日高・鶴ヶ島・坂戸旅行記(ブログ) 一覧に戻る
文豪、武者小路実篤が宮崎県日向に創設した農村共同体<br />「新しき村」が2018年で百周年を迎える。<br /><br />1918年に宮崎県日向に土地を購入し、産声を上げた「新<br />しき村」は、1939年に日向の土地の3分の1がダムに水<br />没するのを機に埼玉県毛呂山町に移った。<br /><br />空想的社会主義を元にしたようなユートピア的共同体は、<br />18世紀以降世界各地に出現した。おそらく、産業革命前<br />夜で、イギリスなどの絶対王政国家が工業化にまい進す<br />る中で殺伐とする社会状況を不安視する風潮もあったの<br />かもしれない。この頃に出現した共同体の中で最も有名<br />なのは、英国人実業家で生協の発案者である、ロバート・<br />オーウェンがアメリカのルイジアナ州に設立した、ニュー<br />ハーモニーだろう。しかしこれは、設立後2年で内紛によ<br />り崩壊した。こうした共同体はだいたい20年程度で終焉を<br />迎えている。国家共産主義が強制的に作り上げた中国共産<br />党の人民公社もまたしかり。ソビエト連邦のコルホーズも<br />60年で解体した。ポル・ポトがカンボジア実践した「社会<br />主義の偉大な実験」は都市住民を農村に強制移住させて働<br />かせたが、何百万もの虐殺者を出した。1908年に創設され<br />たイスラエルのキブツが唯一、今も存続している例と言え<br />るだろう。<br /><br />大半の共同体が崩壊あるいは解体している中で、「新しき<br />村」は創設者武者小路実篤死後も続き、創立100週年を迎<br />えた。過去の共同体の寿命が20年程度だと考えると、これ<br />は驚異だ。<br /><br />現在、曲がりなりにも続いているとはいえ、十数人が生活<br />しているだけの武者小路実篤が夢見たアルカディア(理想<br />郷)はどうなっているのだろうか。

武者小路実篤が追い求めた約束の地「新しき村」、その百年後の姿(埼玉県毛呂山町葛貫)

36いいね!

2018/06/01 - 2018/06/01

125位(同エリア632件中)

7

46

ハイペリオン

ハイペリオンさん

文豪、武者小路実篤が宮崎県日向に創設した農村共同体
「新しき村」が2018年で百周年を迎える。

1918年に宮崎県日向に土地を購入し、産声を上げた「新
しき村」は、1939年に日向の土地の3分の1がダムに水
没するのを機に埼玉県毛呂山町に移った。

空想的社会主義を元にしたようなユートピア的共同体は、
18世紀以降世界各地に出現した。おそらく、産業革命前
夜で、イギリスなどの絶対王政国家が工業化にまい進す
る中で殺伐とする社会状況を不安視する風潮もあったの
かもしれない。この頃に出現した共同体の中で最も有名
なのは、英国人実業家で生協の発案者である、ロバート・
オーウェンがアメリカのルイジアナ州に設立した、ニュー
ハーモニーだろう。しかしこれは、設立後2年で内紛によ
り崩壊した。こうした共同体はだいたい20年程度で終焉を
迎えている。国家共産主義が強制的に作り上げた中国共産
党の人民公社もまたしかり。ソビエト連邦のコルホーズも
60年で解体した。ポル・ポトがカンボジア実践した「社会
主義の偉大な実験」は都市住民を農村に強制移住させて働
かせたが、何百万もの虐殺者を出した。1908年に創設され
たイスラエルのキブツが唯一、今も存続している例と言え
るだろう。

大半の共同体が崩壊あるいは解体している中で、「新しき
村」は創設者武者小路実篤死後も続き、創立100週年を迎
えた。過去の共同体の寿命が20年程度だと考えると、これ
は驚異だ。

現在、曲がりなりにも続いているとはいえ、十数人が生活
しているだけの武者小路実篤が夢見たアルカディア(理想
郷)はどうなっているのだろうか。

旅行の満足度
4.5
交通
3.0
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩
  • 武者小路実篤は1885年、東京の麹町に生まれた。<br /><br />子爵武者小路実世の8番目の末っ子で、先祖は<br />京都武者小路通りに屋敷があった公家である。<br /><br />学習院時代に「恐るべきは軍人の人間の価値を知<br />らぬことです」と英雄乃木希典の前で演説をして<br />見せ、軍事演習の際の上官への申告も日常の言葉、<br />今でいうタメ口を使った。<br /><br />乃木希典の死に衝撃を受けた夏目漱石や森鴎外と<br />は違う、全く異なる価値観を身につけて行動する、<br />まさに『坊っちゃん』だった。<br /><br />武者小路実篤の処女作は『芳子』という作品で、<br />1908年に発表された。10か月で病死した兄の長女<br />を扱った作品である。<br /><br />彼の文体は平易ですらすらと読みやすい。ただ、現<br />在の小説を読んでいる身には展開がややかったるく<br />感じるかもしれない。<br /><br />現代において文章の中で普通に使う「という気がす<br />る」という言い回しは彼が使い始めたものである。<br /><br />その後『お目出たき人』、『世間知らず』を相次い<br />で発表した。この後数年間は戯曲を主に発表していた。<br /><br />そしてその6年後の1918年に「新しき村」の建設が<br />始まったのである。<br /><br />彼の代表作『友情』は、宮崎県日向の「新しき村」<br />建設と並行して書かれた。この作品は、男女の三<br />角関係を中心にした物語だが、村上春樹のように<br />頻繁にセックスはしないし、主人公はサンドイッ<br />チを食べない。純粋な恋愛感情と友情が描かれた<br />作品である。<br /><br />武者小路実篤は1976年に90歳で死去した。彼の<br />生涯で驚かされるのは、その旺盛な創作意欲であ<br />る。彼は死の間際まで、原稿用紙に向かい創作活<br />動を続けた。文豪と言えるような人はそれくらい<br />は当然かもしれないが、写真にキャプションをつ<br />けるだけのような旅行記をうんうん唸りながら月<br />に2~3本しかアップできないど素人のぼくのよ<br />うな人間とはえらい違いである。<br />

