2018/04/30 - 2018/04/30
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montsaintmichelさん
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「苦楽園四番町」は、大正~昭和時代初期は明礬(みようばん)温泉場があるラジウム温泉地として栄えた町でした。1911(明治44)年に大阪の実業家 中村伊三郎氏が、この一帯30万坪程を購入して「苦楽園」の名称で町づくりを行なった地域です。やがて天狗獄でラジウム温泉が発見され、苦楽園四番町の三笑橋まで温泉を引いて共同浴場「苦楽園温泉」が開かれました。
関東大震災の後、谷崎潤一郎が関西で初めて身を寄せたのがこの苦楽園です。この付近の旅館「萬象館」に滞在し、ラジウム温泉三昧の日々を送ったそうです。往時の様子は、随筆『阪神見聞録』に記されています。また、湯川秀樹博士も三笑橋の近辺に昭和8~15年まで住んでいました。往時の苦楽園四番町には、黒田子爵の別邸や土方伯爵の別荘「養寿庵」、下村海南の海南荘、クラブ化粧品の中山太一氏の別邸であり大阪市の迎賓館だった「太陽閣」、「六甲ホテル」などがひしめき合っていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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堀江オルゴール博物館 庭園
オルゴール博物館のガイドツアーを終えて庭に出ると、そこには巨大なシャコガイの手水がお出迎えです。流れる水は水道水ではなく、六甲山で湧きだした宮水だそうです。灘の清酒やペットボトル「六甲のおいしい水」は、同じ宮水でつくられています。ただし、衛生上の観点からか、飲用には適さない旨が書かれています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
2色のシャクナゲが満開です。
元々は中山太陽堂の創業者 中山太一氏が大正11(明治44)年に6000坪ある別邸「太陽閣」を建てた跡地です。
戦後、「太陽閣」の跡地を堀江光男が購入し、別邸として使用されてきましたが、1997年に所蔵のオルゴールと土地建物、基本金を寄付して「財団法人堀江オルゴール博物館」を設立しました。
庭園は、7代小川治兵衛氏が作庭されたもので、大坂夏の陣の後、大阪城再築時の採石場の良質な花崗岩の残石を巧みに用いて造園されています。それ故、庭園には、若狭小浜藩の刻印石や矢穴石などが興味深いものも見られます。
往時は、六甲山の傾斜と宮水を引き込み、大きな滝組や渓流などを配した壮大な庭園だったそうです。また、庭の樹木には治兵衛氏が好んだハゼの木やドウダンツツジ、イロハモミジなどが植えられています。秋の風景は格別でしょう。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
右端のポーチが旧堀江邸の玄関口です。
堀江オルゴール博物館は西宮の高級住宅街「苦楽園四番町」の一画にあり、お隣は芦屋の超高級住宅地として名高い、かの「六麓荘」です。
六麓荘は東京の田園調布と並ぶ超高級住宅地として知られ、1928年に国有林の払い下げを受け、山の中腹を開墾して造成されました。往時香港にあった外国人居留地をモデルに都市計画がなされ、電線やガス管、電話線を上下水道などと共に地中に埋設したため、見た目もすっきりしています。苦楽園四番町は、残念ながらそこまでは至っていません。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
「太陽閣」は、赤い屋根を載せた大きな洋館でした。吹き抜けの玄関を入ると見上げる様な螺旋階段があったそうです。
元々の敷地は現在の倍以上あったそうですが、現敷地も庭園だけで800坪あります。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
大きな洋館とその奥にある日本家屋が旧堀江邸で、日本家屋の右手奥に3階建ての堀江オルゴール博物館が建てられています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
グリーンのパラソルでコーディネートされた芝庭には、白い椅子がとてもよく似合います。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
