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『伊勢音頭』で「尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、尾張地方の人々の心の拠り所となっているのが名古屋城です。徳川家康の威光を今に伝える城で、優雅で美しい佇まいを魅せます。また、大阪城や熊本城と並ぶ日本三名城の一つに数えられます。<br />名古屋城の堀や石垣の土木工事は1610(慶長15)年に着工され、西国の外様大名20名が助役を命じられた「天下普請」でした。これには、豊臣家恩顧や関ヶ原の合戦で徳川家康に反目した西国大名たちの財力を削ぐ狙いがありました。<br />一方、築城工事は幕府直轄で行われ、作事奉行に小堀遠州をはじめ9名、大工頭には天下一を意味する「一朝惣棟梁」の称号を持つ中井正清が命ぜられました。武将ではなく京の大工棟梁が城を造るのは、近世に入り城が砦から権威の象徴になりつつある転換期とも言えます。<br />天守閣は、地下1階5重7階の大天守と地下1階2重3階の小天守から成り、これらの大小天守が繋がることから「連結式天守閣」と呼ばれます。<br />因みに、天守閣は2018年5月から入場禁止となっており、再公開の期日は未定です。市は2022年までに「木造天守閣の復元」を目指しており、復元工事に先立ち天守台の石垣の安全性を調査しています。因みに、建設費500億円を要する巨大公共事業であり、河村市政最大のイベントです。<br /><br />名古屋城案内マップです。<br />http://www.nagoyajo.jp/map/map.pdf

桐葉知秋 尾張逍遥④名古屋城散策(エピローグ)

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2018/10/17 - 2018/10/17

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

『伊勢音頭』で「尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、尾張地方の人々の心の拠り所となっているのが名古屋城です。徳川家康の威光を今に伝える城で、優雅で美しい佇まいを魅せます。また、大阪城や熊本城と並ぶ日本三名城の一つに数えられます。
名古屋城の堀や石垣の土木工事は1610(慶長15)年に着工され、西国の外様大名20名が助役を命じられた「天下普請」でした。これには、豊臣家恩顧や関ヶ原の合戦で徳川家康に反目した西国大名たちの財力を削ぐ狙いがありました。
一方、築城工事は幕府直轄で行われ、作事奉行に小堀遠州をはじめ9名、大工頭には天下一を意味する「一朝惣棟梁」の称号を持つ中井正清が命ぜられました。武将ではなく京の大工棟梁が城を造るのは、近世に入り城が砦から権威の象徴になりつつある転換期とも言えます。
天守閣は、地下1階5重7階の大天守と地下1階2重3階の小天守から成り、これらの大小天守が繋がることから「連結式天守閣」と呼ばれます。
因みに、天守閣は2018年5月から入場禁止となっており、再公開の期日は未定です。市は2022年までに「木造天守閣の復元」を目指しており、復元工事に先立ち天守台の石垣の安全性を調査しています。因みに、建設費500億円を要する巨大公共事業であり、河村市政最大のイベントです。

名古屋城案内マップです。
http://www.nagoyajo.jp/map/map.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
  • 名古屋城へのアクセスは地下鉄の利用が便利です。<br />JR名古屋駅から地下鉄「東山線」に乗車し、栄駅で地下鉄「名城線」に乗り換え、市役所駅で下車します。7番出口から地上に出て振り返ると写真の景色が見られます。トイレを利用する際は6番出口になりますが、道路1本隔てているだけですのでアプローチに大差はありません。JR名古屋駅からこの場所まで30分みておけば余裕です。<br />左側に見える時計塔のある建物が名古屋市役所本庁舎です。その先に愛知県庁本庁舎が控えます。この辺りは名古屋城三之丸のあったところです。江戸時代には徳川御三家の尾張徳川家の重臣の屋敷や神社があり、5つの門が開かれていたそうです。明治維新により建物は取り壊されたり移築されたりし、官庁街となりました。

    名古屋城へのアクセスは地下鉄の利用が便利です。
    JR名古屋駅から地下鉄「東山線」に乗車し、栄駅で地下鉄「名城線」に乗り換え、市役所駅で下車します。7番出口から地上に出て振り返ると写真の景色が見られます。トイレを利用する際は6番出口になりますが、道路1本隔てているだけですのでアプローチに大差はありません。JR名古屋駅からこの場所まで30分みておけば余裕です。
    左側に見える時計塔のある建物が名古屋市役所本庁舎です。その先に愛知県庁本庁舎が控えます。この辺りは名古屋城三之丸のあったところです。江戸時代には徳川御三家の尾張徳川家の重臣の屋敷や神社があり、5つの門が開かれていたそうです。明治維新により建物は取り壊されたり移築されたりし、官庁街となりました。

  • 金シャチ横丁(宗春ゾーン)<br />7番出口の先、北方向へ伸びるのが「金シャチ横丁」(宗春ゾーン)です。東門から入城する場合は、この横丁を通り抜けます。<br />尾張徳川家きっての派手好きで知られる7代藩主 徳川宗春に因んだ命名です。モダンなデザインを取り入れた建物が並び、名古屋の未来を担う若手経営者による意欲的な飲食店が目白押しで、テラス席やライトアップなど洒落た雰囲気です。<br />正門から入城する場合は、空堀を左手(西)の方向へ進みます。地下鉄7番出口から正門まで徒歩10分弱の距離です。

    金シャチ横丁(宗春ゾーン)
    7番出口の先、北方向へ伸びるのが「金シャチ横丁」(宗春ゾーン)です。東門から入城する場合は、この横丁を通り抜けます。
    尾張徳川家きっての派手好きで知られる7代藩主 徳川宗春に因んだ命名です。モダンなデザインを取り入れた建物が並び、名古屋の未来を担う若手経営者による意欲的な飲食店が目白押しで、テラス席やライトアップなど洒落た雰囲気です。
    正門から入城する場合は、空堀を左手(西)の方向へ進みます。地下鉄7番出口から正門まで徒歩10分弱の距離です。

  • 二之丸 石垣<br />この内堀の石垣が、名古屋城二之丸の南東角になります。<br />今回は正門から入城するため、堀に沿って西へ歩を進めます。<br />名古屋城は名古屋台地の上に築かれたため、この内堀は築城当時から水のない空堀だったようです。水堀は船や板を使って攻められますが、空堀は深くすることで敵が攻めにくく、幅が狭くても堀の効果が大きいそうです。<br />もっとも、名古屋城を攻撃した不埒な輩は、米軍だけでしたが…。

    二之丸 石垣
    この内堀の石垣が、名古屋城二之丸の南東角になります。
    今回は正門から入城するため、堀に沿って西へ歩を進めます。
    名古屋城は名古屋台地の上に築かれたため、この内堀は築城当時から水のない空堀だったようです。水堀は船や板を使って攻められますが、空堀は深くすることで敵が攻めにくく、幅が狭くても堀の効果が大きいそうです。
    もっとも、名古屋城を攻撃した不埒な輩は、米軍だけでしたが…。

  • 西之丸 <br />愛知県体育館のある二之丸を迂回するように堀に沿って進むと、西之丸が見えてきます。

    西之丸
    愛知県体育館のある二之丸を迂回するように堀に沿って進むと、西之丸が見えてきます。

  • 金シャチ横丁(義直ゾーン)<br />堀を挟んだ南側の三之丸にあるのが「金シャチ横丁」(義直ゾーン)です。<br />初代尾張藩主 徳川義直に因む命名です。伝統的な純和風の街並みをイメージし、建物は木曽の材木を使用しています。<br />「なごやめし」と呼ばれる名古屋名物を提供する老舗飲食店やものづくり産業の発祥となった伝統工芸に触れられる場でもあります。

    金シャチ横丁(義直ゾーン)
    堀を挟んだ南側の三之丸にあるのが「金シャチ横丁」(義直ゾーン)です。
    初代尾張藩主 徳川義直に因む命名です。伝統的な純和風の街並みをイメージし、建物は木曽の材木を使用しています。
    「なごやめし」と呼ばれる名古屋名物を提供する老舗飲食店やものづくり産業の発祥となった伝統工芸に触れられる場でもあります。

  • 西之丸<br />堀に架けられた橋が西之丸への入口です。<br />左手奥には「恩賜元離宮名古屋城」と書かれた大きな石碑が立っています。<br />第9代 宮内大臣であった一木(いっき)喜徳郎の揮毫です。実は大正時代、名古屋城は宮内省の管理下にあり、「名古屋離宮」となっていました。その後、1930(昭和5)年に名古屋市に「下賜」されたため、こうした石碑があります。<br />因みに、一木喜徳郎は、法学者であり、政界に入る前は天皇機関説の提唱者として知られており、弟子 美濃部達吉と共に非難されたこともありました。また、二・二六事件後は一切の官職を辞し、報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた人物です。

    西之丸
    堀に架けられた橋が西之丸への入口です。
    左手奥には「恩賜元離宮名古屋城」と書かれた大きな石碑が立っています。
    第9代 宮内大臣であった一木(いっき)喜徳郎の揮毫です。実は大正時代、名古屋城は宮内省の管理下にあり、「名古屋離宮」となっていました。その後、1930(昭和5)年に名古屋市に「下賜」されたため、こうした石碑があります。
    因みに、一木喜徳郎は、法学者であり、政界に入る前は天皇機関説の提唱者として知られており、弟子 美濃部達吉と共に非難されたこともありました。また、二・二六事件後は一切の官職を辞し、報徳思想の啓蒙に尽力し、大日本報徳社の社長を務めた人物です。

  • 名古屋城のマップです。

    名古屋城のマップです。

  • 西之丸 正門<br />元々は1612(慶長12)年に創建された榎多御門(えのきだごもん)と呼ばれる西之丸の門でした。この門も他の門と同様に手前に高麗門を置いて枡形を成しており、藩主や年寄職、城代、米蔵掛以外は出入りできない格式高い門でした。<br />しかし、1891(明治24)年の濃尾大地震で大破したため、1910(明治43)年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されました。しかし、その門も太平洋戦争により焼失し、1959(昭和34)年に天守閣と共に蓮池御門の外観で鉄筋コンクリート造で再建されました。この門を潜ると西之丸に入ります。

    西之丸 正門
    元々は1612(慶長12)年に創建された榎多御門(えのきだごもん)と呼ばれる西之丸の門でした。この門も他の門と同様に手前に高麗門を置いて枡形を成しており、藩主や年寄職、城代、米蔵掛以外は出入りできない格式高い門でした。
    しかし、1891(明治24)年の濃尾大地震で大破したため、1910(明治43)年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されました。しかし、その門も太平洋戦争により焼失し、1959(昭和34)年に天守閣と共に蓮池御門の外観で鉄筋コンクリート造で再建されました。この門を潜ると西之丸に入ります。

  • 西之丸 正門<br />この門が一般的な「大手門」ではなく「正門」と呼ばれている理由は、名古屋城の本丸付近が明治維新後に「名古屋離宮」になっていたからです。<br />「準皇居」だったことから「正門」と名付けられたそうです。

    西之丸 正門
    この門が一般的な「大手門」ではなく「正門」と呼ばれている理由は、名古屋城の本丸付近が明治維新後に「名古屋離宮」になっていたからです。
    「準皇居」だったことから「正門」と名付けられたそうです。

  • 西之丸 正門<br />屋根には青銅製の鯱が揚げられています。

    西之丸 正門
    屋根には青銅製の鯱が揚げられています。

  • 西之丸 石垣<br />正門の正面にある石垣は、かつて榎多御門の前にあった枡形の名残です。<br />大きな石を使った算木積を持つ、打込ハギの石垣です。<br />城郭全体の石垣の積み方は野面積と打込ハギが混じりますが、出隅部分には石材の長辺を交互に向けて積み上げる算木積が採用されています。

    西之丸 石垣
    正門の正面にある石垣は、かつて榎多御門の前にあった枡形の名残です。
    大きな石を使った算木積を持つ、打込ハギの石垣です。
    城郭全体の石垣の積み方は野面積と打込ハギが混じりますが、出隅部分には石材の長辺を交互に向けて積み上げる算木積が採用されています。

  • 西之丸 石垣<br />石垣に模様が見られます。上方にあるの四角い凹部は石を切る時の楔(くさび)を打ち込むために彫られた矢穴と呼ばれるものの跡です。<br />落書きのようなものは刻紋(こくもん)と言います。石垣に使われた石の総数は10~20万個と言われていますが、刻紋は工事を担当した大名や家臣が他の担当大名の石材と区別するためのものです。刻紋は城内の石垣の至る所で見られ、その種類は一説には570程もあるそうです。<br />これらの石は、石崎山や篠島、幡豆をはじめ、紀伊や讃岐、築後からも集められました。

    西之丸 石垣
    石垣に模様が見られます。上方にあるの四角い凹部は石を切る時の楔(くさび)を打ち込むために彫られた矢穴と呼ばれるものの跡です。
    落書きのようなものは刻紋(こくもん)と言います。石垣に使われた石の総数は10~20万個と言われていますが、刻紋は工事を担当した大名や家臣が他の担当大名の石材と区別するためのものです。刻紋は城内の石垣の至る所で見られ、その種類は一説には570程もあるそうです。
    これらの石は、石崎山や篠島、幡豆をはじめ、紀伊や讃岐、築後からも集められました。

  • 西之丸 正門<br />東部は榎多門枡形から本丸大手馬出跡に至るまでの東西に伸びる区域であり、江戸期には「榎多門内屯」と呼ばれました。南側石垣上には榎多門から続く多聞櫓が建ち、内部は下多門等の建造物の他、空地には芝生地が広がっていました。<br />三之丸から本丸へ続く大手筋に当たり、かつては米蔵が立ち並び、有事の際の食糧基地としての役割も担ったそうです。

    西之丸 正門
    東部は榎多門枡形から本丸大手馬出跡に至るまでの東西に伸びる区域であり、江戸期には「榎多門内屯」と呼ばれました。南側石垣上には榎多門から続く多聞櫓が建ち、内部は下多門等の建造物の他、空地には芝生地が広がっていました。
    三之丸から本丸へ続く大手筋に当たり、かつては米蔵が立ち並び、有事の際の食糧基地としての役割も担ったそうです。

  • 西之丸  西南隅櫓(未申櫓:重文)<br />1612(慶長17)年頃に天守閣と同時に建立された、高さ13.8mある2層3階の櫓です。国宝 彦根城の天守の高さが16.3mですから、櫓がほぼ城の天守に匹敵するスケールです。かつては隅櫓と隅櫓が多門櫓という長屋のような櫓で繋がっており、難攻不落と言っても過言ではありません。<br />また、1層目に屋根を持たないため2重櫓に見えますが、内部は3階櫓になっています。外観が2重で、内部が3階の櫓は珍しいそうです。南面は唐破風の上に千鳥破風を載せています。因みに、駿府城坤櫓のモデルにもなっているそうです。<br />1891(明治24)年の濃尾大地震で傷んでいたところ、1921(大正10)年の暴風雨で石垣と共に崩壊しましたが、その後大正の修理を経て2014年に本来の白漆喰の姿で復元されて現在に至ります。因みに、鯱は旧江戸城から譲り受けた青銅製のものです。<br />今までは特別公開の時にしか見学できませんでしたが、HPによると11月から常時内部を公開するようです。<br /><br />HPです。<br />https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/04_guide/04_03_honmaru/04_03_04_seinan/index.html

    西之丸 西南隅櫓(未申櫓:重文)
    1612(慶長17)年頃に天守閣と同時に建立された、高さ13.8mある2層3階の櫓です。国宝 彦根城の天守の高さが16.3mですから、櫓がほぼ城の天守に匹敵するスケールです。かつては隅櫓と隅櫓が多門櫓という長屋のような櫓で繋がっており、難攻不落と言っても過言ではありません。
    また、1層目に屋根を持たないため2重櫓に見えますが、内部は3階櫓になっています。外観が2重で、内部が3階の櫓は珍しいそうです。南面は唐破風の上に千鳥破風を載せています。因みに、駿府城坤櫓のモデルにもなっているそうです。
    1891(明治24)年の濃尾大地震で傷んでいたところ、1921(大正10)年の暴風雨で石垣と共に崩壊しましたが、その後大正の修理を経て2014年に本来の白漆喰の姿で復元されて現在に至ります。因みに、鯱は旧江戸城から譲り受けた青銅製のものです。
    今までは特別公開の時にしか見学できませんでしたが、HPによると11月から常時内部を公開するようです。

