐ進むと山門駐車場に至ります。つまり、自家用車やタクシーを利用すれば、苦行からは開放されます。

  • 境内マップ<br />善峯寺へのアクセスは、公共交通機関を使う場合は、JR向日町駅あるいは阪急電車 東向日駅から阪急バス「66番善峯寺行」を利用します。<br />シーズン中の土日でも1時間に1本しかありませんので留意願います。<br />乗車時間は30分ほどです。

    境内マップ
    善峯寺へのアクセスは、公共交通機関を使う場合は、JR向日町駅あるいは阪急電車 東向日駅から阪急バス「66番善峯寺行」を利用します。
    シーズン中の土日でも1時間に1本しかありませんので留意願います。
    乗車時間は30分ほどです。

  • 山門<br />京都洛西観音霊場札所は、足利義満の世に京の官女や武家の女性を中心にして西の岡札所巡りが行なわれるようになったのが始まりです。往時桂川以西はまだ都ではなく、都の女性にとっては縁者の菩提を弔う巡礼以外にレジャー的な要素もあったとされます。 <br />寛政年間のご詠歌の額を残す札所が発見されており、泰平の世にも札所参りが盛んであったことが窺えます。やがて明治時代には廃仏毀釈の影響で寺院が民の手で破壊されたりもし、札所にもそれが及んで廃れていったと考えられています。1978(昭和53)年に札所が復活しています。

    山門
    京都洛西観音霊場札所は、足利義満の世に京の官女や武家の女性を中心にして西の岡札所巡りが行なわれるようになったのが始まりです。往時桂川以西はまだ都ではなく、都の女性にとっては縁者の菩提を弔う巡礼以外にレジャー的な要素もあったとされます。
    寛政年間のご詠歌の額を残す札所が発見されており、泰平の世にも札所参りが盛んであったことが窺えます。やがて明治時代には廃仏毀釈の影響で寺院が民の手で破壊されたりもし、札所にもそれが及んで廃れていったと考えられています。1978(昭和53)年に札所が復活しています。

  • 山門<br />東門を潜って急勾配の石段の参道を上がると、巨大な「山門」が左手に現われます。桂昌院の寄進により、1716(正徳6)年に再建された西国三十三所巡礼札所らしい趣のある三間一戸の楼門形式の山門です。<br />古の参詣者が長い旅の末にここに辿り着き、この威厳ある山門の姿を仰ぎ見た時の感激は言葉に尽くせないものだったことでしょう。

    山門
    東門を潜って急勾配の石段の参道を上がると、巨大な「山門」が左手に現われます。桂昌院の寄進により、1716(正徳6)年に再建された西国三十三所巡礼札所らしい趣のある三間一戸の楼門形式の山門です。
    古の参詣者が長い旅の末にここに辿り着き、この威厳ある山門の姿を仰ぎ見た時の感激は言葉に尽くせないものだったことでしょう。

  • 山門<br />スケール感にも圧倒されますが、それよりも複雑な組物の中に火灯窓を散らした独特の雰囲気に呑まれます。ずんぐりしたプロポーションですが、二斗を持つ特異な蟇股や木鼻など随所に時代の特徴が反映されています。

    山門
    スケール感にも圧倒されますが、それよりも複雑な組物の中に火灯窓を散らした独特の雰囲気に呑まれます。ずんぐりしたプロポーションですが、二斗を持つ特異な蟇股や木鼻など随所に時代の特徴が反映されています。

  • 山門<br />善峯寺は「西山宮門跡」でもあり、かつては官寺に列せられていました。<br />承久の乱が勃発した折、後鳥羽上皇の皇子 道覚法親王が善峯寺に避難したのがきっかけとなり、それ以後、青蓮院の宮様である慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寶、尊証の各法親王が住職となったことから、「西山宮」と称されるようになりました。

    山門
    善峯寺は「西山宮門跡」でもあり、かつては官寺に列せられていました。
    承久の乱が勃発した折、後鳥羽上皇の皇子 道覚法親王が善峯寺に避難したのがきっかけとなり、それ以後、青蓮院の宮様である慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寶、尊証の各法親王が住職となったことから、「西山宮」と称されるようになりました。

  • 山門<br />1192(建久3)年、3祖 慈円和尚が住職の時、後鳥羽天皇より「善峯寺」の宸額が下賜され、寺名を「良峯寺」から「善峯寺」に改めたと伝わります。この扁額は、後鳥羽天皇宸筆の謹写と伝えられます。<br />扁額の下に注連縄を付けた門構えには威圧感が漲っています。こうした注連縄は、神仏習合の密教寺院独特と言えます。<br />慈円は、天台座主を4度勤め、西山の善峯寺や三鈷寺に籠居したことから西山上人とも呼ばれました。善峯寺には分骨もされています。1225(嘉禄元)年に71歳で近江にて入寂。1237(嘉禎3)年に慈鎭和尚と謚名されました。著書には歴史書『愚管抄』や歌集『拾玉集』などがあり、『新古今集』では西行の94首に次ぐ92首が撰入しています。

    山門
    1192(建久3)年、3祖 慈円和尚が住職の時、後鳥羽天皇より「善峯寺」の宸額が下賜され、寺名を「良峯寺」から「善峯寺」に改めたと伝わります。この扁額は、後鳥羽天皇宸筆の謹写と伝えられます。
    扁額の下に注連縄を付けた門構えには威圧感が漲っています。こうした注連縄は、神仏習合の密教寺院独特と言えます。
    慈円は、天台座主を4度勤め、西山の善峯寺や三鈷寺に籠居したことから西山上人とも呼ばれました。善峯寺には分骨もされています。1225(嘉禄元)年に71歳で近江にて入寂。1237(嘉禎3)年に慈鎭和尚と謚名されました。著書には歴史書『愚管抄』や歌集『拾玉集』などがあり、『新古今集』では西行の94首に次ぐ92首が撰入しています。

  • 山門<br />楼下の金剛力士像は源頼朝が運慶に命じて彫らせたものと伝わります。<br />源頼朝が源算を継いだ2祖 観性法橋に深く帰依していたことに因みます。<br />

    山門
    楼下の金剛力士像は源頼朝が運慶に命じて彫らせたものと伝わります。
    源頼朝が源算を継いだ2祖 観性法橋に深く帰依していたことに因みます。

  • 山門<br />金剛力士像は損傷が進んだため保護ガラスに覆われており、見難いのが残念です。<br />本来の運慶の迫力が伝わってこないのは、風化などで丸みを帯びたせいでしょうか?<br />

    山門
    金剛力士像は損傷が進んだため保護ガラスに覆われており、見難いのが残念です。
    本来の運慶の迫力が伝わってこないのは、風化などで丸みを帯びたせいでしょうか?