周りにはイロハモミジが多いせいか、芝生には花種が落ちて沢山の新芽が出ています。
庭園開放期間が終わったら、全て抜き取るそうです。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
「クラブ化粧品」で知られる中山太陽堂の創業者 中山太一氏が建てた「太陽閣」は、神戸北野界隈の異人館「うろこの家」や「風見鶏の館」と共に、兵庫県の「名家百選」に指定されていました。
因みに、「クラブ化粧品」は、小川洋子著『ミーナの行進』で、ローザおばあさんが愛用していた双美人のシンボルマークで知られている化粧品です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
化粧品業界の巨星 中山太一氏は、1903(明治36)年21歳の時、貿易業で財を得た事業家をスポンサーに神戸市花隈町に洋品雑貨と化粧品の卸しを扱う個人商店「中山太陽堂」を創業しました。開業から1年後、神戸の化粧品メーカが作った「パンゼ水白粉」の独占販売権を取得し、販売網を東京まで広げました。「パンゼ水白粉」は大ヒットするも、太一氏はこの商品への信頼を失いました。原因は品質の低下でした。メーカに改良を提言するも聞き入れられず、「メーカが作る製品の中身にまでは口出しできない」といった歯痒さを味わいました。
やがて、「自分の手で確かな製品を作りたい」との拘りから、1905(明治38)年、化粧品製造に向けた研究を始めました。目標としたのが、「舶来品を超えた品質」と「時代の流れに合ったモダンで舶来文化の雰囲気があるシャレた製品」の2つでした。こうして、日本の化粧品業界では、「白粉の御園」や「歯磨のライオン」、「クリームのレート」と並ぶ「明治の四大覇者」と呼ばれるまで成長しました。
また、日本で最初にアドバルーン広告を出し、「天下の広告王」とも呼ばれていました。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
左端にある茶色の建物が博物館の展示室です。そこの3階の窓ガラスから大阪湾などの眺望を愉しみました。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
中山太一氏は、大正~昭和時代初期の阪神間モダニズムを築いた人物でもあります。「太陽閣」を建て、そこには大隈重信など政界人や東洋人初のノーベル賞受賞者ラビンドラナート・タゴールら錚々たる人物が宿泊したそうです。
大隈重信は、苦楽園共同浴場の開業式に出席した際、「東洋一のラジウム温泉」とのお墨付きを出し、それが政財界人や文化人の間で評判となり、阪神「香櫨園」駅から馬車で苦楽園に向かう人が絶えなかったそうです。また、文芸誌『明星』は、「瑞西(スイス)ロザァンの美景に酷似し、ラジウム温泉の大浴場あり」と絶賛しました。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
洋館の先には日本家屋があり、そこにも落ち着いた日本庭園が設けられています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
滝組の上流に当たる部分です。ここには黒っぽい石を配置して、流れを構成しています。
ひょっとすると黒鞍馬石かもしれません。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
日本家屋の縁側には、大きな庵治石(あじいし)製の縁先手水鉢が置かれています。
世界の銘石として名高い庵治石は国産高級石の最高峰であり、花崗岩のダイアモンドとも呼ばれ、日本三大花崗岩のひとつに数えられます。正式名称は「黒雲母細粒花崗閃緑岩」と言い、産地は香川県高松市の庵治町と牟礼町にまたがる五剣山です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
左端には大きな縦長の縁先手水鉢が置かれています。
垣根は建仁寺垣という凝りようです。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
