2018/10/17 - 2018/10/17
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montsaintmichelさん
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前報①では玄関~表書院の様子を紹介いたしました。今回は、更に奥まった所にある、対面所と本丸御殿のハイライトとも言える上洛殿をレポいたします。
対面所は、藩主と身内や家臣とのプライベートな対面や宴席に用いられた豪奢な殿舎です。今までの金襴豪華な佇まいとは雰囲気が一変し、障壁画の画趣や錺(かざり)金具の装飾性なども格が上がり、落ち着いた上品な佇まいです。
上洛殿は、1634(寛永11)年に3代将軍 家光の京都上洛時の宿舎として増築され、往時は「御成御殿」と称された超VIPルームです。江戸時代には「御書院」や「御白書院」とも呼ばれ、本丸御殿で最も格式の高い建物であり、障壁画は勿論、天井や長押、欄間などあらゆる場所に贅を尽くした絢爛豪華な装飾が施されています。特徴的なのは部屋の境や廊下に極彩色豊かな彫刻欄間を嵌め込んでいることです。
尾張徳川家の威信にかけて、幕府のご禁制を破ってまで豪華さで幕府直轄の二条城を凌駕する御殿を造ろうとしたお殿様の気概が随所に窺えます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
-
名古屋城本丸御殿 見取図
全体像を把握すると判り易いため、見取図を参照しながらバーチャル・ツアーに参加していただくことをお勧めします。
この見取図は次のサイトから借用させていただきました。
(1部、加筆しております。)
http://www.tobunken.go.jp/image-gallery/nagoya/map.html -
対面所
藩主と身内や家臣とのプライベートな対面や宴席に用いられた豪奢な殿舎です。上段之間(18畳)、次之間(18畳)、納戸上之間(24畳)、納戸次之間(24畳)の4部屋で構成されています。
次之間や上段之間には、御殿としては珍しい『風俗図(1615年)』が金泥淡彩の手法で描かれ、徳川家に所縁のある京都や浅野家所縁の和歌山の名所が、大勢の人物と共に所狭しと描かれています。画筆者は、表書院二之間と同じく狩野甚之丞とされ、大和絵風の穏やかな雰囲気に満ちています。
見取図は、次のサイトから借用いたしました。
(1部、追記しています。)
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/index.html -
対面所 納戸次之間
対面所の見学は納戸次之間がスタート地点になります。
手前が納戸次之間、その奥が納戸上之間です。「納戸」と呼びますが、現在のような物置ではなく、立派な「控室」です。
「納戸次之間」は身内や親しい家臣が控える待合の部屋、「納戸上之間」は藩主が身支度を整える部屋です。
玄関や表書院のように障壁画に金箔は貼られていませんが、絵の具に金粉が混ぜられており、上品さが醸されています。金碧障壁画よりもこちらの方が高貴な絵になるそうです。
天井はシンプルな竿縁天井です。
左隣が次之間と上段之間になりますが、襖を開けてショートカットで出入りする構造にはなっておらず、壁で仕切られています。
この部屋は立入ができ、納戸上之間を覗けるようになっています。 -
対面所 納戸上之間
藩主の支度部屋ですので床脇の清楼棚(違棚)や付書院はありませんが、部屋全体の障壁画は『山水花鳥図』で上品に彩られています。
床の間の貼付絵には威風堂々とした『老松図』、周囲には桜や松、水鳥の遊ぶ風景、紅葉など、春~秋の描写を凝らしています。
また、床の間が畳敷きになっているのも特徴です。
ところで、何となく違和感を覚えませんか?
天井の竿縁を床の間に向けています。これは「床刺し」と呼ばれ、通常は縁起が悪いとか床の間を否定する貼り方として禁忌されます。
実は、かつて武家屋敷には必ずこうした「床刺しの間」が設けられており、そこは「切腹の間」だったそうです。あるいは切腹から転化し、「この部屋で約束をしたら必ず守ります」と言う誓いの部屋ともされます。切腹は下級武士には許されず上級武士にしか許されないため、別の意味合いで格式のある部屋と言えます。 -
対面所 納戸次之間
襖の錺(かざり)金具は、黒漆塗りを施したシックなデザインで統一しています。
牡丹をあしらった意匠です。 -
対面所 次之間
納戸の2間を見学した後、Uターンするように入側を次之間へ進みます。
入側の天井は、何時の間にか格式の高い「格天井」に代わっています。
舞良戸(まいらど)にも黒漆を塗り、高貴さを顕にしています。 -
対面所 次之間
黒漆塗りのボーダー柄の舞良戸が並ぶ姿は、圧巻です。
本丸御殿の復元には、全て創建時と同じ木曽檜が使われています。江戸時代に尾張藩が保全した森林が今なお豊富に残されているため、こうした贅沢な復元を可能にしたそうです。
木曽地域は樹木の南限でもあり北限でもあるため、木曽檜はどの地方で用いても狂いが少なく、厳しい気象条件から年輪が密で腐り難く、古来神社仏閣の建造物に使用されてきました。しかし幕府から良材の宝庫と目された裏木曽や木曽谷から江戸や駿府、名古屋城およびその城下町の建設のために膨大な用材が伐り出され、一時は森林資源の枯渇に陥りました。そこで木曽谷を所管していた尾張藩は、江戸時代初期から木曽檜などの伐木を制限しました。この制限は江戸時代中期には木曽谷の全域に波及し、「木一本首一つ 枝一本腕一つ」と言われた檜など、木曽五木を伐れば死罪という徹底した森林保護政策でした。 -
