2018/12/18 - 2018/12/18
10位(同エリア127件中)
ベームさん
前回深川を歩き脚を痛めたのに懲りずに師走の一日出かけました。
今回は東京、北区田端です。北区とか田端は東京都民でない人はもちろん、都民でもかくべつの用のない限りあまり足を運ぶところではないのかと思います。(北区にお住まいの方お気を悪くなさらないでください)。今どきの観光客を引きつける人気スポットが有りません。
しかし明治の後半から昭和の初めにかけて、この小さな地域に多彩な文士芸術家が集まり活躍した時代がありました。たかだか25年足らずの間でしたがこのようなことが起こったのは稀有なことだと思います。
文士として芥川龍之介、室生犀星、荻原朔太郎、平塚らいてう、佐多稲子、堀辰雄ほか「驢馬」の同人たち。芸術家として板谷波山、香取秀真、小杉放庵を盟主とした多くの若い画家、陶芸家など芸術家が彼らを慕って集まりました。
多くは田端時代に腕を磨き他所へ移っていきますが、昭和2年の芥川龍之介の死と翌3年室生犀星の離村より田端文士芸術村は終わりに向かいました。
残念ながらそれらの跡を示すものは何も残っていませんでした。先の大戦で徹底的に焼き尽くされてしまいました。ただ往時を偲ぶばかりです。
なお文士芸術家達についての説明は近藤富枝作「田端文士村」および田端文士村記念館発行の栞を、芥川龍之介については未亡人文氏の「追想芥川龍之介」を参照させていただいています。その1、その2に分けました。
写真は田端ふれあい橋の時計塔希望の鐘。
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スタートはJR山手線田端駅。10時です。
よく晴れています。脚のこむら返り防止用の飲み薬を忘れてきたのでちょっぴり不安です。 -
スタート、ゴールとも地図一番下田端駅。
赤い矢印のように歩きました。ほぼ時計回りです。
方角は地図上が南、下が北で逆になっています。 -
その1の部分。
地図中央、田端八幡神社まで。 -
田端駅北口。
田端駅の歴史は遠く明治29年、当時の日本鉄道土浦線(田端・土浦間)の開業にまで遡ります。田端駅と鉄道の開通により田端は北部の低地と南部の高台に分断されました。
今の駅舎は平成20年築。 -
駅前風景。
田端アスカタワー。 -
駅を出ると分断された田端の北部と南部を繋ぎ山手線、京浜東北線をまたぐ2本の橋が並行して架かっています。新田端大橋と田端ふれあい橋(旧田端大橋)です。
京浜東北線、山手線、操車場の入れ換え線のある構内を横切るには踏切では捌ききれないのです。
車道と歩道のある新田端大橋。 -
新田端大橋は旧田端大橋(今の田端ふれあい橋)の老朽化により昭和62年架橋。
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並んで右に田端ふれあい橋(旧田端大橋)。
旧田端大橋は昭和10年に建造されました。
老朽化のため新田端大橋の架橋により撤去される運命にあったが、軍艦建造技術を生かし鋲などを使わない全部電気溶接により建造されており、貴重な遺産価値を認められ平成4年に歩行者専用の田端ふれあい橋として存続しました。 -
歩行者専用です。頭上に新幹線。
溶接技術は造船所が一番で、橋桁、橋脚などは川崎造船所で作り、ここに運んできて溶接しました。当時の橋は長さ250mあり、全溶接橋として日本で最初であるばかりでなく世界にも誇れるものでした。 -
田端ふれあい橋。
黄金の裸婦像が出迎えてくれます。 -
橋の真ん中に時計塔。
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塔の中にカリヨンがあります。希望の鐘と命名されています。
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田端ふれあい橋。
歩行者専用。
ベンチやフラワーボックスが設けられ気持ちのよい空間です。 -
新幹線の車輪です。
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反対側からの田端ふれあい橋。
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反対側からの新田端大橋。両方の橋は途中で階段で行き来できます。写真左の切れ目の所です。
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まず田端アスカタワーの足元にある田端文士村記念館に行きました。
坂は江戸坂。 -
田端文士村記念館。
明治から大正、昭和にかけて田端で活躍した文士・芸術家の功績を通じて「田端文士芸術家村」という歴史を後世に伝えていくことを目的として平成5年開設されました。パンフレットより。 -
午前9時から午後5時まで。月曜日休館。入場無料。
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文士芸術家たちの原稿、書簡、初版本、絵画、彫刻、陶芸などが展示されています。芥川龍之介、室生犀星の映像、音声もビデオで見ることが出来ます。