近代日本庭園の開祖 7代小川治兵衛氏の作庭と伝わります。しかし最近、その一画が徳川氏による大阪城再築の東六甲採石場跡であることが判明しました。採石場が良好な状態で残された理由は、自然地形を最大限に利用して作庭されたためと考えられています。尚、刻印石が2つ、矢穴石が数石見られ、いずれも庭園に調和させて配されています。刻印は2種類あり、正方形の刻印と2重正方形 の刻印です。これらの刻印は、若狭小浜藩京極若狭守忠高が使用した刻印と推測されています。矢穴石は、江戸時代初頭の矢穴とされ、実際にここで採石活動が営まれていた証左と言えます。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
築山の頂には光男氏のモニュメントがあります。
真ん中の丸の形はオルゴールのディスクを表し、絵は光男氏がストリート・オルゴールを愉し気に弾いている様子です。
「奏でよ 吾が子ら 夢の音 永久に」と刻まれ、光男氏のオルゴールへの熱い思いが込められています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
鬱蒼とした樹木が生い茂る庭園に迷い込むと、深い森の中にいるような錯覚に捉われます。絢爛豪華なオルゴールの世界とは別世界です。「一粒で二度おいしい」、グリコのような博物館と言えます。
また、7代小川治兵衛氏が作庭された庭を見るだけでなく、そこを自由に散策できるとは何とも贅沢な趣向です。間近に日本庭園と触れ合うことで、新たな発見もあります。大谷美術館も、ここを見習っていただきたいものです。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
「水と石の魔術師」と称せられた7代小川治兵衛氏の真骨頂が、滝組と三日月窓の寄せ燈籠に象徴されています。庭園の池の畔には三日月窓の寄せ燈籠が立てられ、その上流には豪快な滝組みがあり、潤沢で清らかな宮水が爽やかな音を響かせて流れています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
上の写真の一番上にある、白飛びした巨石をズームアップです。
石にノミで刻み込まれた大名の家紋や文様、記号を「刻印」と言いますが、この滝組はその刻印がなされた「刻印石」を活用して造られています。
刻印石は、判り易いように白ペンキでなぞられています。四角が2重になった若狭小浜藩の刻印です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
光男氏が譲り受けた時の庭園は相当荒れ果てていたそうですが、石組みの基礎はしっかり残されており、往時の姿を忠実に再現できたそうです。
日本庭園は作庭4割、維持管理6割と言われる通り、日々の手入れも大変なことだと思います。
紅葉の季節にはどんな絶景になるのか、想像に難くありません。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
1620~28年まで徳川氏の大阪城再構築時の東六甲採石場だったことを示す碑があります。
この右手に石切り丁場がそのままの姿で遺されています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
400年前の石切り丁場(矢穴石群)が遺されています。
大坂夏の陣で大坂城は落城しました。落城後、徳川氏は豊臣氏の大坂城の倍の規模を目指して1620(元和6)年に大阪城再築に着手し、石垣の普請に西国大名64家を動員しました。この博物館が位置する東六甲山麗をはじめ、瀬戸内海沿岸の島々、遠くは佐賀県唐津市などで採石されるという一大土木事業でした。それには、戦乱の終結に伴う、失業者対策という公共事業的な側面もあったそうです。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
このように矢穴痕が残された石を「矢穴石」と呼びます。石を割る際には、矢(くさび状のもの)を穴に嵌め込み、矢をハンマーで叩いて石を割りました。ミシン目の様なものが矢穴を打ちこんだ跡です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
7代小川治兵衛氏が造った巨大な三日月窓の寄せ燈籠です。
治兵衛氏は、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家です。通称「植治(屋号)」と呼ばれ、南禅寺界隈疏水園池群を手掛けたことで名高く、平安神宮や円山公園、無鄰庵、清風荘、対龍山荘など後世に受け継がれる国の名勝などを作庭しています。
「眺める庭」から「五感で味わう庭」への転換を図り、時代を越えて愛される近代日本庭園文化を創り上げた方です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
