2017/06/24 - 2017/06/24
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旅人のくまさんさん
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伊豆支配の拠点、韮山城の紹介です。小田原北条氏の西方の守りとして重きをなした韮山城は、創始者の北条早雲が晩年を過ごしたお城ともされます。
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八幡神社があった、『権現曲輪』の見学を終え、次に向かったのは『二の丸』です。その途中の光景です。今年(2017年)、韮山城址は、『続日本百名城』に選ばれるかと思いましたが、残念ながら外れました。
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要所に設置されていた、案内標識の光景です。韮山城址が左上、蛭ヶ小島が左、江川邸が右向きの矢印でした。立寄りませんでしたが、『蛭ヶ小島』は永暦元年(1160年)、14歳の源頼朝が伊豆へ流刑となった場所です。元々離れ小島ではなく、今は、田圃に囲まれた公園です。
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写真を撮りながら殿(しんがり)を歩きました。しんがり(殿、殿軍)は、もともとは後退する部隊の中で、最後尾の箇所を担当する部隊とされましたが、転じて、隊列や順番の最後尾のことを指すようになりました。『二の丸』に向かう途中の光景です。
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韮山城のかつての『二の丸』に到着しました。切り払われた、大きな木の根っこが残っていましたが、かなり広い平地でした。敷地の縁に残っているのは、土塁跡のようでした。
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敷地の縁に残っている、土塁跡らしい付近のズームアップ光景です。ほぼっている人を基準にしますと、それなりに高さがありました。明らかに人工的な盛土のようです。確認はしませんでしたが、堀とセットになっていたかもしれません。
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横から眺めた土塁址のように見えた場所の光景です。石垣を積んだ城跡と違って、土塁は保存が難しいようです。韮山城の見学の前に山中城を見学しましたが、土塁や堀は、定期的な手入れが欠かせないようでした。
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『二の丸』から見下ろした階段の光景です。韮山高校の生徒さん達が足腰を鍛えるランニングコースになっていました。韮山高校は韮山城址の西側に隣接し、この会談は、南方向になるようです。
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『二の丸』から眺めた西側方面の光景です。かなり市街化が進んでいましたが、田園園風景も残っていました。今は、田植えが済んだ頃の時期になります。麓に、韮山高校の野球グラウンドが見えていました。
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同じく、『二の丸』から眺めた西北方面の光景です。左下に見えているのは韮山高校の野球グラウンドです。1873年(明治6年)に開校した、小学校教員養成機関を由来とする県立高校とされます。江川家所縁の人が開いた、静岡県下最古の公立高校とされます。
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イチオシ
韮山城址から見下ろした、韮山高校の校舎とグラウンドの光景です。かつての『御座敷』と呼ばれた場所に建ち、今もその地名が残されています。韮山城址の西側に位置します。野球部は、1995年の第77回の甲子園大会に出場し、3回戦まで進出しました。
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『二の丸』の見学を終え、『本丸』に向かうお城巡りツアーに参加の皆さん達です。『本丸』がある南に向かって高度を増した、尾根の道筋でした。
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韮山城址の『本丸』から眺めた西側方面の麓の光景です。田園光景と、その先の住宅街、更にその背後にあy間波が見えていました。
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同じく、少し場所を変えて眺めた、山城址の『本丸』からの西側方面の光景です。田園地帯の周辺は、市街地化していました。
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イチオシ
韮山城址とその周りの現在の地図です。この地図では、北側が下向きになっていました。赤く記された現在地は、『本丸』エリアにあります。現在地の左(東側)に、城池が記されていました。
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『本丸』区域の土塁とその上下の通路、それと周りの光景です。上下の通路の間には、相当の高低差がありました。右側が西側、左側が東側方面だったようです。
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『本丸」の上の部分と下の部分を繋ぐ会談だったようです。『尾根や台地を堀切で区切り、その先端を独立させて城を築く』のが北条流築城術とされます。一直線に並んだ曲輪でしたが、その途中にはいろいろと変化がありました。
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現地ガイドさんお案内に従って、尾根のような場所を歩くあ城巡りツアーに参加の皆さん達です。韮山城は、戦国時代の始まりと終わりを語る城とも言われます、始まりの主役が韮山城を築いた北条早雲、終わりが豊臣秀吉軍による小田原城攻めの際の韮山城の落城です。
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イチオシ
現地ガイドさんに案内されて見学した、韮山城址です。土塁遺構などは、その姿をよく留めていました。韮山城が廃城となったのは、1600年の関ヶ原の戦いの後の1601年の時でした。落城から11年目の出来事です。
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『塩蔵址』と伝えられている場所のズームアップ光景です。高い土塁や、虎口の石積みなどの構造から、『煙硝(えんしょう=火薬)曲輪』であった可能性が高いとされます。
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三々五々の帰り道でしたが、脇道はほとんどないようでしたから、道に迷う心配はありませんでした。約90年に亘る北条氏による領国支配の重要な位置を占めた韮山城の歴史を紐解きながらの見学でした。
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『本丸』の南端から眺めた南側方面の光景です。人通り韮山城の見学を終え、再集合場所は観光バスが駐車した、江川邸近くの駐車場でした。この後は自由に散策しながらの帰路になりました。
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往きとはまた違った、城址の光景を見学しながらの帰路でした。この辺りにも、色々と工夫された土塁を使った守りがあったようです。
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戦国時代の始まりは、駿河今川氏の客将だった伊勢宗瑞、後の北条早雲の伊豆支配でした。下剋上の始まりとも例えられます。祖の伊豆支配の拠点が韮山城でした。戦国時代の終焉が、豊臣秀吉による小田原城攻めでした。小田原城主の北条家5代目の氏直で途絶えました。
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往きは上の道を通りましたが、帰りは下の道にしました。韮山城跡は、中心となる本城である龍城山、天ヶ岳、龍城山周辺の低地部と、広い地域にわたって城域が広がっています。今回は、中心となる龍城山周辺だけを見学しました。
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同じく帰り道での光景です。下の道の左側(西側)は、険しい崖となり、天然の要害となっていました。今回はkウェン額しませんでしたが、天ヶ岳の城塞部分の紹介です。南北が約1100m、 東西が約700mの山で、標高128mの山頂部から星形に尾根が広がっています。山頂部と尾根の先端には、堀や土塁などの遺構が良好に残されているようです。
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往きに登った、『二の丸』から「本丸」に向かった時の階段だったようです。ここから、往きと同じ道を歩きましたが、途中から近道を通って江川邸近くに出ました。
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伊豆の国市の市文化財課が纏めた、発掘調査結果のパンフレットからの引用です。『韮山城跡の発掘調査では、本城周囲の低地部で、堀・園池・道路・屋敷地などがみつかっています。堀は本城を幾重にもめぐっていて、古城図と、部分的に一致していることも確認できました。本城の南側と東側では、屋敷地の遺構がみつかり、周辺に城下町があったことも明らかになっています』と紹介されていました。
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韮山城址の見学を終えて、麓に下りて来ました。その麓の道の脇の光景です。半分ほど埋もれていましたが、石造のレリーフがありました。地蔵様ではないような、合掌する姿の像でした。
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韮山城の守りが仕事の様な顔をした猫さんの光景です。お城見学のツアーのメンバーが近くを通る時、身じろぎせずに、じっと一行を監視していました。根性のありそうな、ボスタイプの猫さんでした。これで、韮山城址の紹介はおしまいです。名古屋まで、順調に観光バスで戻りました。
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旅行記グループ 2017夏、伊豆の名城巡り
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