田端旅行記(ブログ) 一覧に戻る
その1の続きです。<br />田端文士村で特徴的なのは金沢出身者ないし縁故者が多いことです。<br /><br />陶芸家板谷波山は金沢出身でははありませんが金沢の石川工業学校で教鞭をとったことがあり吉田三郎が学びました。その板谷波山を慕って吉田三郎が上京田端に住み、吉田三郎を頼って室生犀星が上京、田端に住み、室生犀星のもとに中野重治、窪川鶴次郎が集まった。府立3中で芥川龍之介、堀辰雄を教えた広瀬雄も金沢生まれです。文士に限らず、地方に生まれ立身を志す者は郷土の先輩を頼って都会に出るという事が多かったのです。<br />漱石の「三四郎」で、熊本の高等学校を出た三四郎が東大に入るべく上京した時、最初に訪れたのも郷里の先輩で理科大学にいる野々宮さんでした。<br /><br />もう一つ、文士たちは田端内で度々転居していますが、前に文士が住んでいたあとに移るケース多いようです。多分明治、大正時代には不動産仲介業なんてものは少なかったのでしょう。借家難の時代住まいを探すのに一番確実な方法でした。<br /><br />写真は東覚寺、赤紙仁王。

東京文学・歴史散歩24。田端文士村を歩く、その2:赤紙不動東覚寺から大龍寺に子規の墓を訪ね田端駅まで。

67いいね!

2018/12/18 - 2018/12/18

9位(同エリア127件中)

0

112

ベーム

ベームさん

その1の続きです。
田端文士村で特徴的なのは金沢出身者ないし縁故者が多いことです。

陶芸家板谷波山は金沢出身でははありませんが金沢の石川工業学校で教鞭をとったことがあり吉田三郎が学びました。その板谷波山を慕って吉田三郎が上京田端に住み、吉田三郎を頼って室生犀星が上京、田端に住み、室生犀星のもとに中野重治、窪川鶴次郎が集まった。府立3中で芥川龍之介、堀辰雄を教えた広瀬雄も金沢生まれです。文士に限らず、地方に生まれ立身を志す者は郷土の先輩を頼って都会に出るという事が多かったのです。
漱石の「三四郎」で、熊本の高等学校を出た三四郎が東大に入るべく上京した時、最初に訪れたのも郷里の先輩で理科大学にいる野々宮さんでした。

もう一つ、文士たちは田端内で度々転居していますが、前に文士が住んでいたあとに移るケース多いようです。多分明治、大正時代には不動産仲介業なんてものは少なかったのでしょう。借家難の時代住まいを探すのに一番確実な方法でした。

写真は東覚寺、赤紙仁王。

PR

  • 今日の全体図。<br />スタート、ゴールとも田端駅です。時計回りに歩きました。

    今日の全体図。
    スタート、ゴールとも田端駅です。時計回りに歩きました。

  • その2の部分。<br />中央左の東覚寺からぐるっと右回りに田端駅まで。

    その2の部分。
    中央左の東覚寺からぐるっと右回りに田端駅まで。

  • 田端八幡神社の隣にあるのが東覚寺です。<br />田端八幡神社の別当寺でもありました。<br />別当寺:神仏混淆時代、神社を管理するために建てられた寺。

    田端八幡神社の隣にあるのが東覚寺です。
    田端八幡神社の別当寺でもありました。
    別当寺:神仏混淆時代、神社を管理するために建てられた寺。

  • 東覚寺(とうがくじ)。

    東覚寺(とうがくじ)。

  • 山門に入る前に目につくのが異様な二対の像です。

    山門に入る前に目につくのが異様な二対の像です。

  • 金剛力士像、通称赤紙仁王尊です。

    金剛力士像、通称赤紙仁王尊です。

  • 赤紙仁王と不動堂。<br />自分の体の悪い所と同じ個所に赤紙を貼ると病が治ると言い伝えられています。<br />文士村の作家の作にもちょくちょく登場するので結構信仰されていたものと見えます。

    赤紙仁王と不動堂。
    自分の体の悪い所と同じ個所に赤紙を貼ると病が治ると言い伝えられています。
    文士村の作家の作にもちょくちょく登場するので結構信仰されていたものと見えます。

  • それで仁王様の身体じゅう赤い紙がべったり。<br />阿吽(あうん)の像があり、右が阿像。

    それで仁王様の身体じゅう赤い紙がべったり。
    阿吽(あうん)の像があり、右が阿像。

  • 左が吽像。<br />赤紙なら何でもよいのではなくて東覚寺が頒布したものでないといけません。適当に色紙を持ってきて貼ってもご利益はありません。

    左が吽像。
    赤紙なら何でもよいのではなくて東覚寺が頒布したものでないといけません。適当に色紙を持ってきて貼ってもご利益はありません。

  • 横から。<br />紙の張具合から見るに、体の背中側よりお腹側の方に病が多そうです。<br />触ったり撫でたりするのはよくありますが、赤い紙を貼るのはここだけでは?

    横から。
    紙の張具合から見るに、体の背中側よりお腹側の方に病が多そうです。
    触ったり撫でたりするのはよくありますが、赤い紙を貼るのはここだけでは?

  • 説明では、像に寛永18年(1641年)と彫られてあり、江戸初期のもののようです。<br />赤は悪魔を焼除する火の色だそうで、これを自分の患部と同じ個所に貼ると身代りになってくれます。

    説明では、像に寛永18年(1641年)と彫られてあり、江戸初期のもののようです。
    赤は悪魔を焼除する火の色だそうで、これを自分の患部と同じ個所に貼ると身代りになってくれます。

  • 2体の像は江戸時代には隣の田端八幡神社の一の鳥居の前に置かれていましたが、明治の神仏分離令でこの場所に移されました。

    2体の像は江戸時代には隣の田端八幡神社の一の鳥居の前に置かれていましたが、明治の神仏分離令でこの場所に移されました。

  • 病が治るとお礼に草鞋を奉納します。<br />本当か嘘かは知りませんが、ある時酔っぱらった小杉放庵が友人と二人でこの像をひっくり返した。あとで数人もの職人が苦労して像を元に戻したと聞いて放庵は、どうしてあんな重いものを二人でひっくり返せたのだろう、と首をかしげたという。

    病が治るとお礼に草鞋を奉納します。
    本当か嘘かは知りませんが、ある時酔っぱらった小杉放庵が友人と二人でこの像をひっくり返した。あとで数人もの職人が苦労して像を元に戻したと聞いて放庵は、どうしてあんな重いものを二人でひっくり返せたのだろう、と首をかしげたという。

  • 横にある石仏。

    横にある石仏。

  • こちらが山門です。

    こちらが山門です。

  • 山門。<br />真言宗豊山派の寺。

    山門。
    真言宗豊山派の寺。

  • 本堂。<br />1491年の創建。本尊は不動明王。

    本堂。
    1491年の創建。本尊は不動明王。

  • 本堂。

    本堂。

  • 弘法大師像。<br />東覚寺は真言宗の寺です。

    弘法大師像。
    東覚寺は真言宗の寺です。

  • 境内に水子地蔵菩薩。

    境内に水子地蔵菩薩。

  • 東覚寺。<br />左に山門、真ん中に不動堂と赤紙仁王、右に田端八幡神社の参道。

    東覚寺。
    左に山門、真ん中に不動堂と赤紙仁王、右に田端八幡神社の参道。

  • 同。<br />

    同。

  • 東覚寺前の通り。<br />真っすぐ行くと板谷波山旧居跡に出ます。

    東覚寺前の通り。
    真っすぐ行くと板谷波山旧居跡に出ます。

  • 切り通しから延びた通りと谷田川通りが交差する谷田橋交差点。<br />真っすぐ進むと不忍通りの動坂下に出ます。

    切り通しから延びた通りと谷田川通りが交差する谷田橋交差点。
    真っすぐ進むと不忍通りの動坂下に出ます。

  • 振り返ると田端駅前の田端アスカタワーが見えます。

    振り返ると田端駅前の田端アスカタワーが見えます。

  • 谷田橋交差点。

    谷田橋交差点。

  • 交差点を右に曲がると谷田川通りです。<br />昭和初め谷田川が暗渠になり、上に造られた通りです。左に曲がると谷中に通じ、よみせ通り、へび道となります。ここが川だったなんて想像もつきません。

    交差点を右に曲がると谷田川通りです。
    昭和初め谷田川が暗渠になり、上に造られた通りです。左に曲がると谷中に通じ、よみせ通り、へび道となります。ここが川だったなんて想像もつきません。

