2017/05/07 - 2017/05/09
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ANZdrifterさん
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滋賀県の「湖東三山」(西明寺・金剛輪寺・百済寺)を訪ねた
テレビで美しい国宝の三重塔を見て、西明寺を訪ねようと計画しました。彦根観光協会から資料を送ってもらったり、「五木寛之の百寺巡礼・ガイド版第四巻」を買ったりしたら、この地区の三古寺に「湖東三山」という括りがあることを知りました。
この湖東三山は、琵琶湖の東の山すそで名神高速道路の東側に、北から西明寺、金剛輪寺、百済寺と並んでいます。これら三山を訪ねることとしましたが、現実はそれぞれをつなぐ交通網がないので主にタクシーを使いました。
いずれも山門から本堂までの登りが遠くて疲れました。
それぞれの古寺について簡単に説明しておきます。
西明寺(さいみょうじ)
初日に彦根からタクシーで訪れました 片道5000円くらい。帰りは1時間前に予約する「愛のりタクシー」でJR駅まで戻った(一人900円)。
平安時代初期の834年に創建され、日本100古寺に選ばれた天台の古刹。本堂は鎌倉時代を代表する建造物で国宝第一号。本尊は秘仏薬師如来で、釈迦如来、不動明王(いずれも重文)や十二神将などと共に本堂に安置されている。説明つきで拝観できる。
国宝の三重塔は総檜造りの優美な塔で、初層内部の極彩色の壁画が有名。今回は公開最後の日だったので中に入って鎌倉時代の壁画を拝見してきました。700年を経たとは思えないほど保存が良く、見事で感動しました。
名勝指定の庭園「蓬莱庭」は秋の楓が見事とされる。
金剛輪寺(こんごうりんじ)
二日目に稲枝駅からタクシーで訪れました。公共交通がないのでタクシーを待たせておいて百済寺にも行き、そのタクシーで稲枝駅まで戻りました(1万8000円くらい)。
聖武天皇と行基によって741年に開山され、のちに慈覚が住した天台の巨刹で、千体地蔵も祀られている。
本堂は鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝指定されている。本尊は秘仏聖観音像で住職一代に一度だけ公開するという。ほかに阿弥陀如来、十一面観音など十一体の重文指定の仏像が安置されている。
三重塔と二天門は重要文化財。これら3棟の建物は信長の焼き討ちから逃れ得たが、百済寺と共謀したと判じた信長勢によって多くの堂宇が失われた。
今回は 大きな曼荼羅が特別公開されていた(5月1日から20日まで)
桃山から江戸期に作庭された庭園は国指定の名勝。
百済寺(ひゃくさいじ)
聖徳太子が606年に渡来人のために創建した近江で最古の古寺。本尊は像高2,6メートルの十一面観音。御堂は百済の「龍雲寺」を模して造られ、開山法要には高句麗僧が招かれ、以後も渡来僧の居住が多かったという。
鎌倉時代からは「天台別院」とされ、1300人が居住する巨大寺院となって、湖東の小叡山と呼ばれ、ルイスフロイスが地上の天国と呼んだほど隆盛を極めた要塞寺院だったが、信長に抗した佐々木義治、森備前などが鯰江城に籠った際、当山宗徒が食料を送り、妻子を寺内にあずかるなど援助したため、1573年に織田信長にすべて焼き尽くされた。
戦火を逃れたのは本尊の十一面観音像などわずかだが、江戸期に信長を討った光秀の後身とも言われる天海僧正の高弟が入山して本堂や山門が再建されている。秘仏の金銅弥勒菩薩半か思惟像は焼き払われた本堂跡地から発見されたもので百済から持ち込まれた稀有な像とされている。
見どころの一つ、喜見院の庭園は見晴らしがよく、信長がここから石を運んだと言われる安土城の安土山が見える。
境内の大半は石垣しかないが国指定の史跡である。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
国道307号に面している西明寺の総門。
タクシーはさらに南進してから山へ(左に)入って西明寺の駐車場まではいる。
駐車場の近くの受付で入山料600円を払って 参道から蓬莱庭に入る。 -
ここが一番上の駐車場。 このすぐ左に受付がある。
1時間以上前に予約しておくと、「愛のりタクシー」がここまで来てくれます。
JRの駅まで 一人900円なので断然安いが、運行時間を調べて見学時間を判断して、1時間以上前に予約するというのは、旅行者には至難の業です。
一度、50分前に予約申し込みをしたら「一時間前でないとだめです」と断られた。
初日はここからJRの駅まで乗って、彦根の宿まで帰りました。 -
受付でもらったパンフにいろいろな通り道が紹介されています。
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蓬莱庭。
本堂への登り道は まん中の参道のほかに緩やかな登り道がいくつかある。
今回は 本堂に向かって左側の この庭を通ってゆく道を選んだ。 -
苔が美しい庭です。
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蓬莱庭には 美しい苔がびっしりと生えていた。
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二天門はくぐらずに横を登ったので、写真は撮り忘れました。
突然 開けて明るい場所の出ました。目の前に鎌倉時代前期に創建された本堂が現れます。鎌倉後期に増築が行われたそうで 蟇股が3種見られるそうです。
本尊は厨子に納められた秘仏の薬師如来で御開帳は住職一代に一度だけという。脇に日光菩薩と月光菩薩。さらに12神将が立ち並んでいる。
拝観はできなかったが須弥壇の後ろには平安・鎌倉期の多くの仏像があるという。
1571年に織田信長の焼き討ちで300もの僧坊が焼け落ちたなか、村民が背負って避難して守った仏像たちという。 -
