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ドゥブロヴニクからモンテネグロのコトルに行って来ました。コトル旧市街と、ジョバンニ山中腹にある救済の聖母教会見たコトルの街をご報告します。<br /><br />付録にコトルの歴史を載せましたので、ご興味のある方はご覧ください。<br />

モンテネグロ コトル 

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2016/07/11 - 2016/07/11

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8

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bunbun

bunbunさん

ドゥブロヴニクからモンテネグロのコトルに行って来ました。コトル旧市街と、ジョバンニ山中腹にある救済の聖母教会見たコトルの街をご報告します。

付録にコトルの歴史を載せましたので、ご興味のある方はご覧ください。

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  • 国道8号線から見たムリニ(Milini)の街の山側

    国道8号線から見たムリニ(Milini)の街の山側

  • 国道8号線から見たムリニ(Milini)の街の山側

    国道8号線から見たムリニ(Milini)の街の山側

  • 国道8号線から見たムリニ(Milini)の街の海側<br />手前はHotel  Astarea<br />

    国道8号線から見たムリニ(Milini)の街の海側
    手前はHotel Astarea

  • 国道8号線から見たプラット(Plat)の街

    国道8号線から見たプラット(Plat)の街

  • 国道8号線から見たプラット(Plat)の街

    国道8号線から見たプラット(Plat)の街

  • 国道8号線から見たプラット(Plat)の街

    国道8号線から見たプラット(Plat)の街

  • E65号線(欧州自動車道路(European route))から見たモンテネグロのĐenovićiの街<br />前方にコトル湾が見えてきました。<br />

    E65号線(欧州自動車道路(European route))から見たモンテネグロのĐenovićiの街
    前方にコトル湾が見えてきました。

  • E65号線のJošice Јの街から見たコトル湾<br />中央やや左はĐurićiの街です。<br />

    E65号線のJošice Јの街から見たコトル湾
    中央やや左はĐurićiの街です。

  • E65号線のJošiceの街から見たコトル湾<br />海峡の奥に見える街はPerast,です。<br />

    E65号線のJošiceの街から見たコトル湾
    海峡の奥に見える街はPerast,です。

  • E65号線のĐurićiの街から見たコトル湾

    E65号線のĐurićiの街から見たコトル湾

  • E65号線から見たリサン( Рисан)の街

    E65号線から見たリサン( Рисан)の街

  • E65号線のペラスト(Perast)の街から見たコトル湾に浮かぶ2つの小さな島<br />左(南)側は聖ジョージ島(Ostrvo Sveti Đorđe(セルビア・クロアチア語)、Saint George(英語))、右は岩礁の聖母島(Gospa od Škrpjela(クロアチア語))です。<br />聖ジョージ島には12世紀から聖ジョージ・ベネディクト会修道院あり、ペラストの古い貴族の墓地や、さらにはコトル湾地域全体の墓地があります。モンテネグロ君主Petar I Petrović Njegoš(セルビア語)のコトル包囲中の1813年10月14日、フランス軍の支配下にあったこの島がイギリスとシチリアの海軍に奪われたとき、ここで小さな戦闘がおこりました。*)<br />岩礁の聖母島は岩や岩を載せた船を沈めて造った防御用の人口島で、1630年に建設され、1722に改修されたローマカトリックの岩礁の聖母マリア教会(Chiesa della Madonna dello Scalpello(イタリア語)、 Church of Our Lady of the Rocks(英語))があります。<br />伝説によると、1452年7月22日、海中の岩の上に聖母子のイコンを見つけた地元漁師達はここに聖母に捧げる教会を建てることを誓います。この誓いを守り、彼らは無事に航海から戻るたびに岩をこの地に沈め、やがて時がたつと徐々に岩が海上に現れて島となりました。岩を海に投げ込むという習慣は、今日でも生きています。 毎年7月22日の日没、地域住民がボートで岩を運んで海に投げ、島の表面を広げる、この地方の方言でfašinadaと呼ばれるイベントが行われます。<br /><br />*) 付録参照<br />

    E65号線のペラスト(Perast)の街から見たコトル湾に浮かぶ2つの小さな島
    左(南)側は聖ジョージ島(Ostrvo Sveti Đorđe(セルビア・クロアチア語)、Saint George(英語))、右は岩礁の聖母島(Gospa od Škrpjela(クロアチア語))です。
    聖ジョージ島には12世紀から聖ジョージ・ベネディクト会修道院あり、ペラストの古い貴族の墓地や、さらにはコトル湾地域全体の墓地があります。モンテネグロ君主Petar I Petrović Njegoš(セルビア語)のコトル包囲中の1813年10月14日、フランス軍の支配下にあったこの島がイギリスとシチリアの海軍に奪われたとき、ここで小さな戦闘がおこりました。*)
    岩礁の聖母島は岩や岩を載せた船を沈めて造った防御用の人口島で、1630年に建設され、1722に改修されたローマカトリックの岩礁の聖母マリア教会(Chiesa della Madonna dello Scalpello(イタリア語)、 Church of Our Lady of the Rocks(英語))があります。
    伝説によると、1452年7月22日、海中の岩の上に聖母子のイコンを見つけた地元漁師達はここに聖母に捧げる教会を建てることを誓います。この誓いを守り、彼らは無事に航海から戻るたびに岩をこの地に沈め、やがて時がたつと徐々に岩が海上に現れて島となりました。岩を海に投げ込むという習慣は、今日でも生きています。 毎年7月22日の日没、地域住民がボートで岩を運んで海に投げ、島の表面を広げる、この地方の方言でfašinadaと呼ばれるイベントが行われます。

    *) 付録参照

  • 魚の養殖場です。養殖魚はギルトヘッド・シーブリーム(gilthead seabream)とヨーロッパ・シーバス(European seabass)です。

    魚の養殖場です。養殖魚はギルトヘッド・シーブリーム(gilthead seabream)とヨーロッパ・シーバス(European seabass)です。

  • こちらは貝の養殖所です。貝種はムール貝*)やヨーロッパ・ヒラガキです。<br /><br />*) ヨーロッパの貝という印象がありますが、昔から日本にあるイガイの一種です。大航海時代に船底について世界中広がりました。日本に入って来たのは20世紀初頭で、ムラサキイガイとも呼ばれます。ムール貝がイガイイの一種だとは意外だ、なーんてね。スベったか。<br />

    こちらは貝の養殖所です。貝種はムール貝*)やヨーロッパ・ヒラガキです。

    *) ヨーロッパの貝という印象がありますが、昔から日本にあるイガイの一種です。大航海時代に船底について世界中広がりました。日本に入って来たのは20世紀初頭で、ムラサキイガイとも呼ばれます。ムール貝がイガイイの一種だとは意外だ、なーんてね。スベったか。

  • E65号線から見たコトル湾

    E65号線から見たコトル湾

  • コトルの旧市街北側にある駐車場に着きました。<br />右(南)側にScurda川、その右に城壁、そのさらに右側が旧市街です。<br />

    コトルの旧市街北側にある駐車場に着きました。
    右(南)側にScurda川、その右に城壁、そのさらに右側が旧市街です。

  • カメラを右に振って駐車場の南側<br />Scurda川、そのむこうに城壁と要塞、そのさらは右側が旧市街旧市街です。<br />

    カメラを右に振って駐車場の南側
    Scurda川、そのむこうに城壁と要塞、そのさらは右側が旧市街旧市街です。

  • Scurda川に架かった橋を南に渡って旧市街に向かいます。<br />Scurda川(と言うより堀ですね)、城壁と要塞。山に城壁、山の上の方に城砦がありますが、小さいし、山の地肌と同じ色なんでわかりませんよね。<br />

    Scurda川に架かった橋を南に渡って旧市街に向かいます。
    Scurda川(と言うより堀ですね)、城壁と要塞。山に城壁、山の上の方に城砦がありますが、小さいし、山の地肌と同じ色なんでわかりませんよね。

  • Scurda川の中。これも防護壁の一種ですかねえ。

    Scurda川の中。これも防護壁の一種ですかねえ。

  • さらに南に進んで、旧市街側<br /><br />

    さらに南に進んで、旧市街側

  • 旧市街への西側入り口、海の門(Puerta del Mar(スペイン語))または西門または中央門(Puerta Principal(スペイン語))が見えてきました。左側及び右側のオレンジ色の屋根の建物はそれぞれ17~18世紀の侯爵の宮殿、1776年築のベスクチャ宮殿です。

    旧市街への西側入り口、海の門(Puerta del Mar(スペイン語))または西門または中央門(Puerta Principal(スペイン語))が見えてきました。左側及び右側のオレンジ色の屋根の建物はそれぞれ17~18世紀の侯爵の宮殿、1776年築のベスクチャ宮殿です。

  • 門の近くまでやって来ました。ここからだと山の様子がわかりますかねえ。<br />左下の鐘楼のある建物は救済の聖母教会、右上の旗の立っているいる建物は聖ジョバンニ要塞、イリュリア要塞です。今回行ったのは時間の関係で救済の聖母教会までです。<br />

    門の近くまでやって来ました。ここからだと山の様子がわかりますかねえ。
    左下の鐘楼のある建物は救済の聖母教会、右上の旗の立っているいる建物は聖ジョバンニ要塞、イリュリア要塞です。今回行ったのは時間の関係で救済の聖母教会までです。

  • 海の門または西門または中央門

    海の門または西門または中央門

  • 海の門上部<br />上の3本の旗は左からユネスコ旗、モンテネグロ国旗、コトル市旗です。<br />その下のレリーフは旧ユーゴスラビアの国章です。以下で説明します。<br />その下に“Tuđe nećemo, svoje ne damo”  “Tito”と刻まれてますね。意訳すると「他人が有する物を我々は欲せず、我々が有するものはけっして与えない」となります。この言葉はユーゴースラビアの政治家の共通スローガンであり、ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito(セルビア・クロアチア語))の言葉です。<br />その下に“21-XI-1944” と刻まれてますが、これは1944年11月21日にコトルがチトーのパルチザン軍によってムッソリーニのイタリアから解放された日です*)。<br /><br />*) 付録参照<br />