  • 谷田川通りに入るとすぐ右に水神稲荷があります。

    谷田川通りに入るとすぐ右に水神稲荷があります。

  • 水神(みずがみ)稲荷。

    水神(みずがみ)稲荷。

  • そのすぐ先、この辺りに詩人萩原朔太郎が大正14年に住んでいました。田端2-4-5辺り。<br />萩原朔太郎:明治19~昭和17年。前橋生まれ。室生犀星と親交を持ち大正5年二人で詩誌「感情」を刊行、翌年第一詩集「月に吠える」で詩壇に華々しくデビューする。その後目立った詩作は無く、室生犀星の招きで田端に住んだ時は貧窮のどん底でした。夫人が慣れぬ東京住まいに健康を害し田端には8か月ほど住んだだけで鎌倉に転居します。<br />娘萩原葉子の「父・萩原朔太郎」には萩原朔太郎と室生犀星、芥川龍之介の交流が赤裸々に書かれています。朔太郎の手品とマンドリン演奏はプロ並みだったそうです。

    そのすぐ先、この辺りに詩人萩原朔太郎が大正14年に住んでいました。田端2-4-5辺り。
    萩原朔太郎:明治19~昭和17年。前橋生まれ。室生犀星と親交を持ち大正5年二人で詩誌「感情」を刊行、翌年第一詩集「月に吠える」で詩壇に華々しくデビューする。その後目立った詩作は無く、室生犀星の招きで田端に住んだ時は貧窮のどん底でした。夫人が慣れぬ東京住まいに健康を害し田端には8か月ほど住んだだけで鎌倉に転居します。
    娘萩原葉子の「父・萩原朔太郎」には萩原朔太郎と室生犀星、芥川龍之介の交流が赤裸々に書かれています。朔太郎の手品とマンドリン演奏はプロ並みだったそうです。

  • 奥に見える田端区民センターの手前です。<br />大正2年北原白秋の詩誌「朱欒(ざんぼあ)」に載った室生犀星の詩に感激し熱烈な手紙を送った朔太郎ですが、のち前橋に初めて朔太郎を訪ねた犀星を見て朔太郎は、”あの詩から犀星は青白い美少年と想像していたが、背が低く肩もいかつく、ステッキをついた貧乏くさい痩犬の様だった”、と初対面の印象を語っています。一方犀星は、”前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及びタバコを口に咥えていた。なんて気障(きざ)な虫酸の走る男だろう”と語っています。そんな互いの第一印象ですが犀星と朔太郎の交遊は朔太郎の死まで続きました。

    奥に見える田端区民センターの手前です。
    大正2年北原白秋の詩誌「朱欒(ざんぼあ)」に載った室生犀星の詩に感激し熱烈な手紙を送った朔太郎ですが、のち前橋に初めて朔太郎を訪ねた犀星を見て朔太郎は、”あの詩から犀星は青白い美少年と想像していたが、背が低く肩もいかつく、ステッキをついた貧乏くさい痩犬の様だった”、と初対面の印象を語っています。一方犀星は、”前橋の停車場に迎えに出た萩原はトルコ帽をかむり、半コートを着用に及びタバコを口に咥えていた。なんて気障(きざ)な虫酸の走る男だろう”と語っています。そんな互いの第一印象ですが犀星と朔太郎の交遊は朔太郎の死まで続きました。

  • この辺りです。<br />萩原朔太郎の詩が活字になったのもやはり「朱欒」でした。犀星も朔太郎も自分は北原白秋の弟子だと自認しています。白秋が二人を弟子だと呼んだわけではありませんが、犀星は言っています。”萩原朔太郎と私はなんといっても白秋の弟子だ。白秋のたくさんの詩のちすじがからだに入って、それが萩原と私にあとをひいている。これほど明確な師弟関係はない”。<br />

    この辺りです。
    萩原朔太郎の詩が活字になったのもやはり「朱欒」でした。犀星も朔太郎も自分は北原白秋の弟子だと自認しています。白秋が二人を弟子だと呼んだわけではありませんが、犀星は言っています。”萩原朔太郎と私はなんといっても白秋の弟子だ。白秋のたくさんの詩のちすじがからだに入って、それが萩原と私にあとをひいている。これほど明確な師弟関係はない”。

  • 田端区民センター。田端3-16-2。<br />萩原朔太郎と芥川龍之介の出会いはこの住まいでした。大正14年のある日突然長髪で痩せた男が訪ねて来て、「芥川です。始めまして」と丁寧なお辞儀をした。芥川のお辞儀は有名だった。上半身折るようにし、手をきちんと揃えて深々と礼をするのである。<br />朔太郎が頭をあげても依然として芥川の頭は畳についている。朔太郎はあわててお辞儀の継ぎ足しをしなければならなかった。<br />朔太郎39、犀星36、龍之介33歳の頃でした。

    田端区民センター。田端3-16-2。
    萩原朔太郎と芥川龍之介の出会いはこの住まいでした。大正14年のある日突然長髪で痩せた男が訪ねて来て、「芥川です。始めまして」と丁寧なお辞儀をした。芥川のお辞儀は有名だった。上半身折るようにし、手をきちんと揃えて深々と礼をするのである。
    朔太郎が頭をあげても依然として芥川の頭は畳についている。朔太郎はあわててお辞儀の継ぎ足しをしなければならなかった。
    朔太郎39、犀星36、龍之介33歳の頃でした。

  • 区民センターの壁際に谷田川通りの説明がありました。こんな事が書かれています。<br />谷田川通りは昭和の初め谷田川が暗渠になった上に造られた通りです。谷田川は根津、谷中の方に流れ藍染川と呼ばれ不忍池に注いでいます。<br />この川沿いに、詩人萩原朔太郎、画家小杉放庵、評論家小林秀雄、詩人室生犀星、文学者平田禿木、美術史家岡倉天心などが住んでいました。

    区民センターの壁際に谷田川通りの説明がありました。こんな事が書かれています。
    谷田川通りは昭和の初め谷田川が暗渠になった上に造られた通りです。谷田川は根津、谷中の方に流れ藍染川と呼ばれ不忍池に注いでいます。
    この川沿いに、詩人萩原朔太郎、画家小杉放庵、評論家小林秀雄、詩人室生犀星、文学者平田禿木、美術史家岡倉天心などが住んでいました。

  • 住居跡を示す地図も有ります。<br />地図青い○、田端区民センターの所に小杉放庵(明治40)、村山槐多。その裏に田河水泡(昭和3)、小林秀雄(昭和4)。左隣に彫刻家吉田白嶺(明治43)。路地を隔てて竹久夢二(大正10、モデルお葉の実家)。

    住居跡を示す地図も有ります。
    地図青い○、田端区民センターの所に小杉放庵(明治40)、村山槐多。その裏に田河水泡(昭和3)、小林秀雄(昭和4)。左隣に彫刻家吉田白嶺(明治43)。路地を隔てて竹久夢二(大正10、モデルお葉の実家)。

  • 小杉未醒のち小杉放庵:明治14~昭和39年。画家、歌人。日光出身。明治33年田端に移り、この場所には明治40年から。田端に芸術家が集まって来た草分けです。明治35年太平洋画会会員、文展でたびたび入賞。ヨーロッパ留学後大正3年岡倉天心の再興日本美術院で洋画部を主宰する。ポプラ倶楽部を創設しテニスなどを通じ芸術家仲間の親睦を図った。<br />文士たちとも交流深く、芥川龍之介は放庵の風貌に似合わない人となりに傾倒している。国木田独歩に愛され、独歩の「近時画報社」の記者になり日露戦争に従軍記者として派遣されている。<br /><br />村山槐多:明治29~大正8年。洋画家。山本鼎の従弟。大正3年、小杉放庵宅に寄宿し洋画を学ぶ。失恋や創作の苦悩から頽廃と放浪の生活を送り、結核に冒され若くして亡くなる。

    小杉未醒のち小杉放庵:明治14~昭和39年。画家、歌人。日光出身。明治33年田端に移り、この場所には明治40年から。田端に芸術家が集まって来た草分けです。明治35年太平洋画会会員、文展でたびたび入賞。ヨーロッパ留学後大正3年岡倉天心の再興日本美術院で洋画部を主宰する。ポプラ倶楽部を創設しテニスなどを通じ芸術家仲間の親睦を図った。
    文士たちとも交流深く、芥川龍之介は放庵の風貌に似合わない人となりに傾倒している。国木田独歩に愛され、独歩の「近時画報社」の記者になり日露戦争に従軍記者として派遣されている。

