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この風景に見覚えがありませんか?テレビCMにもよく使われ、金沢と言えばこの風景が定番ではないでしょうか?<br />風情ある街並みが目の前に広がり、石畳が敷かれた道にはレトロな街灯が立ち、通りの先には鮮やかな緑の卯辰山が見えます。城下町の風情を今に残す「ひがし茶屋街」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、1階には木虫籠(きむすこ)と呼ばれる出格子のある家屋が軒を並べた様は壮観です。<br />かつては、財力のある名士や文化人たちだけが入ることを許された花街でした。今でも夕方になると三味線や太鼓の音が鳴り響き、芸妓さんの姿を見ることもできます。芸者遊びをする所謂お茶屋街でしたが、今は観光名所としてカフェやお土産屋さんが軒を連ね、本家のお茶屋さんは肩身が狭そうです。<br />ひがし茶屋街はさほど古い町ではなく、延宝年間(1673~81年)に描かれた延宝金沢図では、東山地区の多くは町家や地子(土地課税を払う場所)と記されています。現在の形になったのは、1820(文政3)年 に12代藩主 斉広が金沢城下に点在していた多くの茶屋を「ひがし」と「にし」にまとめ、開業許可を出したことが始まりです。その当時に造られた建築物「志摩」や「懐華樓(かいかろう)」など幾つかの建物が残されています。

問柳尋花 加賀紀行⑨金沢 ひがし茶屋街・主計町(エピローグ)

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2017/06/01 - 2017/06/03

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

この風景に見覚えがありませんか?テレビCMにもよく使われ、金沢と言えばこの風景が定番ではないでしょうか?
風情ある街並みが目の前に広がり、石畳が敷かれた道にはレトロな街灯が立ち、通りの先には鮮やかな緑の卯辰山が見えます。城下町の風情を今に残す「ひがし茶屋街」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、1階には木虫籠(きむすこ)と呼ばれる出格子のある家屋が軒を並べた様は壮観です。
かつては、財力のある名士や文化人たちだけが入ることを許された花街でした。今でも夕方になると三味線や太鼓の音が鳴り響き、芸妓さんの姿を見ることもできます。芸者遊びをする所謂お茶屋街でしたが、今は観光名所としてカフェやお土産屋さんが軒を連ね、本家のお茶屋さんは肩身が狭そうです。
ひがし茶屋街はさほど古い町ではなく、延宝年間(1673~81年)に描かれた延宝金沢図では、東山地区の多くは町家や地子(土地課税を払う場所)と記されています。現在の形になったのは、1820(文政3)年 に12代藩主 斉広が金沢城下に点在していた多くの茶屋を「ひがし」と「にし」にまとめ、開業許可を出したことが始まりです。その当時に造られた建築物「志摩」や「懐華樓(かいかろう)」など幾つかの建物が残されています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス JR特急
  • 金澤東山しつらえ<br />兼六園と金沢城址公園を結ぶ石川橋からこの「ひがし茶屋街」までは、少し距離があるため徒歩では時間を要します。しかし「まちのり」のレンタサイクルを利用すれば、10分弱で着いてしまいます。<br />城北大通りから、少し東側へ筋を入った所にあるのが、定番の「二番丁通り」です。<br /><br />左側にある弁柄一色の艶めかしい雰囲気の建物は、2014年にオープンした、伝統工芸を取り扱うギャラリー「金澤東山しつらえ」です。<br />ほとんどのお茶屋さんには、こうした風情ある木虫籠と呼ばれる出格子が使われています。どこの出格子にも味わいがあり、いい風合いになっています。

    金澤東山しつらえ
    兼六園と金沢城址公園を結ぶ石川橋からこの「ひがし茶屋街」までは、少し距離があるため徒歩では時間を要します。しかし「まちのり」のレンタサイクルを利用すれば、10分弱で着いてしまいます。
    城北大通りから、少し東側へ筋を入った所にあるのが、定番の「二番丁通り」です。

    左側にある弁柄一色の艶めかしい雰囲気の建物は、2014年にオープンした、伝統工芸を取り扱うギャラリー「金澤東山しつらえ」です。
    ほとんどのお茶屋さんには、こうした風情ある木虫籠と呼ばれる出格子が使われています。どこの出格子にも味わいがあり、いい風合いになっています。

  • 金澤東山しつらえ<br />お茶屋の歴史を紐解くと、元々は今で言う風俗街(出合宿)だったようです。最古の記録は1620(元和6)年に堀川町に遊女の記録があり、加賀藩は何度も出合宿を禁止しました。そして1631(寛永8)とその4年後に金沢城下の大半を焼く大火に遭いますが、それでも遊女出合宿はしぶとく残ったそうです。<br />やがて1690(元禄3)年、出合宿の転機になる事件が起こります。困窮していた武士4人が町人と共に19人の遊女を雇って禁制の出合宿を営業していたことが発覚したのです。見せしめとして事件に関わった武士や町人、遊女が処刑されました。武士たちは五箇山に流刑、町人は打首または耳や鼻などを削ぐ刑に処されました。遊女たちは禁牢の後、能登州奥郡に流刑。と言っても通常の流刑とは異なり、嫁として送られたり商売の手助けをさせられたそうです。

    金澤東山しつらえ
    お茶屋の歴史を紐解くと、元々は今で言う風俗街(出合宿)だったようです。最古の記録は1620(元和6)年に堀川町に遊女の記録があり、加賀藩は何度も出合宿を禁止しました。そして1631(寛永8)とその4年後に金沢城下の大半を焼く大火に遭いますが、それでも遊女出合宿はしぶとく残ったそうです。
    やがて1690(元禄3)年、出合宿の転機になる事件が起こります。困窮していた武士4人が町人と共に19人の遊女を雇って禁制の出合宿を営業していたことが発覚したのです。見せしめとして事件に関わった武士や町人、遊女が処刑されました。武士たちは五箇山に流刑、町人は打首または耳や鼻などを削ぐ刑に処されました。遊女たちは禁牢の後、能登州奥郡に流刑。と言っても通常の流刑とは異なり、嫁として送られたり商売の手助けをさせられたそうです。

  • 二番丁通り<br />メインストリートとなる「二番丁通り」です。かつては、この通りの中央に桜や柳の木が植えられていたそうです。<br /><br />遊女の流刑に関しては「お小夜伝説」が伝わっており、能登出身のお小夜には能登流刑は意味が無く、五箇山に流刑され29年間の数奇な生涯を自ら閉じるというお話です。<br />お小夜は能登の貧農の家に生まれ、13歳で素麺屋へ奉公に出された。18歳で年季を終えて実家に戻ると、今度は金沢の遊女に売られてしまう。遊郭の営業は認められておらず、雇い主は藩士と結託して密かに出会茶屋を経営していた。しかしそれが発覚したため、お小夜ら遊女も流罪と決まったが、流刑先が輪島であったため、お小夜だけは郷里に近いという理由から、五箇山への配流となった。お小夜が21歳の時でした。<br />五箇山では、監禁されることもなく、集落に出歩ける自由もあった。やがてお小夜は遊郭で習った歌や踊り、三味線などを村人に教えるようになる。村人も彼女の技芸に憧れ、そしてお小夜も集落に馴染んで暮らすようになった。<br />ある日、お小夜は村の若者 吉間と恋仲となった。しかし子を身籠もり、状況は一変する。流刑の身の者と集落の者が結婚することも、子をなすことも御法度であった。このままでは村にも罰が及ぶと思い悩んだお小夜は、庄川へ身を投げたのである。

    二番丁通り
    メインストリートとなる「二番丁通り」です。かつては、この通りの中央に桜や柳の木が植えられていたそうです。

    遊女の流刑に関しては「お小夜伝説」が伝わっており、能登出身のお小夜には能登流刑は意味が無く、五箇山に流刑され29年間の数奇な生涯を自ら閉じるというお話です。
    お小夜は能登の貧農の家に生まれ、13歳で素麺屋へ奉公に出された。18歳で年季を終えて実家に戻ると、今度は金沢の遊女に売られてしまう。遊郭の営業は認められておらず、雇い主は藩士と結託して密かに出会茶屋を経営していた。しかしそれが発覚したため、お小夜ら遊女も流罪と決まったが、流刑先が輪島であったため、お小夜だけは郷里に近いという理由から、五箇山への配流となった。お小夜が21歳の時でした。
    五箇山では、監禁されることもなく、集落に出歩ける自由もあった。やがてお小夜は遊郭で習った歌や踊り、三味線などを村人に教えるようになる。村人も彼女の技芸に憧れ、そしてお小夜も集落に馴染んで暮らすようになった。
    ある日、お小夜は村の若者 吉間と恋仲となった。しかし子を身籠もり、状況は一変する。流刑の身の者と集落の者が結婚することも、子をなすことも御法度であった。このままでは村にも罰が及ぶと思い悩んだお小夜は、庄川へ身を投げたのである。

  • 二番丁通り<br />その後、1831(天保2)に風紀の乱れなどの理由から茶屋が廃止され、風俗に関する心得や「かこい女」を禁止する定書が出されています。1846(弘化3)年にひがし茶屋街は「愛宕」と名称が変更され、建物の造りまで変えさせようと2階建ての出会宿を普通の建物に改めるよう命じました。しかし結果的には今に姿が残されている様に、改築は進みませんでした。その20年後に茶屋街が再び公認され、これ以降「東新地」と呼ばれるようになりました。今の「ひがし茶屋」の名称は「東新地」の「ひがし」が由来だそうです。『東新地細見のれん鏡』によると、茶屋数112軒、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録があります。

    二番丁通り
    その後、1831(天保2)に風紀の乱れなどの理由から茶屋が廃止され、風俗に関する心得や「かこい女」を禁止する定書が出されています。1846(弘化3)年にひがし茶屋街は「愛宕」と名称が変更され、建物の造りまで変えさせようと2階建ての出会宿を普通の建物に改めるよう命じました。しかし結果的には今に姿が残されている様に、改築は進みませんでした。その20年後に茶屋街が再び公認され、これ以降「東新地」と呼ばれるようになりました。今の「ひがし茶屋」の名称は「東新地」の「ひがし」が由来だそうです。『東新地細見のれん鏡』によると、茶屋数112軒、芸妓119人、遠所芸妓45人、娼婦164人の記録があります。

  • 二番丁通り<br />やがて明治時代に入ると加賀藩に代わって明治政府の発令が力を持ちます。明治5年、横浜に停泊中のペルー籍の船「マリア・ルス号」内にいた中国人が奴隷であるとして日本政府が開放した事件をきっかけに人権問題がクローズアップされ始め、「芸娼妓解放令(人身売買禁止)」に繋がりました。<br />そして貸座敷が公認された後、明治12年に「貸座敷規則」が定められ、明治21年に発行された『石川県下商工便覧』では今と変わらない「ひがし茶屋」の風景を見ることができるそうです。やがて明治34年の「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解」に従って営業されるに至り、これが昭和時代初期まで存続しました。