対面所 次之間
徳川家の裏紋「六葉葵(唐花葵)」をあしらった舞良戸の錺引手隠しも煌びやかです。
御殿内にある約3000点の錺金具は、ひとつ一つ職人による手作業で装飾が施されています。ノミで文様を彫り込んだ後、魚の卵のような細かい円模様の魚々子(ななこ)蒔きによって牡丹や唐草の紋様を浮かび上がらせた後、金鍍金を施して御殿の装飾に相応しく仕上げるなど、根気と時間を要する工程を経てつくられています。 -
対面所 次之間
天井は「黒漆折上小組格天井」として格を上げ、宴席や婚儀の場としても使われたそうです。
大和絵風の障壁画のモチーフは、紀三井寺や玉津島神社、和歌浦天満宮といった名所に加え、公家の一行や塩田、狂言、弓引神事などに勤しむ庶民など、和歌山の素朴な風景が読み取れます。子どもたちが綱引きをしたり、曲芸師など、ほのぼのとした正月を祝う様子が描かれています。 -
対面所 次之間
正面の障壁画は、『風俗図(製塩、片男波、和歌浦八幡宮)』です。
「和歌の浦」は、山部赤人の名歌「若の浦に潮満ち来れば潟を無み 葦辺をさして鶴鳴き渡る」によって貴族憧れの地となりました。現在、鶴が渡来するのは北海道東部や山口県熊毛町、鹿児島県出水地方などに限られますが、この時代には和歌山にも飛来してきていたようです。
豊臣秀吉は、和歌の聖地 和歌の浦を訪れて和歌を詠むことで自己の偉大さを公家たちに知らしめたそうです。和歌の神を祀る玉津島神社を参詣して詠んだ歌が、「打出て 玉津島より なかむれは みとり立そふ 布引の松」です。
時代が下って1585年に秀吉の命を受けた羽柴秀長が築城を行い、秀吉が和歌の浦に因んで「和歌山城」と名付けたと伝えられます。これが、「和歌山」の地名の由来とされます。 -
対面所 次之間
東面の襖絵は、和歌山城下の賑わいを描いています。
初代尾張藩主 徳川義直の正室 春姫(紀州藩主浅野幸長の娘)の故郷「和歌山」の景色との説があり、婚儀がここで行われたと推測されています。輿入れした春姫の心を癒す目的もあったのか、プライベート色が濃い部屋と言えます。家康は義直の婚礼のために名古屋城に赴いた後、その足で新婚かつ初陣の義直を伴って大坂冬の陣に出陣しています。
因みに、春姫お輿入れの際の行列は、熱田湊から名古屋城まで延々7km続いたと伝わり、調度品の長持ちだけで300棹あったそうです。これが名古屋名物「ド派手婚」のルーツとされます。
障壁画などの微細さと美しさだけでなく、こうした正室への隠れた気遣いを知ればこそ感慨もより深まります。 -
対面所 次之間
目に付く釘隠しには上洛殿以外は裏紋「六葉葵」をあしらっていますが、こうした小物類には潤沢に表門「三葉葵」を散らしています。
引手金具は、慶長期の対面所廻りものと寛永期の上洛殿のものの2種類が見られます。前者は、縁座の花蕾紋や手掛りの七宝繋紋や唐花菱紋がノミの勢いに任せて自由奔放に描かれています。それに対し、後者は、精緻で華やかな意匠というだけでなく、縁座の地模様である細密な七宝繋紋にも乱れがありません。
こうした作風の変化は、狩野派一門の手になる障壁画の画風の変化とも共通しており、その時代の嗜好によるものと解釈されています。 -
対面所 次之間
こちらが、打掛金具を留めるためのフックです。こんな誰も見ない奥まった所にも「裏紋」や細かい魚々子蒔きを配する徹底ぶりには吃驚です。
打掛金具は襖や障子に鍵を掛けるための金具ですが、格が上位の部屋からしか掛けられません。しかし鍵とは名ばかりで華奢なつくりですので、力任せに戸を開ければ壊れてしまいそうです。恐らく、装飾性を重視した気休め程度のものだったと思われます。 -
対面所 次之間
西面の襖絵は、『風俗図(勅使参詣・船下ろし)』です。
奥から玉津島神社に参詣する朝廷に仕える人たち、鹽竈神社、進水式 をする船大工、三重塔のある紀三井寺などが描かれ、往時の人々の姿が生き生きと描かれています。 -
対面所 上之間
書院造は、足利義政が造営した慈照寺(銀閣寺)の書斎「同仁斎」に起源を持つとされます。当初は「付書院と違棚」の2点セットでしたが、その後、徐々に格式を重んじるようになり、「付書院と清楼棚(違棚)、床、帳台構」の4点セットとなりました。 -
対面所 上之間
身内や家臣しか立ち入れない部屋であり、天井は凝った造りです。
升目を作る部材「格縁」が黒漆塗され、その中に細かい格子を組み入れた「小組格天井」、鏡板には金箔を押し、折上げ天井の中央部分を更に支輪に亀の尾を設けて一段折上げた「黒漆二重折上小組格天井」という絢爛豪華な天井です。
因みに、亀の尾は、湾曲した形が亀の尾っぽに似ていることから名付けられています。
清楼棚の天袋貼付絵は、『淡彩蘆雁図』です。 -
対面所 上之間
床の間の貼付絵は、堂々とした愛宕山とその山麓です。
愛宕山は、明智光秀が本能寺の変の決意を詠んだとされる『愛宕百韻』なる連歌会が開かれた因縁の場所でもあります。その発句が、「時は今 あめが下知る 五月かな」です。この句を本能寺の変と絡めて解釈すると「土岐氏が今、天下を支配する。そんな五月になる」とも読めます。明智氏は南北朝時代の美濃国の守護だった土岐頼貞の9男、土岐頼基の後裔でした。時と土岐をかけ、光秀が天下を狙っていることを暗に歌に秘めたとの説もあります。
では何故、上段之間の顔となる床の間に「愛宕山」を描かせたのでしょうか?実は、本能寺の変の黒幕は徳川家康だったとの説もあります。そうした思考回路を巡らせながらこの絵を見直してみると、また違った表情が見えてきます。 -
対面所 上之間
