2018/11/25 - 2018/11/25
49位(同エリア327件中)
吉備津彦さん
細川幽斎が五百の兵で籠城し西軍一万五千を釘付けにした田辺城登城
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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道の駅舞鶴港とれとれセンターの看板
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道の駅舞鶴港とれとれセンター
道の駅 舞鶴港とれとれセンター 道の駅
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焼き海鮮
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海軍カレー
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焼き鯖
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イチオシ
生松葉ガニ
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イチオシ
ゆで松葉ガニ
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へしこ
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京都海洋高校の高校生が開発したサバ缶
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トロ鯖の干し物
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賑わう店内
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外国人観光客用の自動外国貨幣両替機
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道の駅 舞鶴港とれとれセンター隣に置かれていた碇
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道の駅 舞鶴港とれとれセンター隣に置かれていた碇
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イチオシ
道の駅舞鶴港とれとれセンター近くの海に海上保安庁の巡視艇が停泊していました。
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舞鶴公園
現在の田辺城跡は舞鶴公園になっており、1940年(昭和15年)に復興された二層櫓の彰古館、本来の外堀上に1997年(平成9年)に復興された城門には田辺城資料館、天守台石塁などがある。また濠はすべて埋め立てられていて存在しない。舞鶴公園 公園・植物園
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大手門2階が田辺城資料館
JR舞鶴線・西舞鶴駅から徒歩4分田辺城資料館 美術館・博物館
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大手門2階が田辺城資料館
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大手門2階が田辺城資料館
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天守台石垣
田辺城跡 公園・植物園
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復興模擬二重櫓懐古館
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復興模擬二重櫓懐古館
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復興模擬二重櫓懐古館
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田辺城資料館のある再建大手門
田辺城資料館 美術館・博物館
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本来の外堀上に1997年(平成9年)に復興された城門には田辺城資料館
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イチオシ
細川幽斎坐像
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細川幽斎像
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牧野氏が1668年(寛文8年)3万5千石で入封すると、田辺城の大手門その他の城門・石垣などが改築され、それを代々世襲し明治の時代まで繁栄した。
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牧野氏の軍旗、軍配
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資料館からみた公園
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復興模擬二重櫓懐古館から観た資料館
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復興模擬二重櫓懐古館内部
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イチオシ
ハクセキレイの今年生まれた若鳥♀
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大手門裏
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1578年(天正6年)織田信長の命によって守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した長岡藤孝(幽斎)は、はじめは宮津城を居城としたが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、経営の中心とした。隠居後は、子の忠興を入城させた。
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復興模擬二重櫓懐古館の階段
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重厚な石垣
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公園内の池
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舞鶴市の地名は田辺城の別名舞鶴から命名されました。
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公園内のもみじ
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細川忠興は豊前国小倉に転封され、京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移した。このとき田辺城の建造物は、ことごとく破壊されたと伝えられている(一国一城令)。京極高知の遺言によって京極家は嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、養子・高信が峰山藩1万3千石を相続した。
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初代舞鶴藩主となった京極高三により石垣の修復や櫓の再建が図られ、荒廃していた田辺城は再興された。再建された田辺城は、絵図によると二の丸を中心に再建され、二の丸の南に御殿、二の丸北に二重櫓、二の丸に櫓門2基、三の丸に櫓門が3基建てられていた。
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ゆうさいくん
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京極氏は3代続いた後、豊岡藩へ転封となり、代わって牧野氏が1668年(寛文8年)3万5千石で入封すると、田辺城の大手門その他の城門・石垣などが改築され、それを代々世襲し明治の時代まで繁栄した。1869年(明治2年)には版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。
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田辺城の斜向かいの小学校にいた鳶
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