    村山槐多:明治29~大正8年。洋画家。山本鼎の従弟。大正3年、小杉放庵宅に寄宿し洋画を学ぶ。失恋や創作の苦悩から頽廃と放浪の生活を送り、結核に冒され若くして亡くなる。

  • 田河水泡:明治32~平成元年。漫画家。東京美術学校卒。講談社の雑誌に漫画を執筆、「のらくろ」で一躍人気漫画家になる。妻は小林秀雄の妹で作家の高見沢潤子。弟子に長谷川町子。<br /><br />小林秀雄:明治35~昭和58年。東大卒、評論家。硬派の文芸評論で近代文学評論を確立。文化勲章受章。昭和4年妹婿の田河水泡宅に住む。<br /><br />吉田白嶺:明治4~昭和17年。木彫り家。独学で木彫りを修め日本彫刻会に参加。日本美術院同人。

    田河水泡:明治32~平成元年。漫画家。東京美術学校卒。講談社の雑誌に漫画を執筆、「のらくろ」で一躍人気漫画家になる。妻は小林秀雄の妹で作家の高見沢潤子。弟子に長谷川町子。

    小林秀雄:明治35~昭和58年。東大卒、評論家。硬派の文芸評論で近代文学評論を確立。文化勲章受章。昭和4年妹婿の田河水泡宅に住む。

    吉田白嶺:明治4~昭和17年。木彫り家。独学で木彫りを修め日本彫刻会に参加。日本美術院同人。

  • 区民センターから南に路地を入った所、不忍通りに出る手前にに大正15年佐多稲子(本名田島いね子)の住んだところがあります。田端3-47-2辺り。<br /><br />佐多稲子:明治37~平成10年。作家。長崎出身。出生の経緯から数奇な幼女期を送る。資産家の嫉妬深い息子との結婚に疲れ自殺未遂を起こすなどしたのち離婚。大正15年22歳の時田端に移り住み、近くのカフェー紅緑で子育てをしながら女給をしていた。その時カフェー紅緑の常連だったのが文芸同人誌「驢馬」の同人窪川鶴次郎、中野重治、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄らだった。のち窪川鶴次郎と結婚、共にプロレタリア活動の道を歩む。<br />作に「キャラメル工場から」、「年譜の行間」、「夏の栞・中野重治をおくる」など。<br />

    区民センターから南に路地を入った所、不忍通りに出る手前にに大正15年佐多稲子(本名田島いね子)の住んだところがあります。田端3-47-2辺り。

    佐多稲子:明治37~平成10年。作家。長崎出身。出生の経緯から数奇な幼女期を送る。資産家の嫉妬深い息子との結婚に疲れ自殺未遂を起こすなどしたのち離婚。大正15年22歳の時田端に移り住み、近くのカフェー紅緑で子育てをしながら女給をしていた。その時カフェー紅緑の常連だったのが文芸同人誌「驢馬」の同人窪川鶴次郎、中野重治、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄らだった。のち窪川鶴次郎と結婚、共にプロレタリア活動の道を歩む。
    作に「キャラメル工場から」、「年譜の行間」、「夏の栞・中野重治をおくる」など。

  • 不忍通りの駒込稲荷坂下。<br /><br />不忍通りを渡ったこの辺りに佐多稲子が女給として働いていたカフェー紅緑がありました。ここで「驢馬」の創刊号を見せてもらった時のことを佐多稲子は振り返っています。大正15年4月、紅緑に勤め出して間もないころです。<br />要約すると:この連中は(窪川鶴次郎、堀辰雄ら驢馬の同人たち)いつも田端の方からやってきた。田端に落ち合う場所があってそのあとこの店にお茶または酒を飲みにやってきた。

    不忍通りの駒込稲荷坂下。

    不忍通りを渡ったこの辺りに佐多稲子が女給として働いていたカフェー紅緑がありました。ここで「驢馬」の創刊号を見せてもらった時のことを佐多稲子は振り返っています。大正15年4月、紅緑に勤め出して間もないころです。
    要約すると:この連中は(窪川鶴次郎、堀辰雄ら驢馬の同人たち)いつも田端の方からやってきた。田端に落ち合う場所があってそのあとこの店にお茶または酒を飲みにやってきた。

  • 文京区勤労福祉会館。<br /><br />ある昼の事、「おい、こんな僕たちの雑誌が出来たんだよ」、その連中の一人が私に1冊の雑誌を示した。表紙いっぱいに変った書体で驢馬と書かれていた。目次には同人の名前と並んで、芥川龍之介、室生犀星、佐藤春夫といった名前も並んでいた。その人たちも田端に住んでいた。「立派な雑誌ですのね」、と私は言って雑誌を返した。<br /><br />佐多稲子は地味な服装ながらきりっとした容姿で際立っており、紅緑の客全員がフアンだった。大正9年、16歳のとき上野青凌亭で座敷女中をしていたころ、客に芥川龍之介、久米正雄、菊池寛らがいて、佐多稲子が芥川の本を読んでいるという事が分かり、芥川からひいきにされたという。

    文京区勤労福祉会館。

    ある昼の事、「おい、こんな僕たちの雑誌が出来たんだよ」、その連中の一人が私に1冊の雑誌を示した。表紙いっぱいに変った書体で驢馬と書かれていた。目次には同人の名前と並んで、芥川龍之介、室生犀星、佐藤春夫といった名前も並んでいた。その人たちも田端に住んでいた。「立派な雑誌ですのね」、と私は言って雑誌を返した。

    佐多稲子は地味な服装ながらきりっとした容姿で際立っており、紅緑の客全員がフアンだった。大正9年、16歳のとき上野青凌亭で座敷女中をしていたころ、客に芥川龍之介、久米正雄、菊池寛らがいて、佐多稲子が芥川の本を読んでいるという事が分かり、芥川からひいきにされたという。

  • 驢馬創刊号。<br />佐多稲子が”変わった書体”と言った下島勲の字。<br />

    驢馬創刊号。
    佐多稲子が”変わった書体”と言った下島勲の字。

  • 佐多稲子の住んでいた辺りの路地。<br /><br />表紙の「驢馬」の字を描いたのは医師の下島勲。中身は驢馬同人の評論や詩のほか、俳句に芥川龍之介、下島勲、久保田万太郎、萩原朔太郎、小穴隆一、室生犀星、佐藤惣之助、百田宗治などまさに田端文化人オールキャストです。その日同人たちは創刊号発刊のうれしさに酔ってカフェー紅緑を訪れたのでした。<br />驢馬の同人たちはその後、堀辰雄を除きプロレタリア運動に深まっていき、政府の思想弾圧により検挙投獄を繰り返します。佐多稲子も投獄されています。

    佐多稲子の住んでいた辺りの路地。

    表紙の「驢馬」の字を描いたのは医師の下島勲。中身は驢馬同人の評論や詩のほか、俳句に芥川龍之介、下島勲、久保田万太郎、萩原朔太郎、小穴隆一、室生犀星、佐藤惣之助、百田宗治などまさに田端文化人オールキャストです。その日同人たちは創刊号発刊のうれしさに酔ってカフェー紅緑を訪れたのでした。
    驢馬の同人たちはその後、堀辰雄を除きプロレタリア運動に深まっていき、政府の思想弾圧により検挙投獄を繰り返します。佐多稲子も投獄されています。

  • 谷田川通りに戻った角辺り、区民センターの先に室生犀星が初めて田端で住まいした所です。田端3-4-14。室生犀星は田端で住まいを転々とし、その数6回にも及んでいます。<br /><br />室生犀星:明治22~昭和37年。詩人、作家。金沢出身。生まれてすぐ寺に養子に出されるなど不遇の少年期を過ごす。高等小学校を3年で中退、独学で詩作に励む。<br />北原白秋の詩誌「朱欒(ざんぼあ)」に投稿した詩が認められる。大正5年田端に住み芥川龍之介、萩原朔太郎らと交流。大正5年萩原朔太郎と詩誌「感情」を発刊。大正7年処女詩集「愛の詩集」出版、詩壇に地位を築く。その後作家としての道を歩む。芥川龍之介とともに田端文士村の中心だった。<br />金沢出の自然児犀星と江戸ッ子で洗練された龍之介の出会いは大正6年12月でした。そして互いを意識し、皮肉を飛ばし、互いに威圧をうけあって交わった。<br />詩集に「愛の詩集」、「抒情小曲集」。小説に「幼年時代」、「性に目覚めるころ」、「或る少女の死まで」、「あにいもうと」、「杏っ子」など。「我が愛する詩人の伝記」には萩原朔太郎との交流が詳しく描かれている。<br />有名な”ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・”は「抒情小曲集」にあります。

