2018/09/28 - 2018/09/28
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ベームさん
その2の続きです。
神保町の古書店街から明大通りに戻り、ニコライ堂から本郷通りを南下、神田小川町、神田淡路町、神田須田町、万世橋を巡りスタート地点の御茶ノ水駅へ。
この地域、青年時代の夏目漱石が学びあるいは足跡を残した所で、漱石フアンの私としては逃せない一帯なのです。
写真はニコライ堂の薄緑色のドーム。
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このルート、夏目漱石が猿楽町に下宿し大学予備門に通っていた当時、もしくはその後もよく歩いたであろうルートに似ています。
「こころ」の中で先生は下宿の奥さんにお嬢さんを貰いたいと告白した後で心の高ぶりを抑えるため散歩に出ます。
「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲がりました。私がこの界隈を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は・・・。私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へきて、菊坂をおりて、しまいに小石川の谷へおりたのです」
漱石に限らず昔の人はよく歩きました。現代の人は健康のために歩きますが、昔の人は生活のため、思索のために歩きました。 -
明大通りに戻りました。御茶ノ水駅方向に登って行きます。
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日本大学の手前で駿河台道灌通りを右に入るとここにもスポーツ会社がありました。
ミズノ東京本社。 -
その先、お茶の水仲通りとの角に太田姫稲荷神社が鎮座しています。
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その1の聖橋で触れましたが、神田川、聖橋の南詰めにあったものが昭和6年御茶ノ水駅の拡張によりここに移ってきたのです。
古社名は一口(いもあらい)稲荷神社。祭神は菅原道真、徳川家康。 -
京都山城の国に疱瘡治癒に霊験あらたかとされる一口稲荷神社があった。
太田道灌の娘が重い疱瘡にかかり道灌は一口稲荷に願をかけると娘の病が快癒した。道灌はいたく感謝し江戸城内に勧請し一社を設けたのがこの神社の始まりです。その後太田姫稲荷神社と改名し、場所も神田川縁、当地と変遷します。 -
手水舎。
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金色眩い神輿を持っています。
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明大通りに戻ると明治大学リバティータワーの向かいに日本大学の古い建物があります。
日本大学:明治22年日本法律学校。明治36年日本大学に改称。今は学問よりスポーツを売り物に学生を集めているマンモス大学です。
ここから日大病院、東京YWCAにかけて幕臣小栗上野介の屋敷があった所で、そこを借りて安積艮斎が私塾見山楼(けんざんろう)を開いたところです。 -
安積艮斎(あさかごんさい):幕末の朱子学者。1791~1861年。
郡山の神官の家に生まれる。江戸に出て朱子学を学び、この地に私塾「見山楼」を開く。教育者として優れ、門人2千名を超えたという。昌平黌教授。
門下生に栗本鋤雲、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、清河八郎、岩崎弥太郎など幕末から明治にかけて日本を動かした傑物が並ぶ。 -
明大通りの右側は日本大学関連の建物が並んでいます。
日本大学病院。
日大アメフト部の元監督が体調不良と称して逃げ込んでいましたね。政治家でも官僚でも芸能人でも、疑惑を持たれると病気と称して病院に逃げ込むのは常套手段です。 -
甲賀通り。
甲賀忍者たちの住まいがあった所のようです。 -
東京YWCAビルがあります。
この辺り小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)生誕の地です。 -
東京YWCAエントランス。
小栗上野介忠順:幕臣。外国奉行、勘定奉行歴任。幕府軍を様式軍隊に整備、横須賀製鉄所を建設。1827~1868年。
1860年(万延元年)、日米修好通商条約批准の遣米使節団の一員として渡米、世界一周を成し遂げる。
大政奉還、鳥羽・伏見の戦い後も榎本武揚らと徹底抗戦を主張し、勝海舟らの恭順論に敗れ下野する。領地高崎に隠遁中東征軍に捕らわれ斬首された。 -
野蛮な官軍の兵隊は小栗がいかほどの人物か知っていたのか知らなかったのか、ろくな取り調べもしないでばっさりと殺してしまいました。
調剤薬局の入り口に小さな案内板がありました。まずそれと知らなければ通り過ぎてしまうでしょう。 -
明大通りを渡ってちょっと明治大学アカデミーコモンを覗きます。
創立120年記念行事の一環として平成16年竣工。
生涯教育の拠点、新世代の知の広場と謳っています。 -
多くの学生が出入りしていました。生涯学習講座は一般の人も受講できるようです。
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図書館、博物館、会議室、多目的ホール、教室などの設備があります。