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入場料無料は好いことなんですが、館内撮影禁止でした。唯一こののらくろだけOK。深川で訪れた芭蕉記念館とか深川江戸資料館は撮影可だったのに。
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写真が無いのでパンフレットを紹介します。
よくできた栞です。 -
田端に住んだことのある文士、芸術家の跡が載っていて、私もほとんどこの跡をたどって歩きました。
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以下パンフレットより。
田端のお寺。このうち輿楽寺、東覚寺、大龍寺に寄りました。大龍寺には正岡子規、板谷波山の墓があります。 -
すべて現存していません。
先の大戦で田端、滝野川界隈は焦土と化しました。 -
田端に住んだことのある文士芸術家がアイウエオ順に紹介されています。
芥川龍之介、池田蕉園、板谷波山(いたやはざん)、岩田専太郎、岡倉天心ほか。
勿論数か月しか住んでいなかった人や、数年、さらには終焉の地になった人もいます。 -
拡大。
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香取秀真(かとりほつま)、川口松太郎、菊池寛、窪川鶴次郎、小杉放庵、小林秀雄ほか。
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拡大。
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佐多稲子、サトウハチロー、田河水泡、瀧井孝作、土屋文明、直木三十五ほか。
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拡大。
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中野重治、萩原朔太郎、林芙美子、平田禿木、平塚雷鳥(らいてう)、福士幸次郎、二葉亭四迷、堀辰雄ほか。
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村上元三、村山槐多、室生犀星、山本鼎、吉田三郎ほか。
一番下の鹿島龍蔵は実業家(鹿島建設の重役)で、文士たちのパトロン的存在でした。 -
拡大。
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田端に住んでいたころの写真です。皆若くだいたい20代から30代でした。
左上の小杉放庵、板谷波山などはよく見る年を取ってからの写真とは全く違います。 -
一番下の田河水泡、貴公子然としています。
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江戸坂。
田端文士村記念館から駅の方。 -
江戸坂。
記念館の周りの坂道です。 -
田端文士村記念館の裏手の角辺り(写真の右角)に露月亭という茶店があり、板谷波山が貧乏時代、生活の足しにと自製の花見用徳利と猪口を飛鳥山焼と称してそこで売り出した。飛鳥山の花見客をあてにしたのですがさっぱり売れずますます生活は苦しくなったそうです。のち波山は大陶芸家になったのですから、買っておけばお宝になっていたかもしれません。惜しいことをしましたね。
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田端アスカタワー、裏側。手前角あたりが露月亭のあったところ。
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江戸坂の先に切り通しを跨ぐ橋があります。
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東台橋です。
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橋の上から田端駅方面。
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同。
橋梁は新幹線のです。橋梁の下、左が新田端大橋、右が田端ふれあい橋。 -
反対方面。
切り通しがはっきりわかります。切り通しは旧田端大橋(今の田端ふれあい橋)の完成に合わせ、昭和10年開通しています。
したがってそれ以前に田端に住んでいた文士たちはこれを知らず、まだ道灌山の上を往来していたのです。 -
奥に見える橋は童橋。
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東台橋の先に続く道は日暮里のほうに至ります。
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東台橋をちょっと後戻りして路地を左に入ると日本画家池田輝方、蕉園夫妻が大正3年に住んだ家がありました。田端5-2-16辺り。
池田輝方:明治16~大正10年。水野年方門下。