    海の門上部
    上の3本の旗は左からユネスコ旗、モンテネグロ国旗、コトル市旗です。
    その下のレリーフは旧ユーゴスラビアの国章です。以下で説明します。
    その下に“Tuđe nećemo, svoje ne damo” “Tito”と刻まれてますね。意訳すると「他人が有する物を我々は欲せず、我々が有するものはけっして与えない」となります。この言葉はユーゴースラビアの政治家の共通スローガンであり、ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito(セルビア・クロアチア語))の言葉です。
    その下に“21-XI-1944” と刻まれてますが、これは1944年11月21日にコトルがチトーのパルチザン軍によってムッソリーニのイタリアから解放された日です*)。

    *) 付録参照

  • 旧ユーゴスラビアの国章<br />中央の5つの松明は連邦を構成する5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人)の「兄弟愛と統一」を意味し、その下に刻まれた“29-XI-1943”の文字は、第二次世界大戦中の1943年11月29日に、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議がヤイツェで開催した第2回会合で、戦後のユーゴスラビアの連邦共和国の体制を決定する合意が採択されたことを意味しています。<br />

    旧ユーゴスラビアの国章
    中央の5つの松明は連邦を構成する5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人)の「兄弟愛と統一」を意味し、その下に刻まれた“29-XI-1943”の文字は、第二次世界大戦中の1943年11月29日に、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議がヤイツェで開催した第2回会合で、戦後のユーゴスラビアの連邦共和国の体制を決定する合意が採択されたことを意味しています。

  • 海の門の壁のレリーフ<br />聖母子(中央)、コトルの旧市街の模型を持った守護神聖トリフォン(sv. Tripuna)、左 )と、聖バーナード(Saint Bernard、右)<br />15 世紀、ゴシック様式<br />

    海の門の壁のレリーフ
    聖母子(中央)、コトルの旧市街の模型を持った守護神聖トリフォン(sv. Tripuna)、左 )と、聖バーナード(Saint Bernard、右)
    15 世紀、ゴシック様式

  • 時計塔(Часовая башня)  <br />海の門から入ると目の前にあります。ヴェネツィア共和国の統治下の1602年に立方体の石積みで造られた3階建てです。この石積み技法はルネサンス時代のものですが、バロック時代にも使われました。<br />

    時計塔(Часовая башня)
    海の門から入ると目の前にあります。ヴェネツィア共和国の統治下の1602年に立方体の石積みで造られた3階建てです。この石積み技法はルネサンス時代のものですが、バロック時代にも使われました。

    時計搭 (コトル) 建造物

  • 当時、時計塔の前には「恥の柱」が置かれて、その前で判決文が読まれ、有罪が宣言されました。現在は当時の名残として改装された四角錐が置かれています。

    当時、時計塔の前には「恥の柱」が置かれて、その前で判決文が読まれ、有罪が宣言されました。現在は当時の名残として改装された四角錐が置かれています。

  • 武器広場(Trg od Oružja)の南端<br />武器広場は海の門から入ったところにある、コトルの中心にして最大の広場です。この名称はヴェネツィア時代からのもので、ここで武器を作り、保管したことによります。この広場の周辺には、銀行、郵便局、カフェ、パン・ケーキ店、多くの重要な文化的歴史的建造物があります。<br />山の方にはさっき見た、救済の聖母教会、聖ジョバンニ要塞、イリュリア要塞も見えますね。ちょっとズームインしてみますか。<br />

    武器広場(Trg od Oružja)の南端
    武器広場は海の門から入ったところにある、コトルの中心にして最大の広場です。この名称はヴェネツィア時代からのもので、ここで武器を作り、保管したことによります。この広場の周辺には、銀行、郵便局、カフェ、パン・ケーキ店、多くの重要な文化的歴史的建造物があります。
    山の方にはさっき見た、救済の聖母教会、聖ジョバンニ要塞、イリュリア要塞も見えますね。ちょっとズームインしてみますか。

  • 左端に救済の聖母教会の鐘楼、左上に聖ジョバンニ要塞、イリュリア要塞が見えます。

    左端に救済の聖母教会の鐘楼、左上に聖ジョバンニ要塞、イリュリア要塞が見えます。

  • 武器広場の北側<br />左側奥に延びる建物は、先ほど反対側から見た侯爵の宮殿です。<br />

    武器広場の北側
    左側奥に延びる建物は、先ほど反対側から見た侯爵の宮殿です。

  • 後ろをふり返る。<br />右の建物は上記侯爵の宮殿の南端です。クロアチア国旗(手前)と欧州旗(奥)が掲げられてますね。<br />

    後ろをふり返る。
    右の建物は上記侯爵の宮殿の南端です。クロアチア国旗(手前)と欧州旗(奥)が掲げられてますね。

  • 武器広場南側の路地に入って見た時計との南側ファサード

    武器広場南側の路地に入って見た時計との南側ファサード

  • ベスクチャ宮殿(Palata Beskuca)<br />この宮殿は装飾的要素のないシンプルな形で1776年に建設されました。 言及に値する装飾的な要素は、ビザンティ家に属するゴシック様式の真の傑作である表玄関です。 宮殿は貴族の一員になって13世紀末まで強い力を有したBeskuca家に属していました。しかし、Beskuca家が19世紀初頭に滅んだ後、宮殿はコトル社会の所有物になりました。<br />

    ベスクチャ宮殿(Palata Beskuca)
    この宮殿は装飾的要素のないシンプルな形で1776年に建設されました。 言及に値する装飾的な要素は、ビザンティ家に属するゴシック様式の真の傑作である表玄関です。 宮殿は貴族の一員になって13世紀末まで強い力を有したBeskuca家に属していました。しかし、Beskuca家が19世紀初頭に滅んだ後、宮殿はコトル社会の所有物になりました。

  • プリマ宮殿(Palata Pima)<br />プリマ家は14~17世紀のコトルの名家です。現在の宮殿は1667年に地震の後に造られました。テラス付きの表玄関はルネッサンス様式で建てられ、窓と12個のコンソール*) 上にある上部バルコニーはバロック様式です。 バルコニーのフェンスは、ダルマチアの有名な鍛冶職人の作品です。宮殿は1979年の地震の後に復元されました。<br /><br />*) 梁などの水平部材や、庇・棚などの張り出した部分を支えるために、壁や柱などに取り付ける補強材で、多くは装飾が施されます。<br />

    プリマ宮殿(Palata Pima)
    プリマ家は14~17世紀のコトルの名家です。現在の宮殿は1667年に地震の後に造られました。テラス付きの表玄関はルネッサンス様式で建てられ、窓と12個のコンソール*) 上にある上部バルコニーはバロック様式です。 バルコニーのフェンスは、ダルマチアの有名な鍛冶職人の作品です。宮殿は1979年の地震の後に復元されました。

    *) 梁などの水平部材や、庇・棚などの張り出した部分を支えるために、壁や柱などに取り付ける補強材で、多くは装飾が施されます。

  • プリマ宮殿表玄関上部にある2人の天使支えられたプリマ家の紋章

    プリマ宮殿表玄関上部にある2人の天使支えられたプリマ家の紋章

  • 聖トリフォン広場(Trg  sv. Tripuna)とその先に聖トリフォン大聖堂(Katedrala Svetog(セルビア・クロアチア語))が見えてきました。

    聖トリフォン広場(Trg sv. Tripuna)とその先に聖トリフォン大聖堂(Katedrala Svetog(セルビア・クロアチア語))が見えてきました。

  • 聖トリフォン大聖堂 <br />モンテネグロの2つのローマカトリック大聖堂の1つで、コトル湾岸全体のコトル司教区をカバーしているます。大聖堂の内部はギリシャの巨匠たちのフレスコ画で装飾されています。 大聖堂の正面には、クロアチアの最初の王トミスラフ(Tomislav)の戴冠千年を記念して1925年に作られた記念板*) があります。<br />元々この地には809年にコトル市民であるAndrija (Andreaccio) Saracenisによって教会が建てられ、コトルの守護神である聖トリフォン(sv. Tripuna)に奉献されましたが、1166年6月19日に新たな大聖堂が建築・奉献されました。他の建物と比較して、この大聖堂はコトルで最大かつ華やかな建物の一つです。 1667年のドゥブロヴニク地震**)によって深刻な被害を受けて鐘楼とファサードの一部が破壊されました。再建が進められましたが、完全な復興のための資金は不足していました。さらに、モンテネグロのアドリア海沿岸部を完全に壊滅させた1979年4月のモンテネグロ地震は、大聖堂にも大きな損害を与えました。<br />聖トリフォンはKampsade(Campsada、現在のトルコ、Campsada)で生まれたと言われており、ガチョウの世話する少年でした。彼の名前は &quot;柔らかさ、繊細さ&quot;を意味するギリシャ語のτρυφη(tryphe)に由来しています。 彼は(特に動物の)治癒家としての名声を獲得し、主として牧場での祈祷の際の聖なる慈善活動家の1人だったと考えられています。<br />デシリアン(Decian、201-251年、第34代帝政ローマ皇帝)の迫害の期間の250年頃、彼はニカイア(Nicaea、現トルコ北西部、イスタンブール近くの古代都市)に連れて行かれ、ひどい拷問を受けました。彼は異教徒の総督リシウス(Licius)を改宗させた後、斬首されました。 <br /><br />*) 入口左上の小さな白い額です。小さくてよくわかりませんね。すみません。<br />**)  https://4travel.jp/travelogue/11305426 付録参照<br />