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明治大学 アカデミーコモン。
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明治大学創立者のレリーフ。
1881(明治14)年、有楽町数寄屋橋の地に岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操により明治法律学校設立。
1886(明治19)年、この地に移転。
1903(明治36)年、明治大学と改称。 -
ここから御茶ノ水駅にかけて楽器店街を形成しています。
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中古店。
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ギター関係の店が多いようです。
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アカデミーコモンの前を杏雲堂病院の方に渡ると歩道に案内板が建っています。
法政大学発祥の地の看板です。 -
明治13年この地に東京法学社が設立され、翌年東京法学院が独立、これが法政大学の始まりです。フランス人の法学者ボアソナードが教壇に立ちました。
明治23年九段に移転、明治36年法政大学と改称。
明大、日大以外に神田駿河台、神保町、錦町にかけての地に呱々の声を上げた大学は中央大学(明治18年、英吉利法律学校)、専修大学(明治13年、専修学校)があります。すべて法律学校としてスタートしたものです。 -
明大通りを右に左に渡っています。
アカデミーコモンの向かいに杏雲堂病院。
明治15年開業の歴史ある病院で、癌治療に特色があるそうです。 -
杏雲堂の名の由来。
杏がつくのでは杏林製薬なんてのもありますね。 -
杏の樹がⅠ本植えられています。
杏は実も種も薬用に使われます。医術と縁が深い植物です。 -
杏雲堂病院の西北角の植え込みに大久保彦左衛門屋敷跡の石碑が建っています。
三河出身の徳川直参の旗本で、徳川家康、秀忠、家光と三代の将軍に仕えた天下の御意見番。旗本は輿に乗ってはいけないというので、ここから盥に乗って登城したそうです。将軍さぞかし嫌味に感じたでしょう。1560~1639年。 -
杏雲堂病院からニコライ堂正門に至る道、昔は急坂で雁木を組んでいたそうです。
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今は普通の道路です。
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駿台予備校。
予備校の名門。 -
ニコライ堂が見えます。
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北側の入り口。
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ビザンチン様式のニコライ堂。
駿河台のシンボルと言ってよいでしょう。 -
正式には日本ハリストス正教会東京復活大聖堂。
日本に正教の教えをもたらし日本正教会を設立したロシアの大主教ニコライにより明治17年から明治24年にかけて建設された。サンタクロースの聖ニコラウスとは違います。江戸時代定火消屋敷があった所です。
施工は鹿鳴館や帝室博物館などを設計し、東大工学部で教えたジョサイア・コンドル。 -
関東大震災で鐘楼、ドームが倒壊。1929(昭和4)年修復完了。
先の大戦では東京大空襲を免れ、遺体の安置所となったそうです。 -
周りに高い建物も無かった時代、ただでさえ高い所に立つ崩壊前のニコライ堂、丸いドームと鐘楼は素晴らしい眺めだったでしょう。幾多の文士、詩人がニコライ堂の事を文にしています。
竹久夢二:ニコライのホオルに入りて相擁きサンタ・マリアを拝みにけり
与謝野晶子:ニコライの 高き塔より鳴る鐘の ひろがる屋根に 白き雨降る
与謝野鉄幹:灰色の空に黙せる NIKORAIの 黒き円屋根 われも黙せる -
キリスト教に縁のないように思える夏目漱石までが見物に行ったようで、「それから」に主人公代助の見た復活祭の様子を書いています。
「御祭りが夜の十二時を合図に・・・始まる。・・・。法衣(ころも)を着た坊主が行列して向うを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。」
明治40年の「東京案内」には大時代的な文章で書かれています。
「雄壮なる建築にして、高塔天を摩す。円錐形の鐘楼あり。楼鐘八個を繋ぐ。堂内には美麗なる装飾を施し、燦然として目を奪う」
後日記:漱石については誤りのようで、小宮豊隆が見てきて話したことを漱石が「それから」の中に書いたようです。 -
前庭の隅に汚れて傷ついた鐘が置かれています。鐘楼には大中小の八つの鐘があり、これは多分関東大震災で崩落した小の鐘ではないでしょうか。
昔は鐘の音が日比谷公園でも聞こえたというから、東京は高層ビルも自動車の喧騒もなく静かな街だったのです。
子供の頃猿楽町に住んでいた作家の永井龍男はその自伝的作「石版東京圖繪」で”朝晩にはニコライ堂の鐘の音が聞こえてきた”と書いています。 -
300円寄付したらローソクとパンフレットを呉れました。ローソクは供えずに停電の時に使おうと家に持って帰りました。
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全景。
