2018/10/17 - 2018/10/17
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montsaintmichelさん
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前報②では対面所と上洛殿の様子を紹介いたしました。今回は、順路の先にある「梅之間」や「上・下御膳所」、「御湯殿書院」、「黒木書院」をレポいたします。
「梅之間」は、将軍をもてなす役に任じられた尾張上級家臣の控えの間として使われた部屋ですが、立派な設えで吃驚します。「上・下御膳所」は、台所で作った食事の配膳や温め直しをする場所です。性格上、バックヤードのはずですが、潤沢なスペースが取られています。
「上・下御膳所」まで見学した後、一旦、本丸御殿から出て、改めて「御湯殿書院」&「黒木書院」のガイド・ツアー(20分程)に参加します。ここは個人見学はできませんので注意が必要です。
「御湯殿書院」には、将軍専用のサウナ式蒸風呂があります。風呂以外に上段之間、一之間、二之間の3部屋があり、脱衣所や湯上りに涼むのに使われた部屋です。
「黒木書院」は、清州城内にあった家康御殿を移築した建物と伝えられています。見所は、障壁画です。今まで見てきた障壁画より時代を遡った慶長期以前の雅趣となる水墨画であり、やや中世的な作風で異彩を放っています。恐らく、清洲城内にあった家康御殿の遺品を持ち込んだものと推定されています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
-
名古屋城本丸御殿 見取図
全体像を把握すると判り易いため、見取図を参照しながらバーチャル・ツアーに参加していただくことをお勧めします。
この見取図は次のサイトから借用させていただきました。
(1部、加筆しております。)
http://www.tobunken.go.jp/image-gallery/nagoya/map.html -
梅之間
金色に包まれた大広間です。梅の木の直下は一面床の間になっています。
将軍をもてなす役に任じられた尾張上級家臣の控えの間として使われた部屋とされ、家臣を大切にしていたことが窺えます。
上洛殿と共に増築されており、天井は玄関と同じ竿縁天井です。ここも「床刺し」天井になっていますが、部屋のスケールが大きい分、気になりません。
描かれているのは金地著色の花鳥図『雪中之梅』です。赤い梅の花が咲き誇り、金箔押しの金碧障壁画が眩しいほどです。
採光が北面からになるため、他の部屋に比べて薄暗い印象です。 -
梅之間 入側
釘隠しは、全体的に丸みを帯びた優しげな意匠です。 -
入側
杉戸の奥は上洛殿ですので、上洛殿と同じ三葉葵と七宝をあしらった引手金具が用いられています。 -
上御膳所 配膳所
この襖絵はデジタル複写で制作されたものです。
部屋の中に小部屋が設われた面白い構造です。
右手が上御膳所(長囲炉裏のある部屋)になります。 -
上御膳所
上台所で作った食事の配膳や汁物などの温め直しをする場所です。主に上洛殿に宿泊した将軍専用だったそうです。
長囲炉裏と煙出しがある御膳場と上段之間・上之間の3つの部屋があり、より格式の高い御膳所です。
皆さんが見ておられるのは、パネル展示やビデオ映像です。 -
上御膳所
天井には立派な煙出しが設けられ、換気機能も充実していたことを窺わせます。 -
上御膳所
牡丹の花をあしらった杉戸の引手金具です。 -
入側
雁行形に並んだ屋根がぽっかり開いた四角い坪庭空間をつくっています。
このスペースは、採光のための工夫でしょうか?
