2019/05/15 - 2019/05/15
546位(同エリア1808件中)
杏仁豆腐さん
以前から行ってみたかった小田原城。国道一号線を通過したり、箱根に行くことはあっても、小田原の街を散策することはありませんでした。そしてついにその時が来ました。朝早く家を出て、小田原へ。
まずは、小田原城と報徳二宮神社へ。曇りの予想の天気予報でしたが、晴れていい天気です。
小田原散策後半はこちら
5月の小田原②☆清閑亭・小田原文学館☆小田原おでん本店☆2019/05/15
https://4travel.jp/travelogue/11495134
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
小田急線で小田原に来ました。
大きな駅です。 -
駅に二宮金次郎像。
-
小田原まで歩きます。
小田原城の北を守る蓮池があった辺り。 -
国指定史跡小田原城跡 弁財天曲輪(べんざいてんくるわ)跡
江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。
戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。 -
小田原御用邸跡
小田原城跡本丸・二の丸地区は、明治維新・版籍奉還の後、旧陸軍省の所管となり、明治33年(1900)1月に御用邸を建設するため地鎮祭をとり行い、翌年の明治34年(1901)1月に竣工しました。
しかし、大正12年(1923)9月1日に関東大震災により全壊し、昭和5年(1930)に廃止されました。
御用邸には、小田原が気候温暖で風光明媚なことから多くの皇族が訪れ、小田原の行事に数多く参加され、町民との交流も活発に行われました。 -
学橋
この橋は江戸時代にはなく、昭和4(1929)年に城内小学校が二の丸に移転した際に竣工しました。
現在の学橋は昭和24(1949)年に再建されたものだそうです。 -
馬出門土橋を渡り、場内へ。
学橋が見えます。 -
馬出門
平成21年に再現された城址公園の正面玄関です。
馬出門は三の丸から二の丸へと通ずる大手筋の中で、馬屋曲輪の北端に位置する門です。やはり正面玄関から城内へ入らなければと思い、ここまで歩きました。 -
馬出門は内冠木門と2つの門と、その周囲を石垣と土塀で四角く囲った枡形の総称です。
-
馬出門はそれぞれの控柱に屋根のつく「高麗門」という形式の門だそうです。
-
馬屋曲輪
馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物がありました。
曲輪の外周は土塀と石垣で覆われていました。 -
住吉橋を渡ります。
1990年に復元された木橋です。
馬屋曲輪と二の丸の間の住吉堀を跨いでおり、銅門に通じる通路上にあります。 -
住吉橋を渡りました。
-
銅門(あかがねもん)です。
二の丸主部へと通じる大手筋に設けられた桝形門です。
銅門の北側には藩主の居館である二の丸御屋形がありました。江戸時代前期に稲葉正勝が城主となった時期に行われた普請の中で銅門も築かれたものと考えられています。 -
銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。
-
銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。
-
現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。
脇に石段があり、上れます。 -
銅門の屋根の両端にしゃちほこが載っています。
-
銅門礎石
この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石 です。
使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。
箱根外輪山の安山岩 製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。
手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。 -
銅門土塀模型
この土塀模型は、銅門の建設を行うに際し、事前に制作したものです。
銅門は、江戸時代の工法、技術を採用しているため、使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確認する必要があり、この模型は重要な役割を果たしました。
皆様に古い建築の工法をご理解いただくため、銅門の完成を期に小田原市建築協同組合より寄贈を受けたものです。 -
小田原NINJA館
話のタネに入ってみました。どちらというと、子供向けの忍者体験施設。
それなりです。 -
小田原城は南に相模灘、東に酒匂川、西と北には箱根山という要害堅固な城で、四代目北条氏政の時代には上杉謙信や武田信玄の攻撃を退け、難攻不落といわれていました。
しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の軍勢による包囲戦の結果落城。北条氏の領地は徳川家康に与えられ、家康の家臣だった大久保氏が城主となります。その後は幕府の直轄となり、維新後の明治3年(1870年)に廃城となりました。 -
昭和35年(1960年)、小田原市政20周年の記念事業として、天守閣が再建されました。さらに常盤木門、住吉橋、銅門が再建され、平成21(2009)年に馬出門が再建されています。
-
天守閣に入ります。
-
江戸時代後期に制作されたという天守閣の模型があります。
-
小田原城再興碑
-
二の丸二重櫓鯱瓦
-
三ツ葉葵紋瓦
-
各、フロアにはいろいろなものが展示されています。
-
見ながら上っていきます。
-
天守閣最上階に来ました。
展望デッキが設置されています。いい眺めです。 -
伊豆方面
-
三浦半島方面
-
眼下は城内
-
小田原駅も見えます。
-
摩利支天像厨子
摩利支天像が収められていた天守型の厨子です。
作られた時期は不明ですが、明治時代には作られていたと思われます。 -
摩利支天
摩利支天は、日本では武士の間であつく信仰されてきました。
小田原城天守のものは三面六臂(さんめんろっぴ/3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表されています。 -
江戸時代の天守には、摩利支天を含む、天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。
現在残るのは、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来で、明治3年(1870)の廃城時に持ち出され、現在は永久寺(小田原市城山)に安置されています。 -
小田原城址公園パンフレット
-
小田原城址公園パンフレット
-
小田原城天守閣入場券
-
天守閣から報徳二宮神社に向かいます。
小田原城内大日一尊種子板碑 -
報徳二宮神社に入ります。
-
小田原城小峰曲輪
天守西側の曲輪。戦国の北条時代の遺構が残っています。 -
報徳二宮神社社殿。
明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。
明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築しました。
拝殿礎石は天保の大飢餓の際、藩主大久保公の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手にわたったことにより、小田原11万石の領内から一人も餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています。 -
二宮金次郎像
"薪を背負って歩きながら本を読む"金次郎の姿が初めて登場したのは明治24年(1891)に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』という本の挿絵でした。
当神社にある少年像は昭和3年、昭和天皇即位御大 礼記念として神戸の中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。
製作者は三代目慶寺丹長。これと同じ像は、全国の小学校に向けて約一千体制作されましたが、戦時中全て供出に遇い、現在残っているのは、この一体だけです。
尚、この像は当時のメートル法普及の意図を反映してちょうど1メートルの高さに制作されています。 -
勤勉なお顔立ち
-
二宮尊徳翁像
兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された「二宮尊徳翁立像」10体の内1体。 -
神池
-
社務所と社殿がつながっています。
-
境内のきんじろうカフェで一服します。
-
自然の中にある憩いのカフェです。
-
注文をして、番号で呼ばれるのを待ちます。
-
アイスコーヒーときなぽん
-
かめば噛むほどモチモチする、新感覚のおやつのきなぽん。
どこか懐かしさを感じるカラメルソースときな粉の相性が抜群とのこと。 -
ゆっくり休憩できました。
-
報徳二宮神社を出て、清閑亭に向かいます。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
小田原(神奈川) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
57