2018/10/17 - 2018/10/17
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montsaintmichelさん
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「名古屋(那古野)」の地名の由来は、打ち寄せる波が丘を越える様子から「浪越(なご)」、あるいは「魚子(なご:漁師の意味)の家屋」があったことに因みます。
名古屋のランドマークと言えば、名古屋城です。天下統一の布石に徳川家康が大坂城の豊臣勢への前衛拠点とすべく築城しました。1612年に天守閣、1615年に本丸御殿が完成し、徳川御三家筆頭となる尾張徳川家の居城となりました。
本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁ながら「近世城郭御殿の最高傑作」と称され、二条城二之丸御殿と双璧をなす武家風書院造の代表建造物です。総面積3100㎡、雁行形に配された13棟で構成され、優美な外観と共に室内は山水花鳥などをモチーフとした障壁画や錺(かざり)金具などで絢爛豪華に飾られ、建築・絵画・美術工芸史において高く評価されています。最大の特徴は、慶長期(創建部)と寛永期(増築部)の様式を備える点です。
本丸御殿は明治時代以降も宮内省の所管となり、姫路城の保存にも奔走した中村重遠大佐の尽力もあり、本丸内の建造物はそのまま残されました。雄渾な天守閣と優美な御殿が建ち並ぶ姿は城郭建築としての風格を湛えており、1930(昭和5)年に城郭建築における国宝第1号に指定されました。しかし、1945年(昭和20)年5月の名古屋空襲により天守閣、本丸御殿共に灰燼と化しました。
その後、戦後の復興に伴い、1959(昭和34)年に金鯱を戴いた5層の大天守閣と小天守閣が鉄筋コンクリート造で再建されました。本丸御殿も、江戸時代の文献の他、写真、実測図により、工期10年、総事業費150億円を投じて2018年6月に復元が完成し全面公開されました。
経済的発展の割りに「文化的な深みに欠ける」と揶揄される名古屋市ですが、同市を生誕地とする者として、本丸御殿の復元をバネに文化都市としての風格が高まることを願ってやみません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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名古屋城本丸御殿は、徳川家康の9男 義直の住居として建てられた御殿です。大坂冬の陣直後の1615(慶長20)年4月、本丸御殿で義直と紀伊和歌山藩主 浅野幸長の娘 春姫との婚儀がとり行なわれています。当初は本丸御殿を住居としていましたが、1620(元和6)年に二之丸御殿に引っ越したため、以降本丸御殿は将軍が上洛の際に使用する宿舎となりました。
因みに、中山道や東海道沿線の城は、本丸を空けておくのが不文律でした。これは、徳川領にある城は家康とその後の将軍だけが城主だとの考え方です。ですから、尾張藩主に過ぎない義直が二之丸御殿に移ったのは至極当然なことと言えます。 -
1626(寛永3)年には徳川秀忠が、1634(寛永11)年には徳川家光が宿泊しています。また、この家光の上洛に合わせて本丸御殿が拡張・改修されました。その時、将軍の宿殿機能として、不要となった中奥・奥部分を解体撤去し、代わりに増築したのが「上洛殿」です。
江戸時代には2度しか使われず「開かずの間」になった上洛殿ですが、明治時代以降は大活躍しています。往時少なかった高級ホテルの代用となり、皇族の方々の宿泊地として「将軍様が泊まったホテル」と重宝され、やがて本丸御殿は「名古屋離宮」になりました。 -
玄関
箕甲(みのこう)と呼ばれるなだらかに湾曲した唐破風を戴いた玄関車寄の奥に、一之間と二之間を擁する切妻屋根の玄関が佇みます。堂々とした90cm四方もある獅子口(鬼瓦)をはじめ錺(かざり)金具など随所に「三葉葵」の徳川家紋があしらわれているのも見所です。また、壁は竹を組んだ土台に土を塗り、白漆喰で仕上げています。いずれも近代の建物ではほとんど用いられない工法ゆえ、名古屋は勿論、京都や日光からも職人を呼び寄せて実現させた力作です。 -