方角的には表書院の妻入りだと思います。 -
入側
妻入りには狐格子が嵌められ、懸魚の両脇にある「ひれ」には木の彫刻が配されています。「ひれ」は、最初に木の彫刻を制作して漆を塗り、更に銅板を型取って金箔を押した手の込んだものです。こうした工程を踏むため、完成には1年近く要したそうです。
玄関の妻入りには「ひれ」はありませんでしたので、これも格付けのひとつと言えます。 -
下御膳所
台所で調理された料理をここでお膳に並べ、運ぶための場所です。ここにも長囲炉裏が備えられているのは、温め直しのためです。宴席の状況に合わせて料理を温め直すなど、おもてなしの極意がここにあります。
本丸御殿の復元は名古屋市の事業でしたが一般市民からの寄付も受け付けており、板戸に5万円以上の寄付者の名前が記されています。 -
下御膳所
こちらの天井にも煙出しが設けられています。 -
対面所 入側
納戸上之間と下之間の北側に設けられた趣のある入側を進みます。
ここも採光が北面のため仄暗い感じです。
この入側を抜け、出入口になっている「中之間部屋」まで戻ります。
この後の「御湯殿書院」と「黒木書院」へは、一度外に出てから「御湯殿書院」の前にある白いテント内でガイド・ツアーに申し込みます。狭いため入場制限があり、30分毎に日本語ツアーが企画されています(定員:1回20名)。日に280名限定ですので、閉館時間が近い場合は整理券を先にもらっておくのがお勧めです。定員制ですので、列に並んでいても時間になれば打ち切りになります。 -
本丸御殿
当方は9時の開門を待って正門から本丸御殿へ直行したため、本丸御殿へは一番乗りでした。この日(平日)の行列のピークは、11時前後でした。行列の最後尾は表二之門の先まで伸びていましたが、12時過ぎには一時的に行列が解消されていました。この時間帯が穴場かもしれません。
右側にある石垣は、黒ずんでひび割れています。本丸御殿は太平洋戦争時の空襲で天守と共に焼け落ちましたが、この石垣のひびはその時に焼けた名残りです。この面の裏側の石垣と比べると一目瞭然です。 -
本丸御殿
手前から「大廊下」、「表書院」、最奥が「上洛殿」です。
唐突ですが、今年2018年は「北海道」の名前が誕生して150年の記念の年です。しかし、北海道胆振東部地震で大変なことになり、お見舞い申し上げると共に早期の復旧・復興を願っております。当方も9月に北海道旅行を計画しておりましたが、道民が通常の生活に戻られていない段階で観光客として電気や水、食料などを摂取するのを憚り、キャンセルいたしました。ライフライン等が整備されてから再計画し、復興の一助となりたいと思います。
さて、北海道の人でもあまり知らないそうですが、渡島管内にある八雲町発祥の北海道名物が2つあります。まず「八雲バター飴」です。こちらは、先代が製法を伝承できずに亡くなり、2004年で途絶えました。
もう一つが「木彫り熊」です。
実は、八雲町と尾張徳川家には深い縁があります。1878(明治11)年、14代藩主 慶勝は、旧藩士たちの食い扶持のために明治政府に開拓地の払い下げを求めました。明治維新で失業した旧藩士が新天地を求めて移住し開墾した土地、それが北海道の八雲町です。「八雲」の地名も、慶勝が熱田神宮の祭祀 須佐之男命の古歌「八雲たつ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」から命名しました。 -
本丸御殿
「表書院」と「対面所」~「鷺之廊下」、「上洛殿」がコの字形のスペースをつくり、その先に小天守・大天守が顔を覗かせます。