表書院の上段之間と同様に帳台構を設えています。
帳台構の貼付絵には、葵祭の道中の無事を祈る祭儀として5月5日に行なわれる天下泰平と五穀豊穣を祈願する神事「加茂競馬(くらべうま)」が描かれています。
艶やかな伝統衣装に身を包んだ「乗尻」と呼ばれる騎手が2頭で速さを競います。しかし、最初は1頭だけで走ります。これは競馬の始まりを告げる儀式になり、神様を乗せて走るため勝ち負けはありません。
因みに、平安時代(1093年)に堀河天皇の時代に宮中式徳殿の競馬会式が加茂社に移され、天下泰平と五穀豊穣を祈願して始まった神事です。 -
対面所 上之間
細やかに仕上げられた、錺金具が華やかな彩りを添えています。
よく観ると、大型の八双金具には「三葉葵」紋が散らされています。 -
対面所 上之間
花弁や葉をあしらったデザインのようですが、兎に角、手の込んだ細工であることは疑う余地無しです。
壁に配された滲むような雲形の金粉も雅趣あるものです。 -
対面所 上之間
先ほど納戸上之間で見たように、帳台構の裏側は壁になっており、この帳台構がフェイクであることが判ります。
これは、対面所は親族などとの対面の場のため、武者隠しの仕組みが不要だったため、表書院などとのデザインの調和や装飾性を重んじた結果と思われます。 -
対面所 上之間
次之間との境の襖絵は、『風俗図(吉田神社・田植・上賀茂神社)』です。吉田神社の「湯立神事」の様子や田植風景、印地打ちが描かれています。
「印地打ち」は、この襖絵のように中世では大人が川の両岸から石を投げ合って勝負を競ったものでしたが、近世以降は子供の遊びとなりました。5月5日に大勢の子どもが集まり、2手に分かれて石を投げ合い、合戦の真似をした遊びとされます。
京都をモチーフにした障壁画があるのは、上洛する京都を偲ぶよすがでしょうか? -
対面所 上之間
黒漆塗折上小組格天井は、黒漆塗に金箔を貼った豪華なものです。
手の込んだ天井ながら、シンプルな黒漆塗りにしている点が武家風書院造の真骨頂と言えます。 -
対面所 上之間
付書院にある花狭間欄間です。
表書院にあったものとは透かしの意匠を違えています。 -
鷺之廊下
鷺の廊下に足を踏み入れると、寛永期の建築様式の特徴が、目だけでなく、その空気感からも伝わります。一面金箔の壁には、シロサギが飛び交っています。障壁画を間近に見られる場所でもあり、長押の上まで障壁画が描かれているのが寛永期の最大の特徴です。
対面所と上洛殿を結ぶプロローグとして上洛殿と共に増築され、将軍や藩主しか通ることのできなかった廊下です。シロサギの群れが上洛殿へ向かう際のテンションを上げてくれます。 -
鷺之廊下
地の金箔には縞模様が見られますが、これは原本となる障壁画を忠実に復元模写しているからです。現在の技術であれば金箔を皺なく綺麗に貼ることができるそうですが、 往時の技術では金箔が破れるなどでこうした縞模様が意図せずできたそうです。
忠実に 復元模写をされた技術者の技量に脱帽です。 -
鷺之廊下
釘隠しも金ピカです。 -
鷺之廊下
廊下の端から振り返った様子です。
天井は、辻金具を施した「黒漆塗金具付格天井」です。 -
上洛殿見取図
朱書きの【上洛殿】の文字の右側が鷺之廊下です。
鷺之廊下を左折し、上洛殿の入側の外周を先に回り、行き止まりからUターンして内周に入ります。
上洛殿の贅を尽くした天井や障壁画、錺金具、欄間などは一見の価値があります!
この見取図は、次ぎのサイトから借用いたしました。
(1部、追記しています。)
http://artscape.jp/study/art-achive/10130046_1982.html -
上洛殿 入側
鷺之廊下を左折すると、いよいよ上洛殿へのプロムナードへと足を踏み入れます。
松雉流水図』が描かれた「松之間」は舞良戸が締切られていますが、その間の前の入側を南進します。舞良戸も金と黒漆のボーダーです。阪神タイガースのファンなら感激ものです!
入側の外周に回らされた雅趣ある透かし欄間は、柔らかな外光を取り入れる「花狭間格子欄間」です。透かし彫りの花模様を付けた板で作られ、部屋の連続性を視覚的に表現しています。 -
上洛殿 入側
鷺之廊下から連続して入側の天井まで黒漆塗辻金具をあしらった「黒漆塗金具付格天井」とし、金具のひとつ一つに三葉葵紋を施しています。漸く、三葉葵の全面解禁です。
鏡板は空白ですが、今後、蒔絵が入れられるそうです。この状態でも完全再現には至っていないようです。 -
上洛殿 入側
シンプルな透かし模様が美しい「花狭間格子欄間」のズームアップです。
上洛殿は、1634(寛永11)年に3代将軍 家光の京都上洛時の宿泊場所として増築され、往時は「御成御殿」と称された超VIPルームです。尾張徳川家の威信にかけて、幕府のご禁制を破ってまで豪華さで幕府直轄の二条城を凌駕する御殿を造ろうとした気概が随所に窺えます。 -
上洛殿 入側
上洛殿の錺金具は高級ブランド品を彷彿とさせる瀟洒なものです。これは、釘隠しと言うよりも八双金具に近く、工芸作品の域に達しています。更に、将軍の宿舎となる上洛殿ゆえ、三葉葵紋は欠かせません。
長押に配されたこの釘隠しは、「花熨斗(のし)金具」と呼ばれ、横60cm X 縦18cmほどのサイズです。透し彫りの菊や桔梗の花を熨斗紙で括り、その中に「葡萄に栗鼠」や紗綾形、七宝繋文を配しています。金銀製の彫金の技の共演が惜しげもなく施され、黒い部分は黒漆塗り仕上げです。
よく観察すると、「唐獅子に牡丹」や「桐に鳳凰」などのバリエーションもあります。また、動物たちのポーズなどが違えられ、ひとつとして同じ意匠のものがないから吃驚ポンです!
