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令和GW10連休明けの翌週末、久しぶりに我がふるさと広島に出掛け、友人たちとカープの勝利を満喫したが、京都に戻る前に時間があったので市内の名勝、縮景園を訪れた。<br /><br />まず、広島への移動だが、初めてさくらに乗った。山陽新幹線には東海道新幹線と共通ののぞみ、ひかり、こだまの他に九州新幹線直通のみずほとさくらが走っているが、これまで乗車の機会はなかった。新大阪ら広島までの区間ではのぞみに比べると、福山に余分に停車する(のぞみでも停車するものもあり)分多少時間が掛かるのだが、新大阪で鹿児島中央行を見ると旅心が騒ぐ。ちなみにさくらは11年の九州新幹線鹿児島ルートの全線開業と同時に山陽九州新幹線直通で運行を開始した九州新幹線の代表列車。毎時1、2本が新大阪と鹿児島中央を結んでいる(博多・鹿児島中央間の運転もあり)。我々の世代にとってはさくらと云えば、05年に廃止された東京・長崎間のブルートレインの印象が強い。ただ、私は乗ったことはない。あと、九州新幹線には他にみずほとつばめが走っており、みずほはさくらと同じく新大阪・鹿児島中央間で走っており、停車駅が少ない。一度これで鹿児島まで行きたいものだ。つばめは九州新幹線のみ。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839997266070279&amp;type=1&amp;l=8a89379cb0<br /><br />さて、縮景園の話。友人たちとマツダスタジアムでの試合を楽しんだ翌日、帰りの移動を午後にしたので、午前中に訪れた。確か一度来たことがあるのだが、それがいつなのか思い出せない。広島から両親が京都に戻る前だったと思うので、少なくとも43年は経ってるだろう。<br /><br />広島駅から北西に進み京橋川を栄橋で渡り徒歩で約10分の上幟町にある。京橋川は広島市内を流れる6つの川の東から2番目の川で、上流の牛田で本流の太田川(本川)から分かれ、栄橋のすぐ下流で東に猿猴川を分流して広島湾に注いでいる。猿猴川を分流して2本目に掛かる京橋からその名が付けられた。京橋は、広島城から京都に向かう最初の橋を表している。栄橋はその京橋などと並ぶ現存する被爆橋梁で、1906年に熊谷栄次郎が木橋を架橋し、その名から名付けられた。現在の橋は30年に架設されたもの。<br /><br />幟町は藩主の旗印を任かされていた御旗の士が居住していたことから付けられた町名だが、「のぼりまち」と「のぼりちょう」の2つの読み方が混在している。昭和40年に町名としては「のぼりちょう」と定められたのだが、多分未だに多くの人は「のぼりまち」と呼ぶ。少なくとも我々の世代はそう呼ぶ。小学校も中学校も正式には「のぼりちょう」で、高校の同級生に幟町中学出身者はたくさんいたが、普通に「のぼりまち」って云ってたもんな(通称はのぼりちゅう)。全くの余談だが現在のカープの緒方監督の奥様のタレントの中條かな子さんは幟中出身。<br /><br />縮景園は国の名勝、日本の歴史公園100選で県が管理している。京橋川右岸にあり、京橋川から引き込んだ水と園内の井戸を水源としている。西側には少し先に広島城がある。周辺には緑が多く、京橋川上流は太田川との分岐まで東部河岸緑地が続く。南西は県立美術館に、南東は幟町中・市長公館に隣接しており、これらも元々縮景園の敷地だった(中学校は一部のみ)。<br /><br />1619年、安土桃山時代に毛利元就の孫、輝元の広島城築城により開かれた城下町に、関ヶ原の戦い後に入封した賤ヶ岳の七本槍の一人、福島正則が城の無断修復で信濃・越後の高井野藩に転封された後、浅野氏が入封する。初代藩主浅野長晟(ながあきら)が翌年、家老で茶人でもあった上田宗箇(そうこ)に命じて造らせた藩主別邸(含む庭園)である泉水屋敷が縮景園の始まり。当時は小さな庭園であったが、歴代藩主の寵愛を受け、次第に拡大していく。<br /><br />1758年に大火で城下が灰燼に帰した後、城下の再構築が行われ、その一環として1783年に京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ大改修を行ったものが今の庭園の原型となっている。なお、清水は当時の著名な庭師の一人であり、縮景園の他にも安芸太田町の吉水園と八千代町の滄浪園(そうろうえん)を広島藩内に造園している。