2018/04/27 - 2018/04/28
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bunbunさん
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レンタカーで石垣島を回りました。今回は川平湾、川平石崎、御神崎、観音崎、唐人墓を中心ご報告します。
この旅行記はhttps://4travel.jp/travelogue/11368488 の続きです。
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見えてきました、川平湾です。
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川平湾方向、ズームイン。
白い砂浜にボートが並んでいます。ホテルらしきものもたくさんありますね。 -
川平湾に着き、一通り写真を撮りましたが、太陽の位置(12時頃)が悪く、いまいち綺麗な写真になりませんでしたので、ここではパスします。もう一度来ましたのその時の写真を後程示します。
ということで、先に川平半島の川平石崎へ。
途中で見えた崎枝湾と屋良部半島。中央やや右の尖った山は屋良部岳(標高216 m)です。 -
川平石崎に着きました。
南方の風景。崎枝湾と右は屋良部半島。中央手前はソテツです。 -
北を見るとオーシャンブルー(琉球朝顔)紫の花を開いてます。
どこにでもありますね、この花は。 -
オーシャンブルー(琉球朝顔)。
花言葉は「愛情の絆」です。 -
北東に見えた小さな山。
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南方の風景。
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南南東方向、ズームイン。左端は石垣シーサイドホテルです。
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南方の風景。
崎枝湾と右は屋良部半島。 -
少し北に移動して見た北側。
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さらに少し北に移動して見た北側。島がありますねえ。
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島、ズームイン。平離島です。
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川平石崎を出て、屋良部半島御神崎に向かいます。
途中屋良部半島付け根の県道79号線から見た北方。四角の枠は養殖場ですかねえ。 -
西に走り、石垣島城山牧場から見た北側の風景。
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御神崎に着きました。
南西方向の風景。
「御神崎園地
屋良部半島御神崎
字川平の「群星御嶽願い口(ンニブシウタキニガイフチ)で、神が下りてくる聖地として謡われた御神崎は、強い潮風に晒されてできた草地で、海に切り立った断崖、青く透き通った海が特徴的な景勝地です。春にはテッポウユリが咲き、夏には夕日のビュースポットとなっています。沖合にはダイビングスポットが点在しオニイトマキエイ(マンタ)が見れることで有名です。岬の北側の岩山の大きな石は、この土地の民話に登場する「姉の頭石(ブナリィツブリィイシ)」です。」
―説明板より― -
北を見ると、石垣御神崎灯台です。
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灯台に近づいて、
「石垣御神崎灯台
~夕日とテッポウユリ、そして白亜の灯台~
この灯台は、昭和58年(1983年)3月に景勝地である御神崎に建設され、春にはテッポウユリが咲き、南海の壮観な眺めに一層の彩を添えています。この岬の沖合では、昭和27年(1952年)12月8日、那覇から貨客を満載して石垣に帰る途中の八重山丸(40トン)が、折からの季節風のため遭難し、死者行方不明者35人を数える大惨事となりました。この海難事故から25年後の昭和51年(1976年)12月8日、遭難の碑が建設され、灯台と共に沖に向かって航行の安全を見守っています。
位置 北緯 24度27分09秒
東経 124度04分43秒
光り方 単閃白光 枚10秒に1閃光
光の強さ 31万カンデラ
光の届く距離 21.0海里(約39キロメートル)
高さ 地上から灯台頭部 約17メートル
水面から灯火 約62メートル」
―説明板より―
階段を上ります。 -
階段を上って、灯台の根元から見た南側の風景。
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灯台の根元から見た北西側の風景。
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1つ上の写真の少し右(東)側の風景。
格好いい岩でねえ。 -
灯台の根元から見た北側の風景。
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階段を下りました。北側谷底。
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少し離れて、御神崎灯台。
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少し左(西)に移動して、御神崎灯台。
手前に咲くピンクの花はヒルザキツキミソウ(昼咲月見草、別名:エノテラ)です。
花言葉は「新しい恋人」、「自由な心」、「清純」、「無言の愛」、「固く結ばれた愛」、「奥深い愛情」。 -
北に下りてさっきの岩を見に行きます。
岩と谷底。 -
東側の岩。
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観世音菩薩像
「南無観世音菩薩
この菩薩像は八重山丸遭難者遺族の会が海難で犠牲となった人々の御霊に対し曰浄の信心を発して無上の菩提を祈求精進し、よって御霊の平安と船舶の航海安全を願って建立した。
昭和51年12月8日」
―説明板より― 漢数字はアラビア数字に変えてあります。 -
碑。
「八重山丸(40.29トン)は昭和27年12月8日那覇からの帰途おがん崎南西 2,600メートルの地点で遭難沈没し、死者行方不明者35人を出した。ここに故人の25回忌を迎えるにあたり遺族会がこの碑を建立する。
昭和51年12月8日
八重山丸遭難遺族の会」
―説明板より― 漢数字はアラビア数字に変えてあります。 -
さっき見えた岩「姉の頭岩」です。
名前の由来は以下で説明します。 -
姉の頭岩とその上に載っている「姉の頭石(ブナリィツブリィイシ)」の説明、この付近の地図。
「信仰の深い姉と乱暴者の弟の悲しい話。岩山の上の大きな石は、激しい台風や地震があっても不思議とびくともしないと言います。」
―説明板より―
悲しい民話は、
