2018/12/12 - 2018/12/12
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mochimochi_kingdomさん
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学生時代は部活(ワンダーフォーゲル)でよく行った長野県も社会人になってからはご無沙汰。特に北部の長野市には行ったことがなく、旅リストの中でも優先順位は高い方だったのに、月日は流れ・・・。
1日目は、TVの深夜放送でみた松代大本営跡のドキュメンタリーをきっかけに信州松代へ。名前だけは知っていた佐久間象山。上田が中心と思っていた真田家。戦国時代から地域の要衝として栄えていたとは知らなかった。そんな無学な人間が信州松代を散策します。
■日程
2018/12/12
東京→長野
・松代城跡
・真田邸
・旧横田家住宅
・象山記念館
・象山神社/佐久間象山宅跡
・松代大本営予定地跡
2018/12/13
・戸隠神社(五社巡り)
・善光寺
長野→東京
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おはようございます。2018年12月12日(水)
東京は冷たい雨。風も少し強い。
東京→長野 07:52→09:30 はくたか553号 -
長野駅に到着
車内では爆睡。危うく降り損ねるところだった。
長野の天候予報は曇り時々小雨。なんだか、東京よりも少しだけ暖かい。
とりあえず、ホテルへ荷物を預けて軽装になる。 -
長野駅からバスに乗って松代へ
長野駅→松代駅 10:15→10:43 アルピコ交通 -
松代駅に到着
2012年(平成24年)4月1日までは、長野電鉄屋代線の"駅"だった。今はバスターミナルとして機能。 -
松代城跡
江戸時代、松代藩主・真田家の居城だった。
松代駅から徒歩3分。正に"駅近" -
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていた。
1622年(元和8年)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点とした。 -
松代城は、武田信玄と上杉謙信との川中島の合戦の際に武田方の全線基地として築かれた海津城がその始まりと言われている。
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本丸御殿跡
千曲川を自然の要害として造られた平城で天守閣は存在せず。
江戸時代中頃までは政庁や藩主の居住のための御殿があった。しかし、都度重なる自然災害等で南西に位置する花の丸(現在の真田邸)に移転した。 -
18世紀中頃まで、本丸の裏手は改修前の千曲川河川敷に面していた。
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本丸全景
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信濃の山々と千曲川に囲まれた松代城は地形を活かした要塞だったんだね。
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真田邸
早くもお正月仕様。 -
1864年(元治元年)に松代藩9代藩主の真田幸教によって、幸教の義母・貞松院の住居として建てられる。明治以降は真田家の私邸として使われていた。
敷地内には御殿(主屋)と表門、土蔵・庭園が一体となって配置されて残されている、全国でも少ない御殿建築の遺構としいて1981年(昭和58年)に国の史跡に指定された。 -
先ずは、真田家について勉強。と、言いたいところだけど、寒くてホットカーペットで暖まりたかった。生き返った。。。
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この御殿(主屋)は、外部の人間が出入りする「表」の部分と、生活のための私的な「奥」の部分に分かれている。
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「表」の部分と「奥」の部分は通常の襖ではなく杉戸が立てられ、視覚的・心理的に空間を分断していた。
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御寝所(ごしんじょ)
主人の寝室にあたる部屋。意外と狭い。でも、内装は豪華。
襖から上と天井の装飾は建築当時の唐紙をそのまま残している。 -
庭園は「水心秋月亭(すいしんしゅうげつてい)」と名付けられ、周囲の山々を借景として取り込んでいる。
流石の真田家。立派なお屋敷でした。 -
旧横田家住宅
江戸末期の中級武士の住宅の特徴がほぼ完全な形で残されている。 -
式台付玄関
来客の出迎え、見送り、あいさつの場所として使われていた。
この玄関から出入りできたのは、当家の主人及び、当家と同格以上の人のみ。他の人は右手の大戸口から出入りした。 -
横田家の先祖は、奥会津横田に住んでいた山内大学と伝えられている。江戸時代には信州松代藩真田家家臣として幕末まで150石に禄を受けていた。
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菜園
屋敷の奥を菜園として、野菜を中心に栽培していた。耕作したのは横田家に仕えていた人達。武家屋敷は、道路に面して建物が建ち、奥を菜園としたのが一般的だった。 -
藁葺屋根ってだけで、庭も建物もどっぷり和風なのにイギリスの田園風景の様~。んなこと無いか。。。
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象山記念館
江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家でもあった、佐久間象山の記念館。 -
佐久間象山度診断おみくじ
引いてみた。レベル3らしい。
以下、おみくじに記載内容から抜粋。
あなたの佐久間象山ポイント
成功する人は、謝らない。
あなたはどんなトラブルでも簡単に謝って済ませることを嫌うタイプ。謝るだけでは何も前に進まない。
謝るのではなく、改善するために行動することは大切という前向きな一面があるのでは・・・?