藤城清治氏ばりの天然素材による影絵の世界も堪能できます。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
庭園からその脇に設けられた石段へと通じる、趣深い中門です。
門柱の上の燈籠にも満月と三日月があしらわれています。
三日月窓の燈籠と合わせて考えると、「観月」をテーマにした作庭だったのかもしれません。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
現在は洋館「太陽閣」を偲ぶことはできませんが、正門の扉から続く石造りの階段は昔のままだそうです。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
帰路は庭園を通り、かつての正門から退出します。
中門の右脇にあるのは、置石かと思いきや足元を照らす「石灯り」でした。
こうしたありのままの石を巧みに用いた斬新なデザインが、庭園の雰囲気にしっくり馴染んでいます。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
こちらは、渦巻状にスリットが入れられた「石灯り」です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
2つ目の刻印石は、正門から続く石階段を少し登った所の左側にありました。
四角の若狭小浜藩刻印です。
手前にある趣深い「石灯り」が目印です。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
平行にスリットが入れられた「石灯り」です。
こうした風変わりな「石灯り」を探して回るのも面白い趣向かもしれません。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
角度を変えて見ると、孔も開けられています。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
ユキモチソウやザゼンソウを彷彿とさせるナイーブなデザインです。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
こちらは、磨き上げた「石灯り」です。
苔生すと雰囲気が変わるのかもしれません。
「苦楽園」は、一度聞いたら忘れられない人生訓のような地名です。「苦楽を共に」とか「苦あれば楽あり」を連想させますが、「苦」の文字が地名にあることに抵抗を覚える方も多いかもしれません。実は、「苦楽園」は、瓢箪の名前に由来します。命名者は、この一帯の町づくりを行なった中村伊三郎氏です。彼は家宝の瓢箪を大切にしていました。その瓢箪の名が「苦楽瓢」であり、それに因んで「苦楽園」と命名したそうです。
その瓢箪は明治時代の太政大臣 三条実美や土方久元伯所縁のもので、1863(文久3)年の「七卿落ち」の際、死を覚悟して別れの杯を交わした時のものです。その後、無事に再会を果たせたことから、「苦の後に楽あり」で「苦楽瓢」と名付けられたと伝わります。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
シランの紫が目に鮮やかです。
何故、中村伊三郎氏がこの地域に着目したかについては、湯川博士の妻 スミさんが伊三郎氏の娘 雛子さんから聞いた興味深いエピソードとして著書『苦楽の園』に記されています。
神戸から大阪へ戻る途中、六甲山麓にさしかかった所で、車中の外国人が「この付近の景色は美しい。山の上に家を建てら良い眺めであろう」と話しているのを聞き、インスピレーションが湧き、その後六甲山開発に打ち込んだそうです。
しかし行なうは難しで、道路や水道などのライフラインは私財を投じて整備せねばならず、また、往時は人力が頼みであり大変な事業であったことは想像に難くありません。 -
堀江オルゴール博物館 庭園
こちらが、かつての正門です。ここが出口になり、ここからは入れません。
昭和時代初期には、阪神間モダニズムの潮流に乗り、電鉄会社や土地会社が保養型住宅地の開発を推し進めました。西宮ではこの類の開発が競われ、やがて「西宮七園(甲子園、昭和園、甲風園、甲東園、甲陽園、苦楽園、香櫨園)」と呼ばれるようになりました。宝塚に倣って歌劇場を建設する計画も温めていたそうですが、これは幻と消えました。
