2018/03/03 - 2018/03/03
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montsaintmichelさん
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岡本梅林公園で観梅を堪能した後は、梅つながりで「保久良梅林公園」まで足を運んでみることにしました。六甲山系金鳥山(標高338m)の中腹にある保久良山(189m)にあります。下界とは標高差があるため、開花時期にも差があり、早咲きの梅を愛でるハイキングになりました。
また、保久良梅林の近くには、日本武尊伝説に由来する石燈籠「灘の一つ火」で知られた保久良神社があります。この石燈籠も有名ですが、売りは古代の祭祀信仰の場であったと思しき神秘的かつ夥しい数の「磐座群」です。これらを日本の未知の古代文明「カタカムナ」の遺跡だと唱える科学者も存在し、ミステリアスなアニミズムの聖地となっています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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-
岡本八幡神社 石鳥居
岡本梅林公園のすぐ東隣にある神社です。特に注目される神社ではありませんが、保久良梅林公園への通り道ですので足を運んでいただきたい神社です。
天上川の脇、こんもりとした小さな杜の中に佇みます。社碑の代わりに岡本八幡神社と書かれた大きな標識が立っています。ずんぐりむっくりの鳥居ですが脚の部分で修復され、元々あった部分と接合されています。阪神淡路大地震で脚が折れたのかもしれません。左隅には、由緒舎もあります。
創祀年月は未詳ですが、1192(建久3)年に鎌倉幕府が開かれた頃に村(岡本郷)が形成され、往時隆盛していた源氏にあやかって源氏の氏神である八幡大神(応神天皇)を村の鎮守神として祀ったのが起源と伝えられています。これに因み、一帯は八幡林と呼ばれ、境内東にある谷は八幡谷と呼ばれていました。
祭神は、応神天皇(誉田別尊)と神功皇后(気長足姫尊)を祀ります。神戸市には神功皇后由来の神社が多く、伝承は363年の三韓征伐関連が多いようです。
戦国時代末期には、太閤検地によって気候温暖な優良地であった東灘エリアは直轄領とされ、豊臣秀吉などの武将たちも参拝したと伝えられています。かつては神社の西側の斜面全てが梅林だったそうです。1798(寛政10)年に刊行された『摂津名所図会』には、茶店あり、床几あり、実に多数の人々が梅見を愉しんでいる様子が描かれています。 -
岡本八幡神社 拝殿
こじんまりした神社です。ここで保久良神社への安全登山を祈念していきます。
拝殿も小振りですが、朱塗り、青銅葺の立派な佇まいです。阪神淡路大震災後の再建でもあり、RC工法と思いますが、全く目障りでない造りに仕上がっています。
ここの神社の狛犬は、前足で鞠や子供を抱えています。 -
岡本八幡神社 拝殿
境内には、幹が2股になり、連理したような御神木があちらこちらに点在しています。
そのようなエネルギーが境内に満ちているという証左でしょうか? -
岡本八幡神社 絵馬舎
絵馬はユニークな「福しゃもじ」です。これは、竈神(かまどがみ)に由来する厄払いのおしゃもじです。「火→かまど→炊飯→しゃもじ」と言った連想ゲームの賜物でしょうか?
