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18年5月終わりの土曜日、市内の公園のいくつかを回った話の続き。ナショナル・ヒーローズ・パーク(National Heroes Park)の後は、競馬場が今のナショナル・ヒーローズ・パークから移された先へ向かう。危険地域となっているパークの西側は通らず、東側のマレスコー通り(Marescaux Rd)を歩くが、この道もあまりいい雰囲気ではない。ただ、公園の北側に進むと左手に雰囲気のいいキャンパスが見える(写真は撮っていない)。後で調べてみるとミコ大学(Mico University College)のキャンパスだった。1835年創立。教員養成のためにイギリス植民地に設立された4つの大学のうちの一つで現存する唯一のもの。西半球と英語圏で最も古い教員養成機関で、カリブ海で最大の教員養成機関。構内のバクストン・ハウス(Buxton House)、ケルビン・ロッジ(Kelvin Lodge)、コテージ(Cottage)、教会(Chapel)の4つの建物は国家遺産に指定されている。<br />https://www.themico.edu.jm/index<br /><br />大学の少し北から西側に曲がると屋台などが出ている賑やかな交差点がある。この辺りはクロスロード(Cross Roads)と呼ばれる地区。5本の主要道路が交わる交差点を中心に商業施設や公共施設が集中している。ダウンタウンに比べると歴史は浅く1890年以降に開発されたところ。現在のキングストン市域の地理的な中心地で、ダウンタウンとアップタウンの境になり、交通渋滞が始まるところでもある。この辺りの写真も撮ってないが、この地域で有名な施設がカリブ5(Carib 5)と云う映画館。1938年にカリブ劇場(Carib Theatre)としてオープンし、1750席あるジャマイカで最大の建物だった。40年代の後半から映画館として使われていたが、97年に火事でその歴史を閉じた。ただし、外壁は焼け残り、現在はその外壁を残したまま5画面あるマルチプレックスシアターとして復活している。<br /><br />クロスロードの交差点からハーフウェイ・ツリー・ロード(Half Way Tree Road)を1㎞ほど辿り、オックスフォード・ロード(Oxford Road)を右折するとエマンシペーション・パーク(Emancipation Park)に到着。19世紀初め奴隷解放後、仕事を求めてジャマイカ各地からだけでなく、中国、レバノン、シリアなどからも多くの人がキングストンに集まってきた。それに伴い、それまでダウンタウンに住んでいた多くの裕福な商人がこの辺りに居を移した。そして1905年、彼らはヨーロッパの上流階級には必須の競馬場をこの地に移した。ちょうどこの公園がある辺り。この競馬場は53年に現在地のケイマナス・パーク(Caymanas Park)に移転し、この地を街の中心にしようと考えたコングロマリットがその跡地を買い取った。そして、やがてこの公園辺り一帯は上流階級向けの社交クラブの所有となり、彼らはその一部を政府に寄付した。政府は利用方法を検討した結果、ここを公園として整備することとし、2002年7月31日、解放記念日(Emancipation Day)の前日に奴隷解放を記念する公園として開場した。<br /><br />7エーカーの公園内には噴水や野外ステージがあり、手入れされた芝生の周りには多くの花や木が植えられている。また、500mのジョギングコースも整備されている。オックスフォード・ロードとナッツフォード・ブールバード(Knutsford Boulevard)の交差点にあるメイン・エントランスに建つ、ボブ・マーリー(Bob Marley)のリデンプション・ソング(Redemption Song:救いの歌)と云う曲と同名の約3mの男女の銅像は奴隷制の恐怖からの勝利を象徴しており、開場1周年を記念して設置された。銅像の後ろには噴水が広がり、歩道がまっすぐに野外ステージに続いている。このステージではコンサートや展示などのイベントが行われるが、すべて無料で一般公開される。8月1日の解放記念日の前夜には地元ミュージシャンによるコンサートが開催されている。毎日午前5時から午後11時までオープン。18年8月にはフリーWifiが導入された。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.2090585604344786.1073743727.100001801017376&amp;type=1&amp;l=39e5f072ed<br /><br />ついでにせっかくなので、ジャマイカの奴隷解放の歴史をまとめてみる。1494年、コロンブス(Christopher Columbus)ジャマイカ島上陸。1509年からスペインが入植を進める。タイノ族に代表される先住民はスペイン人による拷問、殺害、もたらされた疫病、過酷な奴隷制度により、50年も経ずに絶滅。1517年、アフリカ(主に現ガーナやナイジェリア)から奴隷の強制連行が始まる。<br /><br />1655年イングランドジャマイカ侵攻。スペインの敗北を機に、奴隷の一部が丘陵部に逃げ込み組織化された集団を形成した。ジャマイカのマルーン(Maroon)の始まり。