    谷田川通りに戻った角辺り、区民センターの先に室生犀星が初めて田端で住まいした所です。田端3-4-14。室生犀星は田端で住まいを転々とし、その数6回にも及んでいます。

    室生犀星:明治22~昭和37年。詩人、作家。金沢出身。生まれてすぐ寺に養子に出されるなど不遇の少年期を過ごす。高等小学校を3年で中退、独学で詩作に励む。
    北原白秋の詩誌「朱欒(ざんぼあ)」に投稿した詩が認められる。大正5年田端に住み芥川龍之介、萩原朔太郎らと交流。大正5年萩原朔太郎と詩誌「感情」を発刊。大正7年処女詩集「愛の詩集」出版、詩壇に地位を築く。その後作家としての道を歩む。芥川龍之介とともに田端文士村の中心だった。
    金沢出の自然児犀星と江戸ッ子で洗練された龍之介の出会いは大正6年12月でした。そして互いを意識し、皮肉を飛ばし、互いに威圧をうけあって交わった。
    詩集に「愛の詩集」、「抒情小曲集」。小説に「幼年時代」、「性に目覚めるころ」、「或る少女の死まで」、「あにいもうと」、「杏っ子」など。「我が愛する詩人の伝記」には萩原朔太郎との交流が詳しく描かれている。
    有名な”ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの・・・”は「抒情小曲集」にあります。

  • 谷田川通りに面して田端不動尊があります。<br /><br />室生犀星が明治43年、21歳の時初めて金沢から東京に出た時頼ったのが同郷の彫刻家吉田三郎です。新橋駅頭に出迎えたのも吉田三郎でした。吉田三郎が田端にいなければ犀星が田端に住むことはなかったであろうし、これほどの文士が集まることも無かったでしょう。<br />その吉田三郎が田端に住んだのは板谷波山がいたからです。人は人を求めて移り住むものですね。

    谷田川通りに面して田端不動尊があります。

    室生犀星が明治43年、21歳の時初めて金沢から東京に出た時頼ったのが同郷の彫刻家吉田三郎です。新橋駅頭に出迎えたのも吉田三郎でした。吉田三郎が田端にいなければ犀星が田端に住むことはなかったであろうし、これほどの文士が集まることも無かったでしょう。
    その吉田三郎が田端に住んだのは板谷波山がいたからです。人は人を求めて移り住むものですね。

  • 田端不動尊。田端駅南口にあったのが、駅の拡張でここに移りました。<br /><br />犀星は金が無くなると吉田を訪ね、電車賃を貸してくれ、と頼んだ。電車賃は名目でその金は飲食に消えた。いつも金を持っていた訳ではない吉田はその金を下宿の婆さんに借りたりして犀星の要望に応えた。まさに犀星の初期の田端での活動は吉田三郎との交友なくしては存在しなかったといえます。

    田端不動尊。田端駅南口にあったのが、駅の拡張でここに移りました。

    犀星は金が無くなると吉田を訪ね、電車賃を貸してくれ、と頼んだ。電車賃は名目でその金は飲食に消えた。いつも金を持っていた訳ではない吉田はその金を下宿の婆さんに借りたりして犀星の要望に応えた。まさに犀星の初期の田端での活動は吉田三郎との交友なくしては存在しなかったといえます。

  • レンガ色に敷き詰められた綺麗な坂道があります。<br /><br />芥川は犀星のことを,”僕(芥川の事)を僕とも思わずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかえなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらんか。”と書いています。<br />都会人の芥川はそういった単刀直入な物言いには慣れていなかったでしょう。<br />

    レンガ色に敷き詰められた綺麗な坂道があります。

    芥川は犀星のことを,”僕(芥川の事)を僕とも思わずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股をはきかえなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外にはあらざらんか。”と書いています。
    都会人の芥川はそういった単刀直入な物言いには慣れていなかったでしょう。

  • 坂の上にポプラ倶楽部と言うのがあったのでポプラ坂といいます。

    坂の上にポプラ倶楽部と言うのがあったのでポプラ坂といいます。

  • 坂にかかる角辺り、詩人、評論家窪川鶴次郎と宮木喜久雄が下宿していました。大正13年。田端3-18-13。<br />窪川鶴次郎:明治36~昭和49年。静岡出身。金沢の第四高等学校に在学中中野重治と知り合う。大正13年田端に住み中野らと文芸誌「驢馬」を発行。佐多稲子と結婚。プロレタリア活動で獄中生活も味わう。のち田村俊子との不倫が発覚し佐多稲子と離婚。

    坂にかかる角辺り、詩人、評論家窪川鶴次郎と宮木喜久雄が下宿していました。大正13年。田端3-18-13。
    窪川鶴次郎:明治36~昭和49年。静岡出身。金沢の第四高等学校に在学中中野重治と知り合う。大正13年田端に住み中野らと文芸誌「驢馬」を発行。佐多稲子と結婚。プロレタリア活動で獄中生活も味わう。のち田村俊子との不倫が発覚し佐多稲子と離婚。

  • ポプラ坂の途中から左に反れると日枝神社があります。<br />鳥居の屋根の形が珍しい。<br />その左の路を上がったすぐ左に吉田三郎の住居がありました。

    ポプラ坂の途中から左に反れると日枝神社があります。
    鳥居の屋根の形が珍しい。
    その左の路を上がったすぐ左に吉田三郎の住居がありました。

  • 参道の石段。

    参道の石段。

  • 拝殿。1624年の創建と伝えられます。

    拝殿。1624年の創建と伝えられます。

  • とても古そうで石が欠けている狛犬。

    とても古そうで石が欠けている狛犬。

  • 拝殿の後ろ。右が本殿。

    拝殿の後ろ。右が本殿。

  • 石段の上から。

    石段の上から。

  • 鳥居の左の道を少し登った辺りに彫刻家吉田三郎が明治45年来住んだところです。「吉田」という表札が架かった家がありました。御子孫が住んでおられるのでしょうか。<br />吉田三郎:明治22~昭和37年。金沢出身。石川県工業学校での師板谷波山を慕い明治40年上京、田端に住む。日本芸術院会員、文展、日展、帝展審査員歴任。<br />室生犀星は上京の折吉田三郎を頼って田端に来ており、吉田は犀星を物心ともに援助した。

    鳥居の左の道を少し登った辺りに彫刻家吉田三郎が明治45年来住んだところです。「吉田」という表札が架かった家がありました。御子孫が住んでおられるのでしょうか。
    吉田三郎:明治22~昭和37年。金沢出身。石川県工業学校での師板谷波山を慕い明治40年上京、田端に住む。日本芸術院会員、文展、日展、帝展審査員歴任。
    室生犀星は上京の折吉田三郎を頼って田端に来ており、吉田は犀星を物心ともに援助した。

  • ポプラ坂に戻りました。坂上から。

    ポプラ坂に戻りました。坂上から。

  • 和風の立派な邸宅があります。

    和風の立派な邸宅があります。

  • 坂上にある説明板。<br />ポプラ倶楽部:明治41年頃洋行してあちらの芸術家たちのスポーツをする日常を見てきた小杉放庵の発案で山本鼎、森田恒友ら「太平洋画会」の同志がつくった芸術家の親睦団体。テニスコート、クラブハウスのある本格的なものだった。建物の周りにポプラの木を植えたのでこの名がついた。

    坂上にある説明板。
    ポプラ倶楽部:明治41年頃洋行してあちらの芸術家たちのスポーツをする日常を見てきた小杉放庵の発案で山本鼎、森田恒友ら「太平洋画会」の同志がつくった芸術家の親睦団体。テニスコート、クラブハウスのある本格的なものだった。建物の周りにポプラの木を植えたのでこの名がついた。

  • ポプラ坂の坂上に田端保育園があります。ここが小杉放庵を盟主としたポプラ倶楽部の跡です。<br />芥川は小杉について、「本職の油絵や南画以外にも詩を作り、句を作り、歌を作る。呆れはてたる器用人と言うべし。・・・、テニスや野球をやったりする所は豪傑肌のようなれども、・・・野蛮人にはあらず。僕などは何か災難に出会い、誰かに同情して貰いたいときには、まず未醒(放庵)老人に綿々と愚痴を述べるつもりなり。」と書いています。

    ポプラ坂の坂上に田端保育園があります。ここが小杉放庵を盟主としたポプラ倶楽部の跡です。
    芥川は小杉について、「本職の油絵や南画以外にも詩を作り、句を作り、歌を作る。呆れはてたる器用人と言うべし。・・・、テニスや野球をやったりする所は豪傑肌のようなれども、・・・野蛮人にはあらず。僕などは何か災難に出会い、誰かに同情して貰いたいときには、まず未醒(放庵)老人に綿々と愚痴を述べるつもりなり。」と書いています。

