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金沢城の成り立ちは、大坂城とほぼ同じ軌跡を辿っています。豊臣秀吉が築いた大坂城は石山本願寺の跡地ですが、前田利家が構築した金沢城も1546(天文15)年に建てられた要塞 金沢御堂(尾山御坊)の跡地に建てられました。往時の加賀は、朝倉氏が滅亡し、一向一揆に代表される一向宗徒が台頭した国であり、金沢御堂は宗教施設でもあり、政治・軍事拠点でもありました。短直に言えば、金沢城は加賀一向一揆の拠点だった寺院の跡地に造られたもので、寺院から城郭への変貌と言えます。<br />織田信長の命により柴田勝家の甥に当たる家臣 佐久間信盛が一向宗徒を殲滅し、金沢御堂を改築したのが金沢城のはじまりです。しかし本能寺の変の後、信長の後継者を巡る賤ケ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ、佐久間信盛も斬首されました。利家も最初は勝家に味方したのですが、先見の明があるのか突如戦線を離脱(美濃返し)したのが奏功しました。やがて秀吉の命で利家が加賀藩の領主となり、1583(天正11)年に金沢城を改修し、家督を相続した利長が関ケ原の戦いで徳川方につき、その報償として加賀、能登、越中を治める大大名となりました。<br />城郭として整備される過程では、秀吉のキリシタン棄教令を拒んで領地を没収され流浪していた縄張りの名手 高山右近を客将として招き、右近が築城に尽力しました。しかし、1602年には早々に5重の天守閣が落雷で焼失し、それ以後、天守閣は造られていません。財政的に疲弊していたのと天守を再建して幕府に睨まれるのを避けたためとも言われています。因みに金沢城が最近の天守閣復元ブームに乗り切れていないのは、資料が残されていないからです。度重なる火災により、石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫以外の建物は全て焼失しましたが、2001年には古絵図や古文書などを基に菱櫓や五十間長屋、橋爪門続櫓を忠実に復元し、安政の頃の景観を現代に蘇らせています。<br /><br />金沢城などのリーフレットがダウンロードできるサイトです。<br />http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/new/download/panfu.htm

問柳尋花 加賀紀行⑧金沢城址公園

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2017/06/01 - 2017/06/03

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

金沢城の成り立ちは、大坂城とほぼ同じ軌跡を辿っています。豊臣秀吉が築いた大坂城は石山本願寺の跡地ですが、前田利家が構築した金沢城も1546(天文15)年に建てられた要塞 金沢御堂(尾山御坊)の跡地に建てられました。往時の加賀は、朝倉氏が滅亡し、一向一揆に代表される一向宗徒が台頭した国であり、金沢御堂は宗教施設でもあり、政治・軍事拠点でもありました。短直に言えば、金沢城は加賀一向一揆の拠点だった寺院の跡地に造られたもので、寺院から城郭への変貌と言えます。
織田信長の命により柴田勝家の甥に当たる家臣 佐久間信盛が一向宗徒を殲滅し、金沢御堂を改築したのが金沢城のはじまりです。しかし本能寺の変の後、信長の後継者を巡る賤ケ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ、佐久間信盛も斬首されました。利家も最初は勝家に味方したのですが、先見の明があるのか突如戦線を離脱(美濃返し)したのが奏功しました。やがて秀吉の命で利家が加賀藩の領主となり、1583(天正11)年に金沢城を改修し、家督を相続した利長が関ケ原の戦いで徳川方につき、その報償として加賀、能登、越中を治める大大名となりました。
城郭として整備される過程では、秀吉のキリシタン棄教令を拒んで領地を没収され流浪していた縄張りの名手 高山右近を客将として招き、右近が築城に尽力しました。しかし、1602年には早々に5重の天守閣が落雷で焼失し、それ以後、天守閣は造られていません。財政的に疲弊していたのと天守を再建して幕府に睨まれるのを避けたためとも言われています。因みに金沢城が最近の天守閣復元ブームに乗り切れていないのは、資料が残されていないからです。度重なる火災により、石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫以外の建物は全て焼失しましたが、2001年には古絵図や古文書などを基に菱櫓や五十間長屋、橋爪門続櫓を忠実に復元し、安政の頃の景観を現代に蘇らせています。

金沢城などのリーフレットがダウンロードできるサイトです。
http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/new/download/panfu.htm

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス JR特急

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  • 石川橋<br />金沢城址公園は石川橋で兼六園と結ばれており、写真の正面にある石川門がメインゲートになります。橋の下は百間堀と言い、現在は道路が走っていますが、かつては濠でした。<br />1910(明治43)年に濠の道路化工事が着工され、百間堀の埋め立てに伴って高梁工事も進められ、堂々たるアーチ型の鉄筋コンクリート製「石川橋」が完成しました。翌年、百間堀の埋立工事は完了し、ほぼ現在と変わらない風景となったそうです。開通式は盛大に行われ、式典には2万人の市民が詰めかけたそうです。<br />その後、1919(大正8)年に市内を縦横無尽に市内電車が通るようになりますが、1976(昭和42)年に市電が廃止され、その後はバスや自動車が行き交う現在と変わらない道路となりました。

    石川橋
    金沢城址公園は石川橋で兼六園と結ばれており、写真の正面にある石川門がメインゲートになります。橋の下は百間堀と言い、現在は道路が走っていますが、かつては濠でした。
    1910(明治43)年に濠の道路化工事が着工され、百間堀の埋め立てに伴って高梁工事も進められ、堂々たるアーチ型の鉄筋コンクリート製「石川橋」が完成しました。翌年、百間堀の埋立工事は完了し、ほぼ現在と変わらない風景となったそうです。開通式は盛大に行われ、式典には2万人の市民が詰めかけたそうです。
    その後、1919(大正8)年に市内を縦横無尽に市内電車が通るようになりますが、1976(昭和42)年に市電が廃止され、その後はバスや自動車が行き交う現在と変わらない道路となりました。

  • 百間堀<br />⑥兼六園(後編)で紹介した、泉鏡花が入水自殺を図ろうとした百間堀です。<br />一説にはこの百間堀は一向一揆の尾山御坊を攻め落とした佐久間盛政が掘ったと伝えられていますが、正確なことは判っていないようです。しかし、金沢の街は何度も大火に遭いながら、百間堀と石川橋はほとんど姿を変えていないそうです。<br />日露戦争後に百間堀の埋め立ての話が具現化したのですが、特筆すべきは1907(明治40)年に本丸南側の石垣が幅65m、高さ19mに渡って崩落したことです。場所は現在の「いもり堀」周辺とされ、崩落は辰巳櫓辺りにまで達したそうです。<br />往時の北国新聞には、これに関した記事が載せられています。原因は2週間前に開始された「いもり堀」の埋立工事としています。陸軍が被服庫の建設のために堀を埋めようとし、誤って石垣を崩したのが発端だそうです。この石垣が絶妙なバランスを保って積まれていたことを裏付ける事故だと結んでいます。

    百間堀
    ⑥兼六園(後編)で紹介した、泉鏡花が入水自殺を図ろうとした百間堀です。
    一説にはこの百間堀は一向一揆の尾山御坊を攻め落とした佐久間盛政が掘ったと伝えられていますが、正確なことは判っていないようです。しかし、金沢の街は何度も大火に遭いながら、百間堀と石川橋はほとんど姿を変えていないそうです。
    日露戦争後に百間堀の埋め立ての話が具現化したのですが、特筆すべきは1907(明治40)年に本丸南側の石垣が幅65m、高さ19mに渡って崩落したことです。場所は現在の「いもり堀」周辺とされ、崩落は辰巳櫓辺りにまで達したそうです。
    往時の北国新聞には、これに関した記事が載せられています。原因は2週間前に開始された「いもり堀」の埋立工事としています。陸軍が被服庫の建設のために堀を埋めようとし、誤って石垣を崩したのが発端だそうです。この石垣が絶妙なバランスを保って積まれていたことを裏付ける事故だと結んでいます。

  • 石川門 一の門<br />金沢城を代表する門が石川門ですが、実は裏門です。搦手門(からめてもん)に当たる門であり、白門とも呼ばれています。櫓門の部分だけでなく、重厚な枡形を構成する櫓・長屋・櫓門・高麗門など8棟を総合して「石川門(重文)」と呼び、宝暦の大火の後、1788(天明8)年に再建されたものですが、現在の金沢城のシンボルと言えます。河北門・橋爪門と共に三御門と呼ばれました。<br />外側にある一の門は高麗門とし、扉には隙間なく鉄板が巻かれています。そして特徴的なのは、瓦を交互に敷き詰めた「なまこ壁」になっていることです。整然と並ぶ四角い瓦に白漆喰が塗られ、これは防火・防水や銃弾貫通防止などの機能美と言えるものです。