「木彫り熊」との縁は19代藩主 義親です。彼は、八雲の人々がヒグマ被害に悩まされているのを知り、熊狩りを行ないました。それを岡本一平氏(岡本太郎画伯の父)が「殿様の熊狩」として漫画や記事で紹介したため、親しみを込めて「熊狩の殿様」と呼ばれました。また、アイヌ文化にも理解を示し、祭祀「熊送り(イオマンテ)」にも参加してアイヌ民族の伝統の継承にも一役買いました。
1921(大正10)年、義親は欧州旅行へ発ちました。道中で立ち寄ったスイスのベルンで、何気なく手にした土産物が北海道の運命を一変しました。それは素朴な木彫りの小物で、その中には熊をモチーフにした置き物もありました。農閑期に「農民美術」として木を彫って観光客に売り、生活費の足しにしていたのです。帰国後、八雲を訪ねた彼は、農民たちに工芸品の制作を奨励しました。「出来はどうあれ、作った物は全部買う」と檄を飛ばし、実際に倉庫が満杯になったとの逸話もあります。
1924(大正13)年に八雲農村美術工芸品評会が開催され、沢山の工芸品が出品されました。その中に2つの「木彫り熊」が出品されていました。それが、義親がスイスから持ち帰った木彫り熊をモデルに酪農家 伊藤政雄氏が制作した作品でした。これが、木彫り熊の第一号だそうです。 -
本丸御殿
大小天守を入れて写真が撮れるベスト・ロケーションです。
上洛殿のレポでは、将軍 家光と初代尾張藩主 義直の確執を上洛殿に秘められた「義直コード」を紐解きながら解説いたしました。義直は、家光の「尾張家といえども家臣」という態度が許せずに反発しました。また、家光にとって義直は、家康の実子であることを鼻にかける目の上の瘤でした。
義直のエピソードは枚挙に暇がありませんが、彼は眠る際も家康の子だとの自覚を忘れませんでした。それ故、睡眠中も目を開けながら絶えず足を動かしていたとか、寝返りを打つ度に脇差を手元に置き換えていたと伝わります。敵に襲われた際、遅れを取らないためです。こうした風評が立つほど、「超まじめ」な性格でした。
彼は特に儒学に深く傾倒し、十数冊の著書を残しました。徳川光圀はこの伯父を尊敬し、後に『大日本史』編纂に係わりました。一方、柳生新陰流の相伝を受けた新陰流第4世宗家でもありました。日頃から出陣準備を怠らず、剣聖 宮本武蔵を「名士であるが天性の力を使い過ぎる」と見切ったといいます。
1650(慶安3)年に中風から体調を崩して逝去しましたが、病床に臥せっても不平不満を漏らさず、また苦痛を顔に表わすことも呻き声も発しなかったそうです。その理由は、「みっともないから」の一言でした。「武士として、家康の子として、恥ずかしくない生き方をしたい」が彼のポリシーでした。 -
本丸御殿
「対面所」(右)と「上洛殿」(正面)です。
初代藩主 義直とは対照的に「超ド派手」だったのが7代藩主 宗春です。8代将軍 吉宗が質素倹約をモットーに「享保の改革」を断行したところ、宗春はこの政策を批判し、間逆のお金を回転させる経済政策を執って城下に芝居小屋や遊郭を誘致して遊興や祭りなどを奨励しました。その結果、日本中が不景気の中、「名古屋の繁華に京(興)が醒めた」と称されるほど城下を繁栄させ、「尾張の黄門様」と民衆の喝采を浴びました。名古屋を代表する大須商店街が賑わいを見せるようになったのは、宗春の時代からだそうです。
吉宗はこれに激怒し、宗春は隠居謹慎を命じられ、以後、名古屋城三之丸に幽閉されました。更に死後も墓石に鉄格子を被せられるという陰湿な処遇を受けました。鉄格子が撤去されたのは死後75年を経てからのことでした。
その後、幕府は、田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の御三卿を新設しました。表向きには江戸幕府成立から100年以上を経て御三家間の血の繋がりが薄くなったと説きますが、尾張家から将軍を輩出させない策略だったとも伝わります。 -