  • 赤紙仁王の東覚寺から続く通りです。<br /><br />太平洋画会には大酒のみの暴れ者が多く、テニスをやらない連中もクラブに来ては碁、将棋に興じ相撲を取ったりした。そのあとは飲めや歌えの大騒ぎ。<br />大正3年、田端に移って間もない芥川龍之介は友への手紙に「近所にポプラ倶楽部を中心とした画かき村があるだけに外に出ると黒のソフトによく逢着する」と書いています。ソフトの主は小杉放庵です。文士と芸術家との交流はまだ始まっていないようです。

    赤紙仁王の東覚寺から続く通りです。

    太平洋画会には大酒のみの暴れ者が多く、テニスをやらない連中もクラブに来ては碁、将棋に興じ相撲を取ったりした。そのあとは飲めや歌えの大騒ぎ。
    大正3年、田端に移って間もない芥川龍之介は友への手紙に「近所にポプラ倶楽部を中心とした画かき村があるだけに外に出ると黒のソフトによく逢着する」と書いています。ソフトの主は小杉放庵です。文士と芸術家との交流はまだ始まっていないようです。

  • 通り沿いにある陶芸家板谷波山の旧居跡です。田端3-24-15。

    通り沿いにある陶芸家板谷波山の旧居跡です。田端3-24-15。

  • 板谷波山:明治5~昭和38年。茨城県出身。東京美術学校で岡倉天心、高村光雲に学ぶ。石川県工業学校で教鞭をとったのち明治36年田端に移る。金がなく、1年3か月かけて夫婦二人で造った手造りの窯は「夫婦窯」と云われました。白磁、青磁、彩磁に格調高い作品を残した。近代陶芸界の先駆的指導者。昭和28年、香取秀真とともに工芸界初の文化勲章受章。<br /><br />

    板谷波山:明治5~昭和38年。茨城県出身。東京美術学校で岡倉天心、高村光雲に学ぶ。石川県工業学校で教鞭をとったのち明治36年田端に移る。金がなく、1年3か月かけて夫婦二人で造った手造りの窯は「夫婦窯」と云われました。白磁、青磁、彩磁に格調高い作品を残した。近代陶芸界の先駆的指導者。昭和28年、香取秀真とともに工芸界初の文化勲章受章。

  • 板谷波山旧居の配置図です。<br />この辺りにも画家山本鼎、画家倉田白羊、歌人土屋文明、香取秀真など芸術家が住んでいました。<br />板谷家の夫婦喧嘩は有名だったそうです。どうもかかあ天下だったようで、近くに住んでいた香取秀真によると、「大きな声がすると始まったなと思う。その内きまって波山が飛び出してきて私の家に逃げ込んできた」と書いています。<br />夫婦げんかの原因は波山の男前にあったようで、女にもてる波山を夫人が嫉妬しての痴話喧嘩が多かったようです。

    板谷波山旧居の配置図です。
    この辺りにも画家山本鼎、画家倉田白羊、歌人土屋文明、香取秀真など芸術家が住んでいました。
    板谷家の夫婦喧嘩は有名だったそうです。どうもかかあ天下だったようで、近くに住んでいた香取秀真によると、「大きな声がすると始まったなと思う。その内きまって波山が飛び出してきて私の家に逃げ込んできた」と書いています。
    夫婦げんかの原因は波山の男前にあったようで、女にもてる波山を夫人が嫉妬しての痴話喧嘩が多かったようです。

  • 正岡子規、板谷波山の墓のある大龍寺に向かいます。<br />八幡坂。

    正岡子規、板谷波山の墓のある大龍寺に向かいます。
    八幡坂。

  • 八幡坂通り。<br />この坂上あたりに社会主義労働運動家片山潜が明治41年頃潜伏していたことがあります。反戦平和運動を進める片山は天皇制軍事国家にとって要注意人物でした。

    八幡坂通り。
    この坂上あたりに社会主義労働運動家片山潜が明治41年頃潜伏していたことがあります。反戦平和運動を進める片山は天皇制軍事国家にとって要注意人物でした。

  • 坂下にある大龍寺。

    坂下にある大龍寺。

  • 山門。

    山門。

  • 真言宗霊雲寺派。田端は真言宗の寺が多いですね。

    真言宗霊雲寺派。田端は真言宗の寺が多いですね。

  • 山門の前に、子規居士墓所と彫った石碑があります。

    山門の前に、子規居士墓所と彫った石碑があります。

  • 本堂。

    本堂。

  • 同。<br />高校生らしき数人がいました。正岡子規の墓を見に来たのでしょうか。

    同。
    高校生らしき数人がいました。正岡子規の墓を見に来たのでしょうか。

  • 片隅。

    片隅。

  • 墓域に入ると正面に板谷波山夫妻の墓があります。

    墓域に入ると正面に板谷波山夫妻の墓があります。

  • 玉蘭は日本画を描くまる夫人の号です。<br />まる夫人は女性にもてる波山をよくとっちめましたが、賢婦で、夫の腕を信じ、造った作品を売り歩いたりして貧乏所帯を守りました。借金に駆けずり回ったの<br />はまる夫人でした。ただ一度だけ波山が自分で鹿島龍蔵に借金の申し込みに行ったことがあります。夫婦げんかの最中でやむを得なかったのです。まさに大陶芸家板谷波山を造ったのはまる夫人ともいえます。明治3~昭和33年。

    玉蘭は日本画を描くまる夫人の号です。
    まる夫人は女性にもてる波山をよくとっちめましたが、賢婦で、夫の腕を信じ、造った作品を売り歩いたりして貧乏所帯を守りました。借金に駆けずり回ったの
    はまる夫人でした。ただ一度だけ波山が自分で鹿島龍蔵に借金の申し込みに行ったことがあります。夫婦げんかの最中でやむを得なかったのです。まさに大陶芸家板谷波山を造ったのはまる夫人ともいえます。明治3~昭和33年。

  • 板谷波山先生墓誌。

    板谷波山先生墓誌。

  • 墓地の奥の方に正岡家の侘しい墓域がありました。<br />子規が竹の里人と号したように、墓の後ろに矢竹が茂っています。

    墓地の奥の方に正岡家の侘しい墓域がありました。
    子規が竹の里人と号したように、墓の後ろに矢竹が茂っています。

  • 真ん中に子規居士(正岡子規)之墓。右に子規の母堂正岡八重墓。左に正岡氏累世墓。妹の律も葬られているはずです。

    真ん中に子規居士(正岡子規)之墓。右に子規の母堂正岡八重墓。左に正岡氏累世墓。妹の律も葬られているはずです。

  • 明治28年、日清戦争に記者として従軍、喀血し29年脊椎カリエス発症、以後亡くなるまで根岸の子規庵で殆ど寝たきりの生活だった。<br />明治35年9月19日死去。満でいえばわずか34歳だった。<br />辞世の句<br />糸瓜(へちま)咲いて 痰のつまりし 仏かな<br />をととひの へちまの水も 取らざりき<br />痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず<br />死の前の日でした。<br />子規の住まいは谷中墓地のすぐ側なので、普通なら谷中墓地に葬られそうですが、子規生前から花見時に酔客に騒がれるようなとこは嫌だ、と言っていたので永遠に眠る場所に静かな田端を選んだのでした。墓石の上に小さな花束が置かれていました。柿が1個置いてあります。柿は子規の大好物でした。<br />柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺<br />

    明治28年、日清戦争に記者として従軍、喀血し29年脊椎カリエス発症、以後亡くなるまで根岸の子規庵で殆ど寝たきりの生活だった。
    明治35年9月19日死去。満でいえばわずか34歳だった。
    辞世の句
    糸瓜(へちま)咲いて 痰のつまりし 仏かな
    をととひの へちまの水も 取らざりき
    痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
    死の前の日でした。
    子規の住まいは谷中墓地のすぐ側なので、普通なら谷中墓地に葬られそうですが、子規生前から花見時に酔客に騒がれるようなとこは嫌だ、と言っていたので永遠に眠る場所に静かな田端を選んだのでした。墓石の上に小さな花束が置かれていました。柿が1個置いてあります。柿は子規の大好物でした。
    柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