池田蕉園:明治19~大正6年。水野年方、川合玉堂に師事、美人画を得意とし、東の榊原蕉園、西の上村松園とならび称された。兄弟子にあたる輝方と結婚。
夫婦とも多くの弟子を抱えたが、蕉園は29歳、輝方は38歳で亡くなった。 -
その先に童橋(わらべばし)公園というのがあります。
平成6年開園。 -
遊具のある小さな公園です。
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子供を遊ばすお母さんが二人。
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この片隅に石が転がっている一画があります。
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作庭を好んだ室生犀星が昭和3年田端を去るに際し隣家の広瀬雄(東京府立3中で英語教師として芥川龍之介、堀辰雄を教え、のち同校長)に譲った庭石と苔です。公園開設に際し広瀬家から北区に寄贈されました。
説明板は傷つけられていて殆ど読めません。 -
苔は栽培が難しくとっくに消えてしまっています。
芥川龍之介はこう言っています。
「室生は陶器の外にも庭を作ることを愛している。石を据えたり、竹を植えたり、叡山苔を這わせたり、池を掘ったり・・・。それも自分の家の庭ではない。家賃を払っている借家の庭に入らざる数奇を凝らしているのである」。 -
石は転がっているのではなくきちんと配石されているのでした。
犀星は田端から馬込に移ってからも軽井沢の別荘でも石灯籠や庭石を配して庭つくりに励んでいます。 -
童橋公園の先に切り通しに架かる橋があります。
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童橋です。
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童橋の上から駅方向。
東台橋と田端アスカタワー。 -
反対側谷田橋方面。
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切り通しに降りる階段。
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この階段の上あたりに平塚雷鳥(らいてう)が”若いツバメ”奥村博史と愛の巣を営んだ住まいがありました。大正7年から10年ころです。田端1-19-12辺り。
平塚雷鳥(らいてう):明治19~昭和46年。社会運動家、評論家。明治44年、婦人雑誌「青鞜」を創刊。新しい女性、女性の自覚向上と地位向上を目指した。森田草平との那須塩原自殺行でスキャンダルを招き、森田は小説「煤煙」にそのいきさつを描いてこれも当時センセーションンを巻き起こす。 -
童橋を渡った先の路地を進むと、
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この辺り、芥川龍之介、香取秀真(かとりほつま、鋳金家、歌人)、堆朱楊成(ついしゅようぜい、漆芸家)の住まいが並んでいた所です。
芥川龍之介:明治25~昭和2年。東大生時代久米正雄、菊池寛らと文芸誌第3次、第4次「新思潮」を刊行、「鼻」が夏目漱石に認められる。「羅生門」、「芋粥」、「杜子春」など短編を次々に発表し一躍文壇の寵児となる。昭和2年7月24日、”将来に対する唯ぼんやりした不安”から睡眠薬を飲み自殺。
辞世の句は主治医下島勲に遺した”水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る”。 -
この建物の植え込みの下に説明板があります。
香取秀真:明治7~昭和29年。千葉県出身。東京美術学校(今の芸大)卒。美校教授、帝室技芸員、帝国美術院会員などを務めた鋳金界の第一人者。文化勲章受章。正岡子規門下の歌人としても一流だった。大正6年芥川龍之介隣に転居。
堆朱楊成:明治13~昭和27年。堆朱彫本家20代目。帝展、文展、日展の審査員。日本芸術院会員。大正11年、芥川龍之介隣に転居。 -
芥川龍之介旧居跡。田端1-20-7。
東京帝国大学英文科の学生だった龍之介は大正3年、養父母芥川道章夫婦とともにこの地に移り住み、昭和2年自死するまで終の棲家となりました。
当時不便なところで。未亡人(文)によると買物は谷田橋を越えて動坂の方まで行ったそうです。文夫人と芥川の夫婦生活については文夫人の「追想芥川龍之介」に詳しく書かれています。芥川は子煩悩で良き家庭人のような先入観がありますが、必ずしもそうではありませんでした。芥川は同居していた伯母に頭が上がらず、家事は伯母が取り仕切り、文夫人はかなりつらい思いをしたそうです。少なくとも3人の女性に浮気と言うか心を寄せ、うち一人とは心中寸前までいきました。 -
田端文士村記念館で求めた絵葉書です。
芥川龍之介の住まいの復元。
左の木に龍之介が登っており、縁側で愛児が見上げています。芥川龍之介の生前に撮られたフイルムにある場面です。2階の部屋が書斎澄江堂(ちょうこうどう)。
養父道章の一中節の稽古仲間宮崎直次郎(天然自笑軒主人、あとで訪ねます)の斡旋で手にしたもので、土地は193坪もあったという。