本丸御殿
上洛殿の妻入りです。
幕末の尾張藩を率いた名君が14代藩主 慶勝です。慶勝は、幕府から押し付けられた11代養子藩主 斉温に対する不満分子が画策し、尾張支藩高須松平家の秀之助を藩主に迎え入れたものです。斉温は、藩主にも関わらず尾張に一度も入国することなく江戸暮らしを続け、藩士と領民との距離を広げました。しかも趣味が高じて何百羽という鳩を飼育し、莫大な経費を浪費しました。虚弱体質だったのか21歳で早逝したため、バカ殿の道楽だったのか、それとも孤独のなせる業だったのか、真相は闇の中です。
翻って、ある種のクーデタによって迎えられた慶勝は、初代藩主の尊王思想を継承し、外交面では攘夷の立場を取り、日米修好通商条約の調印に反対しました。また、将軍後継問題でも井伊大老 と対立し、安政の大獄で隠居謹慎を命じられ、弟 茂徳に藩主の座を譲りました。 -
本丸御殿
正面が表書院です。
その後、慶勝は謹慎が解かれると第1次長州征伐の幕府軍総督に就任し、長州軍を降伏させました。「今、長州を叩けば外国に攻撃される。和平交渉で長州を温存すべき」との考えです。しかし幕府から手ぬるいと批判され、慶勝の心は幕府から離れ、やがて公武合体運動に尽力し、新政府軍V.S.旧幕府軍の戦い「戊辰戦争」では新政府軍につきました。大政奉還後は慶喜が新政権から排除される一方、慶勝は新政府の議定に就任し、更に幕府側との交渉役を果たして明治政府の樹立に貢献しました。このように徳川家が一枚岩になれなかったことが、明治維新が実現できた理由の一つとされています。
因みに、慶勝と茂徳、会津藩主 松平容保、桑名藩主 松平定敬は兄弟で、「高須四兄弟」と称されました。しかし、明治政府の処遇に反発した弟の松平容保と松平定敬は、将軍 慶喜を奉じて新政府を敵としました。そのため維新後、慶勝は朝敵となった容保、定敬の助命に奔走しています。 -
本丸御殿
左側にあるのが「御湯殿書院」その奥が「黒木書院」です。
19代藩主 義親は、越前藩主 松平春嶽の5男に生まれ、尾張徳川家の長女 米子と結婚し、同家を継いで侯爵を襲名し貴族院議員に就任しました。しかし、社会主義に理解を示して貴族院改革を提唱したものの、受け入れられないと悟ると直ぐに議員を辞職しました。
義親にも武勇伝があります。尾張徳川家には12世紀初頭に作成された『源氏物語絵巻』が3巻伝わっていました。彼は周囲の反対を押し切って絵巻を場面毎に切り離し、ケースに入れて公開にも耐える保存方法を考案しました。巻物ゆえ「見れば痛むし、見られないなら存在価値が無い」と悩んだ末、断腸の思いで切ったそうです。大胆な行動に思うかもしれませんが、他の絵巻物で試し、 その方が展示や研究に有効なのを確認した後で行なうなど、細心さも持ち合わせていました。 -
本丸御殿 御湯殿書院
「御湯殿書院」へは、靴をビニール袋に入れ、手前の木製階段を登って入ります。左側に突き出している部分が上段之間(非公開)です。
関東大震災や昭和恐慌で華族たちが設立した銀行が倒産し、華族たちは家宝を売って凌ぎました。そんな中、義親が考えたのは、尾張徳川家が受け継いできた宝物を後世に伝えるべく、独立組織「財団法人徳川黎明会」に宝物を寄付することでした。そして屋敷跡の大半を名古屋市に寄付し、残り3200坪に徳川美術館を建設し、1935(昭和10)年に初代館長となりました。 現在、徳川美術館では『源氏物語絵巻』を含む国宝9点をはじめ尾張徳川家の代々の遺品1万数千点を一般公開していますが、これも彼のお陰です。 -
御湯殿書院
上段之間、一之間、二之間の3部屋からなる風呂場で、将軍 家光の宿舎 上洛殿と共に増築されました。 -
御湯殿書院 入側