    聖トリフォン大聖堂
    モンテネグロの2つのローマカトリック大聖堂の1つで、コトル湾岸全体のコトル司教区をカバーしているます。大聖堂の内部はギリシャの巨匠たちのフレスコ画で装飾されています。 大聖堂の正面には、クロアチアの最初の王トミスラフ(Tomislav)の戴冠千年を記念して1925年に作られた記念板*) があります。
    元々この地には809年にコトル市民であるAndrija (Andreaccio) Saracenisによって教会が建てられ、コトルの守護神である聖トリフォン(sv. Tripuna)に奉献されましたが、1166年6月19日に新たな大聖堂が建築・奉献されました。他の建物と比較して、この大聖堂はコトルで最大かつ華やかな建物の一つです。 1667年のドゥブロヴニク地震**)によって深刻な被害を受けて鐘楼とファサードの一部が破壊されました。再建が進められましたが、完全な復興のための資金は不足していました。さらに、モンテネグロのアドリア海沿岸部を完全に壊滅させた1979年4月のモンテネグロ地震は、大聖堂にも大きな損害を与えました。
    聖トリフォンはKampsade(Campsada、現在のトルコ、Campsada)で生まれたと言われており、ガチョウの世話する少年でした。彼の名前は "柔らかさ、繊細さ"を意味するギリシャ語のτρυφη(tryphe)に由来しています。 彼は(特に動物の)治癒家としての名声を獲得し、主として牧場での祈祷の際の聖なる慈善活動家の1人だったと考えられています。
    デシリアン(Decian、201-251年、第34代帝政ローマ皇帝)の迫害の期間の250年頃、彼はニカイア(Nicaea、現トルコ北西部、イスタンブール近くの古代都市)に連れて行かれ、ひどい拷問を受けました。彼は異教徒の総督リシウス(Licius)を改宗させた後、斬首されました。

    *) 入口左上の小さな白い額です。小さくてよくわかりませんね。すみません。
    **) https://4travel.jp/travelogue/11305426 付録参照

  • 聖トリフォン広場を修復したときに残した古い石畳

    聖トリフォン広場を修復したときに残した古い石畳

  • ドラゴ宮殿(Palata Drago)<br />宮殿は14~15世紀に、ゴシック様式のすべての要素が組み込まれて建てられました。 宮殿は2つの翼(写真手前と右奥)で構成されています。 この宮殿も 1667年と1979年の地震で被災しました。 現在は、地域文化遺産保護研究所として使われています。<br />

    ドラゴ宮殿(Palata Drago)
    宮殿は14~15世紀に、ゴシック様式のすべての要素が組み込まれて建てられました。 宮殿は2つの翼(写真手前と右奥)で構成されています。 この宮殿も 1667年と1979年の地震で被災しました。 現在は、地域文化遺産保護研究所として使われています。

  • グルグリナ宮殿(Palata Grgurina)<br />この宮殿は1732年、グルグリナ家*) のマルコ・グラグリン(Marko Grgurina)よって建てられました。前面ファサードは縦線を強調した左右対称性を有し、儀礼的な玄関とその上のバルコニーが際立った、成熟期の典型的なバロック様式です。建築材料には、コルチュラ(Korčula)島(クロアチア領、アドリア海沖の島)産の美しく削り出された石灰石が使われています。<br /> 現在この宮殿は、モンテネグロのアドリア海沿岸住民とコトル湾沿岸の住民の海事問題と文化的レベルの発展を示したコレクションがある海洋博物館になっています。<br /><br />*)  17世紀後半コペル(Koper(スロベニア語)、スロベニアのイストラ(Istria)半島にある街)からコトルに移住して、海洋貿易で巨万の富を築き、コトル司教の座に着きました。<br />

    グルグリナ宮殿(Palata Grgurina)
    この宮殿は1732年、グルグリナ家*) のマルコ・グラグリン(Marko Grgurina)よって建てられました。前面ファサードは縦線を強調した左右対称性を有し、儀礼的な玄関とその上のバルコニーが際立った、成熟期の典型的なバロック様式です。建築材料には、コルチュラ(Korčula)島(クロアチア領、アドリア海沖の島)産の美しく削り出された石灰石が使われています。
    現在この宮殿は、モンテネグロのアドリア海沿岸住民とコトル湾沿岸の住民の海事問題と文化的レベルの発展を示したコレクションがある海洋博物館になっています。

    *) 17世紀後半コペル(Koper(スロベニア語)、スロベニアのイストラ(Istria)半島にある街)からコトルに移住して、海洋貿易で巨万の富を築き、コトル司教の座に着きました。

  • カランバナ井戸(Karampana Wel)<br />海洋博物館のちょうど左(西)にある小さなカランバナ広場に隠れるようにあります。 17世紀に作られ、20世紀まで旧市街の唯一の飲料水源でした。また、街の人々が集まり、文字通り井戸端会議をする場所でもありました。 この井戸は鉄を精巧にねじり曲げたバロック様式で、吐き出し口は龍の頭のように見えます。<br />

    カランバナ井戸(Karampana Wel)
    海洋博物館のちょうど左(西)にある小さなカランバナ広場に隠れるようにあります。 17世紀に作られ、20世紀まで旧市街の唯一の飲料水源でした。また、街の人々が集まり、文字通り井戸端会議をする場所でもありました。 この井戸は鉄を精巧にねじり曲げたバロック様式で、吐き出し口は龍の頭のように見えます。

  • 聖ルカ教会(Церковь Св. Луки)が見えてきました。

    聖ルカ教会(Церковь Св. Луки)が見えてきました。

  • 聖ルカ教会西側ファサード <br />聖ルカ教会は1195年、裕福な市民であった、マウロ・カサフランジ(Мауро Кацафранги)の助けを借りて建設されました。 この歴史的事実はファサードの西側のプレートで読み取ることができます。 寺院の外観は、ロマネスク建築とビザンチン建築の両方の特徴を併せ持っています。1廊式の石造り構造の控えめな外観は、豪華なフレスコ画を有する豊かな装飾の内部とは対照的です。残念なことに、これらのフレスコ画は南の壁の一部にしか残されておりません。 17世紀には、ボカ・コトルスキーの絵画学校の創始者、ドミトリー・ダスカル(Dmitry Daskal)が描いたカトリックの祭壇ができました。<br />1657年、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の間のクレタ戦争時、コトルには多くの正教会のキリスト教徒がオスマン軍の侵略からコトルに逃れて来ました。街のヴェネツィア政府は彼らが聖ルカ教会を使うことを許します。このため、この教会にはカトリックと正教の2つの祭壇があります。両教の式典はフランスが征服するまでの150年間にわたって執り行われました*)。1979年の地震後、聖ルカ教会は被災を免れた数棟の建物の一つでした。<br />現在は、セルビア正教会のモンテネグロ・プリモルスキー・メトロポリアが運営しており、教会員や一般の観光客への訪問に常に開放されています。<br /><br />*) 付録参照<br />

    聖ルカ教会西側ファサード
    聖ルカ教会は1195年、裕福な市民であった、マウロ・カサフランジ(Мауро Кацафранги)の助けを借りて建設されました。 この歴史的事実はファサードの西側のプレートで読み取ることができます。 寺院の外観は、ロマネスク建築とビザンチン建築の両方の特徴を併せ持っています。1廊式の石造り構造の控えめな外観は、豪華なフレスコ画を有する豊かな装飾の内部とは対照的です。残念なことに、これらのフレスコ画は南の壁の一部にしか残されておりません。 17世紀には、ボカ・コトルスキーの絵画学校の創始者、ドミトリー・ダスカル(Dmitry Daskal)が描いたカトリックの祭壇ができました。
    1657年、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の間のクレタ戦争時、コトルには多くの正教会のキリスト教徒がオスマン軍の侵略からコトルに逃れて来ました。街のヴェネツィア政府は彼らが聖ルカ教会を使うことを許します。このため、この教会にはカトリックと正教の2つの祭壇があります。両教の式典はフランスが征服するまでの150年間にわたって執り行われました*)。1979年の地震後、聖ルカ教会は被災を免れた数棟の建物の一つでした。
    現在は、セルビア正教会のモンテネグロ・プリモルスキー・メトロポリアが運営しており、教会員や一般の観光客への訪問に常に開放されています。

    *) 付録参照

  • 聖ニコラス・セルビア正教会(Сербский православный храм Св. Николы)<br />この教会は19世紀の火事で焼失した古い教会の跡に建てられました。建設期間は1902年~1909年で、この日付は教会のファサードに刻まれています。聖ルカ教会で正教会の礼拝が始まった1657年以来初めての正教会となります。建物は擬似ビザンチン様式で作られており、正面玄関の隣に2つの高い鐘楼があります。 内装の特別な価値は、1908年にチェコの芸術家Ziegler.によるイコノスタス*)です。<br /><br />*) 正教会の中で至聖所と聖所を分ける聖像が描かれた界壁。聖障。<br />

    聖ニコラス・セルビア正教会(Сербский православный храм Св. Николы)
    この教会は19世紀の火事で焼失した古い教会の跡に建てられました。建設期間は1902年~1909年で、この日付は教会のファサードに刻まれています。聖ルカ教会で正教会の礼拝が始まった1657年以来初めての正教会となります。建物は擬似ビザンチン様式で作られており、正面玄関の隣に2つの高い鐘楼があります。 内装の特別な価値は、1908年にチェコの芸術家Ziegler.によるイコノスタス*)です。

    *) 正教会の中で至聖所と聖所を分ける聖像が描かれた界壁。聖障。

  • 聖ニコラス・セルビア正教会入口上の聖ニコラスのモザイク画

    聖ニコラス・セルビア正教会入口上の聖ニコラスのモザイク画

  • これから救済の聖母教会(Crkva Gospa od Zdravlja)まで上ります。<br />途中で見たコトル旧市街。<br />

    これから救済の聖母教会(Crkva Gospa od Zdravlja)まで上ります。
    途中で見たコトル旧市街。

  • コトルの街

    コトルの街

  • コトル湾とコトル旧市街(手前)

    コトル湾とコトル旧市街(手前)

  • コトル湾とコトル旧市街

    コトル湾とコトル旧市街

  • 救済の聖母教会(Crkva Gospa od Zdravlja)に着きました。<br />この教会は1518年に建設されたカトリック教会で、コトルのローマカトリック教区に属しています。 <br />

    救済の聖母教会(Crkva Gospa od Zdravlja)に着きました。
    この教会は1518年に建設されたカトリック教会で、コトルのローマカトリック教区に属しています。