どっちも知らなかった。1807年には北部の牛田の谷から竹管を用いて園内への飲料水用の導水装置が作られ、これは広島城下における歴史上最初の水道とも云われている。その後も改修は続けられ、現在の形になったのは明治末期頃。<br /><br />日清戦争時には大本営副営(明治天皇の宿泊所)となったことがあるが、行幸されたのは一度きりだった。大正2年から一般開放され、昭和15年に浅野家から広島県に寄付された。昭和20年には原爆投下で壊滅的な打撃を受けたが、24年に復旧開始し、26年に再開園。さらに本格的な復旧工事が37年から行われた。2020年には築庭400年を迎えようとしている。<br /><br />造営当時から泉水屋敷と呼ばれていたが、明治に入り大名華族となった浅野家の別邸となり、泉邸(せんてい)あるいは御泉水と呼ばれた。縮景園と改称されたのは戦後の1951年。縮景とは、各地の景勝もしくは中国の西湖周辺の風景を縮小して表すことで林羅山の命名と云われる。初めてこの名前が出てくるのは1713年の縮景園記で、邸内の山・池・建物・橋・島などに雅名を付けたものである。海外、特にキリスト教圏ではAsano Parkの名でも知られる。<br /><br />園内は池泉廻遊式庭園となっており、入口は南端に位置する。中央に池を配しそれを橋によって東西に二分、その池を基準に北・東・西に小山を築き三滝山・二葉山・弥山などの借景としていた。メインの建物は橋の南に位置あり、その他にも茶室や四阿を備えている。<br /><br />南の簡素だが結構豪快な冠木門を入り、チケット売り場で入園料260円を払って散策開始。そのまま北に進むとメインの建物である清風館。1964年建築で、木造平屋建ての寄棟造・柿葺、東側に花頭窓がある数寄屋造の茶室。園のほぼ中央に位置する、園内最大の建物。園内その他建物はこの清風館を基準に配置が決められたと考えられている。<br /><br />清風館を左に回り込むと池に出る。濯纓池(たくえいち)で、敷地の20%を占める大きな池。跨虹橋(ここうきょう)で二分されている。跨虹橋は1786年竣工の、石製アーチ橋と陸橋からなる園内でも数少ない戦前からある建造物。主要部分は花崗岩で出来ている。7代藩主浅野重晟(しげあきら)が2度も作りなおさせたと伝わっている。清風館の池淵は桜花巷と呼ばれるところで桜が咲いてると最高だろうな。<br /><br />池の東の端には映波橋、昇仙橋、望春橋と云う三橋が、角度をずらして架けられている。三橋を超えると、右手に銀河渓と呼ばれる小渓谷。その先の尾根を上がると看花榻(かんかとう)と呼ばれる茸型の展望台。座席はロクロ式に作られ、回転するようになっており、ここで殿様が対岸の桃林の花や京橋川を行き交う川舟を眺めたと云われている。その奥を登ると迎暉峯と呼ばれる築山。園内最高峰で標高約10m。かつてはここから遠方の広島湾の島々を望むことができたと伝えられている。<br /><br />迎暉峯から川沿いを通って戻り、池の方に進むとあるのが霊迹壇(れいせきだん)。江戸時代前期の大洪水の時に漂着した3体の仏像をお祀りしており、像は平安時代後期頃に作られたと思われる寄木造りの十王像。ただし2体は原爆で失われた。その先は臨瀛岡(りんえいこう)で、ここから遠く厳島を望むと雲のかかった弥山山頂が見えたと云われる。池に降りると悠々亭。木造平屋建て、入母屋造・茅葺の四阿でかつてはここで茶会や歌会が行われていた。靴を脱いで上がり、池を眺めて一休み。市内のど真ん中なので、園の周りは、今は借景の山々でなくビルが立ち並ぶ。広島にも高層ビルが増えたんだねえ。<br /><br />悠々亭から池の北岸を進む。池には多くの島があり、アオサギとのショットが絵になる。跨虹橋の北側の小山は祺福山。頂上に稲荷神社(泉邸稲荷)社殿があったのだが、原爆で焼失した。御神体は現在は川向こうの饒津(にいづ)神社内に祀られている。そこから再び京橋川沿いに出ると慰霊碑があるが、原爆で亡くなられた方の64柱の遺骨が埋葬されていたところ。<br /><br />再び池に戻ってくると白龍泉。元々は水溜の水をここから出るようにしていたもので、現在は井戸水が出ているが、白い龍が伏せているかのような形の曲水ということでこう呼ばれる。その先に積翠巌(せきすいがん)。巨大な立石組のある島。この石組は蓬莱式鶴石組で三尊石で、また枯滝式の石組とも云われる園の基幹を成す石組み。積翠は積み重なった翠=松のことで、巌は大岩のこと。<br /><br />再び道を上がると明月亭。