  • 山門<br />楼上に祀られていた源頼朝の寄進と伝わる本尊 文殊菩薩像と脇侍二天は、現在は文殊寺宝館に安置されてます。<br />

    山門
    楼上に祀られていた源頼朝の寄進と伝わる本尊 文殊菩薩像と脇侍二天は、現在は文殊寺宝館に安置されてます。

  • 山門<br />2祖 観性法橋や3祖 慈円和尚は鎌倉幕府や朝廷との繋がりを強め、良峯寺の境内を整備しました。<br />『吾妻鏡』によると、1185(文治5)年、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際、観性は天台座主 全玄僧正の代理として供養導師を務め、頼朝から歓待されています。頼朝は、観性と終日談話して崇敬するようになり、後に観性の希望に応えて二十八部衆金剛力士等を南都仏師 運慶に彫らせ、良峯寺に寄進したとあります。<br />また、関白 藤原忠通の子であり、歴史書『愚管抄』の著者、また優れた歌人として知られる慈円和尚も頼朝との親交が深く、幕府と朝廷の良好な関係に努め、頼朝から越前国藤島庄を寺領として授かっています。更に、1192(建久3)年には天台座主に就任し、後鳥羽上皇より自筆の寺額を賜って「良峯寺」を「善峯寺」と改め、官寺に列せられています。

    山門
    2祖 観性法橋や3祖 慈円和尚は鎌倉幕府や朝廷との繋がりを強め、良峯寺の境内を整備しました。
    『吾妻鏡』によると、1185(文治5)年、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際、観性は天台座主 全玄僧正の代理として供養導師を務め、頼朝から歓待されています。頼朝は、観性と終日談話して崇敬するようになり、後に観性の希望に応えて二十八部衆金剛力士等を南都仏師 運慶に彫らせ、良峯寺に寄進したとあります。
    また、関白 藤原忠通の子であり、歴史書『愚管抄』の著者、また優れた歌人として知られる慈円和尚も頼朝との親交が深く、幕府と朝廷の良好な関係に努め、頼朝から越前国藤島庄を寺領として授かっています。更に、1192(建久3)年には天台座主に就任し、後鳥羽上皇より自筆の寺額を賜って「良峯寺」を「善峯寺」と改め、官寺に列せられています。

  • 山門<br />天井は格式の高い格天井です。

    山門
    天井は格式の高い格天井です。

  • 大燈籠<br />山門を潜ると正面の高台に観音堂が望め、一変して山裾に佇む古刹の趣に感じ入ります。山門と観音堂の間には本庄宗資が寄進した巨大な青銅製の燈籠が佇み、火袋には四天王が彫られています。<br />宗資は、桂昌院の異父弟に当たり、桂昌院の庇護を受けて大名に立身出世しました。譜代大名として下野国足利藩主、後に常陸国笠間藩初代藩主を務めました。家督は次男 資俊が継ぎ、この代に松平姓が与えられています。子孫は宮津藩主として幕末を迎えました。<br />家紋は松平姓とと共に下賜された「三つ葉葵」と「繋ぎ九目結紋」です。

    大燈籠
    山門を潜ると正面の高台に観音堂が望め、一変して山裾に佇む古刹の趣に感じ入ります。山門と観音堂の間には本庄宗資が寄進した巨大な青銅製の燈籠が佇み、火袋には四天王が彫られています。
    宗資は、桂昌院の異父弟に当たり、桂昌院の庇護を受けて大名に立身出世しました。譜代大名として下野国足利藩主、後に常陸国笠間藩初代藩主を務めました。家督は次男 資俊が継ぎ、この代に松平姓が与えられています。子孫は宮津藩主として幕末を迎えました。
    家紋は松平姓とと共に下賜された「三つ葉葵」と「繋ぎ九目結紋」です。

  • 山門<br />善峯寺の隆盛時には3つのエリアに伽藍が建立され、南尾の法華院、中尾の蓮華寿院、北尾の往生院を中心に52坊を数えました。現在の観音堂付近が南尾、薬師堂<br />付近が中尾になります。北尾は現在の三鈷寺の境内になり、往生院旧跡は証空上人の聖跡として浄土宗西山三派の信仰地となっています。<br />応仁の乱により大半の伽藍が焼失し、江戸時代には10近くの伽藍と7坊が復興されるも、明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されました。現在は境内地3万坪にある20近くの堂塔伽藍と所有地36万坪が受け継がれています。

    山門
    善峯寺の隆盛時には3つのエリアに伽藍が建立され、南尾の法華院、中尾の蓮華寿院、北尾の往生院を中心に52坊を数えました。現在の観音堂付近が南尾、薬師堂
    付近が中尾になります。北尾は現在の三鈷寺の境内になり、往生院旧跡は証空上人の聖跡として浄土宗西山三派の信仰地となっています。
    応仁の乱により大半の伽藍が焼失し、江戸時代には10近くの伽藍と7坊が復興されるも、明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されました。現在は境内地3万坪にある20近くの堂塔伽藍と所有地36万坪が受け継がれています。

  • 観音堂(本堂)<br />桂昌院の寄進により1692(元禄5)年に再建された、古色蒼然とした入母屋造の本堂です。威圧感漲る山門とは対照的に、本堂は桟瓦葺屋根の勾配も緩く女性的な趣を湛えます。「阿弥陀堂」もあるのですが、本堂が「阿弥陀堂」ではなく「観音堂」であるところが、「西国三十三所」の寺である特徴かもしれません。<br />納経(御朱印)・御守はこの本堂で授与していただけます。

    観音堂(本堂)
    桂昌院の寄進により1692(元禄5)年に再建された、古色蒼然とした入母屋造の本堂です。威圧感漲る山門とは対照的に、本堂は桟瓦葺屋根の勾配も緩く女性的な趣を湛えます。「阿弥陀堂」もあるのですが、本堂が「阿弥陀堂」ではなく「観音堂」であるところが、「西国三十三所」の寺である特徴かもしれません。
    納経(御朱印)・御守はこの本堂で授与していただけます。

  • 手水舎<br />この地は京の西山。西山の筍は高級料亭へと出荷され、お値段も超一流です。<br />それに因んで、手水の柄杓等も生竹です。

    手水舎
    この地は京の西山。西山の筍は高級料亭へと出荷され、お値段も超一流です。
    それに因んで、手水の柄杓等も生竹です。

  • 観音堂<br />内陣で驚かされるのは、中央の厨子の手前に神鏡が祀られていることです。普通ならお前立ちなのですが、これは神仏習合の名残りと思われます。<br />桂昌院は和歌を善峯寺本尊の千手観世音菩薩に献詠しています。<br />「万世を とかへり経ても 尽せじと 君が恵みの 南無観世音 」<br />「とかへり」とは「十返り」と書き、祝賀の意です。

    観音堂
    内陣で驚かされるのは、中央の厨子の手前に神鏡が祀られていることです。普通ならお前立ちなのですが、これは神仏習合の名残りと思われます。
    桂昌院は和歌を善峯寺本尊の千手観世音菩薩に献詠しています。
    「万世を とかへり経ても 尽せじと 君が恵みの 南無観世音 」
    「とかへり」とは「十返り」と書き、祝賀の意です。

  • 秘仏本尊 十一面千手観世音菩薩像<br />須弥壇の中央にある厨子には、秘仏本尊 十一面千手観世音菩薩像(像高178.8cm)が納まります。安居院 仁弘法師の作と伝えられ、元々は洛東東山の高台寺付近にあった鷲尾寺に祀られていましたが、後朱雀天皇の意向によりこの地に遷されて善峯寺の本尊となりました。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://blogs.yahoo.co.jp/teravist/32492430.html