錺金具ひとつからも、復元を手掛けられた職人さんの情熱がひしひしと伝わってきます。因みに、こうした大型錺金具の復元には、1個100万円程の費用がかかったそうです。係員は盗難防止のために配置されているのではないかと疑いたくなるほどです。 -
上洛殿 入側
寛永期の華麗かつ極めて精緻で技巧的な錺金具です。上洛殿の長押や帳台構の大型錺金具はその最高峰と称されています。
長押の錺金具は、熨斗紙の中に「葡萄に栗鼠」などの絵柄を部屋の格に応じて配しています。往時、「葡萄」や「栗鼠」は、共に子宝や縁起物として彫刻や絵画に描かれていたそうです。
栗鼠の毛並みの流れるような毛彫り線には、細部に亘る拘りの極致が窺えます。 -
上洛殿 松之間
舞良戸の錺引手隠しも一段と煌びやかさを増し、ここにも三葉葵紋が輝きます。 -
上洛殿 入側
南東のコーナーにある長押に配された釘隠しです。
これらの錺金具には、一般的な「毛彫り」や「蹴り彫り」の線刻、「 魚々子(ななこ)蒔」に加え、縁取り部の唐草に「点線彫り」、模様の背景を一段低くした「鋤彫り」、菊や桔梗、唐獅子、栗鼠、鳳凰を裏側から打ち出した「肉彫り」、「七宝」など、ありとあらゆる彫金技法を愛でることができます。 -
上洛殿 入側
突き当たりを右へ折れると、入側の上段之間と一之間の境に極彩色の欄間彫刻が見えてきます。
これが上洛殿の見所のひとつです。 -
上洛殿 入側
本丸御殿の全面公開のハイライトのひとつが、この彫刻欄間「笹と椿に山鵲(さんじゃく)」です。青色の長い尾が印象的な山鵲の姿は両面に配されており、どちら側から見ても表となるように彫られていますが、鳥の数を違えています。
因みに、山鵲は中国などに実在する鳥で、一般的には「尾長鳥」と表記されます。 -
上洛殿 入側
このように下から見上げた時に最も美しく愛でられるように彫り方を工夫しているそうです。少しは立体感が伝わるでしょうか?
オリジナルの彫刻欄間の下絵は日光東照宮の透かし彫りの下絵を担当した狩野探幽、彫刻担当は尾張藩御大工頭 澤田庄左衛門と幕府作事方大棟梁 平内正信のコンビです。
澤田庄左衛門は、名古屋城西北隅櫓(清洲櫓)や高原院霊廟(現 名古屋東照宮本殿)の造営などにも係わりました。平内正信は初代平内家を名乗り、和歌浦天満神社本殿や日光輪王寺常行堂などを造営しました。平内家は和様を得意として「四天王寺流」を称え、江戸時代を通じて正統的幕府官匠として君臨しました。 -
上洛殿 入側
上段之間と一之間の境にある杉戸の鴨居です。この上に彫刻欄間が載せられています。
現在は取り外されていますが、本来この欄間の下には杉戸があり、金箔をふんだんに使った『花桶図』と『花車図』が両面に描かれていたそうです。 -
上洛殿 入側
杉戸に描かれている『花桶図』です。
この画像は次のサイトから借用させていただきました。
https://dot.asahi.com/aera/2018061900047.html?page=1 -
上洛殿 入側
極彩色の彫刻欄間は、花鳥風月をあしらった上洛殿に相応しい作品です。その立体感と極彩色の鮮やかさに圧倒されます。
復元された7枚の透かし彫りは、小さな物でも横2.8m X 縦1.2mあり、富山県南砺市井波地域の職人10人が200種類以上のノミを駆使し、半年以上かけて彫り上げた作品群です。また、色付けは、京都の職人の手で金や極彩色で着彩されたそうです。 -
上洛殿 入側
彫刻欄間の復元には、「安藤ハザマ」と「アールテック」がコラボした3Dデジタル技術が駆使されています。表裏2枚の古写真に加えて彫刻職人の意見を取り入れ、3Dプリンタで3Dモデルを制作することで、より精密な復元を可能にしました。
余談ですが、3Dプリンターで作れる「3D銃」の製造データが漏れたことが話題になりました。非営利団体「ディフェンス・ディストリビューテッド(DD)」のWEBサイトから銃乱射事件でよく使われる「AKー15」の設計図が1000回以上ダウンロードされました。3D銃には製造番号がなく追跡できないことから、「ゴースト・ガン」と呼ばれ社会問題化しています。また、プラスチック製のため金属探知機で発見できないのも恐怖です。DDの弁護士は「これは銃の問題ではなく、言論の自由の問題だ」と問題を差換えてしまっていますが、何故こんなことになってしまったのでしょうか?
技術者倫理として、文明の利器は何時の時代にも使い手により「善にも悪にも化ける」ことを肝に銘じなくてはなりません。 -
上洛殿 入側
南西コーナーの長押の上に描かれた『燕図』には、燕がのびやかに飛翔する姿を独特の形態で表現しています。 -
上洛殿 入側 墨画『猿猴捕月図(えんこうほげつず)』
西側にある入側の北面突き当たり左手にあるのが厠です。その杉戸に描かれた墨画です。生憎、立入禁止になっており、傍に寄れないのが残念です。
川面に映る月影に手を伸ばす子猿の図です。猿が川面に映った月影を捕えようとして溺死したとの故事から、「身のほどをわきまえず、能力以上の事を試みて失敗すること」の喩えに使われます。
元々は仏典に記された説話で、500匹の猿が手と尾をつないで月影を捕ろうとしますが、枝が折れて全て溺れてしまうという悲話です。 -
上洛殿 入側 墨画『猿猴捕月図』
上段之間からは見られないものの、厠に立つ将軍への宛て付けのような意味深な図です。これでは、出るものも出なくなってしまうのでは!?
