2017/08/24 - 2017/08/24
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名古屋のmisakoさん
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京料理古都梅の扇弁当鱧づくしを食しに京都に出かけて来ました
八坂神社南門鳥居前に京料理古都梅はあり、八坂神社参拝、青龍の限定御朱印500円も今回はいただけました!!
一般的には金閣寺といわれる鹿苑寺、秦氏ゆかりの木嶋神社、石庭(枯山水庭園)の龍安寺と参拝してきました
やはり京都の夏は暑かったです(この日は全国的に暑く、京都に限りませんが)
八坂神社 市営円山駐車場2時間1,000円(コインパーキング30分200円のところも近くにあり) 京都府京都市東山区祇園町北側625
京料理古都梅 P無し 京都市東山区祇園町南側506-1
金閣・鹿苑寺 第三P30分150円 京都市北区金閣寺町1
参拝:午前9:00~午後5:00
※年中無休 ※特別拝観時は時間が異なることもありますのでご注意ください。
大人(高校生以上)400円 小・中学生 300円
※団体割引はありませんが、30名以上の場合は団体としてお入りください。
※特別拝観時は料金が異なることもありますのでご注意ください。
木嶋神社 P無 京都府京都市右京区太秦森ケ東町50番地
大雲山龍安寺 P石庭参拝者1時間無料 京都市右京区龍安寺御陵下町13
拝観時間:3月1日~11月30日 8:00a.m - 5:00p.m.
12月1日~2月末日 8:30a.m - 4:30p.m.
拝観料:大人・高校生 500円 小・中学生 300円
朱印受付:9:00a.m - 4:00p.m.
受付時間外は一枚ものとなります。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
PR
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八坂神社
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本殿
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舞殿
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京料理古都梅扇弁当鱧づくし3,900円(税サービス料込み)
6/3から8月末まで期間限定、前日までに要予約 -
ブルーベリージュース750円
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京料理古都梅扇弁当鱧づくし3,900円(税サービス料込み)
6/3から8月末まで期間限定、前日までに要予約 -
ご飯(おかわりできます)とお漬物が付きます
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デザートは豆乳プリン
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京料理古都梅
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金閣寺入口
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黒門
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古都京都の文化財として世界遺産に鹿苑寺は登録されています
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総門
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舟形石
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金閣寺が現在のような伽藍配置に再整備されたのは、江戸時代初期です。
この櫟樫(イチイガシ)は、その頃に殖栽されたものか、あるいは既に成木となっていたものが残されたのかのいずれかであると思われています。
櫟樫は照葉樹林を構成する常緑高木の一つで、日本では本州(関東南部以西)四国・九州に分布していますが現在京都周辺ではあまりみられません。
京都に残る櫟樫の巨木として貴重であり、昭和58年6月1日京都市指定天然記念物に指定されています。(臨済宗相国寺派HPより) -
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位 置
京都市の西北端、正しくは京都市北区金閣寺町に、この寺はあります。西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらかな山なみは、北山(キタヤマ)の名で一般に親しまれていますが、この北山につながる金閣寺の周辺一帯だけを特に北山(ホクザン)と呼ぶことがあります。北山の名称は、遠く平安時代の初期まで遡りますが、当時もやはり大小二つの地域の意味があったようです。平安時代の中期以降、この地域には数多くの墓所が作られ、今も円融天皇の御陵をはじめ火葬所、陵墓、塚などが数多く残っています。現在、金閣寺の西に接する土地の字名を氷室(ヒムロ)と言いますが、これは昔、朝廷がこの地に氷の室(ムロ)を経営したためと考えられています。寒い冬の間に作られた氷を、この地に接する左大文字山などの山腹深く掘った穴に保存していたのです。その他に、この地域は、古くから寺院建立、狩猟などに適した土地と考えられていました。ただ金閣寺の寺域だけは、主として田や畠であったようで、所有主の神紙官伯家より西園寺公経(サイオンジキンツネ)の手に移り、ここに金閣寺の始まり西園寺と北山第(山荘)がはじめて築かれました。 (臨済宗相国寺派HPより) -