    石川門 一の門
    金沢城を代表する門が石川門ですが、実は裏門です。搦手門(からめてもん)に当たる門であり、白門とも呼ばれています。櫓門の部分だけでなく、重厚な枡形を構成する櫓・長屋・櫓門・高麗門など8棟を総合して「石川門(重文)」と呼び、宝暦の大火の後、1788(天明8)年に再建されたものですが、現在の金沢城のシンボルと言えます。河北門・橋爪門と共に三御門と呼ばれました。
    外側にある一の門は高麗門とし、扉には隙間なく鉄板が巻かれています。そして特徴的なのは、瓦を交互に敷き詰めた「なまこ壁」になっていることです。整然と並ぶ四角い瓦に白漆喰が塗られ、これは防火・防水や銃弾貫通防止などの機能美と言えるものです。

  • 石川門 石川櫓<br />高麗門の左側にあるのが二層櫓「石川櫓」です。緑青色の箇所は、「出し」と呼ばれる出格子窓です。出格子窓の底面は石落としの防衛機能を有していますが、そんな所にも唐破風や表面に銅板を貼るなど意匠を凝らして気品を湛えています。<br />また、ここの石垣は、文化年間(1803~16年)に加賀藩穴太 後藤彦三郎、小十郎親子の手で修築されました。「堀縁の石垣は粗く積む」のが作法と考え、本来なら石垣勾配に合わせて石を積むべきところ、意図的にずらして荒々しい表情の石垣に積み直したそうです。「場にふさわしい石垣造り」が往時の技術者の拘りだったようです。<br />今の世も同じですが、技術者に拘りや矜持が無ければ良いものは創れませんね!

    石川門 石川櫓
    高麗門の左側にあるのが二層櫓「石川櫓」です。緑青色の箇所は、「出し」と呼ばれる出格子窓です。出格子窓の底面は石落としの防衛機能を有していますが、そんな所にも唐破風や表面に銅板を貼るなど意匠を凝らして気品を湛えています。
    また、ここの石垣は、文化年間(1803~16年)に加賀藩穴太 後藤彦三郎、小十郎親子の手で修築されました。「堀縁の石垣は粗く積む」のが作法と考え、本来なら石垣勾配に合わせて石を積むべきところ、意図的にずらして荒々しい表情の石垣に積み直したそうです。「場にふさわしい石垣造り」が往時の技術者の拘りだったようです。
    今の世も同じですが、技術者に拘りや矜持が無ければ良いものは創れませんね!

  • 石川門 一の門<br />なまこ壁の裏側には対照的に鉄砲狭間が設けられ、そこから相手を攻撃する仕掛けです。しかし、表から見たなまこ壁には穴がありません。敵を欺くための工夫でもあり、いざという時には瓦を割って攻撃します。こうした鉄砲狭間を「隠し狭間」と言い、優美な姿の石川門が一変して戦闘的なものに見えてきます。<br />金沢城の見所のポイントは「石垣の美」と言われますが、建造物自体も独創的であり、前田家の美意識の高さには目を瞠るものがあります。欧州の教会や城郭は、ゴシック様式に代表されるように縦方向のラインを強調しています。それに対し金沢城は、高さのある天守閣がない分、横方向のラインを重んじたデザインが特徴です。特筆すべきはなまこ壁です。見た目だけでなく、なまこ壁を採用することで下見板張りよりも耐久性・耐水性が上がり、実益も兼ねた厳冬の地での創意工夫と考えられています。<br />また、美的センスの観点で言えば、建物の角に付された銅板で保護された黒い隅柱が縦のラインを引き締め、建物全体の優美さを際立たせています。こうした芸の細かさが、武を捨て文化の創造に注力することに藩の存続を賭した、前田家の覚悟の文化遺産と言われる所以です。<br />どこかの国の首相の意向で忖度された学校とは大違いです。

    石川門 一の門
    なまこ壁の裏側には対照的に鉄砲狭間が設けられ、そこから相手を攻撃する仕掛けです。しかし、表から見たなまこ壁には穴がありません。敵を欺くための工夫でもあり、いざという時には瓦を割って攻撃します。こうした鉄砲狭間を「隠し狭間」と言い、優美な姿の石川門が一変して戦闘的なものに見えてきます。
    金沢城の見所のポイントは「石垣の美」と言われますが、建造物自体も独創的であり、前田家の美意識の高さには目を瞠るものがあります。欧州の教会や城郭は、ゴシック様式に代表されるように縦方向のラインを強調しています。それに対し金沢城は、高さのある天守閣がない分、横方向のラインを重んじたデザインが特徴です。特筆すべきはなまこ壁です。見た目だけでなく、なまこ壁を採用することで下見板張りよりも耐久性・耐水性が上がり、実益も兼ねた厳冬の地での創意工夫と考えられています。
    また、美的センスの観点で言えば、建物の角に付された銅板で保護された黒い隅柱が縦のラインを引き締め、建物全体の優美さを際立たせています。こうした芸の細かさが、武を捨て文化の創造に注力することに藩の存続を賭した、前田家の覚悟の文化遺産と言われる所以です。
    どこかの国の首相の意向で忖度された学校とは大違いです。

  • 石川門 枡形虎口<br />枡形虎口の内部へ入ると、左右で積み方の異なる奇妙な石垣に遭遇します。右は端整な「切込みハギ」、左は少し荒い「打込みハギ」であり、同じ場所で積み方を違えている珍しい石垣です。両者とも1765(明和2)年の改修時の石積みですが、たまたま左側の石垣は大火で崩れなかったため、そのまま使ったようです。<br />左側の石垣には、刻印が見られます。刻印は石を削り出して運んだ担当者を示す印で、特に複数の大名家や家臣が関わった城郭でよく見られます。これは作業分担を示すために付けられたものです。

    石川門 枡形虎口
    枡形虎口の内部へ入ると、左右で積み方の異なる奇妙な石垣に遭遇します。右は端整な「切込みハギ」、左は少し荒い「打込みハギ」であり、同じ場所で積み方を違えている珍しい石垣です。両者とも1765(明和2)年の改修時の石積みですが、たまたま左側の石垣は大火で崩れなかったため、そのまま使ったようです。
    左側の石垣には、刻印が見られます。刻印は石を削り出して運んだ担当者を示す印で、特に複数の大名家や家臣が関わった城郭でよく見られます。これは作業分担を示すために付けられたものです。

  • 石川門 渡櫓満門(二の門)<br />石川門の見所と言えばこの巨大櫓門です。枡形虎口から見ると、端正な戸室産の切込みハギの石垣に威圧感たっぷりの鉄扉が敵を怯ませます。<br />唐破風付きの出格子窓も、金沢城のシンボル的存在です。石垣や櫓の壁面に設けられた出格子窓は、床面の石落としから石垣を登ってくる敵を攻撃するだけでなく、壁の左右にある小窓からも側面攻撃できる構造になっています。格調高い唐破風を付けた前田家の美意識の高さに感服させられます。<br />尚、「石川門」という名の由来は、この門が石川郡の方角を向いていたことに因みます。

    石川門 渡櫓満門(二の門)
    石川門の見所と言えばこの巨大櫓門です。枡形虎口から見ると、端正な戸室産の切込みハギの石垣に威圧感たっぷりの鉄扉が敵を怯ませます。
    唐破風付きの出格子窓も、金沢城のシンボル的存在です。石垣や櫓の壁面に設けられた出格子窓は、床面の石落としから石垣を登ってくる敵を攻撃するだけでなく、壁の左右にある小窓からも側面攻撃できる構造になっています。格調高い唐破風を付けた前田家の美意識の高さに感服させられます。
    尚、「石川門」という名の由来は、この門が石川郡の方角を向いていたことに因みます。

  • 石川門 渡櫓満門<br />櫓門を城内から見た様子です。<br />金沢城跡から、全国初の火縄銃の鍛冶場跡が発見されたそうです。場所は、石川門の櫓の裏付近とされ、鉄砲用の金具類や炉の跡などが発見されています。<br />加賀藩が幕末に藩財政の立て直しのため火縄を洋式銃に改造し、城内にその工房があった事は史料にあったため、その事実が確認されたということになります。<br />金沢城は現在でも発掘調査が進められており、新しい石垣が発見されるなど日々深化しています。