    HPです。
    https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/04_guide/04_03_honmaru/04_03_04_seinan/index.html

  • 西之丸  西南隅櫓<br />未申櫓とも呼ばれ、外部に面した西と南の両面の千鳥破風の下には軍事用の「石落し」を設けながらも、装飾的に扱っています。平時は倉庫等に利用されていたそうですが、家康が高原院(正室 春姫)の嫁入行列をこの櫓から遠見したとの故事に倣い、代々藩主も度々この櫓に登ったと伝えられます。

    西之丸 西南隅櫓
    未申櫓とも呼ばれ、外部に面した西と南の両面の千鳥破風の下には軍事用の「石落し」を設けながらも、装飾的に扱っています。平時は倉庫等に利用されていたそうですが、家康が高原院(正室 春姫)の嫁入行列をこの櫓から遠見したとの故事に倣い、代々藩主も度々この櫓に登ったと伝えられます。

  • 西之丸  西南隅櫓<br />気になるのは、鬼瓦や軒瓦に見られる皇室を表す「菊紋」です。徳川家康の命令で築城された名古屋城ゆえ、徳川家の家紋「三葉葵」が入っているはずなのですが…<br />。<br />これは、櫓が崩壊した時点では宮内省の管轄下にあり、「名古屋離宮」として修理されたことに因むそうです。宮内省が修理復旧したことを示すため、敢えて「菊紋」を入れているそうです。<br />因みに、隅櫓は東西南北の4箇所にありましたが、東北隅櫓は戦災で消失しています。

    西之丸 西南隅櫓
    気になるのは、鬼瓦や軒瓦に見られる皇室を表す「菊紋」です。徳川家康の命令で築城された名古屋城ゆえ、徳川家の家紋「三葉葵」が入っているはずなのですが…

    これは、櫓が崩壊した時点では宮内省の管轄下にあり、「名古屋離宮」として修理されたことに因むそうです。宮内省が修理復旧したことを示すため、敢えて「菊紋」を入れているそうです。
    因みに、隅櫓は東西南北の4箇所にありましたが、東北隅櫓は戦災で消失しています。

  • 本丸 西南隅櫓 1階<br />西南隅櫓の外観を紹介しましたので、内部の様子もレポしておきます。本丸御殿の南側を真っ直ぐ進み、石段を登った先に出入口があります。<br />内部には展示資料など一切無く、お城ファンが造りを愉しむというか、構造を実感する趣旨になっています。<br />内部構造は、外側1間は武者走(通路)、内側2間が武具などの倉庫だったそうです。

    本丸 西南隅櫓 1階
    西南隅櫓の外観を紹介しましたので、内部の様子もレポしておきます。本丸御殿の南側を真っ直ぐ進み、石段を登った先に出入口があります。
    内部には展示資料など一切無く、お城ファンが造りを愉しむというか、構造を実感する趣旨になっています。
    内部構造は、外側1間は武者走(通路)、内側2間が武具などの倉庫だったそうです。

  • 本丸 西南隅櫓1階<br />名古屋城の記録集成『金城温古録』によると、内部は畳敷きで、歴代城主の甲冑が納められていたそうですが、それらは後に小天守へ移動しています。<br />畳は、戦時には壁に立てかけ、防御に用いる仕組みだったそうです。 

    本丸 西南隅櫓1階
    名古屋城の記録集成『金城温古録』によると、内部は畳敷きで、歴代城主の甲冑が納められていたそうですが、それらは後に小天守へ移動しています。
    畳は、戦時には壁に立てかけ、防御に用いる仕組みだったそうです。 

  • 本丸 西南隅櫓1階<br />消防法の規定に基づき、入場制限をしています。櫓の収容人数はスタッフを含め3階は9名以下、棟全体で49名以下だそうです。行列が長い場合は最終入場時間前に入場を打ち切ることもあるようですので、内部見学を希望される方は早めにアタックされることをお勧めします。

    本丸 西南隅櫓1階
    消防法の規定に基づき、入場制限をしています。櫓の収容人数はスタッフを含め3階は9名以下、棟全体で49名以下だそうです。行列が長い場合は最終入場時間前に入場を打ち切ることもあるようですので、内部見学を希望される方は早めにアタックされることをお勧めします。

  • 本丸 西南隅櫓2階<br />2階にあるのは、「石落し」という防御設備です。敵が石垣に取り付いて櫓に迫ってきた時、この穴から石を落としたり火縄銃で迎撃したりするための穴です。<br />優雅な外観を魅せる千鳥破風の下にこうした攻撃用の穴が隠されています。

    本丸 西南隅櫓2階
    2階にあるのは、「石落し」という防御設備です。敵が石垣に取り付いて櫓に迫ってきた時、この穴から石を落としたり火縄銃で迎撃したりするための穴です。
    優雅な外観を魅せる千鳥破風の下にこうした攻撃用の穴が隠されています。

  • 本丸 西南隅櫓2階<br />補強のためなのか、水平材と斜材の接合部にボルトや平型I字金具などが使われています。これらは、空堀に崩落したこの櫓が大正時代に復旧・再建された際に新しい部材や技術で補強されたものと思われます。

    本丸 西南隅櫓2階
    補強のためなのか、水平材と斜材の接合部にボルトや平型I字金具などが使われています。これらは、空堀に崩落したこの櫓が大正時代に復旧・再建された際に新しい部材や技術で補強されたものと思われます。

  • 本丸 西南隅櫓3階<br />ここは藩主が座すことを想定した櫓であるため、最上階の3階は東側には武者走(通路)がなくコの字型をしており、櫓には珍しく天井が張られています。<br />畳を敷ける構造ではあるものの、杉戸などを設置できる構造ではありません。藩主が座すものの、長居する場所ではなかったようです。

    本丸 西南隅櫓3階
    ここは藩主が座すことを想定した櫓であるため、最上階の3階は東側には武者走(通路)がなくコの字型をしており、櫓には珍しく天井が張られています。
    畳を敷ける構造ではあるものの、杉戸などを設置できる構造ではありません。藩主が座すものの、長居する場所ではなかったようです。

  • 本丸 西南隅櫓3階<br />廻り子と長押が設けられており、意匠は多少異なるものの本丸御殿にあったような金箔を貼った六葉釘隠しも施され、特別な空間となっています。<br />

    本丸 西南隅櫓3階
    廻り子と長押が設けられており、意匠は多少異なるものの本丸御殿にあったような金箔を貼った六葉釘隠しも施され、特別な空間となっています。

  • 本丸 西南隅櫓3階<br />櫓から眺める小天守越しの大天守の雄姿です。<br />明治維新の際、尾張藩は新政府に名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出たそうです。金鯱は溶かして武士の帰農手当や城跡の整備費にする計画でした。多くの城がこの時期に破却されましたが、名古屋城はドイツ公使ブラントと大日本帝国陸軍第四局長代理 中村重遠工兵大佐が価値があり、残すべきと陳情し、天守は本丸御殿と共に残されました。

    本丸 西南隅櫓3階
    櫓から眺める小天守越しの大天守の雄姿です。
    明治維新の際、尾張藩は新政府に名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出たそうです。金鯱は溶かして武士の帰農手当や城跡の整備費にする計画でした。多くの城がこの時期に破却されましたが、名古屋城はドイツ公使ブラントと大日本帝国陸軍第四局長代理 中村重遠工兵大佐が価値があり、残すべきと陳情し、天守は本丸御殿と共に残されました。

  • 本丸 西南隅櫓3階<br />下々の民衆を見下ろしていた名古屋城も時の流れと共に高層ビル群から見下げられてしまう下克上の世の中に変わってしまいました。こうした情景は、少し儚い思いがしないでもありません…。<br />遅まきながら、名古屋市は天守閣から半径1km以内の建物の高さを原則「標高50m以下」に制限する計画案を明らかにしました。名古屋城からの眺望を慮ってのことでしょうが、いかがなものでしょうか?<br />因みに、1km以内にある名古屋市本庁舎の時計塔(53.5m)は、原則論で例外として認めるのだと思います。

    本丸 西南隅櫓3階
    下々の民衆を見下ろしていた名古屋城も時の流れと共に高層ビル群から見下げられてしまう下克上の世の中に変わってしまいました。こうした情景は、少し儚い思いがしないでもありません…。
    遅まきながら、名古屋市は天守閣から半径1km以内の建物の高さを原則「標高50m以下」に制限する計画案を明らかにしました。名古屋城からの眺望を慮ってのことでしょうが、いかがなものでしょうか?
    因みに、1km以内にある名古屋市本庁舎の時計塔(53.5m)は、原則論で例外として認めるのだと思います。

  • 本丸 西南隅櫓3階<br />正門方向を望みます。<br />名古屋駅周辺には高層ビル群が跋扈していますが、この辺りは半径1kmを越えます。<br />左端の黒っぽいビルはミッドランド スクエア、その右の四角いビルが大名古屋ビルヂング、その後方のツインタワーがJRセントラルタワーズ、そこから順にJRゲートタワー、JRタワー名古屋、名古屋プライム・セントラルタワー、右端が名古屋ルーセントタワーと思います。

    本丸 西南隅櫓3階
    正門方向を望みます。
    名古屋駅周辺には高層ビル群が跋扈していますが、この辺りは半径1kmを越えます。
    左端の黒っぽいビルはミッドランド スクエア、その右の四角いビルが大名古屋ビルヂング、その後方のツインタワーがJRセントラルタワーズ、そこから順にJRゲートタワー、JRタワー名古屋、名古屋プライム・セントラルタワー、右端が名古屋ルーセントタワーと思います。

  • 本丸 西南隅櫓3階<br />千鳥破風の稜線にある花瓦は「菊紋」のオンパレードです。<br />また、千鳥破風の稜線に沿って白い矩形をした漆喰が等間隔に配されています。これは元々あった白漆喰の補強を、名古屋離宮時代に再建した際に更に補強したものだそうです。<br />因みに、名古屋城オリジナルの白漆喰の補強は、東南隅櫓や西北隅櫓にも見られます。

    本丸 西南隅櫓3階
    千鳥破風の稜線にある花瓦は「菊紋」のオンパレードです。
    また、千鳥破風の稜線に沿って白い矩形をした漆喰が等間隔に配されています。これは元々あった白漆喰の補強を、名古屋離宮時代に再建した際に更に補強したものだそうです。
    因みに、名古屋城オリジナルの白漆喰の補強は、東南隅櫓や西北隅櫓にも見られます。

  • 本丸 表二之門<br />白壁に埋もれたような門ですが、天守閣や本丸御殿へ入るメインゲートであり、名古屋城を訪れるほとんどの方が潜る門です。<br />ところで、この門、どこかで見た覚えはありませんか?<br />そうです、地下鉄名城線「市役所」駅の出入口のモデルとなった門です。

    本丸 表二之門
    白壁に埋もれたような門ですが、天守閣や本丸御殿へ入るメインゲートであり、名古屋城を訪れるほとんどの方が潜る門です。
    ところで、この門、どこかで見た覚えはありませんか?
    そうです、地下鉄名城線「市役所」駅の出入口のモデルとなった門です。

  • 本丸 表二之門<br />大手馬出しから見る表二之門です。名古屋城創建時が偲べる数少ない建造物のひとつです。<br />1930(昭和5)年に国宝保存法に基づき国宝に指定されましたが、1950(昭和25)年に文化財保護法施行に伴い重文に格が下げられました。<br />西之丸と本丸を結び、往時は本丸大手の外門として南二之門と呼ばれ、内門である表一之門と共に枡形を形成していました。本瓦葺を載せた高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、門柱・冠木は共に鉄板張りで用材は木割りが太く堅固な造りです。

    本丸 表二之門
    大手馬出しから見る表二之門です。名古屋城創建時が偲べる数少ない建造物のひとつです。
    1930(昭和5)年に国宝保存法に基づき国宝に指定されましたが、1950(昭和25)年に文化財保護法施行に伴い重文に格が下げられました。
    西之丸と本丸を結び、往時は本丸大手の外門として南二之門と呼ばれ、内門である表一之門と共に枡形を形成していました。本瓦葺を載せた高麗門で、軒回りは漆喰塗り込めとし、門柱・冠木は共に鉄板張りで用材は木割りが太く堅固な造りです。

  • 本丸 表二之門<br />袖塀は創建時の土塀として現存する数少ない遺構であり、土塀には丸い鉄砲狭間を開いており、要害としての機能が窺えます。 <br />扉などは、細い幅の鉄板を小札打ちしています。<br />また、柱と石との合わせ方も変っていますので一見の価値ありです。

    本丸 表二之門
    袖塀は創建時の土塀として現存する数少ない遺構であり、土塀には丸い鉄砲狭間を開いており、要害としての機能が窺えます。
    扉などは、細い幅の鉄板を小札打ちしています。
    また、柱と石との合わせ方も変っていますので一見の価値ありです。

  • 本丸 表二之門<br />控え柱の上に掛けられた切妻屋根の妻側の隅にある留蓋瓦には、亀を象った瓦が使われています。実は、名古屋城は別名「亀の尾城」とも呼ばれ、「名古屋城は亀の尾の上に建つ」との言い伝えがあります。亀の瓦は、その痕跡とされます。<br />一方、熱田神宮には「蓬莱伝説」が伝わり、蓬莱島と見做された熱田の杜は巨大な「金亀」の甲羅の上に載っていると伝えられました。つまり、熱田神宮の地下には金亀が棲み、首の部分に別宮が建ち、頭の部分に上知我麻神社が建ち、尻尾の先にあるのが名古屋城と言うことです。<br />因みに、清正石の向いにある旧二之丸東二之門にも亀の瓦が見られます。

    本丸 表二之門
    控え柱の上に掛けられた切妻屋根の妻側の隅にある留蓋瓦には、亀を象った瓦が使われています。実は、名古屋城は別名「亀の尾城」とも呼ばれ、「名古屋城は亀の尾の上に建つ」との言い伝えがあります。亀の瓦は、その痕跡とされます。
    一方、熱田神宮には「蓬莱伝説」が伝わり、蓬莱島と見做された熱田の杜は巨大な「金亀」の甲羅の上に載っていると伝えられました。つまり、熱田神宮の地下には金亀が棲み、首の部分に別宮が建ち、頭の部分に上知我麻神社が建ち、尻尾の先にあるのが名古屋城と言うことです。
    因みに、清正石の向いにある旧二之丸東二之門にも亀の瓦が見られます。

  • 本丸 表二之門<br />城外からの表入口となる大手門は見栄えのする立派な門構えの所が多いのですが、ここは本丸への入口になるため、鉄板を張り土塀も厚くし、見るからに堅牢にした実用本位の門構えと言えます。

    本丸 表二之門
    城外からの表入口となる大手門は見栄えのする立派な門構えの所が多いのですが、ここは本丸への入口になるため、鉄板を張り土塀も厚くし、見るからに堅牢にした実用本位の門構えと言えます。

  • 本丸 表二之門<br />二之門と現在は存在しない一之門(櫓門)の間にあった枡形です。<br />この枡形の底は石畳となっていますが、これはここに閉じ込められた敵兵が逃走するためにトンネルを掘るのを防ぐためです。<br />また、二之門の先に一之門があるのは、通常の城郭では異例です。これは、名古屋城では入城よりも出陣を基本に考え、本丸側の奥門を一之門、表門を二之門と呼んだからです。

    本丸 表二之門
    二之門と現在は存在しない一之門(櫓門)の間にあった枡形です。
    この枡形の底は石畳となっていますが、これはここに閉じ込められた敵兵が逃走するためにトンネルを掘るのを防ぐためです。
    また、二之門の先に一之門があるのは、通常の城郭では異例です。これは、名古屋城では入城よりも出陣を基本に考え、本丸側の奥門を一之門、表門を二之門と呼んだからです。

  • 本丸 表二之門<br />表二之門周りの枡形石塁には、筑後から運ばれた石が使われており、刻紋に「た中ちくご守石(田中筑後守石)」(筑後の田中忠政 32.5万石)と書かれた石が横たわっています。

    本丸 表二之門
    表二之門周りの枡形石塁には、筑後から運ばれた石が使われており、刻紋に「た中ちくご守石(田中筑後守石)」(筑後の田中忠政 32.5万石)と書かれた石が横たわっています。