1974年に再建された木造平屋建て、寄棟造・茅葺の数寄屋造りの茶室。水屋の窓に牛舎の車輪が特徴的な建物。池の西側に回り込んでいく途中には御腰掛なば石。茸に似た自然石を腰掛石として利用したもので、江戸時代に土佐から持ち帰ったものと伝えられている。茸のことを中国・九州地方で「なば」と云う。知らんかったわ。<br /><br />そこから進み、古松渓と呼ばれる渓谷を過ぎると夕照庵(せきしょうあん)。ここは1970年再建の木造平屋建てで入母屋造・茅葺の茶室。その奥には馬の調教訓練に用いた調馬場跡。夕照庵に戻り池に面して造られた小石組の州浜から池を南に回り込むと超然居。1970年再建の木造平屋建てで寄棟造・茅葺の四阿。園内最大の島にあり観瀾橋および洗心橋の2つの橋で結ばれている。超然居への登り口にある萬歳手水鉢は、江戸時代に造られた牛田からの湧水の吹き出し口だったそうだ。<br /><br />超然居を過ぎると池1周も終わる。清風館に向かう道沿いの石灯籠は形が唐の楊貴妃が付けた冠に似ている楊貴妃型石灯籠と呼ばれる。確かに。濯纓池から南に流れ出る川は流川で、かつては園外に流れ出していたが、今は園内で終わっている。名前は広島一の歓楽街として残る。<br /><br />入口近くに戻ると右手に灌花井(かんかせい)。最後の藩主である中納言浅野長勲(ながこと)が江戸藩邸から持ち帰った井戸枠と石橋。 近くには柿葺(こけらぶき)の説明もある。出入り口近くの土産物売り場兼カフェの泉水亭はパスして拝観終了。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839982396071766&amp;type=1&amp;l=8a89379cb0<br /><br />帰り道、広島駅でお好み焼きを食べる。みっちゃん総本店の広島駅新幹線口ekie店。「みっちゃん総本店」自体が店(チェーン)の名前で、東京新橋店を含め8店舗を開いているが、他にも「新天地みっちゃん」と「みっちゃん いせや系」もある。みっちゃんの名前は広島風お好み焼き屋の生みの親、井畝(いせ)満夫さんの名前から来ている。昭和25年に満夫さんの父親の井三男(いさお)さんが、中央通りに屋台を出したのが始まりで、病弱な父親に代わりに、当時19歳の満夫さんが店を営業し、どろっとしたお好みソース、そば、キャベツ・モヤシが入るスタイル、ヘラを使って食べる文化などが「みっちゃん」のアイディアから生まれた。なお、他のみっちゃん店系は満夫さんの弟妹が始めたものだが、経営関係はなく「みっちゃん総本店」がこれらの3店系の総本店と云う意味ではない。レシピも異なるそうだ。また、広島県内には約2000軒のお好み焼き屋があると云われ、その中には井畝一家と全く関係ない「みっちゃん」もある。<br /><br />お好み焼きは全国いろいろなところに存在しており、特に広島風と関西風が有名だが、歴史的にはそれぞれ独自に発展したもので、たまたま名前が同じになったと考えるのがいい。広島の人の中には広島焼きと云うと怒る人もいるので県外の人は注意が必要。私は広島風も関西風もそれぞれ好きだな~ <br /><br />いつもは肉玉そばが多いので、今回はイカもプラス。1000円。昔はお好みと云えば安くて腹いっぱいになるもんだったけど、なんか高級化したかな? そう云えば、高校時代は、私はそばよりうどん派だった。あの頃はダブルで食べてたよなあ・・・<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839995126070493&amp;type=1&amp;l=8a89379cb0<br /><br />帰りの新幹線はJR西のおとなびWEB早特を利用。こだまだと広島・大阪間で片道通常運賃で10,230円するのが4,080円で買える優れもの。<br />https://www.jr-odekake.net/cjw/otonavi/ticket/web-hayatoku/<br />来た時には1時間半掛からなかったのが、倍の3時間以上掛ったが、特に急がない旅だと問題ない。この日は飛来物による架線支障でさらに20分ほど遅れたが、本を読みながらのんびりと戻った。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839997266070279&amp;type=1&amp;l=8a89379cb0<br /><br /><br />以上