  • 揮毫は子規の後ろ盾だった日本新聞社社主陸羯南(くがかつなん)。<br />正岡子規:慶應3年(1867)~明治35年(1902)。本名常規、のち升(のぼる)。<br />旧制松山中学、上京し共立学校、東大予備門、東大中退。予備門時代夏目漱石と知り合う。<br />東大中退後俳句に没頭。明治25年、陸羯南主宰の日本新聞社入社。陸羯南はずっと正岡子規の保護者だった。俳句革新運動を起し、明治30年俳句誌「ホトトギス」創刊。門下に高浜虚子、河東碧梧桐、寒川鼠骨、伊藤左千夫ら。<br />短歌でも「歌よみに与ふる書」を著わし、根岸短歌会を主宰、短歌革新運動を進めた。根岸短歌会には伊藤左千夫、長塚節、岡麓、香取秀真らがいた。

    揮毫は子規の後ろ盾だった日本新聞社社主陸羯南(くがかつなん)。
    正岡子規:慶應3年(1867)~明治35年(1902)。本名常規、のち升(のぼる)。
    旧制松山中学、上京し共立学校、東大予備門、東大中退。予備門時代夏目漱石と知り合う。
    東大中退後俳句に没頭。明治25年、陸羯南主宰の日本新聞社入社。陸羯南はずっと正岡子規の保護者だった。俳句革新運動を起し、明治30年俳句誌「ホトトギス」創刊。門下に高浜虚子、河東碧梧桐、寒川鼠骨、伊藤左千夫ら。
    短歌でも「歌よみに与ふる書」を著わし、根岸短歌会を主宰、短歌革新運動を進めた。根岸短歌会には伊藤左千夫、長塚節、岡麓、香取秀真らがいた。

  • 母八重。<br />子規の最期を看取った八重はその後25年ほど生き昭和2年、82歳で亡くなっています。墓碑が傾いています。<br />9月21日、子規の棺は伊藤左千夫、坂本四方太、寺田寅彦ら弟子、友人らに担がれ、谷中、日暮里、道灌山、東覚寺を通り大龍寺まで運ばれました。<br />土葬でしたから、今もこの墓の下に子規の白骨化した屍が横たわっているのでしょうか。<br />子規が最も信頼した夏目漱石はロンドン留学中でした。子規はロンドンの漱石に手紙を書いています。<br />「僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、・・・、イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常に面白カッタ。・・・。

    母八重。
    子規の最期を看取った八重はその後25年ほど生き昭和2年、82歳で亡くなっています。墓碑が傾いています。
    9月21日、子規の棺は伊藤左千夫、坂本四方太、寺田寅彦ら弟子、友人らに担がれ、谷中、日暮里、道灌山、東覚寺を通り大龍寺まで運ばれました。
    土葬でしたから、今もこの墓の下に子規の白骨化した屍が横たわっているのでしょうか。
    子規が最も信頼した夏目漱石はロンドン留学中でした。子規はロンドンの漱石に手紙を書いています。
    「僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、・・・、イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常に面白カッタ。・・・。

  • 隣に子規の自筆墓誌銘を石版に彫ってはめこんだ石碑があります。明治31年に病床で寝ながら仰向いた状態で書かれたものです。昭和9年の子規三十三回忌に建てられました。<br /><br />子規の漱石宛ての手紙の続き。<br />・・・、僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。・・・、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ・・・」<br />だが多忙な漱石は子規の頼みに答えぬうちに子規は死んでしまった。

    隣に子規の自筆墓誌銘を石版に彫ってはめこんだ石碑があります。明治31年に病床で寝ながら仰向いた状態で書かれたものです。昭和9年の子規三十三回忌に建てられました。

    子規の漱石宛ての手紙の続き。
    ・・・、僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。・・・、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ・・・」
    だが多忙な漱石は子規の頼みに答えぬうちに子規は死んでしまった。

  • 正岡常規又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円<br /><br />享年三十□としてますから、40歳までは生きられないと覚悟していたようです。子規は寝たきりで日本新聞社の仕事はほとんど出来なかったでしょうが、社長陸羯南は月給をずっと払い続けたのです。

    正岡常規又ノ名ハ處之助 又ノ名ハ升 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋主人 又ノ名ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円

    享年三十□としてますから、40歳までは生きられないと覚悟していたようです。子規は寝たきりで日本新聞社の仕事はほとんど出来なかったでしょうが、社長陸羯南は月給をずっと払い続けたのです。

  • 大龍寺の傍に紅葉館という下宿屋があり、堀辰雄が大正13,4年頃下宿しています。この辺りです。<br />堀辰雄:明治37~昭和28年。一高、東大卒。府立三中時代の恩師広瀬雄により室生犀星を、犀星の紹介で芥川龍之介を知る。大正15年、窪川鶴次郎、中野重治らと同人誌「驢馬」創刊。昭和5年「聖家族」で文壇にデビュー。結核のため八ヶ岳山麓の富士見高原療養所での療養を繰り返す。48歳で死去。<br />「風立ちぬ」、「菜穂子」、「かげろふの日記」、「大和路・信濃路」など。

    大龍寺の傍に紅葉館という下宿屋があり、堀辰雄が大正13,4年頃下宿しています。この辺りです。
    堀辰雄:明治37~昭和28年。一高、東大卒。府立三中時代の恩師広瀬雄により室生犀星を、犀星の紹介で芥川龍之介を知る。大正15年、窪川鶴次郎、中野重治らと同人誌「驢馬」創刊。昭和5年「聖家族」で文壇にデビュー。結核のため八ヶ岳山麓の富士見高原療養所での療養を繰り返す。48歳で死去。
    「風立ちぬ」、「菜穂子」、「かげろふの日記」、「大和路・信濃路」など。

  • 大龍寺の横に上田端八幡神社があります。大龍寺が別当寺でした。

    大龍寺の横に上田端八幡神社があります。大龍寺が別当寺でした。

  • 昔の田端村は上田端と下田端に分かれていてそれぞれ鎮守の八幡様があった。上田端の鎮守がこの上田端八幡神社です。下田端の鎮守が先ほど見た東覚寺の隣の田端八幡神社。

    昔の田端村は上田端と下田端に分かれていてそれぞれ鎮守の八幡様があった。上田端の鎮守がこの上田端八幡神社です。下田端の鎮守が先ほど見た東覚寺の隣の田端八幡神社。

  • 参道。

    参道。

  • 拝殿。

    拝殿。

  • 一の鳥居方向。

    一の鳥居方向。

  • 八幡坂を戻ります。左に上田端八幡神社。

    八幡坂を戻ります。左に上田端八幡神社。

  • 坂を登りつめて→の道を50mほど入りました。

    坂を登りつめて→の道を50mほど入りました。

  • 田端小学校の裏手の一画です。

    田端小学校の裏手の一画です。

  • メゾン・キャレという小さなマンションがあります。田端5-5-7。<br />室生犀星が3度目(大正10年)と6度目(大正14年)の田端の住まいです。大正12年の関東大震災で犀星一家が郷里金沢に引っ込んだ後2か月ほど菊池寛が住んでいたことがあります。菊池は当時「文芸春秋」を発刊して成功を収めつつありました。ところが大震災で焼け出され、犀星のいなくなったここに転がり込んで、「文芸春秋」の再生に取り組んだのです。<br />14年に犀星はここに戻ってきます。<br />

    メゾン・キャレという小さなマンションがあります。田端5-5-7。
    室生犀星が3度目(大正10年)と6度目(大正14年)の田端の住まいです。大正12年の関東大震災で犀星一家が郷里金沢に引っ込んだ後2か月ほど菊池寛が住んでいたことがあります。菊池は当時「文芸春秋」を発刊して成功を収めつつありました。ところが大震災で焼け出され、犀星のいなくなったここに転がり込んで、「文芸春秋」の再生に取り組んだのです。
    14年に犀星はここに戻ってきます。

  • ここは室生犀星が田端で住んだ何か所のうち最も好み最後に住んだところでした。<br />長男を儲け1歳で亡くして慟哭し、長女朝子を得たのもこの住まいででした。<br /><br />昭和2年畏友芥川龍之介の死に衝撃を受けた犀星は翌昭和3年、想い出深い田端を去り馬込の借家に転居する。馬込には先に萩原朔太郎が住んでいた。昭和6年、家を新築し終の棲家となった。田端文士村の挽歌の始まりだった。

    ここは室生犀星が田端で住んだ何か所のうち最も好み最後に住んだところでした。
    長男を儲け1歳で亡くして慟哭し、長女朝子を得たのもこの住まいででした。

    昭和2年畏友芥川龍之介の死に衝撃を受けた犀星は翌昭和3年、想い出深い田端を去り馬込の借家に転居する。馬込には先に萩原朔太郎が住んでいた。昭和6年、家を新築し終の棲家となった。田端文士村の挽歌の始まりだった。