今まで見学した書院の入側に比べ幅が狭いですが、天井は黒漆塗辻金具をあしらった「格天井」です。鏡板に使用されている木材は全て柾目で、ニ方柾、四方柾などを使い分けています。
前に立たれているのがツアーガイドさんです。 -
御湯殿書院 入側
辻金具には、表紋「三葉葵」と裏紋「六葉葵」が配されています。 -
御湯殿書院 一之間
将軍が風呂に入るための脱衣所として使われた部屋で、内側から鍵が掛けられるようになっています。 -
御湯殿書院 一之間
正面にある一段高くなった襖の奥が上段之間(非公開)です。
天井の意匠は、入側と同じで黒漆塗辻金具をあしらった「格天井」です。
障壁画『扇面流図襖絵』は歴史を感じさせるように意図的に古色蒼然とした姿を再現しています。それは、復元模写ではなく、デジタル複製だからです。
大和絵風の流水にたゆたう扇子を優雅に散らした構図です。御湯殿書院の障壁画は、狩野杢之助の筆と推定されています。 -
御湯殿書院 一之間
南面『扇面流図襖絵』です。
御湯殿書院の入口を入ると正面に見られる襖絵です。 -
御湯殿書院 入側
釘隠しは、玄関と同じ意匠の座金付き六葉黒漆塗り仕上げです。 -
御湯殿書院 二之間
ここは、風呂上りに涼む部屋として使われていたそうです。 -
御湯殿書院 二之間
波と戯れる鳥たちが涼やかさを運んでくれます。
『岩波禽鳥図』以外は、何が書かれていたか不明なため未完成のままです。 -
御湯殿書院 二之間
御湯殿と二之間の間にある引き戸の引手金具です。
牡丹の花と裏紋をあしらったデザインです。 -
御湯殿書院 御湯殿
唐破風付きの建物が将軍専用の風呂屋形です。風呂と言っても湯船はなく、床下にある釜で湯を沸かして湯気を引き込むサウナ式蒸風呂です。
湯殿自体のスペースはご覧のように不必要に広く、冬は寒々とした様子だったのではないでしょうか? -
御湯殿書院 御湯殿
引き戸を締め切れば風呂屋形の内部は真っ暗になるため、上部にある小さな引き戸を開けて外光を取り入れたそうです。 -
御湯殿書院 御湯殿
風呂屋形の上部にある、採光用の引き戸にある引手金具です。
小さなものですが、魚々子蒔きなど細かい技巧が凝縮されています。 -
御湯殿書院 御湯殿
風呂屋形の内部は、壁と床の間に隙間が設けてあり、床下から蒸気が噴出す仕組みです。
「将軍はひとりで入浴したのですか?」と質問され、ガイドの方は言葉を濁していましたが、将軍は蒸し風呂の中で下女に体を洗ってもらいました。
因みに、紀州藩では、徳川光貞が湯殿で下女に手を付けたことから「暴れん坊将軍」の徳川吉宗が生まれています。吉宗の母親は、元々は百姓からの出仕しでお由利の方と呼ばれ、和歌山城大奥の湯殿番を務めていました。母親の身分に問題があったため、生まれた吉宗は捨て子の形で家老 加納平治右衛門に預けられ、やがて城中へ引き取られました。
天下の頂点に立った吉宗ですが、本来ならば将軍どころか紀伊藩主になる事さえ難しい境遇だったようです。 -
雁之廊下
湯殿書院と黒木書院をつなぐ入側は「雁之廊下」と呼ばれ、途中に上洛殿へ通じる引き戸があります。
廊下の壁面には『雁図』が描かれていたものと思われますが、それを偲ぶものはありません。 -
雁之廊下
この杉戸の奥が上段之間の入側になります。墨画『猿猴捕月図』のあった所です。
こうした杉戸や襖の引手金具を彩る七宝焼きは、色味をオリジナルに近づけるために七宝職人さんが100回以上ものトライ&エラーを重ねた渾身の作品だそうです。
よく観ると所々に気泡があります。これは往時の技術では取り除けなかった不純物の跡を、意図的にありのままに復元したものだそうです。本丸御殿内には、こうした七宝焼きが施された瀟洒な引手金具が92個あるそうです。 -
黒木書院
本丸御殿内で最も小さな書院であり、上洛殿と渡り廊下で繋がった奥座敷のような佇まいです。