  • 本丸御殿<br />表二之門を過ぎると本丸御殿の玄関と車寄が見えてきます。<br />本丸御殿については、別の旅行記で紹介しております。

    本丸御殿
    表二之門を過ぎると本丸御殿の玄関と車寄が見えてきます。
    本丸御殿については、別の旅行記で紹介しております。

  • 本丸 大天守 金鯱<br />名古屋城は、「金城」や「金鯱城」とも呼ばれました。<br />江戸時代の改鋳と合わせ、現在の金鯱は少なくとも4代目となります。檜の芯木に鉛板を貼り、その上から銅板で覆い、鱗に金を張り付けています。<br />近くで見ると頭部が少し大きくてバランスが悪いように見えますが、これは遠くから眺めた時により立派に見えるように配慮されたものです。現在の金鯱は一対で88kg程の18金が使用されており、1尾2億円は下りません。また、築城当初と同じ方法で復元された金板張木造鯱は、現在はここでしか見られません。因みに、岡山城や松本城などの金鯱は金箔押鯱瓦です。かつては、多くの城に金鯱が揚げられていましたが、江戸時代を生き延び、近代まで残った名古屋城が金鯱の代名詞となりました。その金鯱も大天守と共に焼失し、雌の残骸はGHQに接収された後に市に返還されています。そこから取り出された金は、市の旗竿の頭飾りや金の茶釜として活用されたそうです。

    本丸 大天守 金鯱
    名古屋城は、「金城」や「金鯱城」とも呼ばれました。
    江戸時代の改鋳と合わせ、現在の金鯱は少なくとも4代目となります。檜の芯木に鉛板を貼り、その上から銅板で覆い、鱗に金を張り付けています。
    近くで見ると頭部が少し大きくてバランスが悪いように見えますが、これは遠くから眺めた時により立派に見えるように配慮されたものです。現在の金鯱は一対で88kg程の18金が使用されており、1尾2億円は下りません。また、築城当初と同じ方法で復元された金板張木造鯱は、現在はここでしか見られません。因みに、岡山城や松本城などの金鯱は金箔押鯱瓦です。かつては、多くの城に金鯱が揚げられていましたが、江戸時代を生き延び、近代まで残った名古屋城が金鯱の代名詞となりました。その金鯱も大天守と共に焼失し、雌の残骸はGHQに接収された後に市に返還されています。そこから取り出された金は、市の旗竿の頭飾りや金の茶釜として活用されたそうです。

  • 本丸 大天守 金鯱(雄)<br />金鯱は明治時代に3回、盗難未遂に遭っています。往時の刑罰は厳しく、順に銃殺刑、懲役10年、「犯人が旧陸軍兵だったため軍秘処理」に処されました。 1937(昭和12)年にも大阪のミシン職工により雄の鱗が58枚盗まれました。往時、測量のために足場が組まれており、犯人は大天守内に身を潜めて夜を待ち、足場を使って屋根に上って犯行に及びました。往時の新聞によると、別れた妻子を探す資金をつくるための犯行だったようです。公判では懲役10年が言い渡されました。<br />余談ですが、江戸時代には、大凧に乗って天守の屋根に上り、金鯱の鱗を盗んだ大盗賊 柿木金助の伝説があります。伝説の域を超えるものではありませんが、金助は実在した尾張の盗賊であり、国外追放されても舞い戻っては悪事を働き、終に死罪判決を受けるも悪運強く恩赦で追放されました。更に悪事を働いて捕らえられると、次は牢破りをして美濃で捕らえられ、1763(宝暦13)年に磔獄門に処されました。こうした金助のふてぶてしさが、月を背に大天守に跨り、金鯱を手にする痛快な大盗賊の姿を想像させたと伝わります。

    本丸 大天守 金鯱(雄)
    金鯱は明治時代に3回、盗難未遂に遭っています。往時の刑罰は厳しく、順に銃殺刑、懲役10年、「犯人が旧陸軍兵だったため軍秘処理」に処されました。 1937(昭和12)年にも大阪のミシン職工により雄の鱗が58枚盗まれました。往時、測量のために足場が組まれており、犯人は大天守内に身を潜めて夜を待ち、足場を使って屋根に上って犯行に及びました。往時の新聞によると、別れた妻子を探す資金をつくるための犯行だったようです。公判では懲役10年が言い渡されました。
    余談ですが、江戸時代には、大凧に乗って天守の屋根に上り、金鯱の鱗を盗んだ大盗賊 柿木金助の伝説があります。伝説の域を超えるものではありませんが、金助は実在した尾張の盗賊であり、国外追放されても舞い戻っては悪事を働き、終に死罪判決を受けるも悪運強く恩赦で追放されました。更に悪事を働いて捕らえられると、次は牢破りをして美濃で捕らえられ、1763(宝暦13)年に磔獄門に処されました。こうした金助のふてぶてしさが、月を背に大天守に跨り、金鯱を手にする痛快な大盗賊の姿を想像させたと伝わります。

  • 本丸 大天守 金鯱(雌)<br />かつては大阪城や江戸城、駿府城などにも金鯱が載せられていましたが、火災等にも遭い、江戸時代中期以降は名古屋城だけが金鯱を載せていました。<br />「天下様でもかなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし」と江戸時代の旅人たちが歌ったほどの名物でした。<br />この2体のつがいの金鯱は、大きさが微妙に異なります。この南側にあるのが雌(高さ2.58m)、北側にあるのが雄(2.62m)で、若干雄の方が大きくなっています。また、鱗の数は、雄が112枚で雌が126枚と雌の方がゴージャスです。

    本丸 大天守 金鯱(雌)
    かつては大阪城や江戸城、駿府城などにも金鯱が載せられていましたが、火災等にも遭い、江戸時代中期以降は名古屋城だけが金鯱を載せていました。
    「天下様でもかなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし」と江戸時代の旅人たちが歌ったほどの名物でした。
    この2体のつがいの金鯱は、大きさが微妙に異なります。この南側にあるのが雌(高さ2.58m)、北側にあるのが雄(2.62m)で、若干雄の方が大きくなっています。また、鱗の数は、雄が112枚で雌が126枚と雌の方がゴージャスです。

  • 本丸 大天守<br />この風景を見て小学生時代に登城した時の記憶が甦りました。<br />天下の名城と称された名古屋城は、天守の高さ(55.6m)では江戸城や大阪城に敵いませんが、延べ床面積では日本最大の広さを誇りました。<br />名古屋城のイメージとして真っ先に浮ぶのは薄緑色の屋根です。屋根は銅瓦葺のため、緑青の色が浮き出ています。<br />各層の平側(長辺側)と妻側(短辺側)で千鳥破風の配置や数を違えて見た目のバランスを図っています。千鳥破風を2つ横に並べた比翼千鳥破風も優雅です。<br />また、数ヶ所設けられた向唐破風は、築城当時は隠石落(石落し)となっていたようですが、現在では外見にその姿を留めるのみで完全に塞がれています。破風に取り付けられた蕪懸魚には、徳川家の葵紋などがあしらわれています。

    本丸 大天守
    この風景を見て小学生時代に登城した時の記憶が甦りました。
    天下の名城と称された名古屋城は、天守の高さ(55.6m)では江戸城や大阪城に敵いませんが、延べ床面積では日本最大の広さを誇りました。
    名古屋城のイメージとして真っ先に浮ぶのは薄緑色の屋根です。屋根は銅瓦葺のため、緑青の色が浮き出ています。
    各層の平側(長辺側)と妻側(短辺側)で千鳥破風の配置や数を違えて見た目のバランスを図っています。千鳥破風を2つ横に並べた比翼千鳥破風も優雅です。
    また、数ヶ所設けられた向唐破風は、築城当時は隠石落(石落し)となっていたようですが、現在では外見にその姿を留めるのみで完全に塞がれています。破風に取り付けられた蕪懸魚には、徳川家の葵紋などがあしらわれています。

  • 本丸 大天守<br />「木造天守閣の復元」については、市民の間でも賛否両論があります。<br />国宝「名古屋城」は太平洋戦争末期に空襲で焼失しましたが、戦後、市民の寄付で1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で再建されました。これに対し「耐震性に問題がある現天守閣を解体し、木造で完全復元してその話題性で集客し、いずれ国宝に!」というのが河村市長のシナリオです。<br />しかし問題も山積です。まず建築基準法に触れます。伝統的木造工法を用いれば、耐震耐火性能で違反です。折衷案として竹中工務店が提示した案は、耐震性を確保した木造強化ハイブリッド工法+防火対策です。しかし完全復元とはならず、話題性やその先の国宝路線が寸断されるため渋っています。<br />更には、新しい建築物にはバリアフリーの義務付けがあり、障害者団体は安心安全な方法としてエレベータ設置を求めています。現在の大天守も外付けエレベータが後付されていますが、市長側はエレベータを設置すれば完全復元とは言えないとの論調です。

    本丸 大天守
    「木造天守閣の復元」については、市民の間でも賛否両論があります。
    国宝「名古屋城」は太平洋戦争末期に空襲で焼失しましたが、戦後、市民の寄付で1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で再建されました。これに対し「耐震性に問題がある現天守閣を解体し、木造で完全復元してその話題性で集客し、いずれ国宝に!」というのが河村市長のシナリオです。
    しかし問題も山積です。まず建築基準法に触れます。伝統的木造工法を用いれば、耐震耐火性能で違反です。折衷案として竹中工務店が提示した案は、耐震性を確保した木造強化ハイブリッド工法+防火対策です。しかし完全復元とはならず、話題性やその先の国宝路線が寸断されるため渋っています。
    更には、新しい建築物にはバリアフリーの義務付けがあり、障害者団体は安心安全な方法としてエレベータ設置を求めています。現在の大天守も外付けエレベータが後付されていますが、市長側はエレベータを設置すれば完全復元とは言えないとの論調です。

  • 本丸 清正石(きよまさいし)<br />本丸搦手枡形虎口の石垣内に埋め込まれた、縦2m程×横6m、表面積で10畳ほどある巨石です。全国の城郭に使われた石の大きさとしては、14位にランクされますが、1~13位は全て大阪城にあります。城内最大の石材は通常「鏡石」と呼ばれますが、通称「清正石」と呼ばれて天守台石垣の普請を担当した熊本城主 加藤清正が運んで設置したように思わせます。<br />しかし、実は本丸東門は黒田長政の担当だったそうです。この石も長政によるものですが、巨石であるがゆえ、築城普請の名手として名高く、名古屋城の石垣全般の工事を担当した清正の名前を冠して語り継がれてしまったそうです。<br />因みに、尾張名所図会『加藤清正石引図』なるものがあり、清正が熱田湊から巨大な石を運ぶ様子が描かれています。清正自身が石を飾り、そして清正も石の上に乗り、片鎌槍で木遣り音頭を取っている図です。こうした図の影響も多分にあるのかもしれません。

    本丸 清正石(きよまさいし)
    本丸搦手枡形虎口の石垣内に埋め込まれた、縦2m程×横6m、表面積で10畳ほどある巨石です。全国の城郭に使われた石の大きさとしては、14位にランクされますが、1~13位は全て大阪城にあります。城内最大の石材は通常「鏡石」と呼ばれますが、通称「清正石」と呼ばれて天守台石垣の普請を担当した熊本城主 加藤清正が運んで設置したように思わせます。
    しかし、実は本丸東門は黒田長政の担当だったそうです。この石も長政によるものですが、巨石であるがゆえ、築城普請の名手として名高く、名古屋城の石垣全般の工事を担当した清正の名前を冠して語り継がれてしまったそうです。
    因みに、尾張名所図会『加藤清正石引図』なるものがあり、清正が熱田湊から巨大な石を運ぶ様子が描かれています。清正自身が石を飾り、そして清正も石の上に乗り、片鎌槍で木遣り音頭を取っている図です。こうした図の影響も多分にあるのかもしれません。

  • 本丸 東二之門(旧二之丸東二之門:重文)<br />本瓦葺、高麗門形式の門です。大天守と同時期に創建された門です。暫くの間解体保存されていましたが、1972(昭和47)年に再建されました。数少ない、築城時を偲ぶよすがのひとつです。古くは冠木門(かぶきもん)と呼ばた二之丸の東門で、三之丸からの入口に当たります。門柱や冠木、扉などには帯鉄が打ち付けられており、用材は木割りが太く堅固なものです。<br />奥に石垣が見え、枡形になっていることが判ります。また正面の石垣の中に「清正石」が見られます。<br />この門の手前は馬出(本丸搦手馬出)になっていたはずですが、その跡はよく判りません。

    本丸 東二之門(旧二之丸東二之門:重文)
    本瓦葺、高麗門形式の門です。大天守と同時期に創建された門です。暫くの間解体保存されていましたが、1972(昭和47)年に再建されました。数少ない、築城時を偲ぶよすがのひとつです。古くは冠木門(かぶきもん)と呼ばた二之丸の東門で、三之丸からの入口に当たります。門柱や冠木、扉などには帯鉄が打ち付けられており、用材は木割りが太く堅固なものです。
    奥に石垣が見え、枡形になっていることが判ります。また正面の石垣の中に「清正石」が見られます。
    この門の手前は馬出(本丸搦手馬出)になっていたはずですが、その跡はよく判りません。

  • 本丸 小天守<br />焼失前の小天守は2重2階地下1階の層塔型で、大天守と地階を渡櫓の代わりに土塀で挟んだ橋台で結ばれた連結式天守閣です。大天守に至るには小天守を通る必要があり、入口にあった番所が関門の役割を果たしました。小天守とは言え、徳川御三家の城でもあり、スケールの大きなものです。<br />尚、大工頭を担当した中井家に伝わる指図によると、大天守の西側にもうひとつの小天守が計画されていたとの説があります。

    本丸 小天守
    焼失前の小天守は2重2階地下1階の層塔型で、大天守と地階を渡櫓の代わりに土塀で挟んだ橋台で結ばれた連結式天守閣です。大天守に至るには小天守を通る必要があり、入口にあった番所が関門の役割を果たしました。小天守とは言え、徳川御三家の城でもあり、スケールの大きなものです。
    尚、大工頭を担当した中井家に伝わる指図によると、大天守の西側にもうひとつの小天守が計画されていたとの説があります。

  • 本丸 不明門(あかずのもん)<br />深井丸(おふけまる)へ通じる出入口にある門で、形式は多聞櫓の下を潜る埋門です。御殿の大奥に通じる秘門で通常は厳重に鍵がかけられていたため、別名「あかずの門」と呼ばれました。<br />1945(昭和20)年の空襲で天守閣等と共に焼失し、再建されたものです。

    本丸 不明門(あかずのもん)
    深井丸(おふけまる)へ通じる出入口にある門で、形式は多聞櫓の下を潜る埋門です。御殿の大奥に通じる秘門で通常は厳重に鍵がかけられていたため、別名「あかずの門」と呼ばれました。
    1945(昭和20)年の空襲で天守閣等と共に焼失し、再建されたものです。

  • 本丸 御殿椿<br />この椿は、名古屋城築城当時から本丸御殿の南庭にあったと伝えられ、「御殿椿」と呼ばれるようになりました。椿の種類は「大城冠(だいじょうかん)」です。名古屋大空襲の際、本丸御殿と共に焼失しましたが、幸運にもその焼け株から芽を出した蘖(ひこばえ)だそうです。それを接ぎ木し、不明門の脇に植えたものです。<br />椿ひとつにも人知れぬ歴史が宿っているものです。因みに、白い八重の美しい花を咲かせるそうです。

    本丸 御殿椿
    この椿は、名古屋城築城当時から本丸御殿の南庭にあったと伝えられ、「御殿椿」と呼ばれるようになりました。椿の種類は「大城冠(だいじょうかん)」です。名古屋大空襲の際、本丸御殿と共に焼失しましたが、幸運にもその焼け株から芽を出した蘖(ひこばえ)だそうです。それを接ぎ木し、不明門の脇に植えたものです。
    椿ひとつにも人知れぬ歴史が宿っているものです。因みに、白い八重の美しい花を咲かせるそうです。

  • 御深井丸 不明門<br />この門の北面にある塀外部軒桁には防護機能「忍び返し」を思わせる「剣塀(つるぎべい)」が設けられています。軒桁に30cm余の槍の穂先を下向きにぎっしり並べることで忍返しの役割を果たしました。<br />この剣塀が名古屋城名物のひとつです。<br />色々と創意工夫を凝らしていたようですが、それらが役に立つ機会はありませんでした。名古屋城の落城は、現代になって、それも上空からでした。

