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舞阪駅から弁天島駅まで舞阪宿の痕跡を求め歩きました。<br />舞阪宿は江戸・日本橋から数えて30番目の宿場町で、隣の浜松宿は戦災で壊滅しましたが舞阪宿は地震による津波の被害を何回も受けたそうです。<br />舞阪宿脇本陣、見付石垣、本雁木跡等が保存されてあり、江戸時代を彷彿させてくれました。<br /><br /><br />

旧東海道 舞阪宿の散策

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2017/03/24 - 2017/03/24

89位(同エリア104件中)

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アルプ・グリュム

アルプ・グリュムさん

舞阪駅から弁天島駅まで舞阪宿の痕跡を求め歩きました。
舞阪宿は江戸・日本橋から数えて30番目の宿場町で、隣の浜松宿は戦災で壊滅しましたが舞阪宿は地震による津波の被害を何回も受けたそうです。
舞阪宿脇本陣、見付石垣、本雁木跡等が保存されてあり、江戸時代を彷彿させてくれました。


  • 舞阪駅<br />宿場町の中心となるようなイメージを浮かべ電車を降りましたが旧東海道舞阪宿側の駅前には商店、バス、タクシーターミナルも無く住宅街でした。

    舞阪駅
    宿場町の中心となるようなイメージを浮かべ電車を降りましたが旧東海道舞阪宿側の駅前には商店、バス、タクシーターミナルも無く住宅街でした。

    舞阪駅

  • 住宅街の中をしばらく歩くと東海道に出ると松林が現れました。<br />340本の松並木が約700m続いているとのことです。

    住宅街の中をしばらく歩くと東海道に出ると松林が現れました。
    340本の松並木が約700m続いているとのことです。

    旧東海道松並木 名所・史跡

  • 静岡県が設置した夢舞台・東海道<br />静岡県内には旧東海道の要所に設置してあります。

    静岡県が設置した夢舞台・東海道
    静岡県内には旧東海道の要所に設置してあります。

  • 中央は道路で左右に碑が設置されてあり、左側は東海道五十三次の宿場が、右側には十二支が設置されています。<br /><br />先ずは基準点の日本橋です。

    中央は道路で左右に碑が設置されてあり、左側は東海道五十三次の宿場が、右側には十二支が設置されています。

    先ずは基準点の日本橋です。

  • これは最初の宿場となる品川宿です。

    これは最初の宿場となる品川宿です。

  • 東海道松林<br />旧東海道には松林が多く残っていたそうですが松くい虫の被害に遭い枯れてしまった話を聞きます。<br />舞阪での状況はわかりませんが大切にしたいと思います。<br />

    東海道松林
    旧東海道には松林が多く残っていたそうですが松くい虫の被害に遭い枯れてしまった話を聞きます。
    舞阪での状況はわかりませんが大切にしたいと思います。

  • 川崎宿

    川崎宿

  • 神奈川宿

    神奈川宿

  • 保土ヶ谷宿

    保土ヶ谷宿

  • この後も各宿場が等間隔で設置されてあります。

    この後も各宿場が等間隔で設置されてあります。

  • 中央が車道でなく歩道であれば最高なのですが!

    中央が車道でなく歩道であれば最高なのですが!

  • 「どまんなか」の袋井宿<br />前から数えても、後ろから数えても27番目の袋井宿は東海道の中間に当たる宿場です。<br />確か小学校も「どまんなか小学校」がありました。

    「どまんなか」の袋井宿
    前から数えても、後ろから数えても27番目の袋井宿は東海道の中間に当たる宿場です。
    確か小学校も「どまんなか小学校」がありました。

  • 隣の宿場町の浜松<br />浜松は宿場町よりも城下町で名が通っています。<br />正直に言って浜松宿は碑だけしか残っていません。<br />

    隣の宿場町の浜松
    浜松は宿場町よりも城下町で名が通っています。
    正直に言って浜松宿は碑だけしか残っていません。

  • 舞阪宿の場所には立派な碑が設置されてあります。<br /><br />舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。<br /> 浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。<br />

    舞阪宿の場所には立派な碑が設置されてあります。

    舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。
     浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。

