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宮寺山・西勝院(せいしょういん、埼玉県入間市宮寺)は平安時代末期から鎌倉並びに南北朝時代にかけて、武蔵国に在した小領主たちが構成した同族的な武士集団、いわゆる武蔵七党(必ずしも数字に拘らずかつ諸説あるが横山・児玉・猪俣・丹(治)・西・私市・村山)のうち村山郷を発祥とする村山党の庶流の一派が宮寺の地に居館を構えた跡地です。<br /><br />往時の村山郷は西多摩郡から北多摩郡及び入間郡の両郡にまたがる丘陵地を含む一帯で、現在の地名で言及すれば西多摩郡瑞穂町の箱根ヶ崎・石畑・殿ヶ谷地区から東に延びる狭山丘陵・狭山湖・多摩湖を含み、更に北限は所沢市の山口・北野、そして東限は東村山市の野口町・久米川町に至る地域に相当すると思われます。<br /><br />そして村山党は発祥地である村山郷を基盤としつつ新しく未開地を開発しながらその分布は主として入間郡を中心に展開され、その結果党を構成する武士団が十数の庶流にのぼりそれぞれ独立性の強い小領主として発展したようです、例えば金子氏(入間市金子)、山口氏(所沢市山口)、仙波氏(川越市仙波町)、久米氏(所沢市久米)、難波田氏(富士見市上南畑)、大井氏(入間郡大井町)などが挙げられます。<br /><br />武蔵七党と後世に呼ばれた小規模武士集団は鎌倉幕府開設以前から源氏棟梁との関係が深く、例えば源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)が関東への自らの勢力拡大を目指していた12世紀中頃、これら武蔵国における小領主たちはいずれも僅かな郎党を率いる小規模武力集団にすぎないものの既に義朝と直接的な主従関係を結んで義朝の戦力として存在し、具体的には成田太郎・別府二郎・中条新五(以上横山党)、金子家忠・山口十郎・仙波七郎(以上村山党)、小平六範綱・岡部六弥太(以上猪俣党)平山季重(西党)などいわば源氏直属の有力な家人として存在していました。<br /><br /><br />上述の通り源氏と武蔵七党との歴史的強固な繋がりにより幕府開設後の武士の棟梁である源頼朝との譜代とも言える主従関係は復活、一方外様的勢力、例えば坂東八平氏の諸氏や上総国の上総広常(かずさ・ひろつね、生年不明~1184)及び下総国の千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201)といった勢力は百名単位の大規模的豪族武力を背景とする集団にも関わらず頼朝と首長との主従関係にのみ成立しており、この比較をみれば晴れて武家政治発足時における頼朝との距離関係の差が歴然としていたことは相違なく、事実用心深い頼朝が幕府御家人の中で一番警戒していたのは後者であったと言われています。<br /><br /><br /><br />境内の閻魔堂付近に立てられた宮寺氏館跡についての説明文には次の通り記載されています。<br /><br />「宮寺氏館跡(みやでらしやかたあと)<br /><br />   市指定史跡<br />   指定年月日 昭和五十九年七月二十五日<br /><br />平安時代末に武蔵七党(むさししちとう)のひとつである村山党の村山家平(むらやま・いえひら)が、宮寺の領主となって宮寺五郎(みやでら・ごろう)家平と称し、この地に居館を構えた。現在西勝院とある場所がこの宮寺氏館跡である。<br /><br />村山党は、桓武天皇九代の孫で今から約九百年前、村山(東京都武蔵村山市)に住み着いた村山(平)頼任(むらやま(たいら)・よりとう)を祖とする、頼任の子頼家(よりいえ)には四子があり、家平は次男である。宮寺氏の菩提寺西勝院は、元は宮寺の大御堂(おおみどう)にあったが、慶長10年(1605)に現在の地に移転したと伝わっている。<br /><br />現在では、この居館跡の全体遺講を見ることはできないが、西勝院内の南側・東側に土塁と空堀、また山門手前左側に土塁の一部が見られる。さらに西側を流れる水路が館の水堀であったと推測され、その内側には土塁が構築されていたと考えられる。この水路は現在西勝院の境内を囲むように西側から北側に流れている。<br /><br />      平成二十九円一月三十一日<br />         入 間 市 教 育 委 員 会<br />         入間市文化財保護審議委員会」