    御深井丸 不明門
    この門の北面にある塀外部軒桁には防護機能「忍び返し」を思わせる「剣塀(つるぎべい)」が設けられています。軒桁に30cm余の槍の穂先を下向きにぎっしり並べることで忍返しの役割を果たしました。
    この剣塀が名古屋城名物のひとつです。
    色々と創意工夫を凝らしていたようですが、それらが役に立つ機会はありませんでした。名古屋城の落城は、現代になって、それも上空からでした。

  • 御深井丸 不明門<br />剣塀のズームアップです。<br />不明門を潜った先が御深井丸エリアです。<br />本丸の西北を囲み、東部には塩蔵構という小さな曲輪を配し、その連結部には枡形を成す塩蔵門が設けられていました。西辺中央に鋳多聞櫓、西北には西北隅櫓、北辺には西弓矢多聞櫓、弓矢櫓、東弓矢多聞櫓を配し、西北部の内部には磨蔵や大筒蔵、御旅筒蔵、御手筒蔵、南穴蔵、北穴蔵など、鉄砲や弾薬等の保管庫が建てられ、塩蔵構には3棟の塩蔵が建てられていました。<br />戦後は、猿面・望嶽茶席や又隠(ゆういん)茶席、織部堂などが現在地に建てられ、天守の再建に伴って焼失した天守の礎石を不明門北側の現在地に移しました。また、古墳時代の石棺式石室や、白凰時代の塔の心柱礎石が名古屋城に寄付され、これらを茶席周辺に安置しています。<br />現在は北西部に西北隅櫓や乃木倉庫が現存し、樹木が多い緑豊かなエリアとなっています。

    御深井丸 不明門
    剣塀のズームアップです。
    不明門を潜った先が御深井丸エリアです。
    本丸の西北を囲み、東部には塩蔵構という小さな曲輪を配し、その連結部には枡形を成す塩蔵門が設けられていました。西辺中央に鋳多聞櫓、西北には西北隅櫓、北辺には西弓矢多聞櫓、弓矢櫓、東弓矢多聞櫓を配し、西北部の内部には磨蔵や大筒蔵、御旅筒蔵、御手筒蔵、南穴蔵、北穴蔵など、鉄砲や弾薬等の保管庫が建てられ、塩蔵構には3棟の塩蔵が建てられていました。
    戦後は、猿面・望嶽茶席や又隠(ゆういん)茶席、織部堂などが現在地に建てられ、天守の再建に伴って焼失した天守の礎石を不明門北側の現在地に移しました。また、古墳時代の石棺式石室や、白凰時代の塔の心柱礎石が名古屋城に寄付され、これらを茶席周辺に安置しています。
    現在は北西部に西北隅櫓や乃木倉庫が現存し、樹木が多い緑豊かなエリアとなっています。

  • 御深井丸 大天守<br />「木造天守閣の復元」については、石垣の安全性も課題です。建物が耐震基準を満たしても、その土台が崩れては無意味です。現天守閣を建てる際、石垣の一部を壊したり積み直しており、調査しないと安全が担保できません。因みに、初期計画は、無謀にも石垣の安全性を不問とする既定路線でした。台風21号の高潮で水没しながらも南海トラフ地震の津波からの安全性を棚上げして再開された関空第1ターミナルと同様、スケジュールありきで進められた節があり、文化庁は再建許可を出していません。 50年に一度の大災害が頻発する今日、関空は台風と地震が同時に襲来するとの想定でリスク管理を見直すべきです。<br />天守復元については暫く沈黙でしたが、最近動きがありました。市長は、文化庁が2018年10月に開かれた文化審議会で木造復元の計画書案の提出を見送りました。傷んだ石垣の保存対策をまとめるのに時間を要するためです。復元には文化庁の許可が不可欠ですが、その前提として文化審議会の認可が必要です。しかし、2022年12月竣工は譲らない構えのようです。

    御深井丸 大天守
    「木造天守閣の復元」については、石垣の安全性も課題です。建物が耐震基準を満たしても、その土台が崩れては無意味です。現天守閣を建てる際、石垣の一部を壊したり積み直しており、調査しないと安全が担保できません。因みに、初期計画は、無謀にも石垣の安全性を不問とする既定路線でした。台風21号の高潮で水没しながらも南海トラフ地震の津波からの安全性を棚上げして再開された関空第1ターミナルと同様、スケジュールありきで進められた節があり、文化庁は再建許可を出していません。 50年に一度の大災害が頻発する今日、関空は台風と地震が同時に襲来するとの想定でリスク管理を見直すべきです。
    天守復元については暫く沈黙でしたが、最近動きがありました。市長は、文化庁が2018年10月に開かれた文化審議会で木造復元の計画書案の提出を見送りました。傷んだ石垣の保存対策をまとめるのに時間を要するためです。復元には文化庁の許可が不可欠ですが、その前提として文化審議会の認可が必要です。しかし、2022年12月竣工は譲らない構えのようです。

  • 御深井丸 大天守<br />更なる問題は、城郭全体の復元年代の乖離です。本丸御殿は寛永期の姿で復元されましたが、ここに宝暦期の銅瓦葺天守閣を復元するのはいかがなものでしょうか?テーマパークなら兎も角、百歩譲って大天守だけを宝暦期のものに復元にするにしても、石垣を宝暦期の状態にするのは困難です。また実戦形城郭ゆえ、階段の急勾配など老人や子供、女性が登城する構造ではありません。完全復元に拘るなら、集客数を顧みずにそうした内部構造にしないと理屈が合いません。<br />今後、多門櫓などを順次復元する際にも年代を統一すべきですが、そうしたグランドデザインがなされていないことが「お城ファン」を失望させています。天守閣の木造復元にはロマンがありますが、非実現的です。ここは木造完全復元を諦め、折衷案を採用するのが賢明では…。<br />いずれにせよ今後の城郭の保存と利用のロールモデルになるものですので、拙速とならないように議論を醸されることを望みます。<br />因みに、大天守の左側に張り出しているのが、身障者用のエレベータ棟です。

    御深井丸 大天守
    更なる問題は、城郭全体の復元年代の乖離です。本丸御殿は寛永期の姿で復元されましたが、ここに宝暦期の銅瓦葺天守閣を復元するのはいかがなものでしょうか?テーマパークなら兎も角、百歩譲って大天守だけを宝暦期のものに復元にするにしても、石垣を宝暦期の状態にするのは困難です。また実戦形城郭ゆえ、階段の急勾配など老人や子供、女性が登城する構造ではありません。完全復元に拘るなら、集客数を顧みずにそうした内部構造にしないと理屈が合いません。
    今後、多門櫓などを順次復元する際にも年代を統一すべきですが、そうしたグランドデザインがなされていないことが「お城ファン」を失望させています。天守閣の木造復元にはロマンがありますが、非実現的です。ここは木造完全復元を諦め、折衷案を採用するのが賢明では…。
    いずれにせよ今後の城郭の保存と利用のロールモデルになるものですので、拙速とならないように議論を醸されることを望みます。
    因みに、大天守の左側に張り出しているのが、身障者用のエレベータ棟です。

  • 御深井丸 大天守の礎石<br />現在の鉄筋コンクリート造の天守閣は、石垣に重量をかけないよう、天守台内部に大きなコンクリートの箱を造り、その上に建てられています。そのため、かつての礎石を移動させる必要があり、大天守の北側、御深井丸の東側に移され、元の通りに整列させて保存展示しています。 <br />礎石は、戦災で焼失した際の熱が原因なのか、痛々しいひび割れに戦慄が走ります。

    御深井丸 大天守の礎石
    現在の鉄筋コンクリート造の天守閣は、石垣に重量をかけないよう、天守台内部に大きなコンクリートの箱を造り、その上に建てられています。そのため、かつての礎石を移動させる必要があり、大天守の北側、御深井丸の東側に移され、元の通りに整列させて保存展示しています。
    礎石は、戦災で焼失した際の熱が原因なのか、痛々しいひび割れに戦慄が走ります。

  • 御深井丸 石棺式石室<br />礎石の近くには古墳時代後期の石棺式石室があります。立札には、「出雲地方独特の横穴式石室であり、島根県松江市の団原古墳の石室を名古屋人が寄付した」と書かれています。でも何故ここに安置されているのか???<br />団原古墳は私有地にあり、石室も個人所有でした。それを名古屋の古美術商が買い、名古屋郊外に茶席を造り、石室を安置したそうです。出雲から名古屋までは鉄道、名古屋駅からは牛車で運んだそうです。ところが太平洋戦争で名古屋城が灰燼と化しました。そこで当時名古屋にあった様々な石材を名古屋城に寄付して欲しいと動いた人がいました。この石室も寄付の一つで、古美術商さんは快諾したそうです。そこで現在礎石群がある所に安置されました。やがて天守が復興されると旧礎石が御深井丸に移され、石室は更に北の現在地に移されたそうです。 <br />善意がここに宿っていたとは…。個人的には、本来あった場所に安置されるのが最良と思いますが…。返還される予定はないのでしょうか?

    御深井丸 石棺式石室
    礎石の近くには古墳時代後期の石棺式石室があります。立札には、「出雲地方独特の横穴式石室であり、島根県松江市の団原古墳の石室を名古屋人が寄付した」と書かれています。でも何故ここに安置されているのか???
    団原古墳は私有地にあり、石室も個人所有でした。それを名古屋の古美術商が買い、名古屋郊外に茶席を造り、石室を安置したそうです。出雲から名古屋までは鉄道、名古屋駅からは牛車で運んだそうです。ところが太平洋戦争で名古屋城が灰燼と化しました。そこで当時名古屋にあった様々な石材を名古屋城に寄付して欲しいと動いた人がいました。この石室も寄付の一つで、古美術商さんは快諾したそうです。そこで現在礎石群がある所に安置されました。やがて天守が復興されると旧礎石が御深井丸に移され、石室は更に北の現在地に移されたそうです。
    善意がここに宿っていたとは…。個人的には、本来あった場所に安置されるのが最良と思いますが…。返還される予定はないのでしょうか?

  • 御深井丸 又隠(ゆういん)茶席<br />名古屋城には普段は立入れない茶室エリアがあります。そこには刻文石や橘寺の礎石を使った手水鉢、旧徳川家から運んできた藩主以外使用が認められなかった貴重な佐久の石などがあります。<br />また、御深井丸では尾張徳川家の御用窯の御深井焼が焼かれたそうです。灰釉系と言いますから、落ち着いた感じの焼き物だったようです。こうした茶席で使われたのでしょうか?<br />手前の褐色の瓦屋根が又隠茶席です。その奥の瓦屋根が書院です。<br />書院は、十畳の書院と八畳の次の間、五畳座敷などを含めた一棟であり、森川勘一郎氏の意匠により1949(昭和24)年に造営されました。その際、城内にあった加藤清正手植えの老松が枯れたため、その材を遺すために書院の台面・付書院・袋棚、次の間の床板、五畳座敷の床の前板等に厚板として使用したそうです。

    御深井丸 又隠(ゆういん)茶席
    名古屋城には普段は立入れない茶室エリアがあります。そこには刻文石や橘寺の礎石を使った手水鉢、旧徳川家から運んできた藩主以外使用が認められなかった貴重な佐久の石などがあります。
    また、御深井丸では尾張徳川家の御用窯の御深井焼が焼かれたそうです。灰釉系と言いますから、落ち着いた感じの焼き物だったようです。こうした茶席で使われたのでしょうか?
    手前の褐色の瓦屋根が又隠茶席です。その奥の瓦屋根が書院です。
    書院は、十畳の書院と八畳の次の間、五畳座敷などを含めた一棟であり、森川勘一郎氏の意匠により1949(昭和24)年に造営されました。その際、城内にあった加藤清正手植えの老松が枯れたため、その材を遺すために書院の台面・付書院・袋棚、次の間の床板、五畳座敷の床の前板等に厚板として使用したそうです。

  • 御深井丸 又隠茶席<br />利休の孫 宗旦が造営した「又隠の席」を安永年間(1772~79年)に茶家である久田流の久田宗参が移したものです。数回に亘って移築されましたが、戦後に愛知航空株式会社から名古屋市に寄贈され、1948(昭和24) 年に現在地に移築されました。<br />先に「今日庵」を造営して隠れ、更に四畳半の新席を造営して再びそれに隠れたことから、「又隠」と命名したと伝わります。<br />ここにある手水鉢は、名古屋城築城の際に加藤清正が大石を運ぶ車の輪に用いたと伝えられている石に、穴を彫って手水鉢に利用したと伝わるものです。

    御深井丸 又隠茶席
    利休の孫 宗旦が造営した「又隠の席」を安永年間(1772~79年)に茶家である久田流の久田宗参が移したものです。数回に亘って移築されましたが、戦後に愛知航空株式会社から名古屋市に寄贈され、1948(昭和24) 年に現在地に移築されました。
    先に「今日庵」を造営して隠れ、更に四畳半の新席を造営して再びそれに隠れたことから、「又隠」と命名したと伝わります。
    ここにある手水鉢は、名古屋城築城の際に加藤清正が大石を運ぶ車の輪に用いたと伝えられている石に、穴を彫って手水鉢に利用したと伝わるものです。

  • 御深井丸 猿面・望嶽茶席<br />書院の左隣にある猿面茶席と望嶽茶席です。<br />猿面茶席はかつて築城に際して古田織部の指図により清須より名古屋城本丸へ移築し、その後(御深井丸移築後の説あり)二之丸に移築されました。<br />床柱にある節が「猿の両眼」のように見え、かつて清須城で織田信長が木下藤吉郎に「汝の面の如し」と戯れた逸話から「猿面茶席」と言われています。名古屋人は三英傑のエピソードが好きなのが伝わってきます。<br />明治時代以降は城外の鶴舞公園聞天閣境内に移築された後、1936(昭和11) に旧国宝指定を受けましたが戦災により焼失し、現在の建物は1949(昭和24) 年に再建されたものです。<br />望嶽茶席は、文化人であり千家三世である千宗旦(1578~1658年)に師事した藤村庸軒により金戒光明寺西翁院(京都府京都市)に造営した「澱看の席」を1949(昭和24) に移したものです。この茶席から木曽の御嶽山を望むことができたことから「望嶽庵」と名付けられました。

    御深井丸 猿面・望嶽茶席
    書院の左隣にある猿面茶席と望嶽茶席です。
    猿面茶席はかつて築城に際して古田織部の指図により清須より名古屋城本丸へ移築し、その後(御深井丸移築後の説あり)二之丸に移築されました。
    床柱にある節が「猿の両眼」のように見え、かつて清須城で織田信長が木下藤吉郎に「汝の面の如し」と戯れた逸話から「猿面茶席」と言われています。名古屋人は三英傑のエピソードが好きなのが伝わってきます。
    明治時代以降は城外の鶴舞公園聞天閣境内に移築された後、1936(昭和11) に旧国宝指定を受けましたが戦災により焼失し、現在の建物は1949(昭和24) 年に再建されたものです。
    望嶽茶席は、文化人であり千家三世である千宗旦(1578~1658年)に師事した藤村庸軒により金戒光明寺西翁院(京都府京都市)に造営した「澱看の席」を1949(昭和24) に移したものです。この茶席から木曽の御嶽山を望むことができたことから「望嶽庵」と名付けられました。

  • 御深井丸 織部堂<br />沼津垣越しに見られます。<br />織部焼の創始者であり、名古屋城の茶席建設にゆかりの人物 古田織部正重然(1544~1615年)が茶道及び瀬戸焼に残した功績を顕彰するため、中島郡祖父江(愛知県稲沢市)にあった旧山内家の地蔵堂を移築、改装し1955(昭和30) 年に竣工したものです。<br />茶席の手前には河内飛鳥寺にあった塔の心柱が安置され、「かけひの水受け」として水平に据えられて使われています。近鉄の職員が購入して寄付されたものだそうです。

    御深井丸 織部堂
    沼津垣越しに見られます。
    織部焼の創始者であり、名古屋城の茶席建設にゆかりの人物 古田織部正重然(1544~1615年)が茶道及び瀬戸焼に残した功績を顕彰するため、中島郡祖父江(愛知県稲沢市)にあった旧山内家の地蔵堂を移築、改装し1955(昭和30) 年に竣工したものです。
    茶席の手前には河内飛鳥寺にあった塔の心柱が安置され、「かけひの水受け」として水平に据えられて使われています。近鉄の職員が購入して寄付されたものだそうです。