    武者小路実篤は1885年、東京の麹町に生まれた。

    子爵武者小路実世の8番目の末っ子で、先祖は
    京都武者小路通りに屋敷があった公家である。

    学習院時代に「恐るべきは軍人の人間の価値を知
    らぬことです」と英雄乃木希典の前で演説をして
    見せ、軍事演習の際の上官への申告も日常の言葉、
    今でいうタメ口を使った。

    乃木希典の死に衝撃を受けた夏目漱石や森鴎外と
    は違う、全く異なる価値観を身につけて行動する、
    まさに『坊っちゃん』だった。

    武者小路実篤の処女作は『芳子』という作品で、
    1908年に発表された。10か月で病死した兄の長女
    を扱った作品である。

    彼の文体は平易ですらすらと読みやすい。ただ、現
    在の小説を読んでいる身には展開がややかったるく
    感じるかもしれない。

    現代において文章の中で普通に使う「という気がす
    る」という言い回しは彼が使い始めたものである。

    その後『お目出たき人』、『世間知らず』を相次い
    で発表した。この後数年間は戯曲を主に発表していた。

    そしてその6年後の1918年に「新しき村」の建設が
    始まったのである。

    彼の代表作『友情』は、宮崎県日向の「新しき村」
    建設と並行して書かれた。この作品は、男女の三
    角関係を中心にした物語だが、村上春樹のように
    頻繁にセックスはしないし、主人公はサンドイッ
    チを食べない。純粋な恋愛感情と友情が描かれた
    作品である。

    武者小路実篤は1976年に90歳で死去した。彼の
    生涯で驚かされるのは、その旺盛な創作意欲であ
    る。彼は死の間際まで、原稿用紙に向かい創作活
    動を続けた。文豪と言えるような人はそれくらい
    は当然かもしれないが、写真にキャプションをつ
    けるだけのような旅行記をうんうん唸りながら月
    に2~3本しかアップできないど素人のぼくのよ
    うな人間とはえらい違いである。

  • 「新しき村」へは2つの行き方がある。<br /><br />ひとつは東武越生線の武州長瀬駅で降りるか八高線<br />の毛呂駅で降りるかである。どちらも駅から歩かね<br />ばならないが、毛呂駅からはかなり遠い。<br /><br />というわけで武州長瀬駅までやって来た。池袋から<br />約1時間かかった。

    「新しき村」へは2つの行き方がある。

    ひとつは東武越生線の武州長瀬駅で降りるか八高線
    の毛呂駅で降りるかである。どちらも駅から歩かね
    ばならないが、毛呂駅からはかなり遠い。

    というわけで武州長瀬駅までやって来た。池袋から
    約1時間かかった。

  • 武州長瀬駅は、大きな商業施設のない静かな駅で、<br />駅を離れるとすぐに一戸建て住宅が広がっていた。<br /><br />すぐに右手に武蔵野霊園という墓地が現れ、墓地の塀<br />に沿って上り坂を行くと三叉路があり、左に曲がって<br />坂を下る。