マルーンと云う名は、野生動物の狩人と云う意味のフランス語・スペイン語から来ている。この時期、北中米の各国で、逃亡奴隷により誕生した。ジャマイカではその後、新たにイングランドに連れて来られた奴隷たちが逃げ出してマルーンに加わっていった。彼らの大半は現在のガーナ内陸部のアシャンティ人で、ほとんどが戦争捕虜だったので、ゲリラ戦に長けており、主導権を握るようになった。その中の一人にナショナル・ヒーローの一人のナニーがいる。ナニーはアシャンティ王国での部族抗争の結果、奴隷としてジャマイカに送られた(自由意思で来た、あるいは送り込まれたという説もある)が、5人の兄弟と共に逃亡しマルーンに加わった。彼女はハーブや伝統的な治癒方法の知識も豊富で、軍事的にも精神的にも優秀なリーダとして、各地での反乱を指導した。30年間で1000人以上の奴隷を逃亡させたとも云われる。彼女の死後、1737年から39年に掛けて各マルーン・コミュニティが和平条約を締結。ジャマイカのマルーンは新世界のマルーンの中で最も早く土地と自治を獲得したが、その自治を守るためにプランター(プランテーションの所有者)の無給の軍団、常駐警察隊に転じてしまい、奴隷や自由民の自由を求める試みを鎮圧し続けた。これは、1865年のモラント・ベイの反乱まで続いた。<br /><br />1795年第二次マルーン戦争(Second Maroon War:もしくはタッキーの反乱(Tucky&#39;s Rebellion))勃発。さらにフランス革命(French Revolution:1789~1799)、ハイチ革命(Revolution haitienne:1804)と続き、1807年、英国議会は事態を考慮し、ジャマイカへの奴隷貿易廃止を決定するが、奴隷制廃止には至らず、約32万人の奴隷(白人の10倍)は引き続き隷属を強いられる。<br /><br />1831年、クリスマスの反乱(Christmas Uprisingあるいはバプテスト戦争(Baptist War))が起こる。奴隷のカソリック改宗を進めていたスペイン人と違って、1655年のイングランド植民地化以降、英国国教会は奴隷たちの人間性を認めず、一切の布教を行わなかったのだが、19世紀になって非国教派が攻勢を強め、キリスト教化が進んでいた。ナショナル・ヒーローに認定されたサミュエル・シャープ(Samuel Sharpe)は奴隷であったが、大変頭がよく、またカリスマ性を持ち、バプテスト教会(Baptist Church)のリーダーとして奴隷たちに唯一許されていた宗教活動を利用して多くの教区を周り、勉強を教えたり、キリスト教の布教、自由や平等性を説いていた。12月、彼は奴隷制に対しての非暴力的抗議を予定してたのだが、奴隷たちは暴徒化し、全国で6万人(全体の1/5)の奴隷が加わる大暴動となった。結局はイギリスの傭兵部隊となっていたマルーンに制圧され、2週間で200余名の犠牲を出し、終結した。支配者側の死者は14名。翌年約350名が処刑され、シャープもモンテゴ・ベイ(Montego Bay)で「I would rather die upon yonder gallows than live in slavery:奴隷として生きるよりも、その絞首台の上で死ぬことを選ぶ」と云う言葉を残して処刑された。享年31歳。<br /><br />この事件を重く見た英国議会は、そのわずか2年後の1834年に奴隷制度を廃止した。しかし、実際には6歳未満のものは解放されたが、6歳以上は解放に対するオーナーへの補償として週40時間の無償労働が義務付けられた(徒弟制度(Apprenticeship System))。それからさらに4年後、1838年7月31日を持って、この徒弟制度も廃止され、完全に奴隷制度はなくなった。ジャマイカでは8月1日が解放記念日となっている。<br /><br />さらに本題から外れるがその続き。解放後も植民地議会と結びついたプランターによる搾取は変わらなかった。そして1865年、キングストンの政治家、ジョージ・W・ゴードン(George William Gordon)の思想に基づいたポール・ボーグル(Paul Bogel)により、モラント・ベイの反乱(Morant Bay Rebellion)が起こった。二人ともナショナル・ヒーローに認定されているが、ゴードンは、1818年イギリス人の弁護士と奴隷の母との間に生まれた。優秀な人間で1848年には4つの農園を所有していた。植民地議会の議員に選出され、ラディカルな政治家となり、持たざる者の支援者として植民地総督を激しく攻撃していた。彼はバプテスト派の牧師でもあり、ボーグルに洗礼を授け、執事(助祭)に任命していた。10月、ボーグルは植民地議会に対する示威と同志の鼓舞のため、約200名の手兵を率いてモラント・ベイを行進したが、些細なきっかけから行進は武装反乱にエスカレートした。最終的に439人が殺害され、ボーグルを含む354人が逮捕され、その後処刑された。この時、ボーグルを捕縛したのもマルーンだった。ゴードンはこの事件には全く関与してなかったそうだが、植民地総督に批判的であったため、巻き添えで処刑されたと云われている。この事件がきっかけでジャマイカは植民地総督が召喚されて植民地議会制度は廃止、英国の直轄植民地となった。<br /><br />以上