玄関
妻入りには狐格子が嵌められ、懸魚には徳川家の「三葉葵」の紋が燦然と輝きます。 -
玄関 車寄
将軍など正規の来客だけが上がれる、本丸御殿への正式な入口です。そのため、見学者は見るだけで通り抜けはできません。
唐破風を戴く堂々たる外観を魅せ、本丸御殿の中で最も太い檜の柱を用いています。また、本丸御殿の木材は、黒木書院を除き「裏木曽」と「木曽谷」の檜が用いられていますが、これを可能にしているのは、戦国時代の争乱や織豊期からの築城ラッシュによって荒廃した木曽の山が尾張藩の森林保護政策によって甦ったことに拠ります。
唐破風は創建当初の慶長期の柿葺で再現され、柱や梁は釘を一本も使わずに継手・仕口という伝統工法で復元しています。杉などの木材を3mm程度の厚さに割った板を一枚ずつ竹釘で打ち付け、屋根の下から上へ向かって重ねることで曲線美を魅せるのが柿葺です。また、蟇股には「三葉葵」紋が彫られ、その先の天井は格(ごう)天井です。 -
玄関 車寄
唐破風の下にある横長の懸魚は「兎の毛通し(うのけどおし)」と呼ばれ、「拝み懸魚」の一種です。棟木の切り口を隠す役割を持ち、破風のラインの形を羽に見立てて「鳳凰」など鳥類の意匠を用いる事例が多いようです。「兎の毛」は「極めて微細なことの例え」とあり、「兎の毛通し」は極めて細い兎の毛を漸く通すほどの細密な彫刻という意味です。 -
本丸御殿見取図
右端にある「中之口部屋」にある勝手口から入場します。
御殿はご覧のように雁行形をしており、順路で説明すると大きく8つのブロックに分けられます。「玄関」→「表書院」→「対面所」→「上洛殿」→「上御膳所」→「下御膳所」→「御湯殿書院」→「黒木書院」となります。その内の6ブロックは、1.5時間あればじっくり見学できます。尚、「御湯殿書院」と「黒木書院」は入口が異なり、こちらは30分毎のツアー見学(要、申し込み)になります。
写真撮影は、ノーフラッシュかつ手持ちであればOKです。建物に傷が付いたり、他の見学者の迷惑になるため、三脚や一脚の使用は不可です。マナーを守って撮影しましよう。場所によっては暗いため、ISO感度を上げてシャッタースピードを上げないと手振れします。(ノイズは多少犠牲になりますが…。)
この見取図は次のサイトから借用させていただきました。
(1部、加筆しております。)
http://www.tobunken.go.jp/image-gallery/nagoya/map.html -
玄関 中之口部屋
勝手口から入って直ぐの広いスペースが、エントランスホールになっている「中之口部屋」です。案内板には「実質的な玄関」とあります。入った途端に檜の香りが仄かに漂いはじめ、見学するだけで森林浴気分に浸れる趣向です。
ここの天井には電灯が取り付けられていますが、明り取りがなく手元が暗いための苦肉の策ですので気になさらないでください。他の部屋は、行灯とスポットライトで処理されています。
ここでスリッパに履き替えますが、靴下を履いていればそのままでもOKです。また、大きな手荷物は、ここにあるコインロッカーに預けた方がフットワークが軽くなります。(コインは返却されます。) -
玄関 中之口部屋
ここは和釘が剥き出しです。 -
玄関
中庭と表書院「三之間」との間にある入側(廊下)を進みます。
この先のT字路で大廊下と合流し、順路の左側に折れると「玄関」、右側が「表書院」です。 -
玄関
入側にある、釘隠しも注目ポイントです。部屋の格に伴って徐々にグレードアップしていきます。
形状から六葉釘隠しと呼ばれ、銅板の上に金鍍金(きんときん)したものです。金箔を貼る際には、接着剤として水銀を用いたそうです。
これらの錺金具の復元を手がけたのは、京都市にある後藤社寺錺金具製作所や名古屋市にある日野屋、名古屋神仏錺金物工業協同組合などです。 -
玄関 見取図