    武州長瀬駅は、大きな商業施設のない静かな駅で、
    駅を離れるとすぐに一戸建て住宅が広がっていた。

    すぐに右手に武蔵野霊園という墓地が現れ、墓地の塀
    に沿って上り坂を行くと三叉路があり、左に曲がって
    坂を下る。

  • 坂を下りきった突き当りに「新しき村」の標識があった。

    坂を下りきった突き当りに「新しき村」の標識があった。

  • 視線の先の広大な斜面には太陽光パネルが並べられていた。

    視線の先の広大な斜面には太陽光パネルが並べられていた。

  • この土地はもう既に「新しき村」のようだ。

    この土地はもう既に「新しき村」のようだ。

  • あぜ道より少し広い程度のガタガタ道を進むと<br />村の中心部へ行く。

    あぜ道より少し広い程度のガタガタ道を進むと
    村の中心部へ行く。

  • 遠くで男2人が農作業しているのが見えた。

    遠くで男2人が農作業しているのが見えた。

  • 村の中に入ったのはわかったが、民家のような<br />ものは見当たらず、使われなくなって久しい小<br />屋がいくつかあった。

    村の中に入ったのはわかったが、民家のような
    ものは見当たらず、使われなくなって久しい小
    屋がいくつかあった。

  • こちらは倉庫に使っていたと思われるトタン葺き<br />の建物。<br /><br />裸婦が描かれている。

    こちらは倉庫に使っていたと思われるトタン葺き
    の建物。

    裸婦が描かれている。

  • こちらも廃屋となった倉庫。<br /><br />同じように裸婦が描かれている。しかし、絵も<br />風雪にさらされ塗装が剥げ落ちていた。

    こちらも廃屋となった倉庫。

    同じように裸婦が描かれている。しかし、絵も
    風雪にさらされ塗装が剥げ落ちていた。

  • 村の中心と思われる場所には武者小路実篤記念館、<br />その向かいには新しき村公会堂があった。<br /><br />公会堂には村のマークが描かれていた。

    村の中心と思われる場所には武者小路実篤記念館、
    その向かいには新しき村公会堂があった。

    公会堂には村のマークが描かれていた。

  • 公会堂の向かいにある武者小路実篤記念館は、調布に<br />ある彼の住居にあるものに比べるとかなり小さかった。<br /><br />展示品は似たようなものが多かった。<br /><br />

    公会堂の向かいにある武者小路実篤記念館は、調布に
    ある彼の住居にあるものに比べるとかなり小さかった。

    展示品は似たようなものが多かった。

  • 受付の女性に村のことをいろいろ尋ねた。<br /><br />60代と思しき彼女は、笑みを絶やさずに、自分は村外<br />会員で、車で通ってきていると言った。<br /><br />村外会員は月にいくらかの会費を払い、村の事業を手<br />伝う人たちだ。村外会員は現在百数十名ほどいるという。<br /><br />ここに来る前に見かけた農作業の人たちも村外会員な<br />のだろう。<br /><br />村内の生活者は現在15人ほど。世帯数ではなく、人数<br />で答えていた。想像していた通り、高齢者ばかりのよ<br />うだ。<br /><br />記念館の向かいの公会堂の前で、村内会員の人らしい<br />女性が2~3人、立ち話をしていた。いずれも60代く<br />らいで、一様に日焼けしていた。<br /><br />「新しき村」と聞くと、国会議事堂前で「アベヤメロ!」<br />とシュプレヒコールを上げている市民活動家の成れの<br />果てのようなイメージだが、実際には、ずっと農作業<br />を続けてきたような農民風の顔をした人ばかりだった。<br /><br />

    受付の女性に村のことをいろいろ尋ねた。

    60代と思しき彼女は、笑みを絶やさずに、自分は村外
    会員で、車で通ってきていると言った。

    村外会員は月にいくらかの会費を払い、村の事業を手
    伝う人たちだ。村外会員は現在百数十名ほどいるという。

    ここに来る前に見かけた農作業の人たちも村外会員な
    のだろう。

    村内の生活者は現在15人ほど。世帯数ではなく、人数
    で答えていた。想像していた通り、高齢者ばかりのよ
    うだ。

    記念館の向かいの公会堂の前で、村内会員の人らしい
    女性が2~3人、立ち話をしていた。いずれも60代く
    らいで、一様に日焼けしていた。

    「新しき村」と聞くと、国会議事堂前で「アベヤメロ!」
    とシュプレヒコールを上げている市民活動家の成れの
    果てのようなイメージだが、実際には、ずっと農作業
    を続けてきたような農民風の顔をした人ばかりだった。

  • 売店で売っているのはやはりというか予想通り無農<br />薬で作った農産物。<br /><br />農業に縁のなかった人たちが集まるむらだから、無<br />農薬有機農法に向かうのは自然なのかもしれない。<br /><br />実家が農家で、農業というのをつぶさに見て育った<br />ぼくからすると、農薬を使わずに農作物を育てると<br />いうのは、ほぼ不可能なのだが。

    売店で売っているのはやはりというか予想通り無農
    薬で作った農産物。

    農業に縁のなかった人たちが集まるむらだから、無
    農薬有機農法に向かうのは自然なのかもしれない。

    実家が農家で、農業というのをつぶさに見て育った
    ぼくからすると、農薬を使わずに農作物を育てると
    いうのは、ほぼ不可能なのだが。

  • すぐ近くには茶畑が広がっていた。とりあえず、<br />この村で見た初めての商品作物だった。<br /><br />

    すぐ近くには茶畑が広がっていた。とりあえず、
    この村で見た初めての商品作物だった。

  • 会員の作品を展示するギャラリーがあったので、<br />入った。

    会員の作品を展示するギャラリーがあったので、
    入った。

  • 展示されていたのはほとんどが絵画だった。<br /><br />武者小路実篤は、昼間は農作業をし、終わったら<br />あとは自由で、各自創作活動に勤しむべしと提唱<br />した。<br /><br />まあしかし、農作業に疲れた体で絵を描いたり壺<br />を作ったりするのはなかなか楽じゃない。

    展示されていたのはほとんどが絵画だった。

    武者小路実篤は、昼間は農作業をし、終わったら
    あとは自由で、各自創作活動に勤しむべしと提唱
    した。

    まあしかし、農作業に疲れた体で絵を描いたり壺
    を作ったりするのはなかなか楽じゃない。

  • おそらく村内の風景だろう。

    おそらく村内の風景だろう。

  • ここ毛呂山町に移った当時の写真が展示されていた。<br /><br />当初は野井と川島の2家族だけだったという。そして、<br />1944年に川島一家が離村し、一時的に野井一家だけ<br />となって時期もあった。