しかしそれ以上に、枝にぶら下がり、歯を食いしばった親猿の表情がキュートでたまりません。筆をチョコんチョコんと下ろしただけの猿の小さな目、鼻、口がこの作品のチャームポイントです。なんと、顔にも余白の美があったとは…。
世が世なら、「ゆるキャラ」として超売れっ子になっていたかも!? -
墨画『猿猴捕月図』
1770年に伊藤若冲が描いた同名の作品のズームアップです。
顔の余白と言う観点では、こちらに軍配が挙がります。しかし、親猿の必至さはこの絵からは伝わってきません。
この画像は次のサイトから借用いたしました。
https://sumally.com/p/1809677 -
上洛殿 入側
上洛殿や上御膳所東廊下境の杉戸など寛永期の錺引手金具には、青と緑色の七宝が施されています。従来の金銅に黒漆を差した金と黒のツートンカラーの世界から、七宝技法を加えることで色彩豊かで華麗な世界へと進化を遂げています。
濃淡を付けた青・緑系の七宝を施した部材は小刻座(こきざみざ)と呼ばれ、金具を彩る要素として取り込まれ、装飾性が飛躍的に向上しているのが窺えます。 -
上洛殿 入側
長押の段差に設けられた釘隠しの端面にも三葉葵紋を配する徹底ぶりです。
長押の段差は、ここが聖域「上段之間」であることを示します。
入側の端からUターンし、各部屋を間近に見られる内周を進みます。 -
上洛殿 上段之間
本丸御殿内で最も格式の高い部屋です。息を呑むほど絢爛豪華です。
間口2間ある大床の間や清楼棚、帳台構を建て込んだ武家風書院造ですが、付書院は設けていません。この部屋が上洛時に家光が泊まった部屋とされますが、これほど煌びやかな部屋で熟睡できたのか疑問が残るのは当方だけではないように思います。
上洛殿は家光上洛の際の宿舎として増築された殿舎ですが、あまりにも豪華だったため、家光が嫉妬して不機嫌になったとの逸話が語り継がれています。その証拠に、家光は往路はここに宿泊したものの、復路は素通りしたそうです。個人的には、それ以外にも理由があったと睨んでいます。それについては、追々紹介していきます。
因みに、江戸時代を通じて上洛殿に宿泊したのは、3代将軍 家光と14代 家茂がいずれも上洛の際に各1度だけだそうです。案内係の方の説明では、家光は2泊3日だったそうです。家茂以後、幕末までは「開かずの御殿」だったようです。 -
上洛殿 上段之間
上洛殿の障壁画は「余白の価値」を発見した天才絵師 狩野探幽の筆になります。探幽は、「余白の多い減筆体で描かれた瀟洒淡麗な画風」を確立しました。彼が33歳の時に上洛殿に描いた中国の皇帝の故事を描いた『帝鑑図』や『雪中梅竹鳥図』は、狩野派障壁画の白眉と称されるほどです。 -
上洛殿 上段之間
一之間から上段之間にある床の間と清楼棚をズームアップした画像です。
『帝鑑図』は、東面「不用利口」、西面「高士渡橋」、南面「露台惜費」、北面床貼付「遣倖謝相」の4図からなり、水墨画の技法のひとつとされる水墨と金泥引きで将軍の間に相応しい障壁画に仕上げています。
江戸時代初期の狩野派障壁画のモチーフには格付けがあり、玄関のインパクトある豹虎の「走獣」は最も格が低く、表書院の「花鳥」、その奥の対面所の「人物」、上洛殿の「山水」の順に格が上がります。また、色彩についても「濃彩」、「淡彩」、「墨画」の順で格が上がるのが法則です。これら2つの評価軸の組み合わせで、部屋の格を細分化しています。
また、上洛殿の「山水」は、更に格上げするため「墨画」を基調としながらも部分的に着彩しています。一方、上洛殿内での格付けを意図したのか、三之間~上段之間までのモチーフを「花鳥」~「人物」としているのも興味深いところです。 -
上洛殿 上段之間
彫刻欄間は、上段之間と一之間境の2間を「大和松と薔薇と笹に鶴と亀」とし、縁起を担いだ動植物を組み合わせています。しかし、何処を探しても「鶴と亀」の姿はありません。実は、上段之間側が彫刻欄間の裏面になっているからです。
その理由は、お隣の一之間の所で解説いたします。 -
上洛殿 上段之間
『帝鑑図』とは、中国 明代に編述された中国皇帝の政治を解説した『帝鑑図説』を参考に訓戒画にした書物であり、江戸幕府の将軍や大名の行動規範にもなりました。神宗万暦帝の教育のために家臣 張居正が編纂し、中国歴代帝王の善行81や悪行36の逸話を収録しています。日本では、舶載された明版を基に1606(慶長11)年に復刻されました。この復刻本は、豊臣秀頼の命令に拠ったことから「秀頼版」と称されたそうです。
帳台構の襖絵には「不用利口」が描かれています。
これは漢の文帝にまつわる説話です。文帝が上林苑に行った際、帝が役人に質問したところ、役人は直ぐに答えられませんでした。そこで文帝は、饒舌に質問に答えた傍の農夫を重用しようとしました。すると張釈之が、「徳のある者は、みだりに饒舌を用いない。この農夫に官位を与えれば、皆が饒舌を用いてばかりで真実を語らなくなる」と帝を諌めたという話です。 -
上洛殿 上段之間