元々、火は、宗教的な意味を持ち、聖なるものとされてきました。また、古来、かまどは火を扱う場所として神聖視され、竈神を祀ることは全国的に行われています。 -
岡本八幡神社
ここでも美しい梅の花に出会えました。 -
岡本八幡神社
梅花のイメージそのものでは? -
岡本八幡神社
楚々と一輪だけひっそりと咲く梅花は、どこか物語性を秘めています。 -
岡本八幡神社
天上川の護岸に目にも鮮やかな紅梅が咲いています。
その先に透けて見えるのが保久良神社への参道です。 -
保久良神社 参道
保久良神社への参道は2つあり、岡本八幡神社の右横にある児童公園を抜けてゆくコースと阪急岡本駅北側から完全舗装された参道を登るコースがあります。
前者のコースは、保久良神社に最短で登れますが、途中から舗装されていない急斜面の山道を歩くことになります。特に履物の選択には留意ください。 -
保久良神社 参道
ここから舗装された道を離れ、山道に分け入ります。
ここの登りが1番きついかもしれません。
距離的にはしれていますが…。 -
保久良神社
六甲山系金鳥山(標高338m)の中腹にある保久良山(189m)に「保久良梅林公園」や「保久良神社」があります。山の中腹と聞くと、しんどい山登りをするのかと思われるでしょうが、散歩気分で登れるコースです。ゆっくり歩いて、岡本梅林公園から25分程、阪急岡本駅からだと35分程です。高度を上げるたびに大阪湾や神戸港、神戸の街並が徐々に眼下に広がるため、疲れを感じさせません。 -
保久良神社 石鳥居
標高は185mあります。石鳥居は、オーソドックスな明神鳥居です。大きな石鳥居なので阪神淡路大震災では脚が折れ、倒壊したそうです。その脚は、鳥居の東側の林の中に建てられ、阪神淡路大震災の鎮魂を祈り、次代に承継する記念石としています。
主祭神「須佐之男命」、祭神には「大国主命」、「大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)」、「椎根津彦命」の4柱を祀ります。
社伝によると、「椎根津彦命が実在の人物として登場し、須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祭祀した」とあります。また、延喜式神名帳(905年)「保久良神社(摂津国莵原郡)」でも、主祭神「須佐之男命」となっています。
しかし、本来の主祭神は、神武東征の際に速吸門(明石海峡)に現れて軍勢を先導し、大和国造の祖となった「椎根津彦命」とするのが自然であり、現在の主祭神「須佐之男命」は元禄時代に祇園信仰の影響により牛頭天王が合祀されたことによるものと考えられます。因みに、この神社は、中世には天王宮とも称せられ、中古の時代には本庄の庄の氏神として崇敬され、江戸時代には牛頭天王社と称されています。
因みに、椎根津彦の系図は、天火明→天香語山→天村雲→椎根津彦(倭宿禰・珍彦)となっています。 -
保久良神社
鳥居の左脇には、青亀(おうぎ)の背に乗った椎根津彦命の銅像が鎮座しています。現在の神戸市東灘区の「青木(おうぎ)」の地名は、椎根津彦命が青木の浜に青亀に乗って漂着したという伝承に因みます。どうやら、「この神社の主祭神は私です」と黙して語ってるようです。
神武天皇が海路で大和に攻め入る途中、速吸門で待っていた珍彦が神武天皇を案内し、椎根津彦という名を賜りました。その後、椎根津彦は神武天皇に付き従い、変装して天香具山の土を持ち帰り、これでもって神武天皇は戦勝を祈願し、見事勝利をおさめました。椎根津彦がその功により倭国造の要職に就くという話は、倭国造つまり大倭氏の祖神逸話にもなっています。
椎根津彦命が手をかざす方向には、阪神淡路大震災から逞しく復興を遂げた、神戸の街並や神戸港が一望できる仕掛けです。 -
保久良神社 「灘の一つ火」