そんな中、自然災害により突然の転機が訪れました。1938(昭和13)年の阪神大水害の影響で繁栄の礎だった温泉が枯渇し、また、世の中も恐慌の煽りを受けて戦争へと歩むようになり、旅館やホテルも廃業に追い込まれました。
保養地や行楽地としては衰退を余儀なくされた苦楽園ですが、豊かな緑と清らかな空気と水は健在でした。やがて、苦楽園は住宅地として復興されました。特に高度経済成長や80年代後半のバブルにより住宅の開発が一気に進み、俳人 山口誓子や作家 黒岩重吾などの文化人にも愛され、阪神間屈指の高級住宅地として君臨し、今も「楽園」としての輝きを放っています。 -
苦楽園四番町界隈
堀江オルゴール博物館と別れ、苦楽園四番町界隈のそぞろ歩きを愉しみます。
歴史に名を刻む文人墨客たちも、度々この苦楽園を訪ねています。浪漫派歌人として世間から圧倒的な支持を得ていた与謝野晶子も、最愛の夫 鉄幹を失った翌年の1936(昭和11)年、センチメンタルジャーニーで苦楽園を訪ね、その眺望に感激して次の歌を詠んでいます。六甲ホテルで山田耕筰のピアノ鑑賞を愉しんだ翌日のことでした。因みに、最初の苦楽園訪問から19年ぶりのことでした。与謝野一家は、中村伊三郎氏の自宅「久方庵」でやっかいになったそうです。
「武庫の山 君なき世にも 遠かたの 打出の浜の 見ゆる路かな」。
晶子は、写真撮影の時の様子を次のように描写しています。
「五月の静かな山の空は、きれいに青く晴れ上がり、灰色の巨大な岩肌にところどころ生えている木々の緑が映え、あたりは人影もなく音もなく、深山のような別天地にいるような思いがした」。 -
苦楽園四番町界隈
ノーベル物理学賞受賞で日本人に大きな希望を与えた湯川英樹博士がその理論を発表したのは、1934(昭和9)年27歳の時でした。往時、博士は苦楽園に住み、ここから大阪大学へ通勤していました。苦楽園に移ってきた理由は、心臓を患っていた義父 湯川玄洋の体調を気遣ったためです。1932(昭和7)年に湯川家は苦楽園に借家を借り、やがて、空気が清涼で義父の保養にも良いため、三笑橋の近くに住居を構えました。その頃の苦楽園は、寂れかけの行楽地で旅館が廃墟と化していましたが、保養型郊外住宅地へと変化する途上でもありました。
一方、眺望の良さも湯川家の人々を癒しました。夕食後のひとときは、家族揃って窓辺に並んで街の灯や行き交う電車や汽車の明かりを飽きずに眺めたそうです。深夜にアイデアが浮かび、それをノートに書き込む毎日が続いて不眠症に陥っていた湯川博士の心を、苦楽園の地はその清浄な空気と麗しい自然、美しい眺望で癒やしたことでしょう。やがて、この地で論文『素粒子の相互作用について』が完成したのです。著書『旅人 ある物理学者の回想』には、「未知の世界を探究する人々は、地図を持たない旅人である」の言葉が光っています。 -
苦楽園四番町界隈
湯川博士は、自伝『旅人』の「苦楽園」の冒頭で苦楽園の家を、「私にとって忘れることのできない思い出の家」と評しています。また「苦楽園口駅から自宅までの帰り道を、のちに『中間子理論』に倒る思案をしながら歩いた」ともあります。さらに、妻スミさんも自身の回顧録を『苦楽の園』と命名するほど、湯川夫妻にとって苦楽園は忘れることのできない最愛の地であったことが窺えます。
このように、湯川博士の偉業の陰には苦楽園の環境が奏功したことは否めません。その意味で、この地は物理学にとっての「聖地」と言えるかもしれません。 -
苦楽園四番町界隈
『兵庫ふるさと散歩7 西宮文学風土記・上』にある吉岡保夫氏の絵地図によると、この邸宅の辺りが谷崎潤一郎が一時逗留した「萬象閣」があった場所だと思います。さすれば、ここで『痴人の愛』を書き上げたことになります。
「温泉街で暖かいし、眺望がいいし、瀬戸内海の魚など食もいい…」と、ここを谷崎はことさら気に入っていたようです。
因みに、「阪神言葉」と呼ばれるのは、関東大震災後、関東から移り住んだ人たちが使った東京弁と関西弁の融合体だと言われています。阪神間の人たちは、新しいものを受け入れる器が大きかったようです。 -
苦楽園四番町界隈
恵ヶ池の少し北側になるこの辺りには、かつて「六甲ホテル」がありました。湯川博士が苦楽園で暮らした頃には六甲ホテルはすでに閉鎖されていましたが、『旅人』の中で「苦楽園ホテル」と呼んで往時の様子を記されています。
「家から西南の方へ降りてゆくと、赤松の林の中に池がある。赤いれんが建ての古風な洋館が見える。苦楽園ホテルである。かつては、冷泉をわかして、避暑客をひきつけたらしい。文人墨客が、ここに足をとどめた時代もあったらしい。私がそのあたりをさまよったころには、さびれきっていた。れんがの上に、つたかずらが生い茂って、人がいるかいないかわからないくらいであった」。 -