「不用利口」の説話を寛永期の政治背景に結び付けて論じる専門家もいます。
2代 秀忠と3代 家光の代替わりは、関ヶ原の合戦などで手柄を立てた旧グループと江戸時代生まれの官僚グループの代替わりを意味するとの興味深い説です。旧グループに属する初代 尾張徳川家藩主 義直と将軍 家光の対立の構図は、家光を取り巻く官僚V.S.旧勢力の対立とも言え、家光が進める新しい官僚政権に対して旧勢力の義直が放った反発のメッセージとの解釈です。
さもありなんの説です。家光がその意図を理解していたならば、この部屋は「針のむしろ」そのものですから…。 -
上洛殿 上段之間
「唐獅子に牡丹」の意匠をあしらった釘隠しです。上洛殿の室内は格に応じて「唐獅子に牡丹」と「栗鼠に葡萄」を使い分け、入側は「栗鼠に葡萄」で統一しています。
ここで初代尾張藩主 徳川義直(家康の9男)について紹介しておきます。
義直は、1600(慶長5)年に大坂城西之丸もしくは伏見城で生まれたとされ、母親は側室 お亀の方(相応院)です。
7歳で早逝した家康の4男 松平忠吉の領地 清洲を継ぎ、低湿地で水攻めを受ける恐れがある清洲城から名古屋城へ移って尾張藩主となりました。とは言え、幼少ゆえ、実際に尾張へ入ったのは大坂冬の陣の初陣後でした。大坂夏の陣では後詰として活躍しましたが、その後戦国時代は終焉し、義直は内政に力を入れました。自ら藩政を行ない、また儒教に造詣が深く、学問を奨励して尾張徳川家の礎を築きました。
しかし、将軍家とは度々火花を散らしました。何故ならば、「権現様の息子で60万石の大名」との自尊心が強く、特に3代将軍 家光とは度々衝突しました。歳が4つしか違わないため互いにライバル心があったのでしょうが、家光にすれば叔父ですから、長幼の順を重んじる儒学の教えでは義直は目上のはずです。また、家光の息子 家綱が山王社にて初詣する際、幕閣より随行の通達があったにも拘らず、「無位無官の者に官位ある者が礼をすることは典礼に反する」と断ったそうです。 -
上洛殿 上段之間
帳台構の大型錺金具には、「桐に鳳凰 」の中に三葉葵紋を散らしています。鳳凰の羽の流れるような毛彫り線の巧みさには、うっとりさせられます。
義直は身持ちが固く正室 春姫との仲は良好でしたが、子供ができず、やむなく側室 お上の方を娶りました。因みに、家臣が側室を娶るよう懇願しても嫌がり、老中 土井利勝が幕命として説得したそうですから相当なものです。跡を継いだのは側室が生んだ光友でしたので、結果オーライでしたが…。
その光友に将軍家から嫁いだのが、家光の長女 千代姫です。若い頃の家光が男色だったのは有名ですが、30歳過ぎても世継ぎがないのを心配した乳母 春日局が業を煮やして側室を送り込みました。春日局は千代姫の母 お振の方を男装させて近づけたそうです。
1639(寛永16)年秋、千代姫は3歳で尾張藩に嫁ぎました。流石に婚儀の何たるかも判らない年端ゆえ、祝言は輿入れから8年後でした。慣例では将軍家の姫が嫁いだ場合、その姫は将軍家の人として扱われました。ですから「千代姫様」と呼ばれ、時代劇でイメージする「お姫様」像に最も近い一生を送った女性とされます。
嫡男 綱誠の出産を皮切りに、早逝も含めて2男2女に恵まれ、綱誠は3代尾張藩主に就きました。生涯、将軍家の姫として生きた千代姫は、62歳で生涯を閉じました。しかし、通常は将軍家の姫でも婚家の菩提寺に葬られるのですが、千代姫は将軍家の菩提寺である増上寺に葬られました。亡くなった後も、将軍家の「お姫様」だったようです。これも家光と義直の因縁のなせる業でしょうか? -
上洛殿 上段之間
金ピカの大型錺金具が、何とも言えない荘厳な雰囲気を醸しています。
狩野探幽は、桃山時代の匠 狩野永徳を祖父に持ち、幼名は釆女(うねめ)と言いました。早熟の画家であり、11歳で徳川家康に謁見し、16歳で幕府の御用絵師となり、その後、江戸城や二条城、名古屋城の障壁画や東照宮縁起絵巻の制作などを手掛けています。晩年に自身の代名詞として捉えていたのが、南画家たちの共感を呼んだ『富士山図』です。 -
上洛殿 上段之間
小物にも注目です。
表門「三葉葵」と裏紋「六葉葵」を折衷させたようなユニークなデザインです。
狩野釆女が33歳の時、京都 大徳寺の僧 江月宗玩(こうげつそうがん)から「幽微を探らざれば、その奥に入り難し」として探幽斎の斎号を授かりました。落款にこの斎号を入れていることから、1635~60年までを斎書(さいがき)時代と呼んでいます。因みに、「幽微」とは、「神秘的で知り難いこと」を言います。
宗玩は、織田信長や豊臣秀吉に茶頭として仕えた津田宗及の子です。寺院の自治権剥奪という理不尽な幕命に反抗した「紫衣事件」では沢庵や玉室宗珀と共に詰問を受けましたが、他が流刑される中、唯一許されています。
こうした反幕思想の僧から斎号を授かった探幽を敢えて将軍が宿泊する上段之間の障壁画の画筆者に抜擢したのは、何か意図があったと読むのは早計でしょうか?
この上洛殿には、隠れた「義直コード」が散り嵌められているように思えてなりません。 -
上洛殿 上段之間
シンプルながら、七宝を散らした品格の漂う錺金具です。
400年の歴史を持つ狩野派は、室町幕府や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら複数の権力者と友好関係を築き、庇護を受けて栄えました。そして戦国時代末期には強かにも生き残りをかけ一門を豊臣家、徳川家、朝廷の3グループに分割し、豊臣家、徳川家のどちらが天下を取っても生き残れる体制で臨みました。
関ヶ原の合戦においては武家の間でも用いられた手段ですが、血筋を守るには不可欠なものでした。 -
上洛殿 上段之間
最上格となる「黒漆二重折上蒔絵付格天井」に配された鏡板には、水墨で山水を描いた『楼閣山水図』や墨の輪郭線に淡彩を加えた花鳥図の余白に細かい金箔を散らした絵図も見られます。これらの天井画の画筆者は、狩野探幽一門の門弟たちと推定されています。
因みに、天井の白い箇所には、今後蒔絵が嵌められる予定です。まだ100%復元されていないようです。 -
上洛殿 上段之間
南面の襖絵が「露台惜費」です。露台(展望台)を造る費用が嵩むため建設を中止したという故事に倣い、浪費を戒め、倹約の大切さを説く図です。探幽は露台を柵として描いており、『帝鑑図』の「秀頼版」を基に描いたとされています。
本丸御殿にあった障壁画1049面(重文)が焼失しなかったのは、偶然の産物でした。戦時中、障壁画は名古屋市職員の機転により、城内の旧陸軍弾薬庫「乃木倉庫」や豊田市越戸町の灰寶神社へ一時疎開しており、戦禍による焼失を免れました。
復元に当たっては、それらの原本と約700枚の写真を基にミクロン単位の分析を行ない、絵師たちの筆致や技法を忠実に模写し、往時の豪華絢爛な色彩と共にダイナミックに甦らせています。 -
上洛殿 一之間
一之間から左奥にある上段之間を見ると、一段高くなっており、ここより格式が高いことが判ります。部屋の境には極彩色の彫刻欄間が嵌め込まれ、「聖と俗」の結界としています。 -
上洛殿 一之間
この部屋にある『帝鑑図』は、東面「褒奨守令」、西面「蒲輪徴賢」、南面「高士」、北面「明弁詐書」の4図からなります。
探幽が描いた初期の作品は「余白の美」と称されますが、それに加えて襖絵特有の「隠現効果」なる仕掛けも見所です。襖4枚は引き戸のため、襖を開けた際には2枚分の面が隠れます。ですから、主要モチーフが常に前面にくるように場所を選んで描いています。
例えば、上段之間の南面には「露台惜費」を、一之間の北面には「明弁詐書」を描いていますが、これらの絵は同じ襖の表裏です。襖を開けた際、「露台惜費」が描かれた上段之間では中心の2枚が表面になるのに対し、「明弁詐書」が描かれた一之間では左右の2枚が表面になります。探幽はこの効果を狙って主題を描写しています。
因みに、「明弁詐書」は、忠臣をおとしめる策謀を見抜く話です。 -
上洛殿 一之間
探幽筆『帝鑑図』は、『帝鑑図説』の挿絵から主要なモチーフを抜き出し、一画面に一画題を描いています。これは、訓戒の意味を正確に伝えるために採った手段とされます。また、水墨の輪郭に緑青や群青、胡粉などで品よく鮮やかに彩色しています。
尚、一之間と二之間境の2間の彫刻欄間は「竹と梅に鶏」です。欄間の表は格の高い一之間側に向けられています。
天井は「黒漆塗金具付折上格天井」です。 -
上洛殿 一之間
鶏は太鼓に乗り、「諫鼓(かんこ)苔生す」を表わしています。
中国古代の神話的な王「堯(ぎょう)」が、民衆に自らの政治に誤りがあればそれを知らせるようにと城門の前に太鼓「諌鼓」を置きました。しかし、善政を行ったため太鼓は鳴ることもなく、鶏の格好の遊び場となっていたとの故事がモチーフです。つまり太鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっていることを表わし、「天下泰平の象徴」とされます。
因みに、似た慣用句で「閑古鳥が鳴く」がありますが、「人の訪れがなく、ひっそりと静まり返った様子」を指します。「閑古鳥」はカッコウを指し、 カッコウの鳴き声が物寂しさを感じさせたことを語源とする辞典が多いようです。 -
上洛殿 一之間
釘隠しは「唐獅子に牡丹」です。 -
上洛殿 一之間
『帝鑑図』は、部屋を取り囲む4面を連続するシーンとして描いています。例えば、一之間の北面の「明弁詐書」の左の樹木は、西面の「蒲輪徴賢」の右に描かれた枝と同じものだと葉の形から推察できます。このように、4面は、余白や金雲、樹木などの漠とした添景により、本来は連続していないはずの空間を絵画的手法によって繋げてスケール感を高揚させています。 -
上洛殿 一之間
彫刻欄間のテーマは、二条城二之丸御殿と同様に「富貴・平安・長寿」の理想的社会を表現しているそうです。上段之間と一之間の境にある2間を「大和松と薔薇と笹に鶴と亀」とし、テーマ通りに縁起を担いだ動植物を組み合わせています。下部の緑色の部位は「大和苔」を表わしています。
この欄間だけは表を格式の高い上段之間側とせず、一之間側、すなわち将軍に対面する者に対して向けられています。
これぞ「おもてなしの本質」と思われるかもしれませんが、そうではなく、上段之間に将軍が座った時、一之間から対面者が将軍を見た際に威厳を高める視覚的効果を狙っています。 -
上洛殿 二之間
障壁画『琴棋書画図(きんきしょがず)』は、東面「棋」、西面「琴」、南面「書画」、北面床貼付「書」の4図からなります。
囲碁や琴、画書、書の4芸は、往時の中国では文人や高士が身に付けるべきものとされており、こうした芸能を遊戯として嗜んだそうです。
特に狩野探幽や海北友松が描いた『琴棋書画図屏風(重文)』は著名で、国立博物館に所蔵されています。 -
上洛殿 二之間
一之間との境にある襖は、「琴」をモチーフにした墨画です。 -
上洛殿 二之間
二之間と三之間を仕切る襖の上にある彫刻欄間は裏と表で図柄を違えており、二之間から見ると「唐松と牡丹に錦鶏」、格の低い三之間からは「松の実」がモチーフとなります。
確かに、お隣の三之間から見る彫刻欄間の鳥は後姿ですが、二之間から見ると正面を向いています。このような細かい部分にも格式の違いを表現しています。 -
上洛殿 二之間
いずれの欄間彫刻にも言えることですが、どうすればこれほど複雑な絵柄を立体的に彫り上げられるのでしょうか?