昭和20年4月13日の空襲で焼失、奇しくもその日は次男多加志がビルマで戦死した日でした。 -
書斎、当初「我鬼窟(がきくつ)」のち「澄江堂(ちょうこうどう)」と名付けた。
夏目漱石に心服していた龍之介、書斎まで漱石山房のそれに似ています。さらに面会日も漱石が木曜日としていたのに倣い毎週日曜日と決めました。
玄関に「忙中謝客、おやじにあらずせがれなり」と書いた張り紙をしました。当時龍之介は養父母と同居しており、訪問客が間違えないように、という配慮です。
龍之介は号を澄江堂主人としています。 -
芥川龍之介の詩「東京田端」。文士村で往来していた人の家の様子を詠っています。
庭木に烏瓜(からすうり)の下つたのは鋳物師(いもじ)香取秀真の家。
竹の葉の垣に垂れたのは、画家小杉未醒の家。
門内に広い芝生のあるのは、長者鹿島龍蔵の家。
踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星の家。 -
芥川龍之介以前には田端には芸術家はいても文士はほとんどいなく、文士が移って来たのはそれ以降です。聡明で才気煥発、人当たりよく面倒見の良い芥川龍之介を慕って多くの文士の卵が集まってきました。
当時の田畑に住んでいた文士、芸術家については、芥川の随筆「田畑人ーわが交遊録」にいろいろ描かれています。 -
隣りには香取秀真が大正6年に移ってきて、二人は親交を結んだ。齢が18も上の秀真を龍之介は "「お隣の先生」なり。先生の鋳金家にして、根岸派の歌よみたることは断る必要もあらざるべし。・・・。時には叔父を一人持ちたる気になり・・・。”と書いています。 交友ではなく師友と言っています。
芥川に香取秀真の家を詠った ”庭木に烏瓜(からすうり)の下がったのは鋳金師香取秀真の家”とか、”雨の音の竹の落ち葉にやむ時は鋳物師秀真が槌の音きこゆ”という歌があります。
芥川が自殺した時、秀真がその死を悼んで詠んだ歌。
”死ぬるすべ知りける人は思ふままに眠りてさめずなりにけるかも” -
さらに奥へと歩きます。
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左不動坂、右輿楽寺(よらくじ)坂の十字路です。
奥に延びるのは輿楽寺坂。 -
不動坂に曲がる右角辺りに挿絵画家岩田専太郎が昭和6年から20年、空襲で焼けるまで住んでいました。田端1-23-12辺り。
岩田専太郎:明治34~昭和49年。浅草生まれ。吉川英治「鳴門秘帖」、大仏次郎「赤穂浪士」など新聞小説の挿絵、美人画、映画の時代考証、美術考証を手掛ける。 -
不動坂。田端駅南口にでる急な階段です。いまは北口がメインですが昔は南口が主改札でした。
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かって田端駅南口付近に不動明王立像があったのでこの名がつきました。
芥川龍之介はいつもこの坂(当時石段は無かった)を上り下りした。友人恒藤恭への手紙で「ただ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂があることだ。・・・。だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ そこで雨のふるときは一寸学校がやすみたくなる」。 -
今度は輿楽寺坂を下りました。
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坂を下りきった所に輿楽寺(与楽寺、よらくじ)があります。
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真言宗豊山派の寺。
開山時期は不明だが弘法大師と言われ、本尊は弘法大師作といわれる地蔵菩薩。 -
木の香も匂うような新しそうな山門です。
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賊除地藏(ぞくよけじぞう)の伝承があります。
或るとき泥棒が寺に押し入った。どこからともなく多数の僧侶が現れ賊を追い払った。翌日寺の坊主が不思議がると本尊の地蔵菩薩の足に泥がついていた。そこで地蔵菩薩が僧に扮して盗賊を追い出したのだろうという事になり、菩薩への信仰がますます強まった、ということです。 -
境内。
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阿弥陀堂には行基作と謂われる阿弥陀如来像が在り、江戸の六阿弥陀詣での第四番札所だった。
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本堂。
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本堂。
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綺麗な境内です。
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鐘楼。