  • 教会内部<br />一郎式、主祭壇のみで比較的シンプルです。種祭壇に使われている褐色大理石の柱と彫像は立派ですね。<br />

    教会内部
    一郎式、主祭壇のみで比較的シンプルです。種祭壇に使われている褐色大理石の柱と彫像は立派ですね。

  • 救済の聖母教会から見たコトル湾とコトルの街を左(南)から右(北)へと撮影していきます。

    救済の聖母教会から見たコトル湾とコトルの街を左(南)から右(北)へと撮影していきます。

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • そろそろこの階段を下りて街にもどります。

    そろそろこの階段を下りて街にもどります。

  • 途中で見えたコトル湾とコトルの街

    途中で見えたコトル湾とコトルの街

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • コトル湾とコトルの街

    コトル湾とコトルの街

  • 聖マリア教会(St Mary Church Collegiate)のドアのレリーフ<br />祝福されたコトルのオザンナ(Blessed Osanna of Cattaro (1493?1565))の生涯が描かれています。<br />このカトリック教会は1221年に建てられたましたが、彫刻が施された青銅製の扉は20世紀のものです。<br />ドアが閉じていれば1枚の写真で済んだんですが、半分開いていましたので、2つに分けての撮影です。<br />

    聖マリア教会(St Mary Church Collegiate)のドアのレリーフ
    祝福されたコトルのオザンナ(Blessed Osanna of Cattaro (1493?1565))の生涯が描かれています。
    このカトリック教会は1221年に建てられたましたが、彫刻が施された青銅製の扉は20世紀のものです。
    ドアが閉じていれば1枚の写真で済んだんですが、半分開いていましたので、2つに分けての撮影です。

