2021/11/19 - 2021/11/19
175位(同エリア603件中)
ムッシュさん
【最新情報追加】
名古屋城の本丸御殿を入館見学してきました。フォト1~19枚目
【東海道53次歩き:宮宿(七里の渡し)へ】
*鳴海宿 日本橋から341.8km
旅籠68軒、本陣1、脇本陣2、人口3,634人、家数847軒(江戸末期)
*宮宿 日本橋から349.4km
旅籠248軒、本陣2軒、脇本陣1軒、人口10,342人、家数2924軒
熱田神宮の門前として古くから開けていたことから「熱田宿」とも呼ばれ、中山道垂井宿へ行く脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった宮宿。門前町として参拝客も多く、尾張徳川家の御城下として栄え、東海道唯一の海路「七里の渡し」で桑名宿と結ばれていた。旅籠屋の数は東海道最大。
【名古屋観光】
1、熱田神宮(東海道五拾三次歩きの立寄り)(2018・3月)
参道から神宮正面までのお参りです。
2、名古屋城の本丸御殿(2022・11月追加)
現在、地震対策不良から名古屋城入館は禁止です。
- 旅行の満足度
- 4.5
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名古屋城本丸御殿内覧に参りました。
名古屋城は地震対策不足の点から、入館禁止です。もはや内部は見れません。
木造建て替え案には、500億円掛かる由。今後は未定。
左下に少し覗いて見えるのが御殿の一部。 -
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御殿の車寄せ入口。内部見学の入場口はもう少し左方に。
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御殿の車寄せ入口(パンフより)
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それでは、内部の襖絵を見学します。
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車寄せから上がった廊下
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表書院:上段の間
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表書院:奥は上段の間
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上洛殿
1634年(寛永11)、三代将軍家光が京都に向かう途中、名古屋城に宿泊します。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」です。 -
上洛殿
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上洛殿
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黒木書院(御殿HPより)
落ち着いた風情のある黒木書院は、清須城内にあった家康の宿を移築した建物とも伝えられている。本丸御殿のほかの部屋は、総ヒノキ造りであったのに対し、この部屋には良質な松材を使用。色から黒木書院と呼ばれる。襖絵(ふすまえ)も色味を落とし風格のある水墨画で、「山水図」や「四季耕作図」「梅花雉子小禽図(ばいかきじしょうきんず)」などで構成。 -
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これにて名古屋城の見学終えました。
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ここからは、東海道53次ウォーキングNO27(→宮宿へ)のフォトが続く。
名古屋市熱田区伝馬辺り??
【宿駅制度制定四百年記念碑/長楽寺参道前】
江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。現在は繁華な町となっているが、長楽寺・冨部神社、桜明神社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。(名古屋市呼続学区) -
「古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、
「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。
ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。 西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。 また、山崎の長坂(今より急坂であった)に接する山崎の立て場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。」 -
ここは、名古屋市熱田区伝馬2丁目5番地
姥堂には【裁断橋跡碑】があります。
かつては姥堂の東に精進川が流れ、裁断橋が架橋されていた、ここが宮宿の江戸方口(東口)。宮宿に到着です!
裁断橋は天正18年(1590年)小田原征伐で死去した子の菩提を弔う為、母親が三十三回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行い、思いを込めた擬宝珠を据えました。橋名は子への想いが断ち難いところを意としています。
【裁断橋址】
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて現在の姥堂の東側にあった。
天正十八年(1590)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思をついで元和八年(1622)に完成させた。この橋を有名にしているのは、その擬宝珠に彫られている銘文である。仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
名古屋市教育委員会 -
【裁断橋と擬宝珠(ぎぼし)』
「裁断橋
文献では永正六年(一五○九)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。 大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。 昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。
しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。 圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、 母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。」 -
「「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、
十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、
今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、
逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。
三十三年の供養也。」とのこと。 -
姥堂には【裁断橋跡碑】があります。
かつては姥堂の東に精進川が流れ、裁断橋が架橋されていた、ここが宮宿の江戸方口(東口)。宮宿に到着です!