鳥居の前の崖下に巨大な石燈籠が立っています。「灘の一つ火」として古来大切にされてきた、今で言う燈台の役目を果たしてきた常夜燈です。この神社の建つ場所は、古代の海上交通の要衝でもあり、まさに神武東征の水先案内をした椎根津彦命(しいねつひこのみこと=珍彦(うづひこ))を祀つる神社に相応しいものです。
足元の記述を要約すると「石燈籠は1825(文政8)年に立てられました。夜間航海の目印として沖を行く舟人の心を支えた灯りで、平安時代の神社のかがり火に始まり、江戸時代には地元の人々が天王講を作り油を燃やして燈火を絶やさぬようにして海上平安を願った「祖神」の遺志を継承してきた」とあります。 -
保久良神社 「灘の一つ火」
熊襲征伐の帰途、日本武尊が暗くなった海上で祈りを捧げたところ、山に明かりが一つ灯り、それを目印に無事に帰り着いたと伝わります。この逸話が「灘の一つ火」の由来です。
時代の流れには逆らえず、1959(昭和33)年から電燈が灯されていますが、麓から見上げると今でも「灘の一つ火」が薄っすらと確認できます。
阪神淡路大震災では、この石燈籠も被災しており、崖下の参道に転げ落ちて壊れていたそうです。それを修復したのが現在の「灘の一つ火」です。
灘の里謡「沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや」 -
保久良神社
ここからの眺望は素晴らしく、坂道を登ってきた疲れを忘れさせてくれます。
阪神高速5号湾岸線に架けられた東神戸大橋も間近に見られます。
元々、多くの村里を見渡すことができ、かつ海から昇る太陽を拝み見ることができる場所としてこの地が選ばれ、その地に神社が建てられています。神武天皇にとっても神功皇后にとっても、大阪湾や大阪平野を一望できるこの場所は大和政権樹立のために必須の地だったのではないでしょうか? -
保久良神社
神戸の街並を借景にした贅沢な紅梅です。 -
保久良神社 手水舎
由緒書を要約すると、「神社の創立は不詳だが、境内外に数多の磐座が見られ、古代ここが祭祀信仰の場であったと考えられる。また、石器時代の石斧や石鉋丁、青銅器時代の銅戈(重文)をはじめ弥生時代後期の弥生式土器等が出土し、また、何れもが儀礼に用いられたと考証され、祭祀は弥生時代の紀元前3世紀頃から行われていたと考えられる」とあります。 -
保久良神社 手水舎
この神社は、日本の未知の古代文明「カタカムナ」の遺跡として、科学者 楢崎皐月氏をはじめとする好事家に聖地とされる存在です。本殿周辺に巨大な石組の跡らしきものがあり、それらは古代アニミズム信仰の名残とされています。
『謎解き古代文明』によると、「カタカムナ伝説」の基になったのが陰陽師 安倍晴明伝説だそうです。
「楢崎氏が六甲山系の金鳥山で地質調査を行っていたところ、平十字(ひらとうじ)と名乗る猟師に出合い巻物を見せてもらった。そこには先史時代に解明されたとする 宇宙と生命の驚くべき真相が円と十字を基本とする神代文字で渦巻き状に描かれていた」と言うのがさわりです。
「カタカムナ」については、詳しくないためこれ以上の言及は差し控えさせていただきます。興味ある方は、ネットで検索してください。 -
保久良神社 拝殿
現在の社殿は1940年の紀元2600年を記念してその前年に改築されたものですが、1995年の阪神淡路大震災で被災し、その後修復されています。
また、紀元2600年の際、旧本殿(1766年建造)を末社 祓御神社に、旧拝殿を絵馬堂に移設しています。上手にリサイクルされています。
桜の季節には、枝垂桜が咲き乱れます。 -
保久良神社 拝殿
保久良神社は、かつては「摂津国菟原郡(うばら)鍬靫」と称された式内小社です。
社名「保久良(ホクラ)」の由来を神社は次のように説明しています。
「神霊(ヒ)を集めた場(倉:クラ)」→「ヒクラ」→「ホクラ」と転化したもの。つまり、「ホクラ」の発音に「保久良」を当て字した説です。
また別の説として、椎根津彦は社頭にかがり火(灘の一つ火)を焚いて海上交通安全を図ったことから、火種を保持する庫・倉が由来で火倉(ホクラ)の社名になったとも伝えています。