キングストン エマンシペーション・パーク (Emancipation Park, Kingston)

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2018/05/26 - 2018/05/26

63位(同エリア75件中)

旅行記グループ キングストン パーク

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ちふゆ

ちふゆさん

18年5月終わりの土曜日、市内の公園のいくつかを回った話の続き。ナショナル・ヒーローズ・パーク(National Heroes Park)の後は、競馬場が今のナショナル・ヒーローズ・パークから移された先へ向かう。危険地域となっているパークの西側は通らず、東側のマレスコー通り(Marescaux Rd)を歩くが、この道もあまりいい雰囲気ではない。ただ、公園の北側に進むと左手に雰囲気のいいキャンパスが見える(写真は撮っていない)。後で調べてみるとミコ大学(Mico University College)のキャンパスだった。1835年創立。教員養成のためにイギリス植民地に設立された4つの大学のうちの一つで現存する唯一のもの。西半球と英語圏で最も古い教員養成機関で、カリブ海で最大の教員養成機関。構内のバクストン・ハウス(Buxton House)、ケルビン・ロッジ(Kelvin Lodge)、コテージ(Cottage)、教会(Chapel)の4つの建物は国家遺産に指定されている。
https://www.themico.edu.jm/index

大学の少し北から西側に曲がると屋台などが出ている賑やかな交差点がある。この辺りはクロスロード(Cross Roads)と呼ばれる地区。5本の主要道路が交わる交差点を中心に商業施設や公共施設が集中している。ダウンタウンに比べると歴史は浅く1890年以降に開発されたところ。現在のキングストン市域の地理的な中心地で、ダウンタウンとアップタウンの境になり、交通渋滞が始まるところでもある。この辺りの写真も撮ってないが、この地域で有名な施設がカリブ5(Carib 5)と云う映画館。1938年にカリブ劇場(Carib Theatre)としてオープンし、1750席あるジャマイカで最大の建物だった。40年代の後半から映画館として使われていたが、97年に火事でその歴史を閉じた。ただし、外壁は焼け残り、現在はその外壁を残したまま5画面あるマルチプレックスシアターとして復活している。

