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伊豆支配の拠点、韮山城の紹介です。北条早雲が関東進出の拠点として築城し、豊臣秀吉の4万の兵の攻めに3カ月持ちこたえ、落城した名城です。現在は伊豆の国市に属しています。

2017初夏、伊豆支配の拠点・韮山城(1/2):江川邸城池、縄張り跡の韮山高校、三の丸

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2017/06/24 - 2017/06/24

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旅行記グループ 2017夏、伊豆の名城巡り

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旅人のくまさん

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伊豆支配の拠点、韮山城の紹介です。北条早雲が関東進出の拠点として築城し、豊臣秀吉の4万の兵の攻めに3カ月持ちこたえ、落城した名城です。現在は伊豆の国市に属しています。

交通手段
観光バス
  • かつての伊豆支配の拠点、韮山城後の近くのの駐車場の横に設置してあった案内看板です。『伊豆の国・市立韮山資料館』のタイトルがありました。時間の都合で、この資料館には入場しませんでした。

    かつての伊豆支配の拠点、韮山城後の近くのの駐車場の横に設置してあった案内看板です。『伊豆の国・市立韮山資料館』のタイトルがありました。時間の都合で、この資料館には入場しませんでした。

  • こちらの看板も駐車場脇にありました。江川太郎左衛門英龍のイラスト入りでした。江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官を務めた人です。江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄です。英龍はその36代目の当主でした。

    イチオシ

    こちらの看板も駐車場脇にありました。江川太郎左衛門英龍のイラスト入りでした。江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官を務めた人です。江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄です。英龍はその36代目の当主でした。

  • 名門家の江川家は現代まで続き、韮山城の敷地は、ほとんどが同家の所有とされます。韮山の観光名所にもなっている江川家の門構えです。幕末頃の弾痕も残っているようです。

    名門家の江川家は現代まで続き、韮山城の敷地は、ほとんどが同家の所有とされます。韮山の観光名所にもなっている江川家の門構えです。幕末頃の弾痕も残っているようです。

  • 江川邸の門のズームアップ光景です。目を凝らしてみましたが、弾痕なのか、節穴なのかの判断が付きませんでした。

    江川邸の門のズームアップ光景です。目を凝らしてみましたが、弾痕なのか、節穴なのかの判断が付きませんでした。

  • 同じく、江川邸の塀と出入口光景です。長く続いた屋敷らしく、鬱蒼とした古木が邸内に庭にありました。江川家でも特に著名な人が、イラストでも紹介した幕末の頃の36代目の当主の江川英達(1801~1855年)です。はじめは地方一代官でしたが、海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たしました。勘定奉行任命を目前に病死しました。

    同じく、江川邸の塀と出入口光景です。長く続いた屋敷らしく、鬱蒼とした古木が邸内に庭にありました。江川家でも特に著名な人が、イラストでも紹介した幕末の頃の36代目の当主の江川英達(1801~1855年)です。はじめは地方一代官でしたが、海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たしました。勘定奉行任命を目前に病死しました。

  • 同じく江川邸の光景です。36代目の当主の江川英達は洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた人です。韮山反射炉は、2015年(平成27年)に『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』として世界遺産に登録されました。

    同じく江川邸の光景です。36代目の当主の江川英達は洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた人です。韮山反射炉は、2015年(平成27年)に『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』として世界遺産に登録されました。

  • 韮山城の名を留めているらしい、『城池』の光景です。かつては、韮山城の防御に、池と湿地が大きな役割を果たしたようです。豊臣秀吉軍の4万余による攻めに、3カ月持ちこたえた要因の一つと現地ガイドさんが説明されていました。今から4百年以上前の天正18年(1590年)のことです。

    韮山城の名を留めているらしい、『城池』の光景です。かつては、韮山城の防御に、池と湿地が大きな役割を果たしたようです。豊臣秀吉軍の4万余による攻めに、3カ月持ちこたえた要因の一つと現地ガイドさんが説明されていました。今から4百年以上前の天正18年(1590年)のことです。

  • 『城池の野鳥たち』のタイトルがあった写真入りの説明パネルです。19種類の野鳥たちが紹介されていました。城池は、冬には渡り鳥で賑やかになることも紹介されていました。

    『城池の野鳥たち』のタイトルがあった写真入りの説明パネルです。19種類の野鳥たちが紹介されていました。城池は、冬には渡り鳥で賑やかになることも紹介されていました。

  • かつての縄張りが記された、『韮山城址』の説明看板です。直線状に、本丸、二の丸、権現曲輪と三の丸が配された縄張りです。かつて、北条早雲(1432/56~1519年)が晩年を過ごしたとされる場所は、麓に『御座敷』と記されています。