これ以外にも「ホクラ」の語源には諸説あります。
・矛倉(ホコクラ)からの転化で、「神功皇后三韓征伐の戦利武器を収蔵した」からとの説。
・秀倉(ホクラ)からの意で、「古代祭祀用具の収蔵庫」からとの説。
いずれもさもありなんの説ですが、個人的には秀座(ホクラ)が由来ではないかと思います。境内に古代祭祀に用いられたと思しき磐座(イワクラ)が点在しているのが根拠です。本殿床下にも磐座があるようです。 -
保久良神社 拝殿
境内からは、鎌倉時代中期の青銅製懸仏が発見されており、『摂津志』には鎌倉時代の1250(建長2)年の重修の棟札があると記載されています。 -
保久良神社 拝殿
向拝には鶴の彫刻が施されています。 -
保久良神社 拝殿
蟇股には花の彫刻です。
神紋は「五瓜に梅鉢」です。 -
保久良神社
祭神のご利益について説明した額がありましたので紹介します。
椎根津彦命:航海交通、開発守護、人生先導、大業成就
須佐之男命、大国主命、大歳御祖命:厄除海運、健康息災、殖産興隆、家運繁栄
こうしてみても、椎根津彦命のご利益が別格だということが判ります。
椎根津彦命を主祭神と公言していないのは、「大人の事情」ということなのでしょうね! -
保久良神社 末社 祓御神社
こちらが旧本殿(1766年建造)を移築した祓御神社です。拝殿の右手にあります。
祓御神社の祭神は「春日大神」と「天照皇大神」の2柱を合祀しています。しかし、本来は「瀬織津姫」だったとの説も根強いものがあります。六甲山系ではよくある説です。 -
保久良神社 社務所
御朱印は、この社務所ではなく、阪急岡本駅近くの鷺宮八幡神社の社務所でいただけます。 -
保久良神社 遥拝所
境内東にあります。通常、遥拝所は伊勢神宮の方を拝むためのスポットですが、ここは古来、日の出遥拝の場だったとも考えられます。今は鬱蒼とした樹木が視界を遮っていますが、遥拝する先には巨大な座「三交岩(サンゴイワ)」が鎮座しており、かつては日の出が見通せたとも考えられます。
また、他の遥拝所と趣を異にするのは、鳥居の先には小さな磐座が埋められ、少しだけ頭を覗かせていることです。この磐座が何を意味するものなのかは未詳ですが、地震を抑えたり、大地のエネルギーを調整するとされる「要石」的存在とも推測できます。
しかし、このパワーでもっても阪神淡路大震災のエネルギーを抑え切れなかったということでしょう。 -
保久良神社 遥拝所
不謹慎ながら、鳥居越しに遥拝の逆方向を眺めてみます。 -
保久良神社
奥にあるのは、1938(昭和13)年の阪神大水害後の復興を記録した石碑です。
手前は、猿丸武男・妻 はま子とありますので、猿丸宮司夫妻の詩が刻まれているようです。 -
保久良神社
境内から鳥居方向を振り返ると、映画の一コマのような風景が映ります。
鬱蒼とした樹木と鳥居が額縁になり、その先に神戸港が一望できます。 -
保久良神社
六甲アイランドに「阪九フェリー」が停泊しています。 -
保久良神社 磐座「立岩(たていわ)」(古代祭祀遺蹟)
境内外には巨石が点在し、これらは古代祭祀を行なった磐座(いわくら)と推定されています。磐座とは、古神道における岩に対する自然信仰を言います。つまり、神が鎮座する処であり、神が宿る岩石であり、その場所は聖域とされます。
拝殿前に鎮座し、最も目を引く巨石は「立岩」と言われ、神に祈るために人々が立て起こした祈願岩のひとつです。この岩は天面が水平になり、上に立ったり物を置いたりすることができ、祭事・神事を行うための人為的行為があったことを感じます。 -
保久良神社 磐座「立岩」
境内外の巨石には磐座として円形に並べられている場所もあり、神秘的な雰囲気が漂います。境内からは弥生時代の遺跡や祭器、土器などが出土し、古代祭祀遺跡にも認定され、灘区伯母野(おばの)山遺跡や芦屋市会下山遺跡などと共に弥生時代の高地性集落の代表的な遺跡になっています。