クロスロードの交差点からハーフウェイ・ツリー・ロード(Half Way Tree Road)を1㎞ほど辿り、オックスフォード・ロード(Oxford Road)を右折するとエマンシペーション・パーク(Emancipation Park)に到着。19世紀初め奴隷解放後、仕事を求めてジャマイカ各地からだけでなく、中国、レバノン、シリアなどからも多くの人がキングストンに集まってきた。それに伴い、それまでダウンタウンに住んでいた多くの裕福な商人がこの辺りに居を移した。そして1905年、彼らはヨーロッパの上流階級には必須の競馬場をこの地に移した。ちょうどこの公園がある辺り。この競馬場は53年に現在地のケイマナス・パーク(Caymanas Park)に移転し、この地を街の中心にしようと考えたコングロマリットがその跡地を買い取った。そして、やがてこの公園辺り一帯は上流階級向けの社交クラブの所有となり、彼らはその一部を政府に寄付した。政府は利用方法を検討した結果、ここを公園として整備することとし、2002年7月31日、解放記念日(Emancipation Day)の前日に奴隷解放を記念する公園として開場した。

7エーカーの公園内には噴水や野外ステージがあり、手入れされた芝生の周りには多くの花や木が植えられている。また、500mのジョギングコースも整備されている。オックスフォード・ロードとナッツフォード・ブールバード(Knutsford Boulevard)の交差点にあるメイン・エントランスに建つ、ボブ・マーリー(Bob Marley)のリデンプション・ソング(Redemption Song:救いの歌)と云う曲と同名の約3mの男女の銅像は奴隷制の恐怖からの勝利を象徴しており、開場1周年を記念して設置された。銅像の後ろには噴水が広がり、歩道がまっすぐに野外ステージに続いている。このステージではコンサートや展示などのイベントが行われるが、すべて無料で一般公開される。8月1日の解放記念日の前夜には地元ミュージシャンによるコンサートが開催されている。毎日午前5時から午後11時までオープン。18年8月にはフリーWifiが導入された。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.2090585604344786.1073743727.100001801017376&type=1&l=39e5f072ed

ついでにせっかくなので、ジャマイカの奴隷解放の歴史をまとめてみる。1494年、コロンブス(Christopher Columbus)ジャマイカ島上陸。1509年からスペインが入植を進める。タイノ族に代表される先住民はスペイン人による拷問、殺害、もたらされた疫病、過酷な奴隷制度により、50年も経ずに絶滅。1517年、アフリカ(主に現ガーナやナイジェリア)から奴隷の強制連行が始まる。

1655年イングランドジャマイカ侵攻。スペインの敗北を機に、奴隷の一部が丘陵部に逃げ込み組織化された集団を形成した。ジャマイカのマルーン(Maroon)の始まり。マルーンと云う名は、野生動物の狩人と云う意味のフランス語・スペイン語から来ている。この時期、北中米の各国で、逃亡奴隷により誕生した。ジャマイカではその後、新たにイングランドに連れて来られた奴隷たちが逃げ出してマルーンに加わっていった。彼らの大半は現在のガーナ内陸部のアシャンティ人で、ほとんどが戦争捕虜だったので、ゲリラ戦に長けており、主導権を握るようになった。その中の一人にナショナル・ヒーローの一人のナニーがいる。ナニーはアシャンティ王国での部族抗争の結果、奴隷としてジャマイカに送られた(自由意思で来た、あるいは送り込まれたという説もある)が、5人の兄弟と共に逃亡しマルーンに加わった。彼女はハーブや伝統的な治癒方法の知識も豊富で、軍事的にも精神的にも優秀なリーダとして、各地での反乱を指導した。30年間で1000人以上の奴隷を逃亡させたとも云われる。彼女の死後、1737年から39年に掛けて各マルーン・コミュニティが和平条約を締結。ジャマイカのマルーンは新世界のマルーンの中で最も早く土地と自治を獲得したが、その自治を守るためにプランター(プランテーションの所有者)の無給の軍団、常駐警察隊に転じてしまい、奴隷や自由民の自由を求める試みを鎮圧し続けた。これは、1865年のモラント・ベイの反乱まで続いた。