  • 御深井丸 乃木倉庫(国の登録有形文化財)<br />御深井丸に残る倉庫です。江戸情緒が満載の空間の中で一際異彩を放っています。<br />煉瓦造、切妻造、桟瓦葺、白モルタル塗り(外部)、白漆喰塗り(内部)、小屋組は洋風トラスの平屋建て近代建築物です。建物の角は色漆喰で石積風に造られており、入口扉には銅板を張るなど、高度な技術が窺えます。<br />1872(明治5)年、東京鎮台第三分営(後の名古屋鎮台)が名古屋城内に置かれ、その2年後には三之丸全域が旧陸軍省に移管され、旧歩兵第六連隊弾薬庫として建築されました。建築年代は、移管直後の1874(明治7)年、1876(明治9)年、1880(明治13)年など諸説あります。

    御深井丸 乃木倉庫(国の登録有形文化財)
    御深井丸に残る倉庫です。江戸情緒が満載の空間の中で一際異彩を放っています。
    煉瓦造、切妻造、桟瓦葺、白モルタル塗り(外部)、白漆喰塗り(内部)、小屋組は洋風トラスの平屋建て近代建築物です。建物の角は色漆喰で石積風に造られており、入口扉には銅板を張るなど、高度な技術が窺えます。
    1872(明治5)年、東京鎮台第三分営(後の名古屋鎮台)が名古屋城内に置かれ、その2年後には三之丸全域が旧陸軍省に移管され、旧歩兵第六連隊弾薬庫として建築されました。建築年代は、移管直後の1874(明治7)年、1876(明治9)年、1880(明治13)年など諸説あります。

  • 御深井丸 乃木倉庫<br />倉庫の名前は「乃木希典」が由来とされ、陸軍大将 乃木希典が明治5~7年に第弐心得として名古屋に赴任したことに因むと伝わります。尚、明治23~25年には第五旅団長として名古屋に再赴任しています。<br />太平洋戦争中、本丸御殿の障壁画や天井絵をこの倉庫に疎開させていたため戦火から免れる事ができたそうです。しかし、ファサードにあった長い庇の部分には不発弾が当たり、そこだけは失われています。もし、不発弾でなければ、今日のような本丸御殿の復元はなされていなかったことでしょう。

    御深井丸 乃木倉庫
    倉庫の名前は「乃木希典」が由来とされ、陸軍大将 乃木希典が明治5~7年に第弐心得として名古屋に赴任したことに因むと伝わります。尚、明治23~25年には第五旅団長として名古屋に再赴任しています。
    太平洋戦争中、本丸御殿の障壁画や天井絵をこの倉庫に疎開させていたため戦火から免れる事ができたそうです。しかし、ファサードにあった長い庇の部分には不発弾が当たり、そこだけは失われています。もし、不発弾でなければ、今日のような本丸御殿の復元はなされていなかったことでしょう。

  • 御深井丸 水堀<br />名古屋城は西側と北側の堀だけ水堀になっていますが、何か理由があるのでしょうか?<br />水堀になっている北西側は元々低湿地であり、大軍で攻め入ることができない天然の要害でした。従って、敵は東と南からしか攻められず、故に大天守を北西寄りに設けています。しかし、天然要害は磐石なものではなく、それを補うために70m幅の水堀を造営したそうです。<br />余談ですが、この水堀ではワニによく似た米国原産「アリゲーターガー」(1m超)が目撃されて話題になりました。環境省に「特定外来生物」に指定されている大型の肉食魚です。昨年1尾は捕獲されたようですが、もう1尾はまだ棲みついています。生態系が破壊されないか気を揉むところです。<br />問題は、何故名古屋城のお堀に生息しているのかです。ペットとして飼われていたものがリリースされたと考えられています。外来魚の中には成長するに連れて水槽で飼育できないサイズになるものも多いようです。ペットを飼う人は、その特徴を理解した上で購入し、最後まで責任を持って可愛がって欲しいと思います。

    御深井丸 水堀
    名古屋城は西側と北側の堀だけ水堀になっていますが、何か理由があるのでしょうか?
    水堀になっている北西側は元々低湿地であり、大軍で攻め入ることができない天然の要害でした。従って、敵は東と南からしか攻められず、故に大天守を北西寄りに設けています。しかし、天然要害は磐石なものではなく、それを補うために70m幅の水堀を造営したそうです。
    余談ですが、この水堀ではワニによく似た米国原産「アリゲーターガー」(1m超)が目撃されて話題になりました。環境省に「特定外来生物」に指定されている大型の肉食魚です。昨年1尾は捕獲されたようですが、もう1尾はまだ棲みついています。生態系が破壊されないか気を揉むところです。
    問題は、何故名古屋城のお堀に生息しているのかです。ペットとして飼われていたものがリリースされたと考えられています。外来魚の中には成長するに連れて水槽で飼育できないサイズになるものも多いようです。ペットを飼う人は、その特徴を理解した上で購入し、最後まで責任を持って可愛がって欲しいと思います。

  • 御深井丸 西北隅櫓(重文)<br />清洲城の天守を移築したとの伝承があることから、清洲櫓とも呼ばれています。解体修理の結果、1619(元和5)年に建築された新造の櫓であることが判明しましたが、清洲城天守の古材を転用したものと考えられています。 <br />最初は物見(展望)として造られた広い水堀に臨んだ3層白塗籠の櫓であり、各層の縮小率が著しいためその姿が荘重で安定感に富んでいます。しかし、美しい外観とは裏腹に北面や西面に千鳥破風が設けられ、そこに「石落し」を備える実戦的な櫓です。防戦や食料、武器の貯蔵施設の役割も果たしたそうです。<br />因みに、名古屋城の3つの櫓のうち四面に千鳥破風が施してある櫓はこの櫓だけです。また、江戸時代から残るものでは熊本城の宇土櫓に次ぐ規模を誇ります。高さは、国宝 彦根城(高さ16.3m)の天守と同じです。

    御深井丸 西北隅櫓(重文)
    清洲城の天守を移築したとの伝承があることから、清洲櫓とも呼ばれています。解体修理の結果、1619(元和5)年に建築された新造の櫓であることが判明しましたが、清洲城天守の古材を転用したものと考えられています。
    最初は物見(展望)として造られた広い水堀に臨んだ3層白塗籠の櫓であり、各層の縮小率が著しいためその姿が荘重で安定感に富んでいます。しかし、美しい外観とは裏腹に北面や西面に千鳥破風が設けられ、そこに「石落し」を備える実戦的な櫓です。防戦や食料、武器の貯蔵施設の役割も果たしたそうです。
    因みに、名古屋城の3つの櫓のうち四面に千鳥破風が施してある櫓はこの櫓だけです。また、江戸時代から残るものでは熊本城の宇土櫓に次ぐ規模を誇ります。高さは、国宝 彦根城(高さ16.3m)の天守と同じです。

  • 御深井丸 大天守<br />天守の石垣は、石を積み易い形に成形し、隙間には間詰め石を入れて表面を平らに整える打込ハギで積まれています。更に扇勾配の「武者返し」の付けられた「清正流三日月石垣」により、侵入者はバランスを崩して滑落する仕掛けです。名古屋城は「鉄壁の城」と伝えられますが、その言葉は伊達ではないことが窺えます。最大高さ20m、総延長8.2Kmにもおよぶ石垣を僅か3ヶ月で造営した清正は、まさに名古屋城のヒーローと言えます。

    御深井丸 大天守
    天守の石垣は、石を積み易い形に成形し、隙間には間詰め石を入れて表面を平らに整える打込ハギで積まれています。更に扇勾配の「武者返し」の付けられた「清正流三日月石垣」により、侵入者はバランスを崩して滑落する仕掛けです。名古屋城は「鉄壁の城」と伝えられますが、その言葉は伊達ではないことが窺えます。最大高さ20m、総延長8.2Kmにもおよぶ石垣を僅か3ヶ月で造営した清正は、まさに名古屋城のヒーローと言えます。

  • 御深井丸 謎の穴<br />西側の天守台と天守閣の境目には、不思議な石垣が見られます。石垣の中に「入口」を埋め込んだような長方形の痕跡が窺えます。雨樋の管のすぐ左側が右辺になります。ここには、家康が当初計画した幻の小天守に繋がる出入口があったとされます。しかし、天守閣は台地の縁にあり、地盤が悪いため西側の小天守は実用に耐えないとして計画から外されたようです。<br />城のシンボルとも言える大天守は敵に追い込まれた大名の「切腹の場」でもありましたが、家康は大天守が攻撃の起点ともなる画期的な城を設計していたようです。<br /><br />この写真は次のサイトから借用いたしました。<br />https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12369433306.html

    御深井丸 謎の穴
    西側の天守台と天守閣の境目には、不思議な石垣が見られます。石垣の中に「入口」を埋め込んだような長方形の痕跡が窺えます。雨樋の管のすぐ左側が右辺になります。ここには、家康が当初計画した幻の小天守に繋がる出入口があったとされます。しかし、天守閣は台地の縁にあり、地盤が悪いため西側の小天守は実用に耐えないとして計画から外されたようです。
    城のシンボルとも言える大天守は敵に追い込まれた大名の「切腹の場」でもありましたが、家康は大天守が攻撃の起点ともなる画期的な城を設計していたようです。

    この写真は次のサイトから借用いたしました。
    https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12369433306.html

  • 御深井丸 橋台<br />大天守と小天守を結ぶ、土塀で挟んだ橋台です。ここの軒にもびっしりと「剣塀」が備えられています。<br /><br />夥しい数の石垣を各地からどのように運んだのかと言えば、石材は船で熱田湊に運ばれたそうです。『伊勢音頭』のフレーズに「伊勢(神宮)は津(藩)で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」がありますが、元々は加藤清正が名古屋城を築いた際に石材を船で運んだ時に歌った「石は吊って持つ、吊って持つ石は、尾張名古屋の城へ行く」が原形とも言われています。石垣に使う巨石を2艘の船の間に吊りながら運んだ様子を歌ったものだそうです。

    御深井丸 橋台
    大天守と小天守を結ぶ、土塀で挟んだ橋台です。ここの軒にもびっしりと「剣塀」が備えられています。

    夥しい数の石垣を各地からどのように運んだのかと言えば、石材は船で熱田湊に運ばれたそうです。『伊勢音頭』のフレーズに「伊勢(神宮)は津(藩)で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」がありますが、元々は加藤清正が名古屋城を築いた際に石材を船で運んだ時に歌った「石は吊って持つ、吊って持つ石は、尾張名古屋の城へ行く」が原形とも言われています。石垣に使う巨石を2艘の船の間に吊りながら運んだ様子を歌ったものだそうです。

  • 御深井丸 大天守<br />名古屋城の土木工事には西国の外様大名が動員されたと記しましたが、次のようなエピソードがあります。<br />土木工事には莫大な費用と労力がかかるため、ある時、福島正則が幼馴染の加藤清正に愚痴りました。「家康公の居城の普請ならばいたし方ないが、9男坊の居城まで手伝わされたのではかなわんのう」。それに対して清正は、「不平があるなら国に戻り、兵を備えるがよろしい」と諭しました。これを聞いた正則は一言も返せなかったといいます。<br />因みに、清正や正則は、名古屋城の他にも江戸城、丹波篠山城などの普請を担当させられています。動員された外様大名たちの不平不満は想定外に大きなものでしたが、結局「幕府の巨大な権力の前では逆らうことはできなかった」ことを象徴するエピソードと言えます。

    御深井丸 大天守
    名古屋城の土木工事には西国の外様大名が動員されたと記しましたが、次のようなエピソードがあります。
    土木工事には莫大な費用と労力がかかるため、ある時、福島正則が幼馴染の加藤清正に愚痴りました。「家康公の居城の普請ならばいたし方ないが、9男坊の居城まで手伝わされたのではかなわんのう」。それに対して清正は、「不平があるなら国に戻り、兵を備えるがよろしい」と諭しました。これを聞いた正則は一言も返せなかったといいます。
    因みに、清正や正則は、名古屋城の他にも江戸城、丹波篠山城などの普請を担当させられています。動員された外様大名たちの不平不満は想定外に大きなものでしたが、結局「幕府の巨大な権力の前では逆らうことはできなかった」ことを象徴するエピソードと言えます。

  • 鵜の首<br />御深井丸と正門のある西之丸との間には、鵜の首と呼ばれる、深く切れ込んだ細長い堀があります。曲輪を細い堀で分断することでその部分の道幅を意図的に狭くし、敵の大軍の侵入を阻害する役割を担っていました。鵜の首は本丸を回って5ヶ所設けられていましたが、ここが最長のものです。<br />また、内堀は本丸と二之丸、西之丸、御深井丸をぐるりと回っていますが、西面と北面は水堀ですが、他は空堀です。<br />奥にちらっと顔を覗かせているのが、ウェスティン・ナゴヤキャッスルです。大天守を真正面から撮るなら、ウエスティン・ナゴヤキャスルの上階にあるレストランからの撮影がお勧めです。

    鵜の首
    御深井丸と正門のある西之丸との間には、鵜の首と呼ばれる、深く切れ込んだ細長い堀があります。曲輪を細い堀で分断することでその部分の道幅を意図的に狭くし、敵の大軍の侵入を阻害する役割を担っていました。鵜の首は本丸を回って5ヶ所設けられていましたが、ここが最長のものです。
    また、内堀は本丸と二之丸、西之丸、御深井丸をぐるりと回っていますが、西面と北面は水堀ですが、他は空堀です。
    奥にちらっと顔を覗かせているのが、ウェスティン・ナゴヤキャッスルです。大天守を真正面から撮るなら、ウエスティン・ナゴヤキャスルの上階にあるレストランからの撮影がお勧めです。

  • 西之丸 大天守<br />個人的にはこの角度の大天守が好みです。<br />石垣に調査用の足場がなければ最高だったのですが…。<br />

    西之丸 大天守
    個人的にはこの角度の大天守が好みです。
    石垣に調査用の足場がなければ最高だったのですが…。

  • 西之丸 榧(かや)の木<br />太平洋戦争の空襲で名古屋城と共に榧の木も半ば焼き尽くされましたが、残った幹半分が甦り、枝を伸ばし現在の姿にまで回復した蘖(ひこばえ)です。<br />幹周8m(全国第3位)、樹高15mあり、樹齢 650 年以上と伝えられる天然記念物であり、戦争の生き証人でもあります。築城時にはすでに樹齢250年の巨木だったとされ、徳川家康や初代藩主 徳川義直も目にした老木です。

    西之丸 榧(かや)の木
    太平洋戦争の空襲で名古屋城と共に榧の木も半ば焼き尽くされましたが、残った幹半分が甦り、枝を伸ばし現在の姿にまで回復した蘖(ひこばえ)です。
    幹周8m(全国第3位)、樹高15mあり、樹齢 650 年以上と伝えられる天然記念物であり、戦争の生き証人でもあります。築城時にはすでに樹齢250年の巨木だったとされ、徳川家康や初代藩主 徳川義直も目にした老木です。

  • 西之丸 榧の木<br />毎年秋頃に実を付けるそうですが、藩祖 義直が大坂冬の陣に出陣する前に実を食べて初陣を飾ったと伝わる縁起の良い実です。『金城温古録』には、「慶長御普請の時にも残し置かれしにや」とその記述があります。尾張徳川家では正月に縁起を担いでこの榧の実を食べたそうです。<br />因みに、徳川家康がここから築城の指図をしたという伝説もあるそうです。

    西之丸 榧の木
    毎年秋頃に実を付けるそうですが、藩祖 義直が大坂冬の陣に出陣する前に実を食べて初陣を飾ったと伝わる縁起の良い実です。『金城温古録』には、「慶長御普請の時にも残し置かれしにや」とその記述があります。尾張徳川家では正月に縁起を担いでこの榧の実を食べたそうです。
    因みに、徳川家康がここから築城の指図をしたという伝説もあるそうです。

