2018/10/21 - 2018/10/21
44位(同エリア396件中)
ベームさん
ようやく秋晴れの日が続くようになりました。久し振りに墨東/隅田川の東、下町を歩いてみます。
江東区のいわゆる深川です。地下鉄の森下駅から門前仲町まで森下、高橋、常盤、清澄、佐賀、福住、深川、門前仲町など町名は幾つも有りますが大雑把にこの地域を深川とよぶようです。
江戸時代前は葦のそよぐ低湿地でしたが、家康入府後積極的に運河を開削しその土で湿地の埋め立てを行いました。急速に発展したのは明暦の大火(1657年)以降で、武家屋敷、寺院、商人の倉庫、日本橋の材木商などが隅田川の東に移転してきたからです。
運河を利用した物流の拠点、木場の材木、富岡八幡宮の賑わい、花街の形成などで繁華な地となりました。先の大戦で焦土となり、物流の変化などで倉庫も少なくなりましたが、水の町と江戸の文化を残した下町情緒を売り物に若者のアイデアを取り入れ近時人気スポットになりつつあります。
写真の枚数から4回に分けました。
表紙の写真は隅田川に架かる新大橋。
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本日の行程。
地図上の地下鉄森下駅から下の門前仲町駅まで。 -
その1。
森下駅から清澄公園まで。 -
スタートは地下鉄都営新宿線の森下駅です。
いつものように足が攣らないよう準備してきましたが、今日は最後に酷い目に遭いました。
9時40分ころ。 -
駅の通路にあります。なんでしょう、昔の船の残骸かな。空想力の乏しい私にはさっぱり。
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森下駅前風景。と言っても駅は地下にあります。
この界隈、テレビで放映していましたが、若者たちが集まってきて新しいアイデアの店、カフェーとアートの町、コミュニティーを作りはじめて人気化しつつあるようです。
でも今日の私の目的は新しきを知ることではなく、古きを訪ねることです。 -
新大橋通り。
真っすぐ西に行くと隅田川に架かる新大橋に出ます。 -
清澄通りを少し南下し右に入ると深川神明宮がありました。
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深川神明宮。
深川の地名発祥の地です。 -
立派な由来記の碑が建っています。
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鳥居をくぐると町神輿蔵。
これを担ぐのは三年に一度の本祭りの時だそうです。 -
森四となっていますから森下四丁目の神輿でしょう。
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深川神明宮。
徳川家康関東入府まえ、大阪摂津の人深川八郎右衛門が一族とこの地に移り、葦の生い茂る地を開拓した。家康入府間もない慶長元年(1596)、家康この地に鷹狩に訪れ八郎右衛門を召し出し地名を問うた。 -
八郎右衛門がまだ人も少なく地名はない、と答えると家康は「ではそちの姓の深川とせよ」と命じたことが深川の地名の始まりだそうです。
森下、高橋から小名木川にかけての一帯が深川としては最も古い土地になります。 -
拝殿。
深川八郎右衛門は自分の屋敷に小さな祠を建て、伊勢神宮の天照大御神分霊を祀った。これが深川神明宮となりました。
全国にある神明宮とは天照大御神を祀った神社のことです。 -
一人拝殿で手を合わせる人が。
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手水舎。
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参道の脇に和合稲荷神社。
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この石五拾五貫目だそうです。深川一帯に行われていた「力持ち」くらべの石でしょう。
今の若い人には貫と言っても分からないでしょう。55貫は約206キロになります。普通の大人3人分でしょうか。 -
末社寿老神社。
深川七福神の寿老神を祀っています。 -
本殿に貼ったあった説明書き。
深川神明宮と地名の由来の事。 -
同。
祭礼と神輿の事。 -
深川神明宮の門前に伊東深水誕生の地の説明板がありました。
1898(明治31)~1972(昭和47)年。
美人画を得意とした日本画家。娘に女優の朝丘雪路。 -
門前の通り。
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附近地図。上が南、下が北。
右に隅田川と新大橋。上に小名木川。 -
深川神明宮の傍の八名川公園。
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公園の隅にある八名川稲荷神社。
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稲荷神社が多い地域で、これから幾つも見ました。
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深川神明宮前の通りの突き当りに芭蕉記念館があります。
これについては深川江戸資料館とともに別編で。 -
芭蕉記念館附近。
小名木川が上/東から流れ隅田川に合流しています。合流点の左角一帯が芭蕉が住んでいた所です。
隅田川に掛かる橋は左新大橋、右清洲橋。小名木川の河口に掛かるのは萬年橋。 -
芭蕉記念館から新大橋に回りました。
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新大橋。
旧新大橋(元祖新大橋)は元禄6年(1694年)両国橋に次いで隅田川に架けられた三つ目の橋で新大橋と呼ばれた。今の場所より200mほど下流にあった。付近の住民はたいそう喜んだようで、芭蕉は句まで詠んでいます。