  • ドアのレリーフの残り半分

    ドアのレリーフの残り半分

  • Scurda川に架かった橋を北に渡ってツアーバスの待つ駐車場に戻ります。<br />端から見た東側の風景。<br />

    Scurda川に架かった橋を北に渡ってツアーバスの待つ駐車場に戻ります。
    端から見た東側の風景。

  • それにしても立派な要塞・城壁だ。

    それにしても立派な要塞・城壁だ。

  • バスに乗ってドゥブロヴニクに戻ります。<br />帰りはアドリア・ハイウェイ(Jadranska magistrala)のレペテイン(Lepetane)から、海峡をレペテイン・カメナリ(Kamenari-Lepetane)・フェリーでE65が通るカメナリ(Kamenari)に渡ります。近道です。<br /><br /><br />付録<br /><br />コトルの歴史<br />考古学的調査・研究によると、コトル湾(Boka Kotorska、モンテネグロ語)周辺の洞窟から様々な道具や陶器、壁画等が発見され、新石器時代(BC8000頃~BC4000年頃)にはこの地域に人類が定住していたことが明らかになっています。この人類がイリュリア人との説や、イリュリア人が住み着いたのはBC1000年頃との説等もあって、本当の所は不明ですが、少なくともBC4世紀にはコトル湾沿岸にイリュリア人の都市リゾン(Rhizon、現リサン(Рисан(モンテネグロ語)、Risan(英語)))があったことは知られています。<br />イタリア半島、シチリア島、サルディーニャ島、コルス島(コルシカ島)を支配下に収めた共和政ローマは、BC229年、現アルバニアのアドリア海沿岸地方に侵入してイリュリア戦争(BC229~BC168年に行われた共和政ローマとイリュリア王国を巻き込んだ3回にわたる戦争)に勝利し、BC168年にはコトル(Kotor(モンテネグロ語、セルビア語、クロアチア語、英語)、カッターロ(Cattaro(イタリア語)))を含めた現モンテネグロのアドリア海沿岸地方を統治下におきます。当時コトルはアクルヴィウム(Akruvium)、アスクルヴィウム( Askruvium)もしくはアスクリヴィウム(Ascryvium)の名で知られ、共和政ローマのダルマチア属州の一部でした。1世紀の帝政ローマではアスクリヴィウム(Askrivium)、2世紀にはAskruionと呼ばれ、以降コトルはコトル湾地域の中心となります。<br />395年、帝政ローマがイタリア半島とバルカン半島の間を境に東西に分離したとき、コトルは西ローマ帝国に属しましたが、ゲルマン民族の大移動の結果、西ローマ帝国はやがて衰退し、476年には最後に残った現在のイタリアとダルマチア地方のうち、イタリア部分がゲルマン系のオドアケル王国(Kingdom of Odoacer)に取って代わられ、西ローマ帝国は終焉を迎えます。コトルが属する残されたダルマチア地方は479年までローマ帝国の一州として生き延びますが、その後はオドアケル王国の支配地となります。一方、ダルマチア地方内陸部には454年頃から、後にゲルマン系東ゴート王国となる勢力が現れて、徐々にその領土を拡大し、488年にはダルマチア地方をも支配下に置きます。その後、彼らは東ローマ帝国(ビザンツ帝国。両方の呼び方をしますが、区別する場合は、国の宗教がローマカトリックからギリシャ正教に変わっていった7世紀以降をビザンツ帝国と呼びます。)の内紛に絡んで、497年にはオドアケル王国を征服し、イタリアやダルマチア地方を含む地域を領土とする東ゴート王国を設立します。東ゴート王国はその東側を東ローマ帝国と接していたため、両者の間で紛争が絶えず、535年にダルマチア地方は東ローマ帝国に征服されて、コトルはDecadron、DecateronまたはDecaterと呼ばれるようになり、時の皇帝ユスティニアヌス1世(Justinianus I(ラテン語))によって城砦が造られます。その後も東ローマ帝国は西側に勢力を拡大し、553年には東ゴート王国を征服します。<br />632年頃になると、ゲルマン民族の大移動に続いて、東アルプス地域から移動してきた南スラブ人がダルマチア地方を含むバルカン半島西部に住み始め、コトルにおける東ローマ帝国の影響力は不安定となって、統治下中には何回も統治力を失ってしまいます。700年頃にはセルビア人(正教を受け入れた南スラブ人)が居住し始め、840年にコトルはシシリー島やクレタ島を拠点としてアドリア海沿岸の都市を襲撃していたアラブの海賊の略奪にあいました。998年には、南スラブ系ブルガリア人が681年にバルカン半島東部から黒海にかけて建国した第一次ブルガリア帝国(First Bulgarian Empire(英語))の侵略が始まり、999年にはその支配下に落ちます。<br />1003年、第一次ブルガリア帝国皇帝サムイル(Samuil(ラテン語))は侵略によって荒廃したコトルをセルビアに割譲することを決めますが、ラグーサ共和国と同盟関係にあったコトルの人々はこれに抵抗し、1009年、ビザンツ帝国が第一次ブルガリア帝国から南ダルマチア地方を奪還すると、コトルは再びビザンツ帝国の支配下に入ります。<br />11世紀まで、コトルではロマンス語の一種であるダルマチア語(死語)が話されており、同じロマンス語の一種であるイタリア語名カッターロとして知られ、ビザンツ帝国の支配は1185年まで続きます。ビザンツ帝国の衰退に乗じて1168年セルビア諸部族を統一し、セルビア侯となったステファン・ネマニャ(Stefan Nemanja(セルビア語))は、1171年セルビア王国の国王として即位してネマニッチ朝(Nemanji?・)を開きました。彼は1185年、独立の軍隊を有し、平和と戦争の宣言権を与えることを条件に、戦うことなくコトルをセルビア王国の従属国家とし、街を広げ、壮大な城砦を築き上げました。<br />その当時、コトルには既に司祭の住居があり、13世紀にはドミニコ会修道院とフランシスコ修道院が建設されました。モンゴル帝国がヨーロッパを侵略していた頃の1241年、チンギス・ハン(?・inggis Qan(モンゴル語のラテン文字表現))の孫であるKadan(英語)に率いられたモンゴル軍はコトルを方して焼き尽くしますが、街は短期間で復興します。<br />1185年~1371年のネマニッチ朝の間、コトルは中世セルビア王国の重要な貿易・商業の中心地であり、海上貿易に特化した自治独立の共和国でした。国王や王子達はコトルや沿岸の都市を通して西ヨーロッパと接触を維持していました。この期間コトルは顕著な経済的、文化的繁栄を誇り、その貿易はドゥブロヴニクと競合して、ヴェネツィアの嫉みをかいました。しかしながら、1371年、ステファン・ウロシュ5世(Стефан Урош V(セルビア語))とヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ(Вукашин Мр?・авчеви?・(セルビア語))の共同2皇帝はマリツァの会戦(Маричка битка(セルビア語))でオスマン帝国に敗れ、ネマニッチ朝は終焉を迎えてセルビア王国のコトル支配も終わりました。<br />1371年からの半世紀、コトルとその周辺地域は公式には他国君主の保護下にありましたが、実質的には独立都市貴族の共和国でした。1371年~1384年はハンガリー・クロアチア王のルイ1世(Louis I、Louis the Great(英語))の、1384年~1391年はボスニア王のStephen Tvrtko I(英語)の保護下にあり、1391年~1420年は独立した都市国家で、選ばれた貴族の“王子”(rector、prior、comes(ラテン語)のような職)よって統治されていました。しかしながら、1389年、セルビア王国がコソボの戦い(Bitka na Kosovu(セルビア・クロアチア語))でオスマン帝国に敗れて以来、徐々にオスマン帝国によるコトル支配の可能性が高まっていきます。<br />1420年のオスマン帝国の侵略の脅威の前に、コトルの人々は大都市評議会(Consilium maius(ラテン語))の決定に従って、自発的にヴェネツィア共和国の支配および保護下に入りました。この時から“王子”の選出は行われなくなり、ヴェネツィア共和国の総督がこれにとって代わりました。15世紀初頭にはダルマチア地方のアドリア海沿岸の重要な都市であるザダル(Zadar(クロアチア語))、シベニク(?・ibenik(クロアチア語))、トロギール(Trogir(クロアチア語))、スプリット(Split(クロアチア語))もヴェネツィア共和国の保護下に入ります。<br />コトルは1797年までヴェネツィア共和国の統治下にあり、約4世紀の間、コトルとコトル湾を含む現モンテネグロのアドリア海沿岸はヴェネツィア共和国の一地方としてアルバニア・ヴェネタ(Albania Veneta(イタリア語))と呼ばれていました。この4世紀は街に典型的なヴェネツィア建築をもたらし、街の外観をヴェネツィア風にしました。<br />ヴェネツィア共和国のアルバニア・ヴェネタ地方占有は、この地に隣接するオスマン帝国との戦場となり、この時期はコトルにとって最も劇的な時代だったと言ってもいいでしょう。コトルの統治はこの地域全体の統治となるため、オスマン帝国は何回にもわたって執拗コにトルの掌握を試みますが、リサンやヘルツェグ・ノヴィ(Херцег - Нови)と異なって成功することはありませんでした。<br />1539年、オスマン帝国で最も優秀な海軍提督の一人であるハイレッディン・バルバロス(Hayreddin Barbarossa(英語))は70隻の船と3万人の兵士でコトルを包囲しましたが、4日後には撤退を余儀なくされました。<br />1571年、後にレパントの海戦(Battle of Lepanto)で敗れるメジンザード・アリ・パシャ(M?・ezzinzade Ali Pasha)率いるオスマン帝国艦隊は同年8月9日~16日の間コトルを包囲しますが、やはり掌握にはいたりませんでした。<br />最も困難だったのはヴェネツィア共和国―オスマン帝国間のクレタ戦争(Cretan Wa、War of Candia、1645-1669)中の1657年で、シュコダル(Shkod?・r(アルバニア語))からのMehmed Pasha Varlats率いる5千のオスマン軍が、コトルの都市防衛軍千人と2ヶ月間対峙しました。しかしオスマン軍はコトルを制圧することはできませんでした。<br />18世紀、アルバニア・ヴェネタは約300もの艦船を持つ強力な海軍を有していました。ガレー船による歴史的大海戦である15771年10月7日のレパントの海戦では、教皇・スペイン・ヴェネツィア連合軍と共に、コトル出身のJerome Bizanti,艦長が指揮する200人の船員を載せたガレー船、聖トリフォン(St. Trifon(英語)、sv Trupuna(モンテネグロ語))がオスマン帝国と戦い、大勝利を収めます。<br />1657年、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の間のクレタ戦争時、コトルには多くの正教会のキリスト教徒がオスマン軍の侵略からコトルに逃れて来ました。街のヴェネツィア政府は彼らが聖ルカ教会(Crkva sv. Luka(モンテネグロ語))を使うことを許します。このため、この教会にはカトリックと正教の2つの祭壇があります。両教の式典はフランスが征服するまでの150年間にわたって執り行われました。<br />しかし、街を脅かしたのはオスマン帝国だけではありません。コトルは伝染病や地震等の自然災害も受けています。1422、1427、1457、1467 、1572年に街は伝染病に襲われ、1537年と1563年には地震に、1667年4月6日には壊滅的な巨大地震襲われ、聖トリフォン大聖堂の鐘楼を含む全建物の2/3が破壊されています。また、ヴェネツィアの総督Alvise Foscariniはこの地震で家族と共に亡くなりました。<br />しかしながら、多大な不幸の後、コトルは立ち上がり、再建されました。1698年、モスクワからこの地に旅行でやってきた政治家で外交官のPyotr Andreyevich Tolstoy(ロシアの文豪レフ・トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy(ラテン語))の祖先)は彼の日記に次のように書き残しています。<br /><br />コトルの街には石でできた非常に強固な要塞があります。要塞の半分は平地の水の中にあり、残りの半分はトルコ人が陸から攻めてくるのを恐れて、山の高い所にあります。コトルのこのような状況から、トルコ人はコトルから約6 km もしくはさらに近くに住んでいて戦いがあり、和解が成立したときは交易もありました。<br /><br />1797年のカンポ・フォルミオ条約(Trait?・ de Campo-Formio(フランス語)、Treaty of Campo Formio(英語))によって、ヴェネツィア共和国は消滅し、コトルはハプスブルク帝国の中核をなすオーストリア大公国(Erzherzogtum ?・sterreich)の支配下になりましたが、1805年にはプレスブルク条約(Treaty of Pressburg(英語))によって、ナポレオンのフランス第一帝政下の属州であるイタリア王国(Regno d&#39;Italia(イタリア語))に移ります。<br />主として海外貿易で生計を立てていたコトル市民にとって、当時「海の女王(the mistress of the seas)」と呼ばれるイギリスと戦争状態にあったフランス統治は好ましいものではありませんでした。なぜなら、フランス統治下のコトル及びその周辺を通過することは、全ての船がイギリス艦隊の可能性を有するとみなされて、イギリスの支配下にある地中海のすべての港が閉鎖され、貿易が完全に不可能になることを意味したからです。そこで、コトル湾沿岸地域の住人はツェティニェ(Cetinje(セルビア語))のモンテネグロ君主Petar I Petrovi?・ Njego?・(セルビア語)に助けを求め、彼は地中海に遠征してCorfu島にいた、ロシア艦隊提督ドミトリー・セニャーヴィン(Dmitry Senyavin)にそのことを知らせます。1806年2月、ロシアとモンテネグロ艦隊はБокиの街を占領し、2月28日には、ロシア艦隊がコトルに接近します。そして3月2日、ドミトリー・セニャーヴィンがコトルを占領します。<br />ロシアとモンテネグロの合同軍の成功の後、Petar I Petrovi?・ Njego?・はロシア皇帝アレクサンドル1世(Alexander I)に、コトルを含めたスラブ-セルビア国をドゥブロヴニクを中心として作ることを提言します。しかし1807年6月のフリートラントの戦い(Battle of Friedland)でナポレオン1世率いるフランス第一帝政軍に敗れたロシア軍はティルジット(Tilsit(英語)、現ロシア連邦カリーニングラード州ソヴィェツク(Sovetsk(ロシア語)))に撤退し、コトル湾地域をナポレオン1世に引き渡す道筋ができます。7月25日、セニャーヴィン提督に降伏とコトル地域をフランスに引き渡す命令が発布され、1807年8月14日にはロシア海・陸軍の撤退が完了します。ロシア軍の撤退後、フランスの統治は1813年まで続きますが、この間810年にコトルはフランス第一帝政のイリュリア州となります。<br />1813年9月、Petar I Petrovi?・ Njego?・はコトルを含むコトル湾地域全体を占領しました。コトルの北に隣接するドブロタ(Dobrota)村の議会で、モンテネグロの海岸部を「モンテネグロとコトル湖の統一自治の暫定領土」に加える決議ななされました。1814年、Petar I Petrovi?・ Njego?・は再びモンテネグロをロシアの保護下にするようアレクサンドル1世に要請しました。しかし、皇帝はモンテネグロに、ナポレオン戦争の戦後処理を議論するウィーン会議(Wiener Kongress(ドイツ語)、Congress of Vienna(英語)、シェーンブルン宮殿で開催)の決定事項として、コトル湖をオーストリアに手渡すよう要請し、1814年5月1日、モンテネグロはこれに従いました。<br />コトルは1814年~1918年の間、オーストリア帝国(1804~1867)およびオーストリア=ハンガリー帝国(1867~1918)属するダルマチア王国(Kingdom of Dalmatia、1815~1918)の一部でした。この約100年の間には多くの暴動や蜂起がありました。<br />1869年、オーストリア軍がOren山脈の西の平坦地にあるKrivoshyeで強制兵役を導入しようとしたとき、正教信者の地元住民の蜂起が発生しました。この反乱はオーストリアの遠征軍によって制圧されましたが、オーストリア=ハンガリー政府は強制的徴兵という考えを放棄しなければなりませんでした。 しかし、結局それは1881年に再導入され、正教徒の新たな暴動につながりましたが、またもや制圧されてしまいました。 その後、オーストリアは、ロシア人やモンテネロ人の攻撃の攻撃に対し、難攻不落な軍港の大規模な再建をおこないました。<br />その一方で、オーストリア統治の期間は、コトル湖地域のスラブ国家としてのアイデンティティが高まる時期でもありました。19世紀のコトルでは、様々なセルビア社会が定常的に作られ、以下に示すセルビアの施設や組織がオープン・活動開始しました。それらは1838年の図書館を付属したセルビア立法議会の宮殿、1848年の正教会が管轄するセルビア国立学校、1862年のセルビア国家警備隊、1868年のセルビア国立慈善団体「聖ジョージ(Saint George)」、1869年 のセルビア正教会、1899年のセルビア人労働者協同組合、1901年のセルビア信用組合です。<br />1874年にはコトル‐ドゥブロヴニク司教区のセルビア正教会がコトルに建設され、1909年には聖ニコラ正教会(Crkva sv. Nikola)が開かれました。なお、上記の通り、最初に正教徒に開かれた教会は1199年に建設されたカトリックの聖ルカ教会(Crkva sv. Luka)で、1657年のことです。<br />第一次世界大戦時、コトルはモンテネグロとオーストリア=ハンガリー帝国間の熾烈な戦いの場となりました。1918年2月1~3日、オーストリア=ハンガリー艦隊のコトル船員の反乱がここで起こり、コトル湾の40隻の船の船員(クロアチア、スロベニア、チェコ、ハンガリーの約6000人)と港湾労働者達が蜂起しました。オーストリア=ハンガリー軍はこの反乱を制圧し、約800人が検挙され、反乱の指導者達はは射殺されました。<br />1918年の第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の敗北以降、コトルはセルビア、クロアチア、スロベニア王国(1929年以降はユーゴスラヴィア王国)の一部となりました。この時以降街は正式に「コトル」と呼ばれるようになりました(それまでは、書類にはイタリア語の「カッターロ(Cattaro)」がつかわれていました)。1922年までコトル湾地域はコトルを首都とした独立地域でしたが、1922年にはZet地域の一部に、1929年以降はーゴスラヴィア王国の州であるZeta Banovinaの一部となりました。<br />ロシア艦隊提督セニャーヴィンがコトルを占領して100年以上たった1920年、バロン・ランゲル(Baron Wrangel(ドイツ語)軍の生き残り兵とロシア難民を乗せたロシア船団が再びコトル湾に現れました。コトル地域の病院で避難民は医療援助を受け、王国の領土に定住しました。<br />第二次世界大戦でユーゴスラビア王国が降伏した1941年以降、コトルはイタリアおよびドイツ軍に占領されました。ムッソリーニはモンテネグロのアドリア海沿岸部の他の都市を含めてコトル周辺の領土を併合し、イタリア領としました。これらの領土はイタリア‐ダルマチア県(Governatorato di Dalmazia(イタリア語))の一部でカッターロ州(Provincia di Cattaro(イタリア語))と呼ばれました。コトルは1944年11月21日、チトーのパルチザン軍によって解放され、この日付は旧市街の中央門上の石に“21.XI.1944”と刻まれています。終戦時、モンテネグロの一部であったコトルは共産主義国ユーゴスラヴィアの一部に戻りました。<br />1979年4月15日、モンテネグロの海岸で巨大地震が発生しました。コトルでは約100人が犠牲となり、旧市街の半分が破壊され、聖トリフォン大聖堂(Katedrala sv. Tripuna)も被害を受けました。復興後のコトルはユネスコの保護下におかれました。<br />1990年代のユーゴスラビア内戦の間、コトルにおける軍事行動はなく、現在はモンテネグロに属しています。<br /><br />

