2018/10/21 - 2018/10/21
28位(同エリア178件中)
ベームさん
その2の続きです。
門前仲町は江戸時代から永代寺の門前町として栄え、今も深川不動堂、富岡八幡宮の参詣客や江戸の情緒を求める観光客で賑わっています。
かっては粋でおきゃんな辰巳芸者が羽織を着て素足で歩き、木場の旦那衆といなせな木場の職人で賑わった、辰巳風といういわゆる深川文化の街です。
写真は日本最古の鉄橋、八幡橋(弾正橋)。
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今日の行程の全体。
地下鉄森下駅から門前仲町駅まで歩きました。 -
その3の地図です。
冬木弁天堂から門前仲町駅まで。 -
陽岳寺の角を左に曲がり葛西橋通りを東に歩きました。大和総研の本社があります。
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冬木弁天堂です。
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深川七福神の弁財天を祀っています。
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江戸時代日本橋茅場町の材木商の冬木家の邸内に1705年琵琶湖の竹生島の弁財天の分霊を祀ったのが始まり。その後現在地に移った。町名の冬木は冬木家の名に由来します。
冬木家は尾形光琳の後援者でもありました。 -
御水屋。
その弁財天は関東大震災で焼失、今のは昭和28年の再建。
深川は辰巳芸者発祥の地、今でも芸者,芸能人の尊崇が篤いようです。 -
まことに狭い境内で、お堂の横を身を細くして回り込むと弁天様のお使い巳、蛇の洞と明治、大正の俳人岡野知十(おかのちじゅう)の句碑があります。
北海道日高の生まれで、正岡子規に対抗、集めた俳書が東大に知十文庫として保管されています。 -
お巳洞。この中に白蛇が棲んでいるのかな。
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狛犬のようです。以前に社殿の前にあった物でしょうか。
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弁財天とお金は切っても切れない仲のようで。
岡野知十句:
名月や 銭かねいはぬ 世が恋し -
この水たまりで洗うようです。
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葛西橋通りから南に折れ和倉橋です。
高架は首都高速深川線。 -
首都高速が走っている下には昭和50年まで油堀川が流れていて、そこに架かっていたのが和倉橋です。昭和4年からの命でした。
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首都高速9号深川線、ここを油堀川が流れていました。
江戸時代、元禄年間に開削された運河で、木場と隅田川を繋いでいました。隅田川に合流する佐賀町には油問屋の倉庫が多かったという。 -
説明板。
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和倉橋の遺構。
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高架下の道路は油堀川の跡。
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同。
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富岡八幡宮に来ました。西側の入り口。
近年の宮司職を巡るごたごたやつい最近の宮司姉弟のあの忌まわしい出来事がありこんな所は避けたいのですが、私の目的が歴史散策なので涙を呑んで訪れました。
でも、そんな出来事とご利益を求める人欲は別のようで、結構人が居ました。 -
社殿配置図。
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正面に回りました。
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一の鳥居。
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)の創建です。
菅原道真の子孫長盛法印が当時砂洲だった永代島を埋め立て神殿を造営、さらに別当寺永代寺を開き別当(住職)になる。 -
この鳥居の前あたりに晩年の紀伊国屋文左衛門の隠居所があったそうです。
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鳥居をくぐるとすぐ右にあります。
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大関力士碑。歴代の大関を顕彰する。
相撲と縁が深いのは、1684年江戸で初めて相撲興行が認められ、この境内で江戸勧進相撲が行われたからです。 -
巨人力士身長碑。
歴代身長の高い力士12名の名と身長が彫られています。 -
向かい合って伊能忠敬像。
1745~1818年。測量家、近代日本地図の始祖。千葉県九十九里の出。 -
伊能測量200年記念 平成13年となっています。
50歳を過ぎ隠居したのち精力的に日本全国を回り、精密な日本地図を作りました。近年まで人生50年と云われていたのに凄いことです。
1800~1816年にかけ日本全国を測量、「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成。 -
伊能忠敬は50歳の時江戸に出て、門前仲町に居を構えました。
寛政12年(1800年)、蝦夷測量への出発に際し伊能忠敬は富岡八幡宮に旅と測量の無事を祈念しました。それ以外にも遠国に測量に出かけるときはいつも富岡八幡宮に参詣したそうです。富岡八幡宮は伊能忠敬と大変縁が深い場所です。 -
三等三角点。