建設中に「初雪や かけかかりたる 橋の上」
完成後は「ありがたや いただいて踏む はしの霜」 -
何度も損壊、流出に見舞われたが附近住民の努力でその都度再建。明治45年今の場所に鉄橋として架橋される。関東大震災のとき隅田川の橋で唯一焼けなかった橋で、多くの人がこの橋を渡って避難し、人助けの橋と呼ばれた。
老朽化により昭和52年今の橋に架けかえ。 -
森下と対岸日本橋浜町を結んでいます。
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橋の中ほど。
明治45年の橋のレリーフ。 -
明治45年造られた鉄橋は、その一部分が明治村に保存されています。
ウィキより。
昔の鉄橋は後に出て来る萬年橋もそうですが厳めしく風格がありますね。 -
歌川広重描く名所江戸百景のなかの「大はしあたけの夕立」。
浜町側から対岸の御船蔵辺りを望んだ景色です。
突然の驟雨に急いで橋を渡る人たち。筏を漕ぐ人も急いでいるようです。
あたけ、とは新大橋の袂に幕府御用船「安宅丸(あたけまる)」の船蔵があり、この地一帯をあたけと呼んでいたから。 -
新大橋からの眺め。
下流方向。遊歩道は隅田川テラスです。 -
同。
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橋の東詰めの袂に石の塔があります。
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明治45年造られた旧新大橋の橋柱です。
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新大橋の東詰めの河岸には幕府の船舶の格納庫がありました。安宅丸もここに係留されていました。
安宅丸(あたけまる):1632年、三代将軍家光が造らせた幕府の御用船。長さ62mほどの当時としては巨大な船でした。あまりの大きさに機動性が無く、維持に金がかかり過ぎるので1682年、綱吉の時に解体されてしまいます。うどの大木だったのでしょう。完成したとき、お披露目の家光のどんちゃん騒ぎ以外何らかの実用に供されたという記録はないようです。 -
隅田川テラスに降りてみます。
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隅田川テラスから見た新大橋。
こういうのを斜張橋というのですか。 -
すっきりした姿形ですね。
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対岸。
日本橋浜町あたりです。 -
新大橋と隅田川。
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新大橋が徐々に遠ざかります。
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隅田川と新大橋と隅田川テラス。
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下流方面に清洲橋が見えました。
この杭は何でしょう。百本杭の名残ではないようです。船の接触損傷を防ぐタイヤがぶら下がっています。 -
清洲橋。なんだか富士山が二つ並んでいるようです。
いま工事中なのです。形のよいアーチがシートに覆われていて見られません。 -
遊歩道沿いに芭蕉の句碑が点々と建っていました。
大川端とありますが、吾妻橋から河口にかけては江戸時代には大川と呼ばれていました。
大川の名を懐かしむ文人は多く、小山内薫に「大川端」という小説があり、芥川龍之介は随筆「大川の水」の中で「自分は大川端に近い町に生まれた」と書いています。 -
1692、1693年は芭蕉3回目の芭蕉庵に住んでいた頃です。
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芭蕉庵には門人が植えてくれた大きな芭蕉の木がありました。
桃青と名乗っていた俳号を芭蕉と変えることになった由縁です。 -
上野、不忍池畔か浅草の時の鐘の音がここまで聞こえてきたのですね。高層ビルも車の騒音もない時代でした。
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1686、1687年は芭蕉が2回目の芭蕉庵に住んでいたころです。
池とは、芭蕉庵(門人でパトロンでもあった杉山杉風の番小屋)にあった生簀のことです。蛙が飛び込んだのも同じ生簀です。 -
隅田川テラスを歩くと芭蕉庵史跡展望庭園に来ました。
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入口。
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芭蕉庵史跡展望庭園の門の横に建っています。
赤穂浪士ゆかりの道。
元禄15年(1702年)12月、本所吉良邸に討ち入り本懐を遂げた赤穂浪士47名は隅田川沿いに南下し、この辺りを通り萬年橋も通り、永代橋を渡って泉岳寺に向かったとされています。芭蕉死後のことで、芭蕉と関係があるわけではありません。 -
芭蕉庵史跡展望庭園。
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芭蕉像。平成7年作。
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後姿です。視線の先は芭蕉庵か、おくのほそ道の千住の方か。
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小名木川が隅田川に流れ込む所。
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左から小名木川、正面に清洲橋。
