2018/08/15 - 2018/08/15
134位(同エリア272件中)
滝山氏照さん
岩櫃城(いわびつじょう、群馬県吾妻郡東吾妻町原町)は東西に流れる吾妻(あがつま)川の北岸にそびえる岩櫃山(標高802m)の東側に南から北に傾斜する中腹の地に約140mほどの主郭を有する細長い連郭式の山城です。
築城時期と築城者については明確ではありませんが一説には南北朝時代に吾妻行盛(あがつま・ゆきもり)、他説には戦国時代に武田信玄築城との説もあります。(下記パンフレット掲載は吾妻行盛築城の説で説明されています)
いずれにせよ戦国時代に西上野攻略を企てた武田信玄の領有することとなり、その城代には信濃と上野の境目に詳しく調略の名人と称される真田幸隆(さなだ・ゆきたか、1513~1574)が任命され武田氏の攻略拠点となり、併せて小田原北条氏の東上野を含む北関東の動向並びに越山してくる上杉謙信の動き等を本国に報告する役割があったようです。
縄張りについては次のようになります。即ち、岩櫃山頂上側に接近している主郭は狭い上段と広めの下段に分かれ、上段には「岩櫃城本丸址」と刻した石碑が建ち、下段の南側には二郭から南虎口に通ずる腰曲輪が走り、この腰曲輪からは南斜面に向けて竪堀が認められます。
主郭には南北にそれぞれ虎口を配し、特に南側虎口は枡形門跡との案内があって正門があったと思われます。主郭の北側には狭い二郭が配されこの間には角度を伴った見事な堀切が南北に走りそのまま南方向に竪堀として落ちています。
更に東側にはそれまでの険しさが一転、南方向になだらかに広がる扇状地があって、標柱には「中城跡」とだけ記載、詳細説明がないのでその機能が不明ながら険阻な城郭に対して不釣り合いな印象を感じさせます。
現地案内所にて入手したパンフレット「真田氏上州の拠点 岩櫃城跡」には下記の通り紹介されています。
「 岩櫃城の歴史
岩櫃城は、年代は定かではありませんが、南北朝のころ築城されたと考えられています。城郭の規模は136へクタ-ルと上州最大規模を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。この城の城主として最初に名前が出てくるのは我妻太郎行盛です。行盛は南北朝時代、里見氏に攻められ吾妻川原において自害したという伝説があります。その後行盛の子千王丸(斉藤越前守憲行)が北朝方の上野守護上杉顕氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その子孫が戦国時代までこの城を本拠として東吾妻を支配しました。
永禄6年(1563)、武田信玄は上州侵略のため、家臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は吾妻太郎行盛より数えて6代目の吾妻太郎斎藤越前守憲広(基国)といわれ、堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田信玄の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで長綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。
一度北条氏の支配下に置かれた沼田は再び真田氏の支配下となり、信幸は初代沼田城主となりました。岩櫃城は沼田の支城として吾妻郡統治の中心地としての役割を果たしました。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、昌幸(西軍)と信幸(東軍)は敵味方に分かれました。このとき岩櫃城は信幸の叔父矢沢頼綱が城代となり、信幸方の城となっています。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(元和元年(1615))により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。 」
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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JR吾妻線群馬原町駅
高崎から渋川を経由して大前に至るJR吾妻線は1時間に1本の運行につき予め時刻表の把握が必要です。 -
岩櫃山登山地図周辺案内図
駅前には登山客や城跡訪問者用に案内板が建っています。 -
岩櫃城方向・案内板
駅舎の陸橋脇に岩櫃山案内楯看板が付されています。観光案内所まで距離は2.6Kmながら所要時間は約60分とのことで山登りが厳しいと想像されます。南側の歩道橋を渡って北側の一般道を西進することとします。(実際自分の場合は約55分かかりました) -
岩櫃城・案内板
県道145号を西進すると、左折する案内板が見えます。よく見ると県道が高架と化し、登城口はその下をくぐって山方向に進むようです。 -
岩櫃城跡入口・案内板
高架の下を半円を描くように回ります。 -
登城路
舗装されて車両の往来は見かけますが頻度は低いようです。歩行者は自分一人で日差しも強い中緩急の坂路のため汗拭き拭きの状態です。 -
岩櫃城・案内板
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岩櫃城・案内板
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岩櫃城・案内板
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岩櫃城・大手路
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岩櫃城跡案内所
常駐の男性スタッフが応対してくれています。豊富なパンフレット・冊子等が備えてあります。一昨年の放送の「真田丸」影響で一日500名を超える訪問者があったそうです。 -
岩櫃城・地形図
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岩櫃城地形図(拡大)
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岩櫃城跡大手路入口
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岩櫃城跡説明板
大手路入口には詳細にわたった説明板が建っています。 -
岩櫃城城郭部(拡大)
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大手路
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虎口
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中城跡
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中城跡標柱
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絶壁の中城端風景
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竪堀
本丸への登城路となっていますが竪堀跡に見えます。 -
山岳風景
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堀切
二郭(右側)と主郭(左側)に堀切を施し主郭への攻撃を遮っています。 -
堀切
主郭と二郭を分ける堀切が曲線状に流れています。 -
堀切
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二郭跡
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二郭跡標柱
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主郭階段
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堀切と二郭
主郭に移動中の階段から振り返ると堀切を経て二郭を捉えます。 -
堀切と竪堀
主郭から二郭とを分ける堀切を見下ろします。その堀切はやがて竪堀となって下方に落ちているようです。 -
主郭跡
主郭は右手には休憩所が設置され、左手は奥の敷地は一段高くなっています。 -
主郭左側
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主郭右側
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岩櫃城主郭跡石柱
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岩櫃城主郭跡標柱と説明板
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岩櫃城主郭跡標柱
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岩櫃城跡由来記
「 岩櫃城由来記
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭に規模は1.4Km2と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斉藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱は、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正18年(1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長20年(1615))により、400余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。
東吾妻町観光協会 』 -
岩櫃城跡幟
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市街地景色
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市街地景色
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休憩所風景
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櫓台跡
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櫓台籍・説明板
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土塁
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竪堀標柱
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竪堀跡(拡大)
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岩櫃城・主郭
腰曲輪から主郭の石碑を捉えます。 -
腰曲輪(こしぐるわ)
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腰曲輪説明板
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腰曲輪跡
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岩櫃山山頂案内版
左側に進むと更に山頂に向けての登り口が控えています。尚右方向には「原町駅」と記載されており別の登城ル-トと思われます。 -
本丸北枡形虎口跡
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北枡形虎口案内板
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主郭土塁
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