    バスに乗ってドゥブロヴニクに戻ります。
    帰りはアドリア・ハイウェイ(Jadranska magistrala)のレペテイン(Lepetane)から、海峡をレペテイン・カメナリ(Kamenari-Lepetane)・フェリーでE65が通るカメナリ(Kamenari)に渡ります。近道です。


    付録

    コトルの歴史
    考古学的調査・研究によると、コトル湾(Boka Kotorska、モンテネグロ語)周辺の洞窟から様々な道具や陶器、壁画等が発見され、新石器時代(BC8000頃~BC4000年頃)にはこの地域に人類が定住していたことが明らかになっています。この人類がイリュリア人との説や、イリュリア人が住み着いたのはBC1000年頃との説等もあって、本当の所は不明ですが、少なくともBC4世紀にはコトル湾沿岸にイリュリア人の都市リゾン(Rhizon、現リサン(Рисан(モンテネグロ語)、Risan(英語)))があったことは知られています。
    イタリア半島、シチリア島、サルディーニャ島、コルス島(コルシカ島)を支配下に収めた共和政ローマは、BC229年、現アルバニアのアドリア海沿岸地方に侵入してイリュリア戦争(BC229~BC168年に行われた共和政ローマとイリュリア王国を巻き込んだ3回にわたる戦争)に勝利し、BC168年にはコトル(Kotor(モンテネグロ語、セルビア語、クロアチア語、英語)、カッターロ(Cattaro(イタリア語)))を含めた現モンテネグロのアドリア海沿岸地方を統治下におきます。当時コトルはアクルヴィウム(Akruvium)、アスクルヴィウム( Askruvium)もしくはアスクリヴィウム(Ascryvium)の名で知られ、共和政ローマのダルマチア属州の一部でした。1世紀の帝政ローマではアスクリヴィウム(Askrivium)、2世紀にはAskruionと呼ばれ、以降コトルはコトル湾地域の中心となります。
    395年、帝政ローマがイタリア半島とバルカン半島の間を境に東西に分離したとき、コトルは西ローマ帝国に属しましたが、ゲルマン民族の大移動の結果、西ローマ帝国はやがて衰退し、476年には最後に残った現在のイタリアとダルマチア地方のうち、イタリア部分がゲルマン系のオドアケル王国(Kingdom of Odoacer)に取って代わられ、西ローマ帝国は終焉を迎えます。コトルが属する残されたダルマチア地方は479年までローマ帝国の一州として生き延びますが、その後はオドアケル王国の支配地となります。一方、ダルマチア地方内陸部には454年頃から、後にゲルマン系東ゴート王国となる勢力が現れて、徐々にその領土を拡大し、488年にはダルマチア地方をも支配下に置きます。その後、彼らは東ローマ帝国(ビザンツ帝国。両方の呼び方をしますが、区別する場合は、国の宗教がローマカトリックからギリシャ正教に変わっていった7世紀以降をビザンツ帝国と呼びます。)の内紛に絡んで、497年にはオドアケル王国を征服し、イタリアやダルマチア地方を含む地域を領土とする東ゴート王国を設立します。東ゴート王国はその東側を東ローマ帝国と接していたため、両者の間で紛争が絶えず、535年にダルマチア地方は東ローマ帝国に征服されて、コトルはDecadron、DecateronまたはDecaterと呼ばれるようになり、時の皇帝ユスティニアヌス1世(Justinianus I(ラテン語))によって城砦が造られます。その後も東ローマ帝国は西側に勢力を拡大し、553年には東ゴート王国を征服します。
    632年頃になると、ゲルマン民族の大移動に続いて、東アルプス地域から移動してきた南スラブ人がダルマチア地方を含むバルカン半島西部に住み始め、コトルにおける東ローマ帝国の影響力は不安定となって、統治下中には何回も統治力を失ってしまいます。700年頃にはセルビア人(正教を受け入れた南スラブ人)が居住し始め、840年にコトルはシシリー島やクレタ島を拠点としてアドリア海沿岸の都市を襲撃していたアラブの海賊の略奪にあいました。998年には、南スラブ系ブルガリア人が681年にバルカン半島東部から黒海にかけて建国した第一次ブルガリア帝国(First Bulgarian Empire(英語))の侵略が始まり、999年にはその支配下に落ちます。
    1003年、第一次ブルガリア帝国皇帝サムイル(Samuil(ラテン語))は侵略によって荒廃したコトルをセルビアに割譲することを決めますが、ラグーサ共和国と同盟関係にあったコトルの人々はこれに抵抗し、1009年、ビザンツ帝国が第一次ブルガリア帝国から南ダルマチア地方を奪還すると、コトルは再びビザンツ帝国の支配下に入ります。
    11世紀まで、コトルではロマンス語の一種であるダルマチア語(死語)が話されており、同じロマンス語の一種であるイタリア語名カッターロとして知られ、ビザンツ帝国の支配は1185年まで続きます。ビザンツ帝国の衰退に乗じて1168年セルビア諸部族を統一し、セルビア侯となったステファン・ネマニャ(Stefan Nemanja(セルビア語))は、1171年セルビア王国の国王として即位してネマニッチ朝(Nemanji?・)を開きました。彼は1185年、独立の軍隊を有し、平和と戦争の宣言権を与えることを条件に、戦うことなくコトルをセルビア王国の従属国家とし、街を広げ、壮大な城砦を築き上げました。
    その当時、コトルには既に司祭の住居があり、13世紀にはドミニコ会修道院とフランシスコ修道院が建設されました。モンゴル帝国がヨーロッパを侵略していた頃の1241年、チンギス・ハン(?・inggis Qan(モンゴル語のラテン文字表現))の孫であるKadan(英語)に率いられたモンゴル軍はコトルを方して焼き尽くしますが、街は短期間で復興します。
    1185年~1371年のネマニッチ朝の間、コトルは中世セルビア王国の重要な貿易・商業の中心地であり、海上貿易に特化した自治独立の共和国でした。国王や王子達はコトルや沿岸の都市を通して西ヨーロッパと接触を維持していました。この期間コトルは顕著な経済的、文化的繁栄を誇り、その貿易はドゥブロヴニクと競合して、ヴェネツィアの嫉みをかいました。しかしながら、1371年、ステファン・ウロシュ5世(Стефан Урош V(セルビア語))とヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ(Вукашин Мр?・авчеви?・(セルビア語))の共同2皇帝はマリツァの会戦(Маричка битка(セルビア語))でオスマン帝国に敗れ、ネマニッチ朝は終焉を迎えてセルビア王国のコトル支配も終わりました。
    1371年からの半世紀、コトルとその周辺地域は公式には他国君主の保護下にありましたが、実質的には独立都市貴族の共和国でした。1371年~1384年はハンガリー・クロアチア王のルイ1世(Louis I、Louis the Great(英語))の、1384年~1391年はボスニア王のStephen Tvrtko I(英語)の保護下にあり、1391年~1420年は独立した都市国家で、選ばれた貴族の“王子”(rector、prior、comes(ラテン語)のような職)よって統治されていました。しかしながら、1389年、セルビア王国がコソボの戦い(Bitka na Kosovu(セルビア・クロアチア語))でオスマン帝国に敗れて以来、徐々にオスマン帝国によるコトル支配の可能性が高まっていきます。
    1420年のオスマン帝国の侵略の脅威の前に、コトルの人々は大都市評議会(Consilium maius(ラテン語))の決定に従って、自発的にヴェネツィア共和国の支配および保護下に入りました。この時から“王子”の選出は行われなくなり、ヴェネツィア共和国の総督がこれにとって代わりました。15世紀初頭にはダルマチア地方のアドリア海沿岸の重要な都市であるザダル(Zadar(クロアチア語))、シベニク(?・ibenik(クロアチア語))、トロギール(Trogir(クロアチア語))、スプリット(Split(クロアチア語))もヴェネツィア共和国の保護下に入ります。
    コトルは1797年までヴェネツィア共和国の統治下にあり、約4世紀の間、コトルとコトル湾を含む現モンテネグロのアドリア海沿岸はヴェネツィア共和国の一地方としてアルバニア・ヴェネタ(Albania Veneta(イタリア語))と呼ばれていました。この4世紀は街に典型的なヴェネツィア建築をもたらし、街の外観をヴェネツィア風にしました。
    ヴェネツィア共和国のアルバニア・ヴェネタ地方占有は、この地に隣接するオスマン帝国との戦場となり、この時期はコトルにとって最も劇的な時代だったと言ってもいいでしょう。コトルの統治はこの地域全体の統治となるため、オスマン帝国は何回にもわたって執拗コにトルの掌握を試みますが、リサンやヘルツェグ・ノヴィ(Херцег - Нови)と異なって成功することはありませんでした。
    1539年、オスマン帝国で最も優秀な海軍提督の一人であるハイレッディン・バルバロス(Hayreddin Barbarossa(英語))は70隻の船と3万人の兵士でコトルを包囲しましたが、4日後には撤退を余儀なくされました。
    1571年、後にレパントの海戦(Battle of Lepanto)で敗れるメジンザード・アリ・パシャ(M?・ezzinzade Ali Pasha)率いるオスマン帝国艦隊は同年8月9日~16日の間コトルを包囲しますが、やはり掌握にはいたりませんでした。
    最も困難だったのはヴェネツィア共和国―オスマン帝国間のクレタ戦争(Cretan Wa、War of Candia、1645-1669)中の1657年で、シュコダル(Shkod?・r(アルバニア語))からのMehmed Pasha Varlats率いる5千のオスマン軍が、コトルの都市防衛軍千人と2ヶ月間対峙しました。しかしオスマン軍はコトルを制圧することはできませんでした。
    18世紀、アルバニア・ヴェネタは約300もの艦船を持つ強力な海軍を有していました。ガレー船による歴史的大海戦である15771年10月7日のレパントの海戦では、教皇・スペイン・ヴェネツィア連合軍と共に、コトル出身のJerome Bizanti,艦長が指揮する200人の船員を載せたガレー船、聖トリフォン(St. Trifon(英語)、sv Trupuna(モンテネグロ語))がオスマン帝国と戦い、大勝利を収めます。
    1657年、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の間のクレタ戦争時、コトルには多くの正教会のキリスト教徒がオスマン軍の侵略からコトルに逃れて来ました。街のヴェネツィア政府は彼らが聖ルカ教会(Crkva sv. Luka(モンテネグロ語))を使うことを許します。このため、この教会にはカトリックと正教の2つの祭壇があります。両教の式典はフランスが征服するまでの150年間にわたって執り行われました。
    しかし、街を脅かしたのはオスマン帝国だけではありません。コトルは伝染病や地震等の自然災害も受けています。1422、1427、1457、1467 、1572年に街は伝染病に襲われ、1537年と1563年には地震に、1667年4月6日には壊滅的な巨大地震襲われ、聖トリフォン大聖堂の鐘楼を含む全建物の2/3が破壊されています。また、ヴェネツィアの総督Alvise Foscariniはこの地震で家族と共に亡くなりました。
    しかしながら、多大な不幸の後、コトルは立ち上がり、再建されました。1698年、モスクワからこの地に旅行でやってきた政治家で外交官のPyotr Andreyevich Tolstoy(ロシアの文豪レフ・トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy(ラテン語))の祖先)は彼の日記に次のように書き残しています。

    コトルの街には石でできた非常に強固な要塞があります。要塞の半分は平地の水の中にあり、残りの半分はトルコ人が陸から攻めてくるのを恐れて、山の高い所にあります。コトルのこのような状況から、トルコ人はコトルから約6 km もしくはさらに近くに住んでいて戦いがあり、和解が成立したときは交易もありました。

    1797年のカンポ・フォルミオ条約(Trait?・ de Campo-Formio(フランス語)、Treaty of Campo Formio(英語))によって、ヴェネツィア共和国は消滅し、コトルはハプスブルク帝国の中核をなすオーストリア大公国(Erzherzogtum ?・sterreich)の支配下になりましたが、1805年にはプレスブルク条約(Treaty of Pressburg(英語))によって、ナポレオンのフランス第一帝政下の属州であるイタリア王国(Regno d'Italia(イタリア語))に移ります。
    主として海外貿易で生計を立てていたコトル市民にとって、当時「海の女王(the mistress of the seas)」と呼ばれるイギリスと戦争状態にあったフランス統治は好ましいものではありませんでした。なぜなら、フランス統治下のコトル及びその周辺を通過することは、全ての船がイギリス艦隊の可能性を有するとみなされて、イギリスの支配下にある地中海のすべての港が閉鎖され、貿易が完全に不可能になることを意味したからです。そこで、コトル湾沿岸地域の住人はツェティニェ(Cetinje(セルビア語))のモンテネグロ君主Petar I Petrovi?・ Njego?・(セルビア語)に助けを求め、彼は地中海に遠征してCorfu島にいた、ロシア艦隊提督ドミトリー・セニャーヴィン(Dmitry Senyavin)にそのことを知らせます。1806年2月、ロシアとモンテネグロ艦隊はБокиの街を占領し、2月28日には、ロシア艦隊がコトルに接近します。そして3月2日、ドミトリー・セニャーヴィンがコトルを占領します。
    ロシアとモンテネグロの合同軍の成功の後、Petar I Petrovi?・ Njego?・はロシア皇帝アレクサンドル1世(Alexander I)に、コトルを含めたスラブ-セルビア国をドゥブロヴニクを中心として作ることを提言します。しかし1807年6月のフリートラントの戦い(Battle of Friedland)でナポレオン1世率いるフランス第一帝政軍に敗れたロシア軍はティルジット(Tilsit(英語)、現ロシア連邦カリーニングラード州ソヴィェツク(Sovetsk(ロシア語)))に撤退し、コトル湾地域をナポレオン1世に引き渡す道筋ができます。7月25日、セニャーヴィン提督に降伏とコトル地域をフランスに引き渡す命令が発布され、1807年8月14日にはロシア海・陸軍の撤退が完了します。ロシア軍の撤退後、フランスの統治は1813年まで続きますが、この間810年にコトルはフランス第一帝政のイリュリア州となります。
    1813年9月、Petar I Petrovi?・ Njego?・はコトルを含むコトル湾地域全体を占領しました。コトルの北に隣接するドブロタ(Dobrota)村の議会で、モンテネグロの海岸部を「モンテネグロとコトル湖の統一自治の暫定領土」に加える決議ななされました。1814年、Petar I Petrovi?・ Njego?・は再びモンテネグロをロシアの保護下にするようアレクサンドル1世に要請しました。しかし、皇帝はモンテネグロに、ナポレオン戦争の戦後処理を議論するウィーン会議(Wiener Kongress(ドイツ語)、Congress of Vienna(英語)、シェーンブルン宮殿で開催)の決定事項として、コトル湖をオーストリアに手渡すよう要請し、1814年5月1日、モンテネグロはこれに従いました。
    コトルは1814年~1918年の間、オーストリア帝国(1804~1867)およびオーストリア=ハンガリー帝国(1867~1918)属するダルマチア王国(Kingdom of Dalmatia、1815~1918)の一部でした。この約100年の間には多くの暴動や蜂起がありました。
    1869年、オーストリア軍がOren山脈の西の平坦地にあるKrivoshyeで強制兵役を導入しようとしたとき、正教信者の地元住民の蜂起が発生しました。この反乱はオーストリアの遠征軍によって制圧されましたが、オーストリア=ハンガリー政府は強制的徴兵という考えを放棄しなければなりませんでした。 しかし、結局それは1881年に再導入され、正教徒の新たな暴動につながりましたが、またもや制圧されてしまいました。 その後、オーストリアは、ロシア人やモンテネロ人の攻撃の攻撃に対し、難攻不落な軍港の大規模な再建をおこないました。
    その一方で、オーストリア統治の期間は、コトル湖地域のスラブ国家としてのアイデンティティが高まる時期でもありました。19世紀のコトルでは、様々なセルビア社会が定常的に作られ、以下に示すセルビアの施設や組織がオープン・活動開始しました。それらは1838年の図書館を付属したセルビア立法議会の宮殿、1848年の正教会が管轄するセルビア国立学校、1862年のセルビア国家警備隊、1868年のセルビア国立慈善団体「聖ジョージ(Saint George)」、1869年 のセルビア正教会、1899年のセルビア人労働者協同組合、1901年のセルビア信用組合です。
    1874年にはコトル‐ドゥブロヴニク司教区のセルビア正教会がコトルに建設され、1909年には聖ニコラ正教会(Crkva sv. Nikola)が開かれました。なお、上記の通り、最初に正教徒に開かれた教会は1199年に建設されたカトリックの聖ルカ教会(Crkva sv. Luka)で、1657年のことです。
    第一次世界大戦時、コトルはモンテネグロとオーストリア=ハンガリー帝国間の熾烈な戦いの場となりました。1918年2月1~3日、オーストリア=ハンガリー艦隊のコトル船員の反乱がここで起こり、コトル湾の40隻の船の船員(クロアチア、スロベニア、チェコ、ハンガリーの約6000人)と港湾労働者達が蜂起しました。オーストリア=ハンガリー軍はこの反乱を制圧し、約800人が検挙され、反乱の指導者達はは射殺されました。
    1918年の第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の敗北以降、コトルはセルビア、クロアチア、スロベニア王国(1929年以降はユーゴスラヴィア王国)の一部となりました。この時以降街は正式に「コトル」と呼ばれるようになりました(それまでは、書類にはイタリア語の「カッターロ(Cattaro)」がつかわれていました)。1922年までコトル湾地域はコトルを首都とした独立地域でしたが、1922年にはZet地域の一部に、1929年以降はーゴスラヴィア王国の州であるZeta Banovinaの一部となりました。
    ロシア艦隊提督セニャーヴィンがコトルを占領して100年以上たった1920年、バロン・ランゲル(Baron Wrangel(ドイツ語)軍の生き残り兵とロシア難民を乗せたロシア船団が再びコトル湾に現れました。コトル地域の病院で避難民は医療援助を受け、王国の領土に定住しました。
    第二次世界大戦でユーゴスラビア王国が降伏した1941年以降、コトルはイタリアおよびドイツ軍に占領されました。ムッソリーニはモンテネグロのアドリア海沿岸部の他の都市を含めてコトル周辺の領土を併合し、イタリア領としました。これらの領土はイタリア‐ダルマチア県(Governatorato di Dalmazia(イタリア語))の一部でカッターロ州(Provincia di Cattaro(イタリア語))と呼ばれました。コトルは1944年11月21日、チトーのパルチザン軍によって解放され、この日付は旧市街の中央門上の石に“21.XI.1944”と刻まれています。終戦時、モンテネグロの一部であったコトルは共産主義国ユーゴスラヴィアの一部に戻りました。
    1979年4月15日、モンテネグロの海岸で巨大地震が発生しました。コトルでは約100人が犠牲となり、旧市街の半分が破壊され、聖トリフォン大聖堂(Katedrala sv. Tripuna)も被害を受けました。復興後のコトルはユネスコの保護下におかれました。
    1990年代のユーゴスラビア内戦の間、コトルにおける軍事行動はなく、現在はモンテネグロに属しています。

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この旅行記へのコメント (8)

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  • hirootaniさん 2018/01/02 19:09:50
    コトルの丘を登るのは大変ではありませんでしたか?
    bunbunさん、こんにちは。
    hirootaniと申します。いつも旅行記拝見させていただいています。

    コトルの旅行記を拝見して、10年ほど前に当地を訪れたことを思い出し、コメントせずにはいられませんでした。

    私も、ドブロクニークに行った折に、コトルを訪れました。当時は、ドブロブニークほどは、コトルは観光化が進んでおらず、のんびりと素晴らしい建造物と風景を見学することができました。折角来たのだからと、水も持たずに、普通の運動靴で丘を登り始めたのですが、結構な急坂で、途中で(多分教会あたり)で水を買ったのを思い出しました。山の頂上からの風景は、bunbunさんの写真にある通り、素晴らしいものでしたので、登った甲斐がありました。

    ここでの印象がとても良かったので、ドブロブニークに行く人がいれば、必ず訪問するように勧めています。

    それにしても、bunbunさんは、博学ですね。歴史に対する知識に感心致します。私の方は、美しい光景を見つけたら、その時代背景等も知らずに、バシャバシャとシャッターを押してばかりです。本当は、その風景の意味することをよく知った上でないと良い写真は撮れないと写真の先生からは、言われているのですが・・・

    私も、bunbunさんまではいかずとも、少しは歴史を勉強してから、その地を訪れねばと思っています。

    今後とも旅行記を楽しみにしています。

    hirootani

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2018/01/03 12:02:41
    RE: コトルの丘を登るのは大変ではありませんでしたか?
    hirootaniさん、明けましておめでとうございます。

    ご訪問、いつも私の拙い旅行記に投票いただき、ありがとうございます。

    ドゥブロヴニクに行った2日目の午後、ドゥブロヴニクで旧市街見学をするか、コトルに行くかの2つの選択肢がありました。コトルは皆さま方の旅行記や写真でも見たことのある、歴史ある美しい世界遺産の街でしたので、迷わずに行きました。街も高台からの景色も素晴らしいく、行って良かったと思っております。

    私は時間が無くて、救済の聖母教会までしか登りませんでしたが、暑くて大変でした。私の救済の聖母教会の写真を拡大して頂ければ、教会の左側の日陰で休んでいるたくさんの観光客がご覧頂けるかと思います。

    「博学」と書かれますと、お世辞でも光栄ですが、行く前はガイドブックやウィキ程度の知識しかなく、帰ってから調べて知ったかぶりをして書いております。ただ、コトルも含めてバルカン半島の個々の街となりますと、日本語の詳しい資料は殆どなく、現地語の資料で勉強しております。いろいろな所に行って勉強して相互の関係や、歴史的な位置付けが分かると嬉しくなります。

    hirootaniさんの「モンテネグロの古都コトルへの旅」拝読しました。城砦まで登られたのですね。これは大変だったと思います。でも高い所からですとまた一段と視界が開けて素晴らしいですね。私は高い所が好きで、時間が許す限り登りますが、残念ながら今回は駄目でした。
    それにしましても、10年前のコトルは日本人にとってまだメジャーな観光地ではなかったと思いますが、やはりhirootaniさんは旅の達人ですね。

    これからもhirootaniさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun
  • arurunさん 2017/12/21 19:43:22
    コトル
    bunbunさん

    こんばんは。
    いつも、旅行記をご覧になってくださり、ありがとうございます。
    何度もお邪魔していますが、初めて書き込みさせていただきます。
    旅行記、いつも楽しく拝見しております。
    今回は、コトルの旅行記を拝見しました。
    コトルは、ドゥブロヴニクに行った際、私も立ち寄りたいと思っていた場所だったので、いつも以上に興味を持って拝見しました。
    結局、行けずじまいだったので、旅行記を見て、行った気分にさせていただきました。
    コトル湾の景色、絶景ですね!
    山と海が織り成す景色が素晴らしいです。
    ドゥブロヴニクとも共通する赤い屋根も映えていて、美しいと思いました。
    是非、機会があれば、訪れてみたいです。

    arurun

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2017/12/22 13:10:52
    RE: コトル
    arurunさん、こんにちは。はじめまして。

    ご訪問、いつも私の拙い旅行記をご覧いただきありがとうございます。

    ドゥブロヴニクに行った2日目の午後、ドゥブロヴニクで旧市街見学をするか、コトルに行くかの2つの選択肢がありました。コトルは写真でも見たことのある、歴史ある美しい世界遺産の街でしたので、迷わずに行きました。街も高台からの景色も素晴らしいく、行って良かったと思っております。
    コトルは複雑な形状をしたコトル湾の一番奥にある街で、その部分の湾は山に囲まれて南北に長く、コトルはその一番南側に位置します。私が行ったには15:00〜16:30頃で太陽は西側にあり、東側の山の斜面は綺麗に見えましたが、西側の山の斜面は日陰になっていました。多分お昼頃でしたら、全体に日が当たっているのでもっと綺麗だったろうと思います。お勧めです。

    「ANAインターコンチネンタルホテル東京」拝読しました。夜景がきれいな高級ホテルですね。東京タワーが見えるのがまたいいです。東京住まいですし、何よりも\23.800/room〜(arurunさんのブログ中PRに出てました)ではちょっと私には無理です。arurunさんの旅行記で宿泊した気分にさせて頂きまました。

    素敵な旅行記をありがとうございました。

    これからもarurunさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun
  • wagaさん 2017/12/19 19:06:01
    美しい!
    bunbunさん

    こんばんは!
    旅行記拝見させて頂きました!
    初めて聞いた街の名前だったのですが素敵な
    街ですね(^^♪またTOP画像が絵画のように
    美しいですね!ステキです。

    waga

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2017/12/20 23:21:02
    RE: 美しい!
    wagaさん、こんばんは。

    またのご訪問、私の拙い旅行記へ投票ありがとうございましす。

    ドゥブロヴニクに行った2日目の午後、ドゥブロヴニクで旧市街見学をするか、コトルに行くかの2つの選択肢がありました。コトルは写真でも見たことのある、歴史ある美しい世界遺産の街でしたので、迷わずに行きました。思った通りの素晴らしい街で、行って良かったと思っております。

    「歴史を学ぶ旅」拝読しました。「日本がどうして戦争になったか?など歴史背景も分かりやすく解説展示してあります。」私は私なりの考えを持っていますが、どう書かれていたのか気になるところです。是非一度行って見たいと思います。
    「忘れずにいつまでも後世に語り継ぐことが一番大事なのではないかと感じました。」全く同感です。
    いい旅行をされましたね。

    bunbun
  • Rolleiguyさん 2017/12/18 20:32:52
    美しく歴史のある街ですね
    bunbunさん
    コトルの旅行記、美しい写真と、詳細な歴史を大変興味深く拝見しました。
    紀元前に遡る歴史があり、ローマ時代から近現代に至る2千年の間、斯様な
    歩みをして来たのかと強い印象を受けました。モンテネグロは山と海の田舎と
    いう程度の認識でしたので、こうした歴史の蓄積を見ることが出来るのは素晴らしいことだと思います。昔、仕事上東欧には結構足を運んだのですが、仕事になりそうもないところには行かなかったので、モンテネグロはパスしてしまい、勿体ないことをしました。今日はさっと拝見しただけですが、またお邪魔してゆっくり味わいたいと思います。
    Rolleiguy

    bunbun

    bunbunさん からの返信 2017/12/20 23:18:28
    RE: 美しく歴史のある街ですね
    Rolleiguyさん、こんばんは。

    ご訪問、私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございましす。

    モンテネグロは人口約70万人、面積は四国の70%、GDPは日本の約1/1000の4000億円程度ですから、おっしゃる通りとても商売ができる国ではないと思います。
    ドゥブロヴニクもそうですが、コトルも含めてバルカン半島の各街の詳細な歴史に関する日本語や英語の資料は見つからず、私の興味から、現地語の資料を読んでその歴史を纏めております。多分お読みになる方はいらっしゃらないだろうな、と思って載せましたが、お読み頂き大変嬉しく思います。
    モンテネグロも含め、バルカン半島の国々は周辺列強国に支配・翻弄され続けた長い歴史を持ちますので、住民は苦難の連続だったと思います。コトルのように、貿易港として天然の良港を持つ街は、美しい景観とこの歴史の基づく文化遺産を持っていますので、これもおっしゃる通り一見の価値はあると思います。

    「オーストリアの歴史を訪ねて(3)」拝読しました。
    「寅さん」映画は大好きで全作見ておりますし、BDにも落としてありますが、最近またテレビで再放送されているのでまた見ています。ウィーンを舞台にして作られたのがそう言うことだったとは、初めて知りました。
    フリーメイソンは知りませんでした。興味深い組織ですね。宗教等こういった団体の出現、教義、理念、活動等は、人類というものを知る上で役立ちそうですので、時間があったら勉強したいと思います。私の人生の究極の目的は-∞から+∞の時間の中で、この人間界、生物界、地球、宇宙等でこれまで何が起こり、これから何が起こるかを論理的に知ることです。これまでいろいろな知識を集め、体験し、予測したことで、おおざっぱではありますが、全てを把握できていると思っており、現在はその検証をしているところです。「またとんでもないことを」と思われるかも知れませんが、私の考えは多分間違っていないと思います。もう少し具体的には、人はなぜ死ぬのか、何故様々な感情をもっているのか、なぜ戦争が起きるのか、なぜ宗教が必要なのか、科学や医学の進歩が何をもたらすのか、人類は、地球は、太陽系は、宇宙はこの先どうなるのか等々です。フリーメイソンも説明できる気がしております。

    これからもRolleiguyさんの旅行記を楽しみにしております。

    bunbun

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