  • しかし、この場所は厳密にはまだ宿場には入っていません。<br />舞阪宿は見附石垣から宿場内です。

    しかし、この場所は厳密にはまだ宿場には入っていません。
    舞阪宿は見附石垣から宿場内です。

  • この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。<br />その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。現在700m、株数屋杭340本に東海道の面影を良く残している。

    この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。
    その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。現在700m、株数屋杭340本に東海道の面影を良く残している。

  • 松並木は宿場と宿場の間に植えられていたそうです。

    松並木は宿場と宿場の間に植えられていたそうです。

  • 最後は京都の三条大橋で松並木も終了です。

    最後は京都の三条大橋で松並木も終了です。

  • 浪小僧<br />

    浪小僧

  • むかし、遠州灘の浜では、地引き網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師達は気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓を叩いてお知らせ致します」というので、海にもどしてやりました。<br />それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。<br /> 「遠州七不思議」より<br />

    むかし、遠州灘の浜では、地引き網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師達は気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓を叩いてお知らせ致します」というので、海にもどしてやりました。
    それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。
     「遠州七不思議」より

  • 松並木と浪小僧

    松並木と浪小僧

  • 浪小僧の横にはトイレもあり休息できます。<br />ここには東京から269Km、京都から226Kmの碑がありました。

    浪小僧の横にはトイレもあり休息できます。
    ここには東京から269Km、京都から226Kmの碑がありました。

  • 松並木と浪小僧とトイレが見えます。

    松並木と浪小僧とトイレが見えます。

  • 交差点を斜めにクロスして旧東海道 舞阪宿へ

    交差点を斜めにクロスして旧東海道 舞阪宿へ

  • 見附石垣<br />ここからが舞阪宿内に入ったことになります。

    見附石垣
    ここからが舞阪宿内に入ったことになります。

    見付石垣 名所・史跡

  • 宿の東外れに位置している。宿の見張り台で大名行列が通る際には六尺棒を持った番人が立ち人馬の通行を監視し治安の維持にあたった場所

    宿の東外れに位置している。宿の見張り台で大名行列が通る際には六尺棒を持った番人が立ち人馬の通行を監視し治安の維持にあたった場所

  • 見附石垣<br />多分江戸時代のままだと思います。<br />

    見附石垣
    多分江戸時代のままだと思います。

  • 一理塚跡と新町常夜灯

    一理塚跡と新町常夜灯

  • 新町の常夜燈

    新町の常夜燈

  • 一理塚跡<br />江戸から68番目となります。

    一理塚跡
    江戸から68番目となります。

  • 一里塚跡  <br />江戸幕府が日本橋を基点にして、街道に一里塚を築かせたのは、慶長9年(1604)とされる。天保年間(1830~44)の宿村大概帳には、舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。<br />しかし、古老の話では、大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が、枝を四方に繁らせていたというから、幕末頃には榎の木が植わっていたと解釈してもよいだろう。なお、北側の一里塚は、土地台帳に町有地としてわずかに、名残を留めているのみである。<br /><br />新町の常夜燈<br />ここの常夜燈は、正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年(1815)乙亥正月吉日と彫られており、文化12年に建立されたことが分かる。江戸時代の舞坂は、よく火災に見舞われ、特に文化6年(1809)には、宿場の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をしている。当時火防の山、秋葉信仰の高まりと共に、人々の願いにより、この常夜燈がこんりゅうさたもので、その世話は現在も地域の人達に引き継がれている。 

    一里塚跡  
    江戸幕府が日本橋を基点にして、街道に一里塚を築かせたのは、慶長9年(1604)とされる。天保年間(1830~44)の宿村大概帳には、舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。
    しかし、古老の話では、大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が、枝を四方に繁らせていたというから、幕末頃には榎の木が植わっていたと解釈してもよいだろう。なお、北側の一里塚は、土地台帳に町有地としてわずかに、名残を留めているのみである。

    新町の常夜燈
    ここの常夜燈は、正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年(1815)乙亥正月吉日と彫られており、文化12年に建立されたことが分かる。江戸時代の舞坂は、よく火災に見舞われ、特に文化6年(1809)には、宿場の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をしている。当時火防の山、秋葉信仰の高まりと共に、人々の願いにより、この常夜燈がこんりゅうさたもので、その世話は現在も地域の人達に引き継がれている。 