広島 縮景園(Shukkeien, Hiroshima, Japan)

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2019/05/12 - 2019/05/13

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ちふゆ

ちふゆさん

令和GW10連休明けの翌週末、久しぶりに我がふるさと広島に出掛け、友人たちとカープの勝利を満喫したが、京都に戻る前に時間があったので市内の名勝、縮景園を訪れた。

まず、広島への移動だが、初めてさくらに乗った。山陽新幹線には東海道新幹線と共通ののぞみ、ひかり、こだまの他に九州新幹線直通のみずほとさくらが走っているが、これまで乗車の機会はなかった。新大阪ら広島までの区間ではのぞみに比べると、福山に余分に停車する(のぞみでも停車するものもあり)分多少時間が掛かるのだが、新大阪で鹿児島中央行を見ると旅心が騒ぐ。ちなみにさくらは11年の九州新幹線鹿児島ルートの全線開業と同時に山陽九州新幹線直通で運行を開始した九州新幹線の代表列車。毎時1、2本が新大阪と鹿児島中央を結んでいる(博多・鹿児島中央間の運転もあり)。我々の世代にとってはさくらと云えば、05年に廃止された東京・長崎間のブルートレインの印象が強い。ただ、私は乗ったことはない。あと、九州新幹線には他にみずほとつばめが走っており、みずほはさくらと同じく新大阪・鹿児島中央間で走っており、停車駅が少ない。一度これで鹿児島まで行きたいものだ。つばめは九州新幹線のみ。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839997266070279&type=1&l=8a89379cb0

さて、縮景園の話。友人たちとマツダスタジアムでの試合を楽しんだ翌日、帰りの移動を午後にしたので、午前中に訪れた。確か一度来たことがあるのだが、それがいつなのか思い出せない。広島から両親が京都に戻る前だったと思うので、少なくとも43年は経ってるだろう。

広島駅から北西に進み京橋川を栄橋で渡り徒歩で約10分の上幟町にある。京橋川は広島市内を流れる6つの川の東から2番目の川で、上流の牛田で本流の太田川(本川)から分かれ、栄橋のすぐ下流で東に猿猴川を分流して広島湾に注いでいる。猿猴川を分流して2本目に掛かる京橋からその名が付けられた。京橋は、広島城から京都に向かう最初の橋を表している。栄橋はその京橋などと並ぶ現存する被爆橋梁で、1906年に熊谷栄次郎が木橋を架橋し、その名から名付けられた。現在の橋は30年に架設されたもの。

幟町は藩主の旗印を任かされていた御旗の士が居住していたことから付けられた町名だが、「のぼりまち」と「のぼりちょう」の2つの読み方が混在している。昭和40年に町名としては「のぼりちょう」と定められたのだが、多分未だに多くの人は「のぼりまち」と呼ぶ。少なくとも我々の世代はそう呼ぶ。小学校も中学校も正式には「のぼりちょう」で、高校の同級生に幟町中学出身者はたくさんいたが、普通に「のぼりまち」って云ってたもんな(通称はのぼりちゅう)。全くの余談だが現在のカープの緒方監督の奥様のタレントの中條かな子さんは幟中出身。

縮景園は国の名勝、日本の歴史公園100選で県が管理している。京橋川右岸にあり、京橋川から引き込んだ水と園内の井戸を水源としている。西側には少し先に広島城がある。周辺には緑が多く、京橋川上流は太田川との分岐まで東部河岸緑地が続く。南西は県立美術館に、南東は幟町中・市長公館に隣接しており、これらも元々縮景園の敷地だった(中学校は一部のみ)。

1619年、安土桃山時代に毛利元就の孫、輝元の広島城築城により開かれた城下町に、関ヶ原の戦い後に入封した賤ヶ岳の七本槍の一人、福島正則が城の無断修復で信濃・越後の高井野藩に転封された後、浅野氏が入封する。初代藩主浅野長晟(ながあきら)が翌年、家老で茶人でもあった上田宗箇(そうこ)に命じて造らせた藩主別邸(含む庭園)である泉水屋敷が縮景園の始まり。当時は小さな庭園であったが、歴代藩主の寵愛を受け、次第に拡大していく。