各8畳ある一之間と二之間のみのこじんまりとした落ち着いた雰囲気の小書院です。 -
黒木書院 二之間
本丸御殿の他の部屋は総檜造ですが、この書院だけは良質な松材が用いられています。松材は元々色が濃いのですが、年数が経つと松脂により更に黒くなることから黒木書院と呼ばれています。華やかな上洛殿とは対照的に、円熟した佇まいです。
『金城温故録』によると、「清洲越し」の際に清州城内にあった家康の宿殿を移築した「殿舎」と伝え、祖父 家康を尊敬していた家光に対する義直の心遣いともとれます。
因みに、「清洲越し」とは、1612(慶長17)年頃から1616(元和2)年頃に行われた、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市の移転をいいます。尚、清洲城の天守の資材も名古屋城築造に使われたそうです。 -
黒木書院 二之間
書院の内装は、他の殿舎に比べ、しっとりと落ち着いた大人の雰囲気です。ガイドの方の説明では、将軍の寝室として使われたとの説もあるそうです。しかし、何故松材に拘ったのか、誰が何の目的で使用したのかも不明であり、謎めいた部屋ではあります。
障壁画は色味を落とした『山水図』や『四季耕作図』、『梅花雉子小禽図』などが描かれています。他の部屋より時代を遡った慶長期以前の雅趣となる水墨画であり、やや中世的な作風で異彩を放っています。恐らく、清洲城内にあった家康御殿の遺品ではないかと思われます。
天井は「竿縁天井」、欄間もシンプルな「筬欄間」です。 -
黒木書院 朝顔之廊下
入側「朝顔之廊下」の天井は、庇のように斜めになっており、一見、格天井のようにも垂木のようにも見えます。屋根のプロフィールをそのまま用いた斜めの天井は珍しく、本丸御殿の他の構造手法とは趣を異にします。
こうしたことが清洲城からの移築の論拠になっています。
廊下の壁面にはどんな『朝顔図』が描かれていたのでしょうか? -
黒木書院 朝顔之廊下
『梅花雉子小禽図』の雉のズームアップです。
19代藩主 義親にはスリリングな武勇伝もあります。彼には蕁麻疹の持病があり、医師に転地療養を勧められてシンガポール旅行を計画しました。それを知った新聞記者が 「熊狩の殿様だから虎狩りに行くのだろう」と考えて「徳川義親侯爵、シンガポールへ虎狩りに」と掲載。これを更に英字紙が転載したため、シンガポールのジョホール国王が「一緒に虎狩りをしよう」と待ち構えていました。普通なら「あれは誤報で…」と言い訳するところですが、現地の熱気に絆され、後日、義親は次のように記しています。
「100人近い勢子が石油缶をガンガン打ち鳴らして虎を追い出すところへ、私は銃を構えて待機する羽目になった。『虎はあなたをめがけて突進してくるが、ぎりぎりのところまで撃ってはいけないヨ。もし撃ちそこなったら立っていては危険だが、自分でひっくり返ってしまえば背中を踏まれるぐらいで済むだろうサ』。スルタン(国王)は事もなげに言う。が、初対面の相手だから心細くて仕方がない。猛獣は真っ正面から飛びかかってくるから命中率がいい。鹿などは逃げるところを後ろから撃つのだから高度の技術を必要とする。だから度胸さえあれば何でもないはずだ が、理屈で判っていても口で言うようには何事もうまくいかないものだ」。 -
黒木書院 朝顔之廊下
襖の引手金具です。現在でも通用しそうな斬新なデザインです。