古代の人々が神と共にある場所として、この地を選りすぐって暮らしていたかと思うと、凛とした神聖な空気に背筋が伸びる思いがします。 -
保久良神社 磐座「立岩」
作庭家 重森三玲氏は、『日本庭園歴覧辞典』の中で保久良神社の磐座について次のように言及されています。
「この磐座や磐境は、本殿西部に80数個の直線状の石による磐境と、本殿四周を囲む磐座とによって構成され、東部にもその一部が見られるが、きわめて豪快であるとともに、純度の高い石組である」。
これらの巨石は、石英粗面岩と緑泥片岩の2種類で構成されているそうです。
また、配置された巨石は、その大小によらずほとんどが自然の露出散布によるものではなく、いずれも人為的に他の場所から運んで敷設したものと考えられています。特に、緑泥片岩の巨石は麓から運び上げられたと考えられています。 -
保久良神社 境外西側 「神生岩(かみなりいわ)」
本殿周囲にも数多の磐座がありますが、金網フェンスが張られ、立ち入ることはできません。本殿西側の緩斜面にある巨石は「神生岩」と呼ばれています。保久良神社最大の磐座とされ、これは石英粗面岩が自然露出したものであり、手が加えられておらず、重要な役割を果たした磐座と思われます。 -
保久良神社 境外西側 「神生岩」
かつての文献では「雷岩」と記されていたそうです。雷は天から地に落ち、人々から畏怖される性質を持ちます。これが神の降臨に擬せられ、信仰の発生に繋がったのかもしれません。 -
保久良神社 境外西側
社務所西側にある神生岩の近くにある巨石です。右側の巨石は綺麗に割れています。神の啓示なのでしょうか? -
保久良神社 境外西側
上の写真の割れた方の巨石のズームアップです。 -
保久良神社 境外西側
ここからは見られませんが、本殿裏の巨石群を中心に境内にかけて大きな円形状に巨石が配置されているそうです。このように配置された巨石群は、「磐座」や「磐境(いわさか)」と言われます。昔の人は、巨石に常世の国より神を招き、五穀豊穣、子孫繁栄、村里安全を祈願したそうです。
また、保久良神社の磐座は、大和の国と称された奈良県桜井市の大神神社のご神体 三輪山の山頂にある磐座と同時期のものと同定されています。
目を凝らしてみると本殿裏の塀の上に巨石が少しだけ頭を覗かせています。 -
保久良神社 境外西側
境外西側にある磐座です。
性質的には磐境と言うべきものかもしれません。 -
保久良神社 境外西側
上の写真の巨石を反対側から見た様子です.
注目していただきたいのは、褐色の木が巨石のパワーによって不自然に捻じ曲げられていることです。
この木に限らず、磐座近くにある木々は、その多くが捻れて曲がっています。その捻れ方は、摩訶不思議な芸術作品を創っています。
木が巨石とツイストダンスを愉しんでいるように見えませんか? -
保久良神社 八代龍王
境内には八代龍王も祀られています。八代龍王は、天龍八部衆に所属する龍族の八王で、法華経の序品に登場し、法華経の守護を誓った王です。観世音菩薩の守護神とされ、一般的には水神として崇拝され、雨乞いの神として祀られています。
ここから境外東側の磐座群へと入って行けます。
八龍王は、「難陀(なんだ)龍王」、「跋難陀(ばつなんだ)龍王」、「娑伽羅(しゃから)龍王」、「和修吉(わしゅきつ)龍王」、「徳叉迦(とくしゃか)龍王」、「阿那婆達多(あなばだった)龍王」、「摩那斯(まなし)龍王」、「優鉢羅(うはつら)龍王」を指します。 -
保久良神社 境外東側
大木の幹に落書きされた、痛々しい樹木です。
こうした悪戯が横行したため、一時期、境外東側エリアへの立入が禁止されたことがあるそうです。 -
保久良神社 境外東側
大きな石がゴロゴロしており、ストーンサークルのようにも思えます。 -
保久良神社 境外東側
樹木の幹の捻じれや曲がり方が不規則かつ不自然で異様な殺伐とした風景に映ります。
何とも神秘的な杜です。
日が傾いたら怖いかも…。 -
