2019/03/02 - 2019/03/02
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motogenさん
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リタイア後(かなりの年月が経ってしまったが)、自宅近辺を歩くようになって驚いたことは、子どもの頃の道が消えていたことだ。
学校まで歩いた道、遊んだ道、自転車で走った道、それらの一部がなくなり(それも跡形もなく)、広い立派な道が何もなかった場所にできている。
道はずっと存在しているんではなく、突然に消え失せたり、新しく出現したりするものなんだ・・と、その発見は衝撃的だった。
かっての道を思い出そうとするが、これがなかなか難しい。
こんな風に昔を懐かしんでいるのは、歳をとったということか・・
そんな折り、「磐田・袋井 今昔写真帳」という見つけ、昔の東海道を調べてみようと思い立った。
まずは、見付の町を通る東海道からにしよう。
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上)磐田市の見付の町を通る、現在の東海道だが、
両側の店や民家は奥に引っ込んだり、あるいは転居したりして、歩道を完備した広い通りに改良されている。
しかし昼間でも歩く人の姿はまばらで、店を閉めてしまった人も多い。
下)ほぼ同じ場所で撮影した1980年代の街並みは、かっての東海道のなごりを残している。
車社会となってきて、道を拡張して集客をねらったのだが・・昔の姿を一新したことは成功だったのか。 -
明治41年には、江戸時代の宿場町の雰囲気をそのまま残していて、
当たり前だが、自動車ではなく大八車が活躍している。 -
上)少し東に歩くと、町の中心を流れる中川(今之浦川)があって、中川橋が架かっている。
橋はこんなに広くなり、橋だと気づかない人もいるが、
下)昭和の時代には、車は歩く人に気をつけて速度を落として走り、小売店が繁盛していた。 -
大正時代の中川橋は木製からコンクリに変わったばかり。
問屋場としてにぎわっていた時代で、川の水量も多く、福田の港から数多くの船がここまで運航していたという。 -
上)さらに東に500mほど歩くと、正面に小さな愛宕山が現れる。
山の上に愛宕神社があって、見付の町を見下ろせる。
旧の東海道は左の細い道で、右の太い道路は江戸時代にはない。
下)大正時代の愛宕山で、かってはここが見付宿の東のはずれ。
江戸から六十二里の一里塚が築かれている。愛宕神社 奉納手筒花火 花火
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その愛宕山の上から見付の町を貫く旧東海道(今は本通りと呼ぶ)を眺めながら(上)、
昭和の時代の写真(下)と比べ、 -
さらに昔の景色とも比べてみる。
大正時代には軒の低い家々が立ち並び、街並みのすぐ近くまで、森や林が広がっていたことが分かる。 -
今では町は拡大して、街道町から都市に変化したが、中心部では高齢化が進み、子供は減って、商業の衰退が止まらない。
これが地方都市の宿命なのか。 -
愛宕山の北側には「お天神様」と呼ばれる八奈比売神社(やなひめじんじゃ)の森があり、つつじ公園もあって、町の象徴ともなっている。
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東に振り向けば、真っ直ぐに伸びる2本の道がある。
右の太い道路が、数年前までの国道1号として大活躍していた道路で、
左の道が江戸時代の東海道。(黄色の点で示す)
少し先で二つの道路は斜めに交差している。 -
旧東海道の脇にある八奈比売神社(お天神様)への参道入口には、大鳥居が立っていたけど(大正2年)、
今では鳥居は撤去されて道路は広くなり、 -
神社に登る坂道にも鳥居があったけど(昭和30年)、
今は、鳥居は柱部分しかない。 -
慶安2年(1649年)に造営された八奈比売神社の社殿は、檜皮葺きであったが、
現在の社殿は瓦葺き(?)となっている。
この神社の秋祭は「裸まつり」で、見付天神裸祭 祭り・イベント
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江戸時代さながらの腰みの装束の男たちが、伝統を守った神事のストーリーに従って、威勢よく練り合うのだが、
「昔の狭い通りの中で、見物客と接触しながら、ワラの臭いと共に練り合う祭が懐かしいよ・・」
という声も聞こえてくる。
