2015/08/02 - 2015/08/06
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唐辛子婆さん
Japan 函館のんびりあるき(1/2)大沼と函館の路面電車のつづきです。
http://4travel.jp/travelogue/11228188
歴史的建造物のある通りを散歩してハリストス教会に立ち寄り
函館の歴史に触れる本を2冊みつけました。
人口30万人弱の函館は日本初の混声合唱がもたらされた町だそうです。
★旅行記中の詳細な情報は
函館メサイヤ教育コンサート実行委員会編集「函館開港と音楽」より抜粋しました。http://hakodatem.web.fc2.com/
- 旅行の満足度
- 5.0
-
その1冊がこの本です。
函館での音楽史がとても詳しく記されています。 -
ハリストス教会を
-
丘の上から眺めると港が見えまする。
-
日本ぢゃないみたい。
-
ハリストス協会のお庭に咲いていた八重のインパチェンス。
薔薇みたいに愛らしい。 -
2冊目はハリストス正教会に一冊だけ残っていた絵本です。
文章:あまさかゆう(染木泰子)絵:佐藤国男(版画家)
それを私が買っちゃっていいものかしらと躊躇いましたが
どうぞお持ちくださいと言われて。
「江戸時代、日本で初めてハリストス正教会の聖歌が流れた
函館のお寺でのおはなし」 -
「明治6年にすでに函館では
ここハリストス教会でソルフェージュ教育が行われていたのぢゃ。」 -
「むかしむかし
函館山のふもとに、大きなお寺が三けんならんでたって
いました。
となりは奉行所。
これは、江戸時代ーおさむらいさんのいることーのお話です。」 -
「お寺の上に、アメリカのはたやロシアのはたが見えます。
山からふく風がつめたくなったある秋の日、お話は、ロシアの
はたのある実行寺ではじまります。」
「ナムナムナムナム、ポンポンポンポン
小坊主のとっ珍さんが、お経の練習をしていました。」 -
「コンニチハ」
青い目をした大きな異人さんが、お寺に入ってきました。
とっ珍さんはびっくりして日隆おしょうさんをよびに行きました。
おしょうさんは、ニコニコしながら、「どうぞどうぞ」と言いました。」 -
その時おしょうさんがどうぞどうぞと受け入れたのは
すでに外国人受け入れの前例があったからです。
「クリミヤ戦争(1854年勃発)の翌年にフランス軍艦シビル号が
突然函館港に入港し、多くの負傷兵が実行時に収容された。
当時日本とフランスは正式に国交が締結されていなかったが
時の函館奉行は人道的判断からフランス人の上陸を許可し
実行時が病人の養生所としてあてられた。」
(この絵は実行寺ではなく別のお寺のやうです。) -
「次の日から、お寺の中にロシア領事館というお役所ができました。
お役人さんの名前は、ゴシケビッチさん。
とっ珍さんはおおいそがし!
お茶を運んだり、そうじをしたり・・・・・」 -
「ある日ゴシケビッチさんは、美しい奥さんやメイドさんを
つれてやってきました。
「とっ珍さん、コンニチハ。ぼくの家族です。」
とっ珍さんは、ドキドキしながらおしょうさんをよびに行きました。」 -
「おしょうさんはまたまた、「どうぞどうぞ」とにっこりわらって答えました。
次の日から、ゴシケビッチさんと家族は、お寺に住むことになりました。」 -
安政2年(1855年)日露通好条約が締結され
初代領事ゴシケビッチは15名を連れて来日したそうです。
妻、姑、妻の連れ子、書記官、海軍士官、医師夫妻、司祭、下男、下女。
「函館奉行は、これほど大勢で着任することを事前に知らされていなかったため
用意していた建物では足りず、一行は実行寺と高龍寺に止宿することとなった。」 -
ゴシケビッチさんは当時40代でしたが
日本人が描いた絵には69か64歳と書かれていたそうです。 -
「マダムのエリザベータは見栄っ張りで時代遅れだ」とも。
-
「息子(妻の連れ子)は日本語がはなせるため日本人に人気者だった」とか。
メイドのうち1名はフィンランド人でした。
医師のアルブレヒトは領事館付き医者で海軍医、その夫人はスエーデン人で
「謙虚でこざっぱりした教養のある婦人」と
エリザベートとは断然ちがった評判のやうでした。