来客は、ここで藩主との取次を待ちました。
「玄関」と言いますが、一之間(18畳)と二之間(28畳)の2部屋からなる「控室」です。
正式な入口である車寄から上がると、正面が二之間です。
見取図は、次のサイトから借用いたしました。
(1部、追記しています。)
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/index.html -
玄関
こちらの六葉釘隠しは、銅板の上に金鍍金し、更に黒漆を塗って格調高く仕上げています。
特徴は、上洛殿以外の釘隠しには、徳川の家紋「三葉葵」ではなく、裏紋「六葉葵(唐花葵)」が使われていることです。葉と葉の間に「猪目(いのめ)」と呼ばれるハート型の隙間ができています。
因みに、裏紋は、文具や羽織・家財道具等、公式行事以外の場で使用したものだそうです。
一方、尾張徳川家が上洛殿以外に将軍家の「三葉葵」紋を使うのを畏れ多いと躊躇ったとの説もあります。 -
玄関 一之間 『竹林豹虎図』
一之間には床の間や違棚も設われ、今で言う「控室」です。
2間共に天井は棹縁(さおぶち)を平行に並べて板を張ったシンプルな竿縁天井ですが、4周の壁や襖には、来訪者を威圧すべく、勇猛な「虎図」の障壁画が描かれています。
もうひとつの注目ポイントが、天井の意匠の移り変わりです。部屋毎に異なる表情が見られる上、奥に進むに従ってその意匠の様式や趣向が変化し、次第に格式が高くなっていくのが実感できます。 -
玄関 一之間 東面
表向きの取次ぎや警備の武士の詰所となった格式の低い部屋ですが、「虎図」の障壁画や襖絵があるため、二之間と併せて「虎の間」と呼ばれました。
金地著色の襖には、「一休さん」の屏風絵を彷彿とさせる、今にも飛び出してきそうな虎が描かれています。これらの「豹虎図」は客人を驚かせるための趣向であり、工夫だそうです。オリジナルの制作は1614(慶長19) 年とされ、画筆者は不明とされますが、一之間東面は狩野派宗家の嫡流かつ長老的存在の狩野長信を中心とした作品とされます。
因みに、玄関の2間だけで27頭の豹虎が描かれています。 -
玄関 一之間 東面
特別公開中のため1部だけオリジナル(重文)の襖を嵌め込み、煤けて色褪せた襖絵は焼失前の本丸御殿を偲ぶよすがとなっています。このように本物が展示できるのは、長押などの復元が寸分違わずなされた証左です。
因みに、本丸御殿の復元が完成した折、ご乱心した殿(市長)が「復元模写では無く、本物の障壁画を取り付けろ」とのたまわれたそうです。しかし学芸員は毅然とした態度で、後世に残すために保管することを諭したそうです。後世を先見しない、刹那主義のリーダーが多いのには閉口します。 -
玄関 一之間 東面
オリジナル版(重文)の豹図です。
玄関にある障壁画「豹虎図」には豹も混ざっています。これは往時は「豹=雌虎」と信じられていたためです。そのため豹の傍らに子虎を配した図が多く、ここでは子虎をあやしたり背中を舐めたりする母虎など、ほのぼのとした絵柄です。
因みに、豹の初来日は、『武江年表』によれば1860(万延元)年のことです。「豹、渡来。吹上に於て御覧あり。」とあり、14代将軍 家茂が拝見されたようです。 -
玄関 一之間
こちらが復元模写版です。
本丸御殿が「最も実証的で忠実な復元」と称されるには、それなりの理由があります。
1.国宝指定当時、すでに写真技術が確立されていたこと。
2.写真は、火災でも焼失しないガラス乾板で撮影され、かつ約700枚 もあったこと。
14代尾張藩主 慶勝が自ら撮影した古写真も豊富です。
3.詳細な実測図(109枚)や潤沢な拓本が存在したこと。
これらサンプルとなるものが豊富にあったため、時代考証ではなく、本来の姿そのままに現代に写し取れたそうです。いわば、リアルサイズのジオラマを、伝承された往時の建築技術とオリジナルと同等の素材を使って細部に亘って再現したものです。
また、木材の加工では電動工具をなるべく使わずに手作業で行ったり、障壁画を貼る際も江戸時代同様に生麩糊(しょうふのり)を使うなど、目に見えない部位にも拘って復元されています。 -