    秘仏本尊 十一面千手観世音菩薩像
    須弥壇の中央にある厨子には、秘仏本尊 十一面千手観世音菩薩像(像高178.8cm)が納まります。安居院 仁弘法師の作と伝えられ、元々は洛東東山の高台寺付近にあった鷲尾寺に祀られていましたが、後朱雀天皇の意向によりこの地に遷されて善峯寺の本尊となりました。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://blogs.yahoo.co.jp/teravist/32492430.html

  • 秘仏本尊 十一面千手観世音菩薩像<br />全身が淡く金色に輝き、丸みを帯びたお顔は微笑を湛えています。翻波式衣文、光背、台座は後補、寄木造、漆箔、彫眼、西国三十三所観音霊場第20番札所の本尊です。脇侍には毘沙門天と不動明王、厨子の周りは二十八部衆が囲みます。<br />この画像は、次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/saikoku/entry/020.htm

    秘仏本尊 十一面千手観世音菩薩像
    全身が淡く金色に輝き、丸みを帯びたお顔は微笑を湛えています。翻波式衣文、光背、台座は後補、寄木造、漆箔、彫眼、西国三十三所観音霊場第20番札所の本尊です。脇侍には毘沙門天と不動明王、厨子の周りは二十八部衆が囲みます。
    この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/saikoku/entry/020.htm

  • 観音堂<br />向かって右の厨子の脇本尊 十一面千手観世音菩薩像(像高174.5cm)は源算上人の作です。創建当初は善峯寺の本尊でしたが、現在はその地位を譲り、京都洛西観音霊場第1番の本尊になっています。<br />スマートで静謐な印象を湛えており、像全体が黒ずんだ古色を呈し、金色の宝冠や光背との対比が優美だそうです。

    観音堂
    向かって右の厨子の脇本尊 十一面千手観世音菩薩像(像高174.5cm)は源算上人の作です。創建当初は善峯寺の本尊でしたが、現在はその地位を譲り、京都洛西観音霊場第1番の本尊になっています。
    スマートで静謐な印象を湛えており、像全体が黒ずんだ古色を呈し、金色の宝冠や光背との対比が優美だそうです。

  • 観音堂<br />屋根瓦にも「繋ぎ九目結紋」が見られます。<br />向かって左の未敷蓮華を手にした細身の聖観音菩薩像は末寺から遷されてきた、像高さ96cmの木像です。平安時代後期の作品とされ、八頭身美人、穏かな顔立ち、裾の両側を外にピンと張った形、紐のU字型はその時代の特徴を表わしています。<br />本堂の外観は至ってシンプルですが、内陣や厨子は雰囲気があります。お前立ちなどがなくとも霊場巡りの巡礼者の方々には本尊の姿が心眼で見えるのでしょう。

    観音堂
    屋根瓦にも「繋ぎ九目結紋」が見られます。
    向かって左の未敷蓮華を手にした細身の聖観音菩薩像は末寺から遷されてきた、像高さ96cmの木像です。平安時代後期の作品とされ、八頭身美人、穏かな顔立ち、裾の両側を外にピンと張った形、紐のU字型はその時代の特徴を表わしています。
    本堂の外観は至ってシンプルですが、内陣や厨子は雰囲気があります。お前立ちなどがなくとも霊場巡りの巡礼者の方々には本尊の姿が心眼で見えるのでしょう。

  • 観音堂<br />青銅製燈籠にも「繋ぎ九目結紋」が配されています。<br />また、観音堂の棟札には、桂昌院の願文が記されているそうです。<br />「一天泰平四海靜謐五穀豊饒万人快楽別而者                                                征夷大将軍御武運長久御子孫繁昌心中御願成就仍高札如件                                元禄五年十二月五日謹記之」<br />天下泰平や五穀豊穣などを願いつつも、綱吉の武運長久、子孫繁栄を念じる願文と読み取れます。綱吉に跡取りが生まれなかった事実を知る我々には、祈願成就のために桂昌院がどれほどの祈りを重ねていたのか痛いほど伝わってきます。

    観音堂
    青銅製燈籠にも「繋ぎ九目結紋」が配されています。
    また、観音堂の棟札には、桂昌院の願文が記されているそうです。
    「一天泰平四海靜謐五穀豊饒万人快楽別而者 征夷大将軍御武運長久御子孫繁昌心中御願成就仍高札如件 元禄五年十二月五日謹記之」
    天下泰平や五穀豊穣などを願いつつも、綱吉の武運長久、子孫繁栄を念じる願文と読み取れます。綱吉に跡取りが生まれなかった事実を知る我々には、祈願成就のために桂昌院がどれほどの祈りを重ねていたのか痛いほど伝わってきます。

  • 観音堂<br />右手前にある「お守り納め処」です。<br />2005年の桂昌院ご遠忌法要に合わせて制作されたもので、金閣寺改修(鳳凰担当)を手掛けられた螺形鋳金作家 小泉武寛(ぶかん)氏が制作されています。桂昌院の幼少時の名が「お玉」だったことから、3匹の犬が「玉の輿(壺)」を担いでいるデザインです。壺の中に前年のお守りを納めます。<br />因みに、東京日本橋にある水天宮の「子宝いぬ」も小泉氏の作品です。

    観音堂
    右手前にある「お守り納め処」です。
    2005年の桂昌院ご遠忌法要に合わせて制作されたもので、金閣寺改修(鳳凰担当)を手掛けられた螺形鋳金作家 小泉武寛(ぶかん)氏が制作されています。桂昌院の幼少時の名が「お玉」だったことから、3匹の犬が「玉の輿(壺)」を担いでいるデザインです。壺の中に前年のお守りを納めます。
    因みに、東京日本橋にある水天宮の「子宝いぬ」も小泉氏の作品です。

  • 弘法大師像<br />観音堂の右脇には、お香水と並んで露天に弘法大師像が立ち、その傍らに「納札所」と「大師堂」が祀られています。納札所は、1691(元禄4)年の建立、西国巡礼の札打ち場です。大師堂は、何時、誰が建立したのかなどの縁起は不詳です。<br />良い塩梅に鄙びています。

    弘法大師像
    観音堂の右脇には、お香水と並んで露天に弘法大師像が立ち、その傍らに「納札所」と「大師堂」が祀られています。納札所は、1691(元禄4)年の建立、西国巡礼の札打ち場です。大師堂は、何時、誰が建立したのかなどの縁起は不詳です。
    良い塩梅に鄙びています。

  • お香水閼伽井<br />本堂の右側奥にあり、仏前に供する水を汲む清浄な井戸です。<br />このお香水を飲むと病気平癒、長寿のご利益があると伝わります。<br />