それにしても日本の絵師の描く西洋人は歌舞伎役者のやうですね。 -
ほら、姿勢も着物ですり足で歩く時のやうな。
「日本の着物って素敵ね!いっぱい買ったわ。」
英語話してるから見栄っ張りのゴシケビッチ夫人ではありませんね。 -
「ナムナムナムナム、ポンポンポンポン
とっ珍さんがお経のれんしゅうをしていると、きれいな声の
女の人の歌、ひくい声の男の人の歌が聞こえてきました。
とっ珍さんは、うっとりねむくなってしまいました。」
ナジーモフ海軍士官は一日中聞こえる鐘の音と読経の声に
へきえきしていたやうですが^^。
・・・異国での生活に慣れるのはたいへんだあ。 -
「歌にさそわれて、とっ珍さんは、新しくたった小さなお堂へ
やってきました。
こっそりのぞいてみると、金色のふくをきた神父さまの前で、
領事館の人たちが祈りの歌を歌っていたのです。」 -
「そこへ、おしょうさんがやってきて、
「とっ珍、これはロシアの国のお経なんだよ。
日本ではじめての混声合唱が、この実行寺で歌われるとは
のう・・・なんともなんとも・・・ほとけさまもびっくりして
おられるじゃろうな・・・。」
もっとびっくりすることには
馬小屋、牛小屋も建てられていたということです。
馬はともかく牛はもしかしてステーキ用ではないでせうか・・・。 -
「それから毎日、お寺の中ではお坊さんのお香がつづき、境内に
立てられた祭司堂ではロシア正教会の合唱が流れました。
ナムナムナムナムポンポンポンポン
とっ珍さんのお経もじょうずになってきました。」 -
「やっととっ珍さんがお経をおぼえたころ、ロシアの人たちは
あたらしくたてたお役所と教会へひっこしていきました。
「とっ珍さんさようなら。ナムナムポンポンじょうずになり
ましたね。」
ゴシケビッチさんは手をふりました。」 -
「ゴシケビッチさんたちがいなくなって、とっ珍さんは少しさびしい
気持ちになりました。
そこでとっ珍さんは、おしょうさんに内しょでときどきお寺を
ぬけ出し、まあるい屋根の協会の庭でハーモニーにつつまれ、
うっとりするのでした。」
ルビンシュタインの弟子でモスクワ音楽院で高等教育を受けた
ヤコフ・チハイが来日しロシア外交団の通訳や領事館教会で聖歌隊の指導を
していました。日本人女性と結婚し11年間を函館で過ごしたそうです。 -
「港に入る外国船、ふもとに見えるアメリカやロシアのはた。
江戸時代のおわり、函館は、いろいろな国の人びとが行きかい、
日本だはじめての混声合唱がながれる坂のまちでした。
そして、今日もとっ珍さんはおおいそがし・・・。」
外国船から毎日、朝夕聞こえる笛や太鼓の響きは
とても清々しく函館市民も楽しんだようですが
朝夕の大砲の音はすさまじく
漁への影響もあるとて役人の申し入れでやめてもらったとか。 -
当時ロシア領事館は函館の文明開化に寄与する存在でした。
「開港初期の函館にはロシア海軍の軍艦が頻繁に寄港したため
海軍用にロシア病院が開設された。
ここではロシア人のみならず日本人の患者も無料で治療に当たった。
ロシア病院は日本人医師が西洋医学を学ぶ場でもあった。
興味深いことに後に同志社大学の創設者となる新島襄も
函館からアメリカに脱国する前ロシア病院で眼病の治療を受けている。
写真術を伝授したのもロシア領事館の人たちであった。」
旧ロシア領事館は今は誰も入れません。
1860年に完成したロシア領事館は隣接するイギリス領事館の火事で被災したり
妻のエリザベートが病死したりしてゴシケビッチ領事に不運が続き
領事が離任した後ロシア病院も焼けてしまい。
当時は火事が多かったのねえ!
その後、明治維新となって外交の中心は東京となったため
函館の領事館は閉鎖も同様となった。
ロシア正教会も神田のニコライ堂が中心となったやうです。
その後の紆余曲折を経てロシア領事館が再び函館に戻ってきたのは59年後。
今は主として観光、商用、留学等の目的でロシアに渡航するための
ビザの発給をしています。 -
ハリストス教会の素敵な絵を描いていらっしゃる方。
「教会の信頼を得て内部まで描かせてもらいました。」 -
聖ハリストス正教会の外国人墓地は離れたところにありました。
ゴシケビッチさんの妻エリザベートもここに眠っているのかしら?