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赤い表示の現在位置が輿楽寺です。
近くに野上弥生子、豊一郎の住まいがあったそうですが、分かりませんでした。 -
輿楽寺の向かいの路地を曲がり曲がり行くと天然自笑軒のあった所に出ました。
田端1-17-3。浅賀という表札が架かっていました。
天然自笑軒(てんねんじしょうけん):株の仲買人宮崎直次郎が隠居道楽に明治44年開業した高級料亭。宮崎は茶、花、料理、一中節をたしなむ風流人だった。料亭の料理には一流の料理人、最高の素材、凝った器をもちいた。若槻礼次郎、渋沢栄一など政財界人も利用したという。 -
天然自笑軒跡。
宮崎は芥川龍之介の養父芥川道章と一中節の仲間で、隅田川の出水に悩まされ移転先を探していた芥川一家が田端に移り住んだのは宮崎の斡旋に拠るものだった。芥川龍之介の結婚披露宴はここで行われ、田端文士芸術家の集まり「道閑会」の集まりもしばしばここで開かれた。 -
昭和20年の空襲で焼失。
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天然自笑軒前の道。
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天然自笑軒の斜め前、この辺りが芥川龍之介の主治医だった下島勲(いさおし)の楽天堂医院跡です。田端1-15-17。
芥川龍之介が自殺した際家人が真っ先に駆けつけ、龍之介の死を診断したのも下島勲でした。田端在住の文士芸術家たちにも信頼されていました。
芥川は「下島先生はお医者なり。僕の一家は常に先生の御厄介になる。・・・。僕とは親子ほど違う年なれども、トルストイでも何でも読み、論戦に勇なるは敬服すべし。」と書いている。
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下島勲は絵画、書、俳句、古美術にも造詣深い文人医者で、芥川龍之介の書斎「澄江堂」に架かっていた扁額”澄江堂”の字は下島勲のものです。
中野重治、堀辰雄らの同人誌「驢馬」に書かれた表紙の”驢馬”の字も下島勲が書いています。
下島が芥川の霊に手向けた俳句。
”枕辺のバイブルかなし梅雨くもり” -
天然自笑軒からちょっと南に行った所に詩人野口雨情が住みこんだことのある「金の船社」跡があります。田端1-16-23。
大正8年、鈴木三重吉の「赤い鳥」に触発されて斎藤佐次郎が発刊した童謡誌「金の船(のち金の星)」社がここにあった。編集長野口雨情、執筆陣には若山牧水、志賀直哉、沖野岩三郎、山本鼎など。雨情の十五夜お月さん、七つの子、青い目の人形はこの雑誌に発表されている。
童謡誌「金の星」は昭和4年に終刊となりましたが、金の星社は今も台東区にあり、児童書を刊行しているようです。 -
切り通しの先に出てきました。田端アスカタワーがだいぶ遠くなりました。
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反対、谷田橋方面。
昼になったのでこの付近の蕎麦屋でもり蕎麦を食べました。700円。 -
切り通しから上る東覚寺坂。
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切り通しを渡ると田端八幡神社があります。
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田端八幡神社。
一の鳥居。 -
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏平定の帰路ここに立ち寄り、鎌倉の鶴岡八幡を勧請したもの。
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石段。
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同、拝殿を見上げます。
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石段の上から。
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拝殿。
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江戸時代の田端村の総鎮守でした。
別当寺は隣の東覚寺。 -
参道には神輿庫が並んでいます。10蔵ほどもあり、祭りの時一斉に繰り出せば賑やかなものでしょう。
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参道の中ほど一の鳥居の手前に石橋が埋められています。昭和の初期に暗渠になった近くの谷田川に架かっていた橋を記念に埋め込んで保存したものです。
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谷田川に架かっていた橋。
写真が100枚を越えたのでここまででその1とします。
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