絵葉書です。 -
堂内。絵葉書。
美麗なる装飾を施し、燦然として目を奪う祭壇。 -
ニコライ堂のすぐ北に井上眼科があります。夏目漱石が通院したというから明治時代からあるのでしょう。面白いエピソードがあります。
東京帝国大学文科英文科学生の漱石は明治24年トラホームに罹り神田駿河台の井上眼科に通院していた。そこの患者でいつものように出会う背のすらっとした細面の、色の白い美しい若い女がいました。気立てもよろしい。すっかり惚れ込んだ漱石はそれとなく相手に自分の意思を伝えた。女もまんざらではないらしい。ところが女の母親と云うのが芸者上がりでかなりの性悪、見栄坊でいろいろ漱石の素行を探る噂が耳に入ってくる。 -
ある日漱石は実家(漱石は伝通院そばの法蔵寺に下宿していた)に行き、家人に”私に縁談の話があったろう”と問うと、家人は”そんな話はない”と答える。”本人に黙って縁談を断るなんて親でも兄でもない”と怒って漱石は家を飛び出した。
結局何やかやでこの話は纏まらなかった。
芸者の雛妓のからかいにも顔を真っ赤にして固まってしまうほどの謹厳居士の漱石を思うと微笑ましいですが、この話あくまで伝説の域を出ないようです。しかしそのような女性がいたことは事実です。明治24年7月18日の漱石から正岡子規宛の手紙に、「昨日眼医者へ行った所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね。銀杏返しに竹はなをかけて、・・・ひやっと驚いて思わず顔に紅葉をちらしたね・・・」。この時ボーッとした漱石は蝙蝠傘を病院に忘れてきてしまいましたとさ。
この時の失恋が漱石をして松山行きを決心させた、なんて説もあります。 -
目の前には巨大なビル、お茶の水ソラシティが聳えています。
23階建て、110m。もと日立製作所本社ビルが有った所です。
江戸時代の戯作者、狂言師大田蜀山人終焉の地がこの辺りです。 -
本郷通りを小川町交差点の方に下っていきます。
途中になにやら震災紀念碑。 -
関東大震災のときある人の建てた鉄筋コンクリートの東京商工学校が残り、付近の人にとても役立ったことへの感謝として住民一同により建てられたようです。
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小川町交差点の手前、三井住友海上のある大きなブロックに来ました。
この辺り陶庵と号した文人宰相西園寺公望の屋敷がありました。
特筆すべきは、この邸宅で明治40年6月を最初とする「雨声会」が開かれたことです。
時の政友会総裁西園寺は文学者の社会的功労に報い感謝するために、主だった文学者をこの私邸に招き自由に語らしめ自らも語った。森鴎外、幸田露伴、川上眉山、泉鏡花、巌谷小波、広津柳浪、島崎藤村、国木田独歩、田山花袋など20名。
夏目漱石、坪内逍遥、二葉亭四迷は招待されたが欠席。漱石のその時の断り状が「時鳥(ほととぎす)かわやなかばに出かねたり」というものです。漱石の反権威精神が現れています。権力者に懐柔されては書きたい事も書けない。一方招待されなかったと不満を漏らす文士も多かったそうです。 -
招待され喜んだ文士たちはお返しの会を催すなど、雨声会は場所を変え人を変えながら大正5年まで7回行われています。明治44年に初めて招待されたあの偏狭な永井荷風でさえ日記か何かにその感激を「卑賤の身で貴人の寵を得た」と欣喜雀躍して書いています。どういう縁か分かりませんが、国木田独歩がひところ西園寺邸に居候していたことがあります。それで雨声会の席上でも独歩は西園寺公に物怖じしなかったそうです。
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近くに小さな幸徳稲荷神社がビルの2階の踊り場のような所にあります。
断った3人のその理由です。
二葉亭四迷:嫌だからいやだ。
坪内逍遥:所用あり。
夏目漱石:執筆中で多忙。
二葉亭のが一番直截的ですが、3人に共通するのは反権威主義です。またこの会を企画したバックが読売新聞で、読売新聞からの執拗な入社要請を断って朝日新聞に入社したばかりの漱石にとって、この会に出るのは潔しとしなかったのでしょう。 -
山城の国、淀の城主稲葉丹後之守の江戸中屋敷に祀られていた。五穀豊穣武運長久の神として祈願されてきた。小川町の守り神。
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幸徳稲荷神社。
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幸徳神社の前の道を本郷通りに出ると連合会館がありました。連合/日本労働組合総連合会の本部です。
1989年、総評、同盟、中立労連、新産別の4団体が統一してできた全国中央組織。連合によると加盟組合員700万人、48産別だそうです。
労働組合運動も時代の流れの中で随分おとなしくなりました。 -
笹巻けぬきすし。
本郷通りの右側にあります。創業元禄15年(1702)とあるから赤穂浪士討ち入りの年じゃないですか。
けぬきとは鯛の小骨を毛抜きで抜いたそうです。 -
本郷通りと靖国通りの小川町交差点に来ました。ここは今も交通の要衝ですが市電の走っていた明治時代は四方からの市電が殺到し、商店の集まる繁華な場所でした。
この交差点が(市電の停留所が)夏目漱石の「彼岸過迄」に長々と登場します。 -
ちょっと長くなりますが面白いので紹介します。
友人の叔父田口に就職を依頼した敬太郎は田口からある仕事を命じられる。”今日4時と5時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で降りる四十格好の男がある。(男の身なり・容貌はこれこれである)。その男が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報告しろ” というものです。師走の日の短い最も混雑する時間帯に、ひっきりなしに到着する電車からその特徴を持つ男を見つけるのは困難である。 -
とにかく敬太郎は小川町の停留所に行って見る。白いペンキで小川町停留所と書かれた鉄の柱がすぐ彼の目に入った。ここで見張っていれば何とかなるだろう。万世橋の方から青山行が来る。九段新宿行が来る。ところが三田方面から来た巣鴨行の電車がぐるっと回って別の所に停まった。なんと小川町停留所と云うのはそれぞれ離れて3か所もあるのである。三田方面から来る電車は行き先により2か所の停留所に停まる。二つの停留所の距離は1町足らずだが両方同時に見張ることは出来ない。運を天に任した敬太郎は自分のステッキが倒れた方向の停留所を死守することにした。
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しばらくして敬太郎は一人の若い女がやはり停留所に立っているのに気が付いた。女は何台もの電車を見過ごしている。人を待っている様である。女も敬太郎に気が付いたと見えて互いに意識し始める。敬太郎は、この女は処女だろうか細君だろうかなど空想に耽っていた。突然1台の電車が女の前で停まった。中から一人の男が出てきて女の前に立ち止まった。敬太郎にはその男が田口が指示した男の特徴に合っていることが分かった。
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女「だってあんまりだわ。こんなに人を待たしておいて」
男「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
女「遅いわ貴方、六時なら。妾もう少しで帰る所よ」
敬太郎は二人の後を附いて行って、二人がとある西洋料理店に入るのを見て離れた場所に席を取った。
結局敬太郎は田口に指示された課題を果たすことが出来ました。これから先、男と女と田口と敬太郎の友人の関係をまじえ話は展開してゆくのです。漱石の小説はミステリーっぽくて面白い。
この辺りに明治中頃陸羯南(くがかつなん)が主宰し正岡子規も勤めていた「日本新聞社」があり、新聞「日本」を発刊していた。明治29年、脊椎カリエスを発症し動けなくなるまで子規は根岸からここまで通勤していたのです。 -
明治32年頃の神田小川町通り。
山本松谷:新選東京名所図会より。
今の靖国通りでしょうか。画面左下に飴売り。その右に猿回し、犬の背中に猿が乗っています。右下の人は洋傘を担いでいます。帽子屋さんもあります。洋風が広まりつつあるようです。でもまだ乗り物は人力車か馬です。
ちなみに人力車が東京に現れたのは明治3年で、あっという間に駕籠を蹴散らした。 -
交差点の角に額縁専門の草土舎が有ります。
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大正13年創業の老舗です。
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愉しいショーウインドー。
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絵画、美術品も販売しています。
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同。
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靖国通りを淡路町の交差点に来ました。
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附近地図。
私は北向きに立っています。従って地図も上が北、下が南、解りやすくてよろしい。 -
靖国通りと外堀通りが交差する淡路町交差点。
喫茶店で一服しました。 -
淡路町から須田町にかけての靖国通り南側、神田多町、須田町一帯は神田青果市場があった所です。
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神田青果市場発祥の地の碑。靖国通りから多町大通りを右に曲がってすぐです。
江戸時代、各所にあった青物市場が明暦の大火(1657年)のあとこの地に集められ神田青果市場となる。神田川、日本橋川の水運に恵まれ各地から新鮮な産物が集積し、駒込、千住と並んで江戸の三大市場となる。
青果市場の別称「やっちゃ場」は競の威勢のいい掛け声から生まれた。
また江戸の2大市場といえば日本橋の魚河岸と神田青果市場です。 -
関東大震災で全滅したが復興、昭和3年秋葉原に移転、平成2年大田市場に移転し神田青果市場の歴史は終わる。
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明治33年頃の神田市場。
山本松谷:新選東京名所図会より。
大八車で続々と青果物が送り込まれている。 -
須田町1丁目に小さな社が有りました。
延喜稲荷神社。 -
靖国通りの北側をちょっと入った所に老舗の食べ物やが集まる一画があります。
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靖国通りに面しりそな銀行の並びにあるのが蕎麦の老舗「まつや」。
人が並んでいました。創業明治17年だそうです。 -
この辺り昔万世橋駅が有ったころ連雀町といって万世橋商店街として賑わっていた。したがってこれらの老舗も商店街のメンバーだったのです。
ついでですが明暦3年の振袖火事のあと新田開発のため連雀町の人たちが今の中央線三鷹駅の近くに移住させられた。三鷹市に連雀の地名がある所以です。 -
呉服屋。
老舗の食べ物屋が集まる中に呉服屋が一軒だけ。 -
洋食「松栄亭」。
明治40年創業。初代は東大教授ケーベル博士の料理人をしていた。夏目漱石が博士宅を訪れた時出されたかき揚げ風のものがとても美味しかったと漱石は書いている。初代が独立して店を持った時も洋風かき揚げを看板メニューにした。 -
いせ源の前あたり。
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あんこう鍋のいせ源。
1830(天保元年)年創業。今の建物は昭和7年築、東京都歴史的建造物に指定されている。
神田須田町1丁目。 -
あんこう鍋御一人前3500円。
アンコウの獲れない夏場なんかどうしてるのでしょう。看板に書いてある。季節向料理色々。 -
いせ源の向かいに甘味所竹むら。
創業昭和5年。建物は同じく都の歴史的建造物指定。
食通の池波正太郎はこの界隈を好んだ。藪で蕎麦を食い酒を飲み、ぼたんで鳥を食べ酒を飲み、竹むらで酒を飲んだ後粟ぜんざいを口にしてお土産に揚げまんじゅうを包んでもらうのが定番だった。酒を飲んだ後の甘いものは美味だそうです。 -
竹むら。
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蕎麦の老舗、かんだやぶそば/神田藪蕎麦。神田淡路町2丁目。
明治13年の創業。浅草の並木、上野の池の端藪蕎麦とともに藪蕎麦の御三家といわれる。
平成25年に火災に遭い建て替えたそうだがお女将が客の注文を厨房に伝える甲高い口調は今も健在か、ちょっと覗いてみることにしました。 -
大した行列でもない。昼にうどんを食べているがせっかくここに来たのだから。
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店内の様子。
写真を撮っても良いかと訊くと、お客さんの顔が分からないなら、とのことで。
ここに来るのはおそらく20~25年ぶりくらいです。
ここの従業員は気持ちが良い。愛想がよくてきびきびしている。客の呼びかけに必ず応じる。知らんふりしない。済んだ席の片づけも早く、待っている客への気配りを忘れない。お高く留まっている老舗の多いなか極めて満足のゆく店でした。 -
大和芋と練り味噌に銚子一本。味は醤油か酢、お好みで。
普段街歩きの時は体がだるくなるので酒は飲みませんが、今日はこれでほぼ終わりなので気を許します。 -
せいろ一枚。〆て2270円。
上品な盛であること、上から覗くと下のすのこが透けて見えます。先ほどうどんを食べたことだし、私には丁度でした。
女将の声は耳を澄ますとかすかに聞こえます。声量が落ちたのか店内のざわめきのせいか。私の記憶では昔はもっと静かで、店内に響き渡っていましたが。 -
普段は酒を飲まないので、一本のお銚子でいい気持ちになり万世橋にやってきました。
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橋の起源は1676年、徳川将軍の上野寛永寺詣でのため架けられた筋違橋に遡ります。
その後何回か架け替えられ、今のは昭和5年架橋のものです。名前は眼鏡橋から萬代橋(よろずよばし)でしたがいつのまにか”まんせいばし”と呼ばれるようになったそうです。 -
万世橋。
通りは中央通り。奥は秋葉原の電気街。 -
クラシックなデザインの親柱。
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橋の南詰めに肉の万世があります。
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車道と歩道の境のフェンスにも蒸気機関車のデザイン。
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橋のたもとに公衆便所。
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肉の万世。大きな食堂ビルです。
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提灯が賑やかな入口。
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以下万世橋の上からの風景です。
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旧万世橋駅の高架ホームを利用した商業施設、マーチェキュート神田万世橋。
川は神田川。 -
上手の昌平橋と総武線の鉄橋。
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昌平橋。
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下手方面。
橋は山手線の鉄道橋。 -
旧万世橋駅の遺構を利用した商業施設、マーチェキュート神田万世橋の入り口。
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旧万世橋駅。
八王子~お茶の水間を営業していた甲武鉄道(今の中央線)が都心への延伸を計画、万世橋駅を作る。1912(明治45)開業、その時甲武鉄道は国有化されていた。中央線の始発駅として付近は大いに賑わう。設計は辰野金吾。
その後1918(大正8)、東京駅が出来中央線の起点となり万世橋駅は通過駅となってしまう。また近くに神田駅、秋葉原駅が出来る。大正12年の関東大震災で駅舎焼失。総武線の路線変更。市電の路線変更等々で万世橋駅の乗降客は減少の一途をたどることになる。 -
遂に昭和18年駅は廃止(休止)となる。駅舎跡は鉄道博物館(のちの交通博物館)として利用。
その交通博物館も2007年さいたま市に移転。
2013年、JR東日本は遺構を整備し、商業施設マーチェキュート神田万世橋をオープン。 -
旧万世橋駅入口。
1935階段:1935(昭和10)年、鉄道博物館(のち交通博物館)建設時の駅の階段。
2013プラットホーム:2013(平成25)年、駅のホームを展望デッキとして整備。 -
1935階段。
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同。
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1階の商業施設が見下ろせます。
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ホームの駅名。
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元のホーム。
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展望デッキになっていてカフェも有ります。
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中央線の線路。
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1912階段。
1912(明治45)年駅開業時の階段。 -
1912階段。
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1912階段入口。
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この橋は今のアーチ橋の前のものですね。
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関東大震災で焼失する前の万世橋駅。ウィキより。
東京駅と同じく辰野金吾氏の設計。赤レンガ造りの2階建て。
一等、二等、三等及び婦人専用待合室、三つの食堂、会議室などの設備があったという。
駅前には日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の像が建っていた。 -
日が低くなってきました。
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御茶ノ水駅に戻ります。
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神田郵便局前と外堀通り。
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昌平橋と総武線の鉄橋。
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鉄橋と外堀通り。
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昌平橋の上から万世橋方面と神田川。
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昌平橋。
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昌平橋。
当初架橋は寛永年間(1620~1644)に遡る。始めは相生橋と呼ばれた。
元禄4年(1691)湯島聖堂建設時に昌平橋と改名。
今の橋は昭和3年のもの。 -
江戸古地図。安政3(1866)年。
昌平橋の上に筋違橋があります。今の万世橋です。 -
今の地図。平成15年。
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昌平橋から聖橋が見えました。
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聖橋。
ズーム。 -
神田郵便局前の交差点。
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中央線の高架沿いに御茶ノ水駅の方へ。
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淡路坂。
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ソラシティ。
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今日の出発点御茶ノ水駅に戻ってきました。
文教の香りに触れる街歩き、結構暑かったですが水分をこまめに補給し、喫茶店で休憩したり2回も食事したりして特に足の故障もなく終えることが出来ました。
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