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JR八高線・箱根ヶ崎駅から国道16号に沿って徒歩約50分、浄悦山・長久寺(ちょうきゅうじ、埼玉県入間市宮寺)は徳川旗本で当地の領主の土屋利次(つちや・としつぐ)が父利常の霊を慰めるため、次男成勝を初代住職とし生保2年(1645)に創建、以降利次を二代とし以降十代利薄までの歴代当主を祀った墓石群があります。<br /><br />ご本尊は馬鳴(みんみょう)大士蚕守経尊像といい戦国時代後半、明智光秀の与力として知られた大和国武将の筒井順慶(つつい・じゅんけい)の守護像といわれ、利次が幕命により奈良奉行として在勤していた頃、知行を得ていた大和国平群郡(現大和郡山市)が順慶の本貫地であったことから利次に献上され後に長久寺に寄進されたようです。<br /><br />大和国は平安時代から広域に荘園を持つ寺社勢力による永年に亘る圧倒的支配が続きそのため他国と様相が異なり地元豪族の発展が見られず、ようやく戦国時代後半に興福寺の門徒であった筒井氏が織田信長の安堵支援を得て郡山中心に武家政治を展開、その後豊臣秀吉弟の秀長が郡山城に入城し河内・紀伊三国の太守となりますが短命に終わり徳川時代の幕開けを待ちます。<br /><br />徳川幕府初期の段階では京都・大坂といった歴史的あるいは地理的に重要な国は徳川直轄地となり、大和についても同様で家康の信頼を背景に金鉱山で活躍の代官頭である大久保長安(おおくぼ・ながやす、1545~1613<br />)配下の代官によって奈良や郡山を中心とする大和国の治政に努めた時期がありました。<br /><br />やがて幕府の組織が機能充実する時期を迎えます。慶長18年(1613)老中支配下のもと京都所司代の指揮下に置かれた奈良奉行が発足、現在の奈良女子大辺りに奉行所が設置されます。<br /><br />奈良奉行所の主たる任務は奈良を中心とする大和国の統治とともに奈良を中心とした大和国における歴史的あるいは宗教的に根強い権力を有している社寺監督を担っており、責任者の奉行は高級旗本が任命され、その奉行を支える与力(200石)6騎、更に与力の下で雑務を処理する下級役人同心30名で構成されています。<br /><br />寛文4年(1664)、長安の後継として慶長18年(1613)以来奉行を勤めていた興福寺の被官で土豪である中坊秀政・時祐の両氏に代わって旗本の土屋利次が奈良奉行に着任、これに合わせて奈良代官が新設され、奉行所機能が整備され当該奉行所は、大和国の行政及び裁判を扱う地方行政機関として確立してゆきます。<br /><br />一方宗教的権力を有する社寺は藤原氏の氏寺として知られた興福寺をトップに永年にわたって権威の象徴と目されてきた歴史があり、当該奉行所はこれら寺社勢力と極力トラブルを起こさないよう最新の注意が求められていました。<br /><br />トラブルの一事例としては神聖なる鹿を誤って殺害した者は理由を問わず興福寺に引き渡され、引き回しの上獄門という厳しい処分が科せられるという慣習になっていました。寛文11年(1671)に発生した事件では、当時の奉行川路聖謨(かわじ・としあきら、1801~1868))は興福寺への引き渡しを拒否し、奉行所ひいては幕府の権威を回復させています。<br /><br /><br />土屋氏歴代当主が眠る墓石の傍らには入間市教育委員会による説明板が建っており、下記の通り記述されています。<br /><br /><br />「 旗本土屋氏の墓付墓石一基<br /><br />             市指定有形文化財(史跡)<br />             指定年月日 平成十三年七月一日<br /><br />これらの墓石は、旗本として徳川氏に仕えた土屋氏の一族(向かって左から六代利穀、十代利薄、二代利次、七代利置、付墓石-家来、九代利懐、初代利常、八代利族、三代利勝、四代利意、五代利起)のものである。<br /><br />土屋氏は利常が初代旗本に登用され、寛永二年(1625)に中野村(現入間市宮寺)の187石を初めとする570石余りの領地を拝領した。利常は、没後二本木の地福寺(現在廃寺)に葬られたが、後に長久寺(この場所)に移葬されている。<br /><br />二代利次は、中野村北部の土屋新田(現宮寺北中野)を開墾し、その一角に正保2年(1645)浄悦山長久寺を建立して、土屋氏の菩提寺と定めた。なお、利次の次男成勝が出家して、長久寺の第一世住職栄俊となっている。また、利次は、寛文4年(1664)に奈良奉行となって、大和国平群額田部村(現奈良県大和郡山市)に5百石の知行地を加増されるとともに、額田部村森川重左衛門より馬鳴大士像を寄進され、これを長久寺に奉納している。現在も馬鳴大士の祭りが毎年4月下旬に行われている。<br /><br />これらの墓石は、当地の近世旗本の支配の様子を知る上で貴重な文化財である。<br /><br />平成15年3月12日<br /><br />                入間市教育委員会<br />                入間市文化財保護審議会 」

武蔵入間 古代からの宗教権威を背景に歴史的特権をかざす寺社勢力の監視監督を任務とする徳川幕府奈良奉行を務めた旗本土屋利次を祀る『長久寺』散歩

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2017/09/10 - 2017/09/10

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR八高線・箱根ヶ崎駅から国道16号に沿って徒歩約50分、浄悦山・長久寺(ちょうきゅうじ、埼玉県入間市宮寺)は徳川旗本で当地の領主の土屋利次(つちや・としつぐ)が父利常の霊を慰めるため、次男成勝を初代住職とし生保2年(1645)に創建、以降利次を二代とし以降十代利薄までの歴代当主を祀った墓石群があります。

ご本尊は馬鳴(みんみょう)大士蚕守経尊像といい戦国時代後半、明智光秀の与力として知られた大和国武将の筒井順慶(つつい・じゅんけい)の守護像といわれ、利次が幕命により奈良奉行として在勤していた頃、知行を得ていた大和国平群郡(現大和郡山市)が順慶の本貫地であったことから利次に献上され後に長久寺に寄進されたようです。

大和国は平安時代から広域に荘園を持つ寺社勢力による永年に亘る圧倒的支配が続きそのため他国と様相が異なり地元豪族の発展が見られず、ようやく戦国時代後半に興福寺の門徒であった筒井氏が織田信長の安堵支援を得て郡山中心に武家政治を展開、その後豊臣秀吉弟の秀長が郡山城に入城し河内・紀伊三国の太守となりますが短命に終わり徳川時代の幕開けを待ちます。

徳川幕府初期の段階では京都・大坂といった歴史的あるいは地理的に重要な国は徳川直轄地となり、大和についても同様で家康の信頼を背景に金鉱山で活躍の代官頭である大久保長安(おおくぼ・ながやす、1545~1613
)配下の代官によって奈良や郡山を中心とする大和国の治政に努めた時期がありました。

やがて幕府の組織が機能充実する時期を迎えます。慶長18年(1613)老中支配下のもと京都所司代の指揮下に置かれた奈良奉行が発足、現在の奈良女子大辺りに奉行所が設置されます。

奈良奉行所の主たる任務は奈良を中心とする大和国の統治とともに奈良を中心とした大和国における歴史的あるいは宗教的に根強い権力を有している社寺監督を担っており、責任者の奉行は高級旗本が任命され、その奉行を支える与力(200石)6騎、更に与力の下で雑務を処理する下級役人同心30名で構成されています。

寛文4年(1664)、長安の後継として慶長18年(1613)以来奉行を勤めていた興福寺の被官で土豪である中坊秀政・時祐の両氏に代わって旗本の土屋利次が奈良奉行に着任、これに合わせて奈良代官が新設され、奉行所機能が整備され当該奉行所は、大和国の行政及び裁判を扱う地方行政機関として確立してゆきます。

一方宗教的権力を有する社寺は藤原氏の氏寺として知られた興福寺をトップに永年にわたって権威の象徴と目されてきた歴史があり、当該奉行所はこれら寺社勢力と極力トラブルを起こさないよう最新の注意が求められていました。

トラブルの一事例としては神聖なる鹿を誤って殺害した者は理由を問わず興福寺に引き渡され、引き回しの上獄門という厳しい処分が科せられるという慣習になっていました。寛文11年(1671)に発生した事件では、当時の奉行川路聖謨(かわじ・としあきら、1801~1868))は興福寺への引き渡しを拒否し、奉行所ひいては幕府の権威を回復させています。


土屋氏歴代当主が眠る墓石の傍らには入間市教育委員会による説明板が建っており、下記の通り記述されています。


「 旗本土屋氏の墓付墓石一基

             市指定有形文化財(史跡)
             指定年月日 平成十三年七月一日

これらの墓石は、旗本として徳川氏に仕えた土屋氏の一族(向かって左から六代利穀、十代利薄、二代利次、七代利置、付墓石-家来、九代利懐、初代利常、八代利族、三代利勝、四代利意、五代利起)のものである。

土屋氏は利常が初代旗本に登用され、寛永二年(1625)に中野村(現入間市宮寺)の187石を初めとする570石余りの領地を拝領した。利常は、没後二本木の地福寺(現在廃寺)に葬られたが、後に長久寺(この場所)に移葬されている。

二代利次は、中野村北部の土屋新田(現宮寺北中野)を開墾し、その一角に正保2年(1645)浄悦山長久寺を建立して、土屋氏の菩提寺と定めた。なお、利次の次男成勝が出家して、長久寺の第一世住職栄俊となっている。また、利次は、寛文4年(1664)に奈良奉行となって、大和国平群額田部村(現奈良県大和郡山市)に5百石の知行地を加増されるとともに、額田部村森川重左衛門より馬鳴大士像を寄進され、これを長久寺に奉納している。現在も馬鳴大士の祭りが毎年4月下旬に行われている。

これらの墓石は、当地の近世旗本の支配の様子を知る上で貴重な文化財である。

平成15年3月12日

                入間市教育委員会
                入間市文化財保護審議会 」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 長久寺・参道

    長久寺・参道

  • 長久寺石標<br /><br />寺標には「真言宗涼光院長久寺」と刻されています。

    長久寺石標

    寺標には「真言宗涼光院長久寺」と刻されています。

  • 菩提樹

    菩提樹

  • 菩提樹・説明板

    菩提樹・説明板

  • 長久寺・本堂

    長久寺・本堂

  • 長久寺・扁額<br /><br />本堂上部に掲載の扁額には寺号の「長久寺」が見えます。

    長久寺・扁額

    本堂上部に掲載の扁額には寺号の「長久寺」が見えます。

  • 長久寺・境内<br /><br />本堂から石門方向を一望します。

    長久寺・境内

    本堂から石門方向を一望します。

  • 本堂建設記念碑

    本堂建設記念碑

  • 旗本土屋氏歴代墓石

    旗本土屋氏歴代墓石

  • 旗本土屋氏墓石説明板

    旗本土屋氏墓石説明板

  • 旗本土屋氏歴代墓石群

    イチオシ

    旗本土屋氏歴代墓石群

  • 六代利殻

    六代利殻

  • 十代利薄

    十代利薄

  • 二代利次

    二代利次

  • 七代利置

    七代利置

  • 土屋氏家臣

    土屋氏家臣

  • 九代利懐

    九代利懐

  • 初代利常

    初代利常

  • 八代利族

    八代利族

  • 三代利勝

    三代利勝

  • 四代利意墓石

    四代利意墓石

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