    二番丁通り
    やがて明治時代に入ると加賀藩に代わって明治政府の発令が力を持ちます。明治5年、横浜に停泊中のペルー籍の船「マリア・ルス号」内にいた中国人が奴隷であるとして日本政府が開放した事件をきっかけに人権問題がクローズアップされ始め、「芸娼妓解放令(人身売買禁止)」に繋がりました。
    そして貸座敷が公認された後、明治12年に「貸座敷規則」が定められ、明治21年に発行された『石川県下商工便覧』では今と変わらない「ひがし茶屋」の風景を見ることができるそうです。やがて明治34年の「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則俗解」に従って営業されるに至り、これが昭和時代初期まで存続しました。

  • 金沢ひがし廓「志摩」(重文)<br />ひがし茶屋街には、有料で一般公開している2軒のお茶屋さんがあります。重文「金沢ひがし廊 志摩」と市指定保存建物「懐華樓」です。どちらも江戸時代から続く格式の高い老舗のお茶屋です。<br />金沢ひがし廓「志摩」のHPです。<br />http://www.ochaya-shima.com/shima/shima_f.html

    金沢ひがし廓「志摩」(重文)
    ひがし茶屋街には、有料で一般公開している2軒のお茶屋さんがあります。重文「金沢ひがし廊 志摩」と市指定保存建物「懐華樓」です。どちらも江戸時代から続く格式の高い老舗のお茶屋です。
    金沢ひがし廓「志摩」のHPです。
    http://www.ochaya-shima.com/shima/shima_f.html

  • 金沢ひがし廓「志摩」<br />志摩は1820(文政3)年に建てられ、改修もせず往時のままの姿で残されています。最初は「越中屋」、その後「尾張屋」、「白尾屋」、「竹琴」とオーナーが変わる度に改名し、戦後まで続いた最後の名が「志摩」でした。<br />お茶屋は町屋とは異なり、押し入れや物入れを造らず、装飾に拘った華奢な造りをしていることから、改築せずに残すのは至難の業だそうです。全国的に見ても希少な茶屋建築の遺構のひとつであり、往時の庶民文化を知る貴重な建築であることから、2003年に重文に指定されています。<br />現在はお茶屋としての営業はしておらず、記念館のような位置付けで1977年から一般公開しています。茶屋建築で重文指定は、京都 島原「角屋」とここだけです。一歩入るとそこは豪華絢爛、めくるめく非日常的な歴史的空間が待っています。

    金沢ひがし廓「志摩」
    志摩は1820(文政3)年に建てられ、改修もせず往時のままの姿で残されています。最初は「越中屋」、その後「尾張屋」、「白尾屋」、「竹琴」とオーナーが変わる度に改名し、戦後まで続いた最後の名が「志摩」でした。
    お茶屋は町屋とは異なり、押し入れや物入れを造らず、装飾に拘った華奢な造りをしていることから、改築せずに残すのは至難の業だそうです。全国的に見ても希少な茶屋建築の遺構のひとつであり、往時の庶民文化を知る貴重な建築であることから、2003年に重文に指定されています。
    現在はお茶屋としての営業はしておらず、記念館のような位置付けで1977年から一般公開しています。茶屋建築で重文指定は、京都 島原「角屋」とここだけです。一歩入るとそこは豪華絢爛、めくるめく非日常的な歴史的空間が待っています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 茶の間<br />玄関を入ると正面に2階へ上がる急勾配な階段があります。階段の裏側にはこうした囲炉裏があり、待合室のようなものだったそうです。この囲炉裏も江戸時代のものだそうです。上が吹き抜けになっているため、煙も自然に排出される合理的な造りになっています。<br />また、手荷物は全て無料ロッカーに預けて見学することになります。

    金沢ひがし廓「志摩」 茶の間
    玄関を入ると正面に2階へ上がる急勾配な階段があります。階段の裏側にはこうした囲炉裏があり、待合室のようなものだったそうです。この囲炉裏も江戸時代のものだそうです。上が吹き抜けになっているため、煙も自然に排出される合理的な造りになっています。
    また、手荷物は全て無料ロッカーに預けて見学することになります。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 玄関の欄間<br />建物内での写真撮影はOKですが、1眼レフやミラーレス、ビデオカメラのような大型カメラでの撮影は禁止されています。スマホかコンデジなどの撮影はフラッシュを使わなければOKです。これは建物や家具などにぶつけると破損の危険があるためだそうです。<br />ここでは予備として携行していたコンデジが大車輪の活躍をしてくれました。しかし、古いコンデジで暗い場所が苦手なカメラでしたので、ノイズが目立つ仕上がりになっていることをお詫びいたします。

    金沢ひがし廓「志摩」 玄関の欄間
    建物内での写真撮影はOKですが、1眼レフやミラーレス、ビデオカメラのような大型カメラでの撮影は禁止されています。スマホかコンデジなどの撮影はフラッシュを使わなければOKです。これは建物や家具などにぶつけると破損の危険があるためだそうです。
    ここでは予備として携行していたコンデジが大車輪の活躍をしてくれました。しかし、古いコンデジで暗い場所が苦手なカメラでしたので、ノイズが目立つ仕上がりになっていることをお詫びいたします。

  • 金沢ひがし廓「志摩」<br />まず2階への階段を上るように案内されます。<br />階段の上方は、明りとりや音を逃がすための大屋根へと続く高い吹き抜けになっています。<br />2階建てとありますが、一部3階建てのようです。

    金沢ひがし廓「志摩」
    まず2階への階段を上るように案内されます。
    階段の上方は、明りとりや音を逃がすための大屋根へと続く高い吹き抜けになっています。
    2階建てとありますが、一部3階建てのようです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」<br />階段を上り切ると正面には薄暗い廊下が通っていますが、行灯が行く手を阻みます。壁に投影された影が不気味です。

    金沢ひがし廓「志摩」
    階段を上り切ると正面には薄暗い廊下が通っていますが、行灯が行く手を阻みます。壁に投影された影が不気味です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」<br />HPにも紹介されていませんので、理解し易いように間取り図をアップしておきます。<br />これでおおよそのレイアウトがイメージできると思います。

    金沢ひがし廓「志摩」
    HPにも紹介されていませんので、理解し易いように間取り図をアップしておきます。
    これでおおよそのレイアウトがイメージできると思います。

  • 金沢ひがし廓「志摩」なかの間<br />階段を右へ折れると「なかの間」へ通じています。<br />お客は座敷に通され、飲食しながら芸妓の演芸に酔いしれたのです。客層は城下の富裕商人や文化人などで、遊興と言っても琴や三弦、謡曲や俳諧、茶の湯など多岐に及び、芸妓のみならず客側にも高い教養が求められました。勿論、財力は言うまでもありませんが…。<br />厳しい身分制度の下、武士に蔑まれた町人に許された限られた娯楽の場がここだったのです。金沢は武士も多かったはずですが、説明によるとここは町人や文人専用だったそうです。武士の社交場は別の所にあったということでしょうか?<br /><br />なかの間には「茶屋遊びの粋」説明書があります。<br />要約すると、<br />「茶屋遊びは非日常の空間。そのため内部は格調高い贅沢な造りをしている。客は芸妓の後援者でもあり、もてなす側・もてなされる側が共に芸に興じてこそ「粋」が成り立つ。芸妓は指先の仕草にまで気を配り、美や粋を表現する。それに対し客も芸を理解するために自ら稽古や芸をたしなむのが理。客は労を惜しまず、芸妓はそれに応えて自己を磨き続ける。「粋」を至上とする芸妓と客のシナジー効果によって茶屋遊びは守られてきた」。遊びに来る方も芸の本質を理解するために稽古が必要とは吃驚ポンです。お金を積むだけでは贅を極めることはできなかったようです。

    金沢ひがし廓「志摩」なかの間
    階段を右へ折れると「なかの間」へ通じています。
    お客は座敷に通され、飲食しながら芸妓の演芸に酔いしれたのです。客層は城下の富裕商人や文化人などで、遊興と言っても琴や三弦、謡曲や俳諧、茶の湯など多岐に及び、芸妓のみならず客側にも高い教養が求められました。勿論、財力は言うまでもありませんが…。
    厳しい身分制度の下、武士に蔑まれた町人に許された限られた娯楽の場がここだったのです。金沢は武士も多かったはずですが、説明によるとここは町人や文人専用だったそうです。武士の社交場は別の所にあったということでしょうか?

    なかの間には「茶屋遊びの粋」説明書があります。
    要約すると、
    「茶屋遊びは非日常の空間。そのため内部は格調高い贅沢な造りをしている。客は芸妓の後援者でもあり、もてなす側・もてなされる側が共に芸に興じてこそ「粋」が成り立つ。芸妓は指先の仕草にまで気を配り、美や粋を表現する。それに対し客も芸を理解するために自ら稽古や芸をたしなむのが理。客は労を惜しまず、芸妓はそれに応えて自己を磨き続ける。「粋」を至上とする芸妓と客のシナジー効果によって茶屋遊びは守られてきた」。遊びに来る方も芸の本質を理解するために稽古が必要とは吃驚ポンです。お金を積むだけでは贅を極めることはできなかったようです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」<br />2階には、「はなれ」を含めて7つの間があります。控えの間以外の座敷は、全て8畳敷です。しかし町屋の造りとは異なり、押入れや間仕切壁などはなく、障子と襖だけで部屋を仕切っているため開放的な雰囲気です。一切の生活感を払拭し、遊芸を主体とした優美で繊細な、粋な設えになっています。<br />泉鏡花著『由縁の女』には次のような描写があります。<br />「東の廓と称する新地は、この山裾を入江のごとく続いた麓に、当夜祭礼なる毘沙門の社に接している。どこか、そのあたりの二三階、高楼の笑声の、風に乗って来たに相違ない、と思うにも、袖褄をひらひらと、怪鳥に乗った怪しい婦が峰を飛んだようで凄かった」。地理的には、東の廓=東茶屋町、毘沙門=宇多須神と読み取れます。

    金沢ひがし廓「志摩」
    2階には、「はなれ」を含めて7つの間があります。控えの間以外の座敷は、全て8畳敷です。しかし町屋の造りとは異なり、押入れや間仕切壁などはなく、障子と襖だけで部屋を仕切っているため開放的な雰囲気です。一切の生活感を払拭し、遊芸を主体とした優美で繊細な、粋な設えになっています。
    泉鏡花著『由縁の女』には次のような描写があります。
    「東の廓と称する新地は、この山裾を入江のごとく続いた麓に、当夜祭礼なる毘沙門の社に接している。どこか、そのあたりの二三階、高楼の笑声の、風に乗って来たに相違ない、と思うにも、袖褄をひらひらと、怪鳥に乗った怪しい婦が峰を飛んだようで凄かった」。地理的には、東の廓=東茶屋町、毘沙門=宇多須神と読み取れます。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 なかの間<br />前座敷とひろまの間にある部屋です。座敷がお隣どおしでは声の漏れなどお互いに気を遣うため、スペーサーとして設けられた間のように思います。<br />ここの壁に掛けてある三味線も、昔から使われていたものだそうです。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 なかの間
    前座敷とひろまの間にある部屋です。座敷がお隣どおしでは声の漏れなどお互いに気を遣うため、スペーサーとして設けられた間のように思います。
    ここの壁に掛けてある三味線も、昔から使われていたものだそうです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 ひろま<br />ひろまは坪庭に面しています。<br />6月からは夏バージョンの設えとなり、襖や障子戸は簾戸(すど)に入れ替えられています。