    お香水閼伽井
    本堂の右側奥にあり、仏前に供する水を汲む清浄な井戸です。
    このお香水を飲むと病気平癒、長寿のご利益があると伝わります。

  • お香水閼伽井<br />木の扉を開けると石組の井戸になっており、釈迦岳から流れ出る湧水です。<br />飲めるそうですが遠慮しておきました。<br />

    お香水閼伽井
    木の扉を開けると石組の井戸になっており、釈迦岳から流れ出る湧水です。
    飲めるそうですが遠慮しておきました。

  • 観音堂<br />本尊が2体ある謎に迫ってみましょう。                                                   『西山善峯寺略縁起』によると、1042(長久3)年、京の賀茂社が田圃の中にあった頃、植えた苗が一夜のうちに槻(けやき)になり、夜ごと光明を放ちました。後に槻は朽ちて倒壊しますが、その木から千手観音真言を唱える声が聞こえてきたそうです。行円上人が霊夢を受けたことから神主はその木を伐採し、行円はその霊木で千手観音像を自彫して西国19番行願寺(革堂)に安置しました。安居院の仁弘法師は、その余材から千手観音像を刻んで洛東の鷲尾寺に安置しました。<br />その後、後朱雀天皇は、「後世の利益のために鷲尾寺の千手観音像を源算開山の良峯にお遷しなさい」と霊夢の中でお告げを受けました。そのため仁弘作の尊像を本尊とし、それまでの源算作の尊像は脇壇に安置したと伝わります。<br />それにしてもこれら2体の千手観世音菩薩像は、応仁の乱でも焼失せず千年も生き残った貴重なものと言えます。文化財指定がなされていないのが不思議なほどです。

    観音堂
    本尊が2体ある謎に迫ってみましょう。 『西山善峯寺略縁起』によると、1042(長久3)年、京の賀茂社が田圃の中にあった頃、植えた苗が一夜のうちに槻(けやき)になり、夜ごと光明を放ちました。後に槻は朽ちて倒壊しますが、その木から千手観音真言を唱える声が聞こえてきたそうです。行円上人が霊夢を受けたことから神主はその木を伐採し、行円はその霊木で千手観音像を自彫して西国19番行願寺(革堂)に安置しました。安居院の仁弘法師は、その余材から千手観音像を刻んで洛東の鷲尾寺に安置しました。
    その後、後朱雀天皇は、「後世の利益のために鷲尾寺の千手観音像を源算開山の良峯にお遷しなさい」と霊夢の中でお告げを受けました。そのため仁弘作の尊像を本尊とし、それまでの源算作の尊像は脇壇に安置したと伝わります。
    それにしてもこれら2体の千手観世音菩薩像は、応仁の乱でも焼失せず千年も生き残った貴重なものと言えます。文化財指定がなされていないのが不思議なほどです。

  • 鐘楼堂(つりがね堂)<br />鬼瓦銘により、1686(貞享3)年に桂昌院の寄進で建立されたと判明しました。<br />梵鐘は鐘楼建立の翌年に徳川5代将軍 綱吉が42歳の厄年を迎えるに当たり寄進されたもので、「厄除けの鐘」と呼ばれます。因みに、梵鐘には貞享4年の銘が記されています。

    鐘楼堂(つりがね堂)
    鬼瓦銘により、1686(貞享3)年に桂昌院の寄進で建立されたと判明しました。
    梵鐘は鐘楼建立の翌年に徳川5代将軍 綱吉が42歳の厄年を迎えるに当たり寄進されたもので、「厄除けの鐘」と呼ばれます。因みに、梵鐘には貞享4年の銘が記されています。

  • 鐘楼堂<br />梵鐘の下には南無不動明王の石柱があります。<br />西国巡礼の正式な参詣方法は、納経や参詣の前に鐘を撞くそうです。これは「これからお参りします」との合図であり、帰りに撞くのは「戻り鐘」と言い、忌み嫌われるそうです。<br />厄除けを願いたい方は、50円以上の冥加料を納めれば鐘を撞くことができます。<br />祈願してから撞き、余韻が鎮まるまで合掌します。<br />撞いてみると高く澄んだ響きがし、下方にある音響板の効果なのか余韻が殷々と尾を引いて虚空に響き渡ります。

    鐘楼堂
    梵鐘の下には南無不動明王の石柱があります。
    西国巡礼の正式な参詣方法は、納経や参詣の前に鐘を撞くそうです。これは「これからお参りします」との合図であり、帰りに撞くのは「戻り鐘」と言い、忌み嫌われるそうです。
    厄除けを願いたい方は、50円以上の冥加料を納めれば鐘を撞くことができます。
    祈願してから撞き、余韻が鎮まるまで合掌します。
    撞いてみると高く澄んだ響きがし、下方にある音響板の効果なのか余韻が殷々と尾を引いて虚空に響き渡ります。

  • 善峯寺の真骨頂は、山寺と呼ぶに相応しく、広大で起伏に富んだ地形に棚田状に建てられた諸堂の巡礼にあります。3万坪ある境内は、明治~昭和時代初期にかけて活躍した7代目小川治兵衛が作庭した一周40分程の回遊式庭園になっており、山門から奥の院まで坂道や石段を登り降りします。決して楽な巡礼ではありませんが、京都市街地を眼下に眺める絶景が疲れを吹き飛ばします。

    善峯寺の真骨頂は、山寺と呼ぶに相応しく、広大で起伏に富んだ地形に棚田状に建てられた諸堂の巡礼にあります。3万坪ある境内は、明治~昭和時代初期にかけて活躍した7代目小川治兵衛が作庭した一周40分程の回遊式庭園になっており、山門から奥の院まで坂道や石段を登り降りします。決して楽な巡礼ではありませんが、京都市街地を眼下に眺める絶景が疲れを吹き飛ばします。

  • 高台からは、このように紫陽花越しに京都市街を一望できます。<br />太平洋戦争前後にかけて京都で活躍した芸者を描きアカデミー賞撮影賞などを受賞した、2005年のハリウッド映画『SAYURI』(ロブ・マーシャル監督、スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮)の撮影ロケ地にもなりました。<br />桜の花びらが舞う中、幼少時のさゆりが参詣するシーンでは、桜の時期ではなかったため米国から持ち込んだ花びらをジェットファンで撒いて映像を制作したそうです。また、印象的な東山からの日の出シーンも境内から撮影されています。

    高台からは、このように紫陽花越しに京都市街を一望できます。
    太平洋戦争前後にかけて京都で活躍した芸者を描きアカデミー賞撮影賞などを受賞した、2005年のハリウッド映画『SAYURI』(ロブ・マーシャル監督、スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮)の撮影ロケ地にもなりました。
    桜の花びらが舞う中、幼少時のさゆりが参詣するシーンでは、桜の時期ではなかったため米国から持ち込んだ花びらをジェットファンで撒いて映像を制作したそうです。また、印象的な東山からの日の出シーンも境内から撮影されています。

  • 山門<br />屋根の上に君臨するのは鯱瓦です。

    山門
    屋根の上に君臨するのは鯱瓦です。

  • 護摩堂<br />起伏のある地形に棚田状に平坦地を造営しているため、堂宇の全景を正面からカメラに収めるスペースがなく、カメラマン泣かせのお寺です。<br />1692(元禄5)年に桂昌院の寄進で再建された、方三間、宝形造、桟瓦葺の堂宇です。組物は舟肘木、軒は疎垂木の簡素な造りです。<br />棟札には「棟上元禄五壬申歳九月廿九日」と記されているそうです。