清洲橋を見る最高のヴューポイントです。江戸時代にはこの一画は深川三股と云われ景勝の地でした。 -
展望庭園を降りたところに正木稲荷神社があります。
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腫物にご利益があり、治るまで蕎麦断ちし治ったら蕎麦を献じる習わしだそうです。
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詳しい由来は分かりませんが、江戸時代の名所図会には描かれています。
柾木の大木があり柾木稲荷神社と呼ばれていたのが正木に変ったようです。 -
その先に芭蕉庵史蹟芭蕉稲荷神社があります。
大正6年、台風による高潮のあとここから芭蕉愛玩の石の蛙が出土した。それで有志がここに芭蕉稲荷神社を建て、東京都がここを芭蕉庵の跡と指定したのです。 -
芭蕉は1680年から1694年大阪で死ぬまでこの界隈に住んでいたことは間違いない。しかし芭蕉庵の跡は武家屋敷になり庵の痕跡を示すものは何もない。それでピンポイントでここに芭蕉庵があったという事は確定できないようです。
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社殿。
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この辺り門人、日本橋の魚問屋杉山杉風(すぎやまさんぷう)の別荘や生簀(養魚池)などがあった所で、芭蕉はその草庵に住まい、3度住替えています。最初は火災、2度目の住まいはおくのほそ道に旅立つため手放し、おくのほそ道から帰ってから3度目の家を新築しています。
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史蹟 芭蕉庵跡。
こんな大きな碑を建てたからには、異論をはさむ余地はなさそうす。 -
古池や 蛙飛びこむ 水の音
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長谷川雪旦:江戸名所図会より。
芭蕉庵。 -
芭蕉稲荷神社の前の通り。
突き当りが隅田川の堤防。堤防の手前に芭蕉庵史跡展望庭園入り口と正木稲荷神社があります。 -
萬年橋の袂に来ました。
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小名木川に架かる一番隅田川寄りの橋です。
この格好、いいですね。アーチ型の入り口、いよいよこれから橋にかかるぞ、という気持ちにしてくれそうです。旧新大橋といい萬年橋といい昔の橋は風格があり風情があった。 -
当初いつの架橋か不明ですが、1680年の江戸地図には「元番所の橋」として描かれています。橋の北詰めに航行する船の見張りをする川舟番所がありました。
隅田川の少し下流に永代橋が架かっていたので、その永代にたいして萬年橋と名付け
られました。 -
現在のは昭和5年建築。長さ56m。
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橋の手前は常盤町、渡れば清澄町。
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萬年橋の上から。
小名木川が隅田川に合流しています。右の遊歩道の曲がり角辺りが芭蕉庵史跡展望庭園です。 -
反対側。新小名木川水門。
小名木川:1590年頃、行徳の塩を江戸に運ぶため徳川家康が小名木四郎兵衛に命じて開削させた運河。のち地方の野菜や米、人も運ぶようになり、江戸水運の大動脈となる。旧中川と隅田川を結んでいる。 -
萬年橋の風景は江戸時代から人気があったようです。
葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋」
優美な姿です。橋が極端に太鼓形なのは船を通しやすくするためです。
写真はウィキより。 -
歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」
亀は万年です。売られている目出度い亀を放生会で逃がしてやるのでしょう。
隅田川を高瀬舟がゆっくりと進んでいきます。
両方とも富士山が描かれています。昔はここは富士山がよく見える所で有名でした。富士山の手前は丹沢の山並みでしょう。 -
隅田川テラスに降りて萬年橋を下から見ます。
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萬年橋。
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萬年橋北詰めに川船番所跡があります。
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利根川水系各地から小名木川を利用して江戸に運ばれる荷物や人を監視するところでした。1647年の記録があります。
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小奈木川五本のまつ。歌川広重「名所江戸百景」より。
小奈木川=小名木川。
小名木川の川べりのある武家屋敷の庭に5本の松の大木があり、川面に張り出しいて、名勝となっていた。
或る名月の宵、芭蕉はこの下に舟をもやい一句詠った。
「川上と このかわしもや 月の友」
説明板によると、
今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう。
この友とは山口素堂といわれる。 -
萬年橋附近地図。上が西、下が東です。
下/東から流れてきた小名木川が隅田川に合流する右の角が芭蕉庵史跡展望庭園。左の緑は清澄庭園。橋は清洲橋。
対岸は日本橋中洲で、以前は隅田川の中州でした。 -
萬年橋を渡って右に曲がるとこんな風情も残っていました。
ちょうど家の主が鉢に水を遣っていたので、写真を撮って良いかと訊くとどうぞどうぞとの事。 -