    金沢ひがし廓「志摩」 ひろま
    ひろまは坪庭に面しています。
    6月からは夏バージョンの設えとなり、襖や障子戸は簾戸(すど)に入れ替えられています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 ひろま<br />一番整った部屋であり、町屋では見られない弁柄色の壁に春慶(漆)塗りの違い棚や柱がよく調和し、竿縁天井も高く、格調高い造りとなっています。また、飾り窓の格子は、竹の質感を活かした素朴なデザインです。つる草のしだれ具合と弁柄のせいか、茶花も何とも艶めかしく感じられて妙です。<br />床の間には掛け軸や工芸品、違い棚には獅子と扇子が飾られ、欄間には書跡の額縁が掲げられ、雪洞(ぼんぼり)といった和の照明が華やかさを演出しています。<br />一流の職人たちの手による、一流の作品をここまで揃えることができたのは、加賀100万石のお膝元の金沢だからこそできた業です。

    金沢ひがし廓「志摩」 ひろま
    一番整った部屋であり、町屋では見られない弁柄色の壁に春慶(漆)塗りの違い棚や柱がよく調和し、竿縁天井も高く、格調高い造りとなっています。また、飾り窓の格子は、竹の質感を活かした素朴なデザインです。つる草のしだれ具合と弁柄のせいか、茶花も何とも艶めかしく感じられて妙です。
    床の間には掛け軸や工芸品、違い棚には獅子と扇子が飾られ、欄間には書跡の額縁が掲げられ、雪洞(ぼんぼり)といった和の照明が華やかさを演出しています。
    一流の職人たちの手による、一流の作品をここまで揃えることができたのは、加賀100万石のお膝元の金沢だからこそできた業です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 控えの間(ひろま)<br />お客さんが床の間を背にして座ると、その正面が必ず控えの間となります。襖が開くと同時に、艶やかな衣装の芸妓さんの舞や遊芸が披露されます。因みにこの金屏風の前が、芸妓さんが踊りや歌を披露する舞台となります。<br />金沢では、招待客のために旦那自らが太鼓を披露する「お座敷太鼓」という芸が代々引き継がれているそうです。昔は、芸妓顔負けのバチさばきを見せる旦那もいたそうです。

    金沢ひがし廓「志摩」 控えの間(ひろま)
    お客さんが床の間を背にして座ると、その正面が必ず控えの間となります。襖が開くと同時に、艶やかな衣装の芸妓さんの舞や遊芸が披露されます。因みにこの金屏風の前が、芸妓さんが踊りや歌を披露する舞台となります。
    金沢では、招待客のために旦那自らが太鼓を披露する「お座敷太鼓」という芸が代々引き継がれているそうです。昔は、芸妓顔負けのバチさばきを見せる旦那もいたそうです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 廊下<br />ひろまの廊下からは、坪庭が見下ろせます。<br />廊下には、雰囲気のある格子や透かし彫りが施された凝った欄干があしらわれ、すだれ越しに涼しげな緑を愛でられる趣向です。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 廊下
    ひろまの廊下からは、坪庭が見下ろせます。
    廊下には、雰囲気のある格子や透かし彫りが施された凝った欄干があしらわれ、すだれ越しに涼しげな緑を愛でられる趣向です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 廊下<br />欄干の下の部分にも注目です。<br />毬を彷彿とさせる「壺々透し」が施されています。シンプルな意匠ですが、手の込んだものであることは一目瞭然です。長町の野村家の茶室でもアレンジされた「壺々透し」が見られましたが、金沢で流行した意匠なのでしょうか?<br />いずれにせよ、一切手向きなしの贅を尽くした造りであることは疑いようがありません。

    金沢ひがし廓「志摩」 廊下
    欄干の下の部分にも注目です。
    毬を彷彿とさせる「壺々透し」が施されています。シンプルな意匠ですが、手の込んだものであることは一目瞭然です。長町の野村家の茶室でもアレンジされた「壺々透し」が見られましたが、金沢で流行した意匠なのでしょうか?
    いずれにせよ、一切手向きなしの贅を尽くした造りであることは疑いようがありません。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 廊下<br />ひろまの廊下からは、左手奥に「はなれ」が見渡せます。<br />部屋の中が暗いなと思っていたら、どうやら通り雨のようです。

    金沢ひがし廓「志摩」 廊下
    ひろまの廊下からは、左手奥に「はなれ」が見渡せます。
    部屋の中が暗いなと思っていたら、どうやら通り雨のようです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 坪庭<br />坪庭を覗き込むと、典型的な茶屋の庭園で、春日燈籠、月見燈籠、槍燈籠が配置よく佇み、四季折々の草花が彩りを添えています。<br />丸と四角の飾り格子窓は、源光庵の「悟りの窓」と「迷いの窓」を彷彿とさせる風趣です。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 坪庭
    坪庭を覗き込むと、典型的な茶屋の庭園で、春日燈籠、月見燈籠、槍燈籠が配置よく佇み、四季折々の草花が彩りを添えています。
    丸と四角の飾り格子窓は、源光庵の「悟りの窓」と「迷いの窓」を彷彿とさせる風趣です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 前座敷<br />琵琶床のある、一段と鮮やかな弁柄壁の座敷です。ここも天井が高く、往時の贅を尽くした間になっています。左側は狭い縁を挟んで二番丁通りに面しています。<br />「ひろま」同様に、正面の「控えの間」が演舞の舞台となり、襖が開くと艶やかな芸妓さんの舞や三弦などの遊芸が披露されます。シンプルながら洒落た仕掛けですが、襖が舞台で言う緞帳のような役目を果たしています。

    金沢ひがし廓「志摩」 前座敷
    琵琶床のある、一段と鮮やかな弁柄壁の座敷です。ここも天井が高く、往時の贅を尽くした間になっています。左側は狭い縁を挟んで二番丁通りに面しています。
    「ひろま」同様に、正面の「控えの間」が演舞の舞台となり、襖が開くと艶やかな芸妓さんの舞や三弦などの遊芸が披露されます。シンプルながら洒落た仕掛けですが、襖が舞台で言う緞帳のような役目を果たしています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 前座敷 <br />床の間は琵琶床という造りになっています。琵琶床とは、床の間の形式の一つで、床脇棚にある地袋の上に琵琶を置く棚が付けられたものを指します。<br />琴には、美しい象牙細工の蝶々や牡丹の花が嵌め込まれています。また、広間の柱や梁は全て春慶塗りで仕上げられています。<br />贅を尽くし過ぎて町奉行の検分で営業が差し止めになったこともあるくらいですから、折り紙つきのお茶屋さんと言えます。

    金沢ひがし廓「志摩」 前座敷
    床の間は琵琶床という造りになっています。琵琶床とは、床の間の形式の一つで、床脇棚にある地袋の上に琵琶を置く棚が付けられたものを指します。
    琴には、美しい象牙細工の蝶々や牡丹の花が嵌め込まれています。また、広間の柱や梁は全て春慶塗りで仕上げられています。
    贅を尽くし過ぎて町奉行の検分で営業が差し止めになったこともあるくらいですから、折り紙つきのお茶屋さんと言えます。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 前座敷<br />琴には蝶々や牡丹の花が象牙で嵌め込まれています。

    金沢ひがし廓「志摩」 前座敷
    琴には蝶々や牡丹の花が象牙で嵌め込まれています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 前座敷<br />琴の象嵌細工は、赤珊瑚がとてもいいアクセントになっています。

    金沢ひがし廓「志摩」 前座敷
    琴の象嵌細工は、赤珊瑚がとてもいいアクセントになっています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 前座敷 <br />瀟洒で華やかな室内を演出するためのツールのひとつがこうした釘隠しです。釘1本の頭を隠すのにも、こうしたものを惜しみなく使っているところに職人の矜持が感じられます。<br />薄暗いため意識しないと目に入らない小物ですが、意匠も凝っています。トリッキーなデザインですので、これがウサギと判る方は少ないと思います。このウサギが真正面を向く珍しい形(真向兎:まっこううさぎ )は、美しく見せるためにシンメトリックな図柄にしたものです。真向兎は、江戸時代初期に活躍した大名茶人 小堀遠州所縁のデザインとして知られています。金沢の文化には「キレイ・サビ」と呼ばれた遠州好みのデザインが連綿と伝わっているのかもしれません。<br />因みに、ひがし茶屋街の近所で生まれ育った泉鏡花は、ウサギのコレクターとして知られています。それは自分の干支「酉」の向かい干支が「卯」だったからです。向かい干支は、守り干支とされています。

    金沢ひがし廓「志摩」 前座敷
    瀟洒で華やかな室内を演出するためのツールのひとつがこうした釘隠しです。釘1本の頭を隠すのにも、こうしたものを惜しみなく使っているところに職人の矜持が感じられます。
    薄暗いため意識しないと目に入らない小物ですが、意匠も凝っています。トリッキーなデザインですので、これがウサギと判る方は少ないと思います。このウサギが真正面を向く珍しい形(真向兎:まっこううさぎ )は、美しく見せるためにシンメトリックな図柄にしたものです。真向兎は、江戸時代初期に活躍した大名茶人 小堀遠州所縁のデザインとして知られています。金沢の文化には「キレイ・サビ」と呼ばれた遠州好みのデザインが連綿と伝わっているのかもしれません。
    因みに、ひがし茶屋街の近所で生まれ育った泉鏡花は、ウサギのコレクターとして知られています。それは自分の干支「酉」の向かい干支が「卯」だったからです。向かい干支は、守り干支とされています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 前座敷<br />襖の引き手には、カラフルな七宝焼があしらわれています。襖によって形や絵柄が異なります。制作年代は明治時代後期~大正時代初期のものだそうです。<br />往時の職人にとっては、茶屋に上がれること自体がステータスシンボルだったことでしょう。<br />こうした、非日常的な空間にも職人のさりげない演出が随所に施されています。それを自らの目で掘り起こすのも、宝探しめいており愉しめます。