    イチオシ

    かつての縄張りが記された、『韮山城址』の説明看板です。直線状に、本丸、二の丸、権現曲輪と三の丸が配された縄張りです。かつて、北条早雲(1432/56~1519年)が晩年を過ごしたとされる場所は、麓に『御座敷』と記されています。

  • この辺りは、既にかつての縄張りの中になるようです。韮山城の築城年ははっきりしませんが、『北条五代記』によれば文明年間(1469~1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされています。『北条五代記』は、後北条氏の5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた全10巻の書です。

    この辺りは、既にかつての縄張りの中になるようです。韮山城の築城年ははっきりしませんが、『北条五代記』によれば文明年間(1469~1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされています。『北条五代記』は、後北条氏の5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた全10巻の書です。

  • この辺りは、土塁址になるようです。韮山城は石垣は使っていません。土塁と堀、などで守りを固めていたようです。『北条五代記』によれば、初めはあまり大規模なものではなく、延徳5年(1491年)に2代堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営されました。

    この辺りは、土塁址になるようです。韮山城は石垣は使っていません。土塁と堀、などで守りを固めていたようです。『北条五代記』によれば、初めはあまり大規模なものではなく、延徳5年(1491年)に2代堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営されました。

  • テニスコートでしょうか、ネットが張られた、静岡県立韮山高校のグランドの光景です。かつての韮山城の『三の丸』とされます。その脇を通りました。

    テニスコートでしょうか、ネットが張られた、静岡県立韮山高校のグランドの光景です。かつての韮山城の『三の丸』とされます。その脇を通りました。

  • 韮山城の縄張りは、幅100メートル、長さ400メートルの『龍城山』と呼ばれる尾根に配置されえ散ます。北側から『三の丸』、『権現曲輪』、『二の丸』と『本丸』が直線状に並びます。北側の『三の丸』からの見学です。写真は、テニスコート脇に見えていた土塁跡のようです。グランド整備で、積み増されたかもしれません。

    韮山城の縄張りは、幅100メートル、長さ400メートルの『龍城山』と呼ばれる尾根に配置されえ散ます。北側から『三の丸』、『権現曲輪』、『二の丸』と『本丸』が直線状に並びます。北側の『三の丸』からの見学です。写真は、テニスコート脇に見えていた土塁跡のようです。グランド整備で、積み増されたかもしれません。

  • 北条早雲は、韮山城を拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城としました。亡くなったのは、88歳説(1432年生れ)と、64歳説(1456年生れ)があります。戦国時代の魁となった武将で、大名です。

    北条早雲は、韮山城を拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城としました。亡くなったのは、88歳説(1432年生れ)と、64歳説(1456年生れ)があります。戦国時代の魁となった武将で、大名です。

  • 堀跡のような雰囲気も残った、通路脇の光景です。倒木したか、切り倒された木々が、そのまま放置されていました。

    堀跡のような雰囲気も残った、通路脇の光景です。倒木したか、切り倒された木々が、そのまま放置されていました。

  • 韮山城址の見学は、一寸した登山気分でした。ツアー参加の皆さん方も、ちょっとした登山か、ハイキングを想定した装備と服装でした。

    韮山城址の見学は、一寸した登山気分でした。ツアー参加の皆さん方も、ちょっとした登山か、ハイキングを想定した装備と服装でした。

  • 道案内の標識と、熊野神社の『由緒』を記した立看板の光景です。道案内標識には、左向きの矢印で江川邸、右向きの矢印で韮山城址と蛭ヶ小島が表示されていました。

    道案内の標識と、熊野神社の『由緒』を記した立看板の光景です。道案内標識には、左向きの矢印で江川邸、右向きの矢印で韮山城址と蛭ヶ小島が表示されていました。

  • 熊野神社の『由緒』を記した焚立て看板のズームアップ光景です。少し拾い読みしますと、祭神は『イザナミノミコト(伊邪那美命)』、創建は室町時代の明応9年(1400年)と紹介されていました。境内地は江川家所有、氏子は260余戸とも紹介されていました。

    熊野神社の『由緒』を記した焚立て看板のズームアップ光景です。少し拾い読みしますと、祭神は『イザナミノミコト(伊邪那美命)』、創建は室町時代の明応9年(1400年)と紹介されていました。境内地は江川家所有、氏子は260余戸とも紹介されていました。

  • 平坦な道と。山登りの道とに分かれた場所の光景です。左側の山登りの道が、『権現曲輪』から『二の丸』へと向かう道でした。

    平坦な道と。山登りの道とに分かれた場所の光景です。左側の山登りの道が、『権現曲輪』から『二の丸』へと向かう道でした。

  • 通ることはありませんでしたが、三叉路になった場所の平たんな道の方の光景です。削られたような土手の下部には、玉石を使った低い石垣がありましたが、これは近年の工事かも知れません。