武蔵入間 義朝など源氏棟梁との主従関係が深い武蔵七党の一派である村山氏庶流『宮寺氏居館』散歩

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2017/09/10 - 2017/09/10

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滝山氏照

滝山氏照さん

宮寺山・西勝院(せいしょういん、埼玉県入間市宮寺)は平安時代末期から鎌倉並びに南北朝時代にかけて、武蔵国に在した小領主たちが構成した同族的な武士集団、いわゆる武蔵七党(必ずしも数字に拘らずかつ諸説あるが横山・児玉・猪俣・丹(治)・西・私市・村山)のうち村山郷を発祥とする村山党の庶流の一派が宮寺の地に居館を構えた跡地です。

往時の村山郷は西多摩郡から北多摩郡及び入間郡の両郡にまたがる丘陵地を含む一帯で、現在の地名で言及すれば西多摩郡瑞穂町の箱根ヶ崎・石畑・殿ヶ谷地区から東に延びる狭山丘陵・狭山湖・多摩湖を含み、更に北限は所沢市の山口・北野、そして東限は東村山市の野口町・久米川町に至る地域に相当すると思われます。

そして村山党は発祥地である村山郷を基盤としつつ新しく未開地を開発しながらその分布は主として入間郡を中心に展開され、その結果党を構成する武士団が十数の庶流にのぼりそれぞれ独立性の強い小領主として発展したようです、例えば金子氏(入間市金子)、山口氏(所沢市山口)、仙波氏(川越市仙波町)、久米氏(所沢市久米)、難波田氏(富士見市上南畑)、大井氏(入間郡大井町)などが挙げられます。

武蔵七党と後世に呼ばれた小規模武士集団は鎌倉幕府開設以前から源氏棟梁との関係が深く、例えば源義朝(みなもと・よしとも、1123~1160)が関東への自らの勢力拡大を目指していた12世紀中頃、これら武蔵国における小領主たちはいずれも僅かな郎党を率いる小規模武力集団にすぎないものの既に義朝と直接的な主従関係を結んで義朝の戦力として存在し、具体的には成田太郎・別府二郎・中条新五(以上横山党)、金子家忠・山口十郎・仙波七郎(以上村山党)、小平六範綱・岡部六弥太(以上猪俣党)平山季重(西党)などいわば源氏直属の有力な家人として存在していました。


上述の通り源氏と武蔵七党との歴史的強固な繋がりにより幕府開設後の武士の棟梁である源頼朝との譜代とも言える主従関係は復活、一方外様的勢力、例えば坂東八平氏の諸氏や上総国の上総広常(かずさ・ひろつね、生年不明~1184)及び下総国の千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201)といった勢力は百名単位の大規模的豪族武力を背景とする集団にも関わらず頼朝と首長との主従関係にのみ成立しており、この比較をみれば晴れて武家政治発足時における頼朝との距離関係の差が歴然としていたことは相違なく、事実用心深い頼朝が幕府御家人の中で一番警戒していたのは後者であったと言われています。



境内の閻魔堂付近に立てられた宮寺氏館跡についての説明文には次の通り記載されています。

「宮寺氏館跡(みやでらしやかたあと)

   市指定史跡
   指定年月日 昭和五十九年七月二十五日

平安時代末に武蔵七党(むさししちとう)のひとつである村山党の村山家平(むらやま・いえひら)が、宮寺の領主となって宮寺五郎(みやでら・ごろう)家平と称し、この地に居館を構えた。現在西勝院とある場所がこの宮寺氏館跡である。

村山党は、桓武天皇九代の孫で今から約九百年前、村山(東京都武蔵村山市)に住み着いた村山(平)頼任(むらやま(たいら)・よりとう)を祖とする、頼任の子頼家(よりいえ)には四子があり、家平は次男である。宮寺氏の菩提寺西勝院は、元は宮寺の大御堂(おおみどう)にあったが、慶長10年(1605)に現在の地に移転したと伝わっている。

現在では、この居館跡の全体遺講を見ることはできないが、西勝院内の南側・東側に土塁と空堀、また山門手前左側に土塁の一部が見られる。さらに西側を流れる水路が館の水堀であったと推測され、その内側には土塁が構築されていたと考えられる。この水路は現在西勝院の境内を囲むように西側から北側に流れている。

      平成二十九円一月三十一日
         入 間 市 教 育 委 員 会
         入間市文化財保護審議委員会」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 瑞穂町観光マップ<br /><br />下車駅箱根ヶ崎(はこねがさき)駅前に立てられた瑞穂町観光マップにて訪問先である西勝院の所在を見ますが当該マップでは確認できません。

    瑞穂町観光マップ

    下車駅箱根ヶ崎(はこねがさき)駅前に立てられた瑞穂町観光マップにて訪問先である西勝院の所在を見ますが当該マップでは確認できません。

  • 西勝院・寺門<br /><br />JR八高線箱根ヶ崎駅から徒歩にて約60分蒸し暑い日差しの中ようやく到着します。

    西勝院・寺門

    JR八高線箱根ヶ崎駅から徒歩にて約60分蒸し暑い日差しの中ようやく到着します。

  • 西勝院・寺標<br /><br />石門の右側傍らには「真言宗 宮寺山 西勝院」と刻印された石碑があります。

    西勝院・寺標

    石門の右側傍らには「真言宗 宮寺山 西勝院」と刻印された石碑があります。

  • 西勝院・参道<br /><br />中央から左側に広がった参道が確認されます。

    西勝院・参道

    中央から左側に広がった参道が確認されます。

  • 参道右側の石柵<br /><br />石柵で仕切られた先には庭園が広がっています。

    参道右側の石柵

    石柵で仕切られた先には庭園が広がっています。

  • 西勝院・山門(遠景)<br /><br />左右には最近造られたと思われる白亜の石灯籠が設置されています。<br /><br />

    西勝院・山門(遠景)

    左右には最近造られたと思われる白亜の石灯籠が設置されています。

  • 西勝院・山門(近景)<br /><br />「黒門」と呼ばれた山門は江戸時代からの建物で当該寺では本堂に次いで歴史のある建築物と言われているそうです。

    西勝院・山門(近景)

    「黒門」と呼ばれた山門は江戸時代からの建物で当該寺では本堂に次いで歴史のある建築物と言われているそうです。

  • 「宮寺氏館跡」標柱<br /><br />山門の傍らには「狭山観音霊場 第二十九番 西勝院 本尊正観音」の立て札とともに「市指定文化財 宮寺氏館跡」と記載された標柱が確認されます。

    「宮寺氏館跡」標柱

    山門の傍らには「狭山観音霊場 第二十九番 西勝院 本尊正観音」の立て札とともに「市指定文化財 宮寺氏館跡」と記載された標柱が確認されます。

  • 庭園に建つ石碑群

    庭園に建つ石碑群

  • 西勝院・本堂<br /><br />正式には「宮寺山 無量壽寺 西勝院」と称する真言宗豊山派の寺院でご本尊は薬師如来となっています。

    西勝院・本堂

    正式には「宮寺山 無量壽寺 西勝院」と称する真言宗豊山派の寺院でご本尊は薬師如来となっています。

  • 山号の刻印

    山号の刻印

  • 院号の刻印

    院号の刻印

  • 本堂掲載の扁額<br /><br />本堂上部には「宮寺山」と揮毫された山号が掲載されています。

    本堂掲載の扁額

    本堂上部には「宮寺山」と揮毫された山号が掲載されています。

  • 西勝院・境内<br /><br />本堂から参道を経て山門方向を一望します。

    西勝院・境内

    本堂から参道を経て山門方向を一望します。

  • 西勝院・閻魔堂

    西勝院・閻魔堂

  • 土塁跡<br /><br />閻魔堂の右手には土の盛り上がりが認められ、入間市教育委員会説明の如く往時の土塁であったことが確認できます。

    土塁跡

    閻魔堂の右手には土の盛り上がりが認められ、入間市教育委員会説明の如く往時の土塁であったことが確認できます。

  • 土塁跡<br /><br />更に土塁を上ると長手の土塁が東方向に走っているのが確認できます。<br />

    土塁跡

    更に土塁を上ると長手の土塁が東方向に走っているのが確認できます。

  • 空堀跡<br /><br />土塁跡の南側には窪地があって土塁跡に沿って走っており、これが空堀跡と思われます。

    空堀跡

    土塁跡の南側には窪地があって土塁跡に沿って走っており、これが空堀跡と思われます。

  • 空堀跡

    空堀跡

  • 土塁跡<br /><br />東に走る土塁跡はやがて折れて北側に向きを変えています。

    土塁跡

    東に走る土塁跡はやがて折れて北側に向きを変えています。

  • 土塁跡<br /><br />東側に走った土塁跡を振り返ると小ぶりの祠堂がたたずんでいます。

    土塁跡

    東側に走った土塁跡を振り返ると小ぶりの祠堂がたたずんでいます。

  • 宮寺氏館跡説明版

    宮寺氏館跡説明版

  • 西勝院と周辺見取図<br /><br />見取図で示す通り山門左と境内東側から北側にかけてに土塁が配された跡が確認されます。

    西勝院と周辺見取図

    見取図で示す通り山門左と境内東側から北側にかけてに土塁が配された跡が確認されます。

  • 西勝院・本堂

    西勝院・本堂

  • 西勝院・参道<br /><br />山門から入口方向を一望します。

    西勝院・参道

    山門から入口方向を一望します。

  • 山門付近の土塁<br /><br />山門南の西側に残された土塁跡の一部が確認できます。

    山門付近の土塁

    山門南の西側に残された土塁跡の一部が確認できます。

  • 土塁跡<br /><br />山門側から土塁跡を見定めます。

    土塁跡

    山門側から土塁跡を見定めます。

  • 土塁跡

    土塁跡

  • 西勝院西門<br /><br />当該寺院西側に配されたという水堀を確認するため西門を出ます。

    西勝院西門

    当該寺院西側に配されたという水堀を確認するため西門を出ます。

  • 境内西側

    境内西側

  • 水堀跡北側<br /><br />寺院の西側には南北に配された水路が認められ、この水路がかつて寺院周囲を取り巻く水堀跡であったと考えられます。

    水堀跡北側

    寺院の西側には南北に配された水路が認められ、この水路がかつて寺院周囲を取り巻く水堀跡であったと考えられます。

  • 水堀跡南方向<br /><br />草むらの先まで水路が走っているようです。

    水堀跡南方向

    草むらの先まで水路が走っているようです。

  • 土塁跡<br /><br />水路の外側にも土塁跡の一部とも思われる姿が見られます。

    土塁跡

    水路の外側にも土塁跡の一部とも思われる姿が見られます。

  • 土塁跡

    土塁跡

  • 水堀跡<br /><br />南北に流れる水路となっている水堀跡を追い求めて北上します。

    水堀跡

    南北に流れる水路となっている水堀跡を追い求めて北上します。

  • 西勝院社域北限<br /><br />

    西勝院社域北限

  • 水堀跡<br /><br />西勝院の壁がなくなると風景は畑に代わり、水堀跡は現代風の水路となってさらに北方向に延びています。

    水堀跡

    西勝院の壁がなくなると風景は畑に代わり、水堀跡は現代風の水路となってさらに北方向に延びています。

  • 西勝院壁ブロック<br /><br />当該寺院の社域はここまでのようです。せっかくですから周囲を歩いてみます。

    西勝院壁ブロック

    当該寺院の社域はここまでのようです。せっかくですから周囲を歩いてみます。

  • 西勝院周辺

    西勝院周辺

  • 「宮寺城址」案内板<br /><br />設置者不明ですが「城館」という認識で「宮寺城址」と記載されています。

    「宮寺城址」案内板

    設置者不明ですが「城館」という認識で「宮寺城址」と記載されています。

  • 西勝院正門<br /><br />ひと廻りして再び西勝院の石門にたどり着きます。

    西勝院正門

    ひと廻りして再び西勝院の石門にたどり着きます。

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