    金沢ひがし廓「志摩」 前座敷
    襖の引き手には、カラフルな七宝焼があしらわれています。襖によって形や絵柄が異なります。制作年代は明治時代後期~大正時代初期のものだそうです。
    往時の職人にとっては、茶屋に上がれること自体がステータスシンボルだったことでしょう。
    こうした、非日常的な空間にも職人のさりげない演出が随所に施されています。それを自らの目で掘り起こすのも、宝探しめいており愉しめます。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 控えの間(前座敷)<br />この控えの間には、掛け軸が飾られた小さな床の間が設えられています。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 控えの間(前座敷)
    この控えの間には、掛け軸が飾られた小さな床の間が設えられています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 廊下<br />桜花をモチーフにした模様をあしらった釣燈籠です。<br />純和風なのかもしれませんが、どことなくエキゾチックな雰囲気が漂う照明です。こうしたモダンなデザインが江戸時代からあったとは驚きです。<br />建物だけでなく、使われていた備品類は江戸時代からそのままにしているそうです。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 廊下
    桜花をモチーフにした模様をあしらった釣燈籠です。
    純和風なのかもしれませんが、どことなくエキゾチックな雰囲気が漂う照明です。こうしたモダンなデザインが江戸時代からあったとは驚きです。
    建物だけでなく、使われていた備品類は江戸時代からそのままにしているそうです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 <br />どこか見覚えのある光景と思いきや、玄関先の階段を上がった正面の廊下の先にあった雪洞です。<br />あの廊下の先は、「はなれ」へ通じていたようです。<br />しかし、ここは「はなれ」への入口でもありますが、「はなれ」の控えの間でもあります。こちらは他の控えの間(4畳敷)より少し狭く、3畳敷です。

    金沢ひがし廓「志摩」
    どこか見覚えのある光景と思いきや、玄関先の階段を上がった正面の廊下の先にあった雪洞です。
    あの廊下の先は、「はなれ」へ通じていたようです。
    しかし、ここは「はなれ」への入口でもありますが、「はなれ」の控えの間でもあります。こちらは他の控えの間(4畳敷)より少し狭く、3畳敷です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 控えの間(はなれ)<br />「はなれ」側から見ると、金屏風が立てられ、ここが控えの間と判ります。

    金沢ひがし廓「志摩」 控えの間(はなれ)
    「はなれ」側から見ると、金屏風が立てられ、ここが控えの間と判ります。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 はなれ<br />欄間の意匠が凝っています。<br />当時、茶屋は贅を競うように白木に透かし彫りなど凝った装飾を施したことから、それを禁じた町奉行の検分により、差し止めをくらったことがあるそうです。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 はなれ
    欄間の意匠が凝っています。
    当時、茶屋は贅を競うように白木に透かし彫りなど凝った装飾を施したことから、それを禁じた町奉行の検分により、差し止めをくらったことがあるそうです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 はなれ<br />この部屋だけは柱を春慶塗りでなく白木とし、数寄屋風の落ち着いた鶯色の壁がシックな雰囲気を醸しています。志摩の客間の中では最も地味で質素な部屋ですが、現代人にとっては贅を凝らした部屋よりこちらの方が落ち着くような気がします。<br />地袋の上には小太鼓が飾られ、壁に掛けられた軸、そこに添えられた楚々とした花等々…。こうした絶妙なバランス感覚に、加賀の美意識の高さを実感させられます。

    金沢ひがし廓「志摩」 はなれ
    この部屋だけは柱を春慶塗りでなく白木とし、数寄屋風の落ち着いた鶯色の壁がシックな雰囲気を醸しています。志摩の客間の中では最も地味で質素な部屋ですが、現代人にとっては贅を凝らした部屋よりこちらの方が落ち着くような気がします。
    地袋の上には小太鼓が飾られ、壁に掛けられた軸、そこに添えられた楚々とした花等々…。こうした絶妙なバランス感覚に、加賀の美意識の高さを実感させられます。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 はなれ<br />この間では、姿を見せずに笛の音だけを愉しむ粋な「影笛」なども演じられたそうです。因みにこのはなれは、一人でこっそり贔屓の芸妓さんに会いにくる客人のために用意された小間だったそうです。文人たちには、こちらの間の方が似合いそうです。<br />客は食事を済ませてから来店し、少しの酒の肴で時を愉しんだそうです。<br />茶屋の座敷は、仄暗く、もの静かで、少し湿っぽく、まさに幽玄の世界そのものです!<br />どことなく泉鏡花の作品の妖の潜む異界へと繋がっているような不思議な空間です。

    金沢ひがし廓「志摩」 はなれ
    この間では、姿を見せずに笛の音だけを愉しむ粋な「影笛」なども演じられたそうです。因みにこのはなれは、一人でこっそり贔屓の芸妓さんに会いにくる客人のために用意された小間だったそうです。文人たちには、こちらの間の方が似合いそうです。
    客は食事を済ませてから来店し、少しの酒の肴で時を愉しんだそうです。
    茶屋の座敷は、仄暗く、もの静かで、少し湿っぽく、まさに幽玄の世界そのものです!
    どことなく泉鏡花の作品の妖の潜む異界へと繋がっているような不思議な空間です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 はなれ<br />ここの欄干にも繊細な透かし彫りが施されています。これは「瓢箪」をあしらった意匠です。<br />奥の瓦は変わった形をしていますが、これは「雪止め」と呼ばれます。これがあると、屋根に積もった雪が一気にどさっと落ちるのを防げるそうです。こうしたものから、ここが雪国であることを思い知らされます。

    金沢ひがし廓「志摩」 はなれ
    ここの欄干にも繊細な透かし彫りが施されています。これは「瓢箪」をあしらった意匠です。
    奥の瓦は変わった形をしていますが、これは「雪止め」と呼ばれます。これがあると、屋根に積もった雪が一気にどさっと落ちるのを防げるそうです。こうしたものから、ここが雪国であることを思い知らされます。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 はなれ<br />「はなれ」から見る「ひろま」です。

    金沢ひがし廓「志摩」 はなれ
    「はなれ」から見る「ひろま」です。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 <br />「はなれ」の控えの間の手前には別の階段があります。<br />順路に従い、ここから階下へ降りて行きます。<br />飾り窓の格子の意匠に味わいがあります。一部、金屏風が邪魔していますが…。

    金沢ひがし廓「志摩」
    「はなれ」の控えの間の手前には別の階段があります。
    順路に従い、ここから階下へ降りて行きます。
    飾り窓の格子の意匠に味わいがあります。一部、金屏風が邪魔していますが…。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 奥の間(女将の部屋)<br />1階は家人の居住空間だったそうです。<br />ここは女将の部屋になり、落ち着いた佇いを見せています。<br />部屋に置かれた家具類や小物類、着物などは、昔のままの本物が置かれ、ふとした部屋の隅や軒下に、往時の空気が残されているような気がしました。

    金沢ひがし廓「志摩」 奥の間(女将の部屋)
    1階は家人の居住空間だったそうです。
    ここは女将の部屋になり、落ち着いた佇いを見せています。
    部屋に置かれた家具類や小物類、着物などは、昔のままの本物が置かれ、ふとした部屋の隅や軒下に、往時の空気が残されているような気がしました。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 坪庭<br />お茶屋特有の坪庭だそうです。<br />苔生した庭には飛び石がいい塩梅に置かれ、アクセントになっています。<br />槍燈籠と呼ばれている右端の燈籠は、蓮華寺型燈籠の変わり種なのでしょうか?

    金沢ひがし廓「志摩」 坪庭
    お茶屋特有の坪庭だそうです。
    苔生した庭には飛び石がいい塩梅に置かれ、アクセントになっています。
    槍燈籠と呼ばれている右端の燈籠は、蓮華寺型燈籠の変わり種なのでしょうか?

  • 金沢ひがし廓「志摩」 <br />ひろまの廊下から見下ろせる正面の壁は、薄く弁柄に染められています。

    金沢ひがし廓「志摩」
    ひろまの廊下から見下ろせる正面の壁は、薄く弁柄に染められています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 帳場<br />時代劇に登場する雰囲気そのままです。女将さんが帳面を付ける場所で、芸妓名や時間などを記帳し、精算は後日行なったようです。<br />お茶屋の説明書を要約すると「お茶屋は客の遊ぶ場でいわば貸座敷。精算は全て後払い。客との信頼を第一に考え、馴染を大切にしていた。故に紹介があっても新規の客が信用を得るのは難しく「一見さんお断り」となる」とあります。<br />京都や高級料亭で見かける「一見さんお断り」には、こうした深い意味があったのですね!前払いは「無粋・野暮」に当たるのだそうです。

    金沢ひがし廓「志摩」 帳場
    時代劇に登場する雰囲気そのままです。女将さんが帳面を付ける場所で、芸妓名や時間などを記帳し、精算は後日行なったようです。
    お茶屋の説明書を要約すると「お茶屋は客の遊ぶ場でいわば貸座敷。精算は全て後払い。客との信頼を第一に考え、馴染を大切にしていた。故に紹介があっても新規の客が信用を得るのは難しく「一見さんお断り」となる」とあります。
    京都や高級料亭で見かける「一見さんお断り」には、こうした深い意味があったのですね!前払いは「無粋・野暮」に当たるのだそうです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」石室 <br />井戸や石室も創建当時のままです。石室は、石組み造りの地下貯蔵庫(天然冷蔵庫)であり、内部には井戸も掘られています。<br />ここに戸室山の雪を入れておくことで、一年中一定の温度が保たれたそうです。

    金沢ひがし廓「志摩」石室
    井戸や石室も創建当時のままです。石室は、石組み造りの地下貯蔵庫(天然冷蔵庫)であり、内部には井戸も掘られています。
    ここに戸室山の雪を入れておくことで、一年中一定の温度が保たれたそうです。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 <br />階段を左手に入ると台所があります。<br />一般公開されている台所は改装されていることが多いのですが、ここは往時の姿のままであり、見所のひとつです。<br />お茶屋では台所で調理した食べ物を提供していたわけではなく、料理は仕出し屋から取り寄せていたそうです。ですから、竈は1つ小さいものがあるだけです。台所では主に熱燗の準備をしていたそうです。<br />井戸の上には錨が吊るされています。水を汲み上げる際のカウンター・ウェイトとして利用していたのでしょうか?

    金沢ひがし廓「志摩」
    階段を左手に入ると台所があります。
    一般公開されている台所は改装されていることが多いのですが、ここは往時の姿のままであり、見所のひとつです。
    お茶屋では台所で調理した食べ物を提供していたわけではなく、料理は仕出し屋から取り寄せていたそうです。ですから、竈は1つ小さいものがあるだけです。台所では主に熱燗の準備をしていたそうです。
    井戸の上には錨が吊るされています。水を汲み上げる際のカウンター・ウェイトとして利用していたのでしょうか?