保久良神社 境外東側 シロハラ
磐座で羽根を休めるシロハラです。
スズメ目ツグミ科の鳥類で、全長25cm 程、スズメとハトの中間ぐらいの大きさです。ツグミ類らしく嘴と脚がよく発達した体型をしています。ほぼ全身が灰褐色で、和名「シロハラ」の通り腹部の色だけが白っぽいのが特徴です。これは、腹部が白色に近いため、雌と思われます。
ウグイス同様に明るい場所を嫌う日陰者です。また、飛び立つ時の「キョロロ」とも「キョッ、キョッ」という鳴き声は、声の輪郭が鮮明です。 -
保久良神社 境外東側
境外東にある磐座は、「三交岩(さんごいわ)」と言い、3個の磐座が三角形をなす位置に斜めに立っています。3匹の亀の親子が顔を出してのんびりと遠くを眺める様子を彷彿とさせ、磐座たちは今にも動き出しそうにも思えます。
スケール感が伝わり難いのですが、手前の巨石で高さ5m以上あると思われます。 -
保久良神社 境外東側
これらのうち、2つの巨石は自然露出のものだそうですから、三角形を構成するためにひとつの巨石をわざわざここまで運んだということになります。
また、不思議なことに、ここでは方位磁石が安定しないことがあるそうです。強い磁場があるのか、場所によっては方位磁石がクルクル回ったりするそうです。因みに、この場所から多数の石鏃が出土しています。 -
保久良神社 境外
北側にある巨石を下方から写したものです。 -
保久良神社 境外
北側にある巨石を南側から写したものです。
古代の祭祀信仰の場だったかと思うと、さすがに聖域の中に立ち入る気にはなれません。遠巻きに眺めることに徹します。 -
保久良神社 境外
南側にある巨石です。
下の草むらから何やらガサガサと物音が聞こえてきます。草丈が深くて姿は見えませんが、野生のイノシシと思います。
イノシシに襲われないよう、早めに撤収します。 -
保久良梅林公園
折角ですので梅林にも足を伸ばしてみます。
1975(昭和50)年、岡本梅林公園に先駆け、かつての岡本梅林を再現するためにオープンした梅園です。標高差があるため、岡本梅林公園とは開花時季が少しずれます。しかし、明るい谷を埋め尽くす250本の梅の木が満開を迎えた光景を想像すると壮観な気分になります。
ベンチやテーブルも数か所設けられていますので、ハイキングのランチタイムや休憩にうってつけの場所です。 -
保久良梅林公園
神戸港や神戸の街並を借景に観梅できるのは、保久良梅林公園の醍醐味でもあります。 -
保久良梅林公園
レジャーシートを敷いて寛ぐハイカーもおられます。 -
保久良梅林公園
想像を逞しくして、梅の花が満開の景色をご覧ください。 -
保久良梅林公園
咲きはじめということもあり、少ない梅花が愛おしく思えます。
これもひとつの観梅の愉しみ方かもしれません。
今年は暖かくなるのが遅かったこともあり、見頃は3月中旬~下旬かもしれません。 -
保久良神社 境外
2本の木の幹が連理し、その接合部がポッカリと口を開け、空洞化しています。
このように連理した樹木があちらこちらで見られます。
木々に何らかのパワーが作用しているようにしか思えません。 -
保久良神社 戦利兵器奉納
玉垣と鉄柵に囲まれた立入禁止の社叢の中に、25cm砲弾らしきものが奉納されています。
ネットで調べてみると、20年ほど前まで忘れ去られ、半ば土中に埋もれていたものを、砲弾の存在に気付いた好事家が掘り起こしたそうです。
プロフィールやスケール的には、各地で日露戦争の勝利記念に奉納された装甲巡洋艦「春日」の主砲弾に近いと思われます。 -
保久良神社 戦利兵器奉納
砲弾の左側にある直方体の石には、砲弾の由来が刻まれているようです。
日露戦争後、明治39年に陸軍が「戦利兵器奉納ノ記」という文書と共に23170箇所の神社などに砲弾を配付した記録があります。これに加え、海軍からも砲弾が下附されたそうです。しかし、現在はそのほとんどが姿を消しています。その理由の筆頭が太平洋戦争での金属類回収令です。更に、GHQの撤去命令や彼らの目から隠すため処分したものも多いそうです。ですから、現在残っている砲弾は、貴重な遺産と言えます。