    石川門 渡櫓満門
    櫓門を城内から見た様子です。
    金沢城跡から、全国初の火縄銃の鍛冶場跡が発見されたそうです。場所は、石川門の櫓の裏付近とされ、鉄砲用の金具類や炉の跡などが発見されています。
    加賀藩が幕末に藩財政の立て直しのため火縄を洋式銃に改造し、城内にその工房があった事は史料にあったため、その事実が確認されたということになります。
    金沢城は現在でも発掘調査が進められており、新しい石垣が発見されるなど日々深化しています。

  • 石川門 渡櫓満門<br />石川門と三十間多聞長屋の屋根瓦もポイントです。一般的な土瓦ではなく、5代藩主 綱紀の時代に改修した際、鉛瓦に葺き替えています。うっすらと雪をかぶったように白銀色に輝いています。鉛は本来黒っぽい色ですが、空気中の二酸化炭素と反応して塩基性炭酸鉛、いわゆる鉛白を生じて白変します。それが太陽に反射して更に白く輝きを放ちます。<br />鉛瓦と言っても鉛製の瓦ではなく、瓦の形をした木板に厚さ1.8mmの鉛板を貼り付けています。鉛には少量の銅が添加され、それによって強度や硬度、耐酸性を高めています。<br />鉛瓦を使った理由には諸説あります。まず、「城の意匠として気品があるから」と言う説。往時の人たちは、最初は銀色に輝く鉛瓦が、時を経ると燻銀に輝き、渋くシックな風合いを醸すことを知っていたそうです。<br />もう一つは、「いざという時、鉛を弾丸として使うため」との説です。鉛を屋根瓦に使うことで、戦に備えて実益も兼ねるという考え方です。<br />最後が、「寒冷地ゆえ、土瓦では長持ちしないから」と言う説です。鉛瓦の芯に木板を用いたのは、屋根の総重量を軽減する工夫だそうです。<br />因みに江戸城にも鉛瓦が使われていたそうで、古文書には「鉛瓦を使用したのは名城の姿を壮美にするため」とあるそうです。<br />さて、どれが真意なのでしょう…。

    石川門 渡櫓満門
    石川門と三十間多聞長屋の屋根瓦もポイントです。一般的な土瓦ではなく、5代藩主 綱紀の時代に改修した際、鉛瓦に葺き替えています。うっすらと雪をかぶったように白銀色に輝いています。鉛は本来黒っぽい色ですが、空気中の二酸化炭素と反応して塩基性炭酸鉛、いわゆる鉛白を生じて白変します。それが太陽に反射して更に白く輝きを放ちます。
    鉛瓦と言っても鉛製の瓦ではなく、瓦の形をした木板に厚さ1.8mmの鉛板を貼り付けています。鉛には少量の銅が添加され、それによって強度や硬度、耐酸性を高めています。
    鉛瓦を使った理由には諸説あります。まず、「城の意匠として気品があるから」と言う説。往時の人たちは、最初は銀色に輝く鉛瓦が、時を経ると燻銀に輝き、渋くシックな風合いを醸すことを知っていたそうです。
    もう一つは、「いざという時、鉛を弾丸として使うため」との説です。鉛を屋根瓦に使うことで、戦に備えて実益も兼ねるという考え方です。
    最後が、「寒冷地ゆえ、土瓦では長持ちしないから」と言う説です。鉛瓦の芯に木板を用いたのは、屋根の総重量を軽減する工夫だそうです。
    因みに江戸城にも鉛瓦が使われていたそうで、古文書には「鉛瓦を使用したのは名城の姿を壮美にするため」とあるそうです。
    さて、どれが真意なのでしょう…。

  • 河北門 二の門<br />ここで少し寄り道をします。石川門を出て右前方に見える大きな門へ向かいます。<br />三の丸の北面に位置する渡櫓門形式の門です。外観は石川門とほぼ同じですが、高さ12.3m、幅27m、奥行き8mと一回り大きく、大手筋に置かれた正門に相応しい規模を誇ります。<br />石川門、橋爪門と共に三御門と呼ばれ、1584(天正12)に前田利家が河北門から末森城に出陣したとの伝説もあり、金沢城創建当初から存在し、参勤交代もここから出発したとされ、大手門の役割を担ったと考えられています。

    河北門 二の門
    ここで少し寄り道をします。石川門を出て右前方に見える大きな門へ向かいます。
    三の丸の北面に位置する渡櫓門形式の門です。外観は石川門とほぼ同じですが、高さ12.3m、幅27m、奥行き8mと一回り大きく、大手筋に置かれた正門に相応しい規模を誇ります。
    石川門、橋爪門と共に三御門と呼ばれ、1584(天正12)に前田利家が河北門から末森城に出陣したとの伝説もあり、金沢城創建当初から存在し、参勤交代もここから出発したとされ、大手門の役割を担ったと考えられています。

  • 河北門 二の門<br />1759(宝暦9)年の大火で焼失後、三御門の中では最も早く再建された門です。その後、1882(明治15)年頃に撤去されましたが、1772(安永元)年に再建されたデザインに基づいて2010年に復元されました。<br />江戸時代は弓奉行の管理下にあり、弓などの武具が収納されていたと推定されています。

    河北門 二の門
    1759(宝暦9)年の大火で焼失後、三御門の中では最も早く再建された門です。その後、1882(明治15)年頃に撤去されましたが、1772(安永元)年に再建されたデザインに基づいて2010年に復元されました。
    江戸時代は弓奉行の管理下にあり、弓などの武具が収納されていたと推定されています。

  • 河北門 二の門<br />枡形内部から見返した、櫓門の勇姿です。 <br />搦手門(裏門)だった石川門とは異なり、鉄板が隙間のある形で貼られているため、鉄で覆われた部分と木の材質を生かした部分が縦横に強調されたボーダー・デザインをなしています。武骨なだけでなく、装飾性にも長けています。これも加賀藩の美学のなせる業でしょうか!? <br />因みに河北門と橋爪門は、基本的に同様の意匠が施されています。

    河北門 二の門
    枡形内部から見返した、櫓門の勇姿です。
    搦手門(裏門)だった石川門とは異なり、鉄板が隙間のある形で貼られているため、鉄で覆われた部分と木の材質を生かした部分が縦横に強調されたボーダー・デザインをなしています。武骨なだけでなく、装飾性にも長けています。これも加賀藩の美学のなせる業でしょうか!?
    因みに河北門と橋爪門は、基本的に同様の意匠が施されています。

  • 河北門 一ノ門<br />高麗門形式のこの門を潜れば、河北門枡形虎口から新丸へ抜けられます。<br />幅4.7m、高さ7.4mの総欅造で、表側の脇土塀をなまこ壁仕上げとし、土塀の内側には石川門 一の門と同様に隠し狭間が設けられています。<br />三御門は同じ様式の一の門を持ちますが、門幅は石川門、河北門、橋爪門の順に広く造られています。

    河北門 一ノ門
    高麗門形式のこの門を潜れば、河北門枡形虎口から新丸へ抜けられます。
    幅4.7m、高さ7.4mの総欅造で、表側の脇土塀をなまこ壁仕上げとし、土塀の内側には石川門 一の門と同様に隠し狭間が設けられています。
    三御門は同じ様式の一の門を持ちますが、門幅は石川門、河北門、橋爪門の順に広く造られています。

  • 河北門 一ノ門<br />新丸側の河北坂から見た一の門です。<br />門の左側には二ノ門(櫓門)の横姿があります。<br />かつては、門を挟んで右側には二重櫓「ニラミ櫓」が建てられていたそうです。「ニラミ」とは、「睨みを利かせる」という意味ですので、より堅固な門だったことが窺えます。

    河北門 一ノ門
    新丸側の河北坂から見た一の門です。
    門の左側には二ノ門(櫓門)の横姿があります。
    かつては、門を挟んで右側には二重櫓「ニラミ櫓」が建てられていたそうです。「ニラミ」とは、「睨みを利かせる」という意味ですので、より堅固な門だったことが窺えます。

  • 河北門 一ノ門 <br />寄り道したのは、これを見るためです。<br />なまこ塀に直接唐破風を載せた出格子窓を設けた、風変わりな監視窓があります。<br />かつてはここに「ニラミ櫓」があったそうですが、宝暦の大火で焼失後、河北門は再建されるもニラミ櫓は再建されず、やむを得ず櫓台の上になまこ塀の太鼓塀を巡らす形で妥協したのだそうです。安泰な時代を迎え、もはやニラミ櫓など無用の長物と考えての英断だったのでしょう。<br />その下の石垣も鑑賞ポイントです。野面積み、打込みハギ、切込みハギ(隅石部)の3世代が1箇所に同居した珍しい石垣が見られます。石垣ファンには垂涎の的と言えます。<br />右奥に聳える二の丸の菱櫓(三重櫓)の偉容と相俟って、大手筋に充分な威圧感を与えています。