「太陽が西に沈んで、急に辺りが暗くなりはじめた時、私の後ろで勢子たちが一斉にキャーッという悲鳴を上げた。草むらの中にクルッと振り向いた虎の姿が見えたと思った瞬間、カッと口を開けて私の前に躍り出た。咄嗟のことに、逃げ出すわけにはいかず、夢中で3発撃ったが、虎は倒れるどころかツル草の上を飛んで襲いかかってきた。はじめは30mほど 離れていると思ったが、ひと飛びで5m近く接近するからたまらない。私がひっくり返る寸前に、虎は私の頭の上に落下してきた。しかし、一瞬、スレスレですり抜けたという感覚が走った。私は振り向きざまにもう一発撃った。これは右足の関節を砕いた。虎は深い草の中にドッと倒れ、私があわてて弾を詰め替えているうちに息絶えた。よく見ると、はじめの1発がアゴに当たっており、キバが2本折れていた。致命傷を受けながらすさまじい突進を見せた虎の執念を思い返して、私は思わず冷や汗を拭き、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった」。
この事件で「虎狩りの殿様」のイメージが定着し、鉄砲を撃てることから大日本猟友会の 初代会長に祀り上げられています。また、「虎狩り=トラ刈り」の連想から日本理髪業組合の会長も引き受けさせられたといいます。
やがて太平洋戦争が勃発すると、マレー方面への派遣を願い出ました。陸軍省より陸軍事務嘱託(マレー軍制顧問)の辞令が発令されると直ぐにシンガポール入りし、ジョホール国王等の安全確保に奔走されたそうです。
義理人情にも篤い殿様だったようです。 -
黒木書院 朝顔之廊下
今までなかったタイプの大型の釘隠しです。
裏紋をあしらっています。 -
黒木書院 一之間
こちらもシンプルな造りです。床の間の障壁画は、淡彩『瀟湘八景図』以外は史料がなく未完成のままです。
ここの床の間も畳敷きであり、ここも「床刺し」天井になっているのが気になるところです。
上洛殿の上段之間よりも落ち着いた雰囲気があり、将軍はここで寝たのかもしれないと思いました。 -
黒木書院 中庭
ここにも採光用のガランとした坪庭が設けてあります。
面白いのは、雨樋を持たない柿葺を採用しているため、地面には雨垂れを受け留める小玉石を入れた犬走りを屋根の形に合わせてぐるりと這わせている点です。 -
御湯殿書院 入側
素朴さゆえ、心に染入る筬欄間。
20分程のガイドツアーが終わりました。ガイドさん、お疲れさまでした。 -
上台所
本丸御殿の北側に回りこんでみます。
大天守方向に張り出した瓦屋根の棟屋が上台所です。屋根には「煙出し」も設けられています。上部を本瓦葺、下部の庇を柿葺と2重にしているのが贅沢です。
火災予防のため、ここだけは本瓦葺が採用されています。尾張藩では、本丸の天守や御殿は将軍からの預かり物としての意識が強く、防火には細心の注意が払われていました。
現在は、ミュージアムショップや従業員控室、トイレなどとして使用されています。南隣りには、柿葺の孔雀之間も見えています。 -
本丸御殿 対面所~下御膳所
中央が対面所、その右側が下御膳所です。柿葺屋根が歪に居並びます。
創建当初の慶長期の様式で復元されたため、屋根は柿葺です。後世に防火のために桟瓦葺きに葺き替えられました。妻入は狐格子で復元されていますが、古写真では防火のために白漆喰で塗り込まれています。下御膳所の天井には煙出しが設けられていましたが、柿葺屋根からどのように外部に排出していたのか気になるところです。
自民党総裁選の安倍氏V.S.石破氏の戦いは、さながら徳川将軍家V.S.尾張徳川家を彷彿とさせるものでした。巨大化した権力とその取り巻きにより、勝手に転がりこんできた構図ですが、その取り巻きを選んだのは国民の責任です。新政権のスタートに当たり、真摯な実績の総括と反省が必要です。それをしなければ同じ過ちの繰返しとなり、国民の期待を裏切るのは自明です。