  • 金沢ひがし廓「志摩」 見せの間<br />化粧や準備の間として使われていた部屋で、今は当時の品々が展示されています。<br />往時を偲ばせる、芸者衆の簪(かんざし)をはじめ櫛やこうがい、三味線の撥、蒔絵や九谷焼の酒器、杯などが展示されています。<br />

    金沢ひがし廓「志摩」 見せの間
    化粧や準備の間として使われていた部屋で、今は当時の品々が展示されています。
    往時を偲ばせる、芸者衆の簪(かんざし)をはじめ櫛やこうがい、三味線の撥、蒔絵や九谷焼の酒器、杯などが展示されています。

  • 金沢ひがし廓「志摩」 見せの間<br />古銭やぽち袋、キセルなども展示されています。<br />このぽち袋にお金を入れ、遊芸のお礼を渡したのでしょうか?<br />あまり長居もできず、そろそろお暇の時間です。

    金沢ひがし廓「志摩」 見せの間
    古銭やぽち袋、キセルなども展示されています。
    このぽち袋にお金を入れ、遊芸のお礼を渡したのでしょうか?
    あまり長居もできず、そろそろお暇の時間です。

  • 箔座「ひかり蔵」 <br />「ひかり蔵」と大きく書かれた文字が気になったので中へ入ってみました。<br />吃驚することに、日本の金箔・銀箔生産の99%を金沢産が占めているそうです。これは、金箔生産には湿度が重要で、金沢の気候が適しているからだそうです。<br />「黄金の蔵」はあるは、果てはクリーム・パフェやお吸い物にもふりかけの「のり玉」の如く金箔が散り嵌められている金沢独自の文化に戸惑いさえ感じます。<br />

    箔座「ひかり蔵」
    「ひかり蔵」と大きく書かれた文字が気になったので中へ入ってみました。
    吃驚することに、日本の金箔・銀箔生産の99%を金沢産が占めているそうです。これは、金箔生産には湿度が重要で、金沢の気候が適しているからだそうです。
    「黄金の蔵」はあるは、果てはクリーム・パフェやお吸い物にもふりかけの「のり玉」の如く金箔が散り嵌められている金沢独自の文化に戸惑いさえ感じます。

  • 箔座「ひかり蔵」 黄金の蔵<br />百数十年前に建てられた土蔵を、左官と金箔、そして伝統の技を駆使してリノベーションした蔵です。大河ドラマ『真田丸』のオープニングの題字と背景の壁を手掛け、国内のみならず海外にも活動の場を広げている左官士 挟土秀平氏による新しい試みの一環です。<br />内壁は、本来の壁の土に沖縄の泥藍を合わせ、網目模様の表情を持たせた壁に24Kの純金箔で日昇をイメージしたグラデーションを創生しています。<br />仏壇ではありませんが、思わず拝んでしまうほどです。

    箔座「ひかり蔵」 黄金の蔵
    百数十年前に建てられた土蔵を、左官と金箔、そして伝統の技を駆使してリノベーションした蔵です。大河ドラマ『真田丸』のオープニングの題字と背景の壁を手掛け、国内のみならず海外にも活動の場を広げている左官士 挟土秀平氏による新しい試みの一環です。
    内壁は、本来の壁の土に沖縄の泥藍を合わせ、網目模様の表情を持たせた壁に24Kの純金箔で日昇をイメージしたグラデーションを創生しています。
    仏壇ではありませんが、思わず拝んでしまうほどです。

  • 箔座「ひかり蔵」 黄金の蔵<br />外壁は最上級の漆喰の壁に塗り直し、箔座が開発した純金とプラチナの合金箔「純金プラチナ箔 永遠色」を一枚ずつ丁寧に貼り付けて仕上げています。<br />

    箔座「ひかり蔵」 黄金の蔵
    外壁は最上級の漆喰の壁に塗り直し、箔座が開発した純金とプラチナの合金箔「純金プラチナ箔 永遠色」を一枚ずつ丁寧に貼り付けて仕上げています。

  • 箔座「ひかり蔵」 <br />店内からは、このように木虫籠窓から二番丁通りの様子を眺めることができます。<br />内側から外はよく見えますが、外からは中を見ることはできない、風趣のあるブラインドです。

    箔座「ひかり蔵」
    店内からは、このように木虫籠窓から二番丁通りの様子を眺めることができます。
    内側から外はよく見えますが、外からは中を見ることはできない、風趣のあるブラインドです。

  • 懐華樓(金沢市指定保存建造物)<br />江戸時代後期に建てられた、築195年の金沢の中でも最大級のお茶屋建築です。また、日本で最初に一般公開を始めたお茶屋でもあります。1階の軒の下には、細かな細工が施された欄間があります。<br />金箔で織られた畳の茶室や輪島塗の段段、加賀友禅などが鑑賞できます。夜は現在も一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられているお部屋ですが、そこも見学することができます。また、金箔を一枚使った「黄金くずきり」や「黄金ぜんざい」などの甘味を楽しめるカフェやオリジナル商品を販売する蔵も併設されています。

    懐華樓(金沢市指定保存建造物)
    江戸時代後期に建てられた、築195年の金沢の中でも最大級のお茶屋建築です。また、日本で最初に一般公開を始めたお茶屋でもあります。1階の軒の下には、細かな細工が施された欄間があります。
    金箔で織られた畳の茶室や輪島塗の段段、加賀友禅などが鑑賞できます。夜は現在も一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられているお部屋ですが、そこも見学することができます。また、金箔を一枚使った「黄金くずきり」や「黄金ぜんざい」などの甘味を楽しめるカフェやオリジナル商品を販売する蔵も併設されています。

  • 懐華樓<br />当初は「志ま屋」の名で創建され、1906(明治39)年に編纂された『金沢廓の栞』には「越濱」と記されています。越濱は昭和時代初期まで営業した後、売却されて幾度かオーナーの変遷を重ねた末、1993年に金沢市内の大手飲食店に買い取られ「懐華楼」として息を吹き返しました。<br />茶屋建築の中で最大級の規模を誇り、格式の高さからも往時の繁栄を伝える貴重な遺構として「旧越濱」という名称で1991年に金沢市指定保存建造物に指定されています。<br /><br />「ひがし茶屋街」は、昭和24年頃、敗戦後の世の中の重い空気にそぐわないとのことで営業が停止した状態に陥り、一度この街は消滅したそうです。時代に置き去られた茶屋街はマンション建設で解体が計画されたようですが、歴史ある建造物を後世に残そうと街が立ち上がり、計画の見直しを図ったそうです。その結果、蘇生することができたというドラマチックな街です。<br />かつては50軒ほどあったお茶屋は現在では6軒となり、200名いた芸妓は15名まで減ったそうですが、今でも金沢の顔として伝統を守り続けています。

    懐華樓
    当初は「志ま屋」の名で創建され、1906(明治39)年に編纂された『金沢廓の栞』には「越濱」と記されています。越濱は昭和時代初期まで営業した後、売却されて幾度かオーナーの変遷を重ねた末、1993年に金沢市内の大手飲食店に買い取られ「懐華楼」として息を吹き返しました。
    茶屋建築の中で最大級の規模を誇り、格式の高さからも往時の繁栄を伝える貴重な遺構として「旧越濱」という名称で1991年に金沢市指定保存建造物に指定されています。

    「ひがし茶屋街」は、昭和24年頃、敗戦後の世の中の重い空気にそぐわないとのことで営業が停止した状態に陥り、一度この街は消滅したそうです。時代に置き去られた茶屋街はマンション建設で解体が計画されたようですが、歴史ある建造物を後世に残そうと街が立ち上がり、計画の見直しを図ったそうです。その結果、蘇生することができたというドラマチックな街です。
    かつては50軒ほどあったお茶屋は現在では6軒となり、200名いた芸妓は15名まで減ったそうですが、今でも金沢の顔として伝統を守り続けています。

  • 懐華樓<br />迎え扇と送り扇が描かれた玄関です。今回は、時間の都合で玄関先までしか見ていません。中にはクリフトン・カーフ氏の襖絵があるのですが、次回のお楽しみにとっておきます。<br />2009年に発刊されたミシュラン観光版で一つ星を獲得して以降、外国人客が急増しているそうです。昨年は1日の入館者500人のうち日本人が十数人しかいない日もあったそうです。実は、見城亭がここで開催している外国人旅行者向けの体験型イベントが好評を博しています。芸妓の踊りを鑑賞したり、お座敷太鼓を体験できる上、解説が英語とあって人気を集め、2016年には春と秋に38回開催し、延べ2000人が参加する盛況ぶりです。こうした歴史的建造物であっても、海外観光客向けにイノベーションを仕掛けていかないと生き残れない時代なのです。

    懐華樓
    迎え扇と送り扇が描かれた玄関です。今回は、時間の都合で玄関先までしか見ていません。中にはクリフトン・カーフ氏の襖絵があるのですが、次回のお楽しみにとっておきます。
    2009年に発刊されたミシュラン観光版で一つ星を獲得して以降、外国人客が急増しているそうです。昨年は1日の入館者500人のうち日本人が十数人しかいない日もあったそうです。実は、見城亭がここで開催している外国人旅行者向けの体験型イベントが好評を博しています。芸妓の踊りを鑑賞したり、お座敷太鼓を体験できる上、解説が英語とあって人気を集め、2016年には春と秋に38回開催し、延べ2000人が参加する盛況ぶりです。こうした歴史的建造物であっても、海外観光客向けにイノベーションを仕掛けていかないと生き残れない時代なのです。

  • 浅の川 吉久<br />浅野川大橋の袂にあるショップで、金沢の希少伝統工芸「水引細工」のヘアバンドとストラップを買い求めました。<br />日本の伝統的なラッピングである水引の3つの基本「包む」「結ぶ」「筆字」を芸術の域にまで押し上げたものです。水引飾りは、古来より「結ぶ」「繋ぐ」という意味を持ち、縁起物として多岐に渡り使用されてきました。このショップでは、カジュアルに使えるように現代風にアレンジされた商品ラインナップが豊富です。<br /><br />水引細工の元となる水引は、和紙を紙縒り(こより)状にしたものです。水引の語源は、麻などを水に浸して皮を剥ぎ、紐にしたのが由来とされ、紙の発達に合わせて水引が誕生しました。江戸時代には、武士や町人など髪結いの材料として使われるなど日常的に使われていたそうです。大正時代初期、津田左右吉が立体的な和紙の包み方(折型)と鶴亀や松竹梅などの立体的な水引の結び方(水引細工)を考案し、結納や金封に飾るようになりました。また、屠蘇につける蝶からヒントを得て内裏雛を考案し、水引人形の基礎を作り、その技法が津田家に伝承されています。この人形は、金沢の風土にある「侘び・寂び」の精神に通じる気品の高い人形として高い評価を博しています。 <br />ショップのHPです。<br />http://asanogawayosihisa.com/

    浅の川 吉久
    浅野川大橋の袂にあるショップで、金沢の希少伝統工芸「水引細工」のヘアバンドとストラップを買い求めました。
    日本の伝統的なラッピングである水引の3つの基本「包む」「結ぶ」「筆字」を芸術の域にまで押し上げたものです。水引飾りは、古来より「結ぶ」「繋ぐ」という意味を持ち、縁起物として多岐に渡り使用されてきました。このショップでは、カジュアルに使えるように現代風にアレンジされた商品ラインナップが豊富です。