正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。
元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。
金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。
(臨済宗相国寺派HPより) -
名 称
金閣寺は舎利殿(シャリデン)金閣が余りにも有名なため、通称金閣寺とよばれていますが、正しくは鹿苑寺(ロクオンジ)といい、足利三代将軍義満が造営した山荘、北山殿を母胎に成り立っています。宗派は、臨済宗相国寺派に属します。鹿苑の名は、お釈迦さまが初めて説法されたところの地名鹿野苑に因んだ開基(創設者)足利義満の法号鹿苑院殿によるものです。 (臨済宗相国寺派HPより) -
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二層と三層は、漆(ウルシ)の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(サワラ)の薄い板を何枚も重ねた柿葺(コケラブキ)で、上には中国でめでたい鳥といわれる鳳凰(ホウオウ)が輝いています。一層は寝殿造(シンデンヅクリ)で法水院(ホッスイイン)、二層は武家造(ブケヅクリ)で潮音洞(チョウオンドウ)とよばれています。三層は、中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(クッキョウチョウ)とよばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と言えます。
昭和62年(1987)秋、漆の塗替えや金箔の張替え、更に天井画と義満像の復元を行いました。(臨済宗相国寺派HPより) -
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境内約132,000㎡(4万余坪)の内、92,400㎡(2万8千坪)が鹿苑寺庭園として特別史跡及び特別名勝指定地となっています。中心をなす鏡湖池(キョウコチ)は約6,600㎡(約2千坪)、ここに葦原島(アシハラジマ)など大小の島々、畠山石などの奇岩名石が配されています。(臨済宗相国寺派HPより)
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御守売場
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金閣の後を進むと銀河泉(ギンガセン)があり、義満がお茶の水に使ったと伝えられており、今も清冽な清水が湧き出しています。(臨済宗相国寺派HPより)
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巌下水(ガンカスイ)は、義満公が手洗いに用いたといわれています。(臨済宗相国寺派HPより)
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竜門滝の左側山畔に石段があります。この小さな石橋を虎渓橋(コケイキョウ)といい、その両側に低い竹垣があり、これが金閣寺垣と称され小竹垣の代表とされています。(臨済宗相国寺派HPより)
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この滝は2.3メートルもの高さを一段落としにしたもので、龍門の滝を鯉が登りきると龍に化するといわれる中国の故事登竜門に因んだ鯉魚石(リギョセキ)が置かれています。いままさに跳ね上がらんとする龍の姿が、滝壷の所に斜めに傾いた動きのある石で表されています。(臨済宗相国寺派HPより)
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安民沢(アンミンタク)は雨賜沢・望雲沢ともいう池で、まわりは樹林に囲まれ奥深い感じがします。ひでりが続いても涸れないので雨乞いの場ともされていました。池中の小島には、白蛇塚という五輪の石塔があり、西園寺家の鎮守などとも伝え、この池は同家当時の遺跡をとどめているといいます。
(臨済宗相国寺派HPより) -
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安民沢をすぎて山路を登ると、夕佳亭(セッカテイ)があります。江戸時代、傾きかけた金閣を復興し、池泉庭を修復したのが鳳林承章(ホウリンジョウショウ)でした。修学院を造営した後水尾(ゴミズノオ)上皇の為に、承章が金森宗和(茶道家)に造らせたのが夕佳亭です。宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(コト)に佳(ヨ)いということからこの名が付けられました。南天の床柱と萩の違い棚で有名な3帖の茶室です。(臨済宗相国寺派HPより)
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本尊は弘法大師が作られたと伝えられる石不動明王で、霊験あらたかな秘仏として広く一般に信仰されています。節分と8月16日に開扉法要(カイヒホウヨウ)がいとなまれます。(臨済宗相国寺派HPより)
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抹茶ミックスソフトクリーム350円
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レモンみぞれ300円
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左大文字
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金閣寺第三駐車場から左大文字が見えます
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なんと外気は45度?!