    ここ毛呂山町に移った当時の写真が展示されていた。

    当初は野井と川島の2家族だけだったという。そして、
    1944年に川島一家が離村し、一時的に野井一家だけ
    となって時期もあった。

  • 1958年に自活を達成したというが、おそらくこの写<br />真はそのころのものかもしれない。

    1958年に自活を達成したというが、おそらくこの写
    真はそのころのものかもしれない。

  • 村内会員の夫婦と思しき二人が記念写真を撮っていた。

    村内会員の夫婦と思しき二人が記念写真を撮っていた。

  • 八高線の毛呂駅から来ると、表紙の写真とこの柱に出迎<br />えられる。<br /><br />「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」<br /><br />1953年に建てられた。

    八高線の毛呂駅から来ると、表紙の写真とこの柱に出迎
    えられる。

    「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」

    1953年に建てられた。

  • 武者小路実篤が「新しき村」のような共同体を構想し<br />始めたのは、彼が文学を志したのとほぼ同時期のよう<br />である。<br /><br />1908年、つまり「新しき村」創設の10年前の日記に<br />は、次のような記述が見られる。<br /><br />「自分はこの頃になってやっと何か仕事が出来るよう<br />に思えてきた。(中略)それは新しい社会を作ること<br />だ。理想国のモデルを作ることだ」<br /><br />具体的な内容については、1918年に大阪毎日新聞に載<br />った武者小路実篤による架空の対話に書かれている。

    武者小路実篤が「新しき村」のような共同体を構想し
    始めたのは、彼が文学を志したのとほぼ同時期のよう
    である。

    1908年、つまり「新しき村」創設の10年前の日記に
    は、次のような記述が見られる。

    「自分はこの頃になってやっと何か仕事が出来るよう
    に思えてきた。(中略)それは新しい社会を作ること
    だ。理想国のモデルを作ることだ」

    具体的な内容については、1918年に大阪毎日新聞に載
    った武者小路実篤による架空の対話に書かれている。

  • A.君は新しき村を建てたがっているそうだね。<br />  僕の弟も仲間に入りたがっている。一体新し<br />  き村と云うのはどんな村なのだ。<br />B.新しき村と云うのは、一言で云えば皆が協力<br />  して共産的に生活し、そして各自の天職をま<br />  っとうしようと云うのだ。皆がつまり兄弟の<br />  ようになってお互いに助け合って、自己を完<br />  成するようにつとめようと云うのだ。<br /><br />A.それなら田舎に引っ込む必要はないだろう。<br />  都会の方が我々の天職を発揮するに都合のい<br />  いこともあるだろう。<br />B.それはないとは云わない。しかし、僕は現社<br />  会の渦中から飛び出して、現社会の不合理な<br />  歪なりに出来上がった秩序から抜け出して、<br />  新しい合理的な秩序のもとに生活しなおして<br />  みたいと云う気もするのだ。つまり、自分達<br />  は今の資本家にもなりたくなく、今の労働者<br />  にもなりたくなく、今の社会の食客的生活も<br />  したくない、そう云う生活よりももっと人間<br />  らしい生活と信じる生活を出来るだけやりた<br />  いというのだ。

    A.君は新しき村を建てたがっているそうだね。
      僕の弟も仲間に入りたがっている。一体新し
      き村と云うのはどんな村なのだ。
    B.新しき村と云うのは、一言で云えば皆が協力
      して共産的に生活し、そして各自の天職をま
      っとうしようと云うのだ。皆がつまり兄弟の
      ようになってお互いに助け合って、自己を完
      成するようにつとめようと云うのだ。

    A.それなら田舎に引っ込む必要はないだろう。
      都会の方が我々の天職を発揮するに都合のい
      いこともあるだろう。
    B.それはないとは云わない。しかし、僕は現社
      会の渦中から飛び出して、現社会の不合理な
      歪なりに出来上がった秩序から抜け出して、
      新しい合理的な秩序のもとに生活しなおして
      みたいと云う気もするのだ。つまり、自分達
      は今の資本家にもなりたくなく、今の労働者
      にもなりたくなく、今の社会の食客的生活も
      したくない、そう云う生活よりももっと人間
      らしい生活と信じる生活を出来るだけやりた
      いというのだ。

  • 上の記事が出たのが7月。しかし、彼はすでに「新しき村」<br />創建の準備に入っており、同月には雑誌「新しき村」が創刊<br />されている。そして9月には自宅を引き払い、宮崎県日向に<br />向けて出発した。<br /><br />一度やると決めた時の迅速な行動力は実に見事である。武者<br />小路実篤、33歳の時であるる<br /><br />日向で苦労の末買った土地は1ヘクタール。入植者は実篤夫<br />婦を含めた20名だった。しかし、農業経験者は一人だけだった。<br /><br />しかし、買った土地はやせており、水はけは悪く、水の便も<br />悪かった。

    上の記事が出たのが7月。しかし、彼はすでに「新しき村」
    創建の準備に入っており、同月には雑誌「新しき村」が創刊
    されている。そして9月には自宅を引き払い、宮崎県日向に
    向けて出発した。