    水引細工の元となる水引は、和紙を紙縒り(こより)状にしたものです。水引の語源は、麻などを水に浸して皮を剥ぎ、紐にしたのが由来とされ、紙の発達に合わせて水引が誕生しました。江戸時代には、武士や町人など髪結いの材料として使われるなど日常的に使われていたそうです。大正時代初期、津田左右吉が立体的な和紙の包み方(折型)と鶴亀や松竹梅などの立体的な水引の結び方(水引細工)を考案し、結納や金封に飾るようになりました。また、屠蘇につける蝶からヒントを得て内裏雛を考案し、水引人形の基礎を作り、その技法が津田家に伝承されています。この人形は、金沢の風土にある「侘び・寂び」の精神に通じる気品の高い人形として高い評価を博しています。
    ショップのHPです。
    http://asanogawayosihisa.com/

  • 主計町(かずえまち) 久保市乙剣宮 (くぼいちおとつるぎぐう) <br />ひがし茶屋街を離れ、浅野川大橋を渡って主計町へやってきました。<br />「久保市さん」の愛称で親しまれ、祭神にスサノオノミコトを祀る古社です。<br />古記に「日神 三剣を嚼みて三神を化生す。其の一は…其の三は久保市の乙剣宮と言えり」とあり、平安時代初期には「乙剣大明神」と称し、加賀国小坂荘久保市村の産土神として創建されたと伝えられています。勝運(難関突破)や縁結び、商売繁盛のご利益があります。<br />また、この一帯は、金沢発祥の地と言われています。中世の頃、門前に北加賀地方の中心的市場が形成され、ここから金沢の町が形造られていきました。それ故、この神社は金沢の「市場発祥の地」、「まち発祥の地」、特に「商売繁盛・発展の神様」として崇敬されています。<br />明治時代の文豪 泉鏡花は、この神社の向かいで生まれ、境内が子供の頃の遊び場であったことから、鏡花所縁の神社として句碑が建てられています。

    主計町(かずえまち) 久保市乙剣宮 (くぼいちおとつるぎぐう)
    ひがし茶屋街を離れ、浅野川大橋を渡って主計町へやってきました。
    「久保市さん」の愛称で親しまれ、祭神にスサノオノミコトを祀る古社です。
    古記に「日神 三剣を嚼みて三神を化生す。其の一は…其の三は久保市の乙剣宮と言えり」とあり、平安時代初期には「乙剣大明神」と称し、加賀国小坂荘久保市村の産土神として創建されたと伝えられています。勝運(難関突破)や縁結び、商売繁盛のご利益があります。
    また、この一帯は、金沢発祥の地と言われています。中世の頃、門前に北加賀地方の中心的市場が形成され、ここから金沢の町が形造られていきました。それ故、この神社は金沢の「市場発祥の地」、「まち発祥の地」、特に「商売繁盛・発展の神様」として崇敬されています。
    明治時代の文豪 泉鏡花は、この神社の向かいで生まれ、境内が子供の頃の遊び場であったことから、鏡花所縁の神社として句碑が建てられています。

  • 主計町 久保市乙剣宮<br />鳥居の脇には、「うつくしや鶯 あけの明星に」の鏡花の句碑が佇んでいます。<br /><br />金沢の地名の由来をご存知でしょうか?定説では「芋掘り藤五郎が芋を掘っていて見つけた砂金を洗った金城霊沢」とされていますが、実際はそれほど単純ではありません。由来の定説でもあり民俗学的な知見となる『芋掘り藤五郎』の話は、『藤五物語』や『越登賀三州志』などにも記されています。<br />「昔、山科の里に藤五郎という世捨て人が住んでいた。加賀の介藤原吉信公の子孫とされたが、山芋を掘り、それで生計を立てていたため芋掘り藤五郎と呼ばれた。ある日、和泉の初瀬という里から観音様のお告げを受けた信心深い娘が財宝を携えて藤五郎のもとに嫁いできたが、藤五郎は貧しい人々にその財宝を分け与えてしまった。さらに妻の父方から贈られた一包の砂金も、田の雁に投げつけて家に帰ってきた。驚く妻に藤五郎は、「砂金など芋を掘る山にいくらでもある」と話した。藤五郎が砂金を洗った沢は、その後「金洗いの沢」と呼ばれるようになったとさ」というお話です。<br />しかし柳田国男氏の弟子 長岡博男氏は、次のように述べています。<br />『芋掘り藤五郎』は「炭焼き長者系の伝説」と同じであり、全国に46話以上の類がある。従って、この伝説が石川県の金沢の地名の起源を特定するとは言えない。一方、全国にある金沢という地名18箇所を調べると、その2/3は金と関係がある。この金沢も市街を貫流する犀川の上流には倉谷鉱山があり金を産出したし、犀川の河底から砂金を採取していたこともある。このことから考えても金沢の地名の生まれをおおよそ憶測できる。この金沢の地名に、他から来た「炭焼長者の伝説」が付着して『芋掘り藤五郎』に転化したのではないか。鉱山で富鉱を「イモ」といい、この「イモ」を掘ることと伝説の芋を掘ることが結び付き、金沢という名が生まれた。

    主計町 久保市乙剣宮
    鳥居の脇には、「うつくしや鶯 あけの明星に」の鏡花の句碑が佇んでいます。

    金沢の地名の由来をご存知でしょうか?定説では「芋掘り藤五郎が芋を掘っていて見つけた砂金を洗った金城霊沢」とされていますが、実際はそれほど単純ではありません。由来の定説でもあり民俗学的な知見となる『芋掘り藤五郎』の話は、『藤五物語』や『越登賀三州志』などにも記されています。
    「昔、山科の里に藤五郎という世捨て人が住んでいた。加賀の介藤原吉信公の子孫とされたが、山芋を掘り、それで生計を立てていたため芋掘り藤五郎と呼ばれた。ある日、和泉の初瀬という里から観音様のお告げを受けた信心深い娘が財宝を携えて藤五郎のもとに嫁いできたが、藤五郎は貧しい人々にその財宝を分け与えてしまった。さらに妻の父方から贈られた一包の砂金も、田の雁に投げつけて家に帰ってきた。驚く妻に藤五郎は、「砂金など芋を掘る山にいくらでもある」と話した。藤五郎が砂金を洗った沢は、その後「金洗いの沢」と呼ばれるようになったとさ」というお話です。
    しかし柳田国男氏の弟子 長岡博男氏は、次のように述べています。
    『芋掘り藤五郎』は「炭焼き長者系の伝説」と同じであり、全国に46話以上の類がある。従って、この伝説が石川県の金沢の地名の起源を特定するとは言えない。一方、全国にある金沢という地名18箇所を調べると、その2/3は金と関係がある。この金沢も市街を貫流する犀川の上流には倉谷鉱山があり金を産出したし、犀川の河底から砂金を採取していたこともある。このことから考えても金沢の地名の生まれをおおよそ憶測できる。この金沢の地名に、他から来た「炭焼長者の伝説」が付着して『芋掘り藤五郎』に転化したのではないか。鉱山で富鉱を「イモ」といい、この「イモ」を掘ることと伝説の芋を掘ることが結び付き、金沢という名が生まれた。

  • 主計町 暗がり坂<br />主計町の見所には、2つの坂が挙げられます。<br />金沢市は3つの台地に犀川と浅野川が組み合わさってできた高低差のある複雑な地形ゆえ、数多くの坂があります。これら2つの坂は主計町茶屋街へ通じる趣のある小路で、坂道自体あるいはその上と下で雰囲気の違いを愉しむことができます。<br />

    主計町 暗がり坂
    主計町の見所には、2つの坂が挙げられます。
    金沢市は3つの台地に犀川と浅野川が組み合わさってできた高低差のある複雑な地形ゆえ、数多くの坂があります。これら2つの坂は主計町茶屋街へ通じる趣のある小路で、坂道自体あるいはその上と下で雰囲気の違いを愉しむことができます。

  • 主計町 暗がり坂<br />久保市乙剣宮境内から主計町茶屋街に通じる小路を指し、日中も日の当たらない薄暗い坂道でひっそりとしているため、この名があります。<br />「暗闇坂(くらがりざか)」とも呼ばれ、命名者はかの泉鏡花です。『まるめろに目鼻のつく話』に「坂とは言わず穴のような崕、暗闇坂と…」と認めており、言い得て妙です。因みにまるめろとは、カリンのことです。また、小説『照葉狂言』には、「わが居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上りの小路なり」と紹介しています。<br /><br />度々、鏡花を引き合いに出しているため、鏡花ファンと思われているかもしれませんが、そうではありません。鏡花との出会いは、中学2年の時でした。たまたま読んだ『高野聖』の読書感想文がコンクールで入賞し、よせばいいに担任の先生の意向でその感想文が給食の時間に校内放送で朗読されたのです。内容は、どこがクライマックスか判らないほど、ワクワク・ドキドキしながら一気に読み上げたといった感じのものだったと思います。ですから思春期のインパクトのある思い出として今でも忘れられない存在になっています。当時は、この年代で鏡花を読むような輩は珍しかったこともあり、複雑な思いでした。しかしこれが「いじめ」の対象にならなかったのは、今の時代とは違う点です。

    主計町 暗がり坂
    久保市乙剣宮境内から主計町茶屋街に通じる小路を指し、日中も日の当たらない薄暗い坂道でひっそりとしているため、この名があります。
    「暗闇坂(くらがりざか)」とも呼ばれ、命名者はかの泉鏡花です。『まるめろに目鼻のつく話』に「坂とは言わず穴のような崕、暗闇坂と…」と認めており、言い得て妙です。因みにまるめろとは、カリンのことです。また、小説『照葉狂言』には、「わが居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上りの小路なり」と紹介しています。

    度々、鏡花を引き合いに出しているため、鏡花ファンと思われているかもしれませんが、そうではありません。鏡花との出会いは、中学2年の時でした。たまたま読んだ『高野聖』の読書感想文がコンクールで入賞し、よせばいいに担任の先生の意向でその感想文が給食の時間に校内放送で朗読されたのです。内容は、どこがクライマックスか判らないほど、ワクワク・ドキドキしながら一気に読み上げたといった感じのものだったと思います。ですから思春期のインパクトのある思い出として今でも忘れられない存在になっています。当時は、この年代で鏡花を読むような輩は珍しかったこともあり、複雑な思いでした。しかしこれが「いじめ」の対象にならなかったのは、今の時代とは違う点です。

  • 主計町 暗がり坂<br />僅か15段の石段に過ぎませんが、階段を降りていくと緩やかに蛇行しているため、ドラマチックに視界が順次開けていきます。鏡花が子ども心に穴と見立てた不気味な墜落感がこちらにも伝播してきます。鏡花はここを通って学校に行ったそうで、鏡花の作品の原点を見るような坂道です。こうした場所で幼少の頃から培った感性が、おどろおどろしくも幻想的な作品群を創生したのでしょう。<br />正直な感想を言えば、坂自体は周りが多少開けており、それほど暗くは感じません。ただし、坂を下り切った先の路地が艶めかしい弁柄色や鬱蒼とした樹木と相俟って闇に包まれており、想像を逞しくすれば、何か胡乱なものが蠢いているような気がしないでもありません。鏡花並の想像力があれば、何かインスピレーションを戴けるかもしれません。