宮の地名は熱田宮を由来。宮宿は熱田神宮の門前町として開け、七里の渡し、名古屋城下を控え大いに賑わい「此宿大に繁花なり、家並みも美々しく、遊女も街道一にして、すこしく大江戸の風をまねぶ」と云われました。
天保14年(1843年)の頃、宮宿の宿内家数は2,924軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠248軒で、宿内人口は10,342人でした。
裁断橋は天正18年(1590年)小田原征伐で死去した子の菩提を弔う為、母親が三十三回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行い、思いを込めた擬宝珠を据えました。橋名は子への想いが断ち難いところを意としています。
裁断橋址
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて現在の姥堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思をついで元和8年(1622)に完成させた。この橋を有名にしているのは、その擬宝珠に彫られている銘文である。仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。(名古屋市教育委員会) -
裁断橋と同じ場所
姥堂には【都々逸発祥之地碑】があります。
都々逸(どどいつ)は寛政12年(1800年)、鳥飯屋の女中お仲等が唄い始め、広まったと云います。都々逸は七七七五調で男女の情愛を唄ったものです。
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす
三千世界の 鴉(からす)を殺し ぬしと朝寝が してみたい
「都々逸発祥の地碑について
寛政12年(1800)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。
江戸時代、この辺りは東海道五十三次の1つ宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったと。その中の“鶏飯屋”で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで飲食関係の女性から名古屋全域に広まっていった。やがて七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名古屋の名物となった。歌碑は縦1.8m、横30cmほどの御影石で、裁断橋跡の西側のたもとにある。」 -
熱田区内田町の「宮の渡し公園」近くです。
以前、埋め立て前はこの辺りも海でした。
熱田の宮の門前町である宮宿は、東海道随一の賑わいを見せる宿駅でした。尾張藩にとっても船番所、船会所、熱田奉行所などを置いていた重要な拠点のひとつ。宮宿は桑名宿と「七里の渡し」と呼ばれる海路で結ばれていました。熱田から西へ、海路を行くのか、陸路の佐屋路を行くのかの分岐点でもあったのです。この他、名古屋の城下町や他の街道にも通じていたことから、多くの人が宮宿で足を止めました。その様子は「尾張名所図会」にも記されています。
【『水と歴史のまち 宮地区』案内板】
「熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、 東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。 また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。 江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。」
ここが41番目の宿場町「宮宿」の東側の入口。 -
もうすぐ湊です
宮宿】宮の地名は熱田宮(あつたみや)を由来とする。宮宿は熱田神宮の門前町として開け、桑名への「七里の渡し」、名古屋城下への道を控え、大いに賑わった。「七里の渡し」は尾張藩の管轄下にあり、宿内には藩の浜ごてん、御朱印改役所、船奉行所、船会所、船番所が置かれた。
「此宿大に繁花なり。家並みも美しく、遊女も街道の第一にして、少しく大江戸の風をまねぶ」 -
七里の渡し湊に着きました。見えるのは時の鐘でっす。
「七里の渡し跡」です、今は「宮の渡し公園」として整備されています。
熱田神宮からも近距離です。
『宮の渡し公園』
東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿。東海道にある宿場のなかでも最大級の規模を誇り、たくさんの人で栄えました。さて、42番目の宿場である桑名宿に行くには、船で海路を行かねばなりません。その距離は当時の単位で七里。そのため「七里の渡し」と呼ばれていました。
船で渡ることがなくなった現代では、船着場として栄えた宮宿側の遺構には当時の常夜燈や時の鐘、船着場などが復元され、「宮の渡し公園」として歴史香る憩いの場となっていた。
【七里の渡し舟着場跡】
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往時の名残をとどめている。安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。(名古屋市)時の鐘 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を思い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。(名古屋市) -
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【時の鐘】
園内に時の鐘(復元)があります、延宝4年(1676年)尾張藩二代藩主徳川光友の命により蔵福寺(熱田神宮の南)に設置されました、昭和二十年(1945)の空襲で鐘楼は焼失したが、鐘は今も残っている。
『時の鐘』
延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。
正確な時を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。
昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとしてこの公園に建設したものである。 -
【常夜灯】
園内に熱田湊常夜燈があります、寛永2年(1625年)尾張藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)の建立に始まり、航行する舟の貴重な目標でした。
常夜燈の管理は神戸(ごうど)町の宝勝寺に委ねられていた、現在の常夜燈は昭和30年(1955年)に復元されたものです。
【熱田湊常夜灯】
この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。常夜灯は寛永二年(一六二五)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。 その後風害で破損したために、承応三年(一六五四)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政三年(一七九一)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和三十年復元した。」 -
熱田湊常夜灯
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【熱田常夜灯】