    河北門 一ノ門
    寄り道したのは、これを見るためです。
    なまこ塀に直接唐破風を載せた出格子窓を設けた、風変わりな監視窓があります。
    かつてはここに「ニラミ櫓」があったそうですが、宝暦の大火で焼失後、河北門は再建されるもニラミ櫓は再建されず、やむを得ず櫓台の上になまこ塀の太鼓塀を巡らす形で妥協したのだそうです。安泰な時代を迎え、もはやニラミ櫓など無用の長物と考えての英断だったのでしょう。
    その下の石垣も鑑賞ポイントです。野面積み、打込みハギ、切込みハギ(隅石部)の3世代が1箇所に同居した珍しい石垣が見られます。石垣ファンには垂涎の的と言えます。
    右奥に聳える二の丸の菱櫓(三重櫓)の偉容と相俟って、大手筋に充分な威圧感を与えています。

  • 菱櫓<br />2001年に復元された菱櫓は、往時は大手と搦手を見張る二の丸にある最も高い3重3層の物見櫓として重要な役割を果たしました。高さ11.7mの石垣の上に建てられ、櫓自体17mあります。通常の櫓は「矢倉」とされて武器庫でしたが、菱櫓は周辺を見張る役割を担っていました。また、堀に面した壁には石落しを具備し、実戦的かつ華やかな櫓にまとめています。<br />四隅の内角が100度と80度になった菱形をしており、名の由来になっています。因みに、床や天井、柱、梁の断面なども菱形をしています。<br />菱形構造にした理由には諸説あります。一説には、正門の大手門(尾坂門)と搦手門の石川門の両方を、同時に広い視野で監視するため、角度を開いた菱形にしたとの説です。菱形の木組みには高い技術を必要とし、棟梁の腕の見せ所でした。 <br />また、建物に使用されている100本の柱にも菱形が用いられており、建設には非常に高度な技術を要したと考えられています。<br />外観も、加賀100万石大名としての格式と威厳を示すため、唐破風や入母屋破風を随所に設けた美しいフォルムに仕上げています。菱櫓は1632(寛永9)年に建設されましたが度重なる火災で焼失し、2001年に1809年の姿に復元されています。復元された菱櫓にも鉛瓦が使われています。<br />また、石垣も見所です。1998~2000年にかけ、菱櫓等の復元に伴って一旦解体された後、打込みハギで積み直されています。右の奥後方の二の丸北面は、切込みハギです。

    菱櫓
    2001年に復元された菱櫓は、往時は大手と搦手を見張る二の丸にある最も高い3重3層の物見櫓として重要な役割を果たしました。高さ11.7mの石垣の上に建てられ、櫓自体17mあります。通常の櫓は「矢倉」とされて武器庫でしたが、菱櫓は周辺を見張る役割を担っていました。また、堀に面した壁には石落しを具備し、実戦的かつ華やかな櫓にまとめています。
    四隅の内角が100度と80度になった菱形をしており、名の由来になっています。因みに、床や天井、柱、梁の断面なども菱形をしています。
    菱形構造にした理由には諸説あります。一説には、正門の大手門(尾坂門)と搦手門の石川門の両方を、同時に広い視野で監視するため、角度を開いた菱形にしたとの説です。菱形の木組みには高い技術を必要とし、棟梁の腕の見せ所でした。
    また、建物に使用されている100本の柱にも菱形が用いられており、建設には非常に高度な技術を要したと考えられています。
    外観も、加賀100万石大名としての格式と威厳を示すため、唐破風や入母屋破風を随所に設けた美しいフォルムに仕上げています。菱櫓は1632(寛永9)年に建設されましたが度重なる火災で焼失し、2001年に1809年の姿に復元されています。復元された菱櫓にも鉛瓦が使われています。
    また、石垣も見所です。1998~2000年にかけ、菱櫓等の復元に伴って一旦解体された後、打込みハギで積み直されています。右の奥後方の二の丸北面は、切込みハギです。

  • 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣<br />金沢城の石垣は、1583(天正11)年に築城を開始した前田利家が全ての石垣を築いたのではなく、修復も含め大きく7期に分けて断続的に積まれています。前田家一族は美的センスに長けていたのか、時代毎に芸術品とも言える多彩な表情の石垣を積んでいますので、石垣も鑑賞のポイントになります。

    菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣
    金沢城の石垣は、1583(天正11)年に築城を開始した前田利家が全ての石垣を築いたのではなく、修復も含め大きく7期に分けて断続的に積まれています。前田家一族は美的センスに長けていたのか、時代毎に芸術品とも言える多彩な表情の石垣を積んでいますので、石垣も鑑賞のポイントになります。

  • 二の丸北面<br />形や大きさを揃えた「割石」で積まれています。打込みハギの中で最も完成された積み方とされ、石垣の『秘伝書』を描いた加賀藩石垣技術者 後藤彦三郎は、「城内でも屈指の石垣」と褒め讃えたそうです。<br />この石垣の上には、二の丸 表能舞台の楽屋として使われていた長屋があったと伝えられています。<br />所々に、二の丸御殿の雨水を落とすための石樋が設置されています。あまり見かけないものです。

    二の丸北面
    形や大きさを揃えた「割石」で積まれています。打込みハギの中で最も完成された積み方とされ、石垣の『秘伝書』を描いた加賀藩石垣技術者 後藤彦三郎は、「城内でも屈指の石垣」と褒め讃えたそうです。
    この石垣の上には、二の丸 表能舞台の楽屋として使われていた長屋があったと伝えられています。
    所々に、二の丸御殿の雨水を落とすための石樋が設置されています。あまり見かけないものです。

  • 土橋門<br />典型的な切込みハギの石積みですが、案内プレートの上方には正6角形の「亀甲石」が巧みに嵌め込まれています。陰陽五行思想に因んで水に親しむ亀を表したもので、火災封じのお守りです。文化年間の大火では、この石垣のおかげで土門橋の消失が免れたと伝えられています。<br />こうして見ると、まさに正6角形の亀甲石をこの石垣に嵌め込むためにジグソーパズルのように周りの石を加工して配したといった風趣です。

    土橋門
    典型的な切込みハギの石積みですが、案内プレートの上方には正6角形の「亀甲石」が巧みに嵌め込まれています。陰陽五行思想に因んで水に親しむ亀を表したもので、火災封じのお守りです。文化年間の大火では、この石垣のおかげで土門橋の消失が免れたと伝えられています。
    こうして見ると、まさに正6角形の亀甲石をこの石垣に嵌め込むためにジグソーパズルのように周りの石を加工して配したといった風趣です。

  • 玉泉院丸庭園<br />一旦、二の丸に出て五十間長屋を遠望した後、玉泉院丸庭園へ下りていきます。<br />玉泉院は、2代藩主 利長の正室 玉泉院(永姫 信長の4女)が暮らした場所です。古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があった場所です。<br />3代藩主 利常が、1634(寛永11)年に京都から庭師 剣左衛門を招いて庭園を造営したことに始まり、5代 綱紀、13代 斉泰の時代に改修された記録が残されています。因みに剣左衛門の師匠は、庭園造りで有名な、かの小堀遠州です。<br />大きな池に大小3つの中島を浮かべ、周囲を園路で結んだ池泉回遊式の大名庭園です。意匠性の高い石垣を借景として取り入れて造形美をなしています。また、池底の遺構から石垣の最上部までの高低差が22mあることが発掘調査で確認され、兼六園同様に立体感に富む庭園であることが特徴です。<br />庭園は、明治期に廃絶されましたが、2015年に江戸時代末期の詳細な絵図等を基に、遺構の上に2mの盛土をして再現されています。