苦楽園四番町界隈
あっという間に三笑橋の手前まで下りてきました。
現在売り家になっている左側の邸宅が立つ場所が、かつて谷崎潤一郎が仮宿にした旅館「掬水館」跡と思われます。
右側の邸宅のデザインも斬新です。
苦楽園四番町界隈の散策はこれくらいにして、次は阪急夙川駅周辺でランチ用のパンを調達します。 -
CONCENT MARKET
食に拘る夙川マダム御用達で、「パン屋さん激戦区」と言われる夙川界隈でも人気の高いショップです。最近はテレビや雑誌などのメディアでも取り上げられており、お客さんもお店も常にフル回転状態です。
夙川駅南側から徒歩2分程の夙川沿いにショップを構えています。夙川駅東の交差点から南へ20m程の所ですが、初めてだと結構判り難い場所です。外観も小洒落た一戸建て風ですので、行列がなければ見逃しそうです。
ショップ自体はさほど広くなく、それ故にいつも満員御礼です。入口の前にはマルシェ用のデッキスペースも設けられていますが、お客さんが行列を作るため使えなくなっています。
パンの種類は時間帯によって異なり、早い時間帯は菓子パンやヴィエノワズリー、調理パンが主流です。お昼前にはハード系も焼き上がり、全てのパンが出揃います。こちらはハード系のパンが充実しているのも魅力です。 -
CONCENT MARKET
ショップ名は、英語「CONCENTRATE(集結する)」と和製英語の「コンセント」の造語が由来です。
パンを通して人と人との絆を深めていくベーカリーショップを目指すとのコンセプトだそうです。 -
CONCENT MARKET
パン種は、甘みが特徴の小麦粉は北海道産「春よ恋」を主体に天然酵母とイーストを一晩低温で寝かせる「低温長時間発酵」に拘っています。これにより、より味わい深くなり、水分をしっかりキープできるためにもっちりした食感が愉しめます。総菜パンやサンドイッチなどと共に、ハード系のパンを親しみ易い味にして提供されています。 -
CONCENT MARKET
トップから時計回りで紹介します。
トップが、パンミヤッコ。
じやがいもフォカッチャのソーセージロール。
バゲット クワトロフォルマッジョ。
木の実マロン。
中央が、リュスティック 桜塩とホワイトチョコ。
どれも美味しいのですが、このショップ限定ならではのお勧めは「パンミヤッコ」です。
西宮といえば「酒どころ」です。「西宮っ子=宮っ子」の名前を冠したこのパンは、西宮銘酒「日本盛」の酒粕をチャバッタ生地に練り込み、そこにオレンジピールをほどよく加えたパンです。もっちり食感と後から広がるお酒のほんのりした香り、それにオレンジの酸味がアクセントになり、絶妙なバランスです。郷土愛がぎっしり詰まっています。 -
夙川
西宮市の西を流れる長さ7~8kmの2級河川です。川の名は、元々は、「宿場の川」という意味合いだったそうです。水源は、六甲山地東端のゴロゴロ岳です。
夙川の知名度は周辺の河川に比べて群を抜いています。その理由の多くは、昭和時代初期に開発された夙川公園に帰します。同時期を舞台に終戦直後に刊行された『細雪』をはじめ、平成の現代に至るまで様々な文芸作品の舞台となっているからです。また、桜が苦楽園口駅周辺から数Kmに亘って植えられており、「日本の桜名選」に選ばれたことも奏功しています。 しかし、桜の時期は身動きが取れないほどになるため、当方も7年ほどご無沙汰です。 -
夙川
今年は花の季節が例年より1週間~10日ほど早くなっているそうです。
紅葉の季節にはいくら何でも早過ぎますが、光と影が織り成す幻想的なアートです。 -
夙川延命地蔵尊
元々この場所に安置されていた地蔵尊は、東京都大田区にある御岳神社に「延命地蔵尊」として祀られています。この地蔵尊は、その代わりに新たに安置されたものです。
東京と夙川にどんな縁があるかと言うと、1938(昭和13)年に起こった阪神大水害の折、夙川の土手にあった地蔵尊の傍らで数人の女の子が奇跡的に助かったそうです。我が子の命を救ってくれたお礼にと、荒れ果てた土手にあった地蔵尊を引き取り、大田区千鳥町に移住後に御岳神社に祀り、以来「延命地蔵」として人々に親しまれているそうです。
こちらの地蔵尊には何の由緒書もありませんが、ご覧の通り大切にされていることが見て取れます。 -
夙川延命地蔵尊