玄関 一之間
床の間の貼付絵は『瀑布竹虎図』(北面)です。
「来客を威圧する虎図」ゆえ強面かと思いましたが、意外にも目がクリクリしており愛嬌たっぷりです。何故なら、往時は本物の虎を見ることが叶わず、絵師たちは中国絵画の虎を真似たり、毛皮から想像して描いたからです。
「虎図」は、東南アジアに生息する動物を描くことで見聞の広さや国との繋がりを誇示し、藩主の権威を知らしめたものと解釈されています。それ故、単純な「勇猛=威圧」という構図ではないそうです。 -
玄関 一之間 西面
今回は部屋が開放されていたため取り外されていましたが、南面内側にある障子の腰貼付絵『三方正面眠り虎』も有名です。どこから見ても正面から睨んでいるように描かれた虎なのですが、太った「チャウチャウ」を彷彿とさせます。
寝ているのか睨んでいるのか判らない処も不気味です。
ミュージアムショップには『三方正面眠り虎』の絵葉書もありますが、買う気にはなれませんでした。
この写真は次のサイトから借用いたしました。
https://castleinformation.blog.so-net.ne.jp/2012-01-09 -
玄関 一之間 西面
余談ですが、知恩院には狩野信政筆『三方正面真向きの猫』があります。
知恩院と言えば、その塔頭 先求院(せんぐいん)の僧侶が次期住職を脅迫した疑いで逮捕されたことが話題になりました。前住職の長男だそうです。前住職は、遺言書で別の寺の住職を務めながら長年先求院に携わってきた僧侶を次期住職に指名したようです。それを逆恨みし、境内に「みなごろし」「死殺殺殺」と貼り紙したようです。仏道を修行する人がこうした事件を起こすとは世も末ですが、唯一の光明は前住職が長男には住職になる資質がないと見抜いていたことです。 -
玄関 一之間 北面
一之間は格式が高く、「床の間」や「違棚」などの書院造の特徴が見て取れます。総檜造とされますが、床の間には桑、違棚には欅など、要所には適材を用いています。
障壁画の復元模写は最大の見所です。
障壁画は約400年も前の狩野探幽らの作品を林功氏(2000年没)、愛知県立芸術大学 加藤純子教授の指導の下、県立芸術大学の協力を得て1992年より26年の歳月をかけて復元模写したものです。加藤教授は、『源氏物語絵巻』など多くの国宝や重文を復元されてきた古典模写の第一人者です。
最大の特徴は、実物(重文)と写真資料が現存するため、当初の色彩を忠実に再現した復元模写がなされていることです。京都 建仁寺のデジタル復元とは雅趣が異なります。顔料や材質などに科学分析を駆使して江戸時代の伝統的な画法を明らかにし、絵を描く時の絵師たちの筆致や心情までも転写し、息を呑むほどの仕上がりです。 -
玄関 一之間
違棚の天袋の貼付絵「花卉図」は、『朝顔』『野路菊』『牡丹』でしょうか?
古色蒼然とした現状を模写するのではなく、制作当初の鮮やかな色彩を復元模写しているのが最大の特徴です。往時の絵師が使用していた素材や技法の判別は、顕微鏡やコンピュータ、史料などで分析し、ミクロ単位の観察を基にした緻密な作業がなされています。
しかし、色彩感覚や感性の再現は、やはり職人の感性に拠るところが大きいものです。筆致についても狩野派の感性に近しい再現がなされており、残された貴重な史料を基に新たな生命を宿したのだとすれば、これもまた本物と同等の価値があるのかもしれません。 -
玄関 一之間
一之間と二之間との境の欄間は、織機の筬(おさ)を模した繊細な部材を櫛歯のように列ねて組んだ「筬欄間」です。雅趣ある欄間です。
明り取りや通気をよくするため、部屋の境には壁でなく格子を配しています。 -
玄関 二之間『竹林豹虎図』
一之間より広いものの床の間などはなく、壁一面に金地の障壁画「豹虎図」が描かれており威圧感は半端ないです。
一之間よりも格が下がり、身分の低い訪問者はこちらに通されました。 -
玄関 二之間 東面
一之間の障壁画とは、イメージや筆致が大きく異なるのが判ります。