    通ることはありませんでしたが、三叉路になった場所の平たんな道の方の光景です。削られたような土手の下部には、玉石を使った低い石垣がありましたが、これは近年の工事かも知れません。

  • 熊野神社の入口に建っていた石の鳥居の光景です。現地ガイドさんの説明をお聞きしながらの見学でしたが、写真を撮る方も忙しくなりました。

    熊野神社の入口に建っていた石の鳥居の光景です。現地ガイドさんの説明をお聞きしながらの見学でしたが、写真を撮る方も忙しくなりました。

  • 石垣を使わない時代の土塁の雰囲気が残る、『権現曲輪』の周りの光景です。天正18年(1590年)、秀吉の命により関東に移封された徳川家康は、家臣・内藤信成を伊豆国1万石の居城させました。慶長6年(1601年)に、駿河国4万石の駿府城転封し、韮山城は廃城となりました。

    石垣を使わない時代の土塁の雰囲気が残る、『権現曲輪』の周りの光景です。天正18年(1590年)、秀吉の命により関東に移封された徳川家康は、家臣・内藤信成を伊豆国1万石の居城させました。慶長6年(1601年)に、駿河国4万石の駿府城転封し、韮山城は廃城となりました。

  • 同じく、土塁の雰囲気が残る、『権現曲輪』の周りの光景です。土塁は痩せても、木々は大きく育ったようです。

    同じく、土塁の雰囲気が残る、『権現曲輪』の周りの光景です。土塁は痩せても、木々は大きく育ったようです。

  • 『権現曲輪』の周りの紹介が続きます。『権現』は、日本の神々が仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号とされます。数多くある中の一つに、『熊野権現』があります。『熊野権現』は、熊野三山に祀られる神のことです。

    『権現曲輪』の周りの紹介が続きます。『権現』は、日本の神々が仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号とされます。数多くある中の一つに、『熊野権現』があります。『熊野権現』は、熊野三山に祀られる神のことです。

  • 『権現曲輪』の土塁の下から見上げた、『八幡神社』の社殿光景です。1590年の豊臣秀吉軍による落城の後は、地元の方達の信仰を集めてきたようです。

    『権現曲輪』の土塁の下から見上げた、『八幡神社』の社殿光景です。1590年の豊臣秀吉軍による落城の後は、地元の方達の信仰を集めてきたようです。

  • 日本の大木の間から眺めた石の鳥居の光景です。石灯篭の両脇には石灯篭が置かれていました。境内の内側から眺めた光景です。

    日本の大木の間から眺めた石の鳥居の光景です。石灯篭の両脇には石灯篭が置かれていました。境内の内側から眺めた光景です。

  • 『権現曲輪』の周りの光景です。この一角は、『権現平』とも呼ばれていいるようですが、むしろ、この呼び名が相応しいようにも感じました。

    『権現曲輪』の周りの光景です。この一角は、『権現平』とも呼ばれていいるようですが、むしろ、この呼び名が相応しいようにも感じました。

  • 熊野神社の手水舎の光景です。水盤はしっかりとしたコンクリートの題の上に置かれ、それを覆う建物金属製の柱でした。水道が引かれ、その蛇口は閉めてありました。必要な時にだけ蛇口を開けるようでした。

    熊野神社の手水舎の光景です。水盤はしっかりとしたコンクリートの題の上に置かれ、それを覆う建物金属製の柱でした。水道が引かれ、その蛇口は閉めてありました。必要な時にだけ蛇口を開けるようでした。

  • 韮山城址の一角に建つ、熊野神社の社殿光景です。先に紹介した、かつての縄張りには、『権現曲輪』と記された場所です。元々城内に祀られた神社のようです。近年には江川家により社殿が修復され、その管理は地元の松並地区で行われているようです。

    イチオシ

    韮山城址の一角に建つ、熊野神社の社殿光景です。先に紹介した、かつての縄張りには、『権現曲輪』と記された場所です。元々城内に祀られた神社のようです。近年には江川家により社殿が修復され、その管理は地元の松並地区で行われているようです。

  • 『稲荷郭』の端の方の光景です。急傾斜地の危険防止らしい金属柵が設けてありました。その急斜面の周りは、鬱蒼とした林になっていました。

    『稲荷郭』の端の方の光景です。急傾斜地の危険防止らしい金属柵が設けてありました。その急斜面の周りは、鬱蒼とした林になっていました。

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