日本人に洋服の縫製法、パンの焼き方、乳製品や塩漬の作り方などを
教えてくれた(ウィキペディアより)のはエリザベートだったに違いありません。 -
「見よう見まねの函館ハイカラモード
函館で最初に洋服を作ったのは後に写真師となった仕立て職人の木津幸吉です。」 -
「ロシア領事に洋服の仕立てを頼まれ、古着を見本に借りて見事に仕上げました。
やがて函館にも洋服や小物を売る店ができ、西洋ファッションが流行しました。」 -
明治3年(1870)年在函5か国の領事からの要望で
正式に外国人墓地として定められました。 -
「ぺリー艦隊が函館に滞在中、2名の水平が病死した。
艦隊が滞在中に、長患いの末に死亡した二人の船乗り仲間の遺体を
この港に葬ることはわれわれ同胞にとって悲しい務めだった。
艦上で礼拝を行ってから数名の士官、多数の水平と海兵隊員からなる護衛隊が
4艘のボートに乗り込んで遺骸を岸に運び、全艦艇が反旗を掲げた。
上陸すると葬列が組まれ、葬送の太鼓を鳴らしつつ粛々と埋葬地に行進すると
大勢の日本人が集まって墓地までついてきた。
従軍牧師のジョーンズ師が聖公会の埋葬式を執り行った。
式が終わると大勢の日本人が牧師のまわりに群がって好奇心をあらわにしたが
聖職者にしかるべき敬意を払うことをけっして忘れなかった。」
(ペリー艦隊日本遠征記) -
「この時ファイフ(横笛)とドラムによって演奏されたのは
ヘンデルの葬送行進曲であった。
函館町民が間近で最初に聞いた西洋音楽はなんとヘンデルの曲だったのである。」 -
紫陽花の咲くきれいに手入れされた外人墓地でした。
-
-
写真つきのお墓がありました。
ロシア語が読めないので誰だかわからない・・・。 -
お散歩はつづきます。
「へえ!函館にはこんな大学があったんだ!」
唐辛子爺がびっくり。 -
その大学の近くのチャイカ(かもめ)という名前の
ロシア物産店にあった美しい表紙の本。
チャイカというと老人は世界初の女性の宇宙飛行士が
「ヤー、チャイカ(こちらはカモメ9」と応答していたのを思い出します。
私達の世代は
アポロが月に到着して宇宙飛行士が月面をぴょんぴょん飛び跳ねるのを
テレビで食い入るやうに眺めた世代。
西山千さんの同時通訳で。
今のやうに
宇宙常駐の駐在員がいる時代ではあまりさわがれもしませんが。
その時はサザエさんが新聞に連載されてて
磯野家からの注文を受けた蕎麦屋のおっちゃんが
「たかが月見につきみつきみと矢のやうな催促!」と顔をしかめ
おもわず「ハイこちらヒューストン」と電話に出でしまう。
サザエさんもビックリだが
言った本人もビックリなのがおもしろくて、うふふ。 -
「ロシア製品ってマトリョーシカだけじゃないんですよ。」
ご主人様がロシア極東連邦総合大学の先生だと言う
奥様が経営していらしゃるお店でした。 -
白樺の皮で編んだバスケットとかスリッパとか、こんな渋い色の民芸品もあり。
-
この絵がどの時代なのか確認するのを忘れましたが
初めて北海道にやってきたロシアの船は
ゴシケビッチさんの乗ってきた船ではありません。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んだのがもうず~~っと前のことなので
いきさつをよく覚えていないんですけど -
「ロシアと幕府との交易交渉がこじれて
フヴォストフ海軍大尉などの日本人に対する暴行事件が起こる。
怒った幕府はゴローニン海軍少佐を人質としてしまう。
高田屋嘉兵衛はゴローニン事件に巻き込まれ
ロシア船ディアナ号のリコルドに捕まり、カムチャッカへ連行される。 -
異国ロシアでの拘留生活が生む苦悩と葛藤、仲間の死。
しかし嘉兵衛は、これまでの人生の中でつちかった「みな人ぞ」の精神で
ロシア人たちと接し、互いの心の壁を溶かしていく。
そして嘉兵衛はリコルド少佐といつしか強い信頼で結ばれるようになり
こじれきった日露の橋渡しを自ら担おうと決意する。
見事な交渉で日露の紛争を平和裡に解決。
幕府との交渉のため日本へ発つ日甲板で鈴なりのロシア人船員たちが
いっせいに声をあげる。
「タイショウ!ウラー!(万歳かな?)」(ウィキペディアより抜粋) -
右から二番目がリコルドさんかな?