二之間の障壁画の描写が一之間と印象が異なるのは、筆者が異なるからとの説や後年の補筆によるとの説がありますが、定かではありません。 -
玄関 二之間
襖絵の地は、徳川家の権威を示す金箔押しです。本丸御殿は、狩野貞信や狩野探幽、狩野杢助など日本画史上最大の画派「狩野派」の絵師たちにより、部屋毎に異なるモチーフで床の間の貼付絵や襖絵、障子の腰貼付絵が描かれ、金襴豪華に彩られています。
また、慶長期(桃山時代後期)に完成した表書院や対面所、玄関などには狩野貞信を核に制作された作品、徳川家光上洛時の寛永期(江戸時代初期)に完成した上洛殿 や御湯殿書院、梅之間などには狩野探幽を核に制作された作品があり、これら2つの年代の異なる障壁画群を比較して愛でられるのも醍醐味です。
戦禍により本丸御殿は焼失しましたが、取り外すことができた襖絵や天井画などは焼失を免れ、現在も保管されています。その内の1047面が重文の指定を受けています。
オリジナル版(重文)は、水面の青が褪色して舟のようにしか見えません。 -
玄関 二之間 西面
オリジナル版(重文)の襖絵です。
アクリル板への映り込みがあり、少々見難いのが残念です。
この豹も明らかに筆致が異なります。画筆者は少なくとも3人いたものと思われます。 -
玄関 大廊下
玄関と表書院を結ぶ廊下ですが、横幅は6m程あります。
天井は竿縁天井ですが、使用されている木材は全て柾目で、ニ方柾や四方柾を使い分けています。
足元の床板も木曽檜です。長さ6m、厚さ10cmあり、1枚だけで数百万円するほど高価なものを踏んづけていることになります。勿論、節ひとつない一級品です。また、壁板も中央に板目、左右に柾目のある板で揃えています。
重文『竹林豹虎図』の保護のためか、引き戸が開けられておらず暗いのが難点です。 -
表書院 見取図
大廊下の先にあるのが表書院の入側です。
表書院は藩主や来客、家臣との公式な謁見の場であり、江戸時代には「広間」と呼ばれました。格の低い順から三之間(39畳)、二之間(24畳半)、一之間(24畳半)、上段之間(15畳)と続き、別に納戸之間(24畳)が設けられています。上段之間は、床の間や付書院を備えると共に床も一段高くしており、藩主の座として使われました。
見取図は、次のサイトから借用いたしました。
(1部、追記しています。)
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/index.html -
表書院 三之間 『麝香猫図襖画』
タヌキではなく「御猫様」を描いた、狩野派の優美な筆が愉しめる部屋です。しかも麝香猫(じゃこうねこ)です!訪れた客人たちは、かの「禁断のう○ちコーヒー」をサービスされたのでしょうか!?そうではなく、東南アジアの熱帯地方などに生息する麝香猫は、日本では高貴な生き物として敬われていました。
東南アジアと言う設定から、この障壁画は「初夏」を表しています。外国の動物を描いた理由は、往時誰も見たことがない異国の動物を描くことにより、徳川家と幕府の威厳を示したものと解釈されています。動物の他、タンポポやツツジ、ボケ、シラン、カイドウなどの花々も鮮やかです。 -
表書院 三之間 北面
ジャコウネコ科に属し、ネコ科ですが見た目はイタチやタヌキに似ています。東南アジアやアフリカに生息し、60種類程が確認されています。大きさは60~100cm程あり、猫としては大柄です。食通としても名高く、美味しいコーヒーの実だけを選り好んで食べます。
麝香猫が排泄したコーヒー豆を洗浄し、乾燥させたのが「ジャコウネココーヒー」です。麝香猫の消化酵素は果肉のみを溶かし、コーヒー豆はそのまま排泄されるため、腸内の消化酵素により豆に含まれるアミノ酸が分解され、独特の香味を帯びます。腸内で半日も自然発酵されるため、コーヒー豆が絶妙な深い香味を持つようになります。
因みに、麝香猫の分泌物から得られる香料は香水にも用いられ、かの「シャネルNo.5」にも入っています。 -
表書院 三之間 東面
天井は、白木で升目に組まれた「格(ごう)天井」にグレードアップしています。天井の仕切りを「格縁」と呼び、貼られた板を「鏡板」と呼びます。