これも国宝。三重塔。
なかの初層に描かれた鎌倉期の仏画が有名で、訪れた日が公開最後の日でした。
本堂で拝観を申し込んで(1000円)入場券代わりのパンフレットをもらって堂守りに開扉してもらう。
絵に触らないように、入る前にリュック、バッグ、カメラなど身の回り品はすべて預ける。入るときには 国宝の絵に触れないために柱につかまらないよう注意を受ける。 -
パンフレットからコピーしました。美しい菩薩です。
四本の柱に描かれた金剛界の32菩薩の一人です。 多くは傷損していますが昔の美しさのまま残っているのもあります。
鎌倉期の岩絵の具の色が そのまま今に残っているのを 文字通り目の前で見られるという 不思議ともいえる僥倖に 言葉を失うほどの感動を味わいました。 -
本尊の大日如来と周囲の」絵画。これもパンフレットからのコピーです。
堂内は須弥壇と床板をのぞく全面に菩薩像、仏具、花鳥文、などが極彩色で描かれており まさに曼荼羅の世界の如くである。
これらは巨勢一派の絵師により純度の高い岩絵の具で描かれているという。
絵葉書はなかったが 写真を集めて本になっているらしい。 -
これが重要文化財の二天門です。
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帰りは二天門をすぐ横に見て 緩い傾斜の道を通りました。
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次は 二番目の金剛輪寺です。
これが金剛輪寺の黒門。この上には赤門があります。
読みにくいけれど、石柱には 天台宗金剛輪寺 と刻んであります。 -
聖武天皇の勅願寺として741年に行基が開山し、のちに慈覚が来山して天台の大寺となった。義経の必勝祈願や、北条時宗の元軍降伏祈願など戦勝祈願の逸話が多い。
創建時に百余を数えた僧坊は戦時に衰退し、1573年に信長が百済寺を焼き討ちの際には金剛輪寺も同罪として火を放たれたが、本堂、三重塔、二天門は無事だった。
ご本尊は行基が一刀三礼で彫ったと言われる 天平期の聖観世音菩薩像である。 -
国宝 本堂大悲閣。
中には秘仏の聖観世音菩薩のほか、重文の阿弥陀如来坐像2体、四天王4体、不動明王立像、毘沙門天立像など、鎌倉初期を中心とする仏像が納められている。
寺僧の説明がある。 -
本堂の横、段差が少ないので 高齢者はここから入るのが楽です。
美しい蟇股など 細部を見ても楽しい。
本堂脇の楓は秋には 血染め と言われるほどの見事な紅葉となる。 -
本堂の説明です。
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本堂に置かれていた 半跏像。
撮影禁止とは書いてなかったので 堂守がいるまえで撮りましたが 詳細不明。 -
すぐ近くにある重要文化財の三重塔 「三重塔待龍塔」 です。
写真よりもずっと美しい塔です。
周りに広い場がないので 平地の端まで下がって撮りました。 -
三重塔の初層の構造です。
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参道の両側に納められた石像
長い範囲に 途切れずに並んでいました。
千体地蔵は参道から離れた別の場所です。 -
上を見ても 下を見ても 同じような石像が並んでました。
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名勝 明壽院庭園 の案内板。
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庭園に入ります。
右上の建物は江戸期に造られた茶室。 -
金剛輪寺の庭は名勝に指定されていますが、桃山期から江戸期まで、何回か繰り返して増設されたようです。
このような案内板がいくつかありました。 -
きれいな水でした。
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さて 湖東三山最後の百済寺です。電話をすると「ひゃくさいです」と言います。
百済寺の長い参道は、両側に焼き討ちされた寺院の跡が、段々畑状に続いていましたが、写真にすると雑木林ばかりで 説明もできないような絵になるので迷っているうちに本堂につきました。
この日に 二匹の猫のアップリケが付いたバッグをカメラ(クールピクスL28)ごとJR車内に置き忘れたので 余計疲れました。 -
昔の様子を示す模型が展示されていました。
黄色に塗られた所が それぞれ一つの寺だったそうです。
佐々木義治や、息子が出家して当山にいた森備前などが信長に抗して鯰江城に籠ると当山宗徒は城に兵糧を送り、妻子を寺内に預かるなど、援護したため、信長の兵火により一山ことごとく焼亡した。
数百の寺がすべて信長によって焼かれたが、のちに明智光秀の後身とも言われる天海大僧正の高弟が入山して改建の勅許を得て、井伊、酒井、春日局などの喜捨などもあり慶安3年に現在の本堂、仁王門、山門が竣工したとされる。 -
焼かれた菩提樹の株の周縁部から 芽生えた一群の菩提樹が「千年菩提樹」と名付けられて 保存されています。
信長の焼き討ちは1573年で 今から450年足らず前のことです。 -
自然歩道が設けられているようです。
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喜見院(きけんいん)の庭園には巨大な石が並べられている。
右の石は ざっと10数トンはありそうな巨石だった。 -
庭園は池泉廻遊式である。
高台の「遠望台」からは比叡山から湖西の山々が見える。
また信長がこの地から石を運んで築城したという安土の山も望めるらしい。
もう一度訪問の機会があったら 西明寺で丸一日。金剛輪寺で昼食だけにします。
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