  • 一理塚は街道の両側に設置されていたので反対側にも設置してありました。

    一理塚は街道の両側に設置されていたので反対側にも設置してありました。

  • 旧東海道らしい街道の雰囲気が漂っている街並みです。

    旧東海道らしい街道の雰囲気が漂っている街並みです。

  • 仲町常夜燈

    仲町常夜燈

  • 仲町常夜燈

    仲町常夜燈

  • 文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりと共に、仲町の願により4年後の文化10年(1813)5月吉日に、この常夜燈が建立されました。両皇大神宮・秋葉大権現・津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2,7mあります。<br />なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみにここ宝珠院は、明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。 

    文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりと共に、仲町の願により4年後の文化10年(1813)5月吉日に、この常夜燈が建立されました。両皇大神宮・秋葉大権現・津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2,7mあります。
    なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみにここ宝珠院は、明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。 

  • 宝珠院<br />立派な山門です。

    宝珠院
    立派な山門です。

  • 宝珠院<br />ここが舞阪町で初めて小学校が開かれた場所です。

    宝珠院
    ここが舞阪町で初めて小学校が開かれた場所です。

  • 旧東海道らしい街道の雰囲気が漂っている街並みです。

    旧東海道らしい街道の雰囲気が漂っている街並みです。

  • 旧東海道らしい街道の雰囲気が漂っている街並みです。

    旧東海道らしい街道の雰囲気が漂っている街並みです。

  • 江戸時代と平成時代の建物が隣にある脇本陣(茗荷屋)

    江戸時代と平成時代の建物が隣にある脇本陣(茗荷屋)

  • 脇本陣(茗荷屋)

    脇本陣(茗荷屋)

  • 内部も公開しています。<br />入場無料で案内もしてくれます。

    内部も公開しています。
    入場無料で案内もしてくれます。

  • 東海道舞阪宿 脇本陣

    東海道舞阪宿 脇本陣

    舞坂宿脇本陣 名所・史跡

  • 東海道舞阪宿 脇本陣<br />舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・戸数265戸でした。また本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向かい側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。<br />脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。<br />建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。<br />平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。

    東海道舞阪宿 脇本陣
    舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・戸数265戸でした。また本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向かい側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
    脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
    建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
    平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。

  • 文久2年(1862年)の舞阪宿の絵図(宿の西端部分)が掲示されてありました。<br />

    文久2年(1862年)の舞阪宿の絵図(宿の西端部分)が掲示されてありました。

  • 奥が深い建物ですが一番奥には庭園があります。

    奥が深い建物ですが一番奥には庭園があります。

  • 呼び方はトイレでもなく便所でもなく厠(カワヤ)です。<br />厠とはもう死語でしょうか?

    呼び方はトイレでもなく便所でもなく厠(カワヤ)です。
    厠とはもう死語でしょうか?

  • 上段の間<br />大名などの武士が宿泊する部屋で、一段高くなっています。

    上段の間
    大名などの武士が宿泊する部屋で、一段高くなっています。

  • 本陣、脇本陣にはよく見られる植え込みです。<br />本来は明かり取りの目的で屋根を工夫しているのです。

    本陣、脇本陣にはよく見られる植え込みです。
    本来は明かり取りの目的で屋根を工夫しているのです。

  • 舞阪宿 本陣跡<br />伝左衛門本陣と徳右衛門本陣の2軒がありました。<br /><br />碑だけで建物棟は関係ありません。

    舞阪宿 本陣跡
    伝左衛門本陣と徳右衛門本陣の2軒がありました。

    碑だけで建物棟は関係ありません。

  • 西町常夜灯

    西町常夜灯

  • 西町常夜灯

    西町常夜灯

  • 西町常夜灯<br />舞坂には往還道路沿いに3つの常夜燈があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化10年(1813)に建立されたことが分かる。舞坂宿では、文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をした。当時火防の山、秋葉信仰の高まりと共に、人々の願によりこの常夜燈が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 