東面の障子の腰貼付絵や西面の襖絵には、色彩鮮やかに水辺の様子を描いています。 -
表書院 三之間 西面
余談ですが、「ジャコウネココーヒー」は悪趣味の変人による偶然の産物ではありません。19世紀のインドネシアはオランダの植民地であり、オランダ人はコーヒー豆の木を持ち込んで農園を営みました。現地人は農園で奴隷として働かされていましたが、オランダ人が美味しそうに飲むコーヒーを一度味わいたいと思っていました。しかし勝手に豆を採ってコーヒーを淹れるのは禁じられており、仕方なく麝香猫が排泄したコーヒー豆でコーヒーを淹れてみました。ところが、これが極上の香味であり、瞬く間に広がったというのが「発見秘話」です。 -
表書院 三之間 西面
手前の麝香猫と視線が合い、キュートな表情に釘付けにされました。
舐め回すように観ている当方を不審者とでも思ったのでしょうか? -
表書院 二之間 東面
東面には秋の紅葉と初冬を表わした『槙楓椿図』、西面は松に冬の薔薇、ヒヨドリやキジバトを組み合わせた『松楓禽鳥図』です。部屋の周囲にある障壁画の季節感だけでなく、隣接する部屋を仕切る襖を開け放つことにより、一瞬で季節の移り変わりを感じさせる空間デザインです。
北面は金地だけで何も描かれていません。これは、絵が描かれていたと推察されるものの、それを証明する写真等が残されていない箇所だからです。こうした箇所は、推察と時代考証により適当に絵を添えるのではなく、敢えて金箔のみで対処されている点が評価できます。 -
表書院 二之間 東面
画筆者は、狩野永徳の弟 宗秀の息子に当たる狩野甚之丞(往時31歳)と推定されています。
因みに、甚之丞は、二条城二之丸御殿の遠侍(玄関)二之間の障壁画を担当しています。 -
表書院 二之間 西面
襖の上の長押と天井との間には、「筬欄間」と呼ばれる細い縦格子に三本横桟を入れた格子が嵌めています。 -
表書院 一之間 北面
天井は、格子状に組んだ「格天井」の格子の中に更に繊細な格子を組み込んだ「小組格天井」にグレードアップしています。
上段之間の境の長押は、床が一段高くなるため意図的に段違いにされています。これは、結界(俗と聖を区分する)を表わしているそうです。
また、長押の高さも一段上げ、襖の丈を東西面と合わせています。 -
表書院 一之間 北面『桜花雉子図』
白雉(はくち)は珍しく、吉兆を象徴する鳥とされ、ここが特別の場所であることを暗示しています。飛鳥時代の孝徳天皇の時世には、「白雉」という元号も制定されたほどです。
長門の国司 草壁醜経(くさかべのしこぶ)が朝廷に白い雉を献上し、これが瑞祥だとして元号を「大化」から「白雉」に改めたことが『日本書紀』に記されています。古来、白馬や白鹿、白蛇、白亀、白烏などの白い動物は瑞祥として捉えられることが多かったようです。 -
表書院 一之間 北面
親雉の回りには小さな鳥が3羽佇み、これらは雛鳥と思われます。雛鳥は子孫繁栄のシンボルであり、尾張徳川家の子孫繁栄を表わすものとされます。
一方、学術的には雉子は桜が咲く頃にはまだ産卵しておらず、この絵の様子は自然界では決して見ることのできない幻の光景だそうです。 -
表書院 一之間 東面
満開に咲き誇る桜花の下の川畔に憩う雉の親子を描いた『桜花雉子図』です。
八重桜の花弁の表現には、貝殻の粉末から作られる胡粉や雲母、紅花からつくった染料 臙脂を混ぜたものを用いています。油絵のように花弁を盛り上げ、立体感を強調しています。 -
表書院 一之間 東面
襖絵を正面から見た図です。こうして見ると、東西南北の4面が連続した情景を描いたものであることが判ります。
右端の襖絵『紅白薔薇図(桜花雉子図)』には、水際の土坡(小高く盛り上がった地面)に紅白の薔薇と熊笹、羊歯(しだ)などが描かれています。 -
表書院 一之間 東面
雉のつがいと子雉たちが、水辺で一家団欒の憩のひと時を過ごしています。
水面の青や熊笹の緑と金地のコントラストが目に鮮やかです。 -
表書院 上段之間
左側にある入側に張り出した設えが「付書院」です。