    護摩堂
    起伏のある地形に棚田状に平坦地を造営しているため、堂宇の全景を正面からカメラに収めるスペースがなく、カメラマン泣かせのお寺です。
    1692(元禄5)年に桂昌院の寄進で再建された、方三間、宝形造、桟瓦葺の堂宇です。組物は舟肘木、軒は疎垂木の簡素な造りです。
    棟札には「棟上元禄五壬申歳九月廿九日」と記されているそうです。

  • 護摩堂<br />本尊には五大明王(大日大聖不動(中央)・降三世夜叉(右)・金剛夜叉(右端)・軍荼利夜叉(左)・大威徳夜叉(左端)の五尊)を祀ります。五大明王は、不空訳の『仁王護国般若波羅蜜多経』2巻や『摂無碍経』1巻に説かれる五方に配置される明王です。<br />五大明王像は、江戸時代以降の作品なのか、極彩色も相俟って妙に新しい感じがする仏像たちです。

    護摩堂
    本尊には五大明王(大日大聖不動(中央)・降三世夜叉(右)・金剛夜叉(右端)・軍荼利夜叉(左)・大威徳夜叉(左端)の五尊)を祀ります。五大明王は、不空訳の『仁王護国般若波羅蜜多経』2巻や『摂無碍経』1巻に説かれる五方に配置される明王です。
    五大明王像は、江戸時代以降の作品なのか、極彩色も相俟って妙に新しい感じがする仏像たちです。

  • 多宝塔<br />善峯寺の霊験については次のような伝説が残されています。<br />干ばつに悩む京の町に源算の祈祷と本尊の霊験で慈雨が降ったことから、1034(長元7)年に後一条天皇が鎮護国家の勅願所と定め、寺号「良峰」の勅額が授けられました。<br />しかし、鎌倉時代初期には慈円和尚が住し、1192(建久3)年に後鳥羽上皇直筆の寺額「善峯寺」を賜ったことから寺名を「善峯寺」と改めました。

    多宝塔
    善峯寺の霊験については次のような伝説が残されています。
    干ばつに悩む京の町に源算の祈祷と本尊の霊験で慈雨が降ったことから、1034(長元7)年に後一条天皇が鎮護国家の勅願所と定め、寺号「良峰」の勅額が授けられました。
    しかし、鎌倉時代初期には慈円和尚が住し、1192(建久3)年に後鳥羽上皇直筆の寺額「善峯寺」を賜ったことから寺名を「善峯寺」と改めました。

  • 開山堂<br />1053(天喜元)年の後冷泉天皇の時代、尊仁親王(後の後三条天皇)の妃 藤原茂子は、懐妊したものの気分が落ち着かず、善峯寺の千手観音に安産を祈りました。するとある夜、童子が現れて腹を撫でる夢を見ました。目覚めると、身心共に清々しく心も鎮まり、また安産で男子が産まれました。その子は後に白河天皇に即位し、この出生の由緒から、善峯寺に本堂・阿弥陀堂・薬師堂・地蔵堂・三重塔・鐘楼・二王門・鎮守七社を建立したと伝わります。

    開山堂
    1053(天喜元)年の後冷泉天皇の時代、尊仁親王(後の後三条天皇)の妃 藤原茂子は、懐妊したものの気分が落ち着かず、善峯寺の千手観音に安産を祈りました。するとある夜、童子が現れて腹を撫でる夢を見ました。目覚めると、身心共に清々しく心も鎮まり、また安産で男子が産まれました。その子は後に白河天皇に即位し、この出生の由緒から、善峯寺に本堂・阿弥陀堂・薬師堂・地蔵堂・三重塔・鐘楼・二王門・鎮守七社を建立したと伝わります。

  • 開山堂<br />次は鎌倉時代の伝説です。<br />1259(正元元)年、洛中に疫病が蔓延し、大勢の人々が亡くなりました。後深草天皇も17歳の時に瘧病(おこりやみ)を患い、治療を施しても快復せず、皇后は寺社に平癒の祈願を頼みました。<br />善峯寺では大悲観世音に祈らせると、夢枕に僧が現れ、「天皇の御悩こたびは平復ましまさじ。然れども汝の深い信心を感ずる故に、死を転じて長生ならしめむ。洛中の諸人も皆ともに安穏ならしむべし。いよいよ慎んで持念おこたるべからず。我の住む家は西山善峯にあり」と告げ、千手観音の姿になって光を放ちながら昇天しました。<br />その夢を天皇へ伝えると、天皇も同じ夢を見たと語り、ほどなく病は平癒しました。洛中でも同じ夢を見た者が多くあり、諸人の疫病も治癒したそうです。この霊夢により、天皇は千手観世音菩薩を深く信仰されるようになったそうです。

    開山堂
    次は鎌倉時代の伝説です。
    1259(正元元)年、洛中に疫病が蔓延し、大勢の人々が亡くなりました。後深草天皇も17歳の時に瘧病(おこりやみ)を患い、治療を施しても快復せず、皇后は寺社に平癒の祈願を頼みました。
    善峯寺では大悲観世音に祈らせると、夢枕に僧が現れ、「天皇の御悩こたびは平復ましまさじ。然れども汝の深い信心を感ずる故に、死を転じて長生ならしめむ。洛中の諸人も皆ともに安穏ならしむべし。いよいよ慎んで持念おこたるべからず。我の住む家は西山善峯にあり」と告げ、千手観音の姿になって光を放ちながら昇天しました。
    その夢を天皇へ伝えると、天皇も同じ夢を見たと語り、ほどなく病は平癒しました。洛中でも同じ夢を見た者が多くあり、諸人の疫病も治癒したそうです。この霊夢により、天皇は千手観世音菩薩を深く信仰されるようになったそうです。

  • 遊龍の松<br />善峯寺は別名「松の寺」とも称されますが、それは「日本一の松」と呼ばれるこの名木に因みます。推定樹齢600年以上の五葉松で、国の天然記念物に指定され、「新日本名木100選」にも選ばれています。また、金閣寺「陸舟の松」や宝泉院「五葉乃松」と並び「京都三松」と呼ばれています。<br />1994年に松くい虫の被害に遭い、全長54mあった松の一部が切断され、現在は全長37mになりましたが、それでも壮観です。五葉松の枝を高さ2m程でこのように這わすのは珍しいそうです。

    遊龍の松
    善峯寺は別名「松の寺」とも称されますが、それは「日本一の松」と呼ばれるこの名木に因みます。推定樹齢600年以上の五葉松で、国の天然記念物に指定され、「新日本名木100選」にも選ばれています。また、金閣寺「陸舟の松」や宝泉院「五葉乃松」と並び「京都三松」と呼ばれています。
    1994年に松くい虫の被害に遭い、全長54mあった松の一部が切断され、現在は全長37mになりましたが、それでも壮観です。五葉松の枝を高さ2m程でこのように這わすのは珍しいそうです。

  • 遊龍の松<br />白洲正子女史は、「こういうものは盆栽の化物みたいで、私はあまり好まないが、一種の名物には違いない」とやや辛口のコメントを寄せられています。<br />女史は、自然信仰を是とする手を加えない天然物が好みのようですが、個人的には600年もの年月を受け継がれた歴代の世話人たちと1本の「ど根性松」が心を通わせたコラボレーションの結晶と言える素晴らしいものと思います。