  • 西之丸「た中ちくこ守石」<br />大手枡形の石垣にあった花崗岩の「刻銘石」が展示されています。<br />「た中ちくこ守石」と刻まれており、筑後藩主 田中忠政を指す「田中筑後守石」が運んだものです。こうした刻紋は、運んだ石が持ち去られないための目印としていました。<br />これで重さ約2.5トンあるそうです。

    西之丸「た中ちくこ守石」
    大手枡形の石垣にあった花崗岩の「刻銘石」が展示されています。
    「た中ちくこ守石」と刻まれており、筑後藩主 田中忠政を指す「田中筑後守石」が運んだものです。こうした刻紋は、運んだ石が持ち去られないための目印としていました。
    これで重さ約2.5トンあるそうです。

  • 西之丸 金鯱のレプリカ<br />NHK『ブラタモリ(名古屋編)』でも登場した実物大の金鯱のレプリカです。<br />これは寄贈されたものです。<br />「実物大金鯱の鱗にふれて、貴方の厄除けと招福を祈願されては、いかがでしょうか」と書かれています。<br /><br />名古屋城の「金鯱」が名古屋の代名詞となるほど有名になったのは、1870年代に陸上に降りた2匹の金鯱が日本全国の展示会の他、ウィーン万国博覧会まで出展され、各地で人気を博したことが背景にあります。1873(明治6)年に開催されたウィーン万博は、日本が初めて国として公式参加した万博でした。それ故、新しい日本を全世界にアピールしようとする気持ちはそれまでの万博よりも強く、金鯱(雌のみ)を出展しました。<br />往時のウィーンはオーストリア・ハンガリー帝国にあり、皇帝はフランツ・ヨーゼフ、皇妃はミュージカルにもなったエリザベートでした。一行は、建設中の太鼓橋の渡り初めを行い、皇妃は鉋の削り屑に興味を持ち、侍女に持ち帰らせたと言われています。何でも西洋の鉋と日本のものでは刃の向きが違うため、削り屑が異なるのに気づいたからだそうです。<br />1850年代にパリのブラックモンが陶磁器の詰め物に使われていた北斎漫画を目にしたことで始まったジャポニスムは、ウィーン万博の後、1890年代の分離派クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継がれて行きました。金鯱はその一翼を担ったものと思います。

    西之丸 金鯱のレプリカ
    NHK『ブラタモリ(名古屋編)』でも登場した実物大の金鯱のレプリカです。
    これは寄贈されたものです。
    「実物大金鯱の鱗にふれて、貴方の厄除けと招福を祈願されては、いかがでしょうか」と書かれています。

    名古屋城の「金鯱」が名古屋の代名詞となるほど有名になったのは、1870年代に陸上に降りた2匹の金鯱が日本全国の展示会の他、ウィーン万国博覧会まで出展され、各地で人気を博したことが背景にあります。1873(明治6)年に開催されたウィーン万博は、日本が初めて国として公式参加した万博でした。それ故、新しい日本を全世界にアピールしようとする気持ちはそれまでの万博よりも強く、金鯱(雌のみ)を出展しました。
    往時のウィーンはオーストリア・ハンガリー帝国にあり、皇帝はフランツ・ヨーゼフ、皇妃はミュージカルにもなったエリザベートでした。一行は、建設中の太鼓橋の渡り初めを行い、皇妃は鉋の削り屑に興味を持ち、侍女に持ち帰らせたと言われています。何でも西洋の鉋と日本のものでは刃の向きが違うため、削り屑が異なるのに気づいたからだそうです。
    1850年代にパリのブラックモンが陶磁器の詰め物に使われていた北斎漫画を目にしたことで始まったジャポニスムは、ウィーン万博の後、1890年代の分離派クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継がれて行きました。金鯱はその一翼を担ったものと思います。

  • 西之丸 <br />菊花展の準備が進められているようです。<br />この辺りは今は西之丸と一体になっていますが、往時は大手馬出でした。<br />立札によると、「西之丸と二之丸の間は直接つながらず『大手馬出』となっていて、それぞれ西之丸・二之丸との間に虎口や堀が設けられていた。しかし軍による接収の後、名古屋離宮となった際、通行の便のため西之丸~大手馬出間の堀および両方の虎口は破壊された模様」とのことです。つまり、かつては鵜の首と呼ばれる堀によって分断されていたようです。

    西之丸
    菊花展の準備が進められているようです。
    この辺りは今は西之丸と一体になっていますが、往時は大手馬出でした。
    立札によると、「西之丸と二之丸の間は直接つながらず『大手馬出』となっていて、それぞれ西之丸・二之丸との間に虎口や堀が設けられていた。しかし軍による接収の後、名古屋離宮となった際、通行の便のため西之丸~大手馬出間の堀および両方の虎口は破壊された模様」とのことです。つまり、かつては鵜の首と呼ばれる堀によって分断されていたようです。

  • 西之丸 名古屋城きしめん亭<br />表二之門の正面斜め左にあります。<br />昭和47年創業、「愛知県めんるい協会」で城内唯一の公式ショップです。「愛知県めんるい協会」の組合メンバーには、1950(昭和25)年に昭和天皇にきしめんを振る舞った「一八本店」や熱田神宮を発祥の地とする「宮きしめん」など、県内の有名麺類店が加盟するきしめんのプロ集団です。

    西之丸 名古屋城きしめん亭
    表二之門の正面斜め左にあります。
    昭和47年創業、「愛知県めんるい協会」で城内唯一の公式ショップです。「愛知県めんるい協会」の組合メンバーには、1950(昭和25)年に昭和天皇にきしめんを振る舞った「一八本店」や熱田神宮を発祥の地とする「宮きしめん」など、県内の有名麺類店が加盟するきしめんのプロ集団です。

  • 西之丸 名古屋城きしめん亭<br />きしめんは、漢字で「碁手麺」あるいは「棊子麺」と書きます。「碁子」は碁石を指します。名古屋名物「きしめん」は平たいのに、何故碁石なのでしょうか?<br />元々の「碁子麺」は碁石の形をした麺にきなこを付けて食べるものでしたが、後に平たく細長い麺の形となり「棊子麺」という名になったという説があります。<br />しかし、紀州の殿様がお土産に持ってきた「紀州麺」が訛ったからとか、尾張徳川家だけが許された雉肉を入れた麺「きじめん」からなど諸説あります。名古屋市教育委員会は「きじめん」説を最有力としています。

    西之丸 名古屋城きしめん亭
    きしめんは、漢字で「碁手麺」あるいは「棊子麺」と書きます。「碁子」は碁石を指します。名古屋名物「きしめん」は平たいのに、何故碁石なのでしょうか?
    元々の「碁子麺」は碁石の形をした麺にきなこを付けて食べるものでしたが、後に平たく細長い麺の形となり「棊子麺」という名になったという説があります。
    しかし、紀州の殿様がお土産に持ってきた「紀州麺」が訛ったからとか、尾張徳川家だけが許された雉肉を入れた麺「きじめん」からなど諸説あります。名古屋市教育委員会は「きじめん」説を最有力としています。

  • 西之丸 名古屋城きしめん亭<br />メインディッシュの「きしめん」と「味噌串かつ」、「稲荷寿司」、「金シャチ焼き(金鯱の形の人形焼)」、「山菜とキノコの小鉢」が付いた『お城セット(1250円・税込)』を注文しました。<br />「きしめん」は、たまり醤油のパンチを利かせた濃い目の出汁が平たいもっちり麺によく絡みます。関西風に慣れ親しんだ舌がかつての記憶を取り戻すのに時間は要しませんでした。<br />「味噌串かつ」も八丁味噌の味がしっかりしており、揚げたてがいただけるため衣はサクサク、中はジューシーです。

    西之丸 名古屋城きしめん亭
    メインディッシュの「きしめん」と「味噌串かつ」、「稲荷寿司」、「金シャチ焼き(金鯱の形の人形焼)」、「山菜とキノコの小鉢」が付いた『お城セット(1250円・税込)』を注文しました。
    「きしめん」は、たまり醤油のパンチを利かせた濃い目の出汁が平たいもっちり麺によく絡みます。関西風に慣れ親しんだ舌がかつての記憶を取り戻すのに時間は要しませんでした。
    「味噌串かつ」も八丁味噌の味がしっかりしており、揚げたてがいただけるため衣はサクサク、中はジューシーです。

  • 西之丸  東南隅櫓(重文)<br />平時には武器や具足類などの倉庫として使われ、有事の際には攻撃のための陣地となる役割りがありました。<br />辰己櫓とも言われ、その規模や構造は西南隅櫓と同じですが、 「石落し」の破風の形を違えています。 <br />この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などには「三葉葵」の紋が見られます。また、この櫓にも旧江戸城の鯱が取り付けられています。<br />名古屋城には、元々11基の櫓があったそうですが、現在では東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓の3基だけです。

    西之丸 東南隅櫓(重文)
    平時には武器や具足類などの倉庫として使われ、有事の際には攻撃のための陣地となる役割りがありました。
    辰己櫓とも言われ、その規模や構造は西南隅櫓と同じですが、 「石落し」の破風の形を違えています。
    この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などには「三葉葵」の紋が見られます。また、この櫓にも旧江戸城の鯱が取り付けられています。
    名古屋城には、元々11基の櫓があったそうですが、現在では東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓の3基だけです。

  • 二之丸 清正公石曳きの像<br />高度な技術を必要とする天守台の石垣は築城の名手として知られる加藤清正(秀吉の親戚)が築きました。<br />石を運ぶ際に清正は、石の上に乗り、扇子を広げて綱を引く者を気勢を上げて鼓舞し、見物人には酒をふるまったと伝わります。そんなエピソードを基に建立された清正像です。<br />名古屋北ライオンズクラブによる寄贈で、制作者は石黒しょう二氏です。

    二之丸 清正公石曳きの像
    高度な技術を必要とする天守台の石垣は築城の名手として知られる加藤清正(秀吉の親戚)が築きました。
    石を運ぶ際に清正は、石の上に乗り、扇子を広げて綱を引く者を気勢を上げて鼓舞し、見物人には酒をふるまったと伝わります。そんなエピソードを基に建立された清正像です。
    名古屋北ライオンズクラブによる寄贈で、制作者は石黒しょう二氏です。

  • 二之丸庭園<br />元和年間(1615~23年)、初代藩主 徳川義直が居住する二之丸御殿の造営に伴い、その北側に建立された儒教の聖堂「孔子廟」や6角形の文庫「金声玉振閣」を中心に造園された大名庭園です。義直が傾倒した儒教思想を取り入れた、南蛮練塀で囲まれた日本史上前例を見ない中国明式の趣向を凝らし、巨岩や園地の間に門や聖堂などの中国風建物や蘇鉄を配した異色の庭園だったそうです。<br />江戸の藩邸にあった庭園も江戸随一であり、この庭園も徳川御三家筆頭の名に恥じない庭園だったと推測されています。一説には、有事の際に藩主が一時的に身を隠す目的も持たせた城郭庭園だったともあります。確かに、ここで「かくれんぼ」をしたら見つけるのは至難の業です。<br />因みに、孔子廟は、幕府が林羅山をして開創した上野忍岡聖堂(昌平坂学問所の前身)のモデルとなりました。また、「金声玉振閣」とは、『孟子』に基づく言葉であり、孔子が徳を集大成していることを賛美したものです。寛永期の庭園を描いた絵図として『中御座之間北御庭惣絵』が残されています。<br /><br />江戸時代中期の享保(1716~36年)以後、度々改修されて桃山風の枯山水回遊式庭園に改められました。当初の庭園の鬱蒼と茂る森や深い谷は戦時には本丸防備の役割も担っていたと推測されており、天下泰平の江戸時代中期にはその役割を終え、使い易い枯山水に変更されたと推定されています。<br />明治維新後、軍の駐屯地となり、庭園の大部分は演習場などに転用され、多くの名石は片隅に積み上げられていました。その後、築山や大形の庭石、青石を用いた石組等が残存していることなどから1953(昭和28)年に国の名勝に指定され、1966(昭和41)年に名古屋市により整備され公開されました。現在「本丸御殿復元」に併せて庭園全体の再整備が進行中です。<br />因みに、那古屋城は名古屋城の二之丸付近にあったと推定されています。

    二之丸庭園
    元和年間(1615~23年)、初代藩主 徳川義直が居住する二之丸御殿の造営に伴い、その北側に建立された儒教の聖堂「孔子廟」や6角形の文庫「金声玉振閣」を中心に造園された大名庭園です。義直が傾倒した儒教思想を取り入れた、南蛮練塀で囲まれた日本史上前例を見ない中国明式の趣向を凝らし、巨岩や園地の間に門や聖堂などの中国風建物や蘇鉄を配した異色の庭園だったそうです。
    江戸の藩邸にあった庭園も江戸随一であり、この庭園も徳川御三家筆頭の名に恥じない庭園だったと推測されています。一説には、有事の際に藩主が一時的に身を隠す目的も持たせた城郭庭園だったともあります。確かに、ここで「かくれんぼ」をしたら見つけるのは至難の業です。
    因みに、孔子廟は、幕府が林羅山をして開創した上野忍岡聖堂(昌平坂学問所の前身)のモデルとなりました。また、「金声玉振閣」とは、『孟子』に基づく言葉であり、孔子が徳を集大成していることを賛美したものです。寛永期の庭園を描いた絵図として『中御座之間北御庭惣絵』が残されています。

    江戸時代中期の享保(1716~36年)以後、度々改修されて桃山風の枯山水回遊式庭園に改められました。当初の庭園の鬱蒼と茂る森や深い谷は戦時には本丸防備の役割も担っていたと推測されており、天下泰平の江戸時代中期にはその役割を終え、使い易い枯山水に変更されたと推定されています。
    明治維新後、軍の駐屯地となり、庭園の大部分は演習場などに転用され、多くの名石は片隅に積み上げられていました。その後、築山や大形の庭石、青石を用いた石組等が残存していることなどから1953(昭和28)年に国の名勝に指定され、1966(昭和41)年に名古屋市により整備され公開されました。現在「本丸御殿復元」に併せて庭園全体の再整備が進行中です。
    因みに、那古屋城は名古屋城の二之丸付近にあったと推定されています。

  • 二之丸庭園 南御庭<br />現存する庭園は、旧陸軍将校集会所の前庭として旧庭園の材料で吉田紹和によって作庭された南御庭、旧庭園の一部だった北御庭、それに明治時代初期に兵舎が建てられ大きな破壊がなされた東御庭から成ります。<br />南御庭は、二之丸御殿の南側に造営された庭園であり、木曽路の名勝「寝覚の床」をイメージして造形されたと伝わります。それ故、別名も「寝覚の御庭」と呼ばれていました。<br />「二の丸茶亭」は、1969(昭和44)年に建造された営業茶店です。茶店付近が二之丸庭園の正面とされ、明治時代、軍はここに将校クラブを置き、その前庭として旧庭園の名石を用いています。豪快な滝石組みは桃山風ですが、明治時代の茶匠 吉田紹和に造営させたのが現在のものとされます。作庭時は池を中心に中島を置き、奇岩と豪壮な石組で魅せる池泉式庭園だったようですが、現在は枯山水となっています。実際、「寝覚の床」の深山幽谷を彷彿とさせる要素は限られており、石橋も後世に架け替えられたものとされます。<br />個人的には北御庭の方が渓流美を魅せる「寝覚の床」に近しいとの印象でした。後世の南御庭の改修が祟り、「寝覚の御庭」は伝説の渦中にあるようです。

    二之丸庭園 南御庭
    現存する庭園は、旧陸軍将校集会所の前庭として旧庭園の材料で吉田紹和によって作庭された南御庭、旧庭園の一部だった北御庭、それに明治時代初期に兵舎が建てられ大きな破壊がなされた東御庭から成ります。
    南御庭は、二之丸御殿の南側に造営された庭園であり、木曽路の名勝「寝覚の床」をイメージして造形されたと伝わります。それ故、別名も「寝覚の御庭」と呼ばれていました。
    「二の丸茶亭」は、1969(昭和44)年に建造された営業茶店です。茶店付近が二之丸庭園の正面とされ、明治時代、軍はここに将校クラブを置き、その前庭として旧庭園の名石を用いています。豪快な滝石組みは桃山風ですが、明治時代の茶匠 吉田紹和に造営させたのが現在のものとされます。作庭時は池を中心に中島を置き、奇岩と豪壮な石組で魅せる池泉式庭園だったようですが、現在は枯山水となっています。実際、「寝覚の床」の深山幽谷を彷彿とさせる要素は限られており、石橋も後世に架け替えられたものとされます。
    個人的には北御庭の方が渓流美を魅せる「寝覚の床」に近しいとの印象でした。後世の南御庭の改修が祟り、「寝覚の御庭」は伝説の渦中にあるようです。