    一度やると決めた時の迅速な行動力は実に見事である。武者
    小路実篤、33歳の時であるる

    日向で苦労の末買った土地は1ヘクタール。入植者は実篤夫
    婦を含めた20名だった。しかし、農業経験者は一人だけだった。

    しかし、買った土地はやせており、水はけは悪く、水の便も
    悪かった。

  • 作家として一気に有名を馳せた人物が創設した理想郷はスタ<br />ートからつまづいた。<br /><br />聞こえてくるのは周囲の「それ見たことか」式の嘲笑だった。<br />「東京生まれのボンボンが田舎で農業なんて」といった予想<br />されたものだった。<br /><br />武者小路実篤自身が『お目出度き人』であり、『世間知らず』<br />と言わんばかりのものだったのだ。<br /><br />世間の目以上に文壇は辛らつだった。菊池寛は自身の著作の<br />中で「『新しき村』なんて人気取りの奇行ですな。文士や小<br />説家などというものには奇抜なことをやって人気を取ろうと<br />云う傾向があっていかん。『新しき村』なんて小説家や文士<br />などの足腰の弱い連中が百姓をしたって何が出来るもんか」<br />と語らせている。

    作家として一気に有名を馳せた人物が創設した理想郷はスタ
    ートからつまづいた。

    聞こえてくるのは周囲の「それ見たことか」式の嘲笑だった。
    「東京生まれのボンボンが田舎で農業なんて」といった予想
    されたものだった。

    武者小路実篤自身が『お目出度き人』であり、『世間知らず』
    と言わんばかりのものだったのだ。

    世間の目以上に文壇は辛らつだった。菊池寛は自身の著作の
    中で「『新しき村』なんて人気取りの奇行ですな。文士や小
    説家などというものには奇抜なことをやって人気を取ろうと
    云う傾向があっていかん。『新しき村』なんて小説家や文士
    などの足腰の弱い連中が百姓をしたって何が出来るもんか」
    と語らせている。

  • 開村当初は自活など程遠い状態で、費用の大半は実篤の資<br />金と支持者の寄付で運営されていた。<br /><br />生活は、1日8時間の義務労働のあとは自由時間で、趣味<br />の時間に当てられるサイクルだった。<br /><br />地元の人々も怪しげな集団ではないかと当初は警戒してい<br />たが、都会的ないわゆるハイカラな暮らしぶりに目を奪わ<br />れ、やがて村人と交流するようになった。

    開村当初は自活など程遠い状態で、費用の大半は実篤の資
    金と支持者の寄付で運営されていた。

    生活は、1日8時間の義務労働のあとは自由時間で、趣味
    の時間に当てられるサイクルだった。

    地元の人々も怪しげな集団ではないかと当初は警戒してい
    たが、都会的ないわゆるハイカラな暮らしぶりに目を奪わ
    れ、やがて村人と交流するようになった。

  • 村人の中にはハンセン病患者や被差別部落出身者、朝鮮人<br />などもおり、全員が平等に生活していた。<br /><br />しかし、独身の若い男女が狭い土地の中で生活していれば、<br />当然トラブルも起きる。2年目には創設時の有力会員がご<br />っそり抜けるようなこともあった。<br /><br />村の運営が軌道に乗った数年後、突如創設者の武者小路実<br />篤が離村した。本人は病気の母を看病するものがいないか<br />らなどと言い訳をしていたようだが、実際には奈良や和歌<br />山を転々としていたから、どうも怪しい。<br /><br />彼は村内作業で体を壊し、農作業があまりできず、屋内に<br />こもって原稿書きに勤しんでいた。しかし、ほかの村人が<br />外で作業しているときに、一人部屋にこもっていては村人<br />からの視線が痛いということがあったのかもしれない。<br /><br />しかし、村の運営は彼の収入に依るところが大きく、周囲<br />の目を気にすることなく執筆作業ができる場所を求めてい<br />たのではないだろうか。<br />

    村人の中にはハンセン病患者や被差別部落出身者、朝鮮人
    などもおり、全員が平等に生活していた。

    しかし、独身の若い男女が狭い土地の中で生活していれば、
    当然トラブルも起きる。2年目には創設時の有力会員がご
    っそり抜けるようなこともあった。

    村の運営が軌道に乗った数年後、突如創設者の武者小路実
    篤が離村した。本人は病気の母を看病するものがいないか
    らなどと言い訳をしていたようだが、実際には奈良や和歌
    山を転々としていたから、どうも怪しい。

    彼は村内作業で体を壊し、農作業があまりできず、屋内に
    こもって原稿書きに勤しんでいた。しかし、ほかの村人が
    外で作業しているときに、一人部屋にこもっていては村人
    からの視線が痛いということがあったのかもしれない。

    しかし、村の運営は彼の収入に依るところが大きく、周囲
    の目を気にすることなく執筆作業ができる場所を求めてい
    たのではないだろうか。

  • 開村して20年後、何とか村存続の見通しがついたころ、新<br />しき村の地にダムを造るとの通達があった。<br /><br />宮崎県当局が新しき村に対し抱いていた感情を推し量れる<br />ような政策だった。<br /><br />当初村は抵抗したものの、話し合っても埒は開かないと見<br />るや、保証金3千円(約1300万円)を受け取り、二家族を<br />残して日向の地を後にした。<br /><br />そして、1939年にここ埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫の雑<br />木林1ヘクタールを購入し、東の村が始まった。しかし、東<br />の村への移住で村人は一挙に減り、たった2人になってしま<br />った。<br /><br />ほとんど崩壊の危機と言える状況だが、この危機をなんとか<br />乗り越えることができたのは村外会員の存在である。<br /><br />村外会員には資金面で援助する者、農作業を手伝う者さまざ<br />まで、彼らの物心両面の援助によって村は何とか存続するこ<br />とができた。<br /><br />新しき村が現在まで存続した最も大きな要因は村外会員の存<br />在ではないかと思われる。