    西町常夜灯
    舞坂には往還道路沿いに3つの常夜燈があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化10年(1813)に建立されたことが分かる。舞坂宿では、文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をした。当時火防の山、秋葉信仰の高まりと共に、人々の願によりこの常夜燈が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 

  • 浜名湖の今切渡し舟が出る船着場には舞阪宿のすべての施設の案内されています。

    浜名湖の今切渡し舟が出る船着場には舞阪宿のすべての施設の案内されています。

  • 静岡県が設置した夢舞台 東海道 舞阪宿<br />

    静岡県が設置した夢舞台 東海道 舞阪宿

  • 渡荷場跡(とうかば) (南雁木)<br />江戸時代、舞坂には3つの渡船場があり、ここはそのうち一番南側の渡船場跡で渡荷場といい、一般庶民の乗降にも利用したが、その名のように、主に東海道の輸送用荷物の積おろしをした場所である。これらの石垣も昭和25年(1950)から始まった漁港改築工事により姿を消したが、水神様はもとは30mくらい東の地点に鎮座していたが、漁港工事に伴いここに遷された。<br />

    渡荷場跡(とうかば) (南雁木)
    江戸時代、舞坂には3つの渡船場があり、ここはそのうち一番南側の渡船場跡で渡荷場といい、一般庶民の乗降にも利用したが、その名のように、主に東海道の輸送用荷物の積おろしをした場所である。これらの石垣も昭和25年(1950)から始まった漁港改築工事により姿を消したが、水神様はもとは30mくらい東の地点に鎮座していたが、漁港工事に伴いここに遷された。

  • 水神社と南雁木の案内板

    水神社と南雁木の案内板

  • すぐ横には舞阪漁港

    すぐ横には舞阪漁港

    舞阪漁港 名所・史跡

  • 水神社

    水神社

  • 舞阪宿の十字路には浜名湖の今切渡し舟が出る船着場付近にはすべての施設の案内されています。

    舞阪宿の十字路には浜名湖の今切渡し舟が出る船着場付近にはすべての施設の案内されています。

  • 舞阪宿渡船場<br />本雁木(ホンガンゲ)跡 

    舞阪宿渡船場
    本雁木(ホンガンゲ)跡 

  • 北雁木

    北雁木

    北雁木 名所・史跡

  • 史跡 北雁木(きたがんげ)<br />ここは、浜名湖今切渡しの舞坂側の渡船場跡で、明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は、昭和28年(1953)の台風で石垣が崩れたため、積み直したものです。<br />雁木とは、階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔から言っています。<br />舞坂宿には、三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積みおろしをした渡荷場。真ん中は一番多く利用した主要渡船場で、本雁木と呼ばれています。この北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用した所で、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷き詰められています。

    史跡 北雁木(きたがんげ)
    ここは、浜名湖今切渡しの舞坂側の渡船場跡で、明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は、昭和28年(1953)の台風で石垣が崩れたため、積み直したものです。
    雁木とは、階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔から言っています。
    舞坂宿には、三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積みおろしをした渡荷場。真ん中は一番多く利用した主要渡船場で、本雁木と呼ばれています。この北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用した所で、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷き詰められています。

  • 北雁木<br />「ここは大切な文化財です。 保存のため駐車をご遠慮願います」と舞阪町の看板が掲げられていましたが、舞阪町が車止めのバリケードを設置するだけで解決すると思いますが?<br /><br />写真は車が数台駐車してあったので車が写らないよう撮りました。

    北雁木
    「ここは大切な文化財です。 保存のため駐車をご遠慮願います」と舞阪町の看板が掲げられていましたが、舞阪町が車止めのバリケードを設置するだけで解決すると思いますが?

    写真は車が数台駐車してあったので車が写らないよう撮りました。

  • 北雁木<br />「ここは大切な文化財です。 保存のため駐車をご遠慮願います」と舞阪町の看板が掲げられていましたが、舞阪町が車止めのバリケードを設置するだけで解決すると思いますが?<br /><br />写真は車が数台駐車してあったので車が写らないよう撮りました。

    北雁木
    「ここは大切な文化財です。 保存のため駐車をご遠慮願います」と舞阪町の看板が掲げられていましたが、舞阪町が車止めのバリケードを設置するだけで解決すると思いますが?