向いている職業 競技の審判 弁護士
そんなあなたのキャッチコピー
『謝りません。だって悪くないもん。』
「改善するために~」は頑張っているけど、もぅ謝ってばかりだよ。 -
佐久間象山肖像
なかなかインパクトのある外見。実際、身長は170~173cmあったそうで、200年前の日本人としては大柄。ちなみにこの像の寄贈は松下幸之助。 -
自分の中で、佐久間象山といえば「発明家」。そんな品々が展示されている。
電気治療器(一番左上)のキャプションには、、、
『文久2年(1862)秋、象山の妻・順子(勝海舟の妹)がコレラにかかった。象山は妻の治療にこの電機治療器を用い、一週間ほどでケイレンがとまったと手紙に書いている。』
本当かよ!? -
佐久間象山については、あまり思想家・学者としての印象はなかった。
吉田松陰や勝海舟等、幕末の日本に大きな影響を与えた人物であったことを今回学んだ。勉強になりました。 -
象山神社
京都での象山殉難五十年を機に計画され、1938年(昭和13年)に創建。 -
生誕200年記念で建立された「佐久間象山象」
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象山神社は旧佐久間象山宅に立地
1811年(文化8年)2月11日に生まれ、1839年(天保10年)の2度目の江戸留学までの29年間をここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。 -
「思索の小道」と名付けられた道を進む
穏やかな天気に見えるけど、北風が強くて寒い!。 -
松代象山地下壕
本日のメイン。 -
from パンフレット
『松代大本営地下壕は、舞鶴山(現気象庁松代地震観測所)を中心として皆神山、象山に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は、十キロメートル余りに及んでいます。
第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和十九年十一月十一日から翌二十年八月十五日の終戦の日まで、およそ九箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約八割が完成しました。この建設には、当時の金額で一億円とも二億円とも言われる巨費が投じられ、また、労働者として、多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
また、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります。
工事は、一日二交替から三交替で進められました。食糧事情が悪く工法も旧式な人海戦術を強いられ、正確な数字はわかりませんが犠牲者も出たと言われています。 -
戦後は、訪れる人も少なく忘れ去られようとしていましたが、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から壕の一部を公開しています。』
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では、出発。
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段々と狭く、暗くなる。
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削岩機ロッド
from キャプション
『削岩機はコンプレッサーから贈られる圧縮空気を操作する搾手部と、回転する鉄棒のロッド部と、その先端についた岩を砕くビットから成っている。
当時はこの削岩機により岩に穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛け破砕した。この時抜けなくなったロッドが壕内に数本ある。
なお、削岩機のロッドによる穴跡は壁面に無数に残っている。』 -
何が不気味かって、自分以外誰もいないこと。
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地下壕は、横幅4メートル、高さ2.7メートル。20メートル間隔に掘削されていて、50メートル間隔で横の連絡抗がある。
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削岩機ロッド掘削跡
from キャプション
『壁面の穴は、壕内に多数残されている。この穴は、削岩機で岩石をくり抜いた後、ダイナマイトを仕掛けるためにあけられたものといわれている。また、削岩機で壁面を削った跡も、壕内のいたる所に残されている。』 -