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木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ、木島坐天照御魂神社)は、京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。
通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも。古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知られる。(ウィキペディアより) -
祭神は次の5柱[2]。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
大国魂神(おおくにたまのかみ)
穂々出見命(ほほでみのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。同帳では「木嶋坐天照御魂神社」と記載されるが、この社名は「木嶋(地名)に鎮座する天照御魂神の社」という意味であるため、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」を祀った神社とされる。神名帳では、山城国の木嶋社のほかにも大和国・摂津国・丹波国・播磨国・対馬国などに天照御魂神・天照神・天照玉神を祀る祠の存在が見られるが、これらは天照大神(皇祖神)とは別の神格の太陽神と考えられている[3]。
木嶋社の天照御魂神の神格について、史料上では天照国照天火明命(天火明命)説・天照大神説・天日神命説などが見られる[1][4]。上記の天照御魂神・天照神・天照玉神を社名とする神社の多くでは現在の祭神が天火明命(尾張氏祖神)とされることに基づき、これらの神を特に尾張氏の奉斎神とする説があり、その説の中で木嶋社の地には元々尾張氏系の人々がいて天照御魂神を奉斎していたが、秦氏の渡来・開拓とともにその在地系祭祀が継承されたと説明される[5]。一方、木嶋社境内の三柱鳥居の方位が稲荷山・松尾山の冬至線、比叡山四明岳・愛宕山の夏至線に関係すると見て、境内の元糺の池に日が差すという構造から、朝鮮半島の日光感精型の信仰に基づく半島系の太陽神(日の御子)とする説もある[6]。そのほか「ミムスビ」という神名から、境内の湧水によって穀物を生成するムスヒの神とする説もある[7]。
このように古代の祭神の神格は不詳ながら、明治16年(1883年)の『葛野郡神社明細帳』では上記5柱の神名が記載されており、これらが現在まで継承されている[7]。
(ウィキペディアより) -
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創建[編集]
創建は不詳[8]。一説に、推古天皇12年(604年)に広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれる[9][10]。史料からは大宝元年(701年)の記事[原 1]以前の祭祀の存在が認められている[8]。
前述(「祭神」節)のように祭祀の淵源には諸説があるが、嵯峨野・太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が開拓した地で、広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの関係寺社・史跡が知られることから、木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれる[9]。また現在本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が将来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測される[11]。ただし秦氏の渡来以前にも、木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られている[8]。
(ウィキペディアより) -
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京都市指定文化財[編集]
史跡
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)境内 - 昭和60年6月1日指定[16]。(ウィキペディアより) -
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拝殿
境内は御室川右岸の低位段丘面上の東端にあり、双ヶ丘(双ヶ岡)の真南、広隆寺の真東に位置する[8]。鳥居は、広隆寺の南門のほぼ真東にある[8]。木嶋社は、その存在が文献上では古く大宝元年(701年)[原 1]に見え、京都市内でも最古の神社の1つに位置づけられる。元糺の池の存在から文献上での祈雨記事との関連性がうかがえるほか、蚕養神社の存在から秦氏との関連性が見られ、また巨樹の社叢から古来の姿がうかがえることから、境内は京都の歴史上重要な遺跡であるとして京都市指定史跡に指定されている[17][2]。
社殿はいずれも明治以降の再興[8]。本殿は境内の中央北寄りの、やや高所に建てられている[8]。本殿の東側には蚕養神社(こかいじんじゃ、東本殿)が鎮座し、「蚕の社」の通称は同社に由来する[2]。これらの前に拝所・拝殿がある
(ウィキペディアより) -
境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、現在は涸れているがかつては湧水が豊富であったといい、現在も夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されている[7][8]。伝承では木嶋社の社叢を「元糺の森」、神泉を「元糺の池」と称し、下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたとする[10]。
(ウィキペディアより) -
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この元糺の池の中には三柱鳥居(みはしらとりい、三ツ鳥居/三面鳥居/三角鳥居)が建てられている[7]。これは柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居で[7]、「京都三鳥居」の1つに数えられる[2][注 1]。中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代としたものである[8]。この鳥居の起源等は詳らかでなく、秦氏の聖地である双ヶ丘・松尾山(松尾大社神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説などがある[6][注 2]。現在の鳥居は天保2年(1831年)の再興であるが[8](社伝では享保年間(1716年-1735年)の修復[9])、安永9年(1780年)の『都名所図会』では豊かな湧水とともに現在に見るのと同じ三柱鳥居の様子が描かれている[8]。
平成14年(2002年)の発掘調査によって、かつては本殿東側の各所にも泉のあったことが判明しており、元糺の池もそのような泉の1つが神聖化されたものと考えられている[14]。この発掘調査では、少なくとも平安時代中期頃に遡る、泉に伴う石敷遺構が出土している[14]。
「京都三鳥居」は、木嶋神社の三柱鳥居、京都御苑の厳島神社の唐破風鳥居、北野天満宮境内社の伴氏社の石造鳥居の3基。