ここから先、清澄、佐賀、福住にかけて物流の拠点で江戸時代から倉庫が集中していました。穀物、肥料、油など商人の倉庫だけでなく、全国の大名たちも藩米や国の特産物を回送し貯蔵する蔵屋敷を持っていました。隅田川と四通八達した運河の水運の便がこの地域に倉庫が集中した最大の理由です。
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水上輸送が鉄道、トラックなど陸上輸送にとってかわられるに従い此処に倉庫を持つ意義は少なくなり、倉庫は次ぎ次に撤退していき、倉庫が撤退した後はマンションが建っていきました。
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それでもかなりの倉庫が残っています。
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これは倉庫会社が建てたマンションのようです。
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まだ隅田川テラスは続いています。
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ふと川上を見ると押上のスカイツリーが見えるのに気が付きました。
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清洲橋は大規模な化粧直し中。
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清澄町と対岸の日本橋中洲を結ぶから清洲橋。昔中洲の渡しがあった所です。
昭和3年、関東大震災の復興事業として建設。186m。
写真はWEBからの借用。 -
遊覧船が清洲橋の下を潜ってやってきました。
永井荷風は山の手生まれですが下町、向島、本所、深川界隈を愛し、たびたび逍遥し小説の舞台にしています。ちょっと長くなりますが、その随筆「深川の散歩」の一節を引用します。大正の末頃の清洲橋の上から眺めた風景です。
「橋の中ほどに佇むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横たわっている川筋の眺望が、一目に見渡される」 -
「西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川下には油掘の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には萬年橋が小名木川の川口にかかっている。・・・・、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう」
ビルが立ちはだかり眺望は悪くなった今でも、あまり変わっていないのではないかと思います。 -
ズームします。
アーチがすっぽり覆われていて富士山の形をしています。なかなか面白い風景です。 -
隅田川テラスの内側を清洲橋から少し行くと読売新聞の何かがあります。
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道路に面した一画に平賀源内電気実験の跡、という碑が建っています。
長崎のオランダ人から入手したエレキテル/摩擦起電器の実験をここで行った。 -
1728~1780年。高松藩の下級武士の出。
本草学者、蘭学者、殖産事業家、発明家、浄瑠璃作家とまさにマルチ人間。 -
仙台堀川のかみのはし(上之橋)があった所です。ここも赤穂浪士が通っていきました。
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読売新聞の角を左に曲がるとアサノコンクリートの工場があります。太平洋セメントの子会社ですが、歴史あるアサノ/浅野の名を冠しています。
江戸時代仙台藩の深川蔵屋敷がありました。 -
ここに日本最初の民間セメント工場を設立した浅野総一郎の像が建っています。
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本邦セメント工業発祥之地。正確には民営セメント工業か。
明治16年、浅野は深川の官立セメント工場の払い下げを受け、ここに浅野セメントを創業した。同社は浅野財閥の中核として発展。昭和22年日本セメントと社名変更。平成10年秩父小野田セメントと合併し、いまは太平洋セメントとなっている。 -
明治23年の浅野セメント。
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明治27年製のアサノセメントを使ったコンクリートブロック。
横浜港の防波堤に使用され、昭和6年引き揚げられたが損傷なく、アサノセメントの優秀性が証明された。 -
佐賀の辺りは昔の倉庫街で、大企業の倉庫も残っていました。橋は清川橋。
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仙台堀川にかかるきよかわ/清川橋。
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下手に仙台堀川水門。
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上手です。右に折れるのは大島川西支川。
仙台堀川は旧中川と隅田川を結ぶ運河で、北岸、先ほどのアサノコンクリートがある辺りに仙台藩の蔵屋敷が在ったのでこの名がついた。 -
奥の橋は大島川の松永橋と思います。
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清澄公園の西南角に来ました。
公園に添って清洲橋通りの方に行きます。
ここまでをその1とします。
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