    玉泉院丸庭園
    一旦、二の丸に出て五十間長屋を遠望した後、玉泉院丸庭園へ下りていきます。
    玉泉院は、2代藩主 利長の正室 玉泉院(永姫 信長の4女)が暮らした場所です。古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があった場所です。
    3代藩主 利常が、1634(寛永11)年に京都から庭師 剣左衛門を招いて庭園を造営したことに始まり、5代 綱紀、13代 斉泰の時代に改修された記録が残されています。因みに剣左衛門の師匠は、庭園造りで有名な、かの小堀遠州です。
    大きな池に大小3つの中島を浮かべ、周囲を園路で結んだ池泉回遊式の大名庭園です。意匠性の高い石垣を借景として取り入れて造形美をなしています。また、池底の遺構から石垣の最上部までの高低差が22mあることが発掘調査で確認され、兼六園同様に立体感に富む庭園であることが特徴です。
    庭園は、明治期に廃絶されましたが、2015年に江戸時代末期の詳細な絵図等を基に、遺構の上に2mの盛土をして再現されています。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />金沢城は、「石垣の博物館」とも称されています。他の城郭では見られない多種多様な石垣が、野外博物館のように点在しています。<br />多彩な石垣の中にあって一際特異なのが、「色紙短冊積石垣」です。多様なサイズと色彩の切石をジグソーパズルのように組合わせ、屋外アートを彷彿とさせる石垣が堪能できます。<br />5代藩主 綱紀は、各地から工芸品を集めるコレクターでした。美に造詣が深かったためか、幾何学的な長方形だけで作った石垣やピエト・モンドリアン(大小の四角形を組合わせたカラフルなデザイン)風の石垣を残しました。石材を縦に置くと崩落の危険が増しますが、ここでは敢えて芸術性を優先させています。

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    金沢城は、「石垣の博物館」とも称されています。他の城郭では見られない多種多様な石垣が、野外博物館のように点在しています。
    多彩な石垣の中にあって一際特異なのが、「色紙短冊積石垣」です。多様なサイズと色彩の切石をジグソーパズルのように組合わせ、屋外アートを彷彿とさせる石垣が堪能できます。
    5代藩主 綱紀は、各地から工芸品を集めるコレクターでした。美に造詣が深かったためか、幾何学的な長方形だけで作った石垣やピエト・モンドリアン(大小の四角形を組合わせたカラフルなデザイン)風の石垣を残しました。石材を縦に置くと崩落の危険が増しますが、ここでは敢えて芸術性を優先させています。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />NHK『ブラタモリ』で「遊んでる!? 」石垣として紹介されました。<br />石の形はパズルやテトリスを彷彿とさせ、色彩もパステルカラーで女子ウケしそうな石垣です。これらの赤石や青石は、金沢城から11km程の距離にある戸室山産の戸室石と呼ばれる角閃安山岩です。溶岩が冷える際の条件の違いで鉄の酸化状態により色が変化します。こうした石が散り嵌められ、他の城の石垣にはないカラー・アクセントになっています。<br />多彩な色の石があるから「色紙」と表現したのだと思っていましたが、正方形を「色紙」、縦長方形を「短冊」と言い、それらを巧みに組合わせた石垣を指すようです。

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    NHK『ブラタモリ』で「遊んでる!? 」石垣として紹介されました。
    石の形はパズルやテトリスを彷彿とさせ、色彩もパステルカラーで女子ウケしそうな石垣です。これらの赤石や青石は、金沢城から11km程の距離にある戸室山産の戸室石と呼ばれる角閃安山岩です。溶岩が冷える際の条件の違いで鉄の酸化状態により色が変化します。こうした石が散り嵌められ、他の城の石垣にはないカラー・アクセントになっています。
    多彩な色の石があるから「色紙」と表現したのだと思っていましたが、正方形を「色紙」、縦長方形を「短冊」と言い、それらを巧みに組合わせた石垣を指すようです。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />黒色の坪野石を用いたV字型の石樋を組み込み、滝水の背景には3石の縦長石を段違いに配した、「滝壺石垣」と呼ばれる庭園から見る借景石垣です。<br />石を縦に積めば倒れ易くなってしまうのが道理であり、通常ではあり得ない石組みスタイルです。5代藩主 綱紀の遊び心としか言いようがありません。<br />

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    黒色の坪野石を用いたV字型の石樋を組み込み、滝水の背景には3石の縦長石を段違いに配した、「滝壺石垣」と呼ばれる庭園から見る借景石垣です。
    石を縦に積めば倒れ易くなってしまうのが道理であり、通常ではあり得ない石組みスタイルです。5代藩主 綱紀の遊び心としか言いようがありません。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />藩政期には、ほぼ垂直に切り立った石壁の上部に設けられたV字形の石樋から落差9mの滝が流れちていたそうです。その滝口の真下の「滝つぼ」には板状の「水返し」の石が置かれ、玉泉院丸庭園の池に注がれていたとのこと。

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    藩政期には、ほぼ垂直に切り立った石壁の上部に設けられたV字形の石樋から落差9mの滝が流れちていたそうです。その滝口の真下の「滝つぼ」には板状の「水返し」の石が置かれ、玉泉院丸庭園の池に注がれていたとのこと。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />発掘調査により、石垣の下にある斜面を階段状に流れ落ちる落差7mの4段の滝跡が発見されました。江戸時代には、二の丸を通ってきた辰巳用水の水が、色紙短冊積石垣下部前面の滝壺から地中の水路を経てこの滝の水源になっていたと考えられています。<br />明治期の庭園廃絶に伴い、滝を構成する石の一部が抜き取られていましたが、今回の整備では、発掘された遺構を埋め戻し、その上に、残されていた遺構と同様の寸法形状の石を置き、また、抜き取られた石の痕跡等をもとに新たに石を補充して滝を再現しています。

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    発掘調査により、石垣の下にある斜面を階段状に流れ落ちる落差7mの4段の滝跡が発見されました。江戸時代には、二の丸を通ってきた辰巳用水の水が、色紙短冊積石垣下部前面の滝壺から地中の水路を経てこの滝の水源になっていたと考えられています。
    明治期の庭園廃絶に伴い、滝を構成する石の一部が抜き取られていましたが、今回の整備では、発掘された遺構を埋め戻し、その上に、残されていた遺構と同様の寸法形状の石を置き、また、抜き取られた石の痕跡等をもとに新たに石を補充して滝を再現しています。

  • 玉泉院丸庭園<br />振り返ると一段と高い所から庭園が見下ろせます。<br />1832年、第13代藩主 斉泰が設置を命じた「カラカサ」亭は、明治時代の庭園廃絶と共に兼六園の瓢池に移設されました。<br />左奥に見られる「唐傘」は、金沢城二の丸に置かれた同様の唐傘の史料や兼六園瓢池に設置されていた唐傘の古写真等を基に再現したものだそうです。兼六園の瓢池にあったものによく似ています。

    玉泉院丸庭園
    振り返ると一段と高い所から庭園が見下ろせます。
    1832年、第13代藩主 斉泰が設置を命じた「カラカサ」亭は、明治時代の庭園廃絶と共に兼六園の瓢池に移設されました。
    左奥に見られる「唐傘」は、金沢城二の丸に置かれた同様の唐傘の史料や兼六園瓢池に設置されていた唐傘の古写真等を基に再現したものだそうです。兼六園の瓢池にあったものによく似ています。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />左側にある比較的小振りな石を積んだ石垣の上部は、木の根っこに押し出されているように思えます。

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    左側にある比較的小振りな石を積んだ石垣の上部は、木の根っこに押し出されているように思えます。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />何処から見ても表情を違え、見飽きることがありません。<br />色紙短冊積石垣を堪能した後は、「三十間多聞長屋」へ駒を進めます。

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    何処から見ても表情を違え、見飽きることがありません。
    色紙短冊積石垣を堪能した後は、「三十間多聞長屋」へ駒を進めます。

  • 玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣<br />V字形の石樋を受ける石も黒色の坪野石を用い、樋を隙間なく受けるようにV字に合わせて寸分違わず加工しているのが判ります。<br />

    玉泉院丸庭園跡 色紙短冊積石垣
    V字形の石樋を受ける石も黒色の坪野石を用い、樋を隙間なく受けるようにV字に合わせて寸分違わず加工しているのが判ります。

  • 二の丸<br />金沢城を代表する景観となるのは、左から一直線に並ぶ菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓の壮観な景色です。<br />史料に基づき、位置や構造は勿論のこと、鉛瓦やなまこ壁、出窓も忠実に再現されています。橋爪門続櫓と菱櫓は共に3重3層の物見櫓。五十間長屋は、橋爪門続櫓と菱櫓を結ぶ2重2層の多聞櫓で、普段は倉庫として用いられ、非常時は戦闘のための砦となり、石落しを各所に備え、格子窓は鉄砲狭間になります。<br />

    二の丸
    金沢城を代表する景観となるのは、左から一直線に並ぶ菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓の壮観な景色です。
    史料に基づき、位置や構造は勿論のこと、鉛瓦やなまこ壁、出窓も忠実に再現されています。橋爪門続櫓と菱櫓は共に3重3層の物見櫓。五十間長屋は、橋爪門続櫓と菱櫓を結ぶ2重2層の多聞櫓で、普段は倉庫として用いられ、非常時は戦闘のための砦となり、石落しを各所に備え、格子窓は鉄砲狭間になります。