三柱鳥居に関しては、キリスト教ネストリウス派の景教の遺跡であって秦氏が景教を将来したとする俗説もあったが、そもそもの景教の中国移入は635年、正式認可は638年であり、秦氏の渡来時期からかなり下るため否定されている (木島坐天照御魂神社(神々) 1986年)。
(ウィキペディアより) -
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斜め向かいのセブンイレブンからの木嶋神社
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龍安寺に着きました
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龍安寺(りょうあんじ)
室町幕府の有力者であった細川勝元が1450年に創建した禅寺。今では枯山水の石庭で世界的に知られていますが、ここまで有名になったのは1975年にエリザベス2世が龍安寺を公式訪問した際に石庭を称賛したのがきっかけ。当時の禅ブームの後押しもあって世界的にブレイクしました。また石庭の正確な築造時期や作者、意図などが定かでないため、謎深き庭として様々な憶測をよんでいます。敷地内の鏡容池(きょうようち)も見どころの一つで、5月~7月に見頃を迎える睡蓮は有名です。
(きぬかけの路HPより) -
古都京都の文化財として龍安寺も世界遺産登録されています
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臨済宗妙心寺派の禅寺。
宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。応仁の乱で全焼し、勝元の実子改元が復興に着手。その後、細川家の菩提寺として、豊臣秀吉や徳川家などから庇護を受けた。
寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配された、およそ75坪の枯山水庭園。虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも。
しかし、石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。
イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。
境内の約半分を占める鏡容池を中心にした回遊式庭園は四季折々の花々が楽しめ、佗び寂びの精神に基づく禅寺の簡素な庭と、四季の花々に彩られた華やかな庭。二つの異なる庭園を持つところが、龍安寺の大きな魅力ともいえる。
また、茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。
平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。
(きぬかけの路HPより) -
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大雲山龍安寺りょうあんじ
臨済宗妙心寺派の禅寺。
宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。応仁の乱で全焼し、勝元の実子改元が復興に着手。その後、細川家の菩提寺として、豊臣秀吉や徳川家などから庇護を受けた。
寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配された、およそ75坪の枯山水庭園。虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも。
しかし、石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。
イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。
境内の約半分を占める鏡容池を中心にした回遊式庭園は四季折々の花々が楽しめ、佗び寂びの精神に基づく禅寺の簡素な庭と、四季の花々に彩られた華やかな庭。二つの異なる庭園を持つところが、龍安寺の大きな魅力ともいえる。
また、茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。
平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。
(きぬかけの路HPより) -
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石庭には四つの謎があるそうです
刻印の謎 作庭の謎 遠近の謎 土塀の謎
(HPより) -
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臨済宗妙心寺派の禅寺。
宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建された。応仁の乱で全焼し、勝元の実子改元が復興に着手。その後、細川家の菩提寺として、豊臣秀吉や徳川家などから庇護を受けた。
寛改9年(1797年)、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる。白砂の上に大小15個の石が配された、およそ75坪の枯山水庭園。虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡しの庭」とも。
しかし、石庭の作庭意図には“禅の精神”や “「心」の字の配石”など諸説あり、誰がいつ頃作り上げたのかは定かではなく、今だ謎のままである。しかし、この謎こそが、この庭の解釈をめぐり人々を引きつけてやまない理由だろう。
イギリスのエリザベス女王が昭和50年(1975年)に日本を公式訪問した際、石庭の見学を希望。女王が石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道され、石庭の名はまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となった。
境内の約半分を占める鏡容池を中心にした回遊式庭園は四季折々の花々が楽しめ、佗び寂びの精神に基づく禅寺の簡素な庭と、四季の花々に彩られた華やかな庭。二つの異なる庭園を持つところが、龍安寺の大きな魅力ともいえる。
また、茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。
平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。
(きぬかけの路HPより) -
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茶室蔵六庵前にある徳川光圀の寄進とされる「つくばい」は、中心の「口」の字を共用し「吾唯知足(ワレタダタルヲシル)」と読み、禅の格言を謎解き風に図案化されたものといわれる。
平成6年(1994年)世界文化遺産に登録。
(きぬかけの路HPより) -
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ハス、スイレン
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龍安寺の参道の土産店で買った舞妓はんクッキー10枚540円、舞妓はんクリームクッキー15枚650円
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京料理古都梅のプレゼントタオル、金閣寺交通安全守500円
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