  • 二之丸庭園 南御庭<br />南御庭の作庭者には3人の名が挙げられていますが、現在では徳川義直が作庭したと推定されています。<br />まず、徳川義直説です。<br />家康から62万石の他、天領の木曾と美濃の久々利が与えられ、伐採した木材を木曾川から運ぶことで多大な利益を受けました。こうした家康の配慮に対する感謝の念として、木曾路の名勝「寝覚の床」の景観を模した「寝覚の御庭」として表したとの説です。<br />次に、今川氏説です。<br />今川氏は趣味が深く、造園に興味があり、庭拝見の礼式まで規定していました。このため、那古野城築城時に作庭したのではないかとの説です。<br />最後が福島正則説です。<br />今川氏親の子 氏豊の妻は福島正則の娘であり、今川氏と正則は親密な関係でした。また、『金城温故録』に、正則が木曾の寝覚の床を模した作庭を行なったことが記してあります。

    二之丸庭園 南御庭
    南御庭の作庭者には3人の名が挙げられていますが、現在では徳川義直が作庭したと推定されています。
    まず、徳川義直説です。
    家康から62万石の他、天領の木曾と美濃の久々利が与えられ、伐採した木材を木曾川から運ぶことで多大な利益を受けました。こうした家康の配慮に対する感謝の念として、木曾路の名勝「寝覚の床」の景観を模した「寝覚の御庭」として表したとの説です。
    次に、今川氏説です。
    今川氏は趣味が深く、造園に興味があり、庭拝見の礼式まで規定していました。このため、那古野城築城時に作庭したのではないかとの説です。
    最後が福島正則説です。
    今川氏親の子 氏豊の妻は福島正則の娘であり、今川氏と正則は親密な関係でした。また、『金城温故録』に、正則が木曾の寝覚の床を模した作庭を行なったことが記してあります。

  • 二之丸庭園<br />この辺りは趣のある延段が散策路に渡されています。<br />かつて二之丸庭園付近にあったとされる那古野城には、有名な逸話が残されています。<br />元々、那古野は今川氏の所領であり、今川義元は那古野台地の北端に那古野城を築き、弟 氏豊を入城させ西の大名たちを牽制しました。<br />一方、那古野の西に位置した尾張 勝幡城(信長の生誕地)の織田信秀は、今川氏の動向を注視していました。氏豊が文学や芸能に通じて連歌を愛し、公家に似た生活をしているのを知った信秀は、氏豊への従順を装い詠句の交換を重ねて親密になりました。やがて那古野城に滞留するようになり、信秀は予てよりの謀略に打って出ました。那古野城に滞留中、信秀は仮病で倒れ、家臣への遺言を望みました。氏豊は同情心から家臣を城に通し、やがて見舞いの家臣すら素通りになりました。ある夜、城中の油断を突き、武装した家臣が城内に火を放ち、一気呵成に城の内外から攻め立て、那古野城を略奪しました。信秀は勝幡城から那古野城へ移り、やがて幼い信長に譲りました。信長は、1555年に清州城に移るまでの間、那古野城を居城とし、清州城に移った後は信長の叔父 信光が継ぎますが、家臣に殺され林秀貞が城主となり、以降25年間廃城となりました。時は経過し、関ケ原の合戦の後、徳川幕府は那古野の地を要所と判断し、ここに新城「名古屋城」を築きました。

    二之丸庭園
    この辺りは趣のある延段が散策路に渡されています。
    かつて二之丸庭園付近にあったとされる那古野城には、有名な逸話が残されています。
    元々、那古野は今川氏の所領であり、今川義元は那古野台地の北端に那古野城を築き、弟 氏豊を入城させ西の大名たちを牽制しました。
    一方、那古野の西に位置した尾張 勝幡城(信長の生誕地)の織田信秀は、今川氏の動向を注視していました。氏豊が文学や芸能に通じて連歌を愛し、公家に似た生活をしているのを知った信秀は、氏豊への従順を装い詠句の交換を重ねて親密になりました。やがて那古野城に滞留するようになり、信秀は予てよりの謀略に打って出ました。那古野城に滞留中、信秀は仮病で倒れ、家臣への遺言を望みました。氏豊は同情心から家臣を城に通し、やがて見舞いの家臣すら素通りになりました。 ある夜、城中の油断を突き、武装した家臣が城内に火を放ち、一気呵成に城の内外から攻め立て、那古野城を略奪しました。信秀は勝幡城から那古野城へ移り、やがて幼い信長に譲りました。信長は、1555年に清州城に移るまでの間、那古野城を居城とし、清州城に移った後は信長の叔父 信光が継ぎますが、家臣に殺され林秀貞が城主となり、以降25年間廃城となりました。時は経過し、関ケ原の合戦の後、徳川幕府は那古野の地を要所と判断し、ここに新城「名古屋城」を築きました。

  • 二之丸庭園 北御庭<br />この北御庭は、本丸御殿の完成に合わせて名勝指定区域の石組の積み直し、植栽の整備、削られた築山の復元などが実施され、往時の雰囲気を取り戻しつつあります。<br />北御庭の作庭者は義直とするのが有力で、「玉澗流(ぎょっかんりゅう)」を窺わせる様式から紀州浅野家家老 上田宗箇(そうこ)が作庭に携わったと伝えられます。玉澗とは、中国南宋の僧の名であり、水墨画に傑出した人物です。玉澗の描いた「遠山二峯に高く滝が懸り、その渓谷上部に石橋が架かる水墨山水画」の景を基本とした作庭意匠を玉澗流と称しています。<br />特に北御庭にある「赤坂山」付近の滝石組と上部の石橋は、玉澗流の特長が濃厚です。玉澗流は上田宗箇が好んだ手法ですが、本庭への宗箇の関与を裏付ける記録は残されていません。

    二之丸庭園 北御庭
    この北御庭は、本丸御殿の完成に合わせて名勝指定区域の石組の積み直し、植栽の整備、削られた築山の復元などが実施され、往時の雰囲気を取り戻しつつあります。
    北御庭の作庭者は義直とするのが有力で、「玉澗流(ぎょっかんりゅう)」を窺わせる様式から紀州浅野家家老 上田宗箇(そうこ)が作庭に携わったと伝えられます。玉澗とは、中国南宋の僧の名であり、水墨画に傑出した人物です。玉澗の描いた「遠山二峯に高く滝が懸り、その渓谷上部に石橋が架かる水墨山水画」の景を基本とした作庭意匠を玉澗流と称しています。
    特に北御庭にある「赤坂山」付近の滝石組と上部の石橋は、玉澗流の特長が濃厚です。玉澗流は上田宗箇が好んだ手法ですが、本庭への宗箇の関与を裏付ける記録は残されていません。

  • 二之丸庭園 北御庭<br />中央にある中島が「赤坂山」、その右奥が「四ツ代山」です。<br />北御庭の枯池や中島の護岸石組は豪壮で、場所によっては二段組の箇所もあります。3つの中島を中心に5つの築山が造形され、石橋や山道、岸伝いなど変化に富んだ回遊路が巡らされています。<br />また、深い渓谷の趣きを表現し、池底には栗石(庄内玉石)を敷き詰め、その下は南蛮たたきにしています。また、石組には、佐久島石や篠島石、幡豆石、桃取石等、数多の名石が惜しみなく用いられています。

    二之丸庭園 北御庭
    中央にある中島が「赤坂山」、その右奥が「四ツ代山」です。
    北御庭の枯池や中島の護岸石組は豪壮で、場所によっては二段組の箇所もあります。3つの中島を中心に5つの築山が造形され、石橋や山道、岸伝いなど変化に富んだ回遊路が巡らされています。
    また、深い渓谷の趣きを表現し、池底には栗石(庄内玉石)を敷き詰め、その下は南蛮たたきにしています。また、石組には、佐久島石や篠島石、幡豆石、桃取石等、数多の名石が惜しみなく用いられています。

  • 二之丸庭園 北御庭<br />右上方にある四ツ代山に手前の田楽山から架けられた石橋が、玉澗の描いた「遠山二峯に高く滝が懸り、その渓谷上部に石橋が架かる景」とされます。<br />作庭当初、奥の方は渓谷仕立てとし、檜が茂る木曽の山々と水運で物資を運んだ木曽川上流の造形を庭に込め、深く険しい谷と峻険な峰々を築いたそうです。枯池には「赤坂山」と呼ばれる巨大な中島が置かれ、かつて中島には殿様の離れ座敷があり、本館と回廊で繋がっていたとも伝わります。

    二之丸庭園 北御庭
    右上方にある四ツ代山に手前の田楽山から架けられた石橋が、玉澗の描いた「遠山二峯に高く滝が懸り、その渓谷上部に石橋が架かる景」とされます。
    作庭当初、奥の方は渓谷仕立てとし、檜が茂る木曽の山々と水運で物資を運んだ木曽川上流の造形を庭に込め、深く険しい谷と峻険な峰々を築いたそうです。枯池には「赤坂山」と呼ばれる巨大な中島が置かれ、かつて中島には殿様の離れ座敷があり、本館と回廊で繋がっていたとも伝わります。

  • 二之丸庭園 北御庭 北園池<br />真新しい石段が設けられた権現山頂には、かつては東照宮が祀られていたそうです。<br />作庭に関しては、義直が広島藩主 浅野長晟の別邸「縮景園」を気に入り、上田宗箇(重安)に作庭を依頼したとの説が有力です。宗箇は、秀吉に仕えた時代から一番槍の勇猛な武将として知られ、大坂夏の陣では塙団右衛門を倒す功名を挙げましたが、晩年に千利休の高弟 古田織部と親交を深めて作庭にトラバーユした異色の庭師です。また、上田宗箇流の流祖として茶心もあります。<br />宗箇を主人公とした小説には津本 陽著『風流武辺』があります。蜂須賀家政に招かれて阿波国徳島に移住し、徳島城表御殿の庭園「千秋園」の作庭と茶の湯指南を任され、これを機に作庭師としてブレークしました。それまでの日本庭園の常識を覆した独自の庭を築いたのは、戦国時代に命懸けで戦い、その挙句、敵対していた人物にも仕えなければならなかった武将の不条理を現わしたかったのではと思います。調和などは無視しており、彼自身が極楽浄土に辿り着くまでの苦難の道程を象徴するかのようです。「生は束の間」という戦国武将の無常観から茶の道に沈潜し、自己の生き様の諦念を滲ませた雄渾な「宗箇イズム」満載の庭という印象を持ちました。

    二之丸庭園 北御庭 北園池
    真新しい石段が設けられた権現山頂には、かつては東照宮が祀られていたそうです。
    作庭に関しては、義直が広島藩主 浅野長晟の別邸「縮景園」を気に入り、上田宗箇(重安)に作庭を依頼したとの説が有力です。宗箇は、秀吉に仕えた時代から一番槍の勇猛な武将として知られ、大坂夏の陣では塙団右衛門を倒す功名を挙げましたが、晩年に千利休の高弟 古田織部と親交を深めて作庭にトラバーユした異色の庭師です。また、上田宗箇流の流祖として茶心もあります。
    宗箇を主人公とした小説には津本 陽著『風流武辺』があります。蜂須賀家政に招かれて阿波国徳島に移住し、徳島城表御殿の庭園「千秋園」の作庭と茶の湯指南を任され、これを機に作庭師としてブレークしました。それまでの日本庭園の常識を覆した独自の庭を築いたのは、戦国時代に命懸けで戦い、その挙句、敵対していた人物にも仕えなければならなかった武将の不条理を現わしたかったのではと思います。調和などは無視しており、彼自身が極楽浄土に辿り着くまでの苦難の道程を象徴するかのようです。「生は束の間」という戦国武将の無常観から茶の道に沈潜し、自己の生き様の諦念を滲ませた雄渾な「宗箇イズム」満載の庭という印象を持ちました。

  • 二之丸庭園 東御庭 南池<br />東御庭は、旧日本陸軍の名古屋鎮台があった時代には演習場に使われたため、かつての庭園の原形を留めていません。市が名古屋城復元計画を推進する一環として東御庭の再整備に取り組み、1978(昭和53)年に完了し、公開されました。<br />大きな敷地の中央部を池のように広く掘り下げ、細砂利を敷き詰めて広大な砂庭を造り、かつて東御庭に用いられていた石を「砂の池」の各所に配し、全体を「巨大な枯山水の庭」として再生しています。<br />『御城御庭絵図』には、南池の北岸に巨大な舟形の一枚岩が張り出し、中央部に石組みの中島が描かれています。発掘調査では一枚岩は確認されませんでしたが、中島は池の中央に石が3つ並んでいる処の下にあると推定されています。南池は大きく頑丈に石組みされた深い池で、他に例を見ない規模であつたとされます。<br />「池」の周囲を回りながら多彩な景観を愉しむ趣向です。 ここでは、かつての東御庭に拘ることなく、気持ち良くデトックスさせて頂きました。

    二之丸庭園 東御庭 南池
    東御庭は、旧日本陸軍の名古屋鎮台があった時代には演習場に使われたため、かつての庭園の原形を留めていません。市が名古屋城復元計画を推進する一環として東御庭の再整備に取り組み、1978(昭和53)年に完了し、公開されました。
    大きな敷地の中央部を池のように広く掘り下げ、細砂利を敷き詰めて広大な砂庭を造り、かつて東御庭に用いられていた石を「砂の池」の各所に配し、全体を「巨大な枯山水の庭」として再生しています。
    『御城御庭絵図』には、南池の北岸に巨大な舟形の一枚岩が張り出し、中央部に石組みの中島が描かれています。発掘調査では一枚岩は確認されませんでしたが、中島は池の中央に石が3つ並んでいる処の下にあると推定されています。南池は大きく頑丈に石組みされた深い池で、他に例を見ない規模であつたとされます。
    「池」の周囲を回りながら多彩な景観を愉しむ趣向です。 ここでは、かつての東御庭に拘ることなく、気持ち良くデトックスさせて頂きました。

  • 金シャチ横丁(宗春ゾーン)<br />帰途は東門から退城します。<br />今朝、地下鉄7番出口から見た横丁の反対側になります。<br />昼下がりでもあり、官公庁の職員さんたちのランチスポットとしても賑わっていました。

    金シャチ横丁(宗春ゾーン)
    帰途は東門から退城します。
    今朝、地下鉄7番出口から見た横丁の反対側になります。
    昼下がりでもあり、官公庁の職員さんたちのランチスポットとしても賑わっていました。

  • 名古屋市役所本庁舎(国の登録有形文化財)<br />現在の本庁舎は3代目であり、昭和天皇御大典事業として1933(昭和8)年に鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階地下1階、塔屋付として竣工し、隣接の愛知県庁本庁舎の外観にも少なからず影響を与えました。

    名古屋市役所本庁舎(国の登録有形文化財)
    現在の本庁舎は3代目であり、昭和天皇御大典事業として1933(昭和8)年に鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階地下1階、塔屋付として竣工し、隣接の愛知県庁本庁舎の外観にも少なからず影響を与えました。

  • 名古屋市役所本庁舎<br />外観設計は、一般公募の中から平林金吾氏の案が採用されました。平林案を基に名古屋市建築課が実施設計を行っています。また、工事監理のため、帝冠様式のはしりとされる神奈川県庁舎(1928年竣工)の建立を担当した技術者を招聘したそうです。<br />まず目を引くのは、中央に屹立する高さ53.5mの時計塔です。実は、大時計は平林案にはなかったそうですが、市の建築課の粋なアイデアのようです。

    名古屋市役所本庁舎
    外観設計は、一般公募の中から平林金吾氏の案が採用されました。平林案を基に名古屋市建築課が実施設計を行っています。また、工事監理のため、帝冠様式のはしりとされる神奈川県庁舎(1928年竣工)の建立を担当した技術者を招聘したそうです。
    まず目を引くのは、中央に屹立する高さ53.5mの時計塔です。実は、大時計は平林案にはなかったそうですが、市の建築課の粋なアイデアのようです。