  • 極楽橋<br />二の丸と三十間長屋のある本丸附段の間を通る空堀に架けられた橋です。<br />右端に見えるのが三十間長屋です。<br />由緒書きによると、極楽橋という名称は、金沢城の前身となる金沢御堂の時代からこう呼ばれていたと伝わりますが、詳細は不明です。<br />現在の極楽橋は、1991(平成3)年に改修工事が行われたものです。

    極楽橋
    二の丸と三十間長屋のある本丸附段の間を通る空堀に架けられた橋です。
    右端に見えるのが三十間長屋です。
    由緒書きによると、極楽橋という名称は、金沢城の前身となる金沢御堂の時代からこう呼ばれていたと伝わりますが、詳細は不明です。
    現在の極楽橋は、1991(平成3)年に改修工事が行われたものです。

  • 極楽橋<br />極楽橋の先にある階段は、よく観ると幅や段の高さに統一性を欠きます。さらには、この上でクランクになっており、とても登り難くなっています。<br />これは、敵が攻撃してきた時、この段差が異なる石段でつまずいたりして怯んだ隙を突いて反撃しようという戦略的な仕組みです。

    極楽橋
    極楽橋の先にある階段は、よく観ると幅や段の高さに統一性を欠きます。さらには、この上でクランクになっており、とても登り難くなっています。
    これは、敵が攻撃してきた時、この段差が異なる石段でつまずいたりして怯んだ隙を突いて反撃しようという戦略的な仕組みです。

  • 極楽橋<br />擬宝珠が付けられた白木製の素朴な橋ですが、ただならぬ気配を感じます。<br />前田利家より以前に拠点を置いていた一向宗時代の遺物と考えられ、「金沢御堂に参詣する人々が朝は念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方には日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰った」とまことしやかに伝えられています。<br />しかし、極楽橋の実態はよく判っていないようです。秀吉時代とそれに続く江戸時代の城には天守や石垣、大手門が不可欠ですが、天下人とそれに準じる大名の城には「極楽橋」が不可欠だった可能性があるとの調査結果があります。ここで言う「極楽橋」とは、城主が居住する本丸へ渡るための装飾橋を言います。実は、大坂城の極楽橋の一部は、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺の「唐門」(国宝)になっています。秀吉と縁の深い前田家の城郭であれば、同じ意味を宿した橋が架かっていても何ら不思議はありません。<br />こうしたことから、極楽橋は信長の存在を超えるための秀吉の演出ツールのひとつだったとも考えられます。金沢城も、もう少しアピールしてもよいのではないでしょうか?

    極楽橋
    擬宝珠が付けられた白木製の素朴な橋ですが、ただならぬ気配を感じます。
    前田利家より以前に拠点を置いていた一向宗時代の遺物と考えられ、「金沢御堂に参詣する人々が朝は念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方には日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰った」とまことしやかに伝えられています。
    しかし、極楽橋の実態はよく判っていないようです。秀吉時代とそれに続く江戸時代の城には天守や石垣、大手門が不可欠ですが、天下人とそれに準じる大名の城には「極楽橋」が不可欠だった可能性があるとの調査結果があります。ここで言う「極楽橋」とは、城主が居住する本丸へ渡るための装飾橋を言います。実は、大坂城の極楽橋の一部は、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺の「唐門」(国宝)になっています。秀吉と縁の深い前田家の城郭であれば、同じ意味を宿した橋が架かっていても何ら不思議はありません。
    こうしたことから、極楽橋は信長の存在を超えるための秀吉の演出ツールのひとつだったとも考えられます。金沢城も、もう少しアピールしてもよいのではないでしょうか?

  • 極楽橋 空堀と石垣<br />橋から見下ろした、本丸と二の丸の間の空堀です。空堀は、現在は通路になっています。<br />石垣は、左右どちらも野面積みのように見受けられます。<br />金沢城築城以前の尾山御坊時代の石垣とも言われていますが、詳しいところは不明のようです。<br />

    極楽橋 空堀と石垣
    橋から見下ろした、本丸と二の丸の間の空堀です。空堀は、現在は通路になっています。
    石垣は、左右どちらも野面積みのように見受けられます。
    金沢城築城以前の尾山御坊時代の石垣とも言われていますが、詳しいところは不明のようです。

  • 三十間多聞長屋(重文)<br />2階建ての多聞櫓です。金沢城や熊本城では多聞櫓を長屋と呼んでいたそうです。建物の長さは、正確には26間半(約48m)しかないそうです。南面は入母屋造、北面は土台の石組よりも外壁が下がった切妻造にしています。<br />1858(安政5)年に建造され、現在に至っています。金沢城には、この他に全部で14の長屋があったと伝えられています。<br />

    三十間多聞長屋(重文)
    2階建ての多聞櫓です。金沢城や熊本城では多聞櫓を長屋と呼んでいたそうです。建物の長さは、正確には26間半(約48m)しかないそうです。南面は入母屋造、北面は土台の石組よりも外壁が下がった切妻造にしています。
    1858(安政5)年に建造され、現在に至っています。金沢城には、この他に全部で14の長屋があったと伝えられています。

  • 三十間多聞長屋<br />西側(背面)は中央に千鳥破風、左右に唐破風付きの出格子窓を配した優美な意匠を呈しています。<br />元々は干飯(ほしいい)を貯える土蔵でしたが、やがて食器類を納めるための倉庫となり、江時代戸中期に焼失した後、幕末に再建されて武器・火薬庫として使用されていました。

    三十間多聞長屋
    西側(背面)は中央に千鳥破風、左右に唐破風付きの出格子窓を配した優美な意匠を呈しています。
    元々は干飯(ほしいい)を貯える土蔵でしたが、やがて食器類を納めるための倉庫となり、江時代戸中期に焼失した後、幕末に再建されて武器・火薬庫として使用されていました。

  • 三十間多聞長屋 石積み<br />宝暦年間頃に改修された、台座のカラフルな石使いも珍しいものです。しかも表面加工も特殊であり、縁取りはきれいに揃えてありますが、表面は凸凹にしたままです。これは、「金場取り残し積み」と言われる野趣あふれる豪快な技法です。往時の文書でも「勢いのある積み方」とされています。<br />

    三十間多聞長屋 石積み
    宝暦年間頃に改修された、台座のカラフルな石使いも珍しいものです。しかも表面加工も特殊であり、縁取りはきれいに揃えてありますが、表面は凸凹にしたままです。これは、「金場取り残し積み」と言われる野趣あふれる豪快な技法です。往時の文書でも「勢いのある積み方」とされています。

  • 三十間多聞長屋 石積み<br />裏面(西側)の石垣には、よく観ると陰陽五行思想に因んだ石材が随所に積まれています。<br />写真中央やや右にある正6角形をした石が「亀甲石」です。その左にある縦長の切石は「陽の石」、横長のものは「陰の石」です。<br />

    三十間多聞長屋 石積み
    裏面(西側)の石垣には、よく観ると陰陽五行思想に因んだ石材が随所に積まれています。
    写真中央やや右にある正6角形をした石が「亀甲石」です。その左にある縦長の切石は「陽の石」、横長のものは「陰の石」です。

  • 鉄門(くろがねもん)<br />本丸への入口となるのが、鉄門です。かつてここには櫓門が設けられ、鉄門というその名から鉄板貼の重厚な門扉が設けられていたことが想定できます。<br />切込みハギの技法で、表面を多角形に加工し、丁寧に嵌め込んでいます。金沢城では重要な箇所の石垣に切石を用いており、本丸の正門にも当然ながら切石が使われています。 <br />しかし5角形や6角形の石が隙間なく積まれているのは、とても不思議です。実はこの石垣には、「ちぎり」と呼ばれる石と石を繋ぐ穴太衆の技巧が駆使されています。通常は鉛や銅を用いるそうですが、ここでは漆喰を流し込む珍しいものです。白いためその場所が判り易くなっています。因みに石川門の枡形虎口の石垣も同様です。<br />宝暦の大火で金沢城は甚大な被害を受け、この門も櫓と共に焼失し、続く明和・安永年間に石垣の改修が行われています。 <br />創建は1631(寛永8)年頃、 改修は1766(明和3)年であり、現在のものは明和3年改修時の姿を残しています。 <br />この鉄門を抜けた先が本丸跡ですが、建築物は何もなく園地として整備されているだけです。