信心深くて働きものの姉が、怠け者の弟を諭したところ、逆切れした弟は姉の首を切り落としてしまいました。切りはなされた姉の頭は弟をかみ殺し、そのまま空を飛んで御神崎の海につき出している岩の上にかみついて止まり、そのまま石になってしまいました。
と、ざっとこんな内容です。ほかにも兄と妹バージョンがありますが、岩の名称からすると、こちらの方がもっともらしい気がします。
まあ、岩石学的に言えば、この岩と石は緑色擬灰岩で、琉球石灰岩に比べれてずっと固い訳ですから、一体化していれば落ちなくてもそう不思議ではないと私は思いますが。 -
「姉の頭岩」の西の岩。
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2つの岩。
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撮影場所を変えて「姉の頭岩」。
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御神崎先端付近から見た御神崎灯台。
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御神崎先端付近から見た東方の岩。
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御神崎先端付近から見た西側の岩。
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御神崎先端付近から見た東方の岩。
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御神崎先端付近から見た姉の頭岩。
うーむ、この域から見ると「姉の頭石が落ちないのは不思議」と思うのはもっともな気もします。 -
御神崎先端付近から見た南方。
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御神崎先端付近から見た東方。
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足元にあったアザミ。綺麗だね。
アザミ全体の花言葉は「独立」「報復」「厳格」「触れないで」などです。
アザミの語源は諸説ありますが、その一つは、沖縄の八重山方言で「トゲ」を意味する「アザ」に、「植物名に多い接尾語である「ミ」が付いた、というものです。 -
御神崎先端付近から見た御神崎灯台。
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御神崎を出てまた川平湾に向かいます。
途中で見えた崎枝湾。 -
綺麗な湾だな。ズームインしとこ。
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川平湾の南端に着きました。
川平琉球真珠前の人魚象。
以下、川平湾の写真を撮りながら北上して行きます。 -
川平湾。
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川平湾。
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展望台のある高台に上ります。
沖縄の伝統建築がありますねえ。
はっ?これはトイレか。 -
川平湾北側。
現在14:30。さっき12時頃来た時よりはずっと綺麗だ。
なんせ砂浜が南西から北東へと走ってますからねえ。 -
川平湾北東側。
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川平湾南側。
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展望台にきました。
川平湾北東側。 -
川平湾東側。
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川平湾南東側。
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川平湾南側。
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ちょっと海岸から離れます。
「川平観音堂
川平村は八重山でも歴史は古く、川平湾は昔、首里王府への献納物を集積する三大港の一つで、石垣島から沖縄本島へむかう船の風待つ港でもあった。
川平湾を見下ろす小高い丘の川平公園に立つ川平観音堂は、17世紀中葉に創建され太と伝えられている。
伝承によると、「川平湾にマーラン船が順風を待って停泊していた。その船から小僧が順風になるまでと川平村へ上陸した。しばらくして戻ってみるとマーラン船はすでに出帆し、はるか沖を搬送していた。小僧は驚き嘆きながら、船が川平湾へ戻るように神仏に一心に祈った。小僧の熱願は天に通じ、北風が吹き船は戻って来て乗船することができ、無事用件をはたした。数年後、小僧は和尚となって帰島し、自分の祈願した地に観音堂を建て祀った」と伝えられている。
爾来、この川平観音には全国津々浦々から、多くの人々が訪れ安全祈願、大願成就祈願、無病息災や縁結びの祈願のために参拝している。
なお、風光明媚なこの川平湾は日本百景の一つに選ばれ、石垣市文化財の名勝にも指定されている。
平成4年10月1日
川平公民館
奉納 高嶺英正」
―説明板より― 漢数字は適宜アラビア数字に変えてあります。 -
観音堂へと進みます。
随分献灯が多いですね。 -
観音堂。
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また川平湾が見える間所に戻ってきました。
川平湾北東側。 -
川平湾東側。
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川平湾南東側。
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砂浜に下りて来ました。
川平湾北東側。 -
川平湾東側。
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浜辺を南に移動して、川平湾東側。
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また浜辺を南に移動して、川平湾東側。
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川平湾北東側。
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川平湾北東側、ズームイン。
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川平湾東側。
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川平湾を出て唐人墓のある広場にやって来ました。
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6角形の東屋のようなものがあります。
