2017/01/10 - 2017/02/01
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hy-2217さん
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初めてハワイを訪れたのは1984年(昭和59年)、それから33年の年月が経ちました。
その間、大小いろいろな出来事がありました。
その中で今でも記憶に残っている大きな事故が2つあります。
その一つは、「スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故」です。
<スペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故>
1986年1月28日(昭和61年)、アメリカ合衆国のスペースシャトル・チャレンジャー号が射ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が死亡した事故がありました。
7名の乗組員の中には、ハワイ州出身・日系の「エリソン・オニヅカ空軍大佐」がおられました。
その時、ハワイの人は悲しみました。事故後「太平洋国立記念墓地(パンチボウル)」に埋葬されています。
事故から間もなくして「エリソン・オニヅカ空軍大佐」の墓にお参りしたことがあります。
あと一つは、「愛媛県立宇和島水産高等学校の水産実習船 えひめ丸 沈没事故」です。
<愛媛県立宇和島水産高等学校の水産実習船「えひめ丸」沈没事故>
2001年2月9日、ハワイ・オアフ島沖で、「えひめ丸」と「米国海軍原子力潜水艦・グリーンヒル」が衝突し、実習船に乗船していた35名の内、9名の尊い命が失われました。
海中にいた潜水艦が、ハワイに向けて航行を続けていた「えひめ丸」の存在に気付かず、浮上・衝突・沈没した”まさか”の事故でした。
「えひめ丸慰霊之碑」は事故から1年後の2002年2月9日に建之されました。
私は広島県出身、生家の庭から瀬戸内海の向こうの愛媛県がよく見えました。そのような背景があるため、愛媛県は身近に感じている県でした。そして、他人事とは思えない事故でした。
2002年8月、ハワイを訪れた(13回目)時、「えひめ丸慰霊之碑」にお参りしました。それ以降は、まったくご無沙汰していました。
「えひめ丸慰霊之碑」は「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」内にあることは、記憶に残っていましたが、交通の便が悪く、近くて遠い場所でした。
カカアコ地区は、ここ数年前から開発が進み、多くのビルが建設中です。
その影響もあり、オリオリ・ウォーカーに「カカアコ」の停留所が新設されました。
周辺の環境も15年前とは随分変わっていると思いますが、これを機会に、昔の記憶と感を信じて「えひめ丸慰霊之碑」を訪れることにしました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- ハワイアン航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- JTB
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-
飛行機から見た「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」方面の景色。
「えひめ丸慰霊之碑」は、「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」の中にあります。 -
地図で見ると赤い星印を付けたところが、「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」です。
-
15年振りの訪問、過去の記憶と感を頼りに行動しました。
オリオリ・ウォーカーに乗ってアラモアナ・センターで下車。
ワード/ダウンタウン・ルートに乗り換えて、新しくできた停留所「カカアコ」で下車しました。
下車後、アラモアナ通りを横切り、「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」を目指して海側に進みました。
「カカアコ」の停留所から海側に約500m移動すると、ハワイ大学医学部関連の建物(緑色をした目立つ建物)にぶつかりました。
「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」はこの建物の海側にあるはずです。感を頼りに、建物を迂回して海側に進むと駐車場と緑色の芝が生き生きとはえている「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」に到着しました。
「カカアコ・ウォーター・フロント・パーク」はフラットな敷地ではなく、なだらかな丘陵地になっていました。
緑色をしたなだらかな丘を上りきると海が見えてきました。
公園のテッペンから来た道を振り返ると、先程行き止まりになったハワイ大学医学部関連の建物の海側が見えました。 -
公園のテッペンから北西方面を見た景色。
-
公園のテッペンから北西方面を見た景色。
望遠で見ると、アロハ・タワーがすぐ近くに見えました。 -
公園のテッペンから東方面を見た景色。
アラモアナ・センターの西側のビル群と遠くにダイヤモンド・ヘッドが見えていました。 -
公園のテッペンから東方面を見た景色。
ちょっと望遠で見ました。 -
公園のテッペンから南方面(海側)を見た景色。
多くのスプリンクラーが稼働し、芝生にタップリの水を与えていました。
芝生の緑色を見ると、”随分手入れが行き届いている”という印象を受けました。
周囲の状況を見て”「えひめ丸慰霊之碑」はこの近くにあるだろう”という感が働きました。 -
海側に少し下っていくと、予想通り、「えひめ丸慰霊之碑」が見えてきました。
15年前の記憶の通りでした。 -
やっと、近くて遠かった「えひめ丸慰霊之碑」を訪れることができました。
-
「えひめ丸慰霊之碑」に手を合わせ、碑文を読んでいると、背中からスプリンクラーの洗礼を受けました。
スプリンクラーが稼働しているのは知っていましたが、まさか、お参りをしている人まで放水が届くとは思いませんでした。
それだけ長い時間手を合わせていたのかもしれません。
「えひめ丸慰霊之碑」には下記の言葉が刻まれていました。
『えひめ丸慰霊之碑』
2001年2月9日、午後1時43分 ハワイ・オアフ島の南18kmの海で、日本国愛媛県立宇和島水産高等学校の水産実習船えひめ丸は、米国海軍原子力潜水艦グリーンヒルの衝突により沈没し、実習船に乗船していた35名のうち、実習生4名、指導教官2名、乗組員3名の尊い命が失われた。
ここに、犠牲となった9名の方々の御冥福と世界の海の安全を祈るとともに、愛媛県とハワイ州、日本国とアメリカ合衆国の人々が相互理解を深め、親善友好が促進されることを願って、えひめ丸の錨と9環の鎖をこの地に残し、とこしえの形見とする。
2002年2月9日 建之
合掌16年前の信じられないような事故でしたが・・・。
9名は、まさかの事故に遭わなかったならば、今頃どのような人生を送っているだろうか?
その後、家族はどのようにお暮しだろうか?
と思うと、オッチャンの眼には涙がにじんでいました。 -
予期せぬスプリンクラーの洗礼で、頭、背中、ズボンはびしょ濡れになりました。
後は、ハワイの太陽を信じて、自然乾燥を待つしか方法はありません。
今度いつ訪問できるかはわかりません。
帰り際、海側の景色を目に焼き付けました。 -
公園のテッペンまで戻り、来た道を引き返しました。
往路は、公園のなだらかな丘陵地のテッペンまで車イスを押しながら上り、帰路はなだらかな丘陵地を車イスを引きながら下りました。
※写真は、ハワイ大学医学部関連の建物周辺の景色です。
ちょっと苦労はしましたが、15年振りの訪問を無事終え、”訪問して本当に良かった”と納得するオッチャンでした。
えひめ丸のまさかの事故以来、アラモアナ・センター等で、白い制服を着た学生水兵さんを見かけると、必ず、”どこから来た?”と声をかける習慣が身に着きました。
いつまで経っても、えひめ丸の事故が頭をよぎるのかもしれませんね。
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