    遊龍の松
    白洲正子女史は、「こういうものは盆栽の化物みたいで、私はあまり好まないが、一種の名物には違いない」とやや辛口のコメントを寄せられています。
    女史は、自然信仰を是とする手を加えない天然物が好みのようですが、個人的には600年もの年月を受け継がれた歴代の世話人たちと1本の「ど根性松」が心を通わせたコラボレーションの結晶と言える素晴らしいものと思います。

  • 遊龍の松<br />標石は、1893(明治26)年、長州出身の陸軍中将 鳥尾小弥太の揮毫になります。<br />鳥尾小弥太は、幕末に長州藩の奇兵隊に入り、長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事しました。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦して軍功を重ね、明治政府では中将に任じられ、子爵に列せられた人物です。

    遊龍の松
    標石は、1893(明治26)年、長州出身の陸軍中将 鳥尾小弥太の揮毫になります。
    鳥尾小弥太は、幕末に長州藩の奇兵隊に入り、長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事しました。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦して軍功を重ね、明治政府では中将に任じられ、子爵に列せられた人物です。

  • 遊龍の松<br />主幹が地を這うようにL字形に伸びる姿が臥龍が波間に遊ぶ姿に見えることから、1857(安政4)年に前右大臣 花山院家厚により「遊龍の松」と命名されました。全伽藍が焼失したとされる応仁の乱の兵火にも耐えて現在に至るようです。

    遊龍の松
    主幹が地を這うようにL字形に伸びる姿が臥龍が波間に遊ぶ姿に見えることから、1857(安政4)年に前右大臣 花山院家厚により「遊龍の松」と命名されました。全伽藍が焼失したとされる応仁の乱の兵火にも耐えて現在に至るようです。

  • 遊龍の松<br />次は、平成時代の実話です。<br />1995年1月17日未明、阪神淡路大震災で1台のバスが崩壊した阪神高速高架上で被災し、車両の前輪が高架から脱輪しながらも、バスは宙吊りの状態でかろうじて止まり、奇跡的に乗客全員が命拾いしました。<br />その時の運転手さんが善峯寺の釈迦如来のお守りを奉持していたことが噂になり、巷で「落ちないお守り」として合格祈願や交通安全などにご利益があると評判になりました。地震の被災者のひとりとしては、あの事故をもって「落ちない・・・」と表現するのは少々不謹慎な気がしないでもありませんが・・・。<br />現在はお守りを「当病悉除」と「息災安穏」の2種に願意を分けて授与されています。

    遊龍の松
    次は、平成時代の実話です。
    1995年1月17日未明、阪神淡路大震災で1台のバスが崩壊した阪神高速高架上で被災し、車両の前輪が高架から脱輪しながらも、バスは宙吊りの状態でかろうじて止まり、奇跡的に乗客全員が命拾いしました。
    その時の運転手さんが善峯寺の釈迦如来のお守りを奉持していたことが噂になり、巷で「落ちないお守り」として合格祈願や交通安全などにご利益があると評判になりました。地震の被災者のひとりとしては、あの事故をもって「落ちない・・・」と表現するのは少々不謹慎な気がしないでもありませんが・・・。
    現在はお守りを「当病悉除」と「息災安穏」の2種に願意を分けて授与されています。

  • 多宝塔(重文)<br />棟札から1621(元和7)年に第28代 賢弘法師によって再建されたものと判明し、山内最古の建物として『大元帥明王軸(鎌倉時代)』と共に重文に指定されています。石積の基壇上に立ち、高さ12m程、内部には来迎柱が2本あり、来迎壁を設けて本尊の愛染明王を祀っています。<br />愛染明王は、衆生の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表しています。本地仏は金剛菩薩です。全身赤色を呈し、三目六臂で忿怒の相をなし、弓矢などを持ちます。後に恋愛成就なども叶える明王として、水商売系の女性などの信仰の対象ともなりました。

    多宝塔(重文)
    棟札から1621(元和7)年に第28代 賢弘法師によって再建されたものと判明し、山内最古の建物として『大元帥明王軸(鎌倉時代)』と共に重文に指定されています。石積の基壇上に立ち、高さ12m程、内部には来迎柱が2本あり、来迎壁を設けて本尊の愛染明王を祀っています。
    愛染明王は、衆生の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表しています。本地仏は金剛菩薩です。全身赤色を呈し、三目六臂で忿怒の相をなし、弓矢などを持ちます。後に恋愛成就なども叶える明王として、水商売系の女性などの信仰の対象ともなりました。

  • 多宝塔<br />檜皮葺、下層は方三間、上層は円形の二層塔婆です。<br />下層の軸部中央には扉が大きい板唐戸、両脇には連子窓、組高欄と勾配を付した縁を廻らしています。組物は二手先、中備えは中央間のみ蟇股、軒は二重繁垂木です。<br />上重は、組物は四手先、軒は二軒繁垂木、四隅には軒を支える邪鬼の姿があります。

    多宝塔
    檜皮葺、下層は方三間、上層は円形の二層塔婆です。
    下層の軸部中央には扉が大きい板唐戸、両脇には連子窓、組高欄と勾配を付した縁を廻らしています。組物は二手先、中備えは中央間のみ蟇股、軒は二重繁垂木です。
    上重は、組物は四手先、軒は二軒繁垂木、四隅には軒を支える邪鬼の姿があります。

  • 経堂<br />1705(宝永2)年、桂昌院の寄進で建立されました。六角六柱・二重屋根で、大きな火灯窓が安定感と威厳を放っています。

    経堂
    1705(宝永2)年、桂昌院の寄進で建立されました。六角六柱・二重屋根で、大きな火灯窓が安定感と威厳を放っています。

  • 経堂<br />内部には傅大士(ふだいし)を安置し、桂昌院が援助してきた黄檗山萬福寺の禅僧 鉄眼道光が制作した木版の鉄眼版一切経を納めています。<br />傅大士は中国の梁時代(502~557)の僧で、梁代三大士のひとりに数えられています。大蔵経(一切経)の閲覧のために回転式の転輪蔵を考案した人物とされ、経蔵に安置されることが多いです。

    経堂
    内部には傅大士(ふだいし)を安置し、桂昌院が援助してきた黄檗山萬福寺の禅僧 鉄眼道光が制作した木版の鉄眼版一切経を納めています。
    傅大士は中国の梁時代(502~557)の僧で、梁代三大士のひとりに数えられています。大蔵経(一切経)の閲覧のために回転式の転輪蔵を考案した人物とされ、経蔵に安置されることが多いです。

  • 経堂<br />現在は祈願成就の絵馬奉納所も兼ねており、別名「絵馬堂」とも言います。<br />絵馬の絵柄は「遊龍の松」です。<br />火灯窓が青紅葉に染まる様が心に沁みます。<br />

    経堂
    現在は祈願成就の絵馬奉納所も兼ねており、別名「絵馬堂」とも言います。
    絵馬の絵柄は「遊龍の松」です。
    火灯窓が青紅葉に染まる様が心に沁みます。