  • この一画にも文士が住んでいました。<br />室生犀星(青い○)の右隣に府立3中での芥川龍之介、堀辰雄の恩師広瀬雄(たけし、大正4年)。路地を挟んで左隣に作家近藤富枝(昭和6年)。向かい側に洋画家柚木久太(ゆのきひさた、大正4年)、小説家山田順子(大正13年)。

    この一画にも文士が住んでいました。
    室生犀星(青い○)の右隣に府立3中での芥川龍之介、堀辰雄の恩師広瀬雄(たけし、大正4年)。路地を挟んで左隣に作家近藤富枝(昭和6年)。向かい側に洋画家柚木久太(ゆのきひさた、大正4年)、小説家山田順子(大正13年)。

  • 近藤富枝辺り。<br />近藤富枝:大正11~平成28年。作家、随筆家。東京女子大卒。明治・大正期の文学者の調査研究のほかミステリー作もある。<br />「本郷菊富士ホテル」、「田端文士村」、「馬込文士村」、「信濃追分文学譜」、「鹿鳴館殺人事件」ほか。<br /><br />柚木久太:明治18~昭和45年。太平洋画会で満谷国四郎に師事。帝展、日展審査員。<br />

    近藤富枝辺り。
    近藤富枝:大正11~平成28年。作家、随筆家。東京女子大卒。明治・大正期の文学者の調査研究のほかミステリー作もある。
    「本郷菊富士ホテル」、「田端文士村」、「馬込文士村」、「信濃追分文学譜」、「鹿鳴館殺人事件」ほか。

    柚木久太:明治18~昭和45年。太平洋画会で満谷国四郎に師事。帝展、日展審査員。

  • 向かい側、柚木久太、山田順子が住んでいた辺り。<br /><br />広瀬雄(たけし):明治7~昭和39年。金沢出身。教育者、東京府立三中校長。<br />三中の英語教師時代芥川龍之介、堀辰雄を教える。芥川龍之介は広瀬を尊敬し、広瀬が田端に住んだのは芥川の招きによる。大正12年のある日広瀬夫人が隣の犀星を訪れ、夫(広瀬雄)の教え子が室生犀星さんを紹介してほしいと言っている、と頼みに来た。数日後一高の制帽を被って絣の袴をはいた堀辰雄が母親に連れられて犀星を訪ねてきた。母だけが喋りこの青年は帰るまでなにも質問をしなかった。<br />子煩悩だった母親はこの年関東大震災で隅田川で水死しています。<br /><br />

    向かい側、柚木久太、山田順子が住んでいた辺り。

    広瀬雄(たけし):明治7~昭和39年。金沢出身。教育者、東京府立三中校長。
    三中の英語教師時代芥川龍之介、堀辰雄を教える。芥川龍之介は広瀬を尊敬し、広瀬が田端に住んだのは芥川の招きによる。大正12年のある日広瀬夫人が隣の犀星を訪れ、夫(広瀬雄)の教え子が室生犀星さんを紹介してほしいと言っている、と頼みに来た。数日後一高の制帽を被って絣の袴をはいた堀辰雄が母親に連れられて犀星を訪ねてきた。母だけが喋りこの青年は帰るまでなにも質問をしなかった。
    子煩悩だった母親はこの年関東大震災で隅田川で水死しています。

  • 山田順子(ゆきこ):明治34~昭和36年。秋田県生まれ。若い時から文学志望強く、自作を徳田秋声に持ち込んで師事する。妻に死別していた秋声は年甲斐もなく美貌の順子に惚れこみ結婚を考えたが、その間にも男性遍歴が絶えない順子に結局は断念する。秋声は順子との愛欲生活をいわゆる「順子もの」として本にしスキャンダルを引き起こす。順子も秋声との性生活を書いて発表した。順子を巡る男に竹久夢二もいた。一時同棲しています。<br />確かに美人です。男やもめの徳田秋声が惚れたのもうなずける。吉屋信子は「浮世絵から抜け出てきたようなたおやかな美しさ」と評し、ほかの文士からも「彼女を散見する私はややもすれば幻惑され射すくめられるようだ」と言われたりしています。このお人形のような淑やかそうな女が男遍歴を重ねていたとは。<br />何冊か小説を書いていますがそれらは忘れられ、醜聞ばかりで彼女の名が残っています。

    山田順子(ゆきこ):明治34~昭和36年。秋田県生まれ。若い時から文学志望強く、自作を徳田秋声に持ち込んで師事する。妻に死別していた秋声は年甲斐もなく美貌の順子に惚れこみ結婚を考えたが、その間にも男性遍歴が絶えない順子に結局は断念する。秋声は順子との愛欲生活をいわゆる「順子もの」として本にしスキャンダルを引き起こす。順子も秋声との性生活を書いて発表した。順子を巡る男に竹久夢二もいた。一時同棲しています。
    確かに美人です。男やもめの徳田秋声が惚れたのもうなずける。吉屋信子は「浮世絵から抜け出てきたようなたおやかな美しさ」と評し、ほかの文士からも「彼女を散見する私はややもすれば幻惑され射すくめられるようだ」と言われたりしています。このお人形のような淑やかそうな女が男遍歴を重ねていたとは。
    何冊か小説を書いていますがそれらは忘れられ、醜聞ばかりで彼女の名が残っています。

  • 田端駅前から続く高台通りに出ました。

    田端駅前から続く高台通りに出ました。

  • 高台通りを渡った路地の奥に鹿島建設の重役で、田端文士、芸術家のパトロン的存在だった鹿島龍蔵の屋敷があった辺り。田端6-6-14辺り。<br />芥川龍之介の詩「東京田端」で、”門内に広い芝生のあるのは、長者鹿島龍蔵の家”と詠った所です。<br />龍蔵は貧乏だった田端の芸術家たちの作品を買い入れたり、文士、芸術家の親睦会「道閑会」を主宰するなどして田端文士芸術村に多大の効がありました。<br />芥川は鹿島の事を「書、篆刻、謡、舞、長唄、常磐津、歌沢、狂言、テニス、氷辷り等通ぜざるものなしというに至っては、誰か唖然として驚かざらんや。」と書いています。

    高台通りを渡った路地の奥に鹿島建設の重役で、田端文士、芸術家のパトロン的存在だった鹿島龍蔵の屋敷があった辺り。田端6-6-14辺り。
    芥川龍之介の詩「東京田端」で、”門内に広い芝生のあるのは、長者鹿島龍蔵の家”と詠った所です。
    龍蔵は貧乏だった田端の芸術家たちの作品を買い入れたり、文士、芸術家の親睦会「道閑会」を主宰するなどして田端文士芸術村に多大の効がありました。
    芥川は鹿島の事を「書、篆刻、謡、舞、長唄、常磐津、歌沢、狂言、テニス、氷辷り等通ぜざるものなしというに至っては、誰か唖然として驚かざらんや。」と書いています。

  • さらに路地を徘徊すると、作家、俳人瀧井孝作の住まい跡があります。田端6-4-10。大正10年室生犀星の出た後に移り住みました。<br />芥川龍之介の「東京田端」に、”ぬかるみの路を前にしたのは、俳人滝井折柴の家”と詠っています。折柴(せっさい)は俳号。<br />俳句では先輩の瀧井が芥川を指導し、創作では芥川が瀧井を批評しました。<br /><br /><br />

    さらに路地を徘徊すると、作家、俳人瀧井孝作の住まい跡があります。田端6-4-10。大正10年室生犀星の出た後に移り住みました。
    芥川龍之介の「東京田端」に、”ぬかるみの路を前にしたのは、俳人滝井折柴の家”と詠っています。折柴(せっさい)は俳号。
    俳句では先輩の瀧井が芥川を指導し、創作では芥川が瀧井を批評しました。


  • すぐ裏はもう線路を見下ろす崖です。<br />瀧井孝作:明治27~昭和59年。岐阜県高山出身。大正10年、室生犀星の後に住む。芥川龍之介、のち志賀直哉に生涯師事する。<br />少年時代俳句に目覚め、河東碧梧桐に認められる。のち小説も書き始め、愛妻りんとの田端時代を描いた「無限抱擁」が代表作となる。その中で滝井の妻りんの母がモデルである母親が娘の病気平癒を願って赤紙仁王に願をかけ大龍寺にお百度を踏んでいます。<br /><br /><br />