    開村して20年後、何とか村存続の見通しがついたころ、新
    しき村の地にダムを造るとの通達があった。

    宮崎県当局が新しき村に対し抱いていた感情を推し量れる
    ような政策だった。

    当初村は抵抗したものの、話し合っても埒は開かないと見
    るや、保証金3千円(約1300万円)を受け取り、二家族を
    残して日向の地を後にした。

    そして、1939年にここ埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫の雑
    木林1ヘクタールを購入し、東の村が始まった。しかし、東
    の村への移住で村人は一挙に減り、たった2人になってしま
    った。

    ほとんど崩壊の危機と言える状況だが、この危機をなんとか
    乗り越えることができたのは村外会員の存在である。

    村外会員には資金面で援助する者、農作業を手伝う者さまざ
    まで、彼らの物心両面の援助によって村は何とか存続するこ
    とができた。

    新しき村が現在まで存続した最も大きな要因は村外会員の存
    在ではないかと思われる。

  • そして、養鶏業が軌道に乗り、1950年代後半には完全自活を<br />達成した。新しき村設立後40年である。<br /><br />養鶏業と乳牛の飼育により、村は順調に発展し、約50名の村<br />人はお金の心配をする必要もなくなった。<br /><br />

    そして、養鶏業が軌道に乗り、1950年代後半には完全自活を
    達成した。新しき村設立後40年である。

    養鶏業と乳牛の飼育により、村は順調に発展し、約50名の村
    人はお金の心配をする必要もなくなった。

  • 1968年には都電の廃車が寄贈され、これを使って幼稚園が始ま<br />った。<br /><br />村の子供だけでなく、隣に造成された団地からも園児を受け入<br />れ、未来の後継者づくりにも着手した。<br /><br />以降10年間は何の不安もなく村は発展した。

    1968年には都電の廃車が寄贈され、これを使って幼稚園が始ま
    った。

    村の子供だけでなく、隣に造成された団地からも園児を受け入
    れ、未来の後継者づくりにも着手した。

    以降10年間は何の不安もなく村は発展した。

  • しかし、危機的なことがなかったわけではない。<br /><br />最大の出来事は、1976年の実篤の死去である。享年90。<br /><br />すでに村は実篤からの支援は必要なくなっていたから、<br />経済的な損失はなかったが、精神面に先々への不安や恐<br />れが芽生えたかもしれない。<br /><br />新しき村の始祖であり、精神的支柱だったカリスマの死<br />は何かあれば実篤を頼ればいいと考えていた村人に漠然<br />とした不安を抱かせたはずだ。<br /><br />「村の諸問題を考える会」が始まったのはこの年だった。

    しかし、危機的なことがなかったわけではない。

    最大の出来事は、1976年の実篤の死去である。享年90。

    すでに村は実篤からの支援は必要なくなっていたから、
    経済的な損失はなかったが、精神面に先々への不安や恐
    れが芽生えたかもしれない。

    新しき村の始祖であり、精神的支柱だったカリスマの死
    は何かあれば実篤を頼ればいいと考えていた村人に漠然
    とした不安を抱かせたはずだ。

    「村の諸問題を考える会」が始まったのはこの年だった。

  • カリスマの死後も村は順調な発展を続けて行った。<br /><br />特に養鶏業が順調で、高値安定の鶏卵のおかげで、<br />村人100人を養えるほどの収入をもたらした。

    カリスマの死後も村は順調な発展を続けて行った。

    特に養鶏業が順調で、高値安定の鶏卵のおかげで、
    村人100人を養えるほどの収入をもたらした。

  • 1970~80年代は村の安定期に入り、財政は黒字続き、<br />「個人費」という名目で、月3万円の現金が支給された。<br /><br />しかし、残念ながら好調だったのはここまで。90年代以<br />降は緩い斜面に置かれた巨石のようにゆっくりと坂を下<br />り始めた。

    1970~80年代は村の安定期に入り、財政は黒字続き、
    「個人費」という名目で、月3万円の現金が支給された。

    しかし、残念ながら好調だったのはここまで。90年代以
    降は緩い斜面に置かれた巨石のようにゆっくりと坂を下
    り始めた。

  • 先細りの原因は、村人の高齢化と新しい人が入村して来<br />ないことだった。<br /><br />このため、養鶏場を維持することが困難になってきた。

    先細りの原因は、村人の高齢化と新しい人が入村して来
    ないことだった。

    このため、養鶏場を維持することが困難になってきた。

  • 最盛期には5万羽が飼われていたニワトリも半減せざるを<br />得なくなった。<br /><br />更に鶏卵業界の生産過剰による価格下落が続き、収入の大<br />黒柱はその使命を果たすことができなくなった。<br /><br />2004年の鳥インフルエンザ以後も細々と続けられていた養<br />鶏も2014年には最終的に終了となった。<br /><br />鶏舎は今も残っており、村の敷地に占める面積を考えると、<br />当時いかに養鶏業に頼っていたかがしのばれる。