    鉄門(くろがねもん)
    本丸への入口となるのが、鉄門です。かつてここには櫓門が設けられ、鉄門というその名から鉄板貼の重厚な門扉が設けられていたことが想定できます。
    切込みハギの技法で、表面を多角形に加工し、丁寧に嵌め込んでいます。金沢城では重要な箇所の石垣に切石を用いており、本丸の正門にも当然ながら切石が使われています。
    しかし5角形や6角形の石が隙間なく積まれているのは、とても不思議です。実はこの石垣には、「ちぎり」と呼ばれる石と石を繋ぐ穴太衆の技巧が駆使されています。通常は鉛や銅を用いるそうですが、ここでは漆喰を流し込む珍しいものです。白いためその場所が判り易くなっています。因みに石川門の枡形虎口の石垣も同様です。
    宝暦の大火で金沢城は甚大な被害を受け、この門も櫓と共に焼失し、続く明和・安永年間に石垣の改修が行われています。
    創建は1631(寛永8)年頃、 改修は1766(明和3)年であり、現在のものは明和3年改修時の姿を残しています。
    この鉄門を抜けた先が本丸跡ですが、建築物は何もなく園地として整備されているだけです。

  • 戌亥櫓跡<br />今は櫓台しか遺されていませんが、ここにはかつて戌亥櫓と呼ばれた2層櫓がありました。 例によって、出窓のある優美な櫓だったそうです。<br />ここの見所は、こうした二の丸 五十間長屋の勇姿です。ここから見ても巨大な建物だということが判ります。樹木の葉が生い茂って少々残念なところもありますが…。<br /><br />2年ほど前、NHK『ブラタモリ』で「加賀100万石はどう守られたか?!」が放映されていました。<br />寛永8年の大火直後に設けられた防火用水「辰巳用水」を上流から歩き、内・外惣構辰巳用水を巡る内容でした。金沢の歴史を紐解くと、何度も大火に遭い、その度に逞しく復興を遂げています。『石川県史』によると、1631( 寛永8)年の金沢城も焼いた寛永の大火以降、1859(安政6)年 までの間に52回の大火が記録されています。ところが意外なことに、大火の多くは4~5月に発生しています。2016年の年末に発生した糸魚川市大規模火災の記憶も新しいのですが、北陸特有のフェーン現象が影響しているようです。近年でも春先の「雪起こし」の落雷で家が焼けたという話があります。金沢は冬の雷が多発することでも知られているようです。<br />本丸には5重の天守閣がありましたが、1602年に落雷で焼失し、それ以後、天守閣は造られていません。

    戌亥櫓跡
    今は櫓台しか遺されていませんが、ここにはかつて戌亥櫓と呼ばれた2層櫓がありました。 例によって、出窓のある優美な櫓だったそうです。
    ここの見所は、こうした二の丸 五十間長屋の勇姿です。ここから見ても巨大な建物だということが判ります。樹木の葉が生い茂って少々残念なところもありますが…。

    2年ほど前、NHK『ブラタモリ』で「加賀100万石はどう守られたか?!」が放映されていました。
    寛永8年の大火直後に設けられた防火用水「辰巳用水」を上流から歩き、内・外惣構辰巳用水を巡る内容でした。金沢の歴史を紐解くと、何度も大火に遭い、その度に逞しく復興を遂げています。『石川県史』によると、1631( 寛永8)年の金沢城も焼いた寛永の大火以降、1859(安政6)年 までの間に52回の大火が記録されています。ところが意外なことに、大火の多くは4~5月に発生しています。2016年の年末に発生した糸魚川市大規模火災の記憶も新しいのですが、北陸特有のフェーン現象が影響しているようです。近年でも春先の「雪起こし」の落雷で家が焼けたという話があります。金沢は冬の雷が多発することでも知られているようです。
    本丸には5重の天守閣がありましたが、1602年に落雷で焼失し、それ以後、天守閣は造られていません。

  • 赤煉瓦造のトンネル<br />金沢城跡は日清戦争後に陸軍第九師団が駐屯していた場所でもあり、ミリタリー・スポットも点在しています。<br />鶴丸倉庫の手前には、本丸の石垣を大胆にくり抜いた赤煉瓦造のトンネルがあります。正面からは樹木で隠されて見えず、説明書もないのが不気味です。このトンネルは、弾薬庫への通路用として旧陸軍が開けたものだそうです。<br />因みに、第九師団の司令部庁舎と長官舎、陸軍クラブ「偕行社」の建物が残されています。

    赤煉瓦造のトンネル
    金沢城跡は日清戦争後に陸軍第九師団が駐屯していた場所でもあり、ミリタリー・スポットも点在しています。
    鶴丸倉庫の手前には、本丸の石垣を大胆にくり抜いた赤煉瓦造のトンネルがあります。正面からは樹木で隠されて見えず、説明書もないのが不気味です。このトンネルは、弾薬庫への通路用として旧陸軍が開けたものだそうです。
    因みに、第九師団の司令部庁舎と長官舎、陸軍クラブ「偕行社」の建物が残されています。

  • 赤煉瓦造のトンネル<br />万一の事故に備えるため石垣を防御壁として利用し、弾薬の運搬用に造った重厚なトンネルの先に弾薬庫があったようです。<br />内部の壁面は全て赤煉瓦で造られ、その威風堂々たる姿は時代を感じさせます。<br />城郭ファンからすれば、このトンネルは聖域を破壊する破廉恥な行為そのものです。しかし明治時代は、城郭を保存することなど念頭に無かった時代でした。よく観ると、トンネルの土被りの厚みが薄いことに気付かされます。また、トンネルの周囲の石垣は、積み直したように見受けられます。恐らく、大胆にも石垣をごっそり崩した後に煉瓦を積み、その後石垣を積み直したのでしょう。

    赤煉瓦造のトンネル
    万一の事故に備えるため石垣を防御壁として利用し、弾薬の運搬用に造った重厚なトンネルの先に弾薬庫があったようです。
    内部の壁面は全て赤煉瓦で造られ、その威風堂々たる姿は時代を感じさせます。
    城郭ファンからすれば、このトンネルは聖域を破壊する破廉恥な行為そのものです。しかし明治時代は、城郭を保存することなど念頭に無かった時代でした。よく観ると、トンネルの土被りの厚みが薄いことに気付かされます。また、トンネルの周囲の石垣は、積み直したように見受けられます。恐らく、大胆にも石垣をごっそり崩した後に煉瓦を積み、その後石垣を積み直したのでしょう。

  • 鶴丸倉庫(重文)<br />1848年に建て替えられた武具を納める土蔵で、石川門や三十間長屋と共に城内に残る藩政期の数少ない遺構のひとつです。現存する土蔵としては国内最大級の遺構であり、希少価値が評価されています。<br />明治時代以降には陸軍の被服庫として利用されていました。また、腰の石貼りや窓回りなどが意匠的にも優れていると評価され、2008年に重文に指定されています。<br />建て替えの5年後にはペリー艦長率いる黒船が来航し、明治維新への道を辿る歴史の変革期となりました。そうした時代に建てられたものだと思うと感慨深いものがあります。

    鶴丸倉庫(重文)
    1848年に建て替えられた武具を納める土蔵で、石川門や三十間長屋と共に城内に残る藩政期の数少ない遺構のひとつです。現存する土蔵としては国内最大級の遺構であり、希少価値が評価されています。
    明治時代以降には陸軍の被服庫として利用されていました。また、腰の石貼りや窓回りなどが意匠的にも優れていると評価され、2008年に重文に指定されています。
    建て替えの5年後にはペリー艦長率いる黒船が来航し、明治維新への道を辿る歴史の変革期となりました。そうした時代に建てられたものだと思うと感慨深いものがあります。

  • 鶴丸倉庫 土塀<br />この塀は、相当な厚みがあり、内部には小石が詰められているそうです。こうした塀を「太鼓塀」と言い、小石によって鉄砲の弾が貫通することなく、また、塀に穴を開けられても上から小石が落ちて来てすぐに穴を塞ぎ、防御に効果を発揮します。<br />内側には隠し狭間が設けられ、実践的な塀であったことを窺わせます。前田利家自身は槍の名手でしたが、利家が金沢城を築いた頃は、鉄砲が初めて使用された「長篠の戦」(1575年)から10年経っており、既に相当数の鉄砲が普及していたものと窺えます。