それこそ司馬遼太郎著『坂の上の雲』に描かれたように、外国の植民地化を避けるため、国民が一枚岩となって国難に打ち勝った戦争でした。どこかの傲慢政権が発する「国難」とは全くスケールの違う話です。安易に「国難」などと国民を誑かすような発言はしないで欲しいものです。 -
保久良神社 参道
復路は、石鳥居を抜けて左手(東)に向かう参道を下ります。道なりに下っていけば、阪急岡本駅北側に至ります。
九十九折の参道から見上げる「灘の一つ火」です。 -
保久良神社 参道 ツバキ
うっとりするような白班入り八重咲きです。
葉の隙間からこぼれる光が、美しい玉ボケを創ってくれました。
今回は真紅の椿を沢山見かけましたが、ピンク系はこれが初めてです。 -
保久良神社 参道 ニホンズイセン
早春の風に首を振るスイセンです。
ヒガンバナ科スイセン属になります。ニホンズイセンは、古来、日本で親しまれてきた房咲きスイセンの変種に当たります。スイセンは、室町時代の漢和辞典『下学衆』に記されたことから、別名「雪中花(せっちゅうか)」とも言われます。早咲きものは、年末の頃にはすでに雪の中から春を告げます。
吃驚したのは、これほど日本でポピュラーな春を告げる花の一つですが、原産国が地中海沿岸と言うことです。平安時代末期にシルクロードを通って中国を経由し、日本へ渡来したと伝えられています。
スイセン全般の花言葉は、「うぬぼれ」「自己愛」とあまりいいイメージではありません。これは、属名の学名「Narcissus(ナルシサス)」がギリシア神話に登場する美少年ナルキッソスに由来するからです。水鏡に映った自分の姿に恋をしてスイセンになってしまったのが美少年ナルキッソスです。つまり、自己陶酔型の人を意味する「ナルシスト」の語源でもあります。
因みに、ニホンズイセンの花言葉も「自己愛」です。 -
保久良神社 参道
このような舗装された九十九折の参道が下界まで誘います。 -
保久良神社 参道
木々の間から下界を見下ろしながら歩を進めます。
神戸市東灘区本山北町、中町から深江の街並みを俯瞰します。 -
保久良神社 参道
東灘区本山南町から青木の街並みです。
架けられた橋は、阪神高速5号湾岸線の東神戸大橋です。
橋の詳細については<前編>を参照ください。
東神戸大橋の手前にある浜が「青木浜」で、椎根津彦命が亀に乗って漂着した場所です。青木浜の砂丘の土坑からは弥生中期の銅鐸も出土しており、青木浜伝承の信憑性に加担しています。
左側の主塔の先には、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある金剛山が見えるはずなのですが…。 -
保久良神社 参道
左端にかすかに見える高層ビルが大阪「あべのハルカス」です。
春霞のため、見え難いのが残念ですが…。 -
保久良神社 参道
根っこを剥き出しにしながらも踏ん張っている逞しい木です。
と言うか、斜面の土砂が雨水で流されてしまったと考える方が素直かもしれません。そうだとすれば、何時か倒木するかもしれません。そうならないことを願いたいのですが…。 -
保久良神社 参道 キズイセン
スペイン、ポルトガル原産で、日本には19世紀中頃に渡来したとされます。花は鮮やかな黄色で、強い芳香を放っています。
江戸時代後期、1815(文化12)年に長崎に入港したイギリス船から持ち込まれたのが最初の渡来の記録とされます。『梅園草木花譜春之部2』(1844年刊行)に毛利梅園が写生した彩色画が掲載されています。その時の名称は、「黄金水僊(阿蘭陀黄水仙)」だそうです。
花言葉は「愛にこたえる」です。 -
保久良神社 参道 ヤエザキニホンズイセン
花の中央部分の副花冠(カップ)と雄しべが花弁に変化して多弁化した八重咲きで、外側の星型の花びらは多弁化しません。