    すぐ裏はもう線路を見下ろす崖です。
    瀧井孝作:明治27~昭和59年。岐阜県高山出身。大正10年、室生犀星の後に住む。芥川龍之介、のち志賀直哉に生涯師事する。
    少年時代俳句に目覚め、河東碧梧桐に認められる。のち小説も書き始め、愛妻りんとの田端時代を描いた「無限抱擁」が代表作となる。その中で滝井の妻りんの母がモデルである母親が娘の病気平癒を願って赤紙仁王に願をかけ大龍寺にお百度を踏んでいます。


  • 高台通りを田端駅のほうに少し歩くと右に萬栄寺という味も素っ気もない寺があります。<br />この敷地の一角に詩人福士幸次郎とサトウハチローが大正10年ころ住んでいました。福士が主人で、ハチローは居候でした。<br />

    高台通りを田端駅のほうに少し歩くと右に萬栄寺という味も素っ気もない寺があります。
    この敷地の一角に詩人福士幸次郎とサトウハチローが大正10年ころ住んでいました。福士が主人で、ハチローは居候でした。

  • 萬栄寺。<br />ハチローは中学生のころ手の付けられない不良少年で、8回も転校(放校されたか)しています。危うく小笠原島に放逐されそうになった時、父佐藤紅緑の頼みで福土が身元を引き受けたのです。<br />入居の時台所道具何もなく、ハチローが鍋と釜を室生犀星に借りに行き、ようやくご飯が炊けました。おかずは味噌とジャガイモの味噌汁。鍋釜は結局借りっぱなしでした。<br />毎年4月になると”春が来た”と、二人は着ていた冬物の着物を質に入れほとんど裸で過ごしました。裸では外に出られない。それで知人が来るとその人を裸にし、その衣服を着て外出したのでした。

    萬栄寺。
    ハチローは中学生のころ手の付けられない不良少年で、8回も転校(放校されたか)しています。危うく小笠原島に放逐されそうになった時、父佐藤紅緑の頼みで福土が身元を引き受けたのです。
    入居の時台所道具何もなく、ハチローが鍋と釜を室生犀星に借りに行き、ようやくご飯が炊けました。おかずは味噌とジャガイモの味噌汁。鍋釜は結局借りっぱなしでした。
    毎年4月になると”春が来た”と、二人は着ていた冬物の着物を質に入れほとんど裸で過ごしました。裸では外に出られない。それで知人が来るとその人を裸にし、その衣服を着て外出したのでした。

  • 福士幸次郎:明治22~昭和21年。詩人。青森出身。郷土の先輩佐藤紅緑に師事して俳句を学び、のち詩作を始める。「スバル」で活動。最後は民俗学研究に専念。室生犀星を芥川龍之介に紹介したのが福士だった。<br />サトウハチロー:明治36~昭和48年。詩人、童謡作家。<br />佐藤紅緑の長男。中学時代無頼の生活を送り、矯正のため福士幸次郎宅に預けられる。心を改めたハチローは西条八十に師事し童謡を作りはじめる。<br />童謡に「ちいさい秋見つけた」、「お山の杉の子」、「めんこい仔馬」など。<br />歌謡曲に「りんごの唄」、「長崎の鐘」など。<br />少年時代ぐれたハチローがこんな純情な詩を作ったのはその反動でしょうか。小説家佐藤愛子は異母妹。

    福士幸次郎:明治22~昭和21年。詩人。青森出身。郷土の先輩佐藤紅緑に師事して俳句を学び、のち詩作を始める。「スバル」で活動。最後は民俗学研究に専念。室生犀星を芥川龍之介に紹介したのが福士だった。
    サトウハチロー:明治36~昭和48年。詩人、童謡作家。
    佐藤紅緑の長男。中学時代無頼の生活を送り、矯正のため福士幸次郎宅に預けられる。心を改めたハチローは西条八十に師事し童謡を作りはじめる。
    童謡に「ちいさい秋見つけた」、「お山の杉の子」、「めんこい仔馬」など。
    歌謡曲に「りんごの唄」、「長崎の鐘」など。
    少年時代ぐれたハチローがこんな純情な詩を作ったのはその反動でしょうか。小説家佐藤愛子は異母妹。

  • 付近には先ほど訪ねた鹿島龍蔵、瀧井孝作のほか、挿絵画家岩田専太郎(大正15年)、劇作家川口松太郎(昭和2年)、歌人尾山篤二郎(大正10年)、朝方訪ねた日本画家池田蕉園、輝方(大正3年)が住んでいました。

    付近には先ほど訪ねた鹿島龍蔵、瀧井孝作のほか、挿絵画家岩田専太郎(大正15年)、劇作家川口松太郎(昭和2年)、歌人尾山篤二郎(大正10年)、朝方訪ねた日本画家池田蕉園、輝方(大正3年)が住んでいました。

  • この整骨院、田端文士村の名をちゃっかり借用しています。<br />最後に、今回訪ねませんでしたが田端住民として洋画家、俳人の小穴隆一(おあなりゅういち)の名を挙げて置きます。<br />小穴(明治27~昭和41年)はおそらく芥川龍之介が田端文士芸術家の中で対抗心を燃やすことなく最も信頼し心を許した人ではなかったかと思います。あまりに二人は親しすぎたため、他の芸術家たちから妬まれるほどでした。二人の出会いは大正8年でした。<br /><br />

    この整骨院、田端文士村の名をちゃっかり借用しています。
    最後に、今回訪ねませんでしたが田端住民として洋画家、俳人の小穴隆一(おあなりゅういち)の名を挙げて置きます。
    小穴(明治27~昭和41年)はおそらく芥川龍之介が田端文士芸術家の中で対抗心を燃やすことなく最も信頼し心を許した人ではなかったかと思います。あまりに二人は親しすぎたため、他の芸術家たちから妬まれるほどでした。二人の出会いは大正8年でした。

  • 田端駅、東台橋に戻ってきました。<br /><br />瀧井孝作が関係していたある俳句雑誌の挿絵を見て感心した龍之介が、その画家に逢いたいと言ったところ連れてきたのが小穴でした。小穴は瀧井と共に河東碧梧桐の門人で俳句も作っていました。それ以来意気投合した二人は肝胆相照らす仲となったのです。小穴は芥川家の一員の様になり芥川の子供たちからも慕われました。

    田端駅、東台橋に戻ってきました。

    瀧井孝作が関係していたある俳句雑誌の挿絵を見て感心した龍之介が、その画家に逢いたいと言ったところ連れてきたのが小穴でした。小穴は瀧井と共に河東碧梧桐の門人で俳句も作っていました。それ以来意気投合した二人は肝胆相照らす仲となったのです。小穴は芥川家の一員の様になり芥川の子供たちからも慕われました。

  • 3時過ぎ、日が落ちてきました。駅前より東台橋。<br /><br />芥川は次男「「多加志」の名に、小穴隆一の隆を”たかし”と訓読みにして使いました。芥川が最初に自殺願望を語ったのは小穴です。子供たちへの遺書に「小穴隆一を父と思へ」とまで書き残しています。小穴は死の床の芥川の顔をスケッチしています。

    3時過ぎ、日が落ちてきました。駅前より東台橋。

    芥川は次男「「多加志」の名に、小穴隆一の隆を”たかし”と訓読みにして使いました。芥川が最初に自殺願望を語ったのは小穴です。子供たちへの遺書に「小穴隆一を父と思へ」とまで書き残しています。小穴は死の床の芥川の顔をスケッチしています。

  • 小穴隆一のスケッチした死の床の芥川龍之介。

    小穴隆一のスケッチした死の床の芥川龍之介。

  • 田端ふれあい橋に戻ってきました。

    田端ふれあい橋に戻ってきました。

  • 朝見た田端ふれあい橋の金色の裸婦像がなんとサンタの衣裳らしいものを纏っています。

    朝見た田端ふれあい橋の金色の裸婦像がなんとサンタの衣裳らしいものを纏っています。

  • 悪戯ではないでしょう。この方が裸像より目のやりどころに困らず安心して観ておれます。<br />これにて本日の散歩は終わりです。<br />10時から3時半頃まで、途中昼食休憩1回。前回みたいな足の攣りは起こらずまずは無難な街歩きでした。上野に出て東京上野ラインに乗換え、青年に御親切に席を譲っていただきました。

    悪戯ではないでしょう。この方が裸像より目のやりどころに困らず安心して観ておれます。
    これにて本日の散歩は終わりです。
    10時から3時半頃まで、途中昼食休憩1回。前回みたいな足の攣りは起こらずまずは無難な街歩きでした。上野に出て東京上野ラインに乗換え、青年に御親切に席を譲っていただきました。

この旅行記のタグ

関連タグ

67いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP