2016/10/22 - 2016/10/25
309位(同エリア703件中)
明石DSさん
窓下に見えていたグランドに行った
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4日目:10月25日(火):晴れ
厦門から関空へ
2016/平成28年10月25日(火)
■金威大酒店、帰国の朝
三連泊厦門金威大酒店(Jinwei Hotel)の帰国の朝も雨はナシ。昨日二宜土楼(にぎどろう)へ行くバスの中で雨が降っただけで傘をさすことは一度もなく。7時からの朝食前に道を隔てたグランドに行った。今朝も早くからジョギングしたり歩いたり多くの人がトラックを周回している。私も一周歩いた。そして傍らに卓球台が数台置かれ一組の中年男女が卓球をしていた。
近づいて「私もやらせて・・・」と卓球の格好をしたら男性がちょっと用事があったようで代わってくれた。“オバチャン”と互いに無言で卓球を始める。普通の球ではなく詰まったゴム球なのか?重さもある。球が重いのでラケットも重い。球もあまり弾まない。慣れずに最初はネットに良くかかった。
男性が戻ってきてすぐにラケットを返せと要求して来た。あまり長くやれなかったので調子が出る前に終わる羽目になったがもっと長くやっていれば“オバチャン”を翻弄してやったのにと残念。仕方なくホテルに戻って最後の朝食を食べる。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
卓球台が備え付けられている
ラケットも重く球もゴム球のよう
少しやらしてもらったが上手くいかず -
ツインタワー金威大酒店
1008号室はどこに -
目立つのが良いのか?
中国には奇抜なデザインのビルも多い
作る方は大変だろう。でもその辺は適当にかも -
毎朝スイカを食べた
他は適当に -
サラバ!金威大酒店1008号室
-
10名分のトランクを積み出発
私のは一番左手前茶色のトランク
一人旅ならリュックだけど -
胡里山砲台へ到着
時代の遺物となりし砲台
一体この先の戦争はいかなる戦いとなるのか? -
胡里山砲台入場門
いざ進入25元 -
アヘン戦争(1840年6月28日 - 1842年8月29日)
砲座の動かない大砲で動く敵船をどうやって沈めるのか?
砲手も戦意喪失だろう -
砲台公園全景
今はテーマパーク以外の何物でもない
これを平和と言う、良き時代に生まれた -
クルップ砲
撃った弾は三発
内訳
練習二発、実戦一発
笑い話ではないらしい -
この日本語の説明には下記の文章が書かれている
『1937年9月3日、戦闘機の護衛を受け、日本の艦隊は厦門に向かって進撃したが、
胡里山砲台の猛烈な反撃に遭い、“若竹”号が打ち沈められ、
ほかの2艦もそれを見ただけであわただしく逃げだしてしまった・・・』
厦??斗 (抗日?争)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%88%E9%96%80%E6%88%B0%E9%AC%A5_(%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%B0%E7%88%AD
シナ人の虚言癖は未来永劫なり
若竹は厦門沖で沈んでいない -
“阪急トラピックス”ご一行
金門島はここからは角度的に見えないようだ
グーグル地図
https://www.google.co.jp/maps/@24.4594719,118.2116145,12.39z?hl=ja -
クルップ(カノン)砲
長さ13.13メートル(285口径)、重さ60トン
戦艦:大和の主砲
砲身長 21.13m(45口径) 砲身重量 165トン砲塔重量 2,510トン -
30分程の見学で胡里山砲台を去る
-
共産主義一党独裁 文化大革命 等々
宗教とは無縁のシナ大陸のはずが
寺に集まる大勢の人、人、人
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■南普陀寺(なんふだじ ナンプートゥースー Nán pǔtuó sì) へ
砲台見学を終え南普陀寺へ向かった。バスで20分足らずで到着。寺への大勢の観光客なのか門前付近も人が多かった。大陸中国人一行の観光ツアー客が大半のようで日本人ご一行は我々だけで他にもいたかもしれないが目にしなかった。
第一印象は「へぇ~思っていたより規模が大きい寺やなァ・・・」だった。1939/昭和14年9月5日、この南普陀寺に支那事変渦中、そして大東亜戦争への戦雲高まる中、海軍兵学校67期卒業生が厦門に寄港した。その時の記念写真の場所を確認するためにプリントして来た。
内地巡行と近海航海~海軍兵学校67期遠洋航海
その写真は門を潜って寺の正門のような天王殿の前で写した写真。天王殿との表記の額は違うが門の外観は写真と同じ。2016年の今年から遡って77年前になる。その時20歳としても97歳。写真に写っている兵学校生ではない水兵たちも含めここを訪れた多くが戦火に散った。
大正生まれの日本男子は戦争の歴史の真っ只中に生まれ青年になった。誰もが奇跡的にこの世に生を授かったはずだが生まれる時も国も親も選べない。ならば戦後生まれの私は生まれた時代としては幸運だったのか?長い日本の歴史のなかで病気や事故死以外で死ぬことはないというだけでも他から見れば望外の幸運だろう・・・。
しかしながら我が生涯米国の属国であり支那朝鮮に舐められての人生は、贅沢この上無きもつまらぬことばかり。将来願わくば私が生きた時代は誇りも名誉もドブに捨てた日本史上最悪の恥辱の時代になることを祈る。一日も早く現行憲法を廃棄し明治帝国憲法の改憲若しくは新憲法を創憲し国軍を復活、気高き日本国日本民族として再生してくれ。
共産主義一党独裁の中華人民共和国成立以降宗教を否定し、1966/昭和41年~1976/昭和51年から文化大革命で更にあらゆる宗教は弾圧され破壊され僧侶も投獄・殺害されたりした。ガイドの“Oさん”に「文革の頃、ここはどうだったのか?」と聞いても返事ナシ。その他歴史的・政治的な質問に“Oさん”はほとんど聞こえないふりだった。“Oさん”の回答なく聞こえないふりというのは悪気ではなく「知らない」「興味ない」という感じだったけど。
この南普陀寺は文革時には寺も破壊され僧侶も迫害を受けたようだが『文化大革命の後、現在は僧侶の教育機関としても運営されている』とのことで、今も日本から僧侶が学びに来ると言っていたが、その仏教学問のレベルのほどは如何様なのか?品性・道徳心に欠ける中国人を目の当たりにしていると僧侶のレベルもそれなりとしか思えない。何を学ぶのか? -
内地巡行と近海航海~海軍兵学校67期遠洋航海
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/803812f80ca3a5abe579036ffdbc4f8d
1939/昭和14年海軍兵学校67期生がここを訪れた -
67期生と同じ場所に来て同じ写真を写す
昭和14年から平成28年、77年間の歳月は何もかも変える -
前方は大悲殿
参拝客多し -
今や厦門のシンボル ツインタワーが後方に聳える
-
20分程の観光で南普陀寺を出る
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南普陀寺の傍に厦門大学がある
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■白鷺洲公園(バイルゥジョウ ゴンユェン Báilù zhōu gōngyuán)
広い寺院内部だが結局20分程の見学で南普陀寺を出て厦門ツアー最後の観光:白鷺洲公園に向かう。寺の傍に厦門大学がある。華僑創設の大学で日本に留学経験のある小説家:魯迅もこの大学で教鞭をとった。地元では厦大(シャーダー Shàdà)と呼ばれている。
途中バスの窓から鼓浪嶼を眺めながら白鷺洲公園に到着。厦門中心街の篔簹外湖(うんとうがいこ ユンダンワイフー Yún dāng wài hú)の中洲が白鷺洲公園となっている。
篔簹(うんとう)?って【篔簹(?? Yún dāng 水辺に生える大きな竹)】何かとネット検索したら漢詩の中に使われていた。ネット検索の凄さを再認識。いつも驚く。
漢詩:「法華寺に西亭を構う」
篔簹遺清班 篔簹(うんとう)は清き班(まだら)を遺(のこ)す (訳)水辺の竹には 清らかな斑点がある』
この公園散策は予定になかったが昼食までの時間があったので立ち寄ってくれたのかも?街の中心部にこれだけ広い公園があれば皆の息抜きになるだろう。芝生広場に祖父母に連れられた孫が鳩と戯れていた。
白鷺洲公園の象徴のような「白鷺女神の彫像」があった。10分足らず公園内をぶらぶら歩き、昼食のレストランに向かう。 -
バスの窓から鼓浪嶼 日光岩を眺める
-
白?洲公园(バイルゥジョウゴンユェン Báilù zhōu gōngyuán)
-
水に浮かぶ白鷺女神の彫像
実はこの公園で両腕に何ヶ所も
蚊なのか虫なのか?刺されていたようで
帰国後痒み止めを塗っても数日メチャ痒く悩まされた
ご注意を! -
どこか分からないけど大きな海鮮料理レストランで昼食を
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■昼食後に空港へ
看板には「號字老下山岳仙」と書かれていた大きなレストラン。中に入ったら水槽生け簀が置かれていた。
何を食ったか写真も写さず記憶にないが、ツアー最後のこのレストランでの昼食は美味かった。私以外の9名も同じ感想だった。
そして11時41分時間に追われて空港へ。12時には空港到着。参加女性7名も“Oさん”との別れはあっさりだった。私も心ばかりのチップを渡し別れた。すべては一期一会の出会いである。
空港免税店でドイツの飴を三つ買って帰った。一つは我が家、もう一つは中国教室の老師へ、もう一つは卓球で体育館を借りてくれる“Fさん”へ。“Fさん”が月・木と体育館を借りてくれる。二人+時々参加者がいるがみっちり“Fさん”と試合形式で練習し、そのお陰で実力アップに繋がっている。
“Fさん”は卓球歴も長く私より実力は上だが、最近二人の対戦成績は互角近くなっている。年齢は私より二つ上の御年68歳。体重が80数キロで膝に負担が掛かり以前に比べて動けず。その為に私との対戦でも苦戦している。私は“Fさん”に追いつき追い越せと頑張っているが経験の差は歴然でありなかなか難しい。
“Fさん”も以前の実力復活を目指し最近は単車移動から自転車移動に変えて体重も徐々に減少し少し動けるようになった。お互い切磋琢磨し卓球の実力アップを目指している。 -
生け簀の中の海の幸は人様の胃袋に入る
やっぱり今度生まれ変わる時も人に -
ここも大きなレストランだった
美味いか?まずいか?
テーブルに置かれた料理の減り方で一目瞭然
ここは減り方が一番早かった。あっと言う間に -
12時3分 空港到着
黒塗りの特警が待機 -
皆黙々と空港内に入る
旅は終わった。あとは家に帰るだけ -
動く歩道も当たり前の光景
幼き頃 こんな物はなかった -
タラップで搭乗までは良かったが
待機が長すぎてゲンナリ
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■厦門から自宅へ
午後1時半過ぎタラップから機内に入る。真ん中通路左右三座席は往路と同じ。搭乗したもののなかなか飛び立たず、やっと1時間くらい待って離陸した。飛行機は難儀なりと思うが移動距離を考えれば1時間2時間の遅延に文句を言うのは贅沢なり。つい二百年前は東海道を歩いて移動していた。私が物心付いた頃も外国旅行など庶民にとって夢のまた夢。あ~それを思えば今はなんということか・・・。
途中機内食が出たが昼食を腹いっぱい食べていたのでほとんど食えず。関空到着は午後5時15分。関空→ポートアイランドへのアクセス、“ベイ・シャトル”のバスの時間が5時45分。それに乗り遅れたら1時間後の6時45分となる。トランク待ちで気持ち焦ったがツアーメンバーとはトランク受け取り場所で挨拶を交わしすぐに税関審査へと向かう。
多分無理だろうけど・・・と、思いながらも出口を出たのがバス発車時刻ギリギリ。走った!そしてかろうじて間に合った。私の後からも息を切らせて数名が乗り込んだ。
そして午後6時関空発の“ベイ・シャトル”でポートアイランドに到着。マイカーに乗って無事に帰宅。我が人生35回目66歳最初の海外旅行はかくして無事終了。
次は来年1月イタリア南部の旅。いつまで行けるか?年二回の海外旅行?乞うご期待。 -
やっと離陸 サラバ厦門!
-
水とピーナッツでも嬉しい
-
昼飯が美味くて腹一杯だったので
機内食は食べる気もナシ、もらったけど -
厦門航空のCAは皆美人ぞろい
-
無事に関空着
5時45分発のベイシャトルへの連絡バスに間に合うか?
現在時5時19分 残26分 -
待てど暮らせど自分のトランク姿を見せず
はよ出て来い!と、心で叫ぶ -
5時45分のバスに間に合った
走った。でも私の後からも数名走って来た
ハァハァ ゼェ~ ゼェ~皆苦しそうだった -
無事 ベイシャトルに乗船
駐車場に留め置いたマイカーにて帰宅する
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旅を終えて
日本占領時下の厦門に昭和14年に根拠地隊司令として赴任した海軍軍人、堀内豊秋少佐は転属までの一年足らずの間だったが厦門の復興に尽力し公正な裁判を実施するなど住民から多大な信望を得た。そのことを知って厦門を行き先に決めた。一人で行ける戦跡巡りも行き先が見当たらず、このところ旅の目的も変わった。
ツアーで気軽にとなっている。でも一応なにがしら日本人との関連を求めての今回の旅。海軍兵学校67期生も卒業後の実習航海で堀内少佐赴任の前だが昭和14年この厦門鼓浪嶼に立ち寄っていた。堀内少佐や67期生の立ち寄った痕跡も遺跡もなにもないが同じに地に私も行くことが出来た。それだけで満足す。
日本は1895年日清戦争に勝利し大国入りを目指したが欧米列強は日本など眼中になく出る杭は打つという態度だったと思う。その5年後1900年に厦門事件があり鼓浪嶼の日本領事館員たちの慌ただしさが想像できる。
日露戦争前、日本の実力はまだ未知数だし維新を経たばかりの黄色人種国家の台頭は白人から見れば「他の有色人種国家とは違うが、こしゃくな奴目誰が相手にするものか・・・」程度だったろう。それが厦門に軍艦を寄越し海軍陸戦隊を上陸させた。
そんな日本に英国を筆頭に怒り心頭になったのは当然と言える。そして日本もその怒りを理解し、この場はこれ以上無理を通しても日本の国益を損なうと判断し引き上げた。それが外交の駆け引きであり当時の日本は堂々と軍隊を使っての駆け引きが出来ていた。
敗戦までの日本を知れば知るほど日本は懸命に真の独立国足らんと行動したことが分かる。世界は覇権主義全盛で有色人種国家のほとんどは植民地化されていた。当時植民地になっていない国は列強から見れば資源もなく植民地化してもお荷物になるくらいで得にならない不要な国くらいだろう。先人には心からの敬意を表す。
天気予報では雨が多く諦めていたが幸いにも一度も傘を使うことなく万歳だった!初対面の九名との三泊四日も同世代の方たちが多く気兼ねの無い日々を過ごせた。私は同行者の名前も定かに知らず連絡先を交換することなく分かれた。
二年ぶりの中国。厦門の下町市場はシナ大陸どこにもある光景があった。溢れる人々、山積みの食い物、散らかった市場、観光地巡りより市場をうろうろ歩いているのが一番面白い。はなはだ身勝手ながらこの光景だけはいつまでもそのままであってほしい。シナがシナである限り貧富の差はなくなることはないはずだ。
次に中国に来るのはいつになるのか?そして何処に行くのか?楽しみだ。(了)
2016/平成28年11月吉日記
胡里山砲台 南普陀寺 堀内海軍大佐
https://youtu.be/in_wCkvx_oU
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この旅行記へのコメント (4)
-
- ma-yuさん 2017/12/03 10:26:10
- 初めまして!
- 明石DSさま
厦門へのツアーに申し込み中です。
観光地、フェリー、食事とても参考になりました。
フェリーの混み方は凄まじいですね(汗
急な自由時間は?ですが、欲しい時もありますね。
予習をさせてもらったので後は出発を待つだけになりました。
ありがとうございました。
ma-yu
ありがとうございました。
- 明石DSさん からの返信 2017/12/03 14:07:10
- Re: 初めまして!
- 参考にして頂きありがとうございます。
フェリーの混みようにはホント驚きましたが・・・
旅行シーズン中はもっともっと凄いようです
鼓浪嶼と厦門の旧市区の市場の散策が面白かったです
一路平安!
-
- こまちゃんさん 2017/04/27 12:38:59
- 南普陀寺
- (遅まきながら・・・)
ホント、今は日本だけじゃなく、ご当地の観光地も人の数が半端じゃなく多いンですね・・・
もう3年ほど大陸に行ってないので、事情が飲み込めない感じです。
南普陀寺の大池は、民間も生き物の開放で利用できる放生池だそうで、健康祈願や運気を向上させる祈願で生き物を放すため、亀や魚が沢山居ました。広すぎて、ウチの絵描きは全部回るのを嫌がったので、1/3ほどで引き上げました。
こまたちは2011年5月の訪問ですが、当時は未だここまで人が溢れてなかった気がします。
→http://4travel.jp/travelogue/10592248
こま
- 明石DSさん からの返信 2017/04/27 21:49:13
- RE: 南普陀寺
- 3年も大陸から遠ざかっているのですか・・・。
上海で出会ったのが昨日のことのようですが、あれは2004年。13年前になるとは。
また機会を見つけて大陸の素晴らしい写真と旅行記をお願いします。
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