2018/09/28 - 2018/09/28
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ベームさん
9月28日、(金)。
9月に入って連日の曇天か雨、たまに晴れると30度近くになる。なかなか散歩日和にならないとぼやきながら膝を抱えていると、今日の予報は晴、最高気温26度。半年ぶりに東京を歩くことにしました。
今日はお茶の水から各種大学、病院、古書店が集まり文教の香りが漂う神田駿河台、神田神保町、小川町辺りをさまよいます。
江戸時代には旗本、大名などの武家屋敷が櫛比していた地域で、明治に入りそれらが没落し売りに出された所に、法体制を整備する政府の施策に応じ法律学校が進出してきたのが今の大学ほか各種学校、書店が集まっている大きな理由のようです。
近くに幕府唯一の学問所、昌平黌があったことも影響したでしょう。近代教育発祥の地でしたから。
写真は聖橋の上から神田川の谷の眺め。地下鉄丸ノ内線が地上に顔を出し右には中央線と総武線。
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本日の全体地図です。
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その1の地図です。
地図右上の御茶ノ水駅から赤い矢印のように歩きました。 -
今日のスタートはJR御茶ノ水駅。9時50分ころ。
ホームを見上げても横書きの駅名表示板がない。いつものように脛に痙攣防止用のサポーターを巻き、同じく薬を飲みペットボトルのお茶をポケットにねじ込み出発です。 -
駅の階段から聖橋が見えます。駅舎を押しつぶしているように見えます。
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聖橋。
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聖橋口に出ました。
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聖橋口駅前。
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まず聖橋(ひじりばし)を渡ってみます。通りは本郷通り。
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駅は大規模な工事中です。なにしろ神田川の南岸にへばりついている駅なのでホームの拡張もままならず。
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向うの橋はお茶の水橋。
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聖橋の向うに湯島聖堂が見えます。
橋の手前が千代田区、向こうに渡ると文京区。 -
橋を渡った所に「近代教育発祥の地」の標識が立っていました。
江戸時代、今湯島聖堂と東京医科歯科大学のあるここ一帯は幕府の学問所「昌平坂学問所(昌平黌)」があった所です。 -
東京医科歯科大学。
国立大学です。あの理事長ほか幹部が文科省高級官僚との間に贈収賄事件を起こし、入試に女性差別を行っていた私立の東京医科大学とは違います。 -
振り返るとニコライ堂(東京復活大聖堂)のドームがかろうじて覗いています。
昔は聖橋の上から左に湯島聖堂、右にニコライ堂がよく見えたのでしょう。聖橋の名も二つの聖廟を望む所から付けられました。 -
橋の下を通る外堀通りに降ります。
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石段。
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聖橋のかかる本郷通りを潜る隧道。
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優美な姿の聖橋。
ある詩人が”まるでバレリーナの爪先立った脚を思い出させる”と感嘆しています。ちょっと脚を広げ過ぎでは。私には相撲取りが四股を踏んでいるように見えます。
詩人と凡人の想像力、感性の相違です。 -
関東大震災の復興橋の一つとして1927(昭和2)年完成。
長さ92m。外堀通り、神田川、お茶の水駅を跨いでいます。湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖廟を繋ぐ所から”聖橋”と命名されました。
近くの御茶ノ水橋、昌平橋、万世橋と共に東京の著名橋に指定され、神田川の名物となっています。 -
湯島聖堂の塀に沿って下る坂道を相生坂/昌平坂といいます。
昌平の名は孔子の生地中国の昌平郷から来ています。 -
塀は練塀と呼ばれるものです。
練塀:平瓦と練り土を交互に積み重ねて築いた塀。上を瓦で葺く。 -
下り坂に合わせ塀も段々に造られています。
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坂下から。
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練塀。
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別の時間帯の写真。
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練塀の終わる所が湯島聖堂の入り口。
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ここは国有地なので説明も文部省です。
1632(寛永9)年、尾張藩主徳川義直、林羅山に命じ上野忍ケ丘に先聖殿を造営させる。
1690(元禄3)年、将軍綱吉今の地に移し湯島聖堂創設。
1797(寛政9)年、幕府この地に昌平坂学問所(昌平黌)設立。幕末まで続く。
1871(明治4)年、師範学校、女子師範学校、国立博物館などが置かれ、近代教育発祥の地となる。
1923(大正12)年、関東大震災により入徳門、水屋を除き全焼。
1935(昭和10)年、鉄筋コンクリートにより原型に再建。 -
堂宇配置図。
右下が入り口仰高門、その上が斯文会館、左上が孔子廟である大成殿。 -
説明板です。
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どうかお読みください。
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斯文(しぶん)会館。
聖堂の全般的管理のほか一流講師による生涯学習講座を行っています。中国古典文学を中心に、論語、孟子、孫子、老子、史記の講読、漢詩の作法、講読など。 -
仰高門。
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史蹟湯島聖堂。
史跡名勝天然記念物に指定されています。 -
仰高(ぎょうこう)門。
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仰高門から。
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練塀の内側。
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右手奥に孔子像が立っています。
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昭和50年、台湾の台北ライオンズクラブから寄贈されました。
世界最大の孔子像だそうです。高さ4.5m。
私の記憶ではミュンヘンの英国庭園に大きな孔子像があったように思いますが。 -
孔子像の手前にすっきりと剪定された姿のよい樹があります。
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楷樹(かいじゅ)です。
説明によると:中国、曲阜(きょくふ)の孔子の墓所に植えられている名木で、大正4年林学博士白沢保美氏がその種を持ち帰り育てたものです。枝葉が整然としていて、書道で言う楷書の語源と云われます。
由緒ある樹なんですね。 -
練塀。
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さして広くはありませんが案内標識がありました。
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入徳(じゅとく)門。
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入徳門。
大震災にも焼け残った1704(宝永元年)建築のままです。
奥に大成殿。 -
水屋。
入徳門を入ると右にあります。 -
これも関東大震災を免れています。
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大成殿に続く石段。
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杏壇(きょうだん)門。
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全て合格祈願の絵馬です。
近くにある湯島天神とともに湯島は受験生の聖地ですね。 -
天水槽。
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杏壇門から入徳門を見下ろす。
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杏壇門をくぐると大成殿。
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大成殿/孔子廟。
孔子ほか儒教の聖賢が祀られています。 -
左杏壇門、石段を降りて右に入徳門。
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歌川広重の「名所江戸百景」に描かれた
「昌平橋、聖堂、神田川」。
右下の昌平橋から見た神田川と右上に湯島聖堂。
昌平坂と段々になった聖堂の塀。
この川と崖の景色を小赤壁、茗溪と呼んだ。 -
明治40年頃の湯島聖堂。
山本松谷:新選東京名所図会より。
大聖殿(大成殿)、杏壇門、水屋、入徳門、仰高門などすべて描かれています。手前に段々になった塀もありますが、今の練塀でなく石組のように見えます。下に神田川の景勝。 -
湯島聖堂を後に聖橋を御茶ノ水駅のほうに戻ります。
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聖橋から。
江戸時代初期までは駿河台と湯島台は一つの台地で神田山と呼ばれていた。それを徳川家康が大きな谷を開削し、神田川を通したのがこれです。人力でこれだけの大きな工事を成し遂げたとは驚きです。工事は主に伊達正宗の仙台藩が受け持ち、仙台藩の財政上の負担は莫大なものだったそうです。諸大名にいろいろ普請を命じ藩の財政、体力を減じせしめるのは徳川幕府の常とう手段でした。よってこの峪を仙台堀ともいいます。工事が完成したとき、もちろん家康は亡くなっていました。
掘削した土は今の皇居前から築地、日本橋にかけての湿地の埋め立てに使われます。今でこそ銀座だ、日本橋だ、地価日本一だと威張っていますが、もとをただせばここの土で出来たもので、駿河台の方には脚を向けて寝られないはずです。 -
昔昌平黌の学者が「小赤壁」、「茗渓(めいけい)」と称した景観はない。先の終戦後は獅子文六の「自由学校」に描かれているように、川の北岸(写真左側)には戦災で家を失った人たちの掘立小屋が並び、川には糞尿が流れ悪臭を放っていたという。
昔はうなぎのいけすがあったほど綺麗だったそうです。今はかなり綺麗になっているのでしょう。 -
地下鉄丸ノ内線の電車が通っています。
北岸(左岸)は日当たりがよく谷が風を遮り自然の温室のようで、冬でも他より暖かい。春の訪れが早い。戦後しばらくまではセリ、ノビル、クコ、フキなど野草が一杯生育していたそうです。 -
中央線の電車がが来ました。
中央線と総武線、それに地下鉄丸ノ内線の電車が同時に来るのが一番のシャッターチャンスだそうです。 -
ズームすると総武線の鉄橋です。
終戦後まで野草も生えていた岸辺、今は川にこぼれ落ちそうに建物がひしめいています。 -
御茶ノ水駅から神田川の右岸沿いに万世橋の方に下る坂です。神田川を挟み昌平坂と相対しています。
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淡路坂。
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淡路坂から見た湯島聖堂。
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聖橋南詰めの御茶ノ水駅臨時改札口の脇の椋(むく)の古木に札が架かっています。一口神社(いもあらい)の跡です。
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昔太田道灌の娘が疱瘡にかかった時、道灌が京都の一口神社に願を掛けたら病は治癒した。これに感謝し、道灌は旧江戸城内に一口神社を勧請した。
家康の江戸城改築に伴い神社はここ神田川の川べりに遷座する。明治5年社名を太田姫稲荷神社と改称。昭和6年総武線御茶ノ水駅拡張により現在の地駿河台道灌通りに移る。後で訪ねます。 -
聖橋南詰め。
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ニコライ堂方面。
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附近地図。上が南、下が北。
神田川から南にかけて、地図では神田川の上方一帯は千代田区神田駿河台です。
明治大学、日本大学、駿台予備校、ニチイ学館、アテネ・フランセなど大学・各種学校・予備校などの文教施設、日大病院、杏雲堂病院、三楽病院などの大病院が集まっています。江戸時代は武家屋敷が並んでいましたが明治になり多くが空家になり、その後に文明開化の波に乗りそういう施設が集まってきました。
駿河台の名の由来は、家康が亡くなった後家康についていた駿河勤めの家臣たちがこの地を与えられて住みついたところから来ているそうです。 -
聖橋の南詰めに聳えるソラシティ。
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ソラシティ。
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そのテラスからニコライ堂の東側がよく見えます。
右の茶色の建物は井上眼科。のちほど訪ねます。 -
ニコライ堂。
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ソラシティの淡路坂がわの植え込みに太田蜀山人終焉の地の説明板が有ります。
左が太田蜀山人。右のは岩崎彌之助。 -
太田蜀山人:江戸は牛込生まれの幕臣、狂歌師、戯作者。1749~1823年。
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聖橋口にもどり駅を背に右、茗溪通りを行きます。茗溪とは神田川の峪の別名です。
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茗溪通り。
御茶ノ水駅の聖橋口から御茶ノ水口までの間の通り。 -
御茶ノ水駅、もう一つの御茶ノ水口。
こちらが玄関口です。明大通りに面しており学生の乗降とJR・地下鉄丸ノ内線との乗り換え客が多い。一番多いのが学生だそうです。駅の忘れ物と言えば傘が何処でも筆頭ですが、御茶ノ水駅では書籍・文具類がダントツに多いそうです。 -
御茶ノ水口前。
建物は東京医科歯科大学。 -
橋の袂の交番。
風景の一つとして写真を撮りたいが、黙って撮ると最近の交番襲撃事件に鑑み挙動不審で手が後ろに回るかもしれない。
一応お巡りさんに伺いを立てる。私「写真を撮りたいのですが」 巡「何にするんだ?」 私「町の写真を撮ってブログに載せます」 巡「それならいいだろう」 -
お茶の水橋。
初代は1891(明治24)年。関東大震災で焼失。1931(昭和6)年再架橋。橋桁と橋脚を一体構造としたラーメン橋、だそうです。80m。 -
橋の上から
神田川:三鷹の井之頭池を水源とし、途中善福寺川、妙正寺川を合せ柳橋で隅田川に注ぐ全長24.6キロの川。
以前は上流から神田上水、江戸川、神田川と区別されていたがいまは神田川で統一されている。 -
神田川。
終戦後も水道橋からお茶の水橋、万世橋、浅草橋、柳橋を潜って隅田川まで川船が往来したそうですが今はどうなんでしょう。 -
橋を渡った所。外堀通りです。
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御茶ノ水口の交番から先はかえで通りとなります。
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かえで通りの入り口にあるお茶の水記念碑。
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この付近に高林寺という寺があり、二代将軍徳川秀忠が立ち寄った際寺内の湧水でお茶をたて献上すると、大変美味であるとお褒めの言葉を頂いた。その後この湧水は将軍家のお茶用に使われた。それがこの地一帯をお茶の水と呼ぶようになった由来だそうです。
この清水は度重なる洪水で水没してしまいました。 -
かえで通り。
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生体実験を連想させる怖い名前です。
東京医科歯科大学のキャンパスは神田川のこちら側にも広がっています。 -
左上の現在地あたりにかって婦人の友社の寮があり、空襲で焼け出された獅子文六が一時住んでいたそうです。
「自由学校」はその時目にした神田川の様をヒントに書かれた。 -
ビルの袖看板にスズキメソード音楽教室、社団法人才能教育研究会東京事務所とあります。
ヴァイオリニスト鈴木鎮一が1946(昭和21)年に始めた子供を対象とした音楽教室です。音楽教育を通じて子供の心を豊かにするのが目的です。
鈴木鎮一に師事、または教室を卒業した著名な(私が名前を知っている)音楽家に江藤俊哉、諏訪根自子、豊田耕児、小林武夫、葉加瀬太郎などがいます。
今年のモントリオール国際音楽祭のヴァイオリン部門で18歳の辻彩奈さんが優勝しましたが、彼女も子供の頃スズキメソードで学んだそうです。月一度そのために岐阜から上京したというから偉い。 -
池坊東京会館。
日本相撲協会評議会議長に池坊なんとかといういけ好かないおばちゃんがいましたな。 -
聞いたことのない名前ですが一応写真に撮ってきました。調べてみるとなかなかの人物でした。
石川武美(いしかわたけよし):1887~1961年。婦人雑誌「主婦の友」創刊者。1917(大正6)年、「主婦の友」創刊。先発の「婦人画報」、「婦人公論」などを抜いて婦人雑誌のトップになる。昭和22年私立図書館「お茶の水図書館」設立、のち現図書館名に変更。女性雑誌と古典籍、古文書の専門図書館。
東京出版販売(現トーハン)、日本出版会会長歴任。 -
かえで通りととちのき通りの出会う所、この先はさいかち坂で水道橋まで続きます。
この辺りに明治16年、16歳の夏目漱石が東京大学予備門(後の一高)受験の英語を学ぶため入学した成立学舎があったようですが跡は分かりませんでした。
成立学舎はいまの予備校のようなもので、当時はその他に英語を教える有力な予備校として、本所の尺振八(せきしんぱち)の共立学舎、本郷の進文学舎があった。
成立学舎には新渡戸稲造、黒岩涙香、戸川秋骨、井上準之助も学んでいます。
後年大作家となっていた漱石が新渡戸に会ったとき、新渡戸が「初めまして」と挨拶すると漱石は、「いえ、私はあなたを知っていました。成立学舎で机を並べていました」と言うと新渡戸は「そんなことがありましたか」と答えたそうです。漱石の「私の経過した学生時代」に漱石自身が述べているので本当でしょう。 -
とちのき通りに入るとアテネ・フランセがあります。
1913(大正2)年創立の外国語専門学校。アンスティチュエ・フランセ(日仏学院)と並んで日本におけるフランス語教育の双璧。古典ギリシャ語、ラテン語科もあるそうです。
ピンク色で人目を引く建物は日本の代表的建築家吉坂隆生の設計です。成立学舎があった辺りです。 -
ニチイ学館。
介護業界最大手。 -
その先に元文化学院のアーチ形の門。。
和歌山県新宮出身の資産家、建築家の西村伊作が与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らの協力のもと1921(大正10)年設立した学校。 -
個性尊重、男女平等の自由主義的教育を目指した。日本で初めて男女共学を実現。
先の大戦時には教育方針が軍国主義の国是に合わないとして西村伊作は投獄されている。西村伊作の父の弟が大逆罪で刑死した大石誠之助です。大石は最近新宮市から名誉市民に推されたというニュースがありました。 -
教師陣は当時日本を代表する文化人、芸術家、学者を網羅していた。
例えば与謝野夫妻ほか山田耕作、有島生馬、高浜虚子、菊池寛、佐藤春夫、戸川秋骨、北原白秋、萩原朔太郎、芥川龍之介、三木清等々錚々たる顔ぶれです。 -
平成26年両国に移転、建物は今は日本BS放送が使用している。
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ここでかっては日本に類を見ない自由闊達な教育が行われていた。今は文化学院の看板と創立の地のプレートのみ残っている。
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少し戻って猿楽通りに降りる男坂。
この辺りは明治大学猿楽町キャンパスがあります。 -
男坂。少し手前に女坂もあります。
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男坂。
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猿楽通りに降りてきました。
1907(明治40)年、この地に東洋音楽学校(今の東京音楽大学)が設立されました。私立の音楽大学としては日本最古です。 -
東京音大発祥の地。卒業生は多士済済です。
春日八郎、菅原都々子、三浦洸一、仲宗根美樹、奈良光枝、藤原釜足、池田理代子、黒柳徹子、霧島昇、淡谷のり子、松下奈緒、米山正夫、石橋エータロー等々。
愉しい顔ぶれでクラシック畑が殆ど見当たりません。官立の東京芸大との違いですか。 -
在日本韓国YMCAアジア青少年センター。
猿楽通り。 -
さらに下ると錦華通り。
神田猿楽町々会詰所。猿楽の地名はかって猿楽師観世太夫がこの辺りに住んでいたことに由来するそうです。 -
千代田区指定の景観上重要物件だそうです。
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カトリック神田教会。
錦華通り。 -
正式には聖フランシス・ザヴィエルカトリック教会。
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1872(明治5)年の神学校が発端。1874(明治7)年現在地に移転。
バシリカ式の聖堂は1928(昭和2)年の建築で、国の登録有形文化財に指定されています。 -
聖母マリアと幼子像。
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向かいにある神田女学園中学・高等学校。
もとは1890(明治23)創立の神田高等女学校。
のちの岩波書店創立者岩波茂雄が大学を出て4年間、ここで英語と国語の教師をしていた事がありました。女学校に出入りしていた古本屋の手引きで岩波は学校をやめ、今の神田神保町の岩波書店のある場所で古書店を開くことになる。
大正2年、岩波33歳。 -
住宅地図のゼンリン東京事務所。
錦華通り。 -
東京商科・法科学院専門学校。
錦華通り。 -
猿楽通りに戻りました。
明治大学米沢嘉博記念図書館。 -
猿楽通り。
明治17年、大学予備門(第一高等学校の前身)に入学した夏目漱石は同級の橋本左五郎、中村是公(後の満鉄総裁)らと共に神田猿楽町の末富屋という下宿屋に起居している。明治16年上京した正岡子規も共立学舎に入学したときこの辺りに下宿し、翌年大学予備門に入り夏目漱石と知り合います。
この辺りかどうか、全く痕跡なし。 -
附近の地図。
方角がおかしいですが、右方向に神田川、下に明大通り、左に靖国通り。
神田猿楽町に縁が深いのは二葉亭四迷です。明治14年東京外国語学校(のちの東京外大)露語科に入学。明治18年、東京外国語学校が一ツ橋の東京商業学校(のち一橋大学)と合併したのを嫌い退学する。その頃二葉亭四迷は家族と神田猿楽町に住み一ツ橋まで通っていたそうです。「浮雲」を世に出す前でした。その跡も分かりません。 -
猿楽通り。
豊島屋本店。
慶長元年(1596)神田鎌倉河岸に創業の酒店。白酒の元祖。地酒銘酒「金婚」、「十右衛門」の発売元。 -
豊島屋十右衛門(創業者)がある日何か一儲けのタネはないかと思案しながらうたた寝していると、紙雛が夢枕に現われ白酒の製法を教えていった。十右衛門がその通りに作るとまことに美味,甘味な白酒が出来上がり、たちまち江戸中の評判になった。さらには武家、諸大名、幕府の御用達にもなる。
当時「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」なんて詠われたそうです。 -
向かいに錦華公園があります。
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公園のそばのお茶の水幼稚園。
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隣がお茶の水小学校。
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神田猿楽町1丁目1番地。
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ここが元錦華小学校といい、夏目漱石が6か月間だけですが在学した所です。
立派な記念碑が建っています。
”吾輩は猫である 名前はまだ無い 明治11年 夏目漱石 錦華に学ぶ”
たとえ6か月でものちの文豪が在籍したことは大いに自慢の種です。 -
1878(明治11)年、11歳の漱石は4月に市ヶ谷小学校第八級を終えた後錦華小学校小学尋常科に入り、10月卒業しています。そして神田一ツ橋の府立第一中学校に入学。
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当時東京の有名校で、越境入学希望者が絶えなかったそうです。
卒業生に:永井龍男(作家)、波多野完治(心理学者)、井口基成(ピアニスト)、高橋義孝(ドイツ文学者)、福田恒存(劇作家)、赤木蘭子(女優)、石川忠雄(慶應義塾塾長)、杉下茂(野球選手)等々。
俳人水原秋櫻子は猿楽町の生まれで、父が当地で産科を開業し、同時に錦華小学校の校医をしていたそうです。産科の医者が校医とは面白い組み合わせです。 -
錦華公園の裏の錦華坂を上っていくと日本雑誌会館。
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錦華坂を登りつめた所に山の上ホテルがあります。
建物は昭和11年の建築、ホテル開業は昭和29年。戦後進駐軍に接収され宿舎として使われ、Hilltopと呼ばれていた。ホテル開業に当たりそれを山の上と訳してホテル名としたのでしょう。今でもHilltop Hotelと併記されています。 -
ホテルの雰囲気とサービスが好まれて作家などがよく利用した。
一方付近に出版社などが多いせいか、このホテルは原稿の締め切りに間に合わなそうな作家を出版社が缶詰にするのによく使われた。よく缶詰にされたのは池波正太郎、三島由紀夫、川端康成など。池波正太郎は”山の上ホテルへ三日間こもって・・・”などと書いている。
作家高橋三千綱は作家志望時代ここのホテルマンをしていたことがあるそうです。 -
坂を下るとお茶の水橋から続く明大通りに出ました。
明治大学リバティータワー。駿河台キャンパスの中心。明治大学創立120周年記念として1998年竣工。地上23階、120m。 -
リバティー・タワー。
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威風あたりを払っています。
私学は金を持っていますね。明治大学は受験生がとても多いそうで、受験料、入学金がじゃぶじゃぶ入ってくるのでしょう。国の私学助成金なんて支給しなくてもよいのでは。とにかく私学のキャンパスの豪華な事。 -
一寸中を覗いてみました。
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同。
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向かいに日本大学。
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アメフト問題で日大は評判を落とした。あの理事長のもとでは人気回復不可能。やたらと付属の高校を作って学問よりも野球をやらせてブランド名を高め受験生を集めてお金を稼いでいる。そのせいで体育会系の理事、教師、学生が学校を牛耳っているようです。
プロ野球場で”スポーツの日本大学”なんて広告をしています。本来大学は学問の府ではなかったか。 -
明大通り。お茶の水駅方面。
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駿河台下方面。
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はなまるうどんの店がありました。ここで昼にしました。学生、サラリーマン風の客で賑わっていました。
その後神保町に向かいます。
その2に続く。
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