    主計町 暗がり坂
    僅か15段の石段に過ぎませんが、階段を降りていくと緩やかに蛇行しているため、ドラマチックに視界が順次開けていきます。鏡花が子ども心に穴と見立てた不気味な墜落感がこちらにも伝播してきます。鏡花はここを通って学校に行ったそうで、鏡花の作品の原点を見るような坂道です。こうした場所で幼少の頃から培った感性が、おどろおどろしくも幻想的な作品群を創生したのでしょう。
    正直な感想を言えば、坂自体は周りが多少開けており、それほど暗くは感じません。ただし、坂を下り切った先の路地が艶めかしい弁柄色や鬱蒼とした樹木と相俟って闇に包まれており、想像を逞しくすれば、何か胡乱なものが蠢いているような気がしないでもありません。鏡花並の想像力があれば、何かインスピレーションを戴けるかもしれません。

  • 主計町 暗がり坂<br />主計町茶屋街はかつては花街であり、この坂は旦那衆が人目を避けて花街に通った小路とも言われ、源氏が平家を奇襲した戦跡になぞらえて「ひよどり越え」とも呼ばれたそうです。坂の下であえなく討ち死にした旦那衆も多かったのでは…。<br />実際に「人目を避ける」という言葉がしっくりくる狭い坂道であり、下から仰ぎ見ると異世界へと導く秘密の階段のようにも思えます。このように映ってしまうのは、恐らく命名者 泉鏡花のフィルタがかけられているからなのでしょう。何事も色眼鏡を通して見るのは避けたいものです。

    主計町 暗がり坂
    主計町茶屋街はかつては花街であり、この坂は旦那衆が人目を避けて花街に通った小路とも言われ、源氏が平家を奇襲した戦跡になぞらえて「ひよどり越え」とも呼ばれたそうです。坂の下であえなく討ち死にした旦那衆も多かったのでは…。
    実際に「人目を避ける」という言葉がしっくりくる狭い坂道であり、下から仰ぎ見ると異世界へと導く秘密の階段のようにも思えます。このように映ってしまうのは、恐らく命名者 泉鏡花のフィルタがかけられているからなのでしょう。何事も色眼鏡を通して見るのは避けたいものです。

  • 主計町 暗がり坂<br />坂を下りきると、そこには昔ながらの料亭やお茶屋が軒を連ねています。<br />弁柄の朱色がなんとも艶かしく思うのは当方だけでしょうか? <br />子どもだった鏡花にとっては、色彩的にも音響的にもここが自分の世界の全てだったに違いありません。そして屋敷の内側に蠢くのは、自分たちとは異質の魔界人たちであることを子供心に悟っていたことでしょう。<br />

    主計町 暗がり坂
    坂を下りきると、そこには昔ながらの料亭やお茶屋が軒を連ねています。
    弁柄の朱色がなんとも艶かしく思うのは当方だけでしょうか? 
    子どもだった鏡花にとっては、色彩的にも音響的にもここが自分の世界の全てだったに違いありません。そして屋敷の内側に蠢くのは、自分たちとは異質の魔界人たちであることを子供心に悟っていたことでしょう。

  • 主計町 かーふコレクション<br />暗がり坂を下った路地の一画にあります。<br />故クリフトン・カーフ氏が12年間暮らした住居兼アトリエです。現在は、ギャラリーになっています。米国ミネソタ州ダルーズに生まれ、1955年以降は日本で暮らしながら風景や建物を描き続けました。氏が描く優美で、壮大で、洒脱な作品には、国内外に多くのファンがおられます。<br />入口の扉にあしらわれているのは、ウサギです。実は、クリフトン氏が生まれたのは、卯年だったそうです。<br />ギャラリーのHPです。<br />http://cw-karhu.jp/g_outline/index.html<br /><br />ウサギ繋がりで、ウサギ・コレクターとして有数の泉鏡花を紹介いたします。<br />鏡花が生涯に亘って百を超えるウサギの置物等を集めるきっかけとなったのは、彼が9歳の時に亡くなった最愛の母が、「鏡花の向かい干支に当たるウサギのものを集めると縁起が良い」として水晶のウサギの置物をお守りに授けたことでした。<br />ところで、明治時代には空前のウサギ・ブームがあったようです。現在の犬や猫のペットと同じように、ウサギが沢山飼われていたことには吃驚ポンです。

    主計町 かーふコレクション
    暗がり坂を下った路地の一画にあります。
    故クリフトン・カーフ氏が12年間暮らした住居兼アトリエです。現在は、ギャラリーになっています。米国ミネソタ州ダルーズに生まれ、1955年以降は日本で暮らしながら風景や建物を描き続けました。氏が描く優美で、壮大で、洒脱な作品には、国内外に多くのファンがおられます。
    入口の扉にあしらわれているのは、ウサギです。実は、クリフトン氏が生まれたのは、卯年だったそうです。
    ギャラリーのHPです。
    http://cw-karhu.jp/g_outline/index.html

    ウサギ繋がりで、ウサギ・コレクターとして有数の泉鏡花を紹介いたします。
    鏡花が生涯に亘って百を超えるウサギの置物等を集めるきっかけとなったのは、彼が9歳の時に亡くなった最愛の母が、「鏡花の向かい干支に当たるウサギのものを集めると縁起が良い」として水晶のウサギの置物をお守りに授けたことでした。
    ところで、明治時代には空前のウサギ・ブームがあったようです。現在の犬や猫のペットと同じように、ウサギが沢山飼われていたことには吃驚ポンです。

  • 主計町 主計町茶屋街<br />主計町茶屋街は、にし茶屋街、ひがし茶屋街と並ぶ、金沢の3大茶屋街として知られています。<br />町名は、大坂冬の陣・夏の陣で活躍した加賀藩士 富田主計の上屋敷があったことに由来します。主計町は住居表示で一旦は消滅した地名ですが、敗者復活したという珍しい町名です。<br />ひがし茶屋街に比べ、こぢんまりまとまっており、観光客の数も疎らですので本質に近い金沢の茶屋街風情が味わえるスポットかもしれません。ひがし茶屋街とはまた違った趣のある路地です。<br />因みに町名の由来となった富田主計は、禄高1万石余の人持組頭で、豊臣政権下の五大老の一人 宇喜多秀家の息女(前田利家の孫)を正室とした人物です。

    主計町 主計町茶屋街
    主計町茶屋街は、にし茶屋街、ひがし茶屋街と並ぶ、金沢の3大茶屋街として知られています。
    町名は、大坂冬の陣・夏の陣で活躍した加賀藩士 富田主計の上屋敷があったことに由来します。主計町は住居表示で一旦は消滅した地名ですが、敗者復活したという珍しい町名です。
    ひがし茶屋街に比べ、こぢんまりまとまっており、観光客の数も疎らですので本質に近い金沢の茶屋街風情が味わえるスポットかもしれません。ひがし茶屋街とはまた違った趣のある路地です。
    因みに町名の由来となった富田主計は、禄高1万石余の人持組頭で、豊臣政権下の五大老の一人 宇喜多秀家の息女(前田利家の孫)を正室とした人物です。

  • 主計町茶屋街 主計町料亭組合事務所<br />暗がり坂を降りた所に建つのが主計町料亭組合事務所、かつての検番です。<br />下階には木虫籠が施され、上階の窓が張り出す純和風の茶屋建築の建物で、照葉さくらや暗がり坂の石段とマッチして昭和時代初期の浪漫小説のような風情を醸しています。<br />茶屋街にはこうした検番という事務所が置かれ、芸妓たちの風紀を取り締まっていました。芸妓たちが廓の外に出る時には許可を得ることが義務付けられており、検番から指定用紙をもらって所轄の警察署に届け出たそうです。ですから検番は、それぞれの茶屋街の一番端に位置しています。<br />この先の路地は行き止まりのように見えますが、クランクになっており、右に折れれば河畔通りに出ることができます。

    主計町茶屋街 主計町料亭組合事務所
    暗がり坂を降りた所に建つのが主計町料亭組合事務所、かつての検番です。
    下階には木虫籠が施され、上階の窓が張り出す純和風の茶屋建築の建物で、照葉さくらや暗がり坂の石段とマッチして昭和時代初期の浪漫小説のような風情を醸しています。
    茶屋街にはこうした検番という事務所が置かれ、芸妓たちの風紀を取り締まっていました。芸妓たちが廓の外に出る時には許可を得ることが義務付けられており、検番から指定用紙をもらって所轄の警察署に届け出たそうです。ですから検番は、それぞれの茶屋街の一番端に位置しています。
    この先の路地は行き止まりのように見えますが、クランクになっており、右に折れれば河畔通りに出ることができます。

  • 主計町茶屋街 主計町料亭組合事務所<br />事務所から反対側の路地を見渡した様子です。<br />この先の右手にある細い路地の先に「あかり坂」が潜んでいます。

    主計町茶屋街 主計町料亭組合事務所
    事務所から反対側の路地を見渡した様子です。
    この先の右手にある細い路地の先に「あかり坂」が潜んでいます。

  • 主計町 あかり坂<br />表通りを折れると忽然と日中でも仄暗い裏通りが現れます。この裏通りこそ主計町の魅力の真骨頂です。何処からともなく笛や太鼓の音が幽かに聞こえ、まるで異世界に通じる秘密の通路のようです。<br />狭い路地を進むとさらに狭い路地があり、その先に口を開けて待ち受けているのが「あかり坂」です。こんなに暗く狭い路地に彷徨い込んでも大丈夫かと、躊躇する気持ちが芽生えるほどです。<br />このように路地も狭く、背丈の高い建物がひしめいているため、本当に仄暗い路地です。印象的には「暗がり坂」より暗く感じます。

    主計町 あかり坂
    表通りを折れると忽然と日中でも仄暗い裏通りが現れます。この裏通りこそ主計町の魅力の真骨頂です。何処からともなく笛や太鼓の音が幽かに聞こえ、まるで異世界に通じる秘密の通路のようです。
    狭い路地を進むとさらに狭い路地があり、その先に口を開けて待ち受けているのが「あかり坂」です。こんなに暗く狭い路地に彷徨い込んでも大丈夫かと、躊躇する気持ちが芽生えるほどです。
    このように路地も狭く、背丈の高い建物がひしめいているため、本当に仄暗い路地です。印象的には「暗がり坂」より暗く感じます。

  • 主計町 あかり坂<br />2008年頃までは「無名坂」だったそうですが、地元住民から依頼を受けて金沢所縁の作家 五木寛之氏が作中で泉鏡花の研究家にこの坂の名を命名させました。<br />『金沢あかり坂』の一節には、竹久夢二が絵のモデルにしたお葉のような芸妓 高山凛からイメージした名として、「暗と明。泉鏡花にはあけの明星をよんだ句があります。そこで、あかり坂。よし、これできまった」と語らせています。