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「六角亭」だそうな。
「この六角亭は宝くじの普及宣伝事業として整備されたものです。
平成21年3月
石垣市」
―説明板より―
なんだ、歴史的価値はないのか。 -
竜の彫刻が見事なんで一応撮っておこう。
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唐人墓。
「この唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。中国人労働者(苦力)は、16世紀以降世界各地に多数送り出されていた。1852年2月厦門(アモイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次、辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起、船長等7人を打殺した。船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島枝先沖に座礁、380人が下船した。八重山の政庁蔵元は富崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した。しかし米英の兵船が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った。中国人等は山中に逃亡したが銃撃・逮捕され、あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった。琉球王府と蔵元は人道的に対応、中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し、島民も深く同情、密かに食糧などを運び給した。しかし疫癘による病死者も続出した。死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた。この間、関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌1853年9月、琉球の護送船二隻で生存者172人を福州に送還して終結した。中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた。ここ宮崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が、戦後まで数多く点在していた。1970年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため、唐人墓建立委員会を結成、当市よりの補助、とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援、および琉球住民、在流住民、在流華僑諸賢のご芳志を持って1971年これを完成した。茲に唐人墓の来歴を記すに当たり、関係各面のご協力に対し、謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である。
1992年3月31日 石垣市長 半嶺當泰」
―説明書きより― 漢数字は適宜アラビア数字に変えてあります。 -
唐人墓前の碑。
「人間が人間を差別し、憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会に平和を希い、この地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる。
1971年9月28日
琉球政府
行政主席 屋良朝苗」
―碑文より― -
唐人墓。
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唐人墓の上部。
モチーフは王族や、貴族の唐人です。 -
唐人墓を離れ、道路を隔ててすぐ西にある琉球観音崎灯台にやって来ました。
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灯台北側のビーチ。
岩がある。 -
岩を目指してビーチを北に進みます。
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振り返って南方を望む。
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岩が近づいてきました。
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岩の前まできました。
これは琉球石灰岩じゃないね。
堆積石灰岩か。 -
ビーチはまだ北に続くけどここまでにしておこう。
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岩。好きだねえ、こういうの。
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方向を変えて、岩。
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灯台に戻ります。
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灯台の立つ岩山の下までやって来ました。
釣りをしてますね。
こんな岩もいい。 -
岩山の窪み。
奥に孔か穴があります。 -
当然行って見ます
ははーっ、孔だ。抜けられそうですね。 -
抜けた。
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いいね、こんな岩も。
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こちらも。
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後ろ(東)を振り返る。
最高じゃん。
下は抜けて来た孔。 -
岩。
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岩。
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近づいて、岩。
これは本州でも見られる石灰岩だ。 -
石灰岩。
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灯台の立つ岩山に上りました。
北側の風景。
手前はさっき孔を抜け出た海岸です。 -
見上げて、琉球観音崎灯台。
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西側下部。
さっきの釣り人だ。 -
翌日の石垣空港。
8日間の沖縄旅行もこれで終わり。
ジンベイジェットで東京に帰ります。
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