1758年に大火で城下が灰燼に帰した後、城下の再構築が行われ、その一環として1783年に京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ大改修を行ったものが今の庭園の原型となっている。なお、清水は当時の著名な庭師の一人であり、縮景園の他にも安芸太田町の吉水園と八千代町の滄浪園(そうろうえん)を広島藩内に造園している。どっちも知らなかった。1807年には北部の牛田の谷から竹管を用いて園内への飲料水用の導水装置が作られ、これは広島城下における歴史上最初の水道とも云われている。その後も改修は続けられ、現在の形になったのは明治末期頃。

日清戦争時には大本営副営(明治天皇の宿泊所)となったことがあるが、行幸されたのは一度きりだった。大正2年から一般開放され、昭和15年に浅野家から広島県に寄付された。昭和20年には原爆投下で壊滅的な打撃を受けたが、24年に復旧開始し、26年に再開園。さらに本格的な復旧工事が37年から行われた。2020年には築庭400年を迎えようとしている。

造営当時から泉水屋敷と呼ばれていたが、明治に入り大名華族となった浅野家の別邸となり、泉邸(せんてい)あるいは御泉水と呼ばれた。縮景園と改称されたのは戦後の1951年。縮景とは、各地の景勝もしくは中国の西湖周辺の風景を縮小して表すことで林羅山の命名と云われる。初めてこの名前が出てくるのは1713年の縮景園記で、邸内の山・池・建物・橋・島などに雅名を付けたものである。海外、特にキリスト教圏ではAsano Parkの名でも知られる。

園内は池泉廻遊式庭園となっており、入口は南端に位置する。中央に池を配しそれを橋によって東西に二分、その池を基準に北・東・西に小山を築き三滝山・二葉山・弥山などの借景としていた。メインの建物は橋の南に位置あり、その他にも茶室や四阿を備えている。

南の簡素だが結構豪快な冠木門を入り、チケット売り場で入園料260円を払って散策開始。そのまま北に進むとメインの建物である清風館。1964年建築で、木造平屋建ての寄棟造・柿葺、東側に花頭窓がある数寄屋造の茶室。園のほぼ中央に位置する、園内最大の建物。園内その他建物はこの清風館を基準に配置が決められたと考えられている。

清風館を左に回り込むと池に出る。濯纓池(たくえいち)で、敷地の20%を占める大きな池。跨虹橋(ここうきょう)で二分されている。跨虹橋は1786年竣工の、石製アーチ橋と陸橋からなる園内でも数少ない戦前からある建造物。主要部分は花崗岩で出来ている。7代藩主浅野重晟(しげあきら)が2度も作りなおさせたと伝わっている。清風館の池淵は桜花巷と呼ばれるところで桜が咲いてると最高だろうな。

池の東の端には映波橋、昇仙橋、望春橋と云う三橋が、角度をずらして架けられている。三橋を超えると、右手に銀河渓と呼ばれる小渓谷。その先の尾根を上がると看花榻(かんかとう)と呼ばれる茸型の展望台。座席はロクロ式に作られ、回転するようになっており、ここで殿様が対岸の桃林の花や京橋川を行き交う川舟を眺めたと云われている。その奥を登ると迎暉峯と呼ばれる築山。園内最高峰で標高約10m。かつてはここから遠方の広島湾の島々を望むことができたと伝えられている。

迎暉峯から川沿いを通って戻り、池の方に進むとあるのが霊迹壇(れいせきだん)。江戸時代前期の大洪水の時に漂着した3体の仏像をお祀りしており、像は平安時代後期頃に作られたと思われる寄木造りの十王像。ただし2体は原爆で失われた。その先は臨瀛岡(りんえいこう)で、ここから遠く厳島を望むと雲のかかった弥山山頂が見えたと云われる。池に降りると悠々亭。木造平屋建て、入母屋造・茅葺の四阿でかつてはここで茶会や歌会が行われていた。靴を脱いで上がり、池を眺めて一休み。市内のど真ん中なので、園の周りは、今は借景の山々でなくビルが立ち並ぶ。広島にも高層ビルが増えたんだねえ。

悠々亭から池の北岸を進む。池には多くの島があり、アオサギとのショットが絵になる。跨虹橋の北側の小山は祺福山。頂上に稲荷神社(泉邸稲荷)社殿があったのだが、原爆で焼失した。御神体は現在は川向こうの饒津(にいづ)神社内に祀られている。そこから再び京橋川沿いに出ると慰霊碑があるが、原爆で亡くなられた方の64柱の遺骨が埋葬されていたところ。