    主計町 あかり坂
    2008年頃までは「無名坂」だったそうですが、地元住民から依頼を受けて金沢所縁の作家 五木寛之氏が作中で泉鏡花の研究家にこの坂の名を命名させました。
    『金沢あかり坂』の一節には、竹久夢二が絵のモデルにしたお葉のような芸妓 高山凛からイメージした名として、「暗と明。泉鏡花にはあけの明星をよんだ句があります。そこで、あかり坂。よし、これできまった」と語らせています。

  • 主計町 あかり坂<br />坂の登口には標柱があり、そこに五木氏の言葉が刻まれています。<br />「暗い夜のなかに明かりをともすような美しい作品を書いた鏡花を偲んで、あかり坂と名づけた。あかり坂は、また、上がり坂の意(こころ)でもある」。<br />「暗がり坂」より明るいから「あかり坂」と称したのではなく、暗い中に明かりを灯すとの志を示す命名と解釈できます。<br />実感としては「暗がり坂」より暗い印象ですが、ネーミングの影響なのか「あかり坂」の方を明るく感じてしまう人が多いそうです。

    主計町 あかり坂
    坂の登口には標柱があり、そこに五木氏の言葉が刻まれています。
    「暗い夜のなかに明かりをともすような美しい作品を書いた鏡花を偲んで、あかり坂と名づけた。あかり坂は、また、上がり坂の意(こころ)でもある」。
    「暗がり坂」より明るいから「あかり坂」と称したのではなく、暗い中に明かりを灯すとの志を示す命名と解釈できます。
    実感としては「暗がり坂」より暗い印象ですが、ネーミングの影響なのか「あかり坂」の方を明るく感じてしまう人が多いそうです。

  • 主計町 あかり坂<br />『金沢あかり坂』では、主人公の芸妓 高木凛は、父親から「あの坂をとおること、ならん」とたしなめられ、30歳を過ぎるまでその教えを守りました。こうした一昔前の生活観を馳せながら坂をゆっくりと登れば、感慨も深まるかもしれません。<br />

    主計町 あかり坂
    『金沢あかり坂』では、主人公の芸妓 高木凛は、父親から「あの坂をとおること、ならん」とたしなめられ、30歳を過ぎるまでその教えを守りました。こうした一昔前の生活観を馳せながら坂をゆっくりと登れば、感慨も深まるかもしれません。

  • 主計町 あかり坂<br />五木氏の小説は次のように結んでいます。<br />「あかり坂は、あがり坂ー」。そうつぶやきながら、凛は坂の石段を一歩ずつのぼっていった。<br />是非「あかり坂」を登られることをお勧めします。<br /><br />

    主計町 あかり坂
    五木氏の小説は次のように結んでいます。
    「あかり坂は、あがり坂ー」。そうつぶやきながら、凛は坂の石段を一歩ずつのぼっていった。
    是非「あかり坂」を登られることをお勧めします。

  • 主計町 あかり坂<br />このように坂道の途中も両脇が迫っているため太陽の位置関係によっては暗い感じになるのだと思われます。<br />しかし、その分、登り切ると一気に周りが開け、今までの暗さとのギャップで一段と明るく感じられます。その意味で「あかり坂」とは、言い得て妙です。

    主計町 あかり坂
    このように坂道の途中も両脇が迫っているため太陽の位置関係によっては暗い感じになるのだと思われます。
    しかし、その分、登り切ると一気に周りが開け、今までの暗さとのギャップで一段と明るく感じられます。その意味で「あかり坂」とは、言い得て妙です。

  • 主計町 あかり坂<br />階段の先に伸びる、薄暗く、狭い路地の臨場感が伝わるでしょうか?

    主計町 あかり坂
    階段の先に伸びる、薄暗く、狭い路地の臨場感が伝わるでしょうか?

  • 主計町茶屋街<br />メインストリートは、浅野川に面しています。男川と喩えられる犀川に対し、女川とも呼びならわされた浅野川のたおやかな風情と相俟って、清明な雰囲気の漂う茶屋街です。<br />現在の浅野川沿いには、カフェ、お茶屋、料亭などが建ち並んでいます。<br />

    主計町茶屋街
    メインストリートは、浅野川に面しています。男川と喩えられる犀川に対し、女川とも呼びならわされた浅野川のたおやかな風情と相俟って、清明な雰囲気の漂う茶屋街です。
    現在の浅野川沿いには、カフェ、お茶屋、料亭などが建ち並んでいます。

  • 主計町茶屋街<br />名残を惜しんでもう一度振り返ります。<br /><br />ひがし茶屋街のレンタサイクル「まちのり」の駐輪台数をスマホでチェックすると、残り2台になっています。万が一を考えてバスで金沢駅へ向かっても間に合うように時間に余裕を持たせていましたが、実のところ少し焦りました。ひがし茶屋街に到着した時には、駐輪場は満車状態に近かったため、油断していました。<br />しかし無事に自転車をキープでき、金沢駅までは10分強のサイクリングです。

    主計町茶屋街
    名残を惜しんでもう一度振り返ります。

    ひがし茶屋街のレンタサイクル「まちのり」の駐輪台数をスマホでチェックすると、残り2台になっています。万が一を考えてバスで金沢駅へ向かっても間に合うように時間に余裕を持たせていましたが、実のところ少し焦りました。ひがし茶屋街に到着した時には、駐輪場は満車状態に近かったため、油断していました。
    しかし無事に自転車をキープでき、金沢駅までは10分強のサイクリングです。

  • JR金沢駅 鼓門<br />無事、金沢駅に到着です。<br /><br />前田家御殿には御細工所と呼ばれる工房が設けられ、幕末まで維持されてきました。御細工所は元々武具の修理が任務でしたが、転じて城中の様々な調度、什器に携わる職人工房となっていきました。<br />5代藩主 綱紀の治世は長く、新井白石に「加賀は天下の書府」と言わしめるまでの文化工芸の隆盛を見ました。時代が下り12代藩主 斉広は現在の兼六園の中央に竹澤御殿を造りました。御細工所の全ての職人がここぞとばかりに腕を奮ったことは火を見るより明らかです。<br />その伝統を現代に映したのがこの「鼓門」と言えます。

    JR金沢駅 鼓門
    無事、金沢駅に到着です。

    前田家御殿には御細工所と呼ばれる工房が設けられ、幕末まで維持されてきました。御細工所は元々武具の修理が任務でしたが、転じて城中の様々な調度、什器に携わる職人工房となっていきました。
    5代藩主 綱紀の治世は長く、新井白石に「加賀は天下の書府」と言わしめるまでの文化工芸の隆盛を見ました。時代が下り12代藩主 斉広は現在の兼六園の中央に竹澤御殿を造りました。御細工所の全ての職人がここぞとばかりに腕を奮ったことは火を見るより明らかです。
    その伝統を現代に映したのがこの「鼓門」と言えます。

  • JR金沢駅<br />2015年に延伸開業した北陸新幹線と北陸本線、IRいしかわ鉄道のIRいしかわ鉄道線が乗り入れています。また七尾線の列車も津幡駅からIRいしかわ鉄道線経由で乗り入れています。<br />

    JR金沢駅
    2015年に延伸開業した北陸新幹線と北陸本線、IRいしかわ鉄道のIRいしかわ鉄道線が乗り入れています。また七尾線の列車も津幡駅からIRいしかわ鉄道線経由で乗り入れています。

  • JR金沢駅 金沢百番街「あんと」 金沢蒐集館「上坂」<br />金沢駅でお土産を買ったり、グルメを愉しむならリニューアルオープンした「あんと」がお勧めです。和菓子をはじめ山海の幸や地酒、工芸品など、加賀や能登の特産品が一堂に揃う、金沢随一の名店街です。「あんと」と言う名は、甘いもの好きの「ANT(あり)」にあやかったのかと思っていましたが、 「ありがとう」を意味する金沢の方言「あんやと」が由来だそうです。<br />向かった先は、金沢蒐集館「上坂」です。<br />ここのお土産の定番は、純金箔入「あぶらとり紙」です。手前左側に陳列されています。

    JR金沢駅 金沢百番街「あんと」 金沢蒐集館「上坂」
    金沢駅でお土産を買ったり、グルメを愉しむならリニューアルオープンした「あんと」がお勧めです。和菓子をはじめ山海の幸や地酒、工芸品など、加賀や能登の特産品が一堂に揃う、金沢随一の名店街です。「あんと」と言う名は、甘いもの好きの「ANT(あり)」にあやかったのかと思っていましたが、 「ありがとう」を意味する金沢の方言「あんやと」が由来だそうです。
    向かった先は、金沢蒐集館「上坂」です。
    ここのお土産の定番は、純金箔入「あぶらとり紙」です。手前左側に陳列されています。

  • JR金沢駅 金沢百番街「あんと」 金沢蒐集館「上坂」<br />尾山神社のお隣にある加賀てまり「毬屋」さんの「ゆびぬき」が欲しかったのですが、ついうっかりして買いそびれてしまいました。<br />「上坂」さんにもゆびぬきがあると聞き、訪ねてみました。ゆびぬきも魅力的だったのですが、一目見て「ビビビ!」ときた、こちらの「加賀八幡起き上り」を即決しました。伝統の加賀手毬の工法で作られた、滅多に店頭にでないものだそうです。石川県の公式マスコットキャラクター(ゆるキャラ)「ひゃくまんさん」にあやかれたらいいですね!<br />因みに「ひゃくまんさん」は、元々は北陸新幹線の金沢駅開業をPRするために誕生したキャラクターです。しかし決定の際には県議会で「かわいくない」とか「だるまに似た姿から石川を連想するのは難しい」など批判や疑問の声が挙がったそうです。しかし谷本県知事は、「期待や関心が寄せられている。せんとくんの例もあり、奇抜なデザインでいい」と毅然とした態度で瞬殺したそうです。こんな時の引合いに出されるとは、「せんとくん」も有名になったものです。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    JR金沢駅 金沢百番街「あんと」 金沢蒐集館「上坂」
    尾山神社のお隣にある加賀てまり「毬屋」さんの「ゆびぬき」が欲しかったのですが、ついうっかりして買いそびれてしまいました。
    「上坂」さんにもゆびぬきがあると聞き、訪ねてみました。ゆびぬきも魅力的だったのですが、一目見て「ビビビ!」ときた、こちらの「加賀八幡起き上り」を即決しました。伝統の加賀手毬の工法で作られた、滅多に店頭にでないものだそうです。石川県の公式マスコットキャラクター(ゆるキャラ)「ひゃくまんさん」にあやかれたらいいですね!
    因みに「ひゃくまんさん」は、元々は北陸新幹線の金沢駅開業をPRするために誕生したキャラクターです。しかし決定の際には県議会で「かわいくない」とか「だるまに似た姿から石川を連想するのは難しい」など批判や疑問の声が挙がったそうです。しかし谷本県知事は、「期待や関心が寄せられている。せんとくんの例もあり、奇抜なデザインでいい」と毅然とした態度で瞬殺したそうです。こんな時の引合いに出されるとは、「せんとくん」も有名になったものです。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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