  • 宝篋印塔<br />元々は、インドのアショカ王の建てた八万四千の塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)の故事に倣い、中国の呉越王銭弘俶が造った金銅製の塔で、内部には宝篋印陀羅尼と言う息災安穏長寿のため呪文を納めて、諸国に配ったのが始まりです。<br />後に墓塔や供養塔などに使われる仏塔になりました。五輪塔と共に石造の遺品とされます。<br />かつては桂昌院廟付近にあったものだそうですが、近年この場所に遷されました。<br />詳しいことは不詳です。

    宝篋印塔
    元々は、インドのアショカ王の建てた八万四千の塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)の故事に倣い、中国の呉越王銭弘俶が造った金銅製の塔で、内部には宝篋印陀羅尼と言う息災安穏長寿のため呪文を納めて、諸国に配ったのが始まりです。
    後に墓塔や供養塔などに使われる仏塔になりました。五輪塔と共に石造の遺品とされます。
    かつては桂昌院廟付近にあったものだそうですが、近年この場所に遷されました。
    詳しいことは不詳です。

  • 桜と楓の結び木<br />経堂の傍らにある楓と枝垂桜は、桂昌院のお手植えと伝わり、特に枝垂桜は推定樹齢300年とされます。この枝垂桜は楓との合体木で、2本の古木が絡み合った珍しい結び木となっています。

    桜と楓の結び木
    経堂の傍らにある楓と枝垂桜は、桂昌院のお手植えと伝わり、特に枝垂桜は推定樹齢300年とされます。この枝垂桜は楓との合体木で、2本の古木が絡み合った珍しい結び木となっています。

  • 桜と楓の結び木<br />紅葉の周りを枝垂桜が覆い、二重カーテンのようです。

    桜と楓の結び木
    紅葉の周りを枝垂桜が覆い、二重カーテンのようです。

  • 桂昌院の歌碑<br />結び木の傍らにあります。<br />「春ははな 秋はもみじの むすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」<br />

    桂昌院の歌碑
    結び木の傍らにあります。
    「春ははな 秋はもみじの むすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」

  • 高野槇<br />観音堂の脇には、高野山から移植された推定樹齢300年の高野槙が聳えます。

    高野槇
    観音堂の脇には、高野山から移植された推定樹齢300年の高野槙が聳えます。

  • 桂昌院廟門<br />経堂の裏手に石段があり、そこにある鄙びた門の先にある高台に桂昌院廟が佇みます。

    桂昌院廟門
    経堂の裏手に石段があり、そこにある鄙びた門の先にある高台に桂昌院廟が佇みます。

  • 如法経塚 宝篋印塔<br />経塚と呼ばれる場所には、鎌倉時代後期に建立された宝篋印塔(高さ2.5m程)が佇みます。桃山時代に描かれた『善峯寺参詣曼陀羅』にも石塔覆屋を持つ宝篋印塔が描かれています。<br />2祖 慈円和尚により伝教大師 最澄筆の法華経が納められたといい、その包紙には「法の花 伝え教へし 筆の跡 良峯寺の 宝ともなれ」と書かれていたと伝わります。<br />塔身の蓮華座上月輪内には金剛界四仏の種子が刻まれています。<br />(正面:キリーク(弥陀)、西面:アク(不空成就)、背面:ウーン(阿閦)、東面:タラーク(宝生))

    如法経塚 宝篋印塔
    経塚と呼ばれる場所には、鎌倉時代後期に建立された宝篋印塔(高さ2.5m程)が佇みます。桃山時代に描かれた『善峯寺参詣曼陀羅』にも石塔覆屋を持つ宝篋印塔が描かれています。
    2祖 慈円和尚により伝教大師 最澄筆の法華経が納められたといい、その包紙には「法の花 伝え教へし 筆の跡 良峯寺の 宝ともなれ」と書かれていたと伝わります。
    塔身の蓮華座上月輪内には金剛界四仏の種子が刻まれています。
    (正面:キリーク(弥陀)、西面:アク(不空成就)、背面:ウーン(阿閦)、東面:タラーク(宝生))

  • 桂昌院廟<br />1705(宝永2)年に建立された、善峯寺復興の大檀那となった桂昌院の廟所です。桂昌院はその年の6月22日に79歳で他界して江戸 増上寺に葬られましたが、善峯寺では生前の恩に報いるため、この廟に遺髪を納めています。<br />八百屋の娘であったお玉が、豊臣秀吉と同じ従一位 に任ぜられ、善峯寺の復興に尽すまでの数奇な運命が数百年を経た墓石に細かく刻み込まれています。

    桂昌院廟
    1705(宝永2)年に建立された、善峯寺復興の大檀那となった桂昌院の廟所です。桂昌院はその年の6月22日に79歳で他界して江戸 増上寺に葬られましたが、善峯寺では生前の恩に報いるため、この廟に遺髪を納めています。
    八百屋の娘であったお玉が、豊臣秀吉と同じ従一位 に任ぜられ、善峯寺の復興に尽すまでの数奇な運命が数百年を経た墓石に細かく刻み込まれています。

  • 桂昌院廟<br />桂昌院が晩年に詠んだ和歌があります。 <br />「法の師の をしえてたまうに ならいそて わが後の世も たのみこそすれ」<br />もう何年も仏の教えに触れ続けています。ですから、どうか後の世も人々が幸福でありますようお守りください。<br />自分の幸運は全て仏のお蔭と信じた桂昌院は、晩年には後の世の幸せまで祈っています。命日の6月22日の頃には、先代住職の時代から植え続けられた1万本もの紫陽花が山の斜面一帯を多様な色合いに彩り、桂昌院への恩義を忘れません。

    桂昌院廟
    桂昌院が晩年に詠んだ和歌があります。
    「法の師の をしえてたまうに ならいそて わが後の世も たのみこそすれ」
    もう何年も仏の教えに触れ続けています。ですから、どうか後の世も人々が幸福でありますようお守りください。
    自分の幸運は全て仏のお蔭と信じた桂昌院は、晩年には後の世の幸せまで祈っています。命日の6月22日の頃には、先代住職の時代から植え続けられた1万本もの紫陽花が山の斜面一帯を多様な色合いに彩り、桂昌院への恩義を忘れません。

  • 桂昌院廟<br />廟所の裏は開けており、そこから「あじさい苑」の全景を俯瞰することができます。

    桂昌院廟
    廟所の裏は開けており、そこから「あじさい苑」の全景を俯瞰することができます。

  • 桂昌院廟<br />遥か遠くに比叡の山容が霞んでいます。

    桂昌院廟
    遥か遠くに比叡の山容が霞んでいます。

  • 開山堂<br />1685(貞享2)年に建立された、開山 源算上人の廟所です。源算はこの山を離れることなく修行を続け、1099(承徳3)年に117歳で入寂しました。厨子の中には117歳の最晩年の姿を象った尊像が祀られており、長寿祈願に霊験あらたかです。<br />117歳は現在でもギネスブックの世界最高齢であることを考えると、伝説の域を超えないのかもしれません。<br />源算は開山に当たり、岩屋に籠りました。すると7日目の夜に天魔が現れ、暴風と雷雨が吹き荒れました。源算はそれに驚動することなく利剣と念珠を握り、孔雀不動の真言を唱えて常行三昧の境地に入りました。すると鬼神が現れ、「仏法の威力によって邪心を改め、仏法の善神となり守護する」と誓って立ち去りました。<br />また干ばつの折、源算は請雨法法(雨乞い)を修しました。その場所は西滝と呼ばれ、西山から青龍が現れて大雨を降り注いだ霊蹟との言い伝えがあります。この霊験に因む勅命により「善神龍王社」が建立され、その社は1871(明治4)年に弁天堂と改名されました。<br />現在、開山の折に鬼神が去った西の地は善神龍王の住む「魔鬼の尾(槇尾)」と呼ばれ、この地で雨乞いを行なえば、忽ち雲が湧き出て慈雨を注ぐと伝えられています。

