2019/03/02 - 2019/03/02
39位(同エリア126件中)
motogenさん
- motogenさんTOP
- 旅行記391冊
- クチコミ1件
- Q&A回答3件
- 382,049アクセス
- フォロワー45人
見付から中泉に移動する。
幼かった頃の中泉の町は、駅があり、映画館が3つもあり、模型屋や本屋、玩具屋や中華そば屋、お好み焼き屋や駄菓子屋など、田舎にはない店がずらりと並び、まぶしいほどの都会に見えて、親と一緒に歩くだけで緊張したものだ。
ましてや町の子どもたちを見ると、皆が皆、頭が良くてセンスが良くて、お金持ちで、自分たちとは違った世界の子どもたちだと、小さくなっていたことを思い出す。
町の高校に通うようになって、見付も中泉も小さな田舎町だと分かり、その姿もどんどん変わってきたが、
私の生きている時代ほど、町の様子も生活スタイルも、そして人間までも、めまぐるしく変化する時代はなかったのではあるまいか。
PR
-
高台を登った場所にあるのが、府八幡宮の楼門で、下の写真は大正時代だが、今の八幡宮もほとんど変わっていない。
この門は徳川時代に建てられたもので、県の文化財に指定されている。
この近くには国分寺跡もあって、中泉も長い歴史のある町だ。府八幡宮祭典 祭り・イベント
-
府八幡宮の秋祭りは、町ごとの華美な山車が引き回されて、この街道に勢揃いする夜は別世界となる。
通りが狭く、町中でも暗かった昭和の時代には、本当に夢のような世界が出現したが、今は華やかなものは他にもたくさんあり、毎日毎日ご馳走を食べ、エアコンやスマホやLEDの中で暮らしていて、昔ほどの興奮は起こらない。 -
その街道は、昭和30年代(下)には中型バスがやっとすれ違いできる幅であったのに、
道幅は拡張され建物も一新されて、ジュビロードの愛称がつく奇麗な通りとなっている(上)。 -
だが見付の町と同様に、朝夕の通学時間以外には人通りも少なく、多くの小売店がシャッターを閉めてしまっている。(上)
昭和30年代には(下)、市内で最も活気ある通りで、 -
通りの突き当りに駅があり(下)、蒸気機関車が出入りしていた。
駅の誕生は明治時代で、最初は「中泉駅」と呼ばれていたが、昭和17年に「磐田駅」に改名され、その後改築もあったが、
平成(2000年)には橋上駅舎に改築されて、南口もでき、現在の姿になっている。磐田駅 駅
-
駅前には善導寺という寺が建っていて、境内に樹齢700年の大きな楠(くすのき)がそびえていた。
昭和40年代に駅前の整備事業でお寺は移転したが、くすのきは残り、上が現在で、下が昭和50年代の姿だ。 -
大正時代のくすのきの写真も残っていた。(下)
くすのきの幹の形は、今も同じにように見えるが、(上)
樹齢700年というから、このくすのきは、江戸時代を通り越して鎌倉時代からこの地やこの地の人々を見続けてきたことになる。
とほうもないことだ。 -
昭和60年代(上)、昭和23年(下)の駅舎から見た駅前広場となる。
昭和23年当時は、戦後の食糧難に苦しめれる混乱期で、
駅前には闇市のバラック小屋が建ち、おでんやスルメ焼きや安酒の漂う時代で、しばらくはこのままの状態か続き、私の鼻の奥には、うっすらとその記憶が残っている。 -
貧乏ったらしく、非衛生的で薄汚れていて、やくざ風の男たちが歩いていて、ちょっぴり怖い時代の駅前であったが、今ではこんなに奇麗に整備されて、スクランブル信号までできている。
だが、なぜか幼い頃の駅前が懐かしい。
もしかしたらあの頃の方が希望があり、今とは違った幸せがあったのではないのか・・・ -
駅前の近くで街道(旧東海道)は西に折れ、そこから振り返った今の様子だが(上)、
明治時代には、道はぬかるみ、屋根の低い粗末な家が並んでいる。(下)
ラオスやカンボジアの田舎に行くと、このような汚れた町や村がある。
非衛生的で日本人は顔をしかめるが、貧しいながらも笑顔をたたえ、裸足で無邪気に走り回る子どもたちや、たくましく生活している人々に出会うと、目元が熱くなるような嬉しさを感じるのは、幼かった頃の記憶がよみがえるからだろうか。 -
道路は西に向かっていて(上)、
下は昭和11年の同じ通りだ。