「阪神大水害」の様子を小説に記したのは谷崎潤一郎著『細雪』が有名ですが、湯川秀樹博士や野坂昭如氏、遠藤周作氏も往時は阪神間に住んでおり、それぞれが思い思いに綴っています。湯川博士の妻スミさんも『苦楽の園』に記しています。
「昭和13年7月5日。2、3日前からひどい雨が続き、いつもの降り方と違ってどしゃぶりが小やみもなくつづくので、天がどうかなったのじゃないかなどと話しあっていた。…午前11時頃、大音響と共に、裏の「金とんぼ旅館」の煙草店と魚屋の家が、あっという間に押し流されて、前の川へ落ち、川の水は大きな石をごろごろ押し流しながら怒涛となって流れている。バス停の近くの橋げたが石や流木でつまって、川の水はものすごい勢いでバスの通る道路を流れ始めた」。 -
夙川延命地蔵尊
地蔵尊の立像の脇には、地蔵尊を模した3体の石仏が仲良く並んでいます。石仏は、新たな地蔵尊が安置されるまで、地蔵尊の代わりに祀られていたものなのでしょう。
これらの石仏は、増水で流され、人知れず夙川に転がっていたものを拾い上げて祀ったものかもしれません。そう思うと、手を合わせずにはいられません。 -
夙川延命地蔵尊
祠の左脇には「慈悲塔」と彫られた石碑があります。
元々はこの「慈悲塔」が祠の中に祀られていたそうです。夙川や川沿いに落ちていた地蔵尊を拾い集めて埋め、その上に「慈悲塔」を祀ったものだそうです。
阪神淡路大震災で「慈悲塔」が倒れたため、祠から出し、地蔵尊を新しく造って祠の中に祀ったそうです。
やや左に傾いているのが気になりますが…。 -
夙川
「夙川のこいのぼり」は、1995年に初めて飾り付けられました。この年の1月に発生した阪神淡路大震災で被害に遭った市立香櫨園小学校の児童らを慰めるため、500旒を静岡県のボランティア組織が贈ったことがはじまりです。
現在は、5月の風物詩として、阪急夙川駅付近から臨港線の「浜夙川橋」にかけ約1.7kmの川沿いの各所に点在しています。合わせて約250旒が川をまたぐように颯爽と泳ぐ姿には癒されます。 -
夙川
JR東海道本線の電車が走り抜けると川に沿って風が流れ、こいのぼりも元気に泳ぎだします。
裏山秀人さんの写真のように疾走する列車のフロントマスクを狙ってみましたが、通り過ぎた後でした。 -
夙川
気持ち良さそうに泳ぐ姿は壮観です。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。 -
おまけ その1
スヌーピーで有名な『PEANUTS』と阪急電車のコラボ企画『PEANUTS with HANKYU 』の第2弾「スヌーピー&フレンズ号」の運行が始まりました。スヌーピーと仲間たちを描いた車内ポスターやヘッドマーク、さらに車体ドア横のステッカーなど『PEANUTS』の世界が愉しめるスペシャル装飾列車が、8月31日まで神戸、宝塚、京都線の各線1編成ずつ運行しています。(運行日時は不定期)
乗れたら「最高にラッキー!」です。 -
おまけ その2
車内のポスターもスヌーピーたちにジャックされています。
疲れた時や少し勇気が欲しい時にグッと心に沁みる「スヌーピーの名言」を綴ったポスターやスヌーピーとその仲間たちが阪急沿線の季節毎の見所を訪ねる様子を描いたポスターなど様々なスヌーピーが現れます。
「スヌーピーの名言」は、英語の勉強にもなりますよ! -
おまけ その3
阪急電車のマルーン(茶色塗装の通称)の車体色はその美しさで知られており、鏡のようになっています。「ビンテージ赤ワインを思わせる高級感あふれるカラー」とも称されます。阪急電鉄では1910(明治43)年から100年以上に亘り、この伝統色を一貫して採用しています。
では、何故、古い車両でも美しいのか?それは、高級自動車並の4層構造の塗装の賜物です。下塗りした後に下地のパテを塗り、中塗り、上塗りと重ねているからです。通常の電車は1層塗装ですから…。 -
おまけ その4
実はマルーンの色合いも時代によって微妙に変化しており、かつてはもう少しぶどう色に近い色合いでした。次第に高級感のある現在のマルーンに落ち着いたようです。
無塗装のステンレス車両を導入すれば、相当なコストダウンが図れるはずですが、今のところ阪急電車ではあり得ないそうです。阪急といえば、上品で高級なイメージのある関西屈指の伝統の名門ブランドです。その「ブランド」と「伝統」を守るため、「阪急マルーン」をブランドカラーとして踏襲しているそうです。ようするに、走る広告塔なのです。何事も、合理化だけが持て囃されるものではないのです。
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