今の通りは祭りには広すぎる。 -
電線類も地中に埋めて、すっきりした景観を目指した町づくり。
町の活気を取り戻そうと頑張ってはいるが、果たしてこれで良かったのか。 -
昔の街道は、最短距離で効率よく行き来するという考えが希薄だったように思える。
見付付近の東海道は、カギ型に折れ曲がり、遠回りとなっている。
何かしらの理由があったのだろうか。 -
江戸時代の絵地図が交流センターに展示されていて、見付から天竜川にかけての東海道の様子が描かれているが、
これを見ると、見付は宿場町と言っても、街道沿いに家が並んでいるだけだ。 -
それを詳しく調べた郷土研究家がいて、住人の名前と職業を記した作品が展示されている。(見応えがある)
それを見ると(一部ではあるが)、人形屋、足袋屋、薬種屋、小手屋、小間物屋、傘屋、仕立て屋、塗師屋、醤油屋、飴屋、青物屋、大工、荒物屋、餅屋と、数えきれないほどの職業が記されていて、中には百姓とか天神社主などもあって、面白い。 -
大八車の並ぶ「梅葉商店」をはじめ、たくさんの店が軒を揃えていた明治時代の写真もあった。
江戸時代の様子を、ふんだんに残しているように見える。
この宿場町であり問屋町でもあった街道の面影を、今も残してあれば、それが宝となっていたかも知れないと思えるが、
経済システムや生活スタイルが変化して、梅葉商店は残っているが、ほとんどの店はなくなってしまい、道路だけが整備されているという状態。
100年後、200年後、どう評価されているのだろう。 -
しかし、昔の見付を残そうとする気運もあって、
「旧見付宿脇本陣大三河屋門」が、こんな形で残されていたり、 -
「御証文屋敷 安間平治弥邸跡」などの標注が、立てられていたり、
大名行列の「いわた大まつり」や「舞車」が催され、宿場町の文化を残す活動が続けられている。 -
宿場町として栄えた見付は、大名行列を迎える必要もあって、宿泊所として活躍したお寺が多い。
今でもごたくさんのお寺があって、 -
この大見寺は、今川氏の遠江支配の拠点で、土塁の一部が残っている。
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旧東海道は、ここで直角に左折して、中泉の町に続く。
天竜川沿いの池田(舟渡し場)までは遠回りとなってしまうため、池田への近道もあって、この交差点を直進する細い道がそれだ。 -
池田への近道の入り口で、この道は今でも細いままで、
明治以後は姫街道と呼ばれている。
なぜ「姫街道」と呼ばれるようになったのだろう? -
左折して南に進むと、賀茂川を渡る橋がある。
大正初期はこんなに細い橋だったのに(上)、
今では、川幅5mに比べて道路の幅が20m近くもあり、橋という感覚が持てない。 -
横から見た大正時代の賀茂川橋(上)で、
今の賀茂川橋(下)
何だか川幅が狭くなった気がするが、目の錯覚か。 -
賀茂川橋から南は坂道となって、その道を上がると中泉の町となるが(昭和37年)、
60年経つと、景色は一変している。 -
坂道の途中に、斜め左にカーブして別れる道がある。
それが昔の東海道で、 -
そこにはぎっしりと家屋が並んでいて、
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200mほどで新しい道と合流するが、
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高台から東を眺めると、民家や大型駐車場を持つ商業施設が集まる町が広がっている。
こうなったのは昭和40年代後半以後のことで、
今之浦と呼ばれているこの地域は、それ以前は人の住まない湿地帯で、小さな工場がチラホラと建っているが(下)、 -
舟に乗らないと仕事ができない水田や沼地だったのだ(上)。
それが磐田市の新しい商業エリアに変貌したのだが(下)、時代の流れはめまぐるしく、駅南やその他の地区に、さらに新しい商業地区ができていくと、ここは勢いを失って困っている。
中泉編に続きます。
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この旅行記へのコメント (1)
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- trat baldさん 2019/03/14 05:24:54
- 温故知新。
- 遠くに行かなくても素敵な歴史が一杯有るのね!
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