明かり取りの「腰高障子」と花形模様が美しい組子細工の「花狭間欄間」を建て込んでいます。 -
表書院 上段之間
入側の長押も一段高くなっています。 -
表書院 上段之間
花狭間欄間も手が込んだ繊細なデザインです。
上段之間から透かして見たら、さぞ雅趣があることでしょうね! -
表書院 上段之間
ふと足元に目をやると、こうしたシックな釘隠しが配されています。 -
表書院 上段之間
藩主が着座した部屋であり、表書院の中では最も豪華な造りです。違棚「清楼棚」と「付書院」、「帳台構」を合わせて「座敷飾」と言います。付書院には障子を入れることで明かりを取り込み、物書きや読書などをする際に利用されました。
床の間の貼付絵には美形の松を描いています。これは松が真冬でも枯れずに青々と繁ることから、「不老長寿」の縁起を担いだものとされます。
また、床の間の床框(かまち)には欅を用い、15~20cm幅に美しい杢目を収めています。復元に当たっては、欅は目が曲がり易く、条件に見合う木を探し出すのが大変だったそうです。 -
表書院 上段之間
床の間の右隣には、違棚などを配した眩いほどの「床脇」が設けられています。
違棚の天袋貼付絵は、金地著色『花果図』です。 -
表書院 上段之間 東面
付書院から内部が覗けます。
天井は、一之間よりも更に格調高い白木の「折上小組格天井」です。壁上端から円弧状に折り上げて一段高くし、天井面は太い格子の中に更に細密な格子を組んでいます。
金地濃彩の障壁画は、老松および老梅を中心とした『梅松禽鳥図』で春を表わしており、往時の狩野家の当主 狩野貞信の筆と推定されています。 -
表書院 上段之間 東面
押板と3枚の棚板を段違いにした違棚「清楼棚」の隣にある小さな開き戸は「帳台構(ちょうだいがまえ)」です。一段高く長押を入れ、丈の低い襖を立てた座敷飾りを指します。寝殿造の寝室である塗籠 (ぬりごめ) には帳が置かれ、浜床(はまゆか)と呼ばれる台が付けられていたことがこの名の由来です。 -
表書院 上段之間 東面
開き戸の向こう側にある「納戸之間」には藩主に万一のことが無いよう帯刀した護衛兵が控えていたそうで、いわゆる武者隠しの役目を兼ねたものです。 -
表書院 上段之間 東面
帳台構には、早春の景色となる紅梅とベニジュケイを描いた『梅禽鳥図』を配しています。表書院の上段之間を担当した狩野貞信の筆になります。
また、総の先端には総角(あげまき)結びが見られます。これは、古代男子の髪型である角髪(みずら)を真似て考案された結び方です。平安時代の冠飾りにも総角結びが見られ、神祭の清浄を表すとされます。昔の人は自然を象って紐を結び、その強い生命力を封じ込めて身に付けることで生命の衰えを防ぎ、再生を願ったといいます。特に花形の文様は生命の象徴として好まれ、護符や魔除けとして衣服や調度に好んで付けられました。 -
表書院 上段之間 東面
錺(かざり)金具は、牡丹のような花をあしらっています。 -
表書院 上段之間
拘りは足元の板入れ畳の縁にも見られます。本式紋合わせ高麗二方縁ですが、オリジナルが京都御所や二条城の慣例に倣って小紋としたのかどうかは不詳です。
白と黒の織物の高麗縁(こうらいべり)は、城や社寺など格式の高い場所で用いられる生地です。大紋は親王や摂政、大臣が、小紋は公卿が用いました。現在では神社仏閣の座敷や茶室の床の間などで大紋高麗縁が見られます。小紋(九条紋)高麗縁は逆に珍しくなり、京都御所や二条城などの限られた場所でしか見かけません。実際には直線ラインで構成された小紋の方が制作が難しいそうです。ここでは、畳の縁にある小紋の模様が隣の畳模様に端整に合わせてあります。まさに職人技です。
因みに、畳は192cmX96cmの京間サイズです。
『枕草子』には、「美しい高麗縁で縁取られた畳を見ると、この世の憂さを忘れるようだ」と綴られています。
この続きは、桐葉知秋 尾張逍遥②名古屋城本丸御殿(対面所・上洛殿)でお届けいたします。
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