2017/11/24 - 2017/11/29
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tono202さん
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前日にトライアングルPassで門司港や巌流島を訪ねた。
翌日の朝は、快晴。ホテルのベランダからは上り来る朝日と照らされる関門大橋が見える。
朝食ついでに、朝の散歩を楽しむためにホテルを出る。
行ってみたいのは下関条約が締結されたところ。
朝日に照らされながら海沿いのテラスを歩き始める。
- 交通手段
- 自家用車
-
目覚めると門司港方面から朝日が昇ってくる。
関門連絡船の門司港行きの始発便が港を出て行く。下関グランドホテル 宿・ホテル
-
上る朝日を目指すように海峡を横切っていく。
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行き交う船の航路を遮ることはない。
航路の後ろを縫うように通過していく。 -
航跡を朝日が染める。
こんな光景を見ていると時間がいつの間にか過ぎてしまう。 -
関門大橋も日を浴びて浮き上がってきた。
風も無い。
早朝散歩にでかけるには絶好のコンディション。 -
ホテルと出て海沿いに2,3分歩くと・・・
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唐子市場がある。2階は朝早くから営業している食堂がある。
ここで朝食をいただく。
この時期、この時間帯は観光客も少なくガラガラ。 -
朝食を済ませて外に出ると、道路の向こうに大きな鳥居が・・。
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鳥居のそばにはこんな道標があった。
ここが山陽道の起点(終点)だったようだ。
トンネルや橋が出来る前は、ここから船で九州に渡っていたのだろう。
映画「男はつらいよ」のシーンにも、連絡船に乗って九州に渡っていく寅さんの姿があったような気がする。 -
階段を登って振り返ると、関門海峡が目の前。
かつては、鳥居の下は海際だったようだ。 -
幕末、長州藩はここに砲台を築き、沖行く夷人船への砲撃を行った。
それが結果的には、明治維新への歴史を加速させることになる。
その激戦と戦後処理の中で輝き出すのが高杉晋作だ。
この地は長州人にとっては功山寺と並び「聖地」になるのかもしれない。
ここから海峡を見ているといろいろな事を考えられる。現場に立たないと涌いてこない思いだ。 -
しばらく東に歩いていると、空き地にこんな標識が見えた。
「本陣伊藤亭跡」とある。 -
残っているのは井戸跡と一部の石積みだけ。
そこに説明板が立っている。本陣伊藤邸跡 名所・史跡
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伊藤家は下関の本陣を務めた豪商で、幕末には尊王攘夷運動に理解を示し多くの志士を支援した。当主の残した日記等は、当時の一級資料になっているようだ。
その中に下関に隠れ住んだ龍馬とお龍をかくまったことが記されているという。
龍馬に伊藤家が提供した部屋は4畳半の小部屋。客間ではない小部屋が提供されているところに龍馬の立場が垣間見える。当時は龍馬は世間では無名の人物なのだ。
そう言えば、当時は伊藤博文も山縣有朋も無名だ。
高杉晋作の奇兵隊の中から輝きだしてくる群像だ。
かつて読んだ何冊かの小説の中にも登場する場所だ。 -
そして、赤間神社へ。
この前を通ったことは、何度かあるが参拝したことはなかった。 -
竜宮城に思える門をくぐる。
門には金の菊のご紋が・・・
朝の散歩なので、時間は限られている。
参拝を済ませ目的の建物を目指す。 -
ここにもふぐがいました。
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春帆楼です。
しかし、残念ながらふぐを食するために訪れたのではなく・・。 -
春帆楼の前にあるこの建物です。
日清講和記念館 美術館・博物館
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この建物の横には、日本側の主役の二人の像が並んでいる。
伊藤博文(左)と陸奥宗光(右)だ。
伊藤が首相、陸奥が外相として出席している。 -
日清戦争の講和会議はここで行われた。
立身出世を遂げ、首相として勝利した講話条約に故郷の地で望む伊藤の胸にはいろいろな思いが去来しただろう。 -
この建物は、有形文化財に登録されているようだ。
山口県では68番目の登録になるらしい。 -
当時の講和会議の模様が残されている。
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絵の椅子とテーブルがそのまま残されている。
当時使用されたものらしい。 -
一番左が伊藤博文の椅子、真ん中が陸奥、一番右が伊東巳代治。
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そして、その向こうに中国側の全権大使として出席したのがこの人。
李鴻章だ。
この人に私は興味を持っている。 -
建物の作りも手が込んでいる。
有形文化財に指定されるに充分だ。 -
春帆楼から崖沿いに細い道が唐子の町に繋がっている。
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この道は李鴻章道と呼ばれているようだ。
李鴻章は宿泊所から毎日、会議場の春帆楼へ通ったがその途上に、暴漢に襲われた。
以後は、下の本道を使わずにこの細道を使って通った。そこで市民は、いつしか李鴻章道と呼ぶようになったそうだ。 -
道をたどると、中国側の宿泊所であったお寺に行き着く。
浄土宗の引接寺だ。引接寺(山口県下関市) 寺・神社・教会
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この寺は江戸時代には朝鮮通信使やオランダのキャピタンが江戸に向かう際にも宿泊所にされてきた歴史を持つ。
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シーボルトもこの寺に泊まったことがあるようだ。
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1895年3月中旬から李鴻章はここに寝泊まりした。その間、日本側と交渉を重ね1ヶ月後に締結にこぎ着ける。難しい役割であった。
帰国後、彼は「台湾を日本に売った売国奴」と集中砲火の非難を浴びる。
科挙の最終試験に北京に上京してきた国家公務員予備軍の若者達が「日本と再度戦え」と李鴻章の罷免を求める。孫文が清朝を見限り共和制を指向し出すのもこの後だ。
しかし、最高権力者であった西太后の信任は揺らがない。この後、李鴻章はロシアへの接近策をとりながら内外の舵取りを継続していく。
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条約締結が何をもたらすかを考えながら、李鴻章は「戦後」への対処策をここで考えていたのかもしれない。
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境内の大きなソテツはその時の様子を見ていただろう。
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亀山八幡の裏手を通ってホテルに帰りました。
1時間少々の朝の下関散歩の報告です。
お付き合いありがとうございました。
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