    写真は車が数台駐車してあったので車が写らないよう撮りました。

  • 岐佐神社<br />4トラの地図は大太鼓まつりとなっていますが、その前に岐佐神社ではないでしょうか?<br />

    岐佐神社
    4トラの地図は大太鼓まつりとなっていますが、その前に岐佐神社ではないでしょうか?

  • 岐佐神社

    岐佐神社

  • 岐佐神社 赤猪石の由来<br />古事記に登場する「因幡の白兔」に続くお話です。<br />大国主命は、兄君たちとの恋争いの末、八上比売と結 婚の約束をします。恋に破れた兄君たちは、大国主命 を、手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上か ら猪を追い降ろすから、山の下で捕えろ」と言いつけ て、真っ赤に焼いた大石を、転がり落しました。<br />この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命 を落しました。これを知って悲しんだ母神は、天上の 神皇産霊神に命ごいをされます。<br />神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である 『蚶貝比売命・蛤貝比売命』に言いつけて大国主命の 治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は、貝 殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、 粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のような ものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火 傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえ ったのです。<br />出雲神話と岐佐神社は、このようなかかわりがあり、 ここに『赤石』がまつられています。御祭神が海に関 係するところから、水産・漁業の守り神であるととも に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたか と信仰を集めています。<br />

    岐佐神社 赤猪石の由来
    古事記に登場する「因幡の白兔」に続くお話です。
    大国主命は、兄君たちとの恋争いの末、八上比売と結 婚の約束をします。恋に破れた兄君たちは、大国主命 を、手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上か ら猪を追い降ろすから、山の下で捕えろ」と言いつけ て、真っ赤に焼いた大石を、転がり落しました。
    この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命 を落しました。これを知って悲しんだ母神は、天上の 神皇産霊神に命ごいをされます。
    神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である 『蚶貝比売命・蛤貝比売命』に言いつけて大国主命の 治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は、貝 殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、 粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のような ものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火 傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえ ったのです。
    出雲神話と岐佐神社は、このようなかかわりがあり、 ここに『赤石』がまつられています。御祭神が海に関 係するところから、水産・漁業の守り神であるととも に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたか と信仰を集めています。

  • 岐佐神社 赤猪石

    岐佐神社 赤猪石

  • これは道標として建てられているものです。<br />舞阪宿へは弁天橋駅から訪れるのが一般的です。

    これは道標として建てられているものです。
    舞阪宿へは弁天橋駅から訪れるのが一般的です。

  • 弁天神社<br />天女伝説と正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があります。

    弁天神社
    天女伝説と正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があります。

    弁天神社 寺・神社・教会

  • 弁天島と天女<br />昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。村人は大変喜び、社を建てるからここにとどまってほしいとお願いした。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、江戸時代の宝永六年(西暦一七〇九年)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑がある。

    弁天島と天女
    昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。村人は大変喜び、社を建てるからここにとどまってほしいとお願いした。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、江戸時代の宝永六年(西暦一七〇九年)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑がある。

  • 正岡子規句碑<br /><br />「天の川濱名の橋の十文字」<br /><br />正岡子規(1867~1902)は愛媛県松山市出身の俳人・歌人で、<br />俳句革命新運動を起こしました。<br /><br />この句は明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓<br />より浜名湖を眺めて詠んだ作品とされています。<br /><br />句碑は大正14年(1925)に浜松曠野社(加藤雪膓主催)が建立<br />しました。<br />

    正岡子規句碑

    「天の川濱名の橋の十文字」

    正岡子規(1867~1902)は愛媛県松山市出身の俳人・歌人で、
    俳句革命新運動を起こしました。

    この句は明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓
    より浜名湖を眺めて詠んだ作品とされています。

    句碑は大正14年(1925)に浜松曠野社(加藤雪膓主催)が建立
    しました。

  • 正岡子規句碑<br /><br />天の川濱名の橋の十文字

    正岡子規句碑

    天の川濱名の橋の十文字

  • 舞阪宿の最寄り駅となる弁天島駅<br />駅舎はプラットホームの上にあります。

    舞阪宿の最寄り駅となる弁天島駅
    駅舎はプラットホームの上にあります。

    弁天島駅

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