再び池に戻ってくると白龍泉。元々は水溜の水をここから出るようにしていたもので、現在は井戸水が出ているが、白い龍が伏せているかのような形の曲水ということでこう呼ばれる。その先に積翠巌(せきすいがん)。巨大な立石組のある島。この石組は蓬莱式鶴石組で三尊石で、また枯滝式の石組とも云われる園の基幹を成す石組み。積翠は積み重なった翠=松のことで、巌は大岩のこと。

再び道を上がると明月亭。1974年に再建された木造平屋建て、寄棟造・茅葺の数寄屋造りの茶室。水屋の窓に牛舎の車輪が特徴的な建物。池の西側に回り込んでいく途中には御腰掛なば石。茸に似た自然石を腰掛石として利用したもので、江戸時代に土佐から持ち帰ったものと伝えられている。茸のことを中国・九州地方で「なば」と云う。知らんかったわ。

そこから進み、古松渓と呼ばれる渓谷を過ぎると夕照庵(せきしょうあん)。ここは1970年再建の木造平屋建てで入母屋造・茅葺の茶室。その奥には馬の調教訓練に用いた調馬場跡。夕照庵に戻り池に面して造られた小石組の州浜から池を南に回り込むと超然居。1970年再建の木造平屋建てで寄棟造・茅葺の四阿。園内最大の島にあり観瀾橋および洗心橋の2つの橋で結ばれている。超然居への登り口にある萬歳手水鉢は、江戸時代に造られた牛田からの湧水の吹き出し口だったそうだ。

超然居を過ぎると池1周も終わる。清風館に向かう道沿いの石灯籠は形が唐の楊貴妃が付けた冠に似ている楊貴妃型石灯籠と呼ばれる。確かに。濯纓池から南に流れ出る川は流川で、かつては園外に流れ出していたが、今は園内で終わっている。名前は広島一の歓楽街として残る。

入口近くに戻ると右手に灌花井(かんかせい)。最後の藩主である中納言浅野長勲(ながこと)が江戸藩邸から持ち帰った井戸枠と石橋。 近くには柿葺(こけらぶき)の説明もある。出入り口近くの土産物売り場兼カフェの泉水亭はパスして拝観終了。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839982396071766&type=1&l=8a89379cb0

帰り道、広島駅でお好み焼きを食べる。みっちゃん総本店の広島駅新幹線口ekie店。「みっちゃん総本店」自体が店(チェーン)の名前で、東京新橋店を含め8店舗を開いているが、他にも「新天地みっちゃん」と「みっちゃん いせや系」もある。みっちゃんの名前は広島風お好み焼き屋の生みの親、井畝(いせ)満夫さんの名前から来ている。昭和25年に満夫さんの父親の井三男(いさお)さんが、中央通りに屋台を出したのが始まりで、病弱な父親に代わりに、当時19歳の満夫さんが店を営業し、どろっとしたお好みソース、そば、キャベツ・モヤシが入るスタイル、ヘラを使って食べる文化などが「みっちゃん」のアイディアから生まれた。なお、他のみっちゃん店系は満夫さんの弟妹が始めたものだが、経営関係はなく「みっちゃん総本店」がこれらの3店系の総本店と云う意味ではない。レシピも異なるそうだ。また、広島県内には約2000軒のお好み焼き屋があると云われ、その中には井畝一家と全く関係ない「みっちゃん」もある。

お好み焼きは全国いろいろなところに存在しており、特に広島風と関西風が有名だが、歴史的にはそれぞれ独自に発展したもので、たまたま名前が同じになったと考えるのがいい。広島の人の中には広島焼きと云うと怒る人もいるので県外の人は注意が必要。私は広島風も関西風もそれぞれ好きだな~

いつもは肉玉そばが多いので、今回はイカもプラス。1000円。昔はお好みと云えば安くて腹いっぱいになるもんだったけど、なんか高級化したかな? そう云えば、高校時代は、私はそばよりうどん派だった。あの頃はダブルで食べてたよなあ・・・
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839995126070493&type=1&l=8a89379cb0

帰りの新幹線はJR西のおとなびWEB早特を利用。こだまだと広島・大阪間で片道通常運賃で10,230円するのが4,080円で買える優れもの。
https://www.jr-odekake.net/cjw/otonavi/ticket/web-hayatoku/
来た時には1時間半掛からなかったのが、倍の3時間以上掛ったが、特に急がない旅だと問題ない。この日は飛来物による架線支障でさらに20分ほど遅れたが、本を読みながらのんびりと戻った。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.2839997266070279&type=1&l=8a89379cb0


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