右側の一般的なニホンズイセンと比べると一目瞭然です。
個人的には、一重咲きの方が楚々としてスイセンのイメージに合うと思います。 -
岡本 山の手
グネグネした、先の見通せない細い道をひたすら下っていきます。
このような石垣もあり、この辺りが旧北畑村になります。 -
保久良神社御旅所(鷺宮八幡神社)
阪急岡本駅の東方350m程にある神社で、保久良神社の南方600m程に当たります。
創立年未詳の神社ですが、江戸時代には存在していたようです。祭神は、「天照大神」、「八幡大神」、「春日大神」の3柱を合祀します。また、熊野大神、他を合祀しています。境内由緒書によると、「鷺宮産の宮とも称し、北畑地区の氏神として崇敬され、天和、貞享、元禄の寺社改帳に記載された人々の心の拠り所となっています」とあります。
何故、この神社をゴールにしたかは、ここが保久良神社の御旅所だからです。社頭の案内には、「総氏神保久良神社の御旅所として境外末社の前社にして、後社の境外末社である熊野、古山、山、塞の神々を合祀申し上げ、北畑を中心に崇敬されております」とあり、保久良神社の境外末社の前社に位置付けられています。ですから、この社務所で保久良神社の御朱印が授与していただけるのです。
式内社調査報告によると、元々の御旅所は別の場所にあったようで、「現在の北畑八幡神社が御旅所になったのは、その境内に神輿台が石台で出来た明治14年(1881年)からで、この年より本社からこの御旅所まで御幸があり、各区の地車の宮入が行われる」とあります。 -
保久良神社御旅所(鷺宮八幡神社)
広い境内の北端に流造、銅板葺の社殿があり、その左奥に稲荷社が佇みます。 -
保久良神社御旅所(鷺宮八幡神社)
境内の南東角には推定樹齢800年とされる市天然記念物「鷺の森のケヤキ」があったのですが、2017年の台風21号による強風により根元から折れたそうです。
市のHPによると、ケヤキは高さ16m、幹回り5.1mの大木でした。かつて、この辺りは鷺宮八幡神社を中心に深い杜が広がり、鷺の森と呼ばれていたそうです。石鳥居の傍らに立っており、地域のシンボルとして親しまれてきた大木だったそうです。言い伝えでは、昔はこの木に烏が止まって長い間鳴くと、必ず村に不幸があると信じられていたそうです。 -
阪急岡本駅周辺
天高く咲き誇る紅梅です。 -
阪急岡本駅周辺
このような、行き止まりかと思うような細い路地が忽然と現れたりもします。 -
阪急岡本駅周辺
駅の南側には、魅力ある店舗が多く建ち並びます。
阪急岡本駅からJR摂津本山駅周辺は、雑誌などでもよく取り上げられ、美味しいパン屋さんや雑貨店が並び、歩き進むと入ってみたいカフェがいくつも現れます。
この辺りは岡本商店街と呼ばれ、アーケードのないオープンで明るい雰囲気です。店舗と住宅がうまく調和した石畳の街並みは、様々な店舗が並んでいるのに生活臭がなく垢ぬけています。敷き詰められた「石畳」は阪神淡路大震災の復興に伴って街のシンボルとして整備され、現在では岡本の代名詞となっています。 -
阪急岡本駅
きままな観梅ハイクもこれにて無事終了です。
改めて見ると、山がすごく近いですね。 -
「桃の節句」にかこつけて、神戸三宮でスイーツをGETしました。
1977年創業、神戸御影生まれの洋菓子店「ケーニヒスクローネ」のお雛祭限定スイーツです。「ケーニヒス クローネ」とは、ドイツ語で「勝利の王冠」を意味します。当て字で「継荷比州吼浪音(荷を継(つな)ぎ、州(くに)に比(ひとし)くす、吼(ほ)ゆる浪の音)」とも表記され、洋菓子という商品を作りながら、日本という国と一緒になって、隆盛(大きな波)のごとく伸びて行こうという想いも込められています。
当分の間、カロリー消化に苦労しそうです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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