1795年第二次マルーン戦争(Second Maroon War:もしくはタッキーの反乱(Tucky's Rebellion))勃発。さらにフランス革命(French Revolution:1789~1799)、ハイチ革命(Revolution haitienne:1804)と続き、1807年、英国議会は事態を考慮し、ジャマイカへの奴隷貿易廃止を決定するが、奴隷制廃止には至らず、約32万人の奴隷(白人の10倍)は引き続き隷属を強いられる。

1831年、クリスマスの反乱(Christmas Uprisingあるいはバプテスト戦争(Baptist War))が起こる。奴隷のカソリック改宗を進めていたスペイン人と違って、1655年のイングランド植民地化以降、英国国教会は奴隷たちの人間性を認めず、一切の布教を行わなかったのだが、19世紀になって非国教派が攻勢を強め、キリスト教化が進んでいた。ナショナル・ヒーローに認定されたサミュエル・シャープ(Samuel Sharpe)は奴隷であったが、大変頭がよく、またカリスマ性を持ち、バプテスト教会(Baptist Church)のリーダーとして奴隷たちに唯一許されていた宗教活動を利用して多くの教区を周り、勉強を教えたり、キリスト教の布教、自由や平等性を説いていた。12月、彼は奴隷制に対しての非暴力的抗議を予定してたのだが、奴隷たちは暴徒化し、全国で6万人(全体の1/5)の奴隷が加わる大暴動となった。結局はイギリスの傭兵部隊となっていたマルーンに制圧され、2週間で200余名の犠牲を出し、終結した。支配者側の死者は14名。翌年約350名が処刑され、シャープもモンテゴ・ベイ(Montego Bay)で「I would rather die upon yonder gallows than live in slavery:奴隷として生きるよりも、その絞首台の上で死ぬことを選ぶ」と云う言葉を残して処刑された。享年31歳。

この事件を重く見た英国議会は、そのわずか2年後の1834年に奴隷制度を廃止した。しかし、実際には6歳未満のものは解放されたが、6歳以上は解放に対するオーナーへの補償として週40時間の無償労働が義務付けられた(徒弟制度(Apprenticeship System))。それからさらに4年後、1838年7月31日を持って、この徒弟制度も廃止され、完全に奴隷制度はなくなった。ジャマイカでは8月1日が解放記念日となっている。

さらに本題から外れるがその続き。解放後も植民地議会と結びついたプランターによる搾取は変わらなかった。そして1865年、キングストンの政治家、ジョージ・W・ゴードン(George William Gordon)の思想に基づいたポール・ボーグル(Paul Bogel)により、モラント・ベイの反乱(Morant Bay Rebellion)が起こった。二人ともナショナル・ヒーローに認定されているが、ゴードンは、1818年イギリス人の弁護士と奴隷の母との間に生まれた。優秀な人間で1848年には4つの農園を所有していた。植民地議会の議員に選出され、ラディカルな政治家となり、持たざる者の支援者として植民地総督を激しく攻撃していた。彼はバプテスト派の牧師でもあり、ボーグルに洗礼を授け、執事(助祭)に任命していた。10月、ボーグルは植民地議会に対する示威と同志の鼓舞のため、約200名の手兵を率いてモラント・ベイを行進したが、些細なきっかけから行進は武装反乱にエスカレートした。最終的に439人が殺害され、ボーグルを含む354人が逮捕され、その後処刑された。この時、ボーグルを捕縛したのもマルーンだった。ゴードンはこの事件には全く関与してなかったそうだが、植民地総督に批判的であったため、巻き添えで処刑されたと云われている。この事件がきっかけでジャマイカは植民地総督が召喚されて植民地議会制度は廃止、英国の直轄植民地となった。

以上

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