まず、アベノミクスです。景気はかろうじて持ちこたえていますが、それをアベノミクスの恩恵とするのは早計です。デフレ脱却は、目標の物価上昇率2%に対し、生鮮食品やエネルギーを除けば実質0.2%に過ぎません。つまり物価上昇は、自然災害等に伴う生鮮食料品や石油価格の上昇でしかなく、金融緩和の効果ではありません。現在の好況感は、政府主導の円安誘導や赤字財政のファイナンス、日銀の株・国債買いで操作された虚像にすぎません。
一方、景気が好転し金利が1%上昇すれば、量的金融緩和策が災いし財政危機に陥るのも明白です。日銀は400兆円超の国債を保有し、金利が1%上がれば12兆円の価値損失になります。日銀の自己資本は8兆円に過ぎず、国際的な信認が失墜します。これが金融緩和の出口問題であり、そもそも出口戦略がないのです。従って低金利維持は不可欠であり、破綻するまで金融緩和を続けるしかありません。
しかし、それ以上に深刻なのは、安倍首相がデフレ脱却の目的に「国民により良き暮らしをもたらすため」ではなく、「軍備増強のため」と掲げていることです。その布石が「憲法9条改正」なのですが、経済界の努力で景気が好転しても、社会保障ではなく、軍備費(米国)に湯水のように注がれるのでは国民のモチベーションが上がりません。衆参本会議で行った所信表明演説でも、憲法改定についての意欲を顕にしていたのが印象的です。 -
本丸御殿
金融緩和の副作用も顕著です。アベノミクスによる延命治療により倒産が減り、産業構造の転換が阻まれています。中国のハイテク化に伴い半導体やその製造装置の輸出が伸びましたが、これは円安誘導による既存産業の延命治療の結果です。しかも、経験則に従えば、早晩、中国に生産シフトされます。日本は半導体産業の凋落と共に、スーパーコンピュータやクラウドコンピューティングでも競争力を失いました。また、米国やドイツは「IoTによる第4次産業革命」を官民一体で取り組んでおり、日本はIT革命にも乗り遅れました。
一方、政府が円安誘導や対米FTAで手厚く庇護している自動車産業は、欧州主導の市場ルールの変更で窮地に立たされています。つまり、電動化が遅れ、裾野の広い産業であるが故に日本経済の脅威となっています。もし2020年代後半に電動化が急速に進めば、貿易黒字の8割を占める自動車輸出が失われ、日本経済の屋台骨が揺らぎます。更に深刻なのは、受け皿となる新産業が育っていないことです。アベノミクスの出口戦略を明確にさせ、国民がその成果を問い質す時期に来ています。 -
本丸御殿 玄関
更なる安倍政権の功罪は「原発外交」の失敗です。米W.H.社を買収して瀕死状態に陥った東芝がその典型ですが、首相の友人 中西宏明氏が会長を務める日立も英国への原発輸出で切羽詰っています。モリ・カケ・スパ・リニアに性懲りもせずに資金調達を政府保証したものの、安全基準強化に伴う建設費の高騰で資金がショートしています。しかも撤退には2700億円の損失が生じます。同様に、三菱重工のトルコ原発も早々に伊藤忠が撤退しました。この他、ベトナムやリトアニア、台湾など、原発不良債権が山積しています。
一方、安倍政権の原発依存により、エネルギー分野全体もダメージを被っています。具体的には、世界が凌ぎを削るIoTの最大市場である再生可能エネルギー分野での立ち遅れです。更には、エネルギー政策自体にも祟っています。第5次エネルギー基本計画で2030年度の再生可能エネルギー比率は22~24%に設定されましたが、年換算0.5%増に留まります。これは、今後も原発依存を続けるとの意思表示です。因みに、EUの目標は32%と乖離しており、「日本はエネルギー分野でガラパゴス化する」と警告を発する専門家も少なくありません。
この続きは、桐葉知秋 尾張逍遥④名古屋城散策(エピローグ)でお届けいたします。
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