この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船つき場跡である。常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に常夜灯を建立した。その後風害で破損したために承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年ほぼ現位置に復元された。(名古屋市教育委員会) -
【七里の渡し舟着場】
「七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。 昭和58年に復元されて往時の名残をとどめています。歌川広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます。」 -
【七里の渡船着(尾張名所図絵)】 宮の渡し公園資料より
この絵は、七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた舟、道を行きかう人の多さから当時のにぎわいがわかります。この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東・西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していました。(名古屋市)
熱田の宮の門前町である宮宿は、東海道随一の賑わいを見せる宿駅でした。尾張藩にとっても船番所、船会所、熱田奉行所などを置いていた重要な拠点のひとつ。宮宿は桑名宿と「七里の渡し」と呼ばれる海路で結ばれていました。熱田から西へ、海路を行くのか、陸路の佐屋路を行くのかの分岐点でもあったのです。この他、名古屋の城下町や他の街道にも通じていたことから、多くの人が宮宿で足を止めました。その様子は「尾張名所図会」にも記されています。 -
【宮の渡しの渡船場跡】である
伊勢(三重県)の桑名まで、ここから七里であったので七里の渡しとも言われていた。
旧東海道はここから、次の桑名までは約3時間の船旅であった
東海道名所図会によると、当時の船は40人乗り、47人乗り、53人乗りがあった -
宮と桑名の間には、木曽川、長良川、揖斐川の三川が横たわり、河口ゆえに川幅が広く、また日々流れを変えるので架橋は不可能であった。それ故に、海上7里をふねでえ船で渡った。
渡しは渡船は、48艘、船頭25人、水主132人で行われた。午前四時から午後四時。 -
七里の渡し舟着場跡
宮と桑名の間には木曽川、長良川、揖斐川の大河が横たわり、河口は川幅が広く、架橋は不可能でした。
そこで海上七里の船渡しとなった、但し、潮が引くと十里の渡しとなりました。
渡船の管轄権は尾張藩が掌握し、渡舟48艘、船頭25人、水夫(かこ)130人が従事した。
舟渡しは明け七つ(午前4時)から暮れ七つ(午後4時)、蔵福寺の時の鐘を合図に行われた、舟代は乗合いで一人54文でした。
海路を嫌う者は佐屋まで陸路を6里進み、木曽川を川舟で3里半下って桑名に出ました。 -
【宮の宿とシーボルト】
ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。
文政九年(1826)オランダ使節に随従して江戸へ参府するドイツ人医師シーボルトと名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らと会見し、教えを受けた。
後の名古屋の医学・植物学の研究に多大な影響を与えた。
名古屋市教育委員会 -
【松尾芭蕉と七里の渡し】
松尾芭蕉(1644-94)は、日本を代表する俳人で、「野ざらし紀行」 「おくの細道」 や「古池や蛙飛込む水の音」 などの句が有名です。
「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」
「海暮れて 鴨の声 ほのかに白し」
「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」
この舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する 「芭蕉の時代」 となるきっかけが生まれました。後に名古屋が 「蕉風発祥の地」 と言われる由縁です。また、熱田神宮が 「蓬莱宮」 と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。」 -
東海道ウォークは本日、ここで終了。次回は電車で桑名駅に向かいます。
本日、これより、熱田神宮にお参りして終了とします。
歩道橋を神宮に向かって歩いています。
国道1号線。戻れば、今まで歩いてきた、知立方面へ -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内 【宮】 熱田神事】
広重は熱田神宮の祭礼に行われる馬の塔という神事のうち、荒薦(こも)を巻いた裸馬を走らせ、綱に人々がつかまって走り、競い合う俄馬(にわかうま)を描いています。
【歌川広重の東海道五拾三次之内・宮『熱田神宮』】
この絵は、熱田神宮で行われた「馬の塔」という馬追いの神事を示している。
毎年五月五日に、揃いの有松絞りの半纏をまとった村人達が裸馬に薦(こも)を巻きつけて競争しながら熱田神宮へ奉納した。
この行事は、夕方に行われることが多く、広重もその有様を描いている。 -
【熱田神宮】へ立ち寄り
熱田神宮の御神体は皇室三種の神器の一つ、日本武尊ゆかりの草薙神剣(草薙のみつるぎ)です。
織田信長は清州城を出陣し、熱田神宮に立寄り戦勝祈願し、見事桶狭間の合戦に勝利しました、この礼に信長は土塀を奉納しています。
六万坪の神域には樹齢千年を超える大楠が繁る。また、ここに鎮座する熱田大神とは、神剣を御霊代とする天照大神のことである。
芭蕉関連情報
「忍さへ枯れて餅買ふやどりかな」
芭蕉は熱田神宮に参拝し、「社頭大いに破れ、築地は倒れて、叢(くさむら)隠る【後略】」と記した。芭蕉の目には荒廃してるように見えた。 -
宮宿内に熱田神宮はあります。
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【信長塀】
信長が土塀を奉納してものです。
信長が桶狭間の戦いのとき、ここで戦勝祈願をした話は有名である
その信長が、戦勝の後、ここに奉納した築地塀が今でも信長塀として残されている -
熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まる。第十二代景行天皇の代、日本武尊は神剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなった。尊のお妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田の地にお祀りになった。
以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別の取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきた。
二千年にわたる篤い信仰の歴史を物語るものとして、皇室を初め庶民に至る多くの崇敬者からの奉納品四千余点が、宝物館に収蔵展示されている。樹齢千年を越える楠をはじめとする六万坪の境内は、古来「蓬莱島(ほうらいじま)」の名で知られ、大都会の中心にありながら、静寂で四季の装いあふれる市民のオアシスとして親しまれている。
境内外には本宮・別宮外四十三社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間七十余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられている -
熱田神宮には入れません。
では、次回は桑名で会いましょう。
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