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世界測地系の採用を記念して 三角三等点「富岡八幡宮」 国土交通省国土地理院
平成13年。 -
神輿庫には豪華な神輿がでんと鎮座しています。
この神輿を担ぐ8月の「深川八幡祭り」は江戸三大祭の一つといわれます。1807年の祭りの時は、祭りを見ようとする群衆で隅田川にかかる永代橋が落ちたほどの人気だったのです。その時の死者行方不明者1400人以上と云われますが、実際はもっと少なかったでしょう。
太田蜀山人の狂歌:
永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
今ではこんな歌を詠うと不謹慎と言われるでしょう。 -
純金と多くのダイヤモンドがつかわれているそうです。平成3年佐川急便の佐川清会長が奉納したそうで、成金者の成金感覚溢れる神輿です。
八幡宮側は日本一の神輿が奉納されたと大喜び。
深川八幡様と呼ばれ善男善女に慕われたと八幡宮は喧伝していますが、およそ庶民とはかけ離れた神輿ではあります。 -
高さ4.4m、重さ4.5トン。
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日本一大きいこと、ダイヤモンドがふんだんに使われている豪華さが自慢のようです。
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猿回し。
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同。
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突き当りが本殿です。
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手水舎。
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本殿。
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昭和31年の建築。
七五三の家族がずっとポーズを変えながら写真を撮り続けて正面から撮れない。 -
金魚花魁(きんぎょおいらん)。
今年の弘前ねぶた祭りのねぶたの一つを再構築したもの。 -
合格祈願が多いですが、彼氏が出来ますように、家族安泰、ライブチケットが当たりますように、囲碁日本一など幅広くご利益があるようです。
ただあまり賑わっていませんね、やはりあの事件が影響して、こんな所に願いはかけまいというのでしょう。 -
力持碑。本殿の左奥。民俗芸能「深川の力持」を記念する。
木場の材木担ぎ、倉庫街の荷物担ぎの連中が力自慢をしたそうです。 -
五拾五貫目あります。
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お手水所。
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四国の霊峰石鎚山に源を発する加茂川から採取した石で、伊予の青石といわれる名石だそうです。
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その説明。
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富岡八幡宮の北西の隅。
左から金刀比羅社、恵比須社、大鳥神社。 -
本殿の右に回ると横綱力士碑。
歴代横綱と大関雷電為右エ門を顕彰。裏面に歴代横綱の名と、横綱を張った年代が刻まれているそうで、相撲史に興味のある人は見て見たら如何。
高さ3.5m、重さ20トンの白御影石で出来ている。 -
説明板。
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神馬。
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横綱力士碑の先で八幡宮を出たところ。
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戦前の風景を想わせる一画がありました。
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どんな人が住んでいるのか。住んでいないのか。
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角を曲がった所。戸袋のある木の雨戸なんか日本から消えてしまったと思っていたが。
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その先に赤い橋が架かっています。
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日本最古の鉄の橋、八幡橋です。
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はちまんばし、と薄く読めます。
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八幡橋、旧弾正橋。重文。
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明治11年、日本橋宝町の楓川に架けられた日本最古の鉄の橋です。
弾正橋という名でしたが、昭和4年今の場所、八幡掘運河の上に移設され名前も八幡橋と変わりました。 -
鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過度期の鉄橋として、近代橋梁技術史上価値の高いものだそうです。国の重要文化財に指定されています。
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下は八幡掘遊歩道。
昭和30年頃はまだ八幡掘という運河があり、材木を運ぶ船が行き来していたそうです。 -
反対側から。
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遊歩道に降り下から見ます。
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全景。
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八幡宮の参道に戻り深川めしの店があったので入りました。もう2時過ぎです。12時頃深川江戸資料館の前に一軒あったのですが、有名店なのか行列が出来ている。飲食店に並ぶのは恥とする私はパス。深川だから深川めし屋なんかいくらでもあるだろうと思ったからです。
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ところが歩けどあるけどない。とうとう此処まで来て、2時過ぎになってようやく昼にありつけました。
深川めし:江戸時代深川の周辺は砂洲でアサリ、ハマグリなどの貝類が獲れた。それを猟師が日常のめしとして味噌汁をぶっかけたり炊き込みにして食べていたもの。近年東京湾の埋め立てが進むと漁業も漁師もいなくなって深川めしも消えていった。 -
普通歩くときは飲まないのですが、今日はもうあと一か所で終わりなのでビールを飲みました。
この地に芭蕉記念館や深川江戸資料館の開館など江戸ブームが起き観光客が大勢訪れるようになり目玉として深川めしが復活してきた。 -
メニューの写真にどんぶりがあったので単品のつもりで注文するといろいろ付いてきました。
どんぶりだけでは値をとれないので付加価値を高めるためこうするのでしょう。なにもこの店をとやかく言うのではありません。どこも同じことをしているでしょう。 -
永代通り、門前仲町の商店街にいます。
現在位置の下を流れるのは大横川。隅田川に注いでいます。
隅田川に架かる橋は上から清洲橋、隅田川大橋、永代橋。一番下に佃島の先端が覗いています。 -
今日の散策最後の深川不動堂に来ました。
永代通りに面した山門、通称赤門。 -
参道。
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参道側から。
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この通りを”人情深川ご利益通り”といいます。
土産物店、和菓子、漬物、江戸小物など物販店、飲食店、アンティーク、色々あります。 -
象牙を扱っているようです。
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ベーゴマで遊んでいます。客寄せを兼ねてか。
昭和30年代までは縁市の日にはカブトムシ、クワガタ、キリギリス、スズムシ、マツムシ、クサヒバリなどを売る虫売りやが出たそうですが、もうそういう風流な風景は見られないのでしょうか。 -
何時頃から廃れたか。私の子供の頃はありましたが。孫が小さい時ベーブレードとかいう現代版ベーゴマみたいなのをやっていました。
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アンティークの店。
シンガーのミシン。 -
レミントンの古いタイプライター、ローライの古い二眼レフなんかも並んでいます。
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せんべい屋。
手焼きせんべい其角なんて、芭蕉ゆかりの深川らしい。寺や神社の参道にはせんべい屋が必ずあるのはどうしてか。七味唐辛子もありますね。昔唐辛子は薬だったので病気治癒のお願いに来る参詣者に喜ばれたのでしょう。 -
この店で、深川名物手作りきんつば5個入り600円を土産に買いました。
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許しをえて店内を少々写真に。
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おなご子供の喜ぶようなせんべい、おかきがずらり。
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鼓和れって割れたせんべいの事ですかね。
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参道にある永代寺。
富岡八幡宮の別当寺であった元の永代寺が明治の廃仏毀釈で廃寺になった後、明治29年旧永代寺の塔頭の一つ吉祥院がその名称を次ぎ永代寺を再興した。深川不動堂、深川公園一帯は広大な永代寺の寺域でした。
門前仲町の門前は永代寺の門前から来ています。 -
そのようなことが書かれています。
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漬物やさんです。京漬ものとなっています。
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だるまにお多福、ひょっとこ、狐のお面。
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人情深川ご利益通り、楽しい通りでした。
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明30年頃の参道、今の人情深川ご利益通り。
山本松谷:新選東京名所図会より。
縁日なのでしょうか大層な賑わいです。絵の右端にはためいているのは手拭幡(てぬぐいはた)という手拭ほどの大きさの奉納幡です。
手前の御婦人方の衣装、当時の風俗が分かります。まだまだ庶民の中では圧倒的に和服ですね。 -
深川不動堂に到着です。
成田山新勝寺東京別院。新勝寺の本尊不動明王の分身を勧請。真言宗智山派。
元禄16年、新勝寺の本尊を富岡八幡宮の別当寺であった永代寺で出開帳(特別公開)したのが始まり。明治に入り別院設立の活動が始まり、明治14年深川不動堂建立。