    鶴丸倉庫 土塀
    この塀は、相当な厚みがあり、内部には小石が詰められているそうです。こうした塀を「太鼓塀」と言い、小石によって鉄砲の弾が貫通することなく、また、塀に穴を開けられても上から小石が落ちて来てすぐに穴を塞ぎ、防御に効果を発揮します。
    内側には隠し狭間が設けられ、実践的な塀であったことを窺わせます。前田利家自身は槍の名手でしたが、利家が金沢城を築いた頃は、鉄砲が初めて使用された「長篠の戦」(1575年)から10年経っており、既に相当数の鉄砲が普及していたものと窺えます。

  • 橋爪門 続櫓<br />続櫓は、二の丸大手の橋爪門枡形に付随する3重3層の物見櫓です。<br />天守閣を持たない金沢城では、二の丸が政治の中枢を担っていました。その二の丸の正門である橋爪門を見下ろす位置にある物見櫓がこの橋爪門続櫓です。三の丸広場から橋爪橋を渡り、橋爪門を通って二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓でした。<br />三の丸で戦闘が起きた時は、続櫓が指揮所に変わります。

    橋爪門 続櫓
    続櫓は、二の丸大手の橋爪門枡形に付随する3重3層の物見櫓です。
    天守閣を持たない金沢城では、二の丸が政治の中枢を担っていました。その二の丸の正門である橋爪門を見下ろす位置にある物見櫓がこの橋爪門続櫓です。三の丸広場から橋爪橋を渡り、橋爪門を通って二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓でした。
    三の丸で戦闘が起きた時は、続櫓が指揮所に変わります。

  • 橋爪門 二の門<br />二の門の敷石には「四半敷き」という工法が用いられ、進行方向に対し斜め45度に傾いて敷かれ、前田家の美意識の真骨頂を誇示しています。兼六園の日暮橋にも施された「斜めの美学」です。<br />城門の見事さに気を取られて上ばかり仰ぎ見ず、足元の敷石にも注目して下さい。<br />因みに三御門のうち最も新しく復元された門ですので、ストライプ模様が目に鮮やかです。

    橋爪門 二の門
    二の門の敷石には「四半敷き」という工法が用いられ、進行方向に対し斜め45度に傾いて敷かれ、前田家の美意識の真骨頂を誇示しています。兼六園の日暮橋にも施された「斜めの美学」です。
    城門の見事さに気を取られて上ばかり仰ぎ見ず、足元の敷石にも注目して下さい。
    因みに三御門のうち最も新しく復元された門ですので、ストライプ模様が目に鮮やかです。

  • 橋爪門 一の門<br />2015年に復元され、漸く金沢城三御門が勢揃いしました。<br />高麗門形式の一の門、石垣と二重塀で囲まれた枡形、櫓門形式の二のからなる桝形門です。二の丸への正門でもある最も格式の高い門であり、石垣の戸室石がそれを裏付けています。<br /><br />宝暦の大火では、金沢城の他、10500棟の家屋が焼失しています。また『加賀藩史料』には「魂をとばし、愛をも焼き、のこらず灰とす」とあり、実に金沢の90%を焼いたとされ、金沢の歴史300年における最大の災害と言っても過言ではありません。<br />意外なことに、この大火の発端は「加賀騒動」にあると言われています。6代藩主 吉徳は、独裁政権ながらも側近 大槻伝蔵と協働して傾いていた財政を立て直してきました。しかし吉徳が没すると、伝蔵は冷遇されました。藩主は宗辰に移るも就任2年で病死。21歳の若さ故に、伝蔵の陰謀が疑われました。そして8代 重煕の治世に、怨みと憶測を巡る大事件「加賀騒動」が勃発します。冷遇に不満を抱いた伝蔵が、宗辰を毒殺したという讒言が発端です。伝蔵は女中や吉徳の側室を使って毒殺を企てたとされましたが、現在ではでっち上げだったとされています。<br />事件の結末は、奥女中 浅尾は処刑、主犯とされた吉徳の側室 真如院は幽閉されるもその後自害、伝蔵は五箇山の流刑小屋に流刑されるも真如院の死を知り、自害して果てます。しかし伝蔵の死から5年後の1753(宝暦3)年に重煕が没し、その6年後に大惨事が起こりました。<br />宝暦の大火の前日の宝暦9年4月8日、この夜、金沢城中の奥村図書居間で奇妙な物音がするという怪奇現象が起こります。『加賀藩史』には、「武器を持って大勢で怪しい声のするところへ足を運んでみるが、そこには何もない」とあり、伝蔵・真如院・浅尾の怨霊とも解されています。何故なら、翌日は、奇しくも重熙の七回忌法会の日だったからです。<br />火元は金沢泉寺町にある瞬昌寺でした。大火で「愛をも焼き」、漸く加賀騒動は終息しました。その代償も甚大でしたが、加賀騒動は禍根の末の事件だったと言えなくもありません。怨霊説はともかく、伝蔵一派による付け火が原因との説もあるからです。<br />この宝暦の大火では辰巳用水も金沢を守りきれず、その後、町を東西南北のグループに分けた防火対策を行ない、民間にはしごや辻桶、鎌、熊手などを常備させるなどの対策を講じています。それが奏功したのでしょうか、宝暦の大火以降、大火は発生していないようです。

    橋爪門 一の門
    2015年に復元され、漸く金沢城三御門が勢揃いしました。
    高麗門形式の一の門、石垣と二重塀で囲まれた枡形、櫓門形式の二のからなる桝形門です。二の丸への正門でもある最も格式の高い門であり、石垣の戸室石がそれを裏付けています。

    宝暦の大火では、金沢城の他、10500棟の家屋が焼失しています。また『加賀藩史料』には「魂をとばし、愛をも焼き、のこらず灰とす」とあり、実に金沢の90%を焼いたとされ、金沢の歴史300年における最大の災害と言っても過言ではありません。
    意外なことに、この大火の発端は「加賀騒動」にあると言われています。6代藩主 吉徳は、独裁政権ながらも側近 大槻伝蔵と協働して傾いていた財政を立て直してきました。しかし吉徳が没すると、伝蔵は冷遇されました。藩主は宗辰に移るも就任2年で病死。21歳の若さ故に、伝蔵の陰謀が疑われました。そして8代 重煕の治世に、怨みと憶測を巡る大事件「加賀騒動」が勃発します。冷遇に不満を抱いた伝蔵が、宗辰を毒殺したという讒言が発端です。伝蔵は女中や吉徳の側室を使って毒殺を企てたとされましたが、現在ではでっち上げだったとされています。
    事件の結末は、奥女中 浅尾は処刑、主犯とされた吉徳の側室 真如院は幽閉されるもその後自害、伝蔵は五箇山の流刑小屋に流刑されるも真如院の死を知り、自害して果てます。しかし伝蔵の死から5年後の1753(宝暦3)年に重煕が没し、その6年後に大惨事が起こりました。
    宝暦の大火の前日の宝暦9年4月8日、この夜、金沢城中の奥村図書居間で奇妙な物音がするという怪奇現象が起こります。『加賀藩史』には、「武器を持って大勢で怪しい声のするところへ足を運んでみるが、そこには何もない」とあり、伝蔵・真如院・浅尾の怨霊とも解されています。何故なら、翌日は、奇しくも重熙の七回忌法会の日だったからです。
    火元は金沢泉寺町にある瞬昌寺でした。大火で「愛をも焼き」、漸く加賀騒動は終息しました。その代償も甚大でしたが、加賀騒動は禍根の末の事件だったと言えなくもありません。怨霊説はともかく、伝蔵一派による付け火が原因との説もあるからです。
    この宝暦の大火では辰巳用水も金沢を守りきれず、その後、町を東西南北のグループに分けた防火対策を行ない、民間にはしごや辻桶、鎌、熊手などを常備させるなどの対策を講じています。それが奏功したのでしょうか、宝暦の大火以降、大火は発生していないようです。

  • 三の丸と鶴の丸の間にある内堀<br />この内堀は、1999~2000年にかけて、菱櫓や五十間長屋などと共に復元されました。<br />この付近は、明治時代に積まれた石垣の多くが取り外されていたため、五十間長屋の石垣などを手掛かりに往時の姿を想定して復元したそうです。<br /><br />この続きは、問柳尋花 加賀紀行⑨金沢 ひがし茶屋街・主計町(エピローグ)でお届けいたします。

    三の丸と鶴の丸の間にある内堀
    この内堀は、1999~2000年にかけて、菱櫓や五十間長屋などと共に復元されました。
    この付近は、明治時代に積まれた石垣の多くが取り外されていたため、五十間長屋の石垣などを手掛かりに往時の姿を想定して復元したそうです。

    この続きは、問柳尋花 加賀紀行⑨金沢 ひがし茶屋街・主計町(エピローグ)でお届けいたします。

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