    最盛期には5万羽が飼われていたニワトリも半減せざるを
    得なくなった。

    更に鶏卵業界の生産過剰による価格下落が続き、収入の大
    黒柱はその使命を果たすことができなくなった。

    2004年の鳥インフルエンザ以後も細々と続けられていた養
    鶏も2014年には最終的に終了となった。

    鶏舎は今も残っており、村の敷地に占める面積を考えると、
    当時いかに養鶏業に頼っていたかがしのばれる。

  • 現在は数少ない現金収入を得る方法として、椎茸の栽培<br />が行われている。

    現在は数少ない現金収入を得る方法として、椎茸の栽培
    が行われている。

  • 椎茸を炭火で乾燥させている煙が小屋から上がっていた。

    椎茸を炭火で乾燥させている煙が小屋から上がっていた。

  • とにかく働き盛りの人材が入って来ず、村人の平均年齢は上<br />昇するばかりで、創立100年目を迎えて、村はすっかり限界<br />集落と化してしまった。

    とにかく働き盛りの人材が入って来ず、村人の平均年齢は上
    昇するばかりで、創立100年目を迎えて、村はすっかり限界
    集落と化してしまった。

  • 記念館の女性も言っていたが、ポツリポツリと人は来るものの、<br />なかなか長続きしないらしい。<br /><br />今の時代、プライバシーが保てない空間で赤の他人と共同生活<br />なんてまっぴらと拒否反応を起こす人が多いのは、自分もそ<br />うだからなんとなく理解できる。<br /><br />共同生活による自給自足などと聞くと、どこかいかがわしい<br />新興宗教の匂いがする。オウム真理教のトラウマを抱えた日<br />本人にはなかなか受け入れがたいものがあるのだと思う。<br /><br />その割にはシェアハウスなどというものが建ち、「テラスハ<br />ウス」という番組が人気になったりしているが。そういえば<br />セカイノオワリというバンドの連中は共同生活をしていると<br />聞いたことがある。気の合う者同士なら共同生活ももまた楽<br />しということなのだろうか。

    記念館の女性も言っていたが、ポツリポツリと人は来るものの、
    なかなか長続きしないらしい。

    今の時代、プライバシーが保てない空間で赤の他人と共同生活
    なんてまっぴらと拒否反応を起こす人が多いのは、自分もそ
    うだからなんとなく理解できる。

    共同生活による自給自足などと聞くと、どこかいかがわしい
    新興宗教の匂いがする。オウム真理教のトラウマを抱えた日
    本人にはなかなか受け入れがたいものがあるのだと思う。

    その割にはシェアハウスなどというものが建ち、「テラスハ
    ウス」という番組が人気になったりしているが。そういえば
    セカイノオワリというバンドの連中は共同生活をしていると
    聞いたことがある。気の合う者同士なら共同生活ももまた楽
    しということなのだろうか。

  • しかし、少数ではあるが入村を希望する人はいるようだから、<br />広報活動を村外会員の人たちが中心になって行えば、人は集<br />まるのではないかと思う。

    しかし、少数ではあるが入村を希望する人はいるようだから、
    広報活動を村外会員の人たちが中心になって行えば、人は集
    まるのではないかと思う。

  • 現在、このような限界集落に陥ってしまったのは、ひとえ<br />に宣伝不足という面が強く、一般の人がその存在を全く知<br />らないようでは、人も集まりようがない。

    現在、このような限界集落に陥ってしまったのは、ひとえ
    に宣伝不足という面が強く、一般の人がその存在を全く知
    らないようでは、人も集まりようがない。

  • 都会での勤め人生活をやめて、田舎に土地を買って農業を<br />するリタイア組もいるし、若いうちに田舎生活を志す人も<br />いる。<br /><br />こうした人たちを取り込むことができれば、村の存続も可<br />能なはずだ。

    都会での勤め人生活をやめて、田舎に土地を買って農業を
    するリタイア組もいるし、若いうちに田舎生活を志す人も
    いる。

    こうした人たちを取り込むことができれば、村の存続も可
    能なはずだ。

  • 1日6時間程度の労働をするだけで、あとは何をやっても<br />自由という、何にも縛られない生活があるのだから、その<br />辺をアピールすれば、心に留める人もいるように思う。<br /><br />それに、都心から2時間程度で来られるところにあるのだ<br />から、存在が一般の人に知られれば、人は集まるのではな<br />いか。

    1日6時間程度の労働をするだけで、あとは何をやっても
    自由という、何にも縛られない生活があるのだから、その
    辺をアピールすれば、心に留める人もいるように思う。

    それに、都心から2時間程度で来られるところにあるのだ
    から、存在が一般の人に知られれば、人は集まるのではな
    いか。

  • 武者小路実篤が設立してから100年。彼が死んでから40年<br />以上たった今も、彼が追い求めた理想社会はいまも何とか<br />生きている。<br /><br />世界でも例を見ない長命の共同生活村も、本気で存続の道<br />を探らないときに来てしまっている。<br /><br />あと何十年後も新しき村の旗は、ここではためいているだ<br />ろうか。