不思議なほど手が込んだもので、鳥や花々、草木が生き生きと浮かび上がっています。 -
上洛殿 二之間
天井は、「黒漆塗金具付格天井」です。
格子には、黒漆を塗った上に辻金具を施しています。また、鏡板には、花鳥の淡彩画の『藤図』などの板絵が嵌められています。 -
上洛殿 二之間
中央部の襖の打掛金具は、このように掛けられています。
しかし、これでは、中央2枚の襖を同時にスライドさせてしまえるのでは…。 -
上洛殿 三之間
4面の障壁画は、各々春夏秋冬を表す「四季花鳥図」です。
狩野派の最高技法の水墨画であり、往時33歳で脂の乗った時代の狩野探幽の筆致になります。東面は雪を載せた竹をあしらった『雪中竹林鳩雀図』で「冬」、二之間との境の西面は渓流と蓮の『芦鷺瀑辺松樹図』で「夏」、南面は枯柳と芙蓉の『柳鷺図』で「秋」を描写しています。
また、長押の上方にも漢画様式を彷彿とさせる山水画が描かれています。
天井は、黒漆を塗った上に辻金具を施し、更に升目に七宝繋四弁花紋の鏡板を嵌め込んだ「黒漆塗金具付格天井」です。 -
上洛殿 三之間
北面は「早春」を表した水墨画『雪中梅竹鳥図(重文)』です。この襖絵は、時代の寵児 探幽の画風が極まった傑作と称されています。
背景を金の切箔や金泥、薄墨でぼかしてそこに何が描かれているかは観る者に委ね、雪景色の中に浮かぶ老梅の枝と尾長鳥を際立たせ、中央右には羽を休める雉が存在感を顕にします。滑らかながら力強い筆墨と画面を塗り残すことで表現した雪の積もる梅の枝や幹、繊細な筆致で描かれた細い枝先に舞う尾長鳥など、筆遣いひとつにも拘りが窺えます。 -
上洛殿 三之間
構図的には、襖の右3面に巨大な二等辺三角形を形づくり、左下へ向かう枝を徐々に細くし、その先の余白に舞う尾長鳥へと視線を導きます。また、反り返った刀を彷彿とさせる枝が武家屋敷に相応しい凛とした空間を醸し、余白の寒気に鳥のさえずりを響かせています。
つまり、「何も描かれていない余白が、描かれた景観の一部の如くに呼応する」、これが探幽の真骨頂と言えます。「探幽の絵画以降、絵の見え方に変化が起きた。ここに日本絵画史を中世と近世以降とに分ける分水嶺としての探幽の意義が存する」と美術研究家が舌を巻くのも頷けます。 -
上洛殿 三之間
復元版『雪中梅竹鳥図』には、梅の木で羽を休める雉の姿が描かれています。しかし、焼失を免れた本物の襖には、雉は描かれていません。しかし本物をよく観ると、雉の胴体部分が塗り潰され、尻尾だけ残されているのが判ります。尻尾だけを残して切り取った不届き者がいたということです。
復元模写を指揮された加藤教授は、雉の尻尾が残されていたため、胴体も復元するのが筋と捉え、探幽の他の作品を参考に雉を描き足し、当初の姿を甦らせています。 -
上洛殿 三之間
背景は漠とした雪と雲の佇まいに余韻を認め、その中に雪を被った梅の枝先に尾長鳥が優雅に舞う一瞬を切り取っています。雪は吉祥の象徴でもあり、金箔を細かくした金砂子が雪の白さを引き立ててめでたさを湛えます。
梅の枝先から一羽の鳥がまさに今生まれたかのようで、想像力を逞しくさせる大胆な構図です。静けさの中に凛とした力強い自然の営みを感じさせる作品です。 -
上洛殿 三之間
鳥たちが別の鳥と視線が交わるように描いているのも特徴です。鳥たちの目線を呼応させることで、観る者の視線を画面のモチーフへと誘います。
一方、鳥たちの写実的な描写も秀逸です。徳川幕府の公式記録『徳川実紀』には、探幽が日本初の美術研究者として動植物や風景などを写生していたことが記されています。 -
上洛殿 三之間
初代藩主 義直の人物像を一言でいえば「超まじめ」に尽きます。質素倹約を心掛け、文武両道を愛する名君として尾張藩の礎を築きました。また、学問好きで、特に造詣が深かったのが儒教でした。その教えを藩内にも奨励し、二之丸に孔子廟(聖堂)と文庫「金声玉振閣」を建てたほどです。
徳川御三家は、将軍家の血統が絶えた場合の対応策として家康が創設しました。しかし尾張徳川家は御三家筆頭にも関わらず将軍を輩出できませんでした。その最大の理由が「儒教」とされます。義直は儒教好きが高じて天皇を尊崇する「尊皇思想」を持ち、これが幕末まで藩政に多大な影響を及ぼしたと伝わります。尾張家家訓(義直の著書『軍書合鑑』巻末の一語)には「王命に依って催おさるる事」とあります。つまり、「幕府と朝廷が戦う事態では、朝廷側につく」との意です。尾張家から将軍が誕生しなかったのも道理です。
一方、側近集団を保有しなかったのも理由のひとつです。将軍の職務は多岐に亘り、一人で採決し切れるものではなく補佐が必要でした。そうした側近集団は旗本や御家人の子弟から優秀な者が選りすぐられ、主君が長じて将軍になれば側近として政務を担いました。尾張徳川家にはこうしたシステムが存在しなかったのです。
この続きは、桐葉知秋 尾張逍遥③名古屋城本丸御殿(御湯殿書院・黒木書院)でお届けします。
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