-
こちらは「タイショウ、ウラー!」よりもう少しあとの話です。
「駿河湾沖で嵐にあった大黒屋光太夫らはアリューシャン列島に漂着。
ペテルブルグでエカテリーナ二世に謁見して帰国を訴え
漂流から約10年後に帰国を果たしました。」 -
これは日本人が描いたエカテリーナ二世でせうね。
昔、英字新聞に掲載の昭和天皇のお顔が老人班だらけなのに
ショックを受けたのを思い出す。
そうか日本の新聞はみな宮内庁差し出しの若い頃の写真を使ってたのか。
それとも新聞社が自主的に修正してたんでせうか?
ロシア皇帝のエカテリーナ二世も本国では美しく描かれているのに
ここでは二重顎の太ったおばさんだぁ! -
お次は旧英国領事館です。
1859年(安政6)からの75年間イギリス領事館だったうち
数回も火災にあったとのこと。
今は函館市の有形文化財。
ヴィクトリアンローズというティールームがあり
窓の外には美しいローズガーデンがあるそうです。
歴代の英国総領事のなかで特に函館市民に人気のあったユースデンさん。
小柄なので豆コンシロ ちっこいconsulate総領事と呼ばれていたとか。 -
ユースデン夫人はライラックと西洋胡桃を取り寄せて函館に広めたそうです。
また、女性が仕事を持てるやうにと西洋の洗濯技術を教えたとか。 -
ユースデン夫妻
帰任の際のパーティーには多くの市民が参加して別れを惜しんだとか。 -
-
ここからはアメリカ人の話です。
ペリーは1854年(安政元年)5隻の艦船とともに函館にやってきました。
松前藩と欠乏品の補給、漂流民の保護・救助、遊歩範囲の取り決め
などが話しあわれたそうです。
「洋服を間近で見ることがなかった函館の人々にとって
来航したペリー一行の服装はとても珍しいものでした。
特に軍服の金ボタンや方から下がる房、袖口のラインなど、金色の装飾にひかれ、乗組員から金ボタンをもらった住民もいました。」 -
ペリーは函館で応接にあたった松前藩士たちを船に招待して
交歓会を行いました。
ミンストレル・ショーとは
白人が黒人をまねて歌やダンス・寸劇を演じる大衆芸能で
当時アメリカで大人気でした。 -
黒人の真似をした白人の芸人達が大人気だった?
ケネディ大統領の時代にさえ黒人と白人の結婚が認められない州があった
そうなのにと思うと不思議な印象を持ちますね。。。この時代に。
それはともかく
当時のフォスターの最新作「主人は冷たい土の中」「草競馬」「おおスザンナ」「スワニー河」などが幕末の函館で演奏されていたんですね。 -
当時の楽器。
日本人って本当に好奇心が強くて器用な人がいっぱいですね。 -
「異人さんたちは(旧)亀田川で衣服の洗濯や水浴びもしていました。
湯を沸かす人もいました。」
そばを日本の奉行の人?が通っている。 -
「外国船(アメリカ国旗がみえます)の帆桁、帆綱、縄梯子へ
すきまなく洗濯物が干してあり風に乗ってひらひらと
それはそれは壮観な様であった。
水夫がそれをとりこむあり様を見て、その身軽さに日本の軽業師も
及ばぬ技であると感嘆している。
高いところでは海面から三十間(54m)もあり彼らのうち10人から20人は
毎年誤って落ち死傷するという山田屋の番頭忠七の話もなるほどとうなずける。」 -
函館の港は今も昔も美しい。
「広くて美しい港だ。ジブラルタルそっくりだ。」
そうですか。
ではいつかジブラルタルまでいってみませう。
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Japan 大好きな函館
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