    開山堂
    1685(貞享2)年に建立された、開山 源算上人の廟所です。源算はこの山を離れることなく修行を続け、1099(承徳3)年に117歳で入寂しました。厨子の中には117歳の最晩年の姿を象った尊像が祀られており、長寿祈願に霊験あらたかです。
    117歳は現在でもギネスブックの世界最高齢であることを考えると、伝説の域を超えないのかもしれません。
    源算は開山に当たり、岩屋に籠りました。すると7日目の夜に天魔が現れ、暴風と雷雨が吹き荒れました。源算はそれに驚動することなく利剣と念珠を握り、孔雀不動の真言を唱えて常行三昧の境地に入りました。すると鬼神が現れ、「仏法の威力によって邪心を改め、仏法の善神となり守護する」と誓って立ち去りました。
    また干ばつの折、源算は請雨法法(雨乞い)を修しました。その場所は西滝と呼ばれ、西山から青龍が現れて大雨を降り注いだ霊蹟との言い伝えがあります。この霊験に因む勅命により「善神龍王社」が建立され、その社は1871(明治4)年に弁天堂と改名されました。
    現在、開山の折に鬼神が去った西の地は善神龍王の住む「魔鬼の尾(槇尾)」と呼ばれ、この地で雨乞いを行なえば、忽ち雲が湧き出て慈雨を注ぐと伝えられています。

  • 開山堂<br />透かし彫りはかなり痛んでいますが、法輪が見られます。<br /><br />開山 源算上人は、因幡国(鳥取)に早産で生まれたことから山中に捨てられ、3日経っても生きていたため村人に拾われて生き延びたと伝わります。<br />991(正暦2)年、9歳で源信の弟子となり、13歳で剃髪し受戒しました。奇しくも師の源信も、9歳で比叡山に上り良源(元三大師)に師事しています。源信は、貴族化した延暦寺を疎んじて横川に隠棲した後、『往生要集』を著し、念仏を唱えれば西方浄土に往生するという浄土教の発展に尽力した僧です。<br />源算は、源信の教えを守り、1029(長元2)年、47歳の時、浄土は西方にあるとの思想から都の西にあるこの地に法華院という小堂を建て、十一面千手観世音菩薩像を自刻して祀りました。その後、1074(承保元)、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を結んで往生院(後の三鈷寺)と号し、その地で定印を結んで117歳で入寂したと伝えられます。また、その遺体は腐敗することがなかったため、更に人々の信仰が篤くなったようです。

    開山堂
    透かし彫りはかなり痛んでいますが、法輪が見られます。

    開山 源算上人は、因幡国(鳥取)に早産で生まれたことから山中に捨てられ、3日経っても生きていたため村人に拾われて生き延びたと伝わります。
    991(正暦2)年、9歳で源信の弟子となり、13歳で剃髪し受戒しました。奇しくも師の源信も、9歳で比叡山に上り良源(元三大師)に師事しています。源信は、貴族化した延暦寺を疎んじて横川に隠棲した後、『往生要集』を著し、念仏を唱えれば西方浄土に往生するという浄土教の発展に尽力した僧です。
    源算は、源信の教えを守り、1029(長元2)年、47歳の時、浄土は西方にあるとの思想から都の西にあるこの地に法華院という小堂を建て、十一面千手観世音菩薩像を自刻して祀りました。その後、1074(承保元)、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を結んで往生院(後の三鈷寺)と号し、その地で定印を結んで117歳で入寂したと伝えられます。また、その遺体は腐敗することがなかったため、更に人々の信仰が篤くなったようです。

  • 山城善峯寺観音霊験記(豊国三代国貞・広重二代合作)<br />『西国三十三所観音霊験記』は、霊場を札所毎に描いた錦絵をまとめたもので、「安藤広重の境内図と御詠歌」、「戯作家・万亭応賀による札所縁起や霊験譚」、「歌川豊国等による挿絵」という構成です。<br />上人は因州の人にて懐胎のうち母を苦しめければ、不祥の子なりとて山中に捨てさしむ。しかれども鳥獣もこれを害せず、3日乳を呑まざれども死せず。村人拾ひあげて養育しに、15歳の時叡山に登りて剃髪せしが、母の死を聞て当山に来り。その練行、言語に尽がたく、聊名利を好まず。唯観音を信ずるのみなれば、此山の主阿知坂神、雇夫と現し、又数万の猪鹿来って岩窟を砕き、凸凹を平地とせし奇異のありさま。天子へ聞へければ、遂に佛閣を御建立ありけり。上人山にすむこと74年、承徳3年3月定印を結びて117歳にて寂すれども、更に其容体変ぜざれば諸人いよいよ尊び拝せり。體の腐せざる者は越後の弘智法印のごとくにして、めでたき聖なるを疑ふべからず。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313530?tocOpened=1<br /><br />この続きは、問柳尋花 京都西山②善峯寺 Part2(白山 桜・あじさい苑)でお届けします。

    山城善峯寺観音霊験記(豊国三代国貞・広重二代合作)
    『西国三十三所観音霊験記』は、霊場を札所毎に描いた錦絵をまとめたもので、「安藤広重の境内図と御詠歌」、「戯作家・万亭応賀による札所縁起や霊験譚」、「歌川豊国等による挿絵」という構成です。
    上人は因州の人にて懐胎のうち母を苦しめければ、不祥の子なりとて山中に捨てさしむ。しかれども鳥獣もこれを害せず、3日乳を呑まざれども死せず。村人拾ひあげて養育しに、15歳の時叡山に登りて剃髪せしが、母の死を聞て当山に来り。その練行、言語に尽がたく、聊名利を好まず。唯観音を信ずるのみなれば、此山の主阿知坂神、雇夫と現し、又数万の猪鹿来って岩窟を砕き、凸凹を平地とせし奇異のありさま。天子へ聞へければ、遂に佛閣を御建立ありけり。上人山にすむこと74年、承徳3年3月定印を結びて117歳にて寂すれども、更に其容体変ぜざれば諸人いよいよ尊び拝せり。體の腐せざる者は越後の弘智法印のごとくにして、めでたき聖なるを疑ふべからず。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313530?tocOpened=1

    この続きは、問柳尋花 京都西山②善峯寺 Part2(白山 桜・あじさい苑)でお届けします。

711いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP