2018/09/28 - 2018/09/28
112位(同エリア835件中)
ベームさん
その1からの続き。
神保町の神田古書店街を巡ります。古書店が駿河台下から専大前にかけての靖国通り南側に特に集中しており世界的にも有名です。勿論新刊書を取り扱う書店、出版社もありますが、やはりここを特色づけるのは各専門分野に特化した古書店でしょう。店頭だけでなく通信販売、インターネットによる販売も行われています。ただ出来れば店頭で古本の匂いをかぎながら好みの本を漁るのが醍醐味だと思います。
ここに本の一大センターが出来たのはお茶の水、駿河台、神田界隈に明治に入り法律学校を前身とした大学、各種学校、予備校が集まって来て文教の街となったからです。
関東大震災でこの辺り悉く焼け、膨大な書籍が灰になったことでしょうが不死鳥のようによみがえりました。
写真は三省堂書店。古書店ではないですが神保町のランドマーク的存在です。
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その2の地図です。
上の方、靖国通り、神保町界隈が古書店街。下の方、一ツ橋辺りが旧護持院が原。 -
明大通りと富士見坂の角にあるはなまるうどんの店で昼にしました。
うどんにかき揚げを一つのっけて570円。こしのある太めのうどんが美味しかったです。 -
駿河台下に出る手前に一軒古書店がありました。
文庫川村。 -
文庫本専門のようです。
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明大通りと靖国通りの交差する駿河台下に出ました。
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駿河台下交差点。
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靖国通り。神保町方面。
ここから西に専大前までの靖国通り南側に古書店を主に新刊店、出版社が集中し、いわゆる神田古書店街を形成しています。
江戸時代、この辺りに神保なる姓の旗本の屋敷があったことが今の町名の由来だそうです。 -
靖国通り。駿河台下方面。
この古書店街は先の大戦の被害を受けていません。米軍が古書店街の価値を認めて爆弾を投下しなかった、という説もあります。となると京都並みですね。 -
附近地図。上が南、下が北。
どうして街角の附近地図は東西南北に拘泥しないのでしょう。常識では北は上、南は下です。この地図で南北を理解するには逆立ちしないといけません。
もっとも解らないこともないです。この場所で地図を見ている人は南向きに立っているので、地図も南が上になっているのです。 -
まず北側をちょっと。
靖国通りの北側はグリューネアレーと命名されています。 -
路地を入った所にパチンコ店人生劇場。
神田は戦後パチンコブームの震源地で、人生劇場はその草分けだそうです。
景品に書籍とか辞書を置いていました。今はどうか分かりませんが。店名は尾崎士郎の小説「人生劇場」を無断借用したようです。 -
クロサワビル。
明治30年松山で柳原極堂が創刊した俳誌を明治31年高浜虚子が引き継ぎ、この場所で俳句雑誌「ホトトギス」として再出発させた。 -
靖国通りの北側は古書店は少ないですが、これは浮世絵など古典版画の店です。
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東洲斎。
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南側に移ります。
目の前に聳えるのが本のデパートと云われる三省堂書店です。
明治14年創業者が古書店開業、明治16年新刊書店に転換。紀伊國屋書店、丸善と並び日本最大の書籍チェーン。
コンサイスの英和、国語辞典にお世話にならなかった学生は少ないのでは。 -
神保町店は地域最大、神保町のランドマーク的存在です。
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書店は靖国通りの南側に集中しています。本を店頭に並べるので直射日光を避けるのに北向き/通りの南側が都合が良いようです。。
主な(なにをもって主なのかは分かりません)書店の写真を駿河台下から専大前方向に沿って並べます。
東陽堂書店:仏教書。 -
八木書店:古典国文学。
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その店頭。
五山文学新集8冊揃え、アジア歴史事典本巻10冊揃え。 -
小宮山書店:美術、ファッション、三島由紀夫関係。
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書泉グランデ。
新刊書の大型店。6階ワンフロア全部が鉄道関係の本とグッズで、鉄道フアンの聖地だそうです。 -
巌松堂。
心理学者波多野完治の生家。今は営業していません。 -
ビルには澤口書店と云うのが入っています。全集、文庫、和本。
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明治・大正・昭和 希少本100円。
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大菩薩峠 20冊 3000円。
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一誠堂書店:国史、国文、古典籍など文化系古書。
明治39年創業の神田古書店街きっての老舗で、ここで修業し独立して開業した古書店も何軒かあるそうです。古書界の巨人、反町茂雄も東大法学部を出て5年ほどここに丁稚奉公していました。「一古書肆(こしょし)の思い出」という著作があります。東大卒の古本屋の小僧なんて当時も今も考えられないことです。 -
岩波書店刊近松全集 20冊 10000円。
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坂口安吾評論全集 7冊 3000円。
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映画雑誌「近代映画」なんて懐かしい。
右から水戸光子、小暮美千代、若山セツ子、下は高峰秀子。 -
大雲堂書店:古書全般、文学、芸術、歴史。
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完訳三国志 全8冊 3000円。
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地下鉄都営新宿線、都営三田線、半蔵門線の神保町駅。
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神保町の交差点に来ました。古書店街のほぼ中央です。
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交差点の角にある神保町ブックセンターwith Iwanami Books。
岩波ブックセンターの跡に今年4月オープン。書店、カフェ、イベントスペースを持つ。書籍は岩波書店が刊行した物のみ。
1913(大正2)年、岩波茂雄が古書店を開業した所です。開店資金の一部を岩波は夏目漱石から借りました。出版業も始め、大正3年漱石の「こころ」、漱石没後の「夏目漱石全集」の大ヒットでその後の隆盛の基礎を築く。
学術書、岩波文庫、岩波新書、言論誌「世界」など刊行、大衆路線の講談社と対比されます。 -
古書センター。
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ユニークな書店が入っています。
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高山本店:能楽、邦楽、美術書。
創業明治8年、神保町きっての老舗です。
本店とは本店・支店のことではなく、本・本屋のことだそうです。 -
大和古寺大観 全7冊 3万円。
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能面が有ります。
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夢野書店:漫画専門。
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同。
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南海堂書店:歴史、社会学、哲学。
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矢口書店:映画、演劇。
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古賀書店:音楽。
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Vintage:映画、演劇、スポーツ。
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北沢書店:人文科学系洋書。
大きなビルです。明治35年創業。 -
店頭。
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北沢書店。
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路地にも特価おもしろ本コーナー。
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図書館の棚を見ている様。圧迫感がなくてよろしい。
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小川図書:洋書。
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山本書店:中国の古典。
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専大前交差点に来ました。
古書店街のほぼはずれです。 -
神保町交差点方面。
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専大前で靖国通りから左に雉子橋通りに。
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古そうなうなぎ屋です。
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靖国通りに並行している裏通り、さくら通りに入りました。
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さくら通りを駿河台下方面へ戻っていきます。。
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古い建物、日本タイ協会。
移転しましたとの貼紙がしてありました。 -
山形屋紙店。
さくら通り。 -
創業明治12年、ホームページによると宮内庁御用達だそうです。
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有斐閣。
学生時代、小六法だったかポケット六法だったか、お世話になりました。 -
有斐閣。
調べてみると神保町界隈ににある大きな出版社は以下のようです。
小学館、集英社、岩波書店、帝国書院、冨山房、白水社、有斐閣。 -
さくら通りが白山通りに突き当たる所。
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その南西角に救世軍本営(救世軍の日本本部)があります。
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救世軍/The Salvation Army。
1865年にイギリスの一牧師により始まった。世界中でキリスト教の伝道、社会福祉・教育活動を展開するプロテスタントの宗教団体。
日本では明治28年、山室軍平により始められたそうです。 -
ゴスペルハウス。
年末に行われる募金活動、社会鍋が有名ですね。
今西日本、北海道の災害義捐金を募っていました。 -
さくら通りから白山通を渡り、駿河台下まではすずらん通りとなります。
本当はここから白山通りを南に下り護持院が原の有った所に行き、また戻ってきたのですが、編修の都合上先に神田古書店街を済ませます。 -
神田すずらん通り。
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すずらん通り。
アートショップ信画堂。 -
ミロのヴィーナスがウインドウの中に立っています。
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すずらん通り。
さくら通りより人が多い。 -
キッチン南海。
昼食時です。人気の店のようでサラリーマンの行列が出来ていました。
後日記:今日のニュースでこの店が60年の歴史を持ち、黒いカレーライスで有名なこと、今日でもって閉店することを知りました。2020年7月8日。 -
和菓子の店。
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商品、銭形平次饅頭でしょうか。
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この通りにも古書店が何軒かあります。
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風月洞書店:陶器・工芸書。
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すずらん通り。
さくら通りより人通りが多く、結構賑わっていました。突き当りは駿河台下。 -
東京堂書店。
創業明治23年の老舗。 -
大手から地方の小出版社の本が揃っています。
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独自のベストセラーランキング。
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店内のカフェでは読書好きの人がコーヒーを飲んだり食事しながらゆったりと本を読んでいます。
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小学館ギャラリー。
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神田すずらん通りのアーチ。
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駿河台下の靖国通りに出ました。
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XEBIO,石井スポーツ、ヴィクトリアなど大型スポーツ店が並んでいます。
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では旧護持院が原の方へ。
神保町交差点から白山通りを南へ。
右手に集英社ビル。1926(大正15年)年、小学館の娯楽雑誌部門として発足、その後独立。週刊少年ジャンプ、マーガレット、プレイボーイなど少年少女向けコミック雑誌、アダルト雑誌が主力。 -
並んで小学館。
1922(大正11)年、小学生向けの教育図書出版を目的に設立。「小学1年生」から「小学6年生」まで学年別の教育書を発行していたが、児童数の減少などから今は「小学1年生」のみという。少年サンデー、女性セブン、週刊ポストなど娯楽雑誌が主になっている。辞典で日本国語大辞典、大辞泉。
小学校低学年時代、お小遣いを貰っては毎月小学○年生を買い、その付録が楽しみでした。正月号はたしか第1、第2、第3付録まであったように記憶する。 -
附近地図。上が西、下が東。私は今西向きに立っています。
ここら辺一帯は江戸初期までは沼地だったのが家康の関東入府のあと埋め立てられた。これに目を付けたのが日本のラスプーチンといわれる真義真言宗の僧隆光。5代将軍綱吉とその生母桂昌院の寵をよいことに江戸城の鬼門に当たるこの広大な土地を貰い受け護持院を建てた。
すなはち護持院とは今の神田錦町、一ツ橋一帯を占めていた真言宗の大寺院です。ところが1717年の大火で寺は焼失、大塚に移転し、その跡は広大な火除け地となり護持院が原と呼ばれるようになった。
これを近世有名にしたのが、この原で1846年に実際にあった敵討ちをもとに大正2年森鴎外が書いた歴史小説「護持院原の敵討」です。江戸詰めの姫路藩士が金目当てで押し入った下郎に殺される。娘と叔父と下男が2年近くの艱難辛苦の末、下手人を両国の花火の人ごみの中に見つけ、あとを追い護持院が原まで来た時に本懐を遂げる。
僧隆光は世継ぎが生まれない綱吉に「生類憐みの令」を勧めた張本人と言われますが、真偽のほどは。 -
共立女子大学前。
ここから先、共立女子大学、共立講堂、如水会館、学士会館がある一帯から一ツ橋、神田橋にかけてが昔護持院が原だった所です。
護持院の敷地は5万坪もあったという広大なもので、火除け地となった後は将軍の鷹狩などが行われ、夜は真っ暗、茫々たるもので夜な夜な夜鷹(路上で客を引く遊女)が出没し追いはぎ、辻きりが横行したという、今では想像もつきません。 -
学士会館。
明治19年、東京帝国大学の出身者の同窓会として組織された学士会の本拠。
その後会員の範囲は京都、東北などの旧帝大卒業者にも広がった。 -
学士会館。神田錦町3丁目。
建物は昭和3年の建築で、会議室、ホテル、レストラン、結婚式場などがある。
国の登録有形文化財。 -
学士会館の北西角に日本野球発祥の地のモニュメントが建っています。
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明治5年、この地にあった東大の前身開成学校の外人教師が学生に野球を教え、明治6年にグラウンドが整備され始めて本格的な野球の試合行われた。それを日本の野球が行われた嚆矢としています。
2003年建立、高さ2.4m。 -
そのようなことが碑文に書かれています。
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南西の角には東京大学発祥の地の碑があります。
明治10年(1877年)、この地にあった東京開成学校と本郷にあった東京医学校が合併し東京大学が設立された。当初は法、理、文、医の四学部だった。その後工、農学部が加えられ六つの文科大学をそなえる総合大学となり、明治19年に帝国大学と改称。
明治30年、京都帝国大学設立に伴い東京帝国大学と改称。 -
東京大学設立と同時に大学への予備課程として、東京開成学校の普通科と東京英語学校を併合し年限4年の東京大学予備門が設立されています。
この予備門がのち明治19年第1高等中学、明治27年第1高等学校(旧制1高)、今の東大教養学部と変遷していきます。 -
我が国の大学発祥地。
大学予備門に学んで東大を目指した人物に、坪内逍遥、夏目漱石、尾崎紅葉、正岡子規、南方熊楠、山田美妙、新渡戸稲造、秋山真之などがいました。 -
南側には新島襄先生生誕之地の石碑が建っています。
まさにこの辺りは近代日本の学問が産声を上げた所なのです。若き日の坪内逍遥、二葉亭四迷、夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉などが青雲の志を抱いて学問に励んだところなのです。 -
新島襄:同志社大学の前身同志社英学校の設立者。1843~1890(明治23)年。
この地にあった上州安中藩の江戸屋敷に生まれる。長じてキリスト教文化を学ぶ熱望やみがたく1864年アメリカに密航。アメリカの大学を卒業する。その間日本では明治維新となり正式に留学生と認められる。明治5年岩倉具視の岩倉使節団に合流し通訳を務める。 -
明治8年帰国、「国を興すのは教育と知識である」と京都に同志社英学校を設立。さらに大学設立に奔走するが、志半ばにして病に倒れる。天皇制絶対主義国家体制のもと新島襄の説くキリスト教精神は国体に相いれられず、同志社大学が設立されたのはようやく明治45年だった。
記念の碑の設立者が大学関係者とか自治体でなく、錦町3丁目会、錦華小学校、小川小学校となっているのが面白い。地元が新島襄先生を誇りに思っているのが分かります。 -
学士会館と向かい合って共立女子大学。
1886(明治19)年、女性の自立と自活を目指した共立女子職業学校として設立された。設立には鳩山春子、永井久一郎(永井荷風の父)などが関与した。 -
学校法人共立女子学園となっています。
大学設置は昭和22年。 -
同。
正岡子規の妹正岡律が子規が亡くなった翌年共立女子職業学校に入学し、卒業後は裁縫の教師として勤めていました。 -
隣に共立講堂。
昭和13年建設。昭和32年内部火災により再建。記憶違いでなければ東大の安田講堂、早稲田大学の大隈講堂とともに東京の3大講堂。
千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。 -
共立講堂。
戦後このような設備を持つ大講堂は少なく、音楽関係の公演によく使われた。今は外部への貸し出しは行っていないそうです。 -
共立講堂と共立女子大学。
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共立講堂の先に学術総合センターと云うのが有ります。
旧一ツ橋講堂の跡地に建てられた情報学の研究発信、学術の交流の拠点として2000年建設。 -
その植え込みに、東京外国語学校発祥の地の碑がありました。
東京外国語大学の起源は安政元年(1857)の蕃書調所にまで遡りますが、直接の前身は1873(明治6)年に開設された東京外国語学校です。
明治15年露語科に入学した二葉亭四迷は東京外国語学校が東京商業学校(のち東京商大、今の一橋大学)に合併されるのに反発し明治19年に中退しています。 -
その先に如水会館。
開成学校の前身大学南校が在った所で、いま国立にある一橋大学発祥の地です。 -
如水会館。
一橋大学の同窓会如水会の本拠。
レストラン、結婚式場などがあり、一般に開放されています。 -
同。
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一ツ橋河岸方面です。高架は首都高5号線。
これで旧護持院が原探訪を終わり、靖国通り、明大通りに戻りました。 -
こんな大きな燈籠がビルの植え込みに。
その3に続きます。
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この旅行記へのコメント (3)
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- Reinheitsgebotさん 2019/08/23 07:21:49
- 神保町は……
- 定年退職した4年前まで35年以上、ずうっと仕事場でした。なので、その頃は旅ではなくて、すべてが日常空間だったようです。
退職後も用事があって神保町に行くことがありますが、ここにきてようやく“旅”らしき感覚が芽生えたような気がしています。かつての同僚や先輩も似たようなもので、時折町内のそこここを徘徊しているのに出くわします。
すぐ隣接している大手町や日比谷のビジネス街で働いていた人たちは、定年後も足繁く訪れたりするのかなと思いますが、そういう意味で神保町は気のおけない日常空間が混在していた、自分にとってはありがたいエリアです。
- ベームさん からの返信 2019/08/23 13:25:12
- Re: 神保町は……
- Reinheitsgebotさん、
そうですか、神保町にお勤めでしたか。良い所ですね。仕事と違って自由の身であの界隈を彷徨するのは、時には古本屋を冷かしてなんていうのは贅沢な
- ベームさん からの返信 2019/08/23 19:46:47
- Re: 神保町は……
- Reinheitsgebotさん、
そうですか、神保町にお勤めでしたか。良い所ですね。仕事と違って自由の身であの界隈を彷徨するのは、時には古本屋を冷かしてなんていうのは贅沢な愉しみです。私も好きですが、横浜から出かけるには少々時間と出費が嵩みます。
ベーム
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