ラジオのある家に押しかけて、ベルリンオリンピックの水泳の放送を聞く人々が写されている。
今は様々な娯楽が氾濫しているが、ラジオが娯楽の王様だった時代には、人間の感じ方や考え方、喜怒哀楽までも違っていたのではないだろうか。 -
現在(上)は新しい別ルートができて車の往来も減ったが、昭和の時代は磐田駅と旧豊田町との幹線道路は、この道だった。
昭和20年代には松並木も残っている。(下)
物がなかったこの頃にも、華美て高価な山車はあったことがわかる。 -
中泉の台地から一言に下る緩やかな坂道で、今は奇麗に舗装された住宅街となっているが(上)、
昭和20年代は(下)オート三輪やリヤカーが交通の主役で、土埃の舞う砂利道だった。
まだ昔の東海道の雰囲気を失っていない。 -
昔の東海道は、中泉から天竜川沿に向かっていた。
現在のその道路は拡張整備されているが(黄色の点が打ってある道路)、 -
郷土を愛する人々の手によって、昔の東海道を残そうと松並木の一部は保存され、大切に保護されている。
-
天竜川の手前1.2km付近で、道は二本に別れ、左は昔の東海道で、右は新しい国道1号(新東海道)に合流する道路。
左の昔の東海道に進む車はわずかだ。 -
旧東海道を進むと、道路沿いに若宮八幡宮があり、東海道であったことを示しているが、
-
昭和30年代(上)のこの道は、まだ主要な砂利道だったが、
現在(下)は静かな住宅街となり、この道は生活道路となっている。 -
正面の工場の向こう側が天竜川だ。
昔の東海道はここから右折して北に向かい、旅人は池田の渡船場から天竜川を渡ることになっていた。 -
今の天竜川は頑強な堤防に閉じ込められている。
昔の東海道は、写真中央の工場付近から川上方面に向かっていた。
江戸時代には、今ある鉄橋付近からその先の池田かけて、渡船場があったと言われている。 -
天竜川に鉄橋ができた昭和10年頃の写真があった。
鉄橋付近で漁師や住民がすびき漁をしている。
橋ができたが、まだ舟で渡っている人もいるようだ。
この鉄橋は今も健在だ(下)が、ダムができて川の水は見る影もなく減っている。 -
片側1車線だった橋の横に、片側4車線の新しい橋が追加されて、渋滞は大いに緩和されている。
昭和・平成時代は、天竜川に次々と橋が造られて、時代は急速に変化した。
人間の力はすごいもので、自然などはあっという間に変わってしまう。 -
江戸時代に戻って、天竜川沿いを池田の渡船場に向かう道を調べてみる。
昔の様子を垣間見せる通りかあった。 -
堤防に渡船場跡を表す石碑が立っている。
渡船場はこの地点だけでなく、上中下の3カ所あって、流れの速さに応じて場所を変えたらしい。
(流れが速いと上流から、緩やかなら川下からと、舟が流されるのを考慮) -
「池田の渡し歴史風景館」(入場無料)に、渡船に関しての詳しい説明や資料があり、
池田の渡し歴史風景館 美術館・博物館
-
それによると、当時の天竜川は「暴れ天竜」と言われ、流れも速く深さもあって、頻繁に洪水を起こしたらしい。
-
幕府から渡船の運営を任せられたのが池田村で、幕府の掟に従って渡船を取り仕切り、
基本の船賃は、旅人一人が24文、馬が72文、荷駄(150㎏相当)が60文となっていたが、武士と僧侶とこの土地の住民と無賃だったようだ。 -
渡船場のあった池田はこのような場所で、現在の天竜川にはしっかりした堤防とスポーツ公園ができているが、
大正初期(下)には、池田橋という木の橋が作られていて、水車舟で精米をしている光景が写っている。 -
見付方面を振り返れる。
江戸時代にはほとんどが田畑であったろう。
生活の仕方が人間を作ると考えれば、当時の人々の人生観や生活感覚はいかなるものであったろうか。
映画やドラマの時代劇に登場するのは、姿形は昔風だが、中身は平成時代の人間だ。
つまらん。
江戸時代という、違う世界に生きていた人々を知りたい気持が、募ってきている。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
磐田(静岡) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 旧東海道は、今どうなっているんだろう
0
29