永代寺は明治維新政府の廃仏毀釈政策により廃寺となる。江戸六地蔵の6番目だった地蔵菩薩像もその時廃棄されました。深川不動堂の隣の深川公園にその跡をしめす碑が建っています。 -
大きな香炉と手水舎。
出開帳は江戸時代良く行われました。主なもので、成田山新勝寺の不動、信州善光寺の如来、身延山の日蓮上人など、ほとんど毎月のようにどこかでどこかの開帳が行われていて、多い年は19もあったそうです。 -
香炉。
江戸末期の儒者寺門静軒の「江戸繁盛記」でこう皮肉っています。
「神や仏がどんなに尊くても賽銭がなければ阿弥陀仏も光を欠き、神も降って来るとは限らない。そこで日本中から神様も仏さまも(銭を求めて)尊い御足を江戸に運んでくる。神や仏が人に福を与えるのか、人が神や仏に福を与えるのか、どちらか分からない」 -
手水舎。
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大きな草鞋が二つあります。
小さな草鞋が一杯ぶら下がっています。 -
足難除けの草鞋だそうです。
足腰に難のある人が小さな草鞋や絵馬に願い事を書いて大草鞋に結び付けると願いがかなう、というのです。
うたい文句通りなら私にピッタリなんですが、なんだ馬鹿馬鹿しいと軽視すると、すぐ後にきついお返しがありました。 -
本堂と思ったらこれは旧本堂でした。
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明治14年建立後、関東大震災、先の大戦と2度にわたり焼失。今のは昭和26年に千葉、印旛郡の龍腹寺の地蔵堂を移築したもの。
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大きな不動尊がでんと鎮座しています。
おねがい不動尊といい、身の丈1丈尺、国内最大級の木像不動尊像だそうです。
堂内撮影禁止、これは外から写しました。同じじゃないか。 -
旧本堂の隣にあるこれが本堂。
開山310年記念に平成24年建築されました。
外壁は「真言梵字壁」といい、梵字がちりばめてあります。 -
梵字。
堂内では読経の大合唱ともいうべき声とこだまする太鼓の響き、聞く人を忘我恍惚の境地に誘うようです。多くの善男善女が聞き入っています。
宗教の恐ろしさ、それより祈祷でもお札・絵馬でもおみくじでもなんでもお金を払えばすくわれる、というこの大寺院の商売気を感じました。 -
本堂。
ところがそういう不遜な思いや大草鞋を無視したことへの強烈なしっぺ返しが来ます。本堂内を見て回っていると突然足が攣り、こむら返りを起しました。しかも両足です。座り込むこともできず、柱に寄りかかって立ったまま20分ほども堪えました。少し治まって歩きだすと又やってきます。でも意地っ張りな私はこの時でも神様仏様には助けを求めませんでした。 -
亀鯉供養の碑。
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深川竜神。
竜神は農耕儀式との結びつきが深く、水を司る神。
願い事を「龍神願い札」に書いて水に浮かべ、右にある「願いの銅鑼」を2回叩くと願い事がかなうそうです。
馬鹿みたいですが信心とは理性では測り知ることは出来ません。 -
脚を引きずりながら隣の深川公園に。
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深川公園、深川不動堂一帯は富岡八幡宮の別当寺である永代寺があった所。明治になり維新政府の神仏分離政策で廃寺となる。
別当寺:神仏習合時代に神社を管理するために置かれた寺。神宮寺、神護寺ともいう。別当(寺の坊主)は神社の宮司より格が上だった。 -
その跡を示す碑。
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深川八まん山ひらき。歌川広重「名所江戸百景」より。
一般開放日の永代寺の庭の景観です。
広い池で松、桜、楓、柳などの樹木、橋が架けられ富士山(富士塚)まで築かれています。 -
門前仲町の通り、永代通り。
江戸時代は門前仲町は永代寺門前仲町といい寺や八幡宮にお参りに来る人たち、商人、木場の職人で賑わいました。当然色々な商売の店以外に花街が形成されました。木場の職人はいなせできっぷが良い。その相手をする芸者も男まさりで竹を割ったような粋で侠(おきゃん)な性格だった。これを辰巳芸者と呼んだ。深川の地が江戸城の辰巳(東南)の方角に当たるからです。 -
辰巳芸者は当時男しか着なかった羽織を好んできたので羽織芸者とも呼ばれた。素足で歩き芸名や仕草も男っぽく、芸は売っても身は売らぬ心意気を誇りにしていた。
永井荷風は山の手生まれながら深川に愛着を持ち、作「夢の女」の中で深川不動堂と深川の遊郭に身を沈める女、お浪を描いている。もっともお浪は辰巳芸者とは全く違うタイプですが。 -
通りのお店。
江戸時代から吉原と深川はよく対比されますが、寺門静軒の「江戸繁盛記」をまた引き合いに出すと、
「吉原(江戸城の北にあるから北里という)は威厳を尊ぶので衣装や化粧は濃厚である。深川(東南にあるので辰巳という)は芸と洒落を尊ぶので化粧や装飾は淡白を好む。吉原では色を売り、深川は芸を重視する。隅田川の桜は吉原の娼妓に似、上野の桜は深川の芸妓に似る」
墨堤の桜は濃艶で、上野の桜は淡白なのでしょうか。昔は隅田川の桜は八重で、上野の桜は一重だったそうです。私は花見をしないので分かりませんが、いまはどちらもソメイヨシノではないのでしょうか。
明治初期に出た服部撫松の「東京新繁昌記」によると、そのころの東京の色町は新吉原、深川、根津、品川、新宿の順に盛んだったそうです。 -
門前仲町の交差点。16時ころ。
階段の上がり降り、電車の中、続くふくらはぎの痛みをこらえながら家に辿りつきました。
今日は休憩が少なかったです。10時前から16時ころまで歩き続け、その間食事に1回足を休めただけでした。不信心のせいだけではないようです。
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