    武者小路実篤が設立してから100年。彼が死んでから40年
    以上たった今も、彼が追い求めた理想社会はいまも何とか
    生きている。

    世界でも例を見ない長命の共同生活村も、本気で存続の道
    を探らないときに来てしまっている。

    あと何十年後も新しき村の旗は、ここではためいているだ
    ろうか。

この旅行記のタグ

36いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (7)

開く

閉じる

  • olive kenjiさん 2021/05/16 21:35:32
    素晴らしきドキュメンタリー記事
    ハイペリオンさん  四国村旅行記にいいね有難うございました。

    前から気になっていた、この旅行記を読まさせて頂きました。
    新しき村がまだ存在していたという驚きと、武者小路実篤や新しき村の経緯がよく理解出来とても良かったです。文章だけでは固くなるところ、モノクロ写真付随のドキュメンタリーでタッチ描写で、緊迫感がありました。

    実家が農家で、農業というのをつぶさに見て育った
    ぼくからすると、農薬を使わずに農作物を育てると
    いうのは、ほぼ不可能なのだが。という文章が強烈な印象でした。
    理想を追う開拓者や新規農業参入者の夢は分かるのですが、何百年の農業の経験から得た農薬などを含めた農民の知恵や市場原理も尊重すべきかと思います。
    実家が農家という事で、これからもハイペリオンさんの現実からの視点での意見をもっと知りたいところあります。

    本当にハイペリオンさんの旅行記のメッセージは強烈なものがあり、私の考えと相違することもあるかもしれませんが、フォローさせて下さいませ。
    これからもよろしくお願いします。

    ハイペリオン

    ハイペリオンさん からの返信 2021/05/17 08:13:03
    コメントありがとうございます
    おはようございます。

    コメントどうもありがとうございます。

    いつも肩に力が入ったような文章にな
    ってしまうのが自分の悪い癖で、なか
    なか治りません。にもかかわらず、最
    後まで丁寧に読んでいただきありがと
    うございます。

    悪口ばっかり書いている誰かさんみた
    いにならないよう気を付けたいと思い
    ます。

    フォローしていただきありがとうござ
    います。私もフォローさせていただき
    ます。

    では。

    olive kenji

    olive kenjiさん からの返信 2021/05/17 08:53:46
    RE: フォローありがとうございます
    ハイペリオンさん 軟弱な私にフォローまで頂き有難うございます。

    私は競馬は全くしませんが、プロフィール写真の馬は凄く美しいと感じています。
    また大好きな場所は、これも全く聞いたことのない所なので、おいおいと読みながら知っていきたいと思っています。

    悪口書きの彼女とは、頭髪の悩みで助言を受けたので、根はいい人だと思いますので怒らなんとってやって下さい。焼酎生姜ぶち込み強烈炭酸割みたいな方なので好きです。
    4トラはもう観光地や旅行の案内よりも、書いている方の個性を知る方が楽しみになってきています。

    やはり、ハイペリオンさんとの共通価値観は、エロっぽい姉ちゃんは何故黒人兵と写真撮りたがるから来ていると思います。これからもよろしくお願い申し上げます。

  • ateruiさん 2019/10/09 10:42:06
    初めまして
    新しき村 素晴らしいです
    武者小路実篤に傾倒し 小説や戯曲は読みました
    何時かこの新しく村にも行ってみたいと思ってから
    随分と経ちました
    4トラメンバーですでに旅行記書かれていたことに
    驚きを隠せません
    ありがとうございました
    何とか存続して欲しいものです
    aterui

    追伸 mm失礼しました

    ハイペリオン

    ハイペリオンさん からの返信 2019/10/10 10:31:27
    ご投票ありがとうございました
    こんにちは。

    投票していただきましてありがとうございます。

    新しき村のことをご存知だったんですね。昨年で
    100周年だったそうで、個人が作った共同体として
    は奇跡のような存続期間だと思います。

    ヤマギシ会のように人権上問題になるようなこと
    もありませんし、皆が黙々と働いているすばらし
    い場所だと思います。

    私は新しき村に行こうと思ってから武者小路実篤
    を泥縄的に読み始めましたから、ateruiさんの前
    ではお恥ずかしい限りです。

    秋の収穫が終われば、いろいろ行事が行われるの
    ではないかと思います。一度行かれてみてはいか
    がでしょう。

    4分前の「m」だけの謎の書き込みはとりあえず
    削除させていただきます(笑)。

    では失礼いたします。

    aterui

    ateruiさん からの返信 2019/10/10 14:12:06
    昨日行ってきましたよ
    ハイペリオンさん こんちは

    昨日早速 

    あたらしき村

    行ってきましたよん

    昨日は時間がとれましたので
    曜日に関係なく行ってきました

    案の定お休みでしたが 中には入れ
    都電 美術館 等見てきましたよ

    秋なので 野菜の即売を期待したんですが
    それとお茶の販売がお休みでした

    杉なんとかというアトリエで展示品も見てきました

    鶏の卵は暴落でやってないのは御気の毒です
    あの鶏舎の大きさからして
    主力だったんでしょうからね

    稲作は丁度 刈って干しているところでした
    今度の台風が心配です

    aterui

    ハイペリオン

    ハイペリオンさん からの返信 2019/10/10 18:17:22
    RE: 昨日行ってきましたよ
    そうなんですか。

    旅行記を書かれるのでしたら楽しみにしております。

ハイペリオンさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP