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崇厳寺(すうがんじ、埼玉県入間市宮寺)は徳川家康の旗本として三代当主大森好長(おおもり・よしなが)の開基による寺院で、時期不詳ながら廃寺となった以降も好長と好長妻実家の加藤重正らを供養した立派な宝篋印塔が残され現在に至っています。<br /><br />大森氏は三河の出身で家康の祖父松平清康並びに父広忠の時代から仕えた譜代中の譜代で、好長の代では大坂の陣での戦功により武蔵国高麗郡のうち200石加増されその後も300石の加増を受けて都合500石の知行地を支配することになります。<br /><br />特筆すべきは六代当主時長(ときなが、1690~1761)の時代で、時長は幕府の目付を経て享保17年(1732)から19年(1734)にかけて長崎奉行を勤め、彼の在勤中にいわゆる享保の大飢饉が西日本を襲いますが長崎町民の飢餓を救った奉行として地元から慕われています。<br /><br />時長は長崎から餓死者を出さないよう代官など幹部と対応を協議、主たる食料である米の確保するべく売り惜しみをして米価をつりあげ不当な利益を得ようとする商人の摘発を始めとする数々の政策を打ち出す一方、長崎の町民に対しては倹約を呼びかけ食料の節約を訴えますが享保17年末には官庫蓄えの米穀もとうとう使い果たします。<br /><br />時長はやむなく輸出商品を国内で調達するための購入資金に目をつけこれを米を購入する原資に充てることにします。部下たちは幕府の許可を得ていないとして難色を示しますが、時長は一刻の猶予もないと判断し流用にあたっては自分が責任を負うとして無許可で実施、結果功を奏し長崎から餓死者が出ることが回避されます。<br /><br />享保18年(1733)秋に時長は長崎奉行所在勤を終え、町民多数の見送りのなか長崎を離れ江戸に向かいますが翌年2月に御役御免となります。罷免の理由は銅の国内調達の資金を米穀購入に流用し、貿易を停滞させたとしています。<br /><br /><br />堂宇を失った廃寺の一部に寂しくたたずむ宝篋印塔群の傍らには入間市教育委員会による説明板が建てられています。<br /><br />「大森氏・加藤氏の宝篋印塔<br />     市指定遺跡<br />     指定年月日 昭和四十七年十月二十日<br /><br /><br />宝篋印塔(ほうきょいんとう)は宝筐印陀羅尼(ほうきょういんだらに)を納める塔で後に供養塔・墓碑塔として建てられ鎌倉時代以降、五輪塔とともに広まった。<br /><br />この宝篋印塔は旗本大森好長ならびに一族加藤氏のもので、大森氏の菩提寺崇厳寺の境内に建てられたものである。大森家は初代親好が松平清康・広忠徳川家康の先代に仕えた譜代の家柄で、小身であったが、第三代の好長が大坂の陣で功を認められ、武蔵高麗郡のうち二百石の加増を受けている。この知行地が大森と高根であり、それが縁となり菩提寺として大森に開基したものと思われる。好長はその後も加増され五百石となり、のち第六代の時長は、長崎奉行に昇進した。<br /><br />好長は宝篋印塔(高さ3.4メ-トル)を中心に左の一基は、妻の宝篋印塔である。右端は妻の父、旗本加藤勘助重正の碑で、その左には勘助の妻の宝篋印塔である。左端の二基は好長の次男で、後に加藤勘助の養子となった加藤重長夫妻の宝篋印塔である。<br />   昭和四七年十月<br /><br />          入 間 市 教 育 委 員 会<br />          入間市文化財保護審議委員会」<br /><br /><br />

武蔵入間 徳川家旗本で長崎奉行として享保の飢餓対策を断行するも御役御免に処せられた大森時長の先祖大森好長一族供養塔が並ぶ崇厳寺(廃寺)散歩

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2017/09/10 - 2017/09/10

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滝山氏照

滝山氏照さん

崇厳寺(すうがんじ、埼玉県入間市宮寺)は徳川家康の旗本として三代当主大森好長(おおもり・よしなが)の開基による寺院で、時期不詳ながら廃寺となった以降も好長と好長妻実家の加藤重正らを供養した立派な宝篋印塔が残され現在に至っています。

大森氏は三河の出身で家康の祖父松平清康並びに父広忠の時代から仕えた譜代中の譜代で、好長の代では大坂の陣での戦功により武蔵国高麗郡のうち200石加増されその後も300石の加増を受けて都合500石の知行地を支配することになります。

特筆すべきは六代当主時長(ときなが、1690~1761)の時代で、時長は幕府の目付を経て享保17年(1732)から19年(1734)にかけて長崎奉行を勤め、彼の在勤中にいわゆる享保の大飢饉が西日本を襲いますが長崎町民の飢餓を救った奉行として地元から慕われています。

時長は長崎から餓死者を出さないよう代官など幹部と対応を協議、主たる食料である米の確保するべく売り惜しみをして米価をつりあげ不当な利益を得ようとする商人の摘発を始めとする数々の政策を打ち出す一方、長崎の町民に対しては倹約を呼びかけ食料の節約を訴えますが享保17年末には官庫蓄えの米穀もとうとう使い果たします。

時長はやむなく輸出商品を国内で調達するための購入資金に目をつけこれを米を購入する原資に充てることにします。部下たちは幕府の許可を得ていないとして難色を示しますが、時長は一刻の猶予もないと判断し流用にあたっては自分が責任を負うとして無許可で実施、結果功を奏し長崎から餓死者が出ることが回避されます。

享保18年(1733)秋に時長は長崎奉行所在勤を終え、町民多数の見送りのなか長崎を離れ江戸に向かいますが翌年2月に御役御免となります。罷免の理由は銅の国内調達の資金を米穀購入に流用し、貿易を停滞させたとしています。


堂宇を失った廃寺の一部に寂しくたたずむ宝篋印塔群の傍らには入間市教育委員会による説明板が建てられています。

「大森氏・加藤氏の宝篋印塔
     市指定遺跡
     指定年月日 昭和四十七年十月二十日


宝篋印塔(ほうきょいんとう)は宝筐印陀羅尼(ほうきょういんだらに)を納める塔で後に供養塔・墓碑塔として建てられ鎌倉時代以降、五輪塔とともに広まった。

この宝篋印塔は旗本大森好長ならびに一族加藤氏のもので、大森氏の菩提寺崇厳寺の境内に建てられたものである。大森家は初代親好が松平清康・広忠徳川家康の先代に仕えた譜代の家柄で、小身であったが、第三代の好長が大坂の陣で功を認められ、武蔵高麗郡のうち二百石の加増を受けている。この知行地が大森と高根であり、それが縁となり菩提寺として大森に開基したものと思われる。好長はその後も加増され五百石となり、のち第六代の時長は、長崎奉行に昇進した。

好長は宝篋印塔(高さ3.4メ-トル)を中心に左の一基は、妻の宝篋印塔である。右端は妻の父、旗本加藤勘助重正の碑で、その左には勘助の妻の宝篋印塔である。左端の二基は好長の次男で、後に加藤勘助の養子となった加藤重長夫妻の宝篋印塔である。
   昭和四七年十月

          入 間 市 教 育 委 員 会
          入間市文化財保護審議委員会」


交通手段
私鉄 徒歩
  • 入間景観50選案内板<br /><br />道路の途中に「大森・加藤氏の宝篋印塔」と記載された案内板が見えます。

    入間景観50選案内板

    道路の途中に「大森・加藤氏の宝篋印塔」と記載された案内板が見えます。

  • 入間市・大森会館<br /><br />判りにくい道路ですが案内板に従って進むと平屋の「大森会館」が目安のひとつになっています。

    入間市・大森会館

    判りにくい道路ですが案内板に従って進むと平屋の「大森会館」が目安のひとつになっています。

  • 大森氏加藤氏宝篋印塔・入口<br /><br />大森会館を過ぎると森林の左側に入口の案内板があります。

    大森氏加藤氏宝篋印塔・入口

    大森会館を過ぎると森林の左側に入口の案内板があります。

  • 大森氏加藤氏宝篋印塔入口案内板

    大森氏加藤氏宝篋印塔入口案内板

  • 大森氏加藤氏の宝篋印塔説明版

    大森氏加藤氏の宝篋印塔説明版

  • 宝篋印塔群への通路

    宝篋印塔群への通路

  • 大森氏・加藤氏の宝篋印塔群

    イチオシ

    大森氏・加藤氏の宝篋印塔群

  • 大森氏・加藤氏の宝篋印塔説明版<br /><br />説明板には宝篋印塔中心に記載されており、崇厳寺が廃寺になった経緯や大森氏の陣屋などの情報が得られなかったのは誠に残念です。<br />

    大森氏・加藤氏の宝篋印塔説明版

    説明板には宝篋印塔中心に記載されており、崇厳寺が廃寺になった経緯や大森氏の陣屋などの情報が得られなかったのは誠に残念です。

  • 墓石<br /><br />(教育委員会説明板には言及されず誰のものか不明です)

    墓石

    (教育委員会説明板には言及されず誰のものか不明です)

  • 加藤重正の宝篋印塔<br /><br />加藤重正は大森好長妻の実父にあたります。

    加藤重正の宝篋印塔

    加藤重正は大森好長妻の実父にあたります。

  • 墓石<br /><br />(教育委員会説明板には言及されず誰のものか不明です)

    墓石

    (教育委員会説明板には言及されず誰のものか不明です)

  • 加藤重正妻の宝篋印塔

    加藤重正妻の宝篋印塔

  • 大森好長の宝篋印塔

    大森好長の宝篋印塔

  • 好長妻の宝篋印塔

    好長妻の宝篋印塔

  • 加藤重長の宝篋印塔<br /><br />好長の二男ですが重正の養子となり重長と改名しています。

    加藤重長の宝篋印塔

    好長の二男ですが重正の養子となり重長と改名しています。

  • 加藤重長妻の宝篋印塔<br /><br />(すぐ左側にはフェンスで仕切られた企業の駐車場が迫っています)

    加藤重長妻の宝篋印塔

    (すぐ左側にはフェンスで仕切られた企業の駐車場が迫っています)

  • 大森氏・加藤氏の宝篋印塔群<br />

    大森氏・加藤氏の宝篋印塔群

  • 大森氏加藤氏の宝篋印塔群

    大森氏加藤氏の宝篋印塔群

  • 加藤重長夫妻の宝篋印塔

    加藤重長夫妻の宝篋印塔

  • 崇巌寺跡地風景<br /><br />廃寺となった事情は知るよしもありませんが、跡地の状況はところどころに盛土が走っているのが見られ何かの理由で区画されていたのかと思われます。

    崇巌寺跡地風景

    廃寺となった事情は知るよしもありませんが、跡地の状況はところどころに盛土が走っているのが見られ何かの理由で区画されていたのかと思われます。

  • 崇厳寺跡風景<br /><br />盛土と思われれる場所に接近してみます。

    崇厳寺跡風景

    盛土と思われれる場所に接近してみます。

  • 崇厳寺跡風景<br /><br />盛土の向こうには低地が並行して走っており城郭で言えば空堀に見えます。旗本とはいえ威光を放つ宝篋印塔を有する大森氏の陣屋が近くにあるとすれば崇厳寺との位置関係が知りたいところです。

    崇厳寺跡風景

    盛土の向こうには低地が並行して走っており城郭で言えば空堀に見えます。旗本とはいえ威光を放つ宝篋印塔を有する大森氏の陣屋が近くにあるとすれば崇厳寺との位置関係が知りたいところです。

  • 崇厳寺跡風景<br /><br />宝篋印塔群から次第に離れていくと平地が広がり、その一部にはキノコ栽培用の木片が規則正しく並べられています。

    崇厳寺跡風景

    宝篋印塔群から次第に離れていくと平地が広がり、その一部にはキノコ栽培用の木片が規則正しく並べられています。

  • 崇厳寺跡<br /><br />崇厳寺の社域及び堂宇の配置が不明なためコメントできませんが、振り返ってみると平坦な広がりとしか映るだけです。

    崇厳寺跡

    崇厳寺の社域及び堂宇の配置が不明なためコメントできませんが、振り返ってみると平坦な広がりとしか映るだけです。

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