  • 名古屋市役所本庁舎<br />2層の塔屋根は名古屋城との調和を図った意匠です。塔の頂点には、4匹の鯱を腹部で合体させた「四方睨みの鯱」と12尾もの鯱を揚げています。また、塔の途中には「鬼面」のレリーフがあります。<br />こうした鯱や鬼が採用されたのは、城や寺社と同様に火の気や邪気を払うためと解釈されています。名古屋城は名古屋空襲で本丸のほとんどを焼失しましたが、市役所が難を逃れることができたのは、これらのご利益とも考えられます。

    名古屋市役所本庁舎
    2層の塔屋根は名古屋城との調和を図った意匠です。塔の頂点には、4匹の鯱を腹部で合体させた「四方睨みの鯱」と12尾もの鯱を揚げています。また、塔の途中には「鬼面」のレリーフがあります。
    こうした鯱や鬼が採用されたのは、城や寺社と同様に火の気や邪気を払うためと解釈されています。名古屋城は名古屋空襲で本丸のほとんどを焼失しましたが、市役所が難を逃れることができたのは、これらのご利益とも考えられます。

  • 名古屋市役所本庁舎<br />外壁は、1階は白石貼り、2~4階は濃褐色テラコッタ貼り、5階は淡褐色タイル貼りとし、中央の窓は石柱で飾られています。<br />かつては武骨な「帝冠様式」を代表する建造物として名を馳せましたが、時代の潮流なのか近年は論調に変化があります。この建物は、平林氏が名古屋のイメージを鮮明に打ち出すことに拘り、その意匠が外観の採用に当たって高く評価されました。それ故、ある時代に特徴的に用いられた「帝冠様式」と括るより、「名古屋城に隣接する市庁舎として独自設計されたもの」というのが近年の考え方のようです。

    名古屋市役所本庁舎
    外壁は、1階は白石貼り、2~4階は濃褐色テラコッタ貼り、5階は淡褐色タイル貼りとし、中央の窓は石柱で飾られています。
    かつては武骨な「帝冠様式」を代表する建造物として名を馳せましたが、時代の潮流なのか近年は論調に変化があります。この建物は、平林氏が名古屋のイメージを鮮明に打ち出すことに拘り、その意匠が外観の採用に当たって高く評価されました。それ故、ある時代に特徴的に用いられた「帝冠様式」と括るより、「名古屋城に隣接する市庁舎として独自設計されたもの」というのが近年の考え方のようです。

  • 愛知県庁本庁舎(国の登録有形文化財)<br />名古屋市役所本庁舎と同じく、昭和天皇御大典の記念事業の一つとして中区新栄町から現在地へ1938(昭和13)年に移転しました。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上6階地下1階、塔屋付き、高さ40mです。基本設計は、建築家 西村好時氏と東京帝室博物館の設計コンペで最優秀賞を獲得した建築家 渡辺仁氏に委嘱されました。<br />右端にあるのが名古屋テレビ塔(高さ180m)です。

    愛知県庁本庁舎(国の登録有形文化財)
    名古屋市役所本庁舎と同じく、昭和天皇御大典の記念事業の一つとして中区新栄町から現在地へ1938(昭和13)年に移転しました。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上6階地下1階、塔屋付き、高さ40mです。基本設計は、建築家 西村好時氏と東京帝室博物館の設計コンペで最優秀賞を獲得した建築家 渡辺仁氏に委嘱されました。
    右端にあるのが名古屋テレビ塔(高さ180m)です。

  • 愛知県庁本庁舎<br />建設当時は日中戦争の真っ只中にあり、国威発揚の高まりにより日本の伝統を建築意匠にも反映させる風潮が高まった時代でした。「帝冠様式」建造物はこうした時代背景下で建造が進められ、同じ様式の「軍人会館」(現 九段会館)の影響や名古屋市役所本庁舎とのバランス、この地が名古屋城内三之丸だったことなどを総合的に判断し、城郭風屋根を載せるデザインに決まりました。

    愛知県庁本庁舎
    建設当時は日中戦争の真っ只中にあり、国威発揚の高まりにより日本の伝統を建築意匠にも反映させる風潮が高まった時代でした。「帝冠様式」建造物はこうした時代背景下で建造が進められ、同じ様式の「軍人会館」(現 九段会館)の影響や名古屋市役所本庁舎とのバランス、この地が名古屋城内三之丸だったことなどを総合的に判断し、城郭風屋根を載せるデザインに決まりました。

  • 愛知県庁本庁舎<br />ファサードの6階に切妻屋根、背後の屋上階に名古屋城大天守を模した入母屋屋根を載せ、城郭風の重厚な印象を造形しています。<br />外観は建物上端を瓦屋根とする3層構成とし、外壁は、1~2階の窓下までを花崗岩貼りで頑丈に見せ、2~6階窓下までは黄褐色テラコッタ貼り、6階は白磁製タイル貼りとしています。これは、愛知県の伝統工芸品である陶磁器や名古屋城の白壁を連想させる仕掛けです。名古屋市役所本庁舎のデザインとは趣を異にしており、城郭的な要素はより濃厚です。<br />こちらは、洋風建築の上に城郭や寺院のような和風の瓦屋根を組み合わせた和洋折衷の「帝冠様式」でアピールしています。帝冠様式は、1930~40年頃に限って流行した建築様式です。大日本帝国が西洋諸国を押さえ付けているような構図から、現在ではナショナリズムやファシズムの反映と捉えられることもありますが、往時は純粋に「日本趣味の建築」として捉えられていました。

    愛知県庁本庁舎
    ファサードの6階に切妻屋根、背後の屋上階に名古屋城大天守を模した入母屋屋根を載せ、城郭風の重厚な印象を造形しています。
    外観は建物上端を瓦屋根とする3層構成とし、外壁は、1~2階の窓下までを花崗岩貼りで頑丈に見せ、2~6階窓下までは黄褐色テラコッタ貼り、6階は白磁製タイル貼りとしています。これは、愛知県の伝統工芸品である陶磁器や名古屋城の白壁を連想させる仕掛けです。名古屋市役所本庁舎のデザインとは趣を異にしており、城郭的な要素はより濃厚です。
    こちらは、洋風建築の上に城郭や寺院のような和風の瓦屋根を組み合わせた和洋折衷の「帝冠様式」でアピールしています。帝冠様式は、1930~40年頃に限って流行した建築様式です。大日本帝国が西洋諸国を押さえ付けているような構図から、現在ではナショナリズムやファシズムの反映と捉えられることもありますが、往時は純粋に「日本趣味の建築」として捉えられていました。

  • 愛知県庁本庁舎<br />2002~3年度に行われた耐震性調査の結果、東海・東南海連動地震が発生した場合、その機能を維持できなくなることが判明しました。そこで建物の免震化工事が行われ、外観を損なうことなく、災害時には防災拠点の中核を担う施設へと生まれ変わりました。<br />皮肉にも、そこに採用されていたのが油圧機器大手「 KYB」製オイルダンパーだったとはケチが付いたものです。国の基準に適合していない、免震・制振装置の検査データを改竄したものが納入されていたそうです。KYBは航空機事業部まで有する大企業ですが、日本の製造業の現在の凋落は自らが先導したことを証明するような許されない不祥事です。

    愛知県庁本庁舎
    2002~3年度に行われた耐震性調査の結果、東海・東南海連動地震が発生した場合、その機能を維持できなくなることが判明しました。そこで建物の免震化工事が行われ、外観を損なうことなく、災害時には防災拠点の中核を担う施設へと生まれ変わりました。
    皮肉にも、そこに採用されていたのが油圧機器大手「 KYB」製オイルダンパーだったとはケチが付いたものです。国の基準に適合していない、免震・制振装置の検査データを改竄したものが納入されていたそうです。KYBは航空機事業部まで有する大企業ですが、日本の製造業の現在の凋落は自らが先導したことを証明するような許されない不祥事です。

  • 大名古屋ビルヂング<br />ここからは、「おまけ」です。名古屋城西南櫓から眺望した名古屋駅前のビル群の紹介です。<br />中村区名駅三丁目に所在する三菱地所所有のオフィス兼商業ビルです。現在のものは、2015年に竣工した2代目です。初代大名古屋ビルヂングと隣接するホテル ロイヤルパークイン名古屋を一体化した建物であり、旧大名古屋ビルヂングのイメージを引き継ぐ低層部の基壇とホテル機能を持つ高層部で構成されています。地上34階地下4階、高さ174mあります。<br />最大の特徴は、低層部のファサードにあるガラスのグラフィックパターンです。ガラスの表面に縦の突起を設けて幾何学模様を描いています。ガラスのグラフィックデザインは2020年東京五輪のエンブレムで一躍時の人となった建築家 野老朝雄(ところあさお)氏が担い、ビルの設計・監理は株式会社 三菱地所設計が行ないました。<br />こうして眺めてみると、ビル全体の意匠にも野老氏の幾何学コンセプトが反映されているようにも思います。高層部のガラスは格子状をしており、一見、「あみだくじ」あるいは「ハリネズミ」を彷彿とさせる奇抜な幾何学的なデザインです。2種類の奥行の異なるアルミ製の縦フィンをランダムに配置し、こうした幾何学模様を描いています。

    大名古屋ビルヂング
    ここからは、「おまけ」です。名古屋城西南櫓から眺望した名古屋駅前のビル群の紹介です。
    中村区名駅三丁目に所在する三菱地所所有のオフィス兼商業ビルです。現在のものは、2015年に竣工した2代目です。初代大名古屋ビルヂングと隣接するホテル ロイヤルパークイン名古屋を一体化した建物であり、旧大名古屋ビルヂングのイメージを引き継ぐ低層部の基壇とホテル機能を持つ高層部で構成されています。地上34階地下4階、高さ174mあります。
    最大の特徴は、低層部のファサードにあるガラスのグラフィックパターンです。ガラスの表面に縦の突起を設けて幾何学模様を描いています。ガラスのグラフィックデザインは2020年東京五輪のエンブレムで一躍時の人となった建築家 野老朝雄(ところあさお)氏が担い、ビルの設計・監理は株式会社 三菱地所設計が行ないました。
    こうして眺めてみると、ビル全体の意匠にも野老氏の幾何学コンセプトが反映されているようにも思います。高層部のガラスは格子状をしており、一見、「あみだくじ」あるいは「ハリネズミ」を彷彿とさせる奇抜な幾何学的なデザインです。2種類の奥行の異なるアルミ製の縦フィンをランダムに配置し、こうした幾何学模様を描いています。

  • モード学園スパイラルタワーズ<br />ついにドバイにまで来てしまったのかと思わせる風景です。<br />中村区名駅四丁目にある学校法人日本教育財団の運営する専門学校と三井不動産が運営する商業施設が入居した地上36階地下3階の超高層ビル(170m)です。 設計・監理は、コンペで選定された株式会社 日建設計が行ないました。<br />2008年に竣工し、1~36階が「名古屋モード学園」、「HAL名古屋」、および「名古屋医専」の3つの専門学校が入居しています。

    モード学園スパイラルタワーズ
    ついにドバイにまで来てしまったのかと思わせる風景です。
    中村区名駅四丁目にある学校法人日本教育財団の運営する専門学校と三井不動産が運営する商業施設が入居した地上36階地下3階の超高層ビル(170m)です。 設計・監理は、コンペで選定された株式会社 日建設計が行ないました。
    2008年に竣工し、1~36階が「名古屋モード学園」、「HAL名古屋」、および「名古屋医専」の3つの専門学校が入居しています。

  • モード学園スパイラルタワーズ<br />スパイラル状のデザインが高く評価され、2008年度グッドデザイン賞を受賞しています。3つのヴォリュームからなるスパイラル状のデザインは、3つの学校の学生のエネルギーが、 絡まり合いながら上昇し、社会へ羽ばたいていく様を表しています。また、建物を覆う外側の三角形のフレームガラスは全てサイズを違えています。綺麗な螺旋を作るためとはいえ、製作にしても施行にしても気の遠くなる作業の連続だったと思います。実際、柱が真っ直ぐに建っているビルとは異なり、 精度確認が難しく、工事監理も大変だったそうです。監理担当者曰く、「 これまで経験した超高層ビルの20倍も大変だった」そうです。<br />第40回中部建築賞一般部門において入賞した他、愛知まちなみ建築賞大賞を受賞、日本建築構造技術者協会・第20回JSCA賞の作品賞に選ばれています。

    モード学園スパイラルタワーズ
    スパイラル状のデザインが高く評価され、2008年度グッドデザイン賞を受賞しています。3つのヴォリュームからなるスパイラル状のデザインは、3つの学校の学生のエネルギーが、 絡まり合いながら上昇し、社会へ羽ばたいていく様を表しています。また、建物を覆う外側の三角形のフレームガラスは全てサイズを違えています。綺麗な螺旋を作るためとはいえ、製作にしても施行にしても気の遠くなる作業の連続だったと思います。実際、柱が真っ直ぐに建っているビルとは異なり、 精度確認が難しく、工事監理も大変だったそうです。監理担当者曰く、「 これまで経験した超高層ビルの20倍も大変だった」そうです。
    第40回中部建築賞一般部門において入賞した他、愛知まちなみ建築賞大賞を受賞、日本建築構造技術者協会・第20回JSCA賞の作品賞に選ばれています。

  • 名古屋ルーセントタワー<br />2007年に竣工した、地上42階地下3階(高さ174m)、塔屋1階のオフィスビルです。通常全方位から見られることを意識して設計される高層ビルとしては非対称形という帆船の帆を彷彿とさせるモダンなデザインが特徴です。設計・監理は、 建築業界のエリート集団 株式会社 日建設計が行ないました。名古屋駅前の都市景観の形成に配慮した次世代のビジネス拠点の創造を目的とするプロジェクトにより建造されたものです。<br />上部に向かって徐々に細く緩やかな曲線を描くカーテンウォールが特徴で、TV電波障害対策の機能を併せ持たせ、既成市街地に対する圧迫感を軽減し、市街地にやさしさとシンボリックな都市景観を創っています。

    名古屋ルーセントタワー
    2007年に竣工した、地上42階地下3階(高さ174m)、塔屋1階のオフィスビルです。通常全方位から見られることを意識して設計される高層ビルとしては非対称形という帆船の帆を彷彿とさせるモダンなデザインが特徴です。設計・監理は、 建築業界のエリート集団 株式会社 日建設計が行ないました。名古屋駅前の都市景観の形成に配慮した次世代のビジネス拠点の創造を目的とするプロジェクトにより建造されたものです。
    上部に向かって徐々に細く緩やかな曲線を描くカーテンウォールが特徴で、TV電波障害対策の機能を併せ持たせ、既成市街地に対する圧迫感を軽減し、市街地にやさしさとシンボリックな都市景観を創っています。

  • 名古屋ルーセントタワー<br />1Fエントランスです。<br />黒を基調としたシックなスペースの一面をガラス張りの窓にし、季節に合わせた一幅の絵に見立てています。

    名古屋ルーセントタワー
    1Fエントランスです。
    黒を基調としたシックなスペースの一面をガラス張りの窓にし、季節に合わせた一幅の絵に見立てています。

  • 名古屋ルーセントタワー<br />高層フロアのフリースペースからの眺望です。<br />無事に野暮用を済ませて帰路に着きました。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    名古屋ルーセントタワー
    高層フロアのフリースペースからの眺望です。
    無事に野暮用を済ませて帰路に着きました。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • sanhaoさん 2020/03/30 15:43:55
    名古屋城
    生粋の名古屋人で名古屋城には何度も行ってますが、殆ど知識がありません。
    montsaintmichelさんのご説明に敬服しました。今度ゆっくり見てこようと思います。

    montsaintmichel

    montsaintmichelさん からの返信 2020/03/31 20:31:18
    RE: 名古屋城
    sanhaoさん こんばんは!
    いつも旅行記へアクセスいただきありがとうございます。
    新型コロナウイルスで暫くの間巣ごもりのため、「ヨーロッパ 放浪ひとり旅」で愉しませていただいております。

    当方も夫婦揃って愛知県出身ですが、今では関西暮らしの方が長くなり関西弁しか話せません。名古屋城は小学校時代以来の訪問でしたが、あの頃の感動が色褪せることなく蘇ってきました。
    弾丸訪問でしたので埋門や南蛮たたき鉄砲狭間などスキップした場所も多々あり、旅行記としてアップしていただける日を愉しみにしております。

    montsaintmichel

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