非公開部分の壁には作業に従事した人々が残した文字等が残されている。何を思い作業をしていたのだろうか?生々しい。
(写真での展示) -
トロッコ枕木の跡
from キャプション
『壕内で掘った石屑(ズリ)はトロッコに乗せて号外に搬出された。トロッコは土木工事用の運搬手押し4輪台車で、枕木によって固定されたレール(軌条)上を走行していた。
その枕木の周囲に砂が落ち凹ができた。その凹の跡が当時の作業を如実に物語っている。』 -
測点跡
from キャプション
『壕を精巧な網の目状に掘削するにあたり、壕の東西・水平を測量した跡といわれている。
天井に四角い杭がささっており、その先には釘の先端が残されているが、これは測量時に下振り(おもり)をぶら下げたものと考えられている。』 -
戻って来た。
この施設が活かされなくてよかった。日本が再起不能な状態にまでなってしまったんじゃないかと不安になった。
そして、誤解を恐れずに言えば「凄い実行力」。 -
松代に残る、もう一つの戦跡を見学するため、さらに山間を進む。
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松代舞鶴山地下壕(現気象庁松代地震観測所)
先ほど訪れた象山とここ舞鶴山、他、皆神山に地下壕が掘削され大本営が移転する予定だった。各々の使用目的は以下の通り。
象山:政府各省庁
舞鶴山:御座所、参謀本部、学習院
皆神山:軍司令部 -
松代が大本営の移転地に選ばれた理由は色々あるけれども、ここが地質的に硬い岩盤地帯であり、海岸線からも遠いことが大きかった。その事が現代において地震観測に活かされている。
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2016年4月1日以降、地震解析業務を気象庁本庁で行うことにより施設は無人化。しかし、重要な戦跡がこの奥に保存されている。
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天皇御座所予定地
新しい建物に見えるけど、1945年(昭和20年)に建てられた建物。建物の上と裏はコンクリートの厚さが80センチ~90センチあり、さらにその上から土が盛られ半地下壕建築になっており、裏山と一体となることで上空からは視認できないようにカムフラージュされていた。 -
前述の通り、施設が無人化してからは窓越しの見学になる。
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当時は15畳1間だったが、気象庁職員の部屋として使われていた時期があり、現在は2間に分けられている。
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from キャプション
『節のない材質は当時のまま残されており、材質はヒノキ、秋田杉など高級材質を使用しています。天井は竿縁天井で秋田杉が使われています。床の間の横のふすまを開けると違い棚という造りになっています。
第一庁舎の天皇の御座所と第二庁舎の皇后の御座所は、それぞれの避難壕である小坑道につながっており、小坑道には天皇の玉座や浴室が設置されていました。』 -
振り返れば長閑な里山の風景。史実とのギャップに少し心が重くなる。
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おやつタイム@長野松代総合病院
病院へ来たかった訳じゃないんだけど、喫茶店の類を見つけられず。でも、安心・安全であることは間違いないよね。 -
松代駅に戻って来た。
残るのは、駅舎とホームのみ。 -
駅舎内には現役時代の写真等が展示されている。
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さぁ、長野駅へ戻ろう。
松代駅→長野駅 16:30→17:09 アルピコ交通 -
長野駅に戻って来た。
なかなか素敵なデザインの駅舎。 -
チサングランデ長野
地方都市らしく、シングルでも広々とした部屋。快適だった。 -
ジェームス長野ビアマーケット
本日の夕飯はコチラ。
お酒は弱いんだけど、なんとなく惹かれる内容だったので。。。 -
ゆっくり飲んで食べていたら結構お腹いっぱいになった。満足々。
明日は軽く山登り。早く休もう。おやすみなさい。
【2018年長野】信州松代と戸隠神社1/2 信州松代編 終了です。
【2018年長